東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年11月13日(木曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年11月13日(木曜日)

ことしもずっと前に。
ひなまつりがおわり。

春分の日もはるかまえ。
「さくら咲き」
「4月」が終わりました。
「5月」になりました。
「5月」もおわりました。
6月に。「夏」になりました。
6月も終わりました。
7月 たなばた もおわり。
7月もおわりました。
8月もおわりました。
夏はすぎました。
9月の秋はおわりました。
中秋10月がおわりました。
今は。
「11月」になりました。
冬間近です。

「晩秋」になりました。
「11月」。
「9月」の初秋がおわり。
「10月もおわり」ました。

もう「11月」。
ことしも「あと50日足らずで」で。
「今年」はおわります。
「来年」になります。

考えると「おそろしいもの」です。

考えなければ。
「なおおおそろしい」
ものかもしれません。

「来年」のことを考えれば「鬼」が笑う。
「来年」のことを考えなければ「鬼」は
笑わないのだろうか。
「鬼」とはなんだろう。

今日の深夜早朝03:15amには。
久方ぶりに大きな「星空」がみえました。
早朝くらいうちは。
空に月。
「お月様」が「秋雲のじゅうたん」
天高くにねそべっている
ような「寒月」です。

日があければ。
朝日を背に。
西のコバルトの空高く。
とても高い成層圏近くの高い高度に。

西のコバルトの空高に。
「刷毛」でひいたように「絹雲(けんうん)」が
何本も。
描かれて。
たなびいていました。

実に見事な筆捌(ふでさばき)です。
ためらいがない「朝焼け色」の線描です。

高い成層圏近くの高い高度に。
「刷毛でひいたように」「絹雲(けんうん)」
の端には渦巻きのような「ぬけあな」があり
「青空」が透けてみえます。

この「あおぞら」をみているととても
元気がでてくることに気が付きました。
「青空の天井と太陽の光」は。
なによりもの「ごちそう」です。

さながらにして。
皇室は赤坂迎賓館の。
東山魁夷画伯の描かれた大きな壁画。
大きな屏風絵の世界。
そのものです。

はやいものです。
ときのたつのは。
はやいものです。

そしてふと考えれば
今年も「10ヶ月」が
終わりました。

そして中秋から晩秋。
「寒月」です。

病院の庭園に「4本」ある
「金木犀:きんもくせい」の大木の
いずれもがこがねの花を
たんぽぽのように
枝にみのらせていました。
まだ「はつはな」で初々しかったです。
けれども「金木犀:きんもくせい」
は雨に打たれると。
花は地面にオレンジの緋色毛氈(ひいろもうせん)
のように落下致します。
オレンジ色の雪のようです。

「金木犀:きんもくせい」に変わって
「銀木犀:きんもくせい」のプラチナ色の香りが
致しました。
「金木犀:きんもくせい」も
「銀木犀:きんもくせい」
も花はおわりました。

山茶花が蕾をふくらませています。

そして今朝の早朝まだ「花」にもきがつかぬうちに
白山茶花(さざんか)の「白いはなびら」が
地に舞い下りていました。
白い山茶花(さざんか)の花ひとつさいて
夜の木枯らしでちったようです。

ふと野草の花は香らないことに気づきました。

伊藤左千夫の「野菊の墓」の「野菊」は。
矢車菊 (やぐるまぎく)
はとても綺麗なむらさき。
けれども香りません。
(Corn lower, Bachelor's-button)です。

因みに
最高級の(今はもうとれない)
インド・カシミール地方で産出されたの
サフアイアの色は「矢車菊色」=
「カシミール・ヴァイオレット」。

麦畑の中に 咲いていたことから「野菊」(Corn lower)
です。

別名 「矢車草(やぐるまそう)」 なのですが
実は「矢車菊 (やぐるまぎく)」と
「矢車草(やぐるまそう)」まったく違う植物です
矢車菊 (やぐるまぎく)が「野菊」。
「野菊」は春から夏にかけて咲くむらさきの花。

古代エジプトのツタンカーメン王の墓 からも
発見された由緒正しき「野菊」で色は紫です。

ツタンカーメン王のまだ幼な子王妃が
「亡きツタンカーメンンにささげるけなげな姿」
が鮮烈に眼に浮びます。
「野菊」です。
けれども「野菊」は香りません

毎朝暗い早朝と暗くなる午後4時ころに
「こおろぎ」がないています
「こおろぎ」のほかの。
「秋の虫」の声は聞こえなくなりました。
「こおろぎ」がないています。
こおろぎたちの合唱がきこえてきます。
こおろぎが
「夏のせみより大きな鳴き声」で
鳴く時期もあることに。
びっくりいたしました。

「ろうろう」「こうこう」です。
けれども「虫たちの鳴き声」
は次第に小さく少なく聞こえる
ようになりました。

秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる

あききぬとめにはさやかにみえねども
かぜのおとにぞおどろかれぬる

これは「今現在の秋」よりもう少し手前の
「旧暦初秋或は晩夏」の時期に詠まれた
昔の短歌です。

「来(き)ぬ」「着ぬ」「絹」の
最初の「韻:いん」で衝撃的
なインパクトを伝える「うた」です。

そして
「みえね」「美え音」で「第2主題」の伏線をはり。
突如として。
「かぜの音」にて「第2主題」の旋律。
「音」を響かせてフオルレッシモ
ff。

季節そのものの感覚を「音」にあらわした
名歌です。

ジプシーのチャルダッシュの
ラッサン・フリスカのような「うた」です。

これからは日は。
陽は次第にみじかくなる。
日が短くなる。
朝は明けるのは遅くなり。
夕に暗くなるのは速くなる。

しだいに陽がみじかくなる・
なぜか。
不思議なやさしさ。
やすらぎと。
心やすらかなる
安堵感をかんじます。
けれども「安堵感」と「落胆感」は
表裏一体。両羽(もろば)の剣です。
「ぬかよろこび」の「ぬか」のような
性格を「短くなる陽」は持っています。

季節には「大気の音」があるようです。

朝空は
陽ははるかに天高く。
空色はミルク色です。
クリームのかかった雲空です。

「つつじ」の「花」が「春に」おわり。
「葉木」になりました。
東京都世田谷区山本クリニックの庭園には

「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。

「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。

金木犀の大木が4本と銀木犀が2本
あります。

「中秋」をつたえるがごとく。
モクセイの木が「香り花」が開花致しました。

今は
「晩秋」。
「木犀:もくせい」の「花」は通り過ぎました。
「山茶花(さざんか)」と「やぶつばき」が
蕾を大きくしています。
山茶花(さざんか)も「やぶつばき」も私は「大好き」
です。

「花」はみえない頃からもう
「金木犀:きんもくせい」
は「香っています」。
モクセイも秋にも若葉をだします。
「木犀:モクセイ」は「荒い木」
です。
けれども「生き様」は。
樹木として
とてもとても麗しいと思います。
ある意味では威風堂々です。

「あじさい」は
のんびりやの気がする。

「あじさい」の「花」はさいたまま
「花がさいた」を忘れたかのように
ぼんやりと木にのっている。
いつ花が散るのだろう。
ふと考えます。

あじさいのはなは散らずにそのまま。
いちょうのきの落葉のように。
「葉」としてまっていくのかな。

ふと思う。

考えれば「あじさいのつぼみ」が
思い出せない。
花の咲く存在感のない植物は
あじさいです。
うすぼんやりした花木です。
水墨画の主人公にはなりえない。

この時期になり。
森山を分け入ると。

木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花の花のごとくに紅葉する
「やまはぜの葉木」が「大好き」です。

「やまうるしの紅葉」もかわいらしく。
「大好き」です。

身の丈以上ほどにもなって群生する。
野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
が。
病院の林の一角に野生のまま
おいしげっています。

野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
のパープルの真珠が群れたように実る
「実りの木の実」の風にそよぐ音色には。
おどろかされます。

あけびつたもうれしい。
あけびの「実」がみつかればなおなおうれしい。

里山の紅葉の時期になりました。

四季の歩みの春夏秋冬のうつろいは
メトロノームの「あゆみ」を
感じさせます。

この「あゆみ」の「質量」は高いです。
質量があれば。あたかも。
重力のように。
四季のリズムにひきよせられていく。
そのような感じがします。

四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいてなお着々。
確実な「リズム」を感じます。

ここに。
「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
がくわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じです。

草花や草木につつまれた自然は。
「音楽」と同じように
ひびきとして聴こえます。

自然は
「しぜん」の
「ヴィルトオーゾ」と「ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」
*です。

この「自然のフイルハーモニウム」の。
指揮者は。
太陽なのか大地なのか人なのか。

或は音色をかもし出す自然はオーケストラ
であるのか。
ソリストなのだろうか。

私の尊敬する「合衆国USA」の
女性で小説家(「ノーベル賞受賞者」)
「パール・サイデンストリッカー・バック
(Pearl Sydenstricker Buck)
中国名、賽珍珠(サィ・チンシュ)」
パールバックの「大地」に
その「こたえ」が示唆されています。

古代より芸術家が
自然を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判ります。

*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。

実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。

但し音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる「成分」というわけ
ではありません。

また「音楽であるため」に。
三要素が絶対必要ということ
でもないでしょう。

邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。

「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。

邦楽もその一つです。

大和の国 やまとのくにの自然は。
「大和の国の音楽」と同じように思えます。
聴こえます。

「音楽」は「音」「おと」です。
そして「しらべ」=メロディとハーモニーです。
人類が「この音楽」を「楽譜」として
「寸分たがわず」「譜面」という名の「紙」に
「かくことを完成させた」ということは
大変なことです。

人間は。
人類は。
わずか「400年」で。

「音楽の旋律」に対する「楽譜」を.
「あらたな言語」を
完全に「完成」させたことになります。

まさにミューズの神の「神業かみわざ」です。

木々のめぶきの
ますます力強い息吹を感じます。

「真夏」をすぎ「秋」になると。
再び「若葉」がみられることに。
きづきました。
「ため息」がでるほど木々の「秋若葉」の
「つどい」は「つよく」「うつくしい」。

木々のてっぺんは萌黄色から
「ふかみどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「夏を迎えた葉束」になりました。
これからは
「深まる秋」をまちます。
「紅葉」の炎が。
樹木の上方で。
くすぶりまちわびてています。

「若葉」の「新緑」から「深緑」です。

高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり夏のおとずれを
伝えていました。

桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうともいえる青葉。
そして見え隠れする「紅葉葉」。
紅葉葉の10枚20枚がひとつひとつ
の樹木にみえるようになりました。
「黄色調」です。

明らかなる。
「冬から春」とはことなる。
「春から夏」「夏から秋」にむかう四季の
「大気の「色」のうつろい
に気づきます。

今は里山(さとやま)をさまよい。
今は里山(さとやま)をあるきたい。
今は里山(さとやま)の季節。
今は昔々里山(さとやま)であそび。
今は昔々て里山(さとやま)でおぼえ。
今は昔々里山(さとやま)でまなんだ。
今は昔々のその日々の思い出は。
今は黄金(こがね)か。あるいは。
今は銀か。いぶし銀か。
今はもしかしたらプラチナか。
今は思い出色は鉛のように。
今は重さは鉛のようになり。
今は心の奥深くに埋もれて感じられます。

「幸せ色」=「しあわせいろ」
ならばよいです。

けれども
早朝ははだ寒くなりました。

秋やま中さまよい
秋わけいらば
秋大樹の根元に隠れたり
秋あけぼの色のちひさき炎(ほのほ)
秋みつけたりやまの華。
秋やまの葉木のかくれんぼ
秋大樹の根元に隠れたり
秋山はぜの葉木。
秋やまうるしの葉木。
秋あきやまはぜとあきやまうるし。

秋山萩(やまはぎ)の
秋花をかくして燃えたたむ
秋に実りの祭りなり
秋山はぜの葉炎
秋天高く燃ゆ

あきやまはぎの
はなをかくしてもえたたむ
あきにみのりのまつりなり
あきやまはせのほのほ
あきてんたかくもゆ

あきひろくなりけり空(そら)たかし
あきさとやまに木々のみどり木
あきこもれびうけて燃えるがごとし
あきみどりの炎(ほのほ)
あきほのほうちけさむかすみはあおし
あきほのほにかすみにただよひて
あきうるわしくかがやきたり
あきあたたかくかおりたり
あきあざやかなりけり 
あきやまさとのやまみどり
あきやまさとのふかみどり

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。

多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。

「大きな夏みつけた」
から
「夏がすぎてて真秋間近い」

「小さな秋みつけた・。」

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
++++++++++++++++++++++

平成20年
4月29日(火曜日)
はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)祝日は「お休み」
を頂きました。
5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。
-------------------------------

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。
元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました
++++++++++++++++++++++

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

10月13日(月曜日)は
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました

++++++++++++++++++++++

11月 3日(月曜日)はおわりました。
-------------------------------
11月24日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
++++++++++++++++++++++

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらず
インフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は
フランスのピアノ奏法で有名。
女性ピアニストならではの。
遍歴もみえかくれする

1874年 - マルグリット・ロン、ピアニスト(+ 1966年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

マルグリット・ロン(Marguerite Long,
1874年11月13日 -
1966年2月13日)は
20世紀前半のフランスを代表する。

ピアニストそしてピアノ教育者です。

++++++++++++++++++++++

マルグリット・ロン:Marguerite Longの生涯

1874年11月13日に。
フランス南部のガール県ニームに生まれました。

ニーム音楽院で
8歳上の姉クレールからピアノの指導を受けていました。

当時視学官をしていた
テオドール・デュボワ(1837年8月24日-1924年6月11日・
のちのパリ音楽院院長)
の勧めがあり1889年にパリ音楽院入学致しました。

++++++++++++++++++++++

マルグリット・ロン:Marguerite Longは。

1891年、パリ音楽院ピアノ科を一等賞で卒業致します。

名教師として名高い
アントワーヌ=フランソワ・マルモンテル
(1816年-1898年)の
息子アントナン・マルモンテル(1850年-1907年)の
指導を受けつつ演奏活動を開始致しました。

++++++++++++++++++++++

マルグリット・ロン:Marguerite Longは。

1906年、大のフォーレ・ファンであった
音楽学者のジョゼフ・ド・マルリアーヴ
(1873年-1914年)と結婚致しました。

新婚旅行の最中に呼び戻されました。
そしてパリ音楽院の予備科講師となりました。

++++++++++++++++++++++

マルグリット・ロン:Marguerite Longは。
1907年、急逝した師アントナン・マルモンテルのクラスを
継ごうと高等科教授に立候補致しました。

当時の院長であったフォーレ
(院長在職期間、1905年 -1920年)はロンより
3歳若いアルフレッド・コルトー (1877年-1962年)
をどうしても教授にしいとおもっていました。

彼女に次の機会には
必ず教授に推薦するからと。
手紙で約束して引き下がらせました。

++++++++++++++++++++++

マルグリット・ロン:Marguerite Longにとっては。
ところがこの「フーレ」の「手紙」は
逆効果となりました。

1913年に約束の教授の地位が与えられなかったことに
ロンは立腹致します。

遂にマルリアーヴ夫妻はフォーレと仲たがいする結果となりました。

++++++++++++++++++++++

1914年8月、
夫マルリアーヴが第一次世界大戦に従軍致します。
8月24日戦死。

悲しみに打ちのめされステージから遠ざかりました。
けれども生活のためもあり。
1917年に演奏活動を再開させました。

1919年4月には
モーリス・ラヴェルが戦没者に捧げたピアノ組曲
『クープランの墓』
(第6曲「トッカータ」
が亡き夫に捧げられている)
を初演致しました。

++++++++++++++++++++++

マルグリット・ロン:Marguerite Longは。
1920年、ルイ・ディエメル(1843年-1919年)の死後に。
その後任として音楽院高等科正教授に就任致しました。

同年に自身の音楽学校を創設し、
これが1941年にはロン=ティボー音楽学校となりました。

1932年1月、自身に献呈された
ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調を初演致しました。

作曲者ラヴェルとともにこの協奏曲を携えて。
ヨーロッパ中を演奏旅行致しました。

++++++++++++++++++++++

マルグリット・ロン:Marguerite Longは。

1935年には。
フォーレとは仲たがいをしたというものの。
アンリ・ド=ジュヴネル夫人主宰の
「ガブリエル・フォーレ協会」設立に助力
致します。

1937年-1939年には
フォーレ協会主催でフォーレ・コンクールを開催
致しました。

++++++++++++++++++++++

マルグリット・ロン:Marguerite Longは。

1943年、ヴァイオリニストの
ジャック・ティボー(1880年 - 1953年)とともに
第1回ロン=ティボー国際コンクールを開催致しました。

このコンクールは現在でも行われています。

有名な。
若手音楽家の登龍門となっています。

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マルグリット・ロン:Marguerite Longの
レパートリー・演奏

古典派のモーツァルトやベートーヴェン、
ロマン派のショパン、リストなどから
ドビュッシー、フォーレ、ラヴェル
などのフランス近代音楽まで幅広いです。

当時の作曲家たちとの親交は厚かったのです。
フォーレ『即興曲第4番』、
イサーク・アルベニス『ナヴァーラ』、
ラヴェル『ピアノ協奏曲』などを献呈されています。

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マルグリット・ロン:Marguerite Longは。

晩年になってもほとんど衰えを見せmせんでした。

85歳まで演奏活動を続けた彼女の録音は比較的若い頃の
ピアノ・ロールに吹き込まれたものから晩年のものまで。

特に1940年にジャック・ティボーらと共演した
フォーレ『ピアノ四重奏曲第2番』の録音と
ラヴェル『ピアノ協奏曲』の1932年・1952年の各録音は。

名演奏として名高い
ものです。

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マルグリット・ロン:Marguerite Longは。

彼女の演奏に於ける解釈或は演奏法は一部の研究者たちから
邪道といわれることがあります。

「独断に満ちた作者の意図の無視されたものである。
その自分勝手な解釈が後世に正統な演奏法として伝えられる
元凶となった」
などと批判もされることがあります。

これはとんでもないことだと私は思います。

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マルグリット・ロン:Marguerite Lonの
演奏テクニックは。
フランスのクラヴサン時代からの伝統であったものです。

ヤッシャ・ハイフェッツの「弓さばき」が
「ロシア流」として有名なように。
フランスには独特の「ピアノ奏法」があります。

手首を適度に落としつつ指を立て、
しなやかでヴィルトゥオジティ溢れる
独特の魅力に満ちたものであるといえます。

この弾き方は全く邪道ではありません。

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ちなみに。
「フランス」の「ピアノ奏法」のお手本に。
たまたま。
ラヴェル自身の演奏風景を描いた
水彩画が残っています。

その手つきは言い伝えられたロンの手つきとそっくりです。

この演奏法は日本の井上二葉などに
しっかりと継承されており、
ロンとそっくりの音が出ています

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マルグリット・ロン:Marguerite Longは。
教育者として
フランスの伝統的ピアニズムを受け継いでいるという。
自負から教育者としても熱心に活動を行ないました。

弟子としてジャック・フェヴリエ、ジャン・ドワイヤン、
ピエール・バルビゼ、サンソン・フランソワ、
日本人の園田高弘らの名が挙げられます。

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マルグリット・ロン:Marguerite Longの余談

演奏家としても教育者としても名を残したロンなのですが。

実は金銭に執着する一面があったともいわれます。
手持ちのバックは盗まれないようにと肌身離さず持ち歩きました。
ステージまでも手放さずはいすの下に置いて演奏しています。

けれども
私はマルグリット・ロン:Marguerite Longが
とても大事なものを「肌身離さず」もっていたのであると
思います。

それが「何かは」わかりません。

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マルグリット・ロン:Marguerite Longは。

1966年2月13日、パリにて永眠(91歳)。
葬列でラヴェル作曲『ダフニスとクロエ』の演奏されるなか、故郷ニームへと帰りました。

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マルグリット・ロン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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マルグリット・ロン(Marguerite Long, 1874年11月13日 - 1966年2月13日)は20世紀前半のフランスを代表するピアニスト・ピアノ教育者。

目次
1 生涯
2 レパートリー・演奏
3 教育者として
4 余談
5 著作・その他

生涯
1874年11月13日、フランス南部のガール県ニームに生まれる。ニーム音楽院で8歳上の姉クレールからピアノの指導を受けるが、当時視学官をしていたテオドール・デュボワ(1837年8月24日-1924年6月11日・のちのパリ音楽院院長)の勧めで1889年にパリ音楽院入学。

1891年、パリ音楽院ピアノ科を一等賞で卒業。名教師として名高いアントワーヌ=フランソワ・マルモンテル(1816年-1898年)の息子アントナン・マルモンテル(1850年-1907年)の指導を受けつつ演奏活動を開始する。

1906年、大のフォーレ・ファンであった音楽学者のジョゼフ・ド・マルリアーヴ(1873年-1914年)と結婚。新婚旅行の最中に呼び戻され、パリ音楽院の予備科講師となる。

1907年、急逝した師アントナン・マルモンテルのクラスを継ごうと高等科教授に立候補したが、当時の院長であったフォーレ(院長在職期間、1905年 -1920年)はロンより3歳若いアルフレッド・コルトー (1877年-1962年) をどうしても教授にしたかったため、彼女に次の機会には必ず教授に推薦するからと手紙で約束し、引き下がらせた。ところがそれが逆効果となり、1913年に約束の教授の地位が与えられなかったことにロンは立腹、遂にマルリアーヴ夫妻はフォーレと仲たがいする結果となる。

1914年8月、夫マルリアーヴが第一次世界大戦に従軍し、8月24日戦死。悲しみに打ちのめされステージから遠ざかったが、1917年に演奏活動を再開させる。1919年4月にはモーリス・ラヴェルが戦没者に捧げたピアノ組曲『クープランの墓』(第6曲「トッカータ」が亡き夫に捧げられている)を初演。

1920年、ルイ・ディエメル(1843年-1919年)の死後、その後任として音楽院高等科正教授に就任。同年、自身の音楽学校を創設し、これが1941年にはロン=ティボー音楽学校となる。

1932年1月、自身に献呈されたラヴェルのピアノ協奏曲ト長調を初演。作曲者とともにこの協奏曲を携え、ヨーロッパ中を演奏旅行する。

1935年、フォーレとは仲たがいをしたというものの、アンリ・ド=ジュヴネル夫人主宰の「ガブリエル・フォーレ協会」設立に助力。 1937年-1939年にはフォーレ協会主催でフォーレ・コンクールを開催。

1943年、ヴァイオリニストのジャック・ティボー(1880年 - 1953年)とともに第1回ロン=ティボー国際コンクールを開催。このコンクールは現在でも行われ、若手音楽家の登龍門となっている。

1966年2月13日、パリにて永眠(91歳)。葬列でラヴェル作曲『ダフニスとクロエ』の演奏されるなか、故郷ニームへと帰った。

レパートリー・演奏
古典派のモーツァルトやベートーヴェン、
ロマン派のショパン、リストなどから
ドビュッシー、フォーレ、ラヴェルなどのフランス近代音楽まで幅広い。

当時の作曲家たちとの親交は厚く、
フォーレ『即興曲第4番』、
イサーク・アルベニス『ナヴァーラ』、
ラヴェル『ピアノ協奏曲』などを献呈されている。

晩年になってもほとんど衰えを見せず、
85歳まで演奏活動を続けた彼女の録音は比較的若い頃の
ピアノ・ロールに吹き込まれたものから晩年のものまで、
特に1940年にジャック・ティボーらと共演した
フォーレ『ピアノ四重奏曲第2番』の録音と
ラヴェル『ピアノ協奏曲』の1932年・1952年の各録音は名演奏として名高い。

彼女の演奏に於ける解釈は一部の研究者たちから、独断に満ちた、作者の意図の無視されたものであり、その自分勝手な解釈が後世に正統な演奏法として伝えられる元凶となったなどと批判もされている。とはいえ、その演奏テクニックはフランスのクラヴサン時代からの伝統であったもので、手首を適度に落としつつ指を立て、しなやかでヴィルトゥオジティ溢れる独特の魅力に満ちたものであったといえる。この弾き方は必ずしも邪道ではない。ラヴェル自身の演奏風景の水彩画が残っているが、その手つきは言い伝えられたロンの手つきとそっくりである。この演奏法は日本の井上二葉などにしっかりと継承されており、ロンとそっくりの音が出ている。

教育者として
フランスの伝統的ピアニズムを受け継いでいるという
自負から教育者としても熱心に活動を行なった。
弟子としてジャック・フェヴリエ、ジャン・ドワイヤン、
ピエール・バルビゼ、サンソン・フランソワ、
日本人の園田高弘らの名が挙げられる。

余談
演奏家としても教育者としても名を残したロンだが、
実は金銭に執着する一面があったともいわれる。
手持ちのバックは、盗まれないようにと肌身離さず持ち歩き、
ステージではいすの下に置いて演奏していた。

著作・その他
『ル・ピアノ』(Le Piano 1959年・サラベール): 20世紀の演奏メカニックについて多彩な課題を提示したピアノ教則本。転調しながらひとつの音型を繰り返すエグゼルスィスのほか、ブラームスやカール・タウジヒの作った課題が引用されている。
『ドビュッシーとピアノ曲』(Au piano avec Claude Debussy 1960年 Rene Julliard 訳:室淳介 音楽之友社刊):おもにロンが直接ドビュッシーから受けたレッスンについての回想録。フランシス・プランテとのエピソードも。
『回想のフォーレ』(Au piano avec Gabriel Faure 1963年 Rene Julliard 訳:遠山菜穂美 音楽之友社刊):ロンがフォーレの作品の中で最も得意としたレパートリーの『バラード』を中心にフォーレのピアノについて作曲者の証言及びロンの解釈。また、ロンの自伝的側面も持つ。
『ラヴェル 回想のピアノ』(Au piano avec Maurice Ravel 1971年 ロンの死後ピエール・ロモニエ博士が編集 Rene Julliard 訳:北原道彦・藤村久美子 音楽之友社刊):作曲者とそれの演奏者として長い時をともに過ごしたラヴェルについての回想録。ロンの文章のほかにラヴェルのアメリカでの講演内容も収録されている。
バッハ『平均律ピアノ曲集』(1915年・デュラン・校訂はフォーレ):ロンによる運指の指示は彼女の柔軟で自由自在なピアニズムを現在に伝えている。
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カテゴリ: フランスのクラシック音楽のピアニスト | 1874年生 | 1966年没表示本文 ノート 編集 履歴 個人用ツールログインまたはアカウント作成 ナビゲーション

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11月13日
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できごと
1720年(享保5年10月14日) -
紙屋治兵衛と紀伊国屋小春とが心中。心中天網島のモデルとなる。

1890年 - ドイツの細菌学者ロベルト・コッホが、ツベルクリン療法を発表する。

1904年 - 日本で初めて翻訳された共産党宣言が平民新聞に掲載される。

1921年 - 高橋是清内閣発足。

1966年 - 全日本空輸533便(YS-11 JA8658)が松山空港沖に墜落。
50名全員死亡。(通称全日空松山沖墜落事故)

1983年 - ミスターシービーが菊花賞を勝ち、シンザン以来19年ぶり、
日本競馬史上3頭めの三冠馬となる。

1985年 - 南米コロンビアでネバドデルルイス火山が噴火

1997年 - 北陸自動車道が計画路線延伸後の全線開通

2000年 - 新日本プロレスが橋本真也を解雇。

2006年 - 日本オリンピアンズ協会がNPO法人化される。

誕生日
354年 - アウグスティヌス(+ 430年)

1312年 - エドワード3世、イングランド王(+ 1377年)

1850年 - ロバート・ルイス・スティーヴンソン、小説家(+ 1894年)

1861年 - 武内桂舟、挿絵画家(+ 1942年)

1874年 - マルグリット・ロン、ピアニスト(+ 1966年)

1886年 - 太田正孝、政治家(+ 1982年)

1896年 - 岸信介、第56・57代内閣総理大臣(+ 1987年)

1906年 - 久保喬、児童文学作家(+ 1998年)

1913年 - ロン・ノル、カンボジアの政治家(+ 1985年)

1922年 - オスカー・ウェルナー、俳優(+ 1984年)

1929年 - 朝潮太郎 (3代)、大相撲第46代横綱(+ 1988年)

1939年 - カレル・ブリュックナー、現サッカーチェコ代表監督

1946年 - 大原麗子、女優

1948年 - 由紀さおり、歌手

1949年 - ウーピー・ゴールドバーグ、女優

1949年 - 鳴瀬喜博、ベーシスト、カシオペアのメンバー

1951年 - 伊勢正三、歌手
1952年 - 野村将希、俳優
1953年 - チャールズ・ティックナー、フィギュアスケート選手
1954年 - 松永真理、編集者・iモードの生みの親
1957年 - 櫻井哲夫、ベーシスト、元カシオペアのメンバー
1962年 - 本田雅人、ミュージシャン
1962年 - 山本文緒、作家
1965年 - 小野和義、元プロ野球選手
1966年 - 見栄晴、タレント
1967年 - 山本かおる、フリーアナウンサー
1969年 - ジェラルド・バトラー、俳優
1969年 - 浅野まゆみ、声優
1972年 - 木村拓哉、SMAP
1972年 - 小島弘章、オーケイ、(お笑い芸人)
1972年 - サマンサ・ライリー、水泳選手
1972年 - 正津英志、プロ野球選手(西武ライオンズ)
1975年 - マリア・ペトロバ、元新体操選手
1976年 - 棚橋弘至、プロレスラー
1978年 - 許?倫、台湾の女優(+ 2007年)
1979年 - 大西ライオン、お笑い
1979年 - KICK☆、お笑い
1981年 - 吉川輝昭、プロ野球選手
1981年 - 高谷裕亮、プロ野球選手
1982年 - 倖田來未、ミュージシャン
1986年 - 戸塚祥太、ジャニーズJr.、A.B.C-Zのメンバー
1986年 - 川崎真央、女優・声優
1987年 - 松嶋初音、グラビアアイドル
1990年 - 大田裕明、関西ジャニーズJr.、OSSaNのメンバー
1994年 - 武藤明日香、ファッションモデル

忌日
1093年 - マルカム3世、スコットランド王(* 1031年)

1143年 - フールク・ダンジュー、エルサレム王(* 1089年または1092年)

1314年 - アルブレヒト2世、マイセン辺境伯(* 1240年)

1359年 - イヴァン2世、モスクワ大公(* 1326年)

1460年 - エンリケ航海王子、ポルトガルの王族(* 1394年)

1643年(寛永20年10月2日)- 天海、天台宗の僧(* 1536年)

1713年(正徳3年9月26日)- 荻原重秀、江戸幕府勘定奉行(* 1658年)

1770年 - ジョージ・グレンヴィル、イギリス首相(* 1712年)

1868年 - ジョアキーノ・ロッシーニ、作曲家(* 1792年)

1868年 - デイヴィッド・トッド、第25代オハイオ州知事(* 1805年)

1903年 - カミーユ・ピサロ、画家(* 1830年)

1928年 - エンリコ・チェケッティ、バレエダンサー・教育者(* 1850年)

1951年 - ニコライ・メトネル、作曲家・ピアニスト(* 1880年)

1967年 - ハリエット・コーエン、ピアニスト(* 1895年)

1973年 - サトウハチロー、詩人(* 1903年)

1973年 - ブルーノ・マデルナ、作曲家・指揮者(* 1920年)

1974年 - ヴィットリオ・デ・シーカ、映画監督(* 1901年)

1976年 - 上田穣、天文学者(* 1892年)

1977年 - 豊田四郎、映画監督(* 1906年)

1988年 - ドラーティ・アンタル、指揮者(* 1906年)

1990年 - ボビー・マルカーノ、元プロ野球選手(* 1951年)

1994年 - 木村資生、遺伝学者(* 1924年)

1994年 - ウラジーミル・イワシコ、ソビエト連邦共産党副書記長(* 1932年)

1997年 - 江戸英雄、三井不動産元社長経験者、桐朋学園大学元理事長(* 1903年)

1997年 - アンドレ・ブクレシュリエフ、作曲家(* 1925年)

1998年 - レッド・ホルツマン、バスケットボール選手(* 1920年)

2002年 - 小山正孝、詩人、(* 1916年)

2003年 - 中園康夫、社会福祉学者(* 1928年)

2004年 - カルロ・ルスティケッリ、映画音楽作曲家(* 1916年)

2004年 - オール・ダーティー・バスタード、ヒップホップミュージシャン(* 1968年)

2005年 - エディ・ゲレロ、プロレスラー(* 1967年)

2005年 - ショパン猪狩、お笑いタレント、東京コミックショウ(* 1917年)

2007年 - 稲尾和久、元プロ野球選手、
元西鉄・太平洋・ロッテ監督、野球解説者、野球評論家(* 1937年)

2007年 - ロバート・テイラー、陸上競技選手(* 1948年)

記念日・年中行事
茨城県民の日(茨城県)
明治4年11月13日(1871年12月24日)、
廃藩置県によって茨城県の名称が初めて使われたことに由来し、
茨城県が1968年(明治100年にあたる)に制定。

うるしの日
平安時代に文徳天皇の第一皇子・惟喬親王(これたかのみこ)が
京都の法輪寺に参詣した時に「うるしの製法」を
虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)から伝授されたという伝説から、
その満願の日である11月13日を「うるしの日」に制定した。