東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年11月15日(土曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年11月15日(土曜日)

「6月」=「夏の始まり」です。
「6月」がおわり「7月」です。
「7月」もおわりました。
最後の夏月「8月」。
夏の「8月」もおわりました。

「9月」の「秋」になり。
「9月」がおわりました。
「10月」もおわりました。
「11月」です。
「秋」は「3分の2」が終わりました。
「あと45日たらず」で今年が終わります。

これからいよいよ
深くふかまる「晩秋」です。
ふかまる「晩秋」をとおりこせば。
そこは「冬」です。
もうすぐ「冬」。

もうすこしで。
「冬」を迎えようとしています。

「ふゆ」を「むかえよう」。
「くるとしつき」を「むかえよう」と。

自在に「うごける」「自然」こそ。
幸せ者です。

「さくさく」とさらに深まりゆく秋の。
「さくさく」と日々の足音が。

「とぼとぼ」と。
朝早くまだ暗い街中に聞こえるような。
まさに「秋冬」です。

早いです。
速いものです。
速いのか早いのか。
はやいのか。

けさ暗いうち
はじめて「木枯らし」の
風がふきました。
山茶花と「木枯らし」は相性がよいようです。
弓に射られた。
白鷺の羽が舞っているようです。

ろうろうと鳴く。
こうろぎののなきごえ。

早朝から
遠くにきこえました。
冬のこうろぎのように。

「ろうろう」(朗々)と鳴いていました。
さびさびとした
独唱のようでした。

今日の朝暗いうちに。
秋の暗闇の地面のうえから。

「早朝にこおろぎの合唱」
が聞こえました。

不思議な「秋の虫」。
鳴き声は。
いつしか。
「こうろぎ」だけになりました。

「こうろぎ」は。
早朝暗いうちになくものである
ことがわかります。

そして当然のように。
昼には鳴きません。
午後4:00ころからまたなきはじめます。
真っ暗になると鳴くかと思えば。
そうでもありません。
日の出と日の入りの前にこうろぎは鳴く。

ときには「こうろぎ達」が
モールス信号で話をしているかのごとくに
「みえます」。
秋に「ろうろう」と鳴き。
冬に「こうこう」と鳴き。
これは絵に描ければ。
面白い情景であるような気が致します。

「こうろぎ」の虫たちの声の。
その。
背景に流れる「通奏低音:
Generalbass;ゲネラル・バス」*
「晩秋の秋かぜ」のこえは。
暗闇の「秋の足音」のように聞こえる。
暗い冬の日に。
「雪の降るまち」では。
「足音だけが遠ざかっていく」「足音」

「とぼとぼ」
にしだいに重複してきました。
晩秋の「あしおと」と「冬」のあしおとの。
「フーガ」と「カノン」。
木枯らしはトッカータ。

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通奏低音(つうそうていおん)とは
バロック音楽において行われる演奏形態の一つです。
低音部の旋律とともに即興的な和音を付け加えて演奏する形態です。
イタリア語のバッソ・コンティヌオ(Basso continuo)

の訳語です。
伴奏楽器が間断なく演奏し続けるということからこの名があります。
略してコンティヌオと呼ぶことも多いです。
ドイツ語のゲネラルバスも使われることがあります。

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常緑の木々の深秋冬葉のいろ。
緑がますますあざやかに。
深まる秋におちついて。
考えるが如く
「ロダンの彫塑」の色合いです。

常緑の木々の葉は。
深緑(ふかみどり)になりました。
そして「冬」をむかえて。
「秋冬緑」のいろあいに
うつろいできました。
もう「緑をうつろいて」
黄赤色の葉もみえます。

晩秋の夜明(よあけ)の空から。
晩秋の陽がのぼり。
晩秋の日の「空色」になってきました。

けれども。
朝暗いうちはミルクのはいった
コバルトのような
カフエ・オレ・コバルトの空色です。
そして雲は天高く冬雲です。

あさの05:30AMころに。

東の空
ほのかにあかるく
まだくらくあおく
しだいに
雲多い空はラピズラズリからトルコ石
のようににうつろうように。
しらんできます。

その上空にさらに。
明らかなる大きな質量のある。
「深まる秋冬の気配」を感じます。

秋冬野路はた見たりビロードのしだ
秋冬わらべのごときビロードのしだ
秋冬わらびのごとく輝けりビロードのしだ
秋冬山奥にひそむビロードのしだ
秋冬しのぶの羊歯(しだ)ビロードのしだ
秋冬めずらしき羊歯ビロードのしだ
秋冬ときわの緑のほのほビロードのしだ
秋冬山奥のしだのビロードのしだ
秋冬「まち」にもいきるビロードのしだ
秋冬たくましくけなげなりビロードのしだ
秋冬生い立ちしらずビロードのしだ
秋冬そのちからこそとほとしビロードのしだ

秋冬いざいまこそは
秋冬よき季節にあらむ
秋冬ふと空をみる

今時にもかかわらず放射冷却で
朝はとても寒いが。
「ぬくもり」はある。

確実に日は短くなりました。
葉木(はき)の樹木は「木」にかわり。
夏の木から「秋の木」にうつろいさらに
「秋の木」から「冬の木」にうつろう時期
です。

外路樹の若葉は
緑濃くオリーブの葉のごとし
つみとりたくなる
ほどにきれいです。
けれどもひそやかに木々の葉にも
「深い秋から冬」の気配がうつろいて。
うつります。

秋冬街並(まちなみ)蒼く(あおく)
秋冬いろどりて
秋冬木々の榛葉のかがやけり
秋冬暑さの夏をうつろひて
秋冬ふかまるみどりの秋木なり
秋冬しずまるみどりの秋木なり
秋冬みのりの秋こそありがたし
秋冬みのりの秋こそこひしかり
秋冬虫なきてささやけり
秋冬木々は榛葉にかがやけり

道端の夏の野草の花もかわいらしい。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は気温がさがり大気は不安定です。
「寒い」。
寒いと首都高の自動車も暗い中
「辛そうな運転の車」が多いです。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

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平成20年3月20日(木曜日)
は祝日です。
けれどもこの日は「もともと「休診日」」
なのです。

平成20年3月20日(木曜日は
休日診療は行いません。
は終わりました

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平成20年
4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂きました。

5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。

7月21(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

++++++++++++++++++++++

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました
++++++++++++++++++++++

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

10月13日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

11月 3日(月曜日)
はおわりました。
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11月24日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。
梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼の青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝

「今日は何の日」は
私の尊敬する。
イスラエル国籍*のピアニスト。
そして指揮者でもある。

5歳のとき母親にピアノの手ほどきを受け。
その後は父エンリケに師事致しました。
両親のほかにピアノの指導を受けてはいない
ピアニスト。

1942年 - ダニエル・バレンボイム、指揮者・ピアニスト
の生誕日です。

(*
2001年7月7日エルサレムにおいて、
イスラエル音楽祭の一環としてベルリン国立歌劇場を指揮して、
ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の一部を上演。
場内は騒然となりバレンボイムは数名のイスラエル人から
「ファシスト」のレッテルを貼られたピアニスト・指揮者。
(イスラエルにおいてワーグナーの音楽はタブー視されていました。)

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim,
1942年11月15日 ブエノスアイレス - )は
アルゼンチン出身の。

ユダヤ人ピアニスト・指揮者です。

現在の国籍はイスラエルです。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimは。
ロシア出身のユダヤ系移民を両親として生まれました。

5歳のとき母親にピアノの手ほどきを受けました。
その後は父エンリケに師事致しました。

両親のほかにピアノの指導を受けてはいません。

少年時代から音楽の才能を表しました。

1950年8月まだ7歳のうちにブエノスアイレスで
最初の公開演奏会を開いて
ピアニストとしてデビュー致しました。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimは。

1952年に家族を上げてイスラエルに移住致しました。

2年後の1954年夏、両親に連れられ、
ザルツブルクで
イーゴリ・マルケヴィチの指揮法の
マスタークラスに出席致しました。

同年夏、
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを訪ねて
演奏を聞いてもらいました。

1955年にパリで和声と作曲を
ナディア・ブーランジェに師事致しました。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimの。
ピアニストとしてのヨーロッパ・デビューは。

1952年にウィーンとローマです。

1955年にはパリ、1956年にはロンドンにデビュー致しました。
1957年にはレオポルド・ストコフスキーの指揮で。
ニューヨークにおいてオーケストラ・デビューを果たしました。

その後は。

欧州、米国、南米、豪州、極東の各地で
定期的に演奏会を行いました。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimの。

最初の録音は1954年に行われました。
その後、モーツァルトのピアノ・ソナタとピアノ協奏曲の
いずれも全曲録音を完成させました。
他に。
オットー・クレンペラー指揮による
ベートーヴェンのピアノ協奏曲(全曲)。

ジョン・バルビローリ指揮による
ブラームスのピアノ協奏曲(全曲)。

ピエール・ブーレーズ指揮による
バルトークのピアノ協奏曲(第1番・第3番のみ)を録音
致しました。

これらはすべて名盤と呼ばれて久しい「大名演」です。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimは。

ピアニストとしての名声を確固たるものとした後に。
1967年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と共演して
指揮者デビューを果たします。

1970年代から積極的に指揮活動も開始し
欧米各地の交響楽団から指揮者として招かれました。

1975年から1989年までパリ管弦楽団音楽監督に就任し
現代音楽を盛んにとり上げました。

けれども。
同楽団の低迷を招いた張本人との不評に甘んじて。
評価は芳しくありませんでした。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimは。

フランス物に偏らないプログラムを演奏したり。
団員と積極的に室内楽を演奏するなど。

良くも悪くもフランスのオーケストラだった
同楽団をよりインターナショナルな
団体へと脱皮させたのはバレンボイムの極めて大きな功績です。

とりわけこの時期にドイツ・グラモフォンに
同楽団と録音したラヴェルとドビュッシーは
名演奏の一つに数えられています。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimは。
1991年よりショルティから。
シカゴ交響楽団音楽監督の座を受け継いでからは
卓越した能力を発揮し。

現在は世界でも
最も有名な辣腕指揮者のひとりとして定評があります。

カラヤン、バーンスタインから
近年のヴァントやジュリーニ、ベルティーニに至るまで、
第二次大戦後に活躍してきた指揮界の巨星が相次いで他界した後の。

次世代のカリスマ系指揮者の一人として
世界的に注目と期待が集まっています。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimは。

なお2005-2006年の
シーズン終了後のシカゴ交響楽団音楽監督を退任
致しました。

2009年元日にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の
ニューイヤーコンサートを指揮することが予定されています。

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オペラ指揮者としては、
1973年にエディンバラ音楽祭において、
モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」
を指揮してデビュー致しました。

1981年にバイロイト音楽祭にデビューし、
その後も1989年まで定期的にバイロイトで指揮を続けました。

1990年より、新設された
パリ・バスティーユ・オペラの音楽監督に
就任予定でしたが直前に解任されました。

しかし1992年からはベルリン州立歌劇場の音楽監督に就任し、
現在まで継続しています。

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ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimは。
更に2007年よりミラノ・スカラ座の
「スカラ座のマエストロ」という、
音楽監督不在の中の事実上の首席客演指揮者に
就任致しました。

2007年の開幕で指揮を執りました。

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ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimは。
その国籍にもかかわらず。

ワーグナーや
リヒャルト・シュトラウスのようにイスラエル政府から
「ナチス寄り」と認定された
作曲家の解釈に本領を発揮しています。

これはバレンボイムがフルトヴェングラーに私淑し。
その後継者たらんとしてきた姿勢によるだけでなく、
ヤッシャ・ハイフェッツや
ロリン・マゼール、
ジェームズ・レヴァインなど

のアメリカのユダヤ系音楽家、
あるいは同じくユダヤ人のショルティが。

一般に新ドイツ楽派を
得意のレパートリーとしている風潮とも合致しています。

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ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimは。
バレンボイムは2度結婚しています。

最初の相手は
イギリスのチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレでした。

デュ・プレは才能に恵まれながらも、
多発性硬化症の発病により。
悲劇的にも突然に音楽家生命がおわりましたた。

再婚相手は、ギドン・クレーメルの前妻で、
ユダヤ系ロシア人ピアニストのエレーナ・バシュキロワです。

(エレーナの父親は
高名なピアノ教授ディミトリー・バシュキロフです。
フリードリヒ・グルダの息子リコが門人にいる)。

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ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimは。
2人は早くもデュ・プレの最晩年に、
パリで同棲生活に入っています。

このあたりが私には「よくわからない」ことなのですが。

2人の子をもうけていました。

バレンボイムとエレーナ夫人の正式な結婚は1988年に行われました。

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ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimの
イスラエルにおけるワーグナー上演

2001年7月7日、バレンボイムはエルサレムにおいて。

イスラエル音楽祭の一環としてベルリン国立歌劇場を指揮。

ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の
一部を上演致しました。

場内は騒然となりバレンボイムは数名のイスラエル人から
「ファシスト」のレッテルを貼られました。
イスラエルにおいてワーグナーの音楽はタブー視されていました。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimの
イスラエル音楽祭の一環として、ベルリン国立歌劇場を指揮して、
ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の一部を上演による。

「ファシスト」のレッテル
理由としては、
1・
かつてユダヤ人殲滅を主張していたヒトラーはワーグナーの楽劇が
お気に入りで、バイロイト音楽祭に足を運ぶなどアーリア人の
文化的優越を宣伝するために利用したこと。

2・
またワーグナー自身も「K・フライゲダンク」というペンネームで
著した「音楽におけるユダヤ性」においてメンデルスゾーンなどの
ユダヤ人音楽家らに対する差別的中傷をしていたことなどが挙げられます
(但し実際は、ワーグナー本人は
多くのユダヤ人と親交を結んでいます)。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimは。

バレンボイムは最初、プラシド・ドミンゴを含む3名の歌手と、
ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』の第1幕を上演する予定でした。

音楽祭主催者は、ホロコースト生存者とイスラエル政府からの
強硬な抗議を容れてプログラムの変更を余儀なくされました。

バレンボイムは、シューマンやストラヴィンスキーらの
無難な曲目で差し替えることに同意していたが
その決定に対して遺憾の意を洩らしていました。

しかしながらコンサートの終わりになって、
アンコールとしてワーグナーを演奏すると告げたのです。

多くの聴衆は、高らかな拍手をもって応えました。
だが若干の少数者が、声を上げて反対と叫びました。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimの
「ヘブライ語での反論」

バレンボイムは30分をかけて、
聴衆に向けてヘブライ語で、ワーグナーの楽曲をとり上げる理由を述べ、
反対派には、とにかく音楽を聴いてくれるように説得致しました。

「私は先週、携帯電話の呼び出し音によって
打ち合わせを中断させられたのです。

その呼び出し音が
ワーグナーの『ワルキューレの騎行』でした。
携帯電話にワーグナーを使えるなら。
どうしてコンサートホールでワーグナーを聴いてはならんのですか?」

また、バレンボイムは
別な機会に
「トスカニーニもイスラエルでワーグナーを指揮していると。
改めて
イスラエルでワーグナーを取り上げた意義を強調していました。

++++++++++++++++++++++

トスカニーニは1938年(≒ナチ全盛期)4月24日と4月25日に、
テルアヴィヴとイェルサレムで「ローエングリン」の
第1幕前奏曲と第3幕前奏曲を指揮しています。
オーケストラはパレスティナ交響楽団です。

この時、ワーグナー演奏中に雨が降り、トスカニーニが
「神が雨を降らせたのだ」と言った逸話は有名です。

++++++++++++++++++++++。

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimの
イスラエルの良心的文化人としてのパレスチナ問題の考え。

バレンボイムは、イスラエルによるヨルダン川西岸地区や
ガザ地区の占領に批判の声を上げ続けました。

(つまり、アラブ諸国とパレスチナの主張する、
西岸とガザでの主権を放棄し「パレスチナ国家」
を樹立するという
主張に沿う発言をしています。)

今やイスラエルが「ある民族のアイデンティティと戦うことによって、
倫理的な柱を失いつつある」と述べました。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimは。

2003年には、
イギリスの音楽評論家ノーマン・レブレクトによる取材に応じて。

イスラエル政府の動向を。
「倫理的におぞましく、戦略的に誤っていて」、
「イスラエル国家のまさに存在を危機に陥れる」
姿勢であると糾弾致しました。

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ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimは。

バレンボイムは、パレスチナ人(アラブ人)との
連帯の意思表示として。
イスラエル人の入植地区、とりわけヨルダン川西岸地区において
演奏活動を行なってきました。

1999年には、親しい友人で
パレスチナ系アメリカ人学者のエドワード・サイードに共鳴し。
ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団の創設に加わりました。

これは毎年イスラエルとアラブ諸国の
才能あるクラシック音楽の演奏家を集めて結成される
オーケストラです。

++++++++++++++++++++++

1999年には、親しい友人で
パレスチナ系アメリカ人学者のエドワード・サイードに共鳴し。
ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団の創設に加わりました。

同管弦楽団が結成された際の
指揮者選びをめぐって楽団員が糾合した時に。

アラブ側を納得させるために担ぎ出されたのが、
ほかならぬバレンボイムであったのです。

これはバレンボイムが、たびたびイギリスやアメリカにおいて
パレスチナ寄りの発言をしてきた過去や、
歯に衣着せないイスラエル政治批判、
エドワード・サイードとの交友関係、
イスラエル本土での演奏よりもイスラエル占領地区での
積極的な慰問演奏がアラブ側に評価されてのことでした。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimと。

バレンボイムとサイードの2人は、
この活動に対して、「諸国民の相互理解の向上」に寄与したとして、
2002年にスペイン王室より
「アストゥリアス公褒章 Premios Principe de Asturias 」
を授与されました。

バレンボイムとサイードの共著 Parallels and Paradoxes は、
ニューヨークのカーネギー・ホールで催された
連続公開討論に基づいています。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboimは。
2005年9月、
イスラエル陸軍ラジオの記者に対し
軍服を着た者とは話したくないと
インタビューを拒否したところ。

イスラエルの教育大臣は
バレンボイムを「本物の反ユダヤ主義者」だと非難致しました。

2008年1月パレスチナ自治政府から名誉市民権を与えられました。

++++++++++++++++++++++

ダニエル・バレンボイム:Daniel Barenboim
受賞歴
2004年5月、バレンボイムは、
クネセト(イスラエル国会)のセレモニーにおいて、
ヴォルフ賞を授与された。

この機をとらえて。
バレンボイムは政治状況について、次のような持論を唱えた。

「心に痛みを感じながら
、私は今日お尋ねしたいのです。
征服と支配の立場が、はたしてイスラエルの
独立宣言にかなっているでしょうか、と。

他民族の原則的な権利を打ちのめすことが代償なら、
一つの民族の独立に理屈というものがあるでしょうか。

ユダヤ人民は、その歴史は苦難と迫害に満ちていますが、
隣国の民族の権利と苦難に無関心であってよいものでしょうか。

イスラエル国家は、社会正義に基づいて実践的・人道主義的な
解決法を得ようとするのではなしに、揉め事にイデオロギー的な
解決を図ろうとたくらむがごときの、非現実的な夢うつつに
ふけっていてもよいものでしょうか。 」

以上の発言に対して。
イスラエルの元首と数名の国会議員から、
バレンボイムは名指しで非難されています。

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ダニエル・バレンボイム
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ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim, 1942年11月15日 ブエノスアイレス - )はアルゼンチン出身のユダヤ人ピアニスト・指揮者。現在の国籍はイスラエル。

目次
1 経歴
2 イスラエルにおけるワーグナー上演問題
2.1 脚注
3 イスラエルの良心的文化人として・パレスチナ問題
4 受賞歴
5 外部リンク
6 参考文献

経歴
ロシア出身のユダヤ系移民を両親として生まれる。5歳のとき母親にピアノの手ほどきを受け、その後は父エンリケに師事。両親のほかにピアノの指導を受けてはいない。少年時代から音楽の才能を表し、1950年8月まだ7歳のうちにブエノスアイレスで最初の公開演奏会を開いてピアニストとしてデビュー。

1952年に家族を上げてイスラエルに移住。2年後の1954年夏、両親に連れられ、ザルツブルクでイーゴリ・マルケヴィチの指揮法のマスタークラスに出席。同年夏、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを訪ねて、演奏を聞いてもらう。1955年にパリで和声と作曲をナディア・ブーランジェに師事。

ピアニストとしてのヨーロッパ・デビューは、1952年にウィーンとローマにおいてである。1955年にはパリ、1956年にはロンドンにデビューしており、1957年にはレオポルド・ストコフスキーの指揮で、ニューヨークにおいてオーケストラ・デビューを果たす。その後は、欧州、米国、南米、豪州、極東の各地で定期的に演奏会を行う。最初の録音は1954年に行われた。その後、モーツァルトのピアノ・ソナタとピアノ協奏曲のいずれも全曲録音を完成させたほか、オットー・クレンペラー指揮によるベートーヴェンのピアノ協奏曲(全曲)、ジョン・バルビローリ指揮によるブラームスのピアノ協奏曲(全曲)、ピエール・ブーレーズ指揮によるバルトークのピアノ協奏曲(第1番・第3番のみ)を録音。これらはすべて、名盤と呼ばれて久しい。

ピアニストとしての名声を確固たるものとした後、1967年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と共演して指揮者デビューを果たす。1970年代から積極的に指揮活動も開始し欧米各地の交響楽団から指揮者として招かれる。1975年から1989年までパリ管弦楽団音楽監督に就任し現代音楽を盛んにとり上げるが、同楽団の低迷を招いた張本人との不評に甘んじ評価は芳しくなかった。しかし、フランス物に偏らないプログラムを演奏したり、団員と積極的に室内楽を演奏するなど、良くも悪くもフランスのオーケストラだった同楽団をよりインターナショナルな団体へと脱皮させたのはバレンボイムの功績である。とりわけこの時期にドイツ・グラモフォンに同楽団と録音したラヴェルとドビュッシーは名演奏の一つに数えられている。

1991年よりショルティからシカゴ交響楽団音楽監督の座を受け継いでからは卓越した能力を発揮し、現在は世界でも最も有名な辣腕指揮者のひとりとして定評がある。カラヤン、バーンスタインから近年のヴァントやジュリーニ、ベルティーニに至るまで、第二次大戦後に活躍してきた指揮界の巨星が相次いで他界した後の、次世代のカリスマ系指揮者の一人として世界的に注目と期待が集まっている。なお2005-2006年のシーズン終了後のシカゴ交響楽団音楽監督を退任。2009年元日にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートを指揮することが予定されている。

オペラ指揮者としては、1973年にエディンバラ音楽祭において、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を指揮してデビュー。1981年にバイロイト音楽祭にデビューし、その後も1989年まで定期的にバイロイトで指揮を続ける。1990年より、新設されたパリ・バスティーユ・オペラの音楽監督に就任予定だったが、直前に解任された。しかし1992年からはベルリン州立歌劇場の音楽監督に就任し、現在まで継続している。更に2007年よりミラノ・スカラ座の「スカラ座のマエストロ」という、音楽監督不在の中の事実上の首席客演指揮者に就任。2007年の開幕で指揮を執った。

その国籍にもかかわらず、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスのようにイスラエル政府から「ナチス寄り」と認定された作曲家の解釈に本領を発揮しているが、これはバレンボイムがフルトヴェングラーに私淑し、その後継者たらんとしてきた姿勢によるだけでなく、ヤッシャ・ハイフェッツやロリン・マゼール、ジェームズ・レヴァインなどのアメリカのユダヤ系音楽家、あるいは同じくユダヤ人のショルティが、一般に新ドイツ楽派を得意のレパートリーとしている風潮とも合致している。

バレンボイムは2度結婚している。最初の相手はイギリスのチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレであった。デュ・プレは才能に恵まれながらも、多発性硬化症の発病により、悲劇的にも突然に音楽家生命がおわった。再婚相手は、ギドン・クレーメルの前妻で、ユダヤ系ロシア人ピアニストのエレーナ・バシュキロワである(エレーナの父親は高名なピアノ教授ディミトリー・バシュキロフで、フリードリヒ・グルダの息子リコが門人にいる)。2人は早くもデュ・プレの最晩年に、パリで同棲生活に入って2人の子をもうけていた。バレンボイムとエレーナ夫人の正式な結婚は1988年に行われた。

イスラエルにおけるワーグナー上演問題
2001年7月7日、バレンボイムはエルサレムにおいて、イスラエル音楽祭の一環として、ベルリン国立歌劇場を指揮して、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の一部を上演した。場内は騒然となり、バレンボイムは数名のイスラエル人から「ファシスト」のレッテルを貼られた。イスラエルにおいてワーグナーの音楽はタブー視されていた。

理由としては、かつてユダヤ人殲滅を主張していたヒトラーはワーグナーの楽劇がお気に入りで、バイロイト音楽祭に足を運ぶなどアーリア人の文化的優越を宣伝するために利用したこと、またワーグナー自身も「K・フライゲダンク」というペンネームで著した「音楽におけるユダヤ性」においてメンデルスゾーンなどのユダヤ人音楽家らに対する差別的中傷をしていたことなどが挙げられる(但し実際は、ワーグナー本人は多くのユダヤ人と親交を結んでいる)。

バレンボイムは最初、プラシド・ドミンゴを含む3名の歌手と、ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』の第1幕を上演する予定であったが、音楽祭主催者は、ホロコースト生存者とイスラエル政府からの強硬な抗議を容れて、プログラムの変更を余儀なくされた。

バレンボイムは、シューマンやストラヴィンスキーらの無難な曲目で差し替えることに同意していたが、その決定に対して遺憾の意を洩らしていた。しかしながらコンサートの終わりになって、アンコールとしてワーグナーを演奏すると告げたのである。

多くの聴衆は、高らかな拍手をもって応えたが、だが若干の少数者が、声を上げて反対と叫んだ。バレンボイムは30分をかけて、聴衆に向けてヘブライ語で、ワーグナーの楽曲をとり上げる理由を述べ、反対派には、とにかく音楽を聴いてくれるように説かなければならなかった。「私は先週、携帯電話の呼び出し音によって打ち合わせを中断させられたのです。その呼び出し音がワーグナーの『ワルキューレの騎行』でした。携帯電話にワーグナーを使えるなら、どうしてコンサートホールでワーグナーを聴いてはならんのですか?」

また、バレンボイムは別な機会に「トスカニーニもイスラエルでワーグナーを指揮している[1]」と、改めてイスラエルでワーグナーを取り上げた意義を強調していた。

脚注
^ トスカニーニは1938年(≒ナチ全盛期)4月24日と4月25日に、テルアヴィヴとイェルサレムで「ローエングリン」の第1幕前奏曲と第3幕前奏曲を指揮している。オーケストラはパレスティナ交響楽団。この時、ワーグナー演奏中に雨が降り、トスカニーニが「神が雨を降らせたのだ」と言ったとされる。

イスラエルの良心的文化人として・パレスチナ問題
バレンボイムは、イスラエルによるヨルダン川西岸地区やガザ地区の占領に批判の声を上げ続け(つまり、アラブ諸国とパレスチナの主張する、西岸とガザでの主権を放棄し「パレスチナ国家」を樹立するという主張に沿う発言をしている)、今やイスラエルが「ある民族のアイデンティティと戦うことによって、倫理的な柱を失いつつある」と述べた。2003年には、イギリスの音楽評論家ノーマン・レブレクトによる取材に応じて、イスラエル政府の動向を、「倫理的におぞましく、戦略的に誤っていて」、「イスラエル国家のまさに存在を危機に陥れる」姿勢であると糾弾した([1])。

バレンボイムは、パレスチナ人(アラブ人)との連帯の意思表示として、イスラエル人の入植地区、とりわけヨルダン川西岸地区において演奏活動を行なってきた。

1999年には、親しい友人でパレスチナ系アメリカ人学者のエドワード・サイードに共鳴し、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団の創設に加わった。これは毎年、イスラエルとアラブ諸国の才能あるクラシック音楽の演奏家を集めて結成されるオーケストラである。同管弦楽団が結成された際、指揮者選びをめぐって楽団員が糾合した時、アラブ側を納得させるために担ぎ出されたのが、ほかならぬバレンボイムであった。これはバレンボイムが、たびたびイギリスやアメリカにおいてパレスチナ寄りの発言をしてきた過去や、歯に衣着せないイスラエル政治批判、エドワード・サイードとの交友関係、イスラエル本土での演奏よりもイスラエル占領地区での積極的な慰問演奏がアラブ側に評価されてのことであった。バレンボイムとサイードの2人は、この活動に対して、「諸国民の相互理解の向上」に寄与したとして、2002年にスペイン王室より「アストゥリアス公褒章 Premios Principe de Asturias 」を授与された。

バレンボイムとサイードの共著 Parallels and Paradoxes は、ニューヨークのカーネギー・ホールで催された連続公開討論に基づいている。

2005年9月、イスラエル陸軍ラジオの記者に対し、軍服を着た者とは話したくないとインタビューを拒否したところ、イスラエルの教育大臣はバレンボイムを「本物の反ユダヤ主義者」だと非難した。([2])。

2008年1月、パレスチナ自治政府から名誉市民権を与えられた。

受賞歴
2004年5月、バレンボイムは、
クネセト(イスラエル国会)のセレモニーにおいて、ヴォルフ賞を授与された。
この機をとらえて、バレンボイムは政治状況について、次のような持論を唱えた。

心に痛みを感じながら、私は今日お尋ねしたいのです。
征服と支配の立場が、はたしてイスラエルの独立宣言にかなっているでしょうか、と。
他民族の原則的な権利を打ちのめすことが代償なら、
一つの民族の独立に理屈というものがあるでしょうか。
ユダヤ人民は、その歴史は苦難と迫害に満ちていますが、
隣国の民族の権利と苦難に無関心であってよいものでしょうか。
イスラエル国家は、社会正義に基づいて実践的・人道主義的な
解決法を得ようとするのではなしに、揉め事にイデオロギー的な
解決を図ろうとたくらむがごときの、非現実的な夢うつつに
ふけっていてもよいものでしょうか。

以上の発言に対して、イスラエルの元首と数名の国会議員から、
バレンボイムは名指しで非難されている。

ブーバー=ローゼンツヴァイク・メダル、2004年
ヴォルフ賞 芸術部門、2004年
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー賞、(ベルリン国立歌劇場と) 2003年
寛容賞、トゥツィング福音アカデミー、2002年
アストゥーリャス公 協調賞 (エドワード・サイードと共同受賞)、2002年
ドイツ・大連邦功労十字章 Groses Bundesverdienstkreuz、2002年
哲学名誉博士号 イスラエル・ヘブライ総合大学、1996年
グラミー賞オペラ部門
バレンボイム指揮 ベルリン国立歌劇場、ジェーン・イーグレン、トーマス・ハンプソン、ヴァルトラウト・マイアー、ペーター・ザイフェルトほか
ワーグナー『タンホイザー』 (2003年)
グラミー賞室内楽部門
バレンボイム(ピアノ)ほか
モーツァルト&ベートーヴェン『ピアノと木管のための五重奏曲』(1995年)
バレンボイム(ピアノ) パールマン
ブラームス 3つのヴァイオリン・ソナタ (1991年)
グラミー賞管弦楽曲部門
バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団
ジョン・コリリアーノ: 交響曲第1番(1992年)
グラミー賞ソリスト部門
バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団
リヒャルト・シュトラウス「管楽器のための協奏曲」(2002年)
バレンボイム指揮 パールマン、シカゴ交響楽団
エルガー『ヴァイオリン協奏曲』(1983年)
バレンボイム指揮 ルービンシュタイン、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(1977年)
グラミー賞ベスト・クラシック部門
バレンボイム指揮 ルービンシュタイン、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(1977年)
高松宮殿下記念世界文化賞音楽部門
第19回、2007年

外部リンク
Daniel Barenboim 公式HP
Parallels and Paradoxes エドワード・サイードのインタビュー
同上日本語訳の抜粋
In harmony, Guardian newspaper feature on Barenboim and Said, 5 April 2003
BBC Radio 3 interviews1991年11月

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11月15日
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できごと
764年(天平宝字8年10月14日)- 淳仁天皇(淡路廃帝)が淡路島に流される。

1605年 - イギリスのガイ・フォークスらが、
国王ジェームズ1世らの爆殺を企てるも失敗(火薬陰謀事件。ユリウス暦では11月5日)。

1903年 - 『万朝報』を退社した幸徳秋水らが平民社を設立、『平民新聞』を発刊。

1920年 - ジュネーヴで国際連盟の第1回総会が開催。

1942年 - 関門鉄道トンネルが旅客営業開始。大規模ダイヤ改正をそれに伴い実施。

1945年 - 台北帝国大学が中華民国に接収され、台湾大学となる。

1955年 - 自由党と日本民主党が合併し、自由民主党が誕生(保守合同)。

1964年 - シンザン号、菊花賞を制して日本競馬史上2頭目の三冠馬となる。

1975年 - 第1回主要先進国首脳会議サミットがフランスのランブイエで開催される。
11月17日まで。

1977年 - 新潟市で横田めぐみさんが下校途中に北朝鮮の工作員に拉致される。

1982年 - 上越新幹線の大宮駅〜新潟駅間が開通。大規模ダイヤ改正を同時実施。

1983年 - 北朝鮮が冷凍船第18富士丸を南浦港で拿捕、紅粉勇船長ら乗組員を抑留。

1986年 - 三井物産マニラ支店長が誘拐される(三井物産マニラ支店長誘拐事件)。

1986年 - 伊豆大島の三原山が 12年ぶりに噴火。

1999年 - H-IIロケット8号機打ち上げ。

2000年 - 交通バリアフリー法施行。

2005年 - 紀宮清子内親王と東京都職員、黒田慶樹が結婚。

誕生日
1738年 - ウィリアム・ハーシェル、天文学者(+ 1822年)

1757年 - ジャック・ルネ・エベール、
フランス革命のジャコバン派内エベール派リーダー(+ 1794年)

1778年 - ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニ、探検家(+ 1823年)

1784年 - ジェローム・ボナパルト、ヴェストファーレン王(+ 1860年)

1815年(文化12年10月15日)- 田崎草雲、南画家(+ 1898年)

1862年 - ゲアハルト・ハウプトマン、劇作家(+ 1946年)

1872年(明治5年10月15日) - 岡本綺堂、小説家(+ 1939年)

1874年 - チャールズ・メリアム、政治学者(+ 1953年)

1877年 - ウィリアム・H・ホジスン、小説家(+ 1918年)

1885年 - 野尻抱影、随筆家(+ 1977年)

1887年 - 芦田均、第47代内閣総理大臣・法学博士(+ 1959年)

1887年 - ジョージア・オキーフ、画家(+ 1986年)

1891年 - エルヴィン・ロンメル、軍人(+ 1944年)

1895年 - オリガ・ニコラエヴナ、ロシア皇帝ニコライ2世の長女(+ 1918年)

1903年 - 星野立子、俳人(+ 1984年)

1905年 - 原民喜、小説家、詩人、童話作家(+ 1951年)

1906年 - 久保為義、映画監督、脚本家(+ 1942年)

1922年 - フランチェスコ・ロージ、映画監督

1927年 - 森三平太、俳優(+ 2006年)

1931年 - ムワイ・キバキ、ケニア第3代大統領

1934年 - 内田康夫、推理作家

1935年 - 肝付兼太、声優

1935年 - 小林久三、小説家(+ 2006年)

1939年 - 加藤みどり、声優

1942年 - ダニエル・バレンボイム、指揮者・ピアニスト

1953年 - 二宮至、元プロ野球選手
1958年 - 三浦リカ、女優
1961年 - 小早川毅彦、元プロ野球選手・打撃コーチ
1962年 - 三宅正治、フジテレビアナウンサー
1963年 - 大豊泰昭、元プロ野球選手
1967年 - 米倉紀之子、女優
1968年 - 福井晴敏、小説家
1969年 - 長野正実、アナウンサー
1970年 - パトリック・エムボマ、元サッカー選手
1970年 - 平山祐介、俳優、ファッションモデル
1971年 - ダグラス・ホワイト、騎手
1972年 - ダーウィン、プロ野球選手
1974年 - セルジオ・コンセイソン、サッカー選手
1977年 - 増田みのり、アナウンサー
1978年 - ひびき玲音、イラストレーター
1979年 - 名和秋、プロボウラー
1980年 - 竹仲絵里、 シンガーソングライター
1981年 - 二階堂亜樹、プロ雀士
1982年 - 久保田祐佳、NHKアナウンサー
1982年 - 白石みき、タレント
1982年 - 平井理央、フジテレビアナウンサー
1982年 - 久志麻理奈、アイドル・元チェキッ娘
1984年 - MEG、ミュージシャン(HIGH and MIGHTY COLOR)
1985年 - 小林祐三、サッカー選手
1986年 - 福田悠太、ジャニーズJr.、M.A.D.のメンバー
1988年 - 園原みか、ヌードモデル
1990年 - 本郷奏多、俳優
1990年 - 谷澤恵里香、アイドル(アイドリング!!!)
1991年 - 南登千明、女優、子役
1992年 - 峯岸みなみ、アイドル(AKB48)
1993年 - 紗綾、ジュニアアイドル
生年不明 - 霜月はるか、歌手
生年不明 - 秋山嘉子、声優・俳優

忌日
1426年(応永33年10月16日)- 細川満元、室町幕府の管領(* 1378年)

1630年 - ヨハネス・ケプラー、数学者(* 1571年)

1649年(慶安2年10月11日)- 近衛信尋、江戸時代の関白(* 1599年)

1670年 - コメニウス、宗教家・教育家(* 1592年)

1679年(延宝7年10月12日)- 飛鳥井雅章、江戸時代の権大納言(* 1611年)

1708年(宝永5年10月4日)- 安藤直名、紀州藩付家老(* 1680年)

1722年(享保7年10月7日)- 織田長清、第4代戒重藩主(* 1662年)

1781年 - トゥパク・カタリ、アイマラの指導者(* 1750年)

1787年 - クリストフ・ヴィリバルト・グルック、作曲家(* 1714年)

1807年(文化4年10月16日)- 黒田長舒、第8代秋月藩主(* 1765年)

1819年 - ダニエル・ラザフォード、化学者・物理学者(* 1749年)

1832年 - ジャン=バティスト・セイ、経済学者(* 1767年)

1835年 - ヨハン・ビュルグ、天文学者(* 1766年)

1848年(嘉永元年10月20日)- 阿部正定、第5代白河藩主(* 1823年)

1853年 - マリア2世、ポルトガル・ブラガンサ王朝の統治女王(* 1819年)

1867年(慶応3年10月20日)- 林忠旭、初代請西藩主(* 1805年)

1908年(光緒34年10月22日)- 西太后、清・咸豊帝の皇后(* 1835年)

1915年 - ブッカー・T・ワシントン、教育家(* 1856年)

1916年 - ヘンリク・シェンキェヴィチ、小説家(* 1846年)

1917年 - エミール・デュルケーム、社会学者、人類学者(* 1858年)

1919年 - アルフレッド・ウェルナー、化学者(* 1866年)

1919年 - 松平忠敬、第5代忍藩主(* 1855年)

1941年 - 小川琢治、地質学者・地理学者(* 1870年)

1954年 - ライオネル・バリモア、俳優(* 1878年)

1959年 - チャールズ・ウィルソン、物理学者(* 1869年)

1963年 - フリッツ・ライナー、指揮者(* 1888年)

1966年 - ウィリアム・ゾラック、彫刻家(* 1887年)

1968年 - チャールズ・ベーコン、陸上競技選手(* 1883年)

1968年 - バージニア・リー・バートン、絵本作家(* 1909年)

1969年 - 伊藤整、小説家(* 1905年)

1971年 - ルドルフ・アベル、ソビエト連邦の諜報員(* 1903年)

1976年 - ジャン・ギャバン、俳優(* 1904年)

1978年 - マーガレット・ミード、文化人類学者(* 1901年)

1980年 - エミリオ・プジョル、ギタリスト・作曲家(* 1886年)

1981年 - ヴァルター・ハイトラー、物理学者(* 1904年)

1996年 - アルジャー・ヒス、アメリカの官僚・ソビエト連邦の諜報員(* 1904年)

1999年 - 友納武人、元千葉県知事・自民党衆議院議員(* 1914年)

2002年 - 孫基禎、男子マラソン選手・ベルリン五輪金メダリスト(* 1912年)

2006年 - 石川賢、漫画家 (* 1948年)

2006年 - アナ・キャロリーナ・レストン、ファッションモデル(* 1985年)

2007年 - ジョー・ナックスホール、メジャーリーグベースボール選手(* 1928年)

記念日・年中行事
七五三(日本)
数え年で男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳の時に子の成長を祝い、
神社に参詣する行事。11月15日に行うようになったのは
江戸時代徳川綱吉の子供、徳松の祝いがこの日に行われたからだと言われている。

かまぼこの日(日本)
かまぼこが初めて文献に登場したのが永久3年(1115年)の
祝宴の膳の図に描かれていたものとされていることから、
1115年の数字の並びから11月15日を記念日とした。
全国蒲鉾水産加工業協同組合連合会が1983年に制定。

目師会(日蓮正宗)
日目上人の祥月命日にあたるため、総本山大石寺をはじめ、
全ての日蓮正宗寺院において報恩の法要が営まれる。
かぶが好きだったことから仏前にかぶを供える。