東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年11月25日(火曜日)

[ Myマップ ][ 病院の投稿地図 ]
[ Myマップ ][ 病院の投稿地図 ]

「ここをおして」をクリックされてください。

東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年11月25日(火曜日)

「9月」がおわわりました。
「10月」も終わりました。
「晩秋」もしずかに。
しずかに。しずかに。

能の舞(のうのまい)の「おきなのあゆみ」のように。
さらにふかまりつつあります。
「くれ」にむかっています。

暗い朝の早朝に。
南の天に「明けの明星」が
輝いています。
闇夜の天高いかがやく惑星。

「明けの明星」金星に。
毎日「おはよう」のあいさつを
します。

早朝には
「秋の虫の音」は。
「こおろぎ」だけになりました。
そのこえの声もきこえなくなりつつあります。

はるか暗い早朝に「こおろぎ」の
かすかな。ひとりぼっちの。
鳴き声がきこえます。

毎朝の暗いうちの「音色」は。
毎日違います。

「ろうろう」「こうこう」

耳をすませば。
こおろぎの鳴き声は。
「合唱」から次第に「ソロ」に
なっていました。

そしてオーケストラの楽器の配列のように。
一匹一匹の
「こおろぎ」の鳴いている場所がわかるように。
なってきました。

虫たちも
「もっと深い秋」そして「もっと深い秋の先」
「の季節にむけての。
ころもがえやひっこしをしている
ことがわかります。
こおろぎは。
「つちのなかで」冬を越します。

陽ののぼる時刻はとても遅くなりました。
そして
陽のおりる夕暮れは。
とてもやくくなりました。

朝の04:30amにはふたたび「真っ暗」
の時期になりました。
あさの06:30amでもなお暗い東空
です。

これからは太陽は。
「晩秋」そして「冬」に向かいます。

いよいよ「晩秋」もふかくなりました。
冬こそ間近し。

あさは曇っていて。
さらに昼間でも「さむい」ことがある。
私がおきるまっくらな早朝は。
とてもとても。
とても寒いです。
雪国うまれの私はさむいのがつらい
です。

早朝「そら」をみあげれば。
晴れているはず。日差しもあるはず。

けれども空には
「雲がいっぱい」で「空はくもりそら」
です。
ふしぎな「晩秋」のひざしです。

ふとかんがえれば・・。
夏至もおわり。
真夏もおわり。
ゆたかなみのりの
「秋」の「9月」がはじまり。
そして「9月」が「おわり」。
「10月」もおわりました。
「11月」です。
「12月」です。

「実りの秋」から「収穫の秋」に向けて
「若実」をまもる
「晩秋冬」の太陽から。さらなる恵みを
「実る木の実」にあたえる。

「空」こそは。
「ソフトフイルター」の役目を。
深い「晩秋」の「おぼろくもりそら」が
しているようです。

自然とは。
とてもよくできたものです。

変幻自在であり
そして規則も正しい。
なおかつにして。
自由が自在。

大気に漂う霞がごとし。

深い山の奥に住むという

仙人の心境が。

とてもよくわかります。

晩秋冬の街路樹もそうそうたる。
ふかまる秋冬の羽振りを
まとう木々になってきました。
そして晩秋冬の。
紅葉の秋をむかえています。

街路樹は「落葉樹」がよいです。

街路樹が「松や杉」のような。
「常緑樹」では
冬はうっそうとして
陽の光をえられない。

夏場は枝ぶり葉っぱから陽の光を
さえぎれない。
晩秋も「針葉樹の落葉」では
木枯らしもつりがあわない。
とどのつまり
四季のリズムはつくれません。

ヴイバルデイの
「四季」の「夏」にある
木陰で休む羊飼いの旋律
も。
フランツ・シューベルトの
「菩提樹」の歌曲
も「うまれません」。

落葉の針葉樹で
強いからといって「からまつ」をうえられても
あわないでしょう。

私の「大好き」な。
北原白秋の「からまつの詩」。

「からまつ」は

街路樹にはそぐいません。

やはり野におけ蓮華草と同じく。
「からまつ」も蓮華草と同じくに
清楚な華やかさとはかなさを
もっています。

やはり野におけ。
蓮華草とからまつ。

秋冬の「からまつ」です。

-------------------------------
北原白秋
 
「水墨集」より

  
 落葉松
-------------------------------

      一
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 からまつをしみじみと見き。
 
 からまつはさびしかりけり。
 
 たびゆくはさびしかりけり。

      二
                 
 からまつの林を出でて、
 
 からまつの林に入りぬ。
 
 からまつの林に入りて、
 
 また細く道はつづけり。

      三
 
 からまつの林の奥も
 
 わが通る道はありけり。
  きりさめ
 霧雨のかかる道なり。
 やまかぜ
 山風のかよふ道なり。

      四
 
 からまつの林の道は、
 
 われのみか、ひともかよひぬ。
 
 ほそぼそと通ふ道なり。
 
 さびさびといそぐ道なり。

      五
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 
 からまつはさびしかりけり、
 
 からまつとささやきにけり。

      六

 からまつの林を出でて、
  あさま ね
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 からまつのまたそのうへに。

      七
 
 からまつの林の雨は
 
 さびしけどいよよしづけし。
 
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 
 からまつの濡るるのみなる。

      八
 
 世の中よ、あはれなりけり。
 
 常なれどうれしかりけり。
 
 山川に山がはの音、
 
 からまつにからまつのかぜ。

-------------------------------

木々の青葉の房が
早朝くらい中でも
うかびあがります。
とりわけ私は
くすのき科が。
「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
けやきもすきです。
カエデもすきです。
もみじもすきです。
松もすきです。
杉もすきです。
紅葉の「秋」です。
紅葉を過ぎた「秋」です。
そして「冬」です。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな萌黄色と緑です。
まるで。
大きな里山の森の秋のうねりのようです。
今年は木々のわかばの秋のめばえがとてもとても
鮮烈です。
紅葉も「鮮烈」なことと見守ります。
そして冬の木枯らしがきます。

街角の雑草も花はおわり。
夏の草花・
「ひるがお」「つるくさ」が
秋冬草に変貌して。

「小金」に山芋の葉は紅葉し。
ますます姿を大きくしています。

けれども。
「秋風」から「木枯らし」になり。
「遠慮がち」になりました。

雑草も。
秋冬草へと変貌しつつあります。

朝暗いうちは。
はださむい気が致します。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
ふとい孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

木枯らしいてつく秋竹(あきたけ)の
笹葉みどりにふるえたり
みどりのいらかをかぜはやみ
冬の陽うつすやうつろひの
竹にうまれしはやいくとせ

秋冬地にも空にも
秋冬みどり葉ひらき
秋冬みどり木秋空
秋冬天高くひろがりけり
秋冬ゆたかなりけり
秋冬いふことのなし
秋冬いふことがなし
秋冬いふことはなし
秋冬ゆたかなりけりあきふゆ

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない場合
に限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

平成20年

4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわちました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂き。5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
-------------------------------

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

10月13日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

-------------------------------

11月 3日(月曜日)
11月24日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
-------------------------------

12月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

-------------------------------
麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です。

-------------------------------

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン弾き
のピアニストとして有名な。
また武蔵野音楽大学のパイプオルガンの引き初め
でもゆうめいな。
ピアニストそして「オルガニスト」の

1895年 - ヴィルヘルム・ケンプ、ピアニスト(+ 1991年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

ヴィルヘルム・ケンプ(Wilhelm Kempff,
1895年11月25日-1991年5月23日)は、
ドイツのピアニストです。

作曲も行います。
バッハの作品のピアノ編曲でもよく知られています。

++++++++++++++++++++++

ヴィルヘルム・ケンプ:Wilhelm Kempffの

ユーターボクの教会オルガニストの家庭に生まれました。
幼時よりピアノやオルガンを学びました。
卓越した才能を示しました。

ベルリン音楽大学でロベルト・カーンと
ハインリッヒ・バルトに師事致しました。

1918年にソリストとしてデビュー。
以後60年余りの長きにわたる演奏活動をおこないました。

++++++++++++++++++++++

ヴィルヘルム・ケンプ:Wilhelm Kempffは

1936年に初来日以来4度の訪日を重ねています。

彼は大バッハからブラームスにいたる
ドイツ古典派やロマン派の作品を。
得意のレパートリーとしています。

深い教養に裏打ちされたがごとき。
高雅で詩的感興に溢れた明晰な演奏
は高い評価を受けました。

特にベートーヴェンの名奏者
として知られています。
けれども。
シューベルトや。
シューマンなどでも味わい深い名演を聴かせました。

++++++++++++++++++++++

ヴィルヘルム・ケンプ:Wilhelm Kempffは。

録音も数多い。

1920年の初録音以来1950年代の一時期に
英デッカで何枚かの
ロマン派作品のアルバムを製作したことを例外として。

一貫してドイツ・グラモフォンに録音を行いました。

主要な業績であるベートーヴェンのピアノ協奏曲と
ピアノソナタの全集は。
モノラルとステレオの2種類が残されています。

ピエール・フルニエと組んだ
ベートーヴェンのチェロソナタ全集と。

ヴォルフガング・シュナイダーハンと
組んだ
ベートーヴェンのヴァイオリンソナタの全集も
極めて評価が高いです。

++++++++++++++++++++++

ヴィルヘルム・ケンプ:Wilhelm Kempffは。

1960年代にシューベルトのピアノソナタを全集として録音
致しました。

それまであまり演奏されることの無かった作品が一般に知られる
ようになるきっかけを作ったことも高く評価されます。

++++++++++++++++++++++

ヴィルヘルム・ケンプ:Wilhelm Kempff。

ケンプは若い頃からドイツを代表するピアニストとして評価されて
きました。

けれども同時代に最初から職業演奏家として訓練されてきた
ヴィルヘルム・バックハウスなどとは異なります。

++++++++++++++++++++++

ヴィルヘルム・ケンプ:Wilhelm Kempffは。
ケンプは自身を作曲家として捉えていたようです。
そのため熱心に技巧練習に励むような事はなかったと言われます。

したがって若い頃の演奏ではかなりミスも目立います。

ヴィルヘルム・ケンプ:Wilhelm Kempffの
熱心に技巧練習に励む時期は「なかった」といってよく。

一生彼のピアニストとしての
「音の特徴」として「残念ながら残りました」。

++++++++++++++++++++++

ヴィルヘルム・ケンプ:Wilhelm Kempffとナチス

ナチスの台頭後
ナチスの台頭後はケンプにとって辛い時期でした。
台頭後もケンプはドイツに残ったが、
演奏会やレッスンによる収入が途絶え。
経済的に困窮致しました。

ケンプ自身は(他のドイツに残った芸術家と比べても)
決して「ナチ寄り」ではなかったのです。

それでもナチを逃れ亡命した
ドイツ人芸術家に批判的な言葉を投げかけたり。
当時のドイツ文化の代表として来日した事もあったのです。

このためにケンプは戦後、ナチに協力したと疑わ
たこともあります。

演奏会が開けない時期もありましたた
(この辺りの経緯は
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのそれと似ています)。

++++++++++++++++++++++

しかし、ヴィルヘルム・ケンプ:Wilhelm Kempffは
この演奏禁止時に。

弱点であった技巧の弱さをある程度克服して
以前よりも安定感のある演奏技術を身に付ける事に成功
致しました。

この苦難を乗り越える事で精神的な深みを増したと言われます。

実際にケンプ本人も
「この困難は自分を人間的・芸術的に高めてくれた」
と後のインタビューで語っています。

++++++++++++++++++++++

ヴィルヘルム・ケンプ:Wilhelm Kempffに対して。

「このピアニスト(ケンプ)が、
自由闊達な霊感に満ちたすぐれた一夜の演奏会を持つ場合には
コルトーの最大の瞬間との比較をも恐れるにたりぬ、
確然たる奇跡が約束されている。

ときに見られるテクニックの不均衡や
ピアニスティックな造形の不明確などは、
もうどうでもよくなってしまう」

(ヨアヒム・カイザー、独評論家)などの評から分るように。

ケンプの本領は実演にあり、
そのよさがうかがい知れる録音は少ないです。

その実演もムラが多く、
好調時には文字通り「奇跡」と言える演奏であるも。

不調時にはミスも多く。
それをたまたま聴いた評論家からは不評をかうこともありました。

++++++++++++++++++++++

「ケンプはエオリアンハープだった。
ただし正しい風が吹いたときには」
というアルフレート・ブレンデルの言葉が的を射ています。

ちなみに、大指揮者フルトヴェングラーは、
同時代に活躍したピアニストの中でも、
特にケンプの芸術に深い関心と理解とを示しました。

2人の演奏スタイルには、深い精神性や溢れる高揚感、
ドイツ伝統の巨視的な楽曲把握、
自在に揺れながらも決して気まぐれではない
柔らかで自然なテンポ操作など、
少なからず共通する所があったといえます

(また、実際にフルトヴェングラーは
ケンプ作の交響曲の初演をつとめ、
また、ケンプもフルトヴェングラー自作自演の
「テ・デウム」の演奏にオルガンで参加しています)。

++++++++++++++++++++++

晩年
ケンプは非常に長い間演奏家としての活躍を続けました。
その晩年において。
いささか時代に取り残されたような感もありました。

現代のピアニストは大前提として。
完璧な技巧による瑕疵のない演奏が求められる傾向があります。

その点では。

技巧よりも即興的なファンタジー。
精神性を重んじるケンプのスタイルは、
それとは少なからず異なっています。

彼の演奏から語られるヒューマンな暖かい音楽性、
そしてそのスケールの大きさは、
我々の心に気持ちよく響く(こともあります)。

そして、残された録音は、
今なお愛好家の心を温め続けています。

++++++++++++++++++++++

ヴィルヘルム・ケンプ:Wilhelm Kempffは。
彼は、ピアノは技巧だけが全てではないということを、
演奏で証明していた稀有の存在でした。

彼は日本を愛しました。
彼の時代の「巨匠」で10回もの来日を数える人はいません。

自叙伝『鳴り響く星のもとに』の『日本語版への序文』で、
「日本に接して最もすばらしかったのは、
相互に愛情が生まれたことでした」と述べているほどです。

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*
++「続きを読むです1」++++++++++++++++++

ヴィルヘルム・ケンプ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%97

ヴィルヘルム・ケンプ(Wilhelm Kempff, 1895年11月25日-1991年5月23日)は、ドイツのピアニストである。作曲も行い、バッハの作品のピアノ編曲でもよく知られている。

目次
1 生涯
1.1 幼少期からナチス台頭期まで
1.2 ナチスの台頭後
1.3 晩年

生涯

幼少期からナチス台頭期まで
ユーターボクの教会オルガニストの家庭に生まれ、幼時よりピアノ、オルガンを学び、卓越した才能を示した。ベルリン音楽大学でロベルト・カーンとハインリッヒ・バルトに師事、1918年にソリストとしてデビュー、以後60年余りの長きにわたる演奏活動をおこなった。1936年に初来日、以来4度の訪日を重ねている。

彼は大バッハからブラームスにいたるドイツ古典派、ロマン派の作品を得意のレパートリーとしており、深い教養に裏打ちされた、高雅で詩的感興に溢れた明晰な演奏は高い評価を受けた。特にベートーヴェンの名奏者として知られていたが、シューベルト、シューマンなどでも味わい深い名演を聴かせた。

録音も数多く、1920年の初録音以来、1950年代の一時期に英デッカで何枚かのロマン派作品のアルバムを製作したことを例外として、一貫してドイツ・グラモフォンに録音を行った。主要な業績であるベートーヴェンのピアノ協奏曲とピアノソナタの全集は、モノラルとステレオの2種類が残されている。ピエール・フルニエと組んだベートーヴェンのチェロソナタ全集と、ヴォルフガング・シュナイダーハンと組んだベートーヴェンのヴァイオリンソナタの全集も極めて評価が高い。また、1960年代にシューベルトのピアノソナタを全集として録音し、それまであまり演奏されることの無かった作品が一般に知られるようになるきっかけを作ったことも高く評価される。

ケンプは若い頃からドイツを代表するピアニストとして評価されてきた。しかし、同時代に最初から職業演奏家として訓練されてきたヴィルヘルム・バックハウスなどとは異なり、ケンプは自身を作曲家として捉えていたようで、そのため熱心に技巧練習に励むような事はなかったと言われる。したがって、若い頃の演奏ではかなりミスも目立ったようである。

ナチスの台頭後
ナチスの台頭後はケンプにとって辛い時期であった。台頭後もケンプはドイツに残ったが、演奏会やレッスンによる収入が途絶え、経済的に困窮した。また、ケンプ自身は(他のドイツに残った芸術家と比べても)決して「ナチ寄り」ではなかったが、それでもナチを逃れ亡命したドイツ人芸術家に批判的な言葉を投げかけたり、当時のドイツ文化の代表として来日した事もあった。このためにケンプは戦後、ナチに協力したと疑われ、演奏会が開けない時期もあった(この辺りの経緯はヴィルヘルム・フルトヴェングラーのそれと似ている)。

しかし、この演奏禁止時に、弱点であった技巧の弱さをある程度克服して以前よりも安定感のある演奏技術を身に付ける事に成功し、また、この苦難を乗り越える事で精神的な深みを増したと言われる。実際にケンプ本人も「この困難は自分を人間的・芸術的に高めてくれた」と後のインタビューで語っている。

「このピアニスト(ケンプ)が、自由闊達な霊感に満ちたすぐれた一夜の演奏会を持つ場合には、コルトーの最大の瞬間との比較をも恐れるにたりぬ、確然たる奇跡が約束されている。ときに見られるテクニックの不均衡やピアニスティックな造形の不明確などは、もうどうでもよくなってしまう」(ヨアヒム・カイザー、独評論家)などの評から分るように、ケンプの本領は実演にあり、そのよさがうかがい知れる録音は少ない。その実演もムラが多く、好調時には文字通り「奇跡」と言える演奏だが、不調時にはミスも多く、それをたまたま聴いた評論家からは不評をかうこともあった。「ケンプはエオリアンハープだった。ただし正しい風が吹いたときには」というアルフレート・ブレンデルの言葉が的を射ている。ちなみに、大指揮者フルトヴェングラーは、同時代に活躍したピアニストの中でも、特にケンプの芸術に深い関心と理解とを示した。2人の演奏スタイルには、深い精神性や溢れる高揚感、ドイツ伝統の巨視的な楽曲把握、自在に揺れながらも決して気まぐれではない柔らかで自然なテンポ操作など、少なからず共通する所があったといえる(また、実際にフルトヴェングラーはケンプ作の交響曲の初演をつとめ、また、ケンプもフルトヴェングラー自作自演の「テ・デウム」の演奏にオルガンで参加している)。

晩年
ケンプは非常に長い間、演奏家としての活躍を続けたが、その晩年において、いささか時代に取り残されたような感もあった。現代のピアニストは大前提として、完璧な技巧による瑕疵のない演奏が求められる傾向がある。その点で、技巧よりも即興的なファンタジー、精神性を重んじるケンプのスタイルは、それとは少なからず異なっていたのである。しかし、彼の演奏から語られるヒューマンな暖かい音楽性、そしてそのスケールの大きさは、我々の心に気持ちよく響く。そして、残された録音は、今なお愛好家の心を温め続けている。彼は、ピアノは技巧だけが全てではないということを、演奏で証明していた稀有の存在であった。

彼は日本を愛した。彼の時代の「巨匠」で10回もの来日を数える人はいない。自叙伝『鳴り響く星のもとに』の『日本語版への序文』で、「日本に接して最もすばらしかったのは、相互に愛情が生まれたことでした」と述べているほどである。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%97" より作成
カテゴリ: ドイツのクラシック音楽のピアニスト | 1895年生 | 1991年没

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
11月25日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8825%E6%97%A5
11月25日(じゅういちがつにじゅうごにち)は
グレゴリオ暦で年始から329日目(閏年では330日目)にあたり、
年末まであと36日ある。

できごと
1892年 - パリのソルボンヌ大学での講演で、
クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱。

1921年 - 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任。

1931年 - 平凡社が「大百科事典」を刊行開始。

1936年 - 日独防共協定締結。

1940年 - ウッディー・ウッドペッカーが『キツツキと熊一家』で初登場。

1952年 - 大阪讀賣新聞が創刊。

1953年 - サッカーイングランド代表がハンガリー代表に敗れ、
ヨーロッパ大陸のチームにホームで初の黒星を喫する。

1970年 - 三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊・東部方面総監部で割腹自決。

1972年 - アグネス・チャンがシングル『ひなげしの花』で歌手デビュー。

1975年 - スリナムがオランダから独立。

1977年 - ハイジャック防止法が成立。

1977年 - 世良公則&ツイストがシングル
『あんたのバラード』でレコードデビュー。

1978年 - 竹内まりやがシングル
『戻っておいで・私の時間』で歌手デビュー。

1986年 - 有楽町三億円事件。

2005年 - 民主党が、
公共政策プラットフォーム(政党シンクタンク)を設立。

誕生日
1562年 - ロペ・デ・ベガ、劇作家(+ 1635年)

1738年 - トマス・アプト、哲学者(+ 1766年)

1814年 - ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー、物理学者(+ 1878年)

1835年 - アンドリュー・カーネギー、実業家(+ 1919年)

1844年 - カール・ベンツ、技術者(+ 1929年)

1856年 - セルゲイ・タネーエフ、作曲家(+ 1915年)

1857年 - フィリッポ・トゥラーティ、社会主義運動家(+ 1932年)

1881年 - ヨハネ23世、第261代ローマ教皇(+ 1963年)

1891年 - 大錦卯一郎、大相撲第26代横綱(+ 1941年)

1895年 - ヴィルヘルム・ケンプ、ピアニスト(+ 1991年)

1895年 - アナスタス・ミコヤン、ソビエト連邦首相(+ 1978年)

1896年 - ヴァージル・トムソン、作曲家(+ 1989年)

1900年 - ルドルフ・フェルディナント・ヘス、
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所所長(+ 1947年)

1901年 - シェルイ・ティボール、作曲家(+ 1978年)

1904年 - リリアン・コープランド、陸上競技選手(+ 1964年)

1904年 - 巴金、小説家(+ 2005年)

1911年 - クルト・リュートゲン、児童文学作家(+ 1992年)

1914年 - ジョー・ディマジオ、元メジャーリーガー(+ 1999年)

1915年 - アウグスト・ピノチェト、チリ大統領(+ 2006年)

1920年 - リカルド・モンタルバン、俳優

1921年 - 武宮敏明、元プロ野球選手

1921年 - 佐々木喜久治、元秋田県知事(+ 2008年)

1924年 - ポール・デスモンド、ジャズサクソフォーン奏者(+ 1977年)

1924年 - 吉本隆明、詩人・思想家

1926年 - ポール・アンダースン、SF作家(+ 2001年)

1931年 - ナット・アダレイ、ジャズコルネット奏者(+ 2000年)

1932年 - 土屋弘光、元プロ野球選手

1934年 - 西村貞朗、元プロ野球選手

1934年 - 若羽黒朋明、元大相撲力士(+ 1969年)

1937年 - 安藤孝子、元京都祇園甲部芸妓・孝千代

1940年 - 池内紀、ドイツ文学者、エッセイスト

1947年 - 坂井隆憲、政治家

1948年 - 市川準、映画監督(+ 2008年)

1949年 - 関川夏央、作家・ジャーナリスト

1949年 - 吉田類、詩人・イラストレーター
1951年 - 大地康雄、俳優
1957年 - 岡田彰布、元プロ野球選手、阪神タイガース現監督
1957年 - カテリーナ・ダヴィニオ、詩人・美術家・写真家・映画監督
1959年 - 赤坂泰彦、タレント・DJ
1960年 - 南秀憲、元プロ野球選手
1962年 - 矢野寛樹、テレビ新広島アナウンサー
1962年 - 寺門ジモン、お笑いタレント(ダチョウ倶楽部)
1962年 - 坂口博信、ゲームデザイナー
1964年 - 真琴つばさ、元宝塚歌劇団トップスター、女優、歌手
1967年 - アンソニー・ネスティ、水泳選手
1967年 - 冨岡淳広、脚本家
1967年 - 中井和哉、声優
1968年 - 高津臣吾、プロ野球選手
1971年 - 高橋美鈴、NHKアナウンサー
1971年 - 塚地武雅、お笑いタレント(ドランクドラゴン)
1971年 - 山越紀子、フリーアナウンサー
1975年 - 平田洋、元プロ野球選手
1976年 - エレーナ・ビトリチェンコ、新体操選手
1976年 - 伊藤俊吾、ミュージシャン、キンモクセイのボーカル・ギター・キーボード
1976年 - 佐々木淳吾、東北放送アナウンサー
1977年 - 弓場沙織、俳優・声優
1978年 - 椎名林檎、シンガーソングライター・東京事変リードボーカル
1978年 - 葉山小姫、AV女優・ストリッパー
1978年 - 小笠原歩、カーリング選手
1979年 - 穴田ユキ久、俳優
1980年 - 来生ひかり、AV女優
1981年 - シャビ・アロンソ、サッカー選手
1981年 - マウリシオ・ショーグン、格闘家
1983年 - 伊藤淳史、俳優
1984年 - 鎌倉健、プロ野球選手
1984年 - 杉ゆかり、モデル
1984年 - 古山かおり、南日本放送アナウンサー
1985年 - 太田雄貴、フェンシング選手、日本フェンシング史上初の五輪メダリスト
1986年 - 辰巳雄大、ジャニーズJr.、M.A.D.のメンバー
1986年 - 佐藤和沙、タレント
1987年 - 奥山明日香、元FANTASISTA
1987年 - 依知川りん、芸能人女子フットサル選手(ZENT sweeties)
1988年 - 清水圭介、サッカー選手
1988年 - みづきまい、グラビアアイドル
1990年 - 壁谷明音、ファッションモデル
1990年 - 山岡みどり、9 nine
1990年 - 森那月、タレント
1991年 - 青木愛理、女優
1991年 - 澤田由梨、Gatas Brilhantes H.P.、音楽ガッタス、ハロプロエッグ
1993年 - 高樹リサ、ファッションモデル、タレント
1994年 - 石綿文太、俳優

忌日
1034年 - マルカム2世、スコットランド王(* 954年?)

1326年(嘉暦元年10月30日) - 惟康親王、鎌倉幕府第7代将軍(* 1264年)

1901年 - ヨーゼフ・ラインベルガー、作曲家・オルガニスト(* 1839年)

1946年 - 堀切善兵衛、政治家、元衆議院議長(* 1882年)

1950年 - 毛岸英、毛沢東の長男(* 1922年)

1959年 - 高島象山、易者(* 1886年)

1968年 - アプトン・シンクレア、作家(* 1878年)

1970年 - 三島由紀夫、小説家・劇作家(* 1925年)

1974年 - ウ・タント、第3代国連事務総長(* 1909年)

1980年 - 荒船清十郎、政治家(* 1907年)

1998年 - 大塚末子、ファッションデザイナー(* 1902年)

1998年 - ネルソン・グッドマン、哲学者(* 1906年)

2005年 - リチャード・バーンズ、ラリードライバー(*1971年)

2005年 - ジョージ・ベスト、サッカー選手(*1946年)

記念日・年中行事
OLの日(日本)
1963年、初めて「OL」(Office Lady)
という言葉が女性週刊誌「女性自身」11月25日号に載ったことに由来。

「OL」は、それまで用いられていた
「BG」(Business Girl) に代わる言葉として
「女性自身」が読者アンケートを行った結果1位となったもので、
これをきっかけにOLという言葉が広く使われるようになった。
働く女性の異業種間交流サークル
「OLネットワークシステム」が1994年に制定。

ハイビジョンの日(日本)
ハイビジョンの走査線の数が1125本であることにちなみ、
1987年に郵政省(現総務省)とNHKが制定。

この日とは別に、
9月16日が通商産業省(現経済産業省)の制定した
「ハイビジョンの日」となっている。

憂国忌
三島由紀夫の忌日。監督・主演した映画「憂国」にちなむ。