東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年11月28日(金曜日)

[ Myマップ ][ 病院の投稿地図 ]
[ Myマップ ][ 病院の投稿地図 ]

「ここをおして」をクリックされてください。

「ここをおして」をクリックされてください。は
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年11月28日(金曜日)

初秋から中秋。
そして今は「晩秋」です。
あと「2日」で12月。
「冬」です。

「秋」になり「9月」がおわり。
「10月」も「31日」たちました。
「10月」最後の日もおわり。

秋の最後の「11月」です。
「晩秋」もさいごです。

「夏」はとうにおわりました。
「初秋」「9月」もおわりました。
「10月」の「31日間」はあっというまに。
過ぎ去りました。

「11月」ものこり「2日」です。
今年は。
もう「33日たらず」でおわります。

あまりにも
月日と。
時間と。そして年月のたつ。

その速さに。
恐怖さえをも感じます。

大気は「秋冬」。
地には「霜の花」。

天には
「山茶花」と「椿」の「つぼみ」。

そしてこの時期には。
樹木の「落ち葉」
は「ぴたり」ととまります。
落葉ぎりぎりまで。
冬のそなえて。
太陽の陽射しをえるためでしょう。

白山茶花(さざんか)の花びらが
花も見えぬうちに。
いてつく木枯らしに射られて。
朝暗く落下しています。

木々の若葉のいろは
秋の深緑に。
深まる秋緑から紅葉にとますますあざやかになり。

そして「黄色」から「紅色」の紅葉葉も。
混じるようになりました。

霜柱の「晩秋から冬」の気配ははっきりと。
同じように葉木にも感じられます。

「山茶花」の若花のつぼみが
たわわにみえます。
いつでも咲きそうなつぼみです。

「金木犀:きんもくせい」の残り香は
とおくから。
「とぼとぼ」と歩いてくるように。
ほのかに漂い。
また「とぼとぼ」と歩き去っていった
そうな。

「山茶花(さざんか)」の花びらは。
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに蕾膨らみ
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに花咲き
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに花びらが舞う

空の色も。
まさしくも
「晩秋冬」の「空色」になってきました。
ミルクのはいったコバルトのような
空色です。

陽ののぼるのは遅くなりました。
陽がくれるのは早くなりました。

あさの06:30AMころは。
くらくあおく
しだいに
そらがラピズラズリから
トルコ石にうつろうように。
そらがしらんできます。

今の季節の気配からは。

まぢかいけれども。
「なにかが深まりゆく」。
そして冬の訪れから。

さらにさらに。
深い冬に向かい。
そしてさらに。
深い冬の向こう側にむかう
気配のあることが。
良くわかります。

いま現在は川端康成氏の。
「雪国」のトンネルの中です。
「向こう側」は「雪国」です。

秋冬池面(いけも)の水面(みずも)
秋冬おさなき小さなわかみどり
秋冬なもしらぬ
秋冬小さな緑の浮き草
秋冬若草うきつあつまりて
秋冬つらなり水面(みずも)
秋冬水面(みずも)をおおいたり
秋冬水面(みずおも)にて
秋風にきそいてさまよえり
秋ちひさきわらべのごとし
秋池面の水面(みずおも)の。
秋小さきちひさなわかみどり

いざいまこそは
よき季節にあらむ
水面(みずも)なるそら
ふと空をみる

秋冬早朝(はやあさ)に
秋冬けふもはだのさむけれど
秋冬ぬくもりのあさ
秋冬陽のありがたき
秋冬われあゆむがごと
秋冬陽はあたかくなりけり
秋冬葉木は秋木にかわりたり
秋冬みちをあかるくてらせ
秋冬がいだく木
秋冬はぐくむ木
秋冬みどり木あおし
秋冬実りの木紅し(あかし)
秋冬来(きた)るらむ

道端の野草の花もかわいらしい。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

たわわなり
みかんのわか実
みかんのふゆの実
蜜柑のいらかをかぜはやみ
ふゆかぜぜひるむや
木枯らしの
うつろひの
みかん実つきひ
はやいくとせ

秋冬地にも木にも
秋冬みどり葉ひらき
秋冬みどり木ときわ木
秋冬ひろがりて
秋冬いふことのなし
秋冬いふことがなし
秋いふことはなし
秋ゆたかなりけり秋冬

今年の早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は寒いです。
「毎朝寒い」。
寒いと首都高の自動車も
「寒そうな運転の車」が多いです。

それでも「冬はきぬ」。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は祝日です。
けれどもこの日は「もともと「休診日」」
なのです。

平成20年3月20日(木曜日は
休日診療は行いません。
は終わりました

-------------------------------

平成20年
4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂きました。

5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
++++++++++++++++++++++

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました

++++++++++++++++++++++

10月13日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

11月 3日(月曜日)
11月24日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

++++++++++++++++++++++

12月23日(火曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3.500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。

梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼に青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝です。

「今日は何の日」は
ピョートル・チャイコフスキーが。
「ピアノ協奏曲1番」
を捧げたが。
「とんでもない駄作である」
として献呈をしりぞけたたピアニスト
1829年 - アントン・ルービンシュタイン*
ピアニスト、作曲家(+ 1894年)
の生誕日です。

(*今のピアニストのアルトゥール・ルービンシュタイン
とは何ら血縁関係はありません)
++++++++++++++++++++++

アントン・グリゴリエヴィチ・ルビンシテイン
(ロシア語:
Анто?н Григо?рьевич Рубинште?йн, 
Anton Grigoryevich Rubinstein,
1829年11月28日 -
1894年11月20日)は。

ロシアの
作曲家、ピアニスト、指揮者です。

現在のモルドバ共和国に属する
ポドリスク地方ヴィフヴァチネツ
(Вихватинец(Выхватинец),
現ルブニツァ Rabni?a 近郊)に生まれました。
ペテルブルク近郊のペテルゴフに没しました。

姓は日本ではドイツ風に
“ルービンシュタイン”と表記されることも多いです。

++++++++++++++++++++++

アントン・グリゴリエヴィチ・ルビンシテイン
略歴
ロシア人ピアニストとしてはじめて世界的名声を博し、
ロシア・ピアノ流派の祖となりました。

また、1862年にロシア最初の専門的な音楽教育機関である
サンクトペテルブルク音楽院を創設致しました。
1859年にはロシア音楽教会を創設致しました。

それまでオペラ中心であったロシアの音楽活動
に交響曲や管弦楽などを持ち込ませるなど。
ヨーロッパの音楽的伝統をロシアに根付かせるために
計り知れぬ貢献を致しました。

++++++++++++++++++++++

アントン・グリゴリエヴィチ・ルビンシテインの。

弟のニコライも著名なピアニストです。

ポーランド出身でアメリカで活躍した
20世紀のピアニスト、
アルトゥール・ルービンシュタインと血縁関係は全く
ありません。

ルビンシテインは。
自身のピアノ演奏を録音に残さなかったものの、
彼自身の肉声は蓄音機に録音されておりいます。
その現存するシリンダーレコードからは。
親友のピョートル・チャイコフスキーの
肉声も同時に聴くことが出来ます。

++++++++++++++++++++++

アントン・グリゴリエヴィチ・ルビンシテインの。

作品
あらゆるジャンルに膨大な作品を残しました。
今日では若干のピアノ曲と歌曲を除いて
ほとんど演奏される機会はありません。

ドイツ・ロマン主義的で保守的な作風は
民族主義的作曲家グループロシア5人組と対立致しました。

現在ではCD録音でリバイバルが進行中である。
複数の出版社を渡り歩いたので、
未だに全集を編纂する状態には至っていません。

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++

アントン・ルビンシテイン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(アントン・ルービンシュタイン から転送)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3

アントン・グリゴリエヴィチ・ルビンシテイン(ロシア語: Анто?н Григо?рьевич Рубинште?йн, Anton Grigoryevich Rubinstein, 1829年11月28日 - 1894年11月20日)はロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者である。現在のモルドバ共和国に属するポドリスク地方ヴィフヴァチネツ(Вихватинец(Выхватинец), 現ルブニツァ Rabni?a 近郊)に生まれ、ペテルブルク近郊のペテルゴフに没した。姓は日本ではドイツ風に“ルービンシュタイン”と表記されることも多い。

目次
1 略歴
2 作品
2.1 歌劇(全20曲)
2.2 交響曲
2.3 管弦楽曲
2.4 協奏曲
2.5 室内楽曲
2.6 ピアノ曲
2.7 歌曲
3 受容
4 外部リンク

略歴
ロシア人ピアニストとしてはじめて世界的名声を博し、ロシア・ピアノ流派の祖となった。また、1862年にロシア最初の専門的な音楽教育機関であるサンクトペテルブルク音楽院を創設し、1859年にはロシア音楽教会を創設した。それまでオペラ中心であったロシアの音楽活動に交響曲や管弦楽などを持ち込ませるなど、ヨーロッパの音楽的伝統をロシアに根付かせるために計り知れぬ貢献をした。

弟のニコライも著名なピアニストである。ポーランド出身でアメリカで活躍した20世紀のピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインと血縁関係はない。

ルビンシテインは自身のピアノ演奏を録音に残さなかったものの、彼自身の肉声は蓄音機に録音されており、その現存するシリンダーレコードからは、親友のピョートル・チャイコフスキーの肉声も同時に聴くことが出来る。

作品
あらゆるジャンルに膨大な作品を残したが、今日では若干のピアノ曲と歌曲を除いてほとんど演奏される機会はない。ドイツ・ロマン主義的で保守的な作風は民族主義的作曲家グループロシア5人組と対立した。現在ではCD録音でリバイバルが進行中である。複数の出版社を渡り歩いたので、未だに全集を編纂する状態には至っていない。

歌劇(全20曲)
ドミトリー・ドンスコイ(1852)
フェラモルス(1862)
デーモン(1871)
ネロ(1875-76)

交響曲
第1番 ヘ長調 Op.40
第2番 ハ長調 Op.42「大洋」(1855)
第3番イ長調 Op.56
第4番 ニ短調 Op.95「劇的」
第5番ト短調 Op.107「ロシア的」(1880)
第6番 イ短調 Op.111(1886)

管弦楽曲
ゲーテによる音楽の肖像画Op.68
イワン雷帝Op.79(1869)
ドン・キホーテOp.87
英雄幻想曲Op.110(1884)

協奏曲
ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 Op.25(1850)
ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 Op.35(1851)
ピアノ協奏曲第3番 ト長調 Op.45(1853-54)
ヴァイオリン協奏曲 ト長調 op.46(1857)
ピアノ協奏曲第4番 ニ短調 Op.70(1864)
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op.94(1874)
ロシア奇想曲op.102
コンツェツトシュテュック変イ長調op.113(1889)

室内楽曲
チェロ・ソナタ第1番 ニ長調 op.18(1852)
ピアノ三重奏曲第3番 op.52(1857年)

ピアノ曲
オンディーヌop.1
ピアノソナタ(4曲)
2つのメロディ Op.3(1852)
第1番 「ヘ調のメロディー」
石の島(カーメンヌイ・オストロフ) Op.10(1853-54)
第22番 「天使の夢」
3つのカプリース Op.21
3つのセレナーデ Op.22
6つの練習曲 Op.23(1849-50)
第2番 「スタッカート・エチュード」
6つの前奏曲Op.24
2つの小品Op.30
ペテルブルクの夜会Op.44(1860)
性格的描写Op.50
ペテルホッフのアルバムOp.75(1866)
幻想曲ホ短調Op.77
諸民族の舞曲集Op.82(1868)
主題と変奏Op.88
雑曲集Op.93(1872-72)
着飾った舞踏会Op.103(1879)
音楽の夜会Op.109
ドレスデンの想い出Op.118
ポルカ ハ長調Op.121
3つの舟歌
ワルツ・カプリース 変ホ長調(1870)
ロシアのセレナード
ワルツ 変イ長調

歌曲
6つの歌op.8(1850)
6つの歌op.32(1856)
ミルザー・シャフィによる12の歌(ペルシャの歌)op.34(1854)
夜op.41-1a
12の二重唱曲op.48(1852)
5つの寓話op.64(1849-50)
6つの歌op.72(1864)
12の歌op.78(1868)
10の歌op.83(1869)
バラード(1891)
歌手

受容
20世紀前半、瞬く間に彼の作品は主要作品の絶版の為「完全に」忘れられた。このため21世紀に入っても本家直伝の作品解釈の継承は、今後演奏家が積極的に演奏に関っても恐らく不可能かと思われる。テンポ設定にMMを書くことを嫌った為、かなりテンポの増減の大きな感傷的演奏であったといわれるが、伝聞情報に過ぎず憶測の域を出ない。彼は、イタリア語表記に加えX分音符イコールのあとに何も書かれない珍しいMM指定を好とした。

ラリー・シツキーは全てのルビンシュタインのピアノ作品(及びピアノと管弦楽の為の作品)の収集に成功し、作品目録の完全版を作ることに成功した。グリーンウッド出版社から出版されており、詳細なリサーチが見られる。

ルビンシュタインのほぼ大部分のピアノ作品は、金澤攝によって日本初演済である。レスリー・ハワードやジョセフ・バノヴェツも質の高いCD録音を世に出している。

外部リンク
IMSLP - International Music Score Library Project 内のアントン・ルビンシテインのページ。無料で楽譜が入手可能。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%B3" より作成
カテゴリ: ロシアの作曲家 | ロマン派の作曲家 | ユダヤ人の作曲家 | ロシアのクラシック音楽のピアニスト | ユダヤ系ロシア人 | 1829年生 | 1894年没

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
11月28日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8828%E6%97%A5

できごと
1520年 - フェルディナンド・マゼランが太平洋に到達。

1883年 - 東京・麹町にイギリス人のコンドルが設計した
日本初の洋式社交クラブ鹿鳴館が開館。

1912年 - アルバニアがオスマン帝国から独立。

1924年 - 孫文が神戸で大アジア主義講演を行う。

1960年 - モーリタニアがフランスから独立。

1975年 - 東ティモールがポルトガルからの独立を宣言。

1983年 - 衆議院解散(田中判決解散)。

1991年 - 創価学会が日蓮正宗から破門される。

1994年 - ノルウェーのEU加盟が国民投票の結果、1972年に続き否決される。

1999年 - 東名高速飲酒運転事故が発生。

誕生日
1563年(永禄6年11月13日) - 細川忠興、小倉藩の初代藩主(+ 1646年)

1820年 - フリードリヒ・エンゲルス、経済学者(+ 1895年)

1829年 - アントン・ルービンシュタイン、ピアニスト、作曲家(+ 1894年)

1878年 - 寺田寅彦、物理学者(+ 1935年)

1881年 - シュテファン・ツヴァイク、小説家・評論家
(+ 1942年)*
1897年 - 宇野千代、小説家(+ 1996年)

1929年 - 向田邦子、小説家(+ 1981年)

1929年 - 上田誠也、地球物理学者

1929年 - 石原照夫、プロ野球選手(+ 2006年)

1935年 - 常陸宮正仁親王、皇族・昭和天皇の二男・今上天皇の弟

1936年 - 里見浩太朗、俳優

1940年 - 鴻池祥肇、自民党参議院議員

1941年 - 明石勇、元NHKアナウンサー

1944年 - 福井威夫、本田技研工業代表取締役社長

1945年 - 中曽根弘文、自民党参議院議員・中曽根康弘元首相の長男

1946年 - 二宮和弘、柔道家

1947年 - 渡辺篤史、俳優

1949年 - 名木田恵子、児童文学作家
1949年 - アレクサンダー・ゴドノフ、バレエダンサー・俳優(+ 1995年)
1950年 - エド・ハリス、俳優
1950年 - 与那城ジョージ、サッカー選手指導者
1950年 - 大口広司、ドラマー
1951年 - あべ静江、歌手・女優
1951年 - ロック岩崎(岩崎貴弘)、日本初のプロ・エアショーパイロット(+2005年)
1951年 - 青山一也、俳優
1953年 - 大貫妙子、ミュージシャン
1953年 - 松平健、俳優
1953年 - 八木茂、元プロ野球選手
1955年 - 馬淵史郎、明徳義塾高等学校野球部監督
1957年 - 松木安太郎、サッカー解説者
1957年 - 樋口泰行、実業家
1958年 - 新藤栄作、俳優
1958年 - 広岡瞬、元俳優
1959年 - 松原みき、シンガーソングライター(+ 2004年)
1959年 - 井上敏樹、脚本家
1960年 - ジョン・ガリアーノ、ファッションデザイナー
1961年 - 小木茂光、俳優
1961年 - 福田洋也、ギタリスト
1961年 - アルフォンソ・キュアロン、映画監督
1965年 - 風間ルミ、シュートボクサー
1965年 - 菊池均也、俳優
1965年 - 太田貴、元プロ野球選手
1966年 - 安田成美、女優
1966年 - 吉田剛、元プロ野球選手
1967年 - 原田知世、歌手・女優
1967年 - 蓮舫、民主党参議院議員
1967年 - アンナ・ニコル・スミス(+ 2007年)
1968年 - ken(ケン)、ギタリスト(L'Arc?en?Ciel)
1968年 - スコット・シェルドン、元プロ野球選手
1969年 - 堀内健、ネプチューン
1972年 - ホセ・パーラ、元プロ野球選手
1972年 - 名波浩、サッカー選手
1972年 - 松雪泰子、女優
1972年 - 赤城進、声優
1973年 - 奈須きのこ、小説家、シナリオライター
1975年 - 下田崇、サッカー選手
1975年 - バカリズム(升野英知)
1977年 - 施川ユウキ、漫画家
1978年 - 大森隆弘、卓球選手
1978年 - 長塚智広、競輪選手
1978年 - 八木早希、毎日放送アナウンサー
1978年 - 吉野サリー、AV女優・ストリッパー
1978年 - オーランド・ロマン、野球選手
1979年 - 林昌樹、プロ野球選手
1979年 - マイク・シュルツ、プロ野球選手
1981年 - 上園和明、サッカー選手
1982年 - 辻村明須香、プロゴルファー
1983年 - 折原みか、タレント
1984年 - 吉井小百合、スピードスケート選手
1987年 - 木下達生、プロ野球選手
1987年 - 的場勇人、騎手
1987年 - 蔦絵梨奈、タレント
1988年 - 宇治川麗菜、タレント
1991年 - 鈴木湧太、ジャニーズJr.
1991年 - 河北麻友子、子役
1994年 - 松原彩華、フィギュアスケート選手

忌日
740年(天平12年11月1日) - 藤原広嗣、奈良時代の廷臣

1170年 - オーウェン・グウィネズ、ウェールズ・グウィネズ君主(* 1100年以前)

1183年(寿永2年閏10月12日) - 妹尾兼康、平安時代の武将(* 1123年)

1456年(康正2年11月1日) - 馬加康胤、室町時代の武将(* 1398年?)

1585年 - エルナンド・フランコ、作曲家(* 1532年)

1680年 - ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、彫刻家・建築家・画家(* 1598年)

1694年(元禄7年10月12日) - 松尾芭蕉、俳諧師(* 1644年)

1794年 - フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン、
プロイセン王国の軍人(* 1730年)

1794年 - チェーザレ・ベッカリーア、法学者・経済学者(* 1738年)

1856年(安政3年11月1日) - 広瀬淡窓、儒学者・漢詩人(* 1782年)

1859年 - ワシントン・アーヴィング、小説家(* 1783年)

1884年 - 間部詮勝、元江戸幕府老中・鯖江藩主(* 1804年)

1914年 - ヴィルヘルム・ヒットルフ、物理学者・化学者(* 1824年)

1939年 - ジェームズ・ネイスミス、
バスケットボール考案者として知られる体育指導者(* 1861年)

1945年 - ドワイト・フィリー・デイヴィス、
第49代アメリカ合衆国陸軍長官(* 1879年)

1947年 - フィリップ・ルクレール、フランスの将軍(* 1902年)

1948年 - 井上篤太郎、
実業家・京王電気軌道(京王電鉄の前身)の実質的創業者(* 1859年)

1954年 - エンリコ・フェルミ、理論物理学者(* 1901年)

1956年 - 石川三四郎、社会運動家(* 1876年)

1960年 - 常ノ花寛市、大相撲第31代横綱(* 1896年)

1960年 - リチャード・ライト、小説家(* 1908年)

1962年 - ヴィルヘルミナ、元オランダ女王(* 1880年)

1966年 - 桂小文治、落語家(* 1893年)

1966年 - ヴィットリオ・ジャンニーニ、作曲家(* 1903年)

1967年 - レオン・ムバ、初代ガボン大統領(* 1902年)

1968年 - イーニッド・ブライトン、児童文学作家(* 1897年)

1970年 - 伊木寿一、歴史学者(* 1883年)

1972年 - ハヴァーガル・ブライアン、作曲家(* 1876年)

1975年 - 田中彰治、元自民党衆議院議員(* 1903年)

1985年 - 白洲次郎、吉田茂のブレーンとして知られる実業家(* 1902年)

1993年 - 水原明窗、切手収集家(* 1924年)

1994年 - ジェリー・ルービン、政治活動家(* 1938年)

1994年 - ジェフリー・ダーマー 、連続殺人犯(* 1960年)

1995年 - 横沢三郎、プロ野球監督・パシフィック・リーグ審判部長(* 1904年)

1999年 - 佐藤誠三郎、政治学者(* 1932年)

2002年 - 西村正夫、元プロ野球選手・プロ野球監督(* 1912年)

2004年 - 兼坂弘、自動車技術者・評論家(* 1923年)

2006年 - 小田切みき、女優(* 1930年)

記念日・年中行事
太平洋記念日
1520年11月28日に、ポルトガルの航海者フェルディナンド・マゼランが、
後にマゼラン海峡と命名される南米大陸南端の海峡を通過して
太平洋に出たことに由来。
マゼランは、その時「El Mare Pacificum(平穏な海)」と表現している。

税関記念日

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年11月29日(土曜日)

[ Myマップ ][ 病院の投稿地図 ]
[ Myマップ ][ 病院の投稿地図 ]

「ここをおして」をクリックされてください。

「ここをおして」をクリックされてください。は
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年11月29日(土曜日)

「6月」=「夏の始まり」です。
「6月」がおわり「7月」です。
「7月」もおわりました。
最後の夏月「8月」。
夏の「8月」もおわりました。

「9月」の「秋」になり。
「9月」がおわりました。
「10月」もおわりました。
「11月」です。
「秋」は「ほとんど」が終わりました。
あろ「1日」で「12月」。
「冬」です。
「あと32日たらず」で今年が終わります。

これからいよいよに。
深くふかまる「晩秋」から「冬」。
ふかまる「晩秋」をすぎれば。
そこは雪国の「冬」です。
もう「冬」。

もうすこしで。
「冬」を迎えようとしています。

「ふゆ」を「むかえよう」。
「くるとしつき」を「無我のうちにむかえよう」と。

自在に「うごける」「自然」こそは。
真(まこと)の幸せ者です。

「ひたひた」とさらに深まりゆく秋の。
「さくさく」と日々の足音は。

「とぼとぼ」と。
朝早くまだ暗い街中に聞こえるように遠ざかり。

そこには「冬」がいすわります。
「冬将軍」とはだれのことばか。
「冬将軍」のかけあしの音がきこえます。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(Johann Wolfgang von Goethe)
の「魔王」は。
「冬の夜」の情景を描写したものです。

早いです。
速いものです。
速いのか早いのか。
はやいのか。

けさ暗いうち
地をはうような「木枯らし」の
風がふきました。

山茶花と「木枯らし」は相性があまり。
よくないようです。
「或は」極めて相性がよいのか。
どちらかです。

暗い寒い朝に。
山茶花(さざんか)の花びらが。
弓に射られた白鷺の羽が舞っているようです。

ろうろうと鳴く。
こうろぎののなきごえ。

早朝から
遠くにきこえました。
冬のこうろぎ。

「ろうろう」(朗々)と鳴いていました。
さびさびとした。

宙を舞う前の
「むささび」の声のような。
「なきごえ」でした。

そのこえも「いっぴき」くらいでした。

今日の朝暗いうちに。
秋の暗闇の地面のうえから。

「早朝にこおろぎ」
が聞こえました。

不思議な「冬の虫」。
鳴き声は。

いつしか。
「こうろぎの一匹」だけになりました。

「こうろぎ」は。
早朝暗いうちになくものである
ことがわかります。

そして当然のように。
昼には鳴きません。
午後4:00ころからまたなきはじめます。
真っ暗になると鳴くかと思えば。
そうでもありません。
日の出と日の入りの前にこうろぎは鳴く。

ときには「こうろぎ達」が
モールス信号で話をしているかのごとくに
「みえました」。
秋に「ろうろう」と鳴き。
冬に「こうこう」と鳴き。
そして木枯らしの風音にかわりました。

これは絵に描ければ。

こうろぎは「絵」になります。
面白い情景であるような気が致します。

「こうろぎ」の虫たちの声の。
冬に「こうこう」と鳴き。
そして木枯らしの風音にかわりました。

その木枯らしの。
背景に流れる「通奏低音:
Generalbass;ゲネラル・バス」*
「冬のふゆかぜ」のこえは。
暗闇の「冬の足音」のように聞こえる。
暗い冬の日に。
「雪の降るまち」では。
「足音だけが遠ざかっていく」「足音」

「とぼとぼ」
にしだいに重複してきました。
冬のあさの「あしおと」と「冬」のよるあしおとの。
「フーガ」と「カノン」。
木枯らしはトッカータ。


-------------------------------

通奏低音(つうそうていおん)とは
バロック音楽において行われる演奏形態の一つです。
低音部の旋律とともに即興的な和音を付け加えて演奏する形態です。
イタリア語のバッソ・コンティヌオ(Basso continuo)

の訳語です。
伴奏楽器が間断なく演奏し続けるということからこの名があります。
略してコンティヌオと呼ぶことも多いです。
ドイツ語のゲネラルバスも使われることがあります。

-------------------------------

常緑の木々の深冬葉のいろ。
緑がますますあざやかに。
深まる秋におちついて。
考えるが如く
「ロダンの彫塑」の色合いです。

常緑の木々の葉は。
深緑(ふかみどり)になりました。
そして「冬」をむかえて。
「冬緑」のいろあいに
うつろいできました。
もう「緑をうつろいて」
黄赤色の葉もみえます。
枯れ葉でなければよいです。

冬の夜明(よあけ)の空から。
冬の陽がのぼり。
冬の日の「空色」になってきました。

けれども。
朝暗いうちはミルクのはいった
コバルトのような
カフエ・オレ・コバルトの空色です。
そして雲は天高く冬雲です。

あさの06:00AMころに。

東の空
ほのかにあかるく
まだくらくあおく
しだいに
雲多い空はラピズラズリからトルコ石
のようににうつろうように。
しらんできます。

その上空にさらに。
明らかなる大きな質量のある。
「深まる冬の気配」を感じます。

冬野路はた見たりビロードのしだ
冬わらべのごときビロードのしだ
冬わらびのごとく輝けりビロードのしだ
冬山奥にひそむビロードのしだ
冬しのぶの羊歯(しだ)ビロードのしだ
冬めずらしき羊歯ビロードのしだ
冬ときわの緑のほのほビロードのしだ
冬山奥のしだのビロードのしだ
冬「まち」にもいきるビロードのしだ
冬けなげなりもあはれなりビロードのしだ
冬生い立ちしらずビロードのしだ
冬されどそのちからこそとほとしビロードのしだ

冬いざいまこそは

冬よき季節にあらむ

冬ふと空をみる

今時にもかかわらず放射冷却で
朝はとても寒いが。
「ぬくもり」はある。

確実に日は短くなりました。
葉木(はき)の樹木は「木」にかわり。
秋の木から「冬の木」にうつろいさらに
「秋の木」から。
「冬の木」にうつろう時期
です。

外路樹の若葉は
緑濃くオリーブの葉のごとし
つみとりたくなる
ほどにきれいです。
けれどもひそやかに木々の葉にも
「深い秋からさらに深い冬」の気配がうつろいて。
うつります。

冬まちなみ蒼く(あおく)
冬いろどりて
冬木々の榛葉のかがやけり
冬暑さの夏秋をうつろひて
冬ふかまるみどりの冬木なり
冬しずまるみどりの冬木なり
冬みのりの冬こそありがたし
冬みのりの冬こそこひしかり
冬虫なきてささやけり
冬木々は榛葉にかがやけり

道端の野草もかわいらしい。
冬化粧をして。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は気温がさがり大気は不安定です。
「寒い」。
寒いと首都高の自動車も暗い中
「辛そうな運転の車」が多いです。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は祝日です。
けれどもこの日は「もともと「休診日」」
なのです。

平成20年3月20日(木曜日は
休日診療は行いません。
は終わりました

-------------------------------

平成20年
4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂きました。

5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。

7月21(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

++++++++++++++++++++++

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました
++++++++++++++++++++++

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

10月13日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

11月 3日(月曜日)
11月24日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

12月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。
梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼の青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝

「今日は何の日」は

ロッシーニやヴィンチェンツォ・ベッリーニと共に。
19世紀前半のイタリアを代表するオペラ作曲家として人気を博し。
いまや「忘れ去られた作曲家」。

1797年 - ガエターノ・ドニゼッティ、オペラ作曲家 (+ 1848年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

ガエターノ・ドニゼッティ(Gaetano Donizetti,
1797年11月29日 - 1848年4月8日)は。

イタリアのベルガモに生れ同地で没した
オペラの作曲家として有名です。

ロッシーニやヴィンチェンツォ・ベッリーニと共に。
19世紀前半のイタリアを代表するオペラ作曲家として
人気を博しました。

++++++++++++++++++++++

ガエターノ・ドニゼッティ:Gaetano Donizettiの生涯
1806年(9歳) -

サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の楽長を勤めていた
ヨハン・ジモン・マイールの慈善音楽院で学びました。

1815年(18歳)- マイールの尽力でボローニャ音楽院入学。
その後、法律家になる事を期待した父親の束縛を逃れる為に
軍隊に志願致しました。
兵籍のまま作曲を続けました。

++++++++++++++++++++++

ガエターノ・ドニゼッティ:Gaetano Donizettiは。
1830年(33歳) -
オペラ『アンナ・ボレーナ』を発表致しました。
大変な名声を博しました。

1839年(42歳) -
オペラ『ポリウト』をナポリで上演しようとしたが
検閲官に拒否され。

『殉教者』と改題しフランス語によりパリで初演
致しました。

1844年(47歳) - この頃から頭痛、神経性麻痺に見舞われ、
1848年に故郷ベルガモに戻り50歳と4ヶ月で没しました。

++++++++++++++++++++++

ガエターノ・ドニゼッティ:Gaetano Donizetti

作品
オペラ

オペラは70作品ほど作られました。

現在上演される作品はそれほど多くなく
初期作品は未だ日の目を見ないものもあります。

++++++++++++++++++++++

ガエターノ・ドニゼッティ:Gaetano Donizettiの。
ドニゼッティの兄について。

ガエターノの兄は。
ジュゼッペ(Giuseppe Donizetti,1788-1856)
といいます。

当初軍人としてオスマン帝国に駐在致しました。

その後軍楽隊の洋楽教師となりました。
後にオスマン帝国の事実上の国歌となった
マーチなどを作曲致しました。

その功によりパシャの称号を与えられています。

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++

ガエターノ・ドニゼッティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A8%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%8B%E3%82%BC%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3

ガエターノ・ドニゼッティ(Gaetano Donizetti, 1797年11月29日 - 1848年4月8日)はイタリアのベルガモに生れ同地で没したオペラの作曲家として有名である。ロッシーニやヴィンチェンツォ・ベッリーニと共に19世紀前半のイタリアを代表するオペラ作曲家として人気を博した。

1806年(9歳) - サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の楽長を勤めていたヨハン・ジモン・マイールの慈善音楽院で学ぶ。
1815年(18歳)- マイールの尽力でボローニャ音楽院入学。その後、法律家になる事を期待した父親の束縛を逃れる為に軍隊に志願。兵籍のまま作曲を続ける。
1830年(33歳) - オペラ『アンナ・ボレーナ』を発表し、名声を確立した。
1839年(42歳) - オペラ『ポリウト』をナポリで上演しようとしたが検閲官に拒否され、『殉教者』と改題しフランス語によりパリで初演。
1844年(47歳) - この頃から頭痛、神経性麻痺に見舞われ、1848年に故郷ベルガモに戻り50歳と4ヶ月で没する。

作品
オペラ

オペラは70作品ほど作られたが、現在上演される作品はそれほど多くなく初期作品は未だ日の目を見ないものもある。

ピグマリオン 1816年(習作,未上演)
アキレスの怒り 1817年(同上)
ブルゴーニュのエンリーコ 初演1818年ヴェネツィア
ばかげた行い 初演1818年ヴェネツィア(紛失)
ロシア大帝ピョートル 初演1819年ヴェネツィア
村の結婚式 初演1821?年マントヴァ
グラナダのゾライーダ 初演1822年ローマ
ジンガーラ(ジプシーの女) 初演1822年ローマ
匿名の手紙 初演1822年ナポリ
キアラとセラフィナ 初演1822年ミラノ
アルフレッド大王 初演1823年ナポリ
幸福な間違い 初演1823年ナポリ
当惑した家庭教師 初演1824年ローマ
リヴァプールのエミリア 初演1824年ナポリ
グラナダのアラホール 初演1826年パレルモ
エルヴィーダ 初演1826年ナポリ
ヴェルジーのガブリエッラ 1826年(未上演,38年改訂)
オリーヴォとパスクワーレ 初演1827年ローマ
2時間で8ヶ月 初演1827年ナポリ
サールダムの市長 初演1827年ナポリ
劇場の都合 初演1827年ナポリ
追放されたローマ人 初演1828年ナポリ
リヴァプールの隠れ家 初演1828年ナポリ(「リヴァプールのエミリア」改作)
ゴルコンダの女王アリーナ 初演1828年ジェノヴァ
カレのジャンニ 初演1828年ナポリ
パーリア 初演1829年ナポリ
カーニヴァルの木曜日 初演1829年ナポリ
ケニルウォース城のエリザベッタ 初演1829年ナポリ
気違いのふりをする人たち 初演1830年ナポリ
大洪水 初演1830年ナポリ(34年改訂)
ランベルタッツィのイメルダ 初演1830年
アンナ・ボレーナ 初演1830年12月ミラノ
劇場の好不都合 初演1831年ミラノ(「劇場の都合」改作)
パリのジャンニ 1831年(初演1838年ミラノ)
フォアのフランチェスカ 初演1831年ナポリ
女流小説家とどろぼう 初演1831年ナポリ
ファウスタ 初演1832年ナポリ
パリのウーゴ伯爵 初演1832年ミラノ
愛の妙薬 初演1832年5月ミラノ
カスティーリャのサンチャ 初演1832年ナポリ
サン・ドミンゴ島の狂人 初演1833年ローマ
パリジーナ 初演1833年フィレンツェ
トルクァート・タッソー 初演1833年ローマ
ルクレツィア・ボルジア 初演1833年12月ミラノ
イングランドのロスモンダ 初演1834年フィレンツェ
マリア・ストゥアルダ 1834年10月ナポリ(直前に上演禁止,初演35年12月ミラノ)
ブオンデルモンテ 初演1834年10月ナポリ(上の作品の代わりに上演)
ヴェルジーのジェンマ 初演1834年ミラノ
マリーノ・フェリエーロ 初演1835年3月パリ
ランメルモールのルチア 初演1835年9月ナポリ
ベリザーリオ 初演1836年2月ヴェネツィア
夜の呼び鈴 初演1836年6月ナポリ
ベトリー 初演1836年8月ナポリ
カレの包囲 初演1836年11月ナポリ
トロメイのピーア 初演1837年2月ヴェネツィア
ロベルト・デヴリュー 初演1837年10月ナポリ
ルデンツ家のマリア 初演1838年1月ヴェネツィア
ポリウト 作曲1838年、オリジナルでの初演は1848年11月ナポリ
連隊の娘 1839年作曲、初演1840年2月パリ
ニシドの天使 1839年(未完)
殉教者 初演1840年4月パリ(「ポリウト」改作)
ファヴォリータ 初演1840年12月パリ
アデリア 初演1841年2月ローマ
リータ 初演1841年5月パリ
マリア・パディッラ 初演1841年12月ミラノ
シャモニーのリンダ 初演1842年5月ウィーン
ドン・パスクヮーレ 作曲1842年、初演1843年1月パリ
ロアン家のマリア 初演1843年6月ウィーン
ドン・セバスティアン 初演1843年11月パリ
カテリーナ・コルナーロ 初演1844年1月ナポリ
その他

レクイエム(1837年作曲)…ベッリーニの追悼用に作曲。
弦楽四重奏曲19曲、協奏曲、シンフォニア、合唱曲などを多数残している。

ドニゼッティの兄について
ガエターノの兄ジュゼッペ(Giuseppe Donizetti,1788-1856)は、当初軍人としてオスマン帝国に駐在したが、その後軍楽隊の洋楽教師となった。後にオスマン帝国の事実上の国歌となったマーチなどを作曲し、その功によりパシャの称号を与えられた。

外部リンク
ガエターノ・ドニゼッティ作品表
IMSLP - International Music Score Library Project 内のガエターノ・ドニゼッティのページ。無料で楽譜が入手可能。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A8%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%8B%E3%82%BC%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3" より作成
カテゴリ: イタリアの作曲家 | オペラ作曲家 | 1797年生 | 1848年没表示本文 ノート 編集 履歴 個人用ツールログインまたはアカウント作成 ナビゲーション

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++

11月29日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8829%E6%97%A5

できごと
1875年 - 京都市に同志社英学校開学。

1890年 - 大日本帝国憲法施行。
これにより第1回帝国議会が開会。翌1891年3月7日まで。

1934年 - 日本初のアメリカン・フットボール試合を東京・明治神宮競技場で開催。

1944年 - ソ連軍によるアルバニアの全土解放が行なわれ、
アルバニアがイタリア軍からの独立を宣言。同日、
アルバニア共産党を中心とする社会主義臨時政府設立。

1947年 - 国連決議181号(パレスチナ分割決議)採択。

1960年 - ラジオ東京が「東京放送」に社名変更。略称も「KRT」から「TBS」に変更。

1973年 - 熊本市の大洋デパートで火災が発生。
死者104人、負傷者108人。デパート火災最大の惨事に。

1980年 - 川崎市で金属バット両親殺害事件発生。犯人は当時20歳の予備校生だった。

1985年 - 過激派による国電同時多発ゲリラ事件。
首都圏、大阪を初め各地で線路のケーブルが切断されダイヤが混乱。600万人に影響が出る。

1987年 - 大韓航空機爆破事件。

1990年 - 湾岸戦争で、国連が「対イラク武力行使容認決議」を採択。

1991年 - 営団地下鉄(現在の東京メトロ)南北線駒込駅-赤羽岩淵駅間が開業

2003年 - イラク日本人外交官射殺事件

誕生日
1624年(寛永元年10月19日) -
酒井忠清、江戸時代初期の譜代大名、老中、大老(+ 1681年)

1797年 - ガエターノ・ドニゼッティ、オペラ作曲家 (+ 1848年)

1803年 - ゴットフリート・ゼンパー、建築家 (+ 1879年)

1803年 - クリスチャン・ドップラー、物理学者(+ 1853年)

1815年(文化12年10月29日)- 井伊直弼、江戸幕府の大老・彦根藩主(+ 1860年)

1832年 - ルイーザ・メイ・オルコット、作家(+ 1888年)

1835年 - 西太后、清朝皇帝咸豊帝の妃で同治帝生母(+ 1908年)

1849年 - ジョン・アンブローズ・フレミング、物理学者(+ 1945年)

1856年 - テオバルト・フォン・ベトマン・ホールヴェク、
ドイツ宰相ならびにプロイセン首相(+ 1921年)

1876年 - ネリー・ロス、政治家(+ 1977年)

1881年 - ユリウス・ラープ、政治家、オーストリア首相 (+ 1964年)

1895年 - ウィリアム・タブマン、リベリア大統領 (+ 1971年)

1898年 - C・S・ルイス、作家 (+ 1963年)

1927年 - 長谷川慶太郎、経済評論家、国際エコノミスト

1927年 - 古田足日、児童文学作家・評論家

1930年 - 滝田裕介、俳優

1931年 - 勝新太郎、俳優(+ 1997年)

1932年 - ジャック・シラク、フランス大統領

1941年 - 林家ペー、コメディアン

1944年 - 大下剛史、元プロ野球選手

1947年 - 沢木耕太郎、作家

1948年 - 舛添要一、政治家
1950年 - リービ英雄、日本文学者、小説家
1951年 - 藤沢公也、元プロ野球選手
1952年 - ジョン・D・バロウ、天文学者、物理学者
1953年 - 小林麻美、歌手、女優、モデル
1954年 - 金原瑞人、法政大学教授、作家、翻訳家
1956年 - 定岡正二、元プロ野球選手・タレント
1960年 - ジル・ロマン、バレエダンサー
1962年 - 山下和彦、元プロ野球選手
1965年 - 尾崎豊、歌手(+ 1992年)
1966年 - 吉田修司、元プロ野球選手
1969年 - マリアノ・リベラ、アメリカのプロ野球選手
1969年 - ケイシー・ケラー、サッカー選手
1969年 - ピエール・ファン・ホーイドンク、サッカー選手
1969年 - ジョン・レイフィールド、プロレスラー
1970年 - マーク・ペンブリッジ、サッカー選手
1972年 - 荻原秀樹、声優
1973年 - ライアン・ギグス、サッカー選手
1973年 - ディック・ファン・ブリク、サッカー選手
1975年 - 礒恒之、元プロ野球選手
1976年 - 小笠原孝、プロ野球選手
1978年 - アレッサンドロ・フェイ、バレーボール選手
1978年 - アンドリー・ボロヴェイ、サッカー選手
1979年 - ミヒャエル・ラメイ、サッカー選手
1981年 - スレイマン・ユラ、サッカー選手
1982年 - ジョン・メンサー、サッカー選手
1983年 - 内藤雄太、プロ野球選手
1985年 - 田口淳之介、KAT-TUN
1985年 - 佐藤弘祐、プロ野球選手
1991年 - 山下拓海、ジャニーズJr.、M.A.D.のメンバー
1993年 - 北原沙弥香、ハロプロエッグ
生年不明 - 桜野みねね、漫画家
生年不明 - 愛本みずほ、漫画家
生年不明 - 福間未紗、シンガーソングライター

忌日
1268年 - クレメンス4世、ローマ教皇

1314年 - フィリップ4世、フランス王

1530年 - トマス・ウォルゼー、枢機卿、ヘンリー8世の相談役

1643年 - クラウディオ・モンテヴェルディ、作曲家(* 1567年)

1780年 - マリア・テレジア、オーストリア女帝(* 1717年)

1924年 - ジャコモ・プッチーニ、作曲家(* 1858年)

1957年 - エーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルト、作曲家(* 1897年)

1957年 - 徳川武定、松戸徳川家の初代当主(* 1888年)

1971年 - ハインツ・ティーセン、作曲家(* 1887年)

1974年 - 彭徳懐、中華人民共和国の政治家(* 1898年)

1975年 - グラハム・ヒル、F1レーサー(+ 1929年)

1992年 - エミリオ・プッチ、ファッションデザイナー(* 1914年)

1988年 - 福田昌久、元プロ野球選手(* 1934年)

1999年 - 岩本薫、棋士(* 1902年)

2001年 - ジョージ・ハリスン、ミュージシャン 元 ビートルズのメンバー(* 1943年)

2001年 - 水谷則博、元プロ野球選手(* 1950年)

2002年 - 家永三郎、歴史学者(* 1913年)

2006年 - 実相寺昭雄、映画監督(* 1937年)

2006年 - レオン・ニェムチック、俳優(* 1923年)

記念日・年中行事
議会開設記念日(日本)
1890年11月29日に、初の帝国議会が開かれたことに由来。

いい服の日

いい肉の日
宮崎県のより良き宮崎牛作り対策協議会が
味と品質の良さで知られる宮崎牛をアピールするために制定

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年11月30日(日曜日)

[ Myマップ ][ 病院の投稿地図 ]
[ Myマップ ][ 病院の投稿地図 ]

「ここをおして」をクリックされてください。は
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年11月30日(日曜日)

冬間近。
「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」の。
花の蕾が淡い黄金色の
が見えてから「10日間」で。
花は去りました。
黄金色のじゅうたんが毛氈(もうせん)ように。
地面「金色」に広がりました。

「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」に続いて。
「銀木犀:きんもくせい」もプラチナ色の
花が咲き始めました。

「金木犀:きんもくせい」のあとを追って。
「銀木犀:きんもくせい」の花は去り。
地面に「プラチナ」が一面に広がっていました。

今は私の「大好き」な。
「やぶつばき」と「山茶花(さざんか)」
の「とき」です。

山本クリニックの庭園には。
「野生」の。
山茶花(さざんか)や「やぶつばき」が
沢山群生してはえています。

日々の毎日にどんどんと。
みるみると。

山茶花(さざんか)や「やぶつばき」が。
つぼみを大きくしています。

山茶花(さざんか)の八重咲き白山茶花(さざんか)
は木枯らしに弓射られて暗い闇夜の中花は舞い。

早朝には「白鷺の羽」
のように地面に
舞い降りています。

「木犀:もくせい」の花の
「芳香」は蕾のみえるまえから
あります。
花が去ったあとは
「あっというまに芳香が消えます」。

「木犀:もくせい」たちのかおりがされば。
今度はいよいよ。

つぼみを日々
大きくしている。

山茶花(さざんか)や「やぶつばき」が
出番になります。

みまもるのは「みかんの木」の「丸いみかん」。

私は山茶花(さざんか)よりも
「やぶつばき」がすきです。

いずれも野生の「やぶつばき」と
「山茶花(さざんか)」です。

堂々たる。
木枯らしの吹く。
「11月」の「晩秋」になりました。
あっというまに。
「10月の「中秋」もすぎさりました。

もう既に「11月も今日でおわり」。

あるいは。
「晩秋」を通り越して。
「もっと奥の深い秋あるいは冬のてまえ」
を歩んでいるのかもしれません。

「晩秋」のトンネルをこえれば。

そこは「雪国の冬」

です。

きょうは。
とても寒い。
「木枯らし」が吹いていました。

最近は
朝くらい早朝には「星がみえます」。
「明けの明星」の金星が南の空に高くみえます。

病院の明かりが灯り暗闇のなか。
朝はやく。

「明けの明星」の金星に「おはよう」を
毎日こえで「御挨拶」を伝えます。
「明けの明星」の金星から「おはよう」と
返事がかえってくる声をききながら。
病院の明かりをともします。

夏場の早朝のくらい時には。
明星はみえずらかった。
季節が「冬へとあゆみ」。
いよいよ。
大気が「澄んできた」ということでしょう。

冬霧雨(ふゆきりさめ)の。
冬秋霞(ふゆかすみ)の大気。

こおろぎの「なきごえ」はいつしか。
「合唱」から「独唱」になりました。
「ろうろう」と鳴いていました。
そしてもはや「こうろぎ」の「ろうろう」は
木枯らしの「音」にかわっています。

朝暗く寒いいうちの「木枯らし」の合唱は。

「初冬」の「ふうりん」のごとし。
あれ沢山の「ふうりん」かな。
と思われる音色です。

「ろうろう」。
さびさびと「さむき音」です。

「ススキの穂先」は
「そぞろに「深い晩秋・初冬」の旅愁」すら
をも感じさせます。

「ススキの穂先」には「ふくろう」が
何匹も集ってつどい。
何匹ものふくろうが。
何かを考えているようにみえます。

「雨」にぬれれば「ススキの穂先」は。
「しあわせと幸福を手招き」している
何本もの「手」のように。
みえます。

私も「日々を旅ゆく人間」です。

奥の細道の序文に松尾芭蕉が。

「月日は百代の過客(ひゃくたいのかかく)
にして行かふ年も又旅人也。」

「つきはひゃくたいのかかくにして
いきかふとしもまたたひひとなり」

とかたり。詠みました。

私は

「日々の月日」を道連れにして。

「時」を旅をするひとりの旅人(たびびと)」

です。

だから「日々月日の旅のつれあい」は。

「きょう」と「あす」しか。

いません。

「きょう」と「あす」しか。

私にはありません。

朝くらいとき。
陽の出の直後は。
いつも一瞬は晴れています。
いまだ かすかにも。
のこる「初冬」の気配
もあるけれども。

あきらかに。
そしてしっかりと。
しのびよるもっともっと奥の。
深く深まる冬からの大気。

「ふかまる冬」の気配が。
「確かに」。
そして明らかに。
そして輪郭はっきりと。

感じられるようになりました。

「11月」になりました。
今年平成20年(2008年)も。
「あと30日たらず」でおわります。

はやいものです。
速いものです。
早いものです。

街路樹もそうそうたる
羽振りの木々から
「ふかまりゆく冬の樹木」にうつろうように
変化しています。

「冬」にも「樹木の若葉の芽生え」があることに
気がつきました。

春の芽吹くときには。
街路樹のポプラも
幹や枝葉の穂先が。
ろうそくのともしびのように。
「炎の様」になっていました。
あたかも
ゴッホの描いた「夜の糸杉」のように。
春の早朝はみえました。

夏になり。
この「穂先」が一気に「ポプラの葉」へと
扇・おおぎのごとく開きました。

フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「夜の糸杉」から。
フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「ひまわり」
のように。
一斉に開きました。
8月にはいってからのことです。

10月そして11月。
今現在は落ち着いた「秋冬」の葉木。
「冬」の木々の「葉」
へと。
「みのりの冬」にむけて。
「あつく」うつろいています。

ポプラも。つばきもくすのきも。
「中秋」には「中秋の若葉」が。
ハンカチをふるように
「秋のわかば」の「めばえ」がみえます。

そして「冬がくると」。
空と木枯らしのかなでる「蛍の光」や
「ラフマニノフのコンチエルト」にあわせて。

ポプラの葉や芽葉は。
ハンカチのようにふわふわと。
ふわふわと。
「穂先から葉葉」は「舞い振りまがら」
木を去っていきます。

樹木のハンカチは。
大地を訪ねて飛翔し。
大地にまいおり大地にもどります。
そして大地になります。

木々の「葉」が「枝や幹」を
「保護する役割をしている」
ことに気づきました。

4月の桜の花の時期とうってかわり
桜の木の公園
の桜の木々が。
夏になりとても獰猛な気配を放つ。
初めて気がついた・。

けれども今は「おせどにこおろぎのなく」
「深い冬」。

冬の濃い緑の葉になり。
やさしさとおだやかさ
が感じられます。

そしていつしか
幹先に黄色い葉もまじるようになった。
しだいにしだいに。
紅黄色の葉がふえているのに
きがつきます。
さくらからさくらはのきえるころ
です。

紅葉。

桜の樹木も「丸くなりました」。
桜の樹木も毎年まいとし。
「旅(たび)をしている」のでしょう。

朝陽をあびる落葉樹は「すべてが黄金色」に
かがやき。
朝陽をしっかりと。
「絵になるように」受け止めています。

春は別として。
桜の木は木の下で。
夏は心安らかに。
「休める木ではないなあ」
と思います。

秋になり
桜の樹木も安堵の葉色
になりました。
ちょっとばかりびっくり致しました。

枝や幹からは秋の陽の木漏れ日がみえます。

夏桜の木は獰猛なほど葉をおいしげらせ
ていました。
夏には
桜の木の下で木陰で。心安らかにやすもうという
気はおきません。

いまは晩秋になりました。
そよかぜに揺れる葉は
招き誘われるような気すら致します。

冬になり幹にはもう「春の芽栄え(めばえ)」
がみえます。

やはり夏桜の木は
シューベルトの歌曲の旋律にある「菩提樹」
ではないのです。

冬になり
人生に果てて(はてて)
なれるが如く桜樹木はかわりました。
良い木になってきました。
素敵(すてき)です。
冬の桜木(さくらぎ)。

木々でも。
いちょうや。松や。杉などの針葉樹
は。またソテツなどは。
「古い時代の木」です。

「チャールズ・ダーウィンの進化論」からは
「針葉樹」から。
「常緑樹」「広葉樹」「落葉樹」にと。
「進化」しているはずです。

「原始的」な樹木ほど。
「硬い幹」です。
例外はありません。

硬ければ。
幹は硬ければ動物に
「かじられる」ことはないでしょう。

いにしえの古代の時代にも。

恐竜をはじめめとする
「大型」の草食動物にも。

かたければかじられることは
なかったでしょう。

街並みを彩る街路樹には「落葉植物」が多いです。

ふと。考える。

街路樹が「松や杉」のように。
「冬も葉を持つ針葉の常緑樹」では。

冬はうっそうとして道端では
やさしい暖かな陽射しをかくしてしまう。

夏場は枝ぶり葉っぱぶりからつよすぎる日の光は
さえぎれません。
そして
「秋」の「夕焼け陽」には。
「金色のちいさき鳥の形して」
秋の夕焼けの陽射しに舞うこともできません。

常緑樹の針葉樹では。
は四季のリズムをつたえる

北大路魯山人のいう

「ざっくり感(ざっくりかん)」

のリズムヤハーモニー或は旋律が
ありません。

木々の夏の萌黄が早朝暗い中でも
うかびあがります。
私はくすのきが「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
モミジもすきです。
カエデもすきです。
松や杉もすきです。
月桂樹やシナモンもすきです。
オリーブもすきです。
オレンジの木もすきです。
「そてつ」の木もすきです。
ツバキもすきです。
木や植物がすきです。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな秋の萌黄色です。
まるで大きな深い山の森のうねりのようです。
今年は木々のわかばの秋のめばえが非常に鮮か
です。
木々は「夏樹」の役目をおわりました。
「秋木」とかわろうとしています。
「秋木」とかわりました。
そして
さらに
「冬木」へとかわろうとしています。

街角の雑草も花は咲き終わり。
盛夏の姿となりそして秋を迎える。
「ほとけの座」や「はこべ」が
「かたばみ」や「いたどり」が
ますます姿を大きくして。
そして「すすき」もくおわりました。

夏草から秋草へ。
そして秋草へのたたずまいをしています。
そしてもうすっかり秋冬草へと黄金色に転した
街角には雑草もあります。
こがねいろ。

雑草も。
同じく花をさかせ自ら種をとばし
夏葉がみえる。
そして秋を迎える。
冬が来て。木枯らしに吹かれ。
雪をかむり。そして。
春がくる。

ツツジは潅木。
ツツジの花の葉の優しさには
あらためてびっくりしました。
黄緑・草色のビロードです。

のぞきこむと若葉はまだ沢山ある。
何故か得をしたように思えました。

そして雨にうたれてそのまま地に落ちた
ツツジの若葉は幾何学的に裏側を下にむけて
逆さじょうごのように
落下していることに気がつきました。
まるで
「若草色」のキノコが沢山はえているようです。

木から落ちても。
まだ「若葉」です。ふと。
ヴェルディの「椿姫」「La Traviata」
の「つばき」を思い出しました。

1852年パリに滞在したヴェルディは
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)
の戯曲版『椿姫』の上演を見て感激し
ました。
そのころ新作の作曲依頼を受けていた
ヴェネツィアのフェニーチェ劇場のために。
翌1853年初めに比較的短時間で作曲された
『椿姫 』(La Dame aux camelias、1848年出版)
は。
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が
実際の体験を基にして書いた長編小説。
主人公のモデルはかつて作者が交際をしていた
マリー・デュプレシという高級娼婦。
恋人アルマンのイニシャルである
『AD』は
小デュマのイニシャルと同じです。

この作品は人々に愛されて幾度も舞台、映画化され
続けてきました。

朝暗いうちは。
もう。
はださむいような気が致します。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

山本クリニックには。
検見川の落合遺跡の遺跡発掘の際に
みつかった「古代のハスの種子」から

2000年ぶりに発芽したことで有名な。
「古代蓮(ハス)」があります*。
【大賀ハス:おおがはす】です。
「有名な古代ハス」です。
とても勇壮なハスで。
花のいろはとてもあまりにも美しく。
たとえ様もありません。
ハスの花がさき。
「「蓮(ハス)」の実」になりました。
「はすの実」も「はす」の葉も。
2mくらい水面から高いところに
あります。

睡蓮(すいれん)があります。
睡蓮(すいれん)は「葉」が水に浮び。
はのきれこみは羊の足のようです。
睡蓮(すいれん)を「ひつじぐさ」とは
なるほどと考える。
睡蓮(すいれん)の茎の長さには
おどろかされます。

「姫睡蓮(ひめすいれん)」でさえも。
池はばが長ければ四方八方に「水の中の枝」。

「モネ」の描いた睡蓮(すいれん)の
「水の中の枝」は「どれほど長いのだろう」。

睡蓮(すいれん)も「太古の時代」に
陸の動物に「かじられないように」
水中に「逃げ込んだ」のでしょう。

-------------------------------

大賀ハス(オオガハス、おおがはす)とは。
1951年(昭和26年)、千葉県千葉市検見川
(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある
東京大学検見川厚生農場
(現・東京大学検見川総合運動場)の
落合遺跡で発掘された
今から2000年以上前の古代のハスの実から
発芽・開花したハス(古代ハス)のことです。

戦時中に東京都は燃料不足を補うために
花見川下流の湿地帯に豊富な草炭が埋蔵されていた
「草炭」を採掘していました。

採掘は戦後も継続して行われていました。
1947年(昭和22年)7月28日に作業員が採掘現場でたまたま
1隻の丸木舟と6本の櫂を掘り出しました。

その調査によりもう2隻の丸木舟と
ハスの果托などが発掘されました。

「縄文時代の船だまり」であったと推測され落合遺跡と呼ばれました。

植物学者でハスの権威者でもある大賀一郎博士
(当時・関東学院大学非常勤講師)が
発掘品の中にハスの果托があることを知り。
1951年(昭和26年)3月ボランティアの協力を得てこの遺跡の発掘調査を行いました。
翌日で打ち切りという30日の夕刻になって花園中学校の女子生徒により
地下約6mの泥炭層からハスの実1粒が発掘され予定を延長し
4月6日に2粒、計3粒のハスの実が発掘されました。

大賀博士は5月上旬から発掘された
3粒のハスの実の発芽育成を試みるも2粒は失敗に終わりました。
だが1951年3月30日に出土した1粒が育成に成功致しました。

翌年の1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪を咲かせました。
このニュースは国内外に報道されて多いな「驚愕」を与えました。
同年11月17日付米国ライフ誌に「世界最古の花・生命の復活」
として掲載され博士の姓を採って「大賀ハス」と命名されました。

シカゴ大学のリピー博士らによって放射性炭素年代測定が行われました。
ハスの実は今から2000年前の弥生時代以前のものであると推定された。

この古代ハスは、
1954年(昭和29年)6月8日に「検見川の大賀蓮」として
千葉県の天然記念物に指定されました。
また1993年(平成5年)4月29日には千葉市の花として制定され、
現在日本各地は元より世界各国へ根分けされ、
友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っています。

-------------------------------

ふと「パンの神」を思い出しました。
(「牧神パン(Pan)」=「Pan」=「パン」=
「飯(はん)」=「全般の般」=「パンアメリカンのパン」=

「パン」「pan」は「すべて」という意味の
古代ギリシャ語そして「サンスクリット」も同じ。

古典ギリシア語 Παν、Pan「パンの神」は。
幼少時からゼウスから他の神々全て*に好かれたので
(古代ギリシャ語でTheophilusテオフイルス/ラテン語では
amadeus アマデウス**)
「パン」と名づけられました。

「頭は人間で胴体は山羊」です。

「テュホン:テューホーン:Τυφών: Typhon」
ギリシア神話に登場する魔神***。
に追いかけられ
あわてて身を守るため川に飛び込み「頭は人間で胴体は人魚」
に変身したために。

「パニック」=「panic:パン的」
という言葉が生まれました。

星座に「山羊座」という星座があります。

山羊座は不思議ですが
「あわてて身を守るため川に飛び込み
「頭は人間で胴体は人魚」」
に変身した「パンの神」を示しています。
山羊ではありません。

むしろ正確には人魚です。

だから。
「山羊座」という「意味」はわかります。
けれども「命名」の観点から。
「山羊座」というのはかなり「妙」な気が致します。
「人魚座」というのが正しい。


名称「パンの神」の由来は「ギリシャ神話」でも
非常に多くの「言い伝え」がいくつがあります。
その「言い伝えの数」に正比例して「混乱」があります。

**
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの
「アマデウス」とは「パンの神」のことです。

***
「テュホン:テューホーン:Τυφών: Typhon」は
「台風:たいふう」と日本語では名前を変えています。

****
タイフーン級原子力潜水艦は
旧ソ連・ロシアの941型(プロジェクト941)
戦略ミサイル搭載原子力潜水艦のことです。
タイフーンはそれに付けられたNATOコードネームですが
この名称は日本の「台風」とは「直接関係」はありません。

日曜の

朝晴れて

はじめて気づく

にわの小ささ

にちようの

あさはれて

はじめてきづく

にわのちいささ

朝晴れて

にわの小さき

気づかぬときは

病(やまい)なりけり

日曜の朝

あさはれて

にわのちいさき

きづかぬときは

やまいなりけり

にちようのあさ

休診日ですが。
早朝に朝まだ暗いうちから
首都高を走って病院に到着致します。

空はきらきらのラピス・ラズリの
紺碧のジュースから
ミルク色のはいった
トルコ石の「プリン」に変わるように変化
していきます。

遠くにぽかぽか浮ぶ「雲々」は
トルコ石の「プリン」の上の「クリーム」の
ようです。
にわのあじさいは「アイスクリーム」
のようです。

冬きらきらラピス・ラズリの空(そら)
冬紺碧のカクテルいろの空(そら)
冬ミルクをそそそいだ空(そら)
冬トルコいしのプリンの空(そら)
冬はるかにとほくたかい空(そら)
冬ほかほか浮ぶ雲々(くもぐも)そら
冬プリンの上のクリームのような空(そら)
冬睡蓮(すいれん)の水面に空(そら)
冬睡蓮(すいれん)のうえに空(そら)
冬空(そら)の向こうにまた空(そら)
冬そのまたむこうにももっと空(そら)

春のうららのこもれびに
緑木いらかをかぜはやみ
青風ひるむやうつろひの
四季のつきひははやいくとせ

夏のうららのこもれびに
緑木いらかのつねなりて
赤き空(そら)にて炎えたたむ
四季のつきひははやいくとせ

秋のうららのこもれびに
緑木いらかにかぜさやか
秋風かたれるやすらきの
四季のつきひははやいくとせ

冬のうららのこもれびに
緑木いらかにかぜつよし
冬風弓(ゆみ)射る木枯らしに
四季のつきひははやいくとせ

秋冬椎木(しいのき)は枝高し
秋冬そらに吼える若葉の穂束
秋冬そらに吼える蒼き獅子のごとし
秋冬天にも地にもみどりはさける
秋冬のあさふかまりて
秋冬陽の光ゆたかなりけり
秋冬いふことのなし
秋冬いふことがなし
秋冬いふことはなし
秋冬いふこともなし
秋冬ゆたかなるかな秋冬

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない場合
に限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

平成20年

4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂き。5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。
-------------------------------

7月21日(月曜日)は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
-------------------------------

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

10月13日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

11月 3日(月曜日)は。
11月24日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------

12月23日(火曜日)は祝祭日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。
-------------------------------

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。
「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は。

音楽家の特性として「ある時代」いかに
有名著明であり。天才であり。
すぐれた音楽家であっても。
「わすれさられる」かたは多いものです。
このような音楽家の「お一人」。

今現在は知るかたも少ないが。
当時は「大音楽家として極めて高名」であり。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの音楽の「師」
でもあった。

1753年 - ヨハン・バプティスト・シェンク、作曲家(+ 1836年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

ヨハン・バプティスト・シェンク
(Johann Baptist Schenk
1753年11月30日 - 1836年12月29日)は。

オーストリアの作曲家です。
現在では楽聖ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの
師として知られている程度
なのです。

生前は極めて高名なそして成功した
音楽家であったのです。

++++++++++++++++++++++

ヨハン・バプティスト・シェンクの。
生涯
ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイルに師事致しました。

1785年 オペラの作曲家として独立致しました。

1793年 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに
数ヶ月間対位法を教えました。

++++++++++++++++++++++

ヨハン・バプティスト・シェンクの。
有名な逸話ですが。

故郷ボンを離れウィーンへ留学にきた
青年ベートーヴェンはフランツ・ヨセフ・ハイドン
に作曲を師事致しました。

しかしあまりに初歩的な教育に
嫌気のさしたハイドンはこれにまじめにとりあわず、
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
は大いに不満を抱いていました。

ここでベートーヴェンが考え付いたのが、
ハイドンには内緒で。

当時ウィーンで売れっ子であったヨハン・バプティスト・シェンク
に師事するという選択であったのです。

++++++++++++++++++++++

ヨハン・バプティスト・シェンクから教育を
受けた。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの。
実際の作曲技法の最も基礎的な部分は
シェンクの下で磨かれました。

なおハイドンがウィーンを離れてからはもはや
シェンクに師事する必要が無くなりました。

ベートーヴェンは堂々と当時高名な音楽家であった
アルブレヒツベルガーに乗り換えました。
作曲家としてさらに大きく飛躍することとなりまた。

++++++++++++++++++++++

ヨハン・バプティスト・シェンクの。

作品
オペラ「村の床屋」(シェンクの大ヒット作)
10曲の交響曲
4曲のハープ協奏曲
5曲の弦楽四重奏曲
ほか。

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++

ヨハン・バプティスト・シェンク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%AF

ヨハン・バプティスト・シェンク(Johann Baptist Schenk 1753年11月30日 - 1836年12月29日)は、オーストリアの作曲家である。現在ではベートーヴェンの師として知られている程度だが、生前は高名な音楽家であった。

生涯
ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイルに師事。
1785年 オペラの作曲家として独立。
1793年 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに数ヶ月間対位法を教える。

作品
オペラ「村の床屋」(シェンクの大ヒット作)
10曲の交響曲
4曲のハープ協奏曲
5曲の弦楽四重奏曲
ほか。

有名な逸話
故郷ボンを離れウィーンへ留学にきた青年ベートーヴェンは、ハイドンに作曲を師事した。しかし、あまりに初歩的な教育に嫌気のさしたハイドンはこれにまじめにとりあわず、ベートーヴェンは大いに不満を抱いていた。 ここでベートーヴェンが考え付いたのが、ハイドンには内緒で当時ウィーンで売れっ子だったシェンクに師事するという選択であった。ベートーヴェンの実際の作曲技法の最も基礎的な部分はシェンクの下で磨かれた。 なお、ハイドンがウィーンを離れてからはもはやシェンクに師事する必要が無くなり、ベートーヴェンは堂々と当時高名な音楽家であったアルブレヒツベルガーに乗り換え、作曲家としてさらに大きく飛躍することとなった。

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
11月30日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8830%E6%97%A5

できごと
1853年 - アナトリア半島の黒海沿岸に位置する
オスマン帝国の軍港シノープをロシア黒海艦隊が奇襲し、
停泊中のオスマン艦隊もろとも港湾施設から市街地まで徹底的に破壊。
これ機にイギリス・フランスはクリミア戦争へ参戦。

1920年 - 京都赤旗事件

1936年 - 水晶宮(1851年の第1回万国博覧会の会場として建てられ、
万博終了後ロンドン南郊シドナムに移築)焼失。

1939年 - ソビエト連邦軍がフィンランドに侵攻、冬戦争勃発。

1942年 - 横浜港ドイツ軍艦爆発事件

1966年 - バルバドスがイギリスから独立。

1982年 - マーガレット・サッチャー首相公邸に封筒爆弾が届く。

1993年 - オランダで、世界初の安楽死を認める法律(改正埋葬法)が成立。

1995年 - 全日本空輸からロッキードL-1011 トライスター型機が全機引退
(最終便は鹿児島−羽田線)。

1997年 - 女性歌手グループモーニング娘。
(当時のメンバーは、中澤裕子、石黒彩、飯田圭織、安倍なつみ、福田明日香の5名)が、
5日間でCD5万枚完売の課題を達成し、メジャーデビュー決定

2002年 - 特急「はつかり」・「スーパーはつかり」・寝台特急(いわゆるブルートレイン)
「はくつる」、急行「陸中」、快速「海峡」廃止(前者3列車については
、翌日、東北新幹線が八戸駅まで延伸されたため)

2003年 - JR西日本可部線の可部駅〜三段峡駅間が廃止

2004年 - プロ野球・大阪近鉄バファローズが球団解散(オリックス・バファローズに統合)

2007年 - 衛星アナログハイビジョンテレビの放送が終了(停波)。

2008年 - 初代新幹線0系が運用を終了。

誕生日
1554年 - フィリップ・シドニー、詩人(+ 1586年)

1602年(ユリウス暦11月20日)- オットー・フォン・ゲーリケ、科学者(+ 1686年)

1667年 - ジョナサン・スウィフト、小説家(+ 1745年)

1753年 - ヨハン・バプティスト・シェンク、作曲家(+ 1836年)

1835年 - マーク・トウェイン、作家(+ 1910年)

1863年 - アンドレス・ボニファシオ、フィリピンの革命家

1874年 - ウィンストン・チャーチル、イギリス首相(+ 1965年)

1874年 - L・M・モンゴメリ、作家(+ 1942年)

1875年 - 長谷川如是閑、ジャーナリスト(+ 1969年)

1893年 - 満宮輝仁親王、皇族(+ 1894年)

1906年 - ジョン・ディクスン・カー、推理作家(+ 1977年)

1912年 - 玉ノ海梅吉、大相撲力士(+ 1988年)

1918年 - 田川豊、元プロ野球選手(+ 1981年)

1925年 - 林家三平、落語家(+ 1980年)

1927年 - 山田敬蔵、マラソン選手・元世界記録保持者

1928年 - 土井たか子、政治家

1928年 - 小宮隆太郎、経済学者

1929年 - 三木谷良一、経済学者

1937年 - リドリー・スコット、映画監督

1937年 - 千々松幸子、声優

1938年 - 亀石征一郎、俳優

1940年 - 井上真樹夫、声優

1940年 - 安蘇谷正彦、神道学者

1945年 - ロジャー・グローヴァー、ミュージシャン

1945年 - ラドゥ・ルプー、ピアニスト

1949年 - 鹿島茂、フランス文学者

1951年 - 陣内誠、アナウンサー
1954年 - 神田紫、講談師
1957年 - 田口トモロヲ、俳優・声優
1958年 - 杉浦日向子、漫画家・江戸風俗研究家(+ 2005年)
1960年 - ゲーリー・リネカー、サッカー選手
1961年 - 相島一之、俳優
1962年 - 戸崎貴広、アナウンサー
1964年 - 獣神サンダー・ライガー、プロレスラー
1965年 - 秋篠宮文仁親王、皇族、天皇家の二男
1966年 - デビッド・バーコフ、競泳選手
1967年 - 水谷加奈、文化放送アナウンサー
1968年 - ウチダトモヒロ、作曲家
1968年 - 松本梨香、声優
1970年 - 小林宏、野球選手・実業家
1970年 - サンドラ・オー、女優
1971年 - イバン・ロドリゲス、野球選手
1971年 - 高井美穂、政治家
1972年 - 四位洋文、騎手
1973年 - ジェイソン・リソ、プロレスラー
1975年 - 束芋、現代美術家
1976年 - クレイグ・ウィルソン、野球選手
1977年 - 斉藤和巳、野球選手
1977年 - 高勢祥子、俳人
1978年 - ガエル・ガルシア・ベルナル、俳優
1978年 - 鎌倉千秋、アナウンサー
1978年 - 鎌田祐哉、プロ野球選手
1979年 - 小名川高弘、ミュージシャン(CHARCOAL FILTER)
1979年 - クリス・アトキンソン、ラリー・ドライバー
1980年 - 金城毅士、ミュージシャン(THE GRANDWAZOO)
1982年 - 志村由美、声優
1983年 - 武田博行、サッカー選手
1983年 - ニコラス・コール、フィギュアスケート選手
1984年 - 谷本安衣、女優
1985年 - 宮﨑あおい、女優
1985年 - 内田暁子、女子バレーボール選手(NECレッドロケッツ)
1985年 - 満島ひかり、タレント
1988年 - 井上優里菜、アイドル
1988年 - 園田清次、サッカー選手
1990年 - 絵梨華、アイドル
1993年 - 知念侑李、歌手、俳優、Hey! Say! JUMPのメンバー
生年不明 -甲斐田ゆき、 女性声優

忌日
912年 - オットー1世、ザクセン公爵

1187年(文治3年10月29日) - 藤原秀衡、奥州藤原氏第3代当主(* 1122年?)

1204年 - イムレ1世、ハンガリー王国アールパード朝国王(* 1174年)

1541年(天文10年11月13日) - 尼子経久、出雲国の戦国大名(* 1458年)

1602年(慶長7年10月17日) - 立花誾千代、戦国時代の女性当主(* 1569年)

1654年 - ジョン・セルデン、歴史家・中東学者・政治家(* 1584年)

1703年 - ニコラ・ド・グリニー、作曲家(* 1672年)

1705年 - キャサリン・オブ・ブラガンザ、イングランド王チャールズ2世の王妃(* 1638年)

1718年 - カール12世、スウェーデン国王(* 1682年)

1749年(寛延2年10月21日) - 松平宗矩、第8代福井藩主(* 1715年)

1761年 - ジョン・ドロンド、光学者(* 1706年)

1803年(享和3年10月17日) - 前野良沢、蘭学者(* 1723年)

1830年 - ピウス8世、ローマ教皇(* 1761年)

1846年 - フリードリッヒ・リスト、経済学者・歴史学者(* 1789年)

1850年 - ジェルマン・アンリ・ヘス、化学者(* 1802年)

1858年(安政5年10月25日) - 牧野忠雅、江戸幕府老中・第10代越後長岡藩主(* 1799年)

1863年 - カメハメハ4世、ハワイ王国第4代国王(* 1834年)

1895年 - 酒井忠績、江戸幕府大老・第8代姫路藩主(* 1827年)

1900年 - オスカー・ワイルド、小説家(* 1856年)

1908年 - 西ノ海嘉治郎 (初代)、大相撲第16代横綱(* 1855年)

1917年 - ウィリアム・イートン・チャンドラー、第30代アメリカ合衆国海軍長官(* 1835年)

1921年 - ヘルマン・アマンドゥス・シュワルツ、数学者(* 1843年)

1930年 - マザー・ジョーンズ、労働運動家(* 1830年)

1933年 - 嘉村礒多、小説家(* 1897年)

1934年 - 安川敬一郎、実業家(* 1849年)

1935年 - 曾我祐準、日本陸軍の中将・貴族院議員(* 1844年)

1937年 - 赤沼智善、仏教学者(* 1884年)

1944年 - アルバート・B・フォール、アメリカ合衆国内務長官(* 1861年)

1947年 - エルンスト・ルビッチ、映画監督(* 1892年)

1954年 - ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、指揮者(* 1886年)

1955年 - 大山郁夫、政治学者・ジャーナリスト・参議院議員(* 1880年)

1957年 - ベニャミーノ・ジーリ、テノール歌手(* 1890年)

1973年 - 中川俊思、政治家(* 1903年)

1975年 - 三遊亭小円、落語家(* 1910年)

1979年 - ローラ・ギルピン、写真家(* 1891年)

1982年 - 祖堅方範、空手家(* 1891年)

1986年 - オノサト・トシノブ、画家(* 1912年)

1990年 - ノーマン・カズンズ、ジャーナリスト・作家(* 1915年)

1990年 - ジョルジュ・ドン、バレエダンサー(* 1947年)

1994年 - ギー・ドゥボール、作家・映画監督(* 1931年)

1995年 - 田宮高麿、よど号グループリーダー(* 1943年)

1998年 - 横井英樹、実業家(* 1913年)

1998年 - 小沼文彦、ロシア文学者(* 1916年)

2001年 - 西村三郎、生物学者(* 1930年)

2002年 - 平井康三郎、作曲家(* 1910年)

2006年 - シャーリー・ウォーカー、作曲家(* 1945年)

2007年 - シーモア・ベンザー、生物学者(* 1921年)

2007年 - フランソワ=グザヴィエ・オルトリ、第5代欧州委員会委員長(* 1925年)

記念日・年中行事

聖アンデレ使徒
ボニファシオの日 - アンドレス・ボニファシオ の誕生日

バルバドスの独立記念日
シティズ・フォー・ライフの日 -
世界500都市以上で行われる死刑制度廃止運動

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年12月1日(月曜日)

[ Myマップ ][ 病院の投稿地図 ]
[ Myマップ ][ 病院の投稿地図 ]

「ここをおして」をクリックされてください。

「ここをおして」をクリックされてください。は
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年12月1日(月曜日)

きゅうにさむくなりました

夏がおわり。
「9月」「初秋」も終わりました。

今現在は
「10月」がおわり。
「10月」中秋もおわり「11月」。
「中秋」から「晩秋」へとうつろいゆく。
「11月」もおわり。
「12月」です。

そろそろ とぼとぼと。

深まり行く。
「確かな」「晩秋」のかおりや。
「確かな」「晩秋」の。
あゆみのしらべから。

そして「12月」の。
「冬」の気配が。
たしかな手応えで。
ただよいはじめています。

「晩秋」から「冬」へとかわる「かおり」。

この
「冬のかおりへの変化(へんげ)」は。
毎年ちがいます。

「冬のかおりの変化(へんげ)」は。
「毎年」新しい。
「うれしい新品のかおり」
がします。

大気織り成す(たいきおりなす)季節となり。
「新たなる新品のかおり」の「冬」
を恵まれることは。

とても幸せなことなのではないかと考えます。

暗い早朝に。
「秋には」
「こおろぎ」の鳴き声が聞こえました。

「こおろぎ」の声は小さくなってゆきました。
そして「こおろぎのつぶやき」になり聞こえました。
けれども
冬近くになり「声はさらにまばらになります」。
そして「冬」になりました。
「聞こえなくなりました」。

「こおろぎ」の鳴き声は「せみ」と異なり
「いわにしみいる」ことは
ないように思えます。

「ふうせん」のような。
「寒い風にとばされる」
冬の風鈴をおもわせる鳴き声です。
「寒い風」にとばされるように。
「こうろぎ」の鳴き声は。
「木枯らしの声」のバリトンに。
変わりました。

「ろうろう」。

まだ真暗い早朝の朝もやから。
「深い冬のおとずれ」の「大気」が。

かすみのような「香り」で。
しのびよる気配は。
ろうそくの灯(ともしび)
のようにゆらぎながら。

「深い冬のおとずれ」の「大気」が
何かを。行く先を。
照らすかのようにさまよいいることが
わかります。

「冬」です。

五月(さつき)がおわり。
六月がおわり。
そして「7月」
「7月」も終わりました。
「8月」も終わりました。
「秋」の「9月」です。
「9月」も終わりました。
「中秋」の「10月」も終わりました。
「晩秋」の「11月」です。
「12月」になりました。
そして「冬」です。

はやいものです。
はやいものです。

「12月」の「初冬」には。
「さらに」。
「大気」と「自然の気配」に。
「特有の独特の気配と香り」が混じります。
感じられるようです。
不思議な感しが致します。

木々は
「晩秋のおわり」までの準備をすませて。

これからの「冬への実り」に向けての。
息吹が力強く感じられます。

今早朝はとても肌寒い」です。
今年はとてもとても「寒い」です。

街路樹はしっかりと
枝木の穂先もたわわにつよく
萌黄色から若葉そして
夏に青葉の「木」に
かわりました。

そしていま。
「秋の葉」の木に「晩秋」。
「冬」にも若葉を抱き
さらにうつろいてかわろうと
しています。

「7月」が終わりました。
「8月」です。
「8月」=せみのしぐれなく夏です
「8月」が終わりました。
「9月」が終わりました。
「10月」=「実りの秋」です。
「11月」収穫の晩秋です。
「12月」木枯らしの冬です。

木々がへったため。
夏にはせみの声も少なくなりました。
けれども去年よりは鳴き声は多かった
ようにおもえます。

こおろぎの声も今年は多いように
おもえました。

今は木枯らしの「こえ」。
「ろうろう」。

冬こうろぎの声の上はみかんの木。

みかんの木は。
とても沢山の実をつけています。
いずれみかんのみのうえにも。
やがて白い雪が積もることでしょう。

初冬の気配に加えて。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

山椒(さんしょう)の木の芽が
晩秋の若葉にすくすくとそだち。
若枝も冬天高くすこやかにのび。
ますますに。ますますに。
「冬の陽」をあびて。
初冬の山椒(さんしょう)の葉の。
みどりがとても。
奇麗です。

山椒のことを
「きのめ」=木の芽とはなるほどと
かんがえる。

冬さんしょう木
冬萌黄(もえぎ)鮮やかに芽葉(めは)
冬みどり葉わか葉いずる花のごと
冬夏(なつ)こすわか枝は幹ならむ
冬なりてたゆまずとまらず
冬冬あゆみそだちて
冬幹は天たかくそだちたり
冬いざいまこそは
冬空(そら)にもえたたむ
秋冬金色(こがね)の炎
秋冬さんしょう木秋冬

けれども
早朝は本当にはだ寒いのです。

「小さな冬みつけた」から
しだいに「大きな冬みつけた」
「大きな冬みつけた」から。
そして「大きな大きな冬」みつけた・は。

ちょっと「安心する気」が致します。
もう「冬」です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
-------------------------------

GWの予定ですが。
平成20年4月29日(火曜日)
は祝日です。(はおわりました)
-------------------------------

平成20年5月 3日(土曜日)
平成20年5月 5日(月曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
(4・29 5・3 5.5)
=>

平成20年5月 6日(火曜日)
は同じく祝日ですが
は「お休み」を頂く予定です。
5月7日(水曜日)より「定常どおり」
になります。

7月21日(月曜日)は。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。
-------------------------------

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

10月13日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------

11月 3日(月曜日)
11月24日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

12月23日(火曜日)は
祝祭日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
-------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は
非ユークリッド幾何学の1つである
「双曲幾何学」を築きあげたロシアの大数学者。
双曲幾何学はロバチェフスキー幾何学を完成させた
ロシアの数学者。

『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』
Geometrische Untersuchungen zur Theorie der Parallellinien
(1840年)
をベルリンで刊行致し。
これらによって。
ヤノーシュ・ボヤイとは独立に。
非ユークリッド幾何学の創始者となった数学者。

非ユークリッド幾何学の1つである「双曲幾何学」を築いた
数学者。

レーニンの父である
イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフを推薦で。
ドヴォリャンスキー学院の物理と数学の上席教授に教育した
数学者。

1792年 - ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー、
数学者(+ 1856年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー
(Никола?й Ива?нович Лобаче?вский,
Nikolai Ivanovich Lobachevsky,
1792年12月1日 - 1856年2月24日)はロシアの数学者です。

++++++++++++++++++++++

ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーは。

ニジュニー・ノヴゴロトに生まれました。

両親ともユダヤ系でした。

父親はギリシア正教徒に改宗したポーランド系の人物でした
(Jewish Encyclopedia "Mathematics" 項)。

++++++++++++++++++++++

ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーは。

カザン大学に学び、天才的な頭角を現しました。
21歳で同大学教授となりました。

1827年から1846年には学長も兼ねるようになりました。

1826年に幾何学の基礎に関する論文を。

カザン大学の物理・数学科に提出致します。
けれども刊行されずに失われました。

++++++++++++++++++++++

ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーは。

1829年に大学学報にその学説を発表しさらに
『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』
(Новые начала геометрии
с полною теорией параллельных)
の中で詳しく展開致しました。

ついで
Geometrische Untersuchungen zur Theorie der Parallellinien (1840年)
をベルリンで刊行致しました。

これらによってロバチェフスキーは
ヤノーシュ・ボヤイとは独立に。
非ユークリッド幾何学の創始者となりました。

++++++++++++++++++++++

ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーの。
この新幾何学の自然的根拠についても深い省察を与えました。
ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーはまた
卓越した教育者でもありました。

20年以上学長を務めたカザン大学では
後進の指導を手がけました。

レーニンの父である
イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフは
ロバチェフスキーの推薦で
ドヴォリャンスキー学院の物理と数学の上席教師となりました。

++++++++++++++++++++++

ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーの業績。

業績
1835年から1837年にかけての論文
「幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論」において。

非ユークリッド幾何学の1つである「双曲幾何学」を築きました。
双曲幾何学はロバチェフスキー幾何学とも呼ばれます。

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
ニコライ・ロバチェフスキー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー(Никола?й Ива?нович Лобаче?вский, Nikolai Ivanovich Lobachevsky, 1792年12月1日 - 1856年2月24日)はロシアの数学者である。

ニジュニー・ノヴゴロトに生まれる。両親ともユダヤ系で、父親はギリシア正教徒に改宗したポーランド系の人物だった(Jewish Encyclopedia "Mathematics" 項)。

カザン大学に学び、21歳で同大学教授となり、1827年から1846年には学長も兼ねていた。1826年に幾何学の基礎に関する論文をカザン大学の物理・数学科に提出したが、刊行されずに失われた。1829年に大学学報にその学説を発表しさらに『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』 (Новые начала геометрии с полною теорией параллельных) の中で詳しく展開した。ついで Geometrische Untersuchungen zur Theorie der Parallellinien (1840年) をベルリンで刊行した。これらによってロバチェフスキーはヤノーシュ・ボヤイとは独立に非ユークリッド幾何学の創始者となり、この新幾何学の自然的根拠についても深い省察を与えた。卓越した教育者であり、20年以上学長を務めたカザン大学で後進の指導を手がけ、レーニンの父であるイリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフはロバチェフスキーの推薦でドヴォリャンスキー学院の物理と数学の上席教師となった。

業績
1835年から1837年にかけての論文「幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論」において、非ユークリッド幾何学の1つである双曲幾何学を築いた。双曲幾何学はロバチェフスキー幾何学とも呼ばれる。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC" より作成
カテゴリ: ロシアの数学者 | 18世紀の数学者 | 19世紀の数学者 | 数学に関する記事 | 1792年生 | 1856年没

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
12月1日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%881%E6%97%A5

できごと
1640年 - ポルトガルがスペインより独立。

1821年 - ドミニカ共和国がスペインより独立を宣言。

1885年 - アメリカ特許庁が認定した、ドクターペッパーが初めて売り出された日。

1890年 - 山陽鉄道(現在の山陽本線)有年駅 - 三石仮駅間が開業。

1891年 - 常設国際平和局設立。

1918年 - デンマークを宗主とする属国としてアイスランドが独立。

1918年 - セルビア・クロアチア・スロベニア王国(後のユーゴスラビア王国)が成立。

1925年 - 農民労働党結成、即日結社禁止

1927年 - ホテルニューグランドが現在の横浜市中区山下町に開業。

1934年 - 丹那トンネルの開通に伴う東海道本線のルート変更。ダイヤ改正も同時に実施。

1951年 - 福岡でラジオ九州(現・RKB毎日放送)開局

1955年 - モンゴメリー・バス・ボイコット事件(ローザ・パークス)

1956年 - 中部日本放送(CBC)テレビジョン、
大阪テレビ放送(OTV、現・朝日放送テレビジョン)開局。

1958年 - 中央アフリカ共和国がフランスより独立。

1958年 - 初の一万円札が発行される。図柄は聖徳太子。

1969年 - 青森テレビ、秋田テレビ、テレビ岩手、三重テレビ放送が開局。

1969年 - 住友銀行が日本初の現金自動支払機を設置。

1973年 - 出版社の白泉社設立。

1980年 - 日本で初めてのワーキングホリデーがオーストラリアとの間で開始。

1982年 - マイケル・ジャクソンが米国でスリラーをリリース。

1997年 - 地球温暖化防止京都会議が開会。

1998年 - 特定非営利活動促進法(NPO法)施行。

2000年 - BSデジタル放送開始。

2001年 - 湘南新宿ライン運行開始。

2002年 - 東北新幹線盛岡駅〜八戸駅間延長開業。
それに伴い、東北本線盛岡駅〜目時駅間がIGRいわて銀河鉄道に、
同線目時駅〜八戸駅間が青い森鉄道に第三セクター化される。

2002年 - 埼京線恵比寿駅〜大崎駅間延長開業、
ならびに東京臨海高速鉄道りんかい線天王洲アイル駅〜大崎駅間開業。

2003年 - 地上デジタル放送が3大都市圏の一部で開始。

2004年 - 東京国際空港(羽田空港)第2ターミナルビル供用開始。

2004年 - 東京モノレール羽田線の羽田空港駅〜羽田空港第2ビル駅間が開業。
羽田空港駅はモノレールのみ羽田空港第1ビル駅に改称される。

2006年 - 地上デジタル放送が全都道府県の一部で放送開始。

2007年 - BS11とトゥエルビが開局。

2007年 - Jリーグ・鹿島アントラーズが最終節で浦和レッドダイヤモンズを追い抜き逆転優勝。これにより、Jクラブ最多の10冠(ナビスコ杯・天皇杯含む)達成。

誕生日
1521年(大永元年11月3日) - 武田信玄、戦国時代の大名(+ 1573年)

1791年(寛政3年11月6日)- 島津斉興、第10代薩摩藩主(+ 1859年)

1792年 - ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー、数学者(+ 1856年)

1844年 - アレクサンドラ、イギリス王エドワード7世の妃(+ 1925年)

1895年 - ヘンリー・ワシントン、作家(+ 1977年)

1910年 - アリシア・マルコワ、バレエダンサー(+ 2004年)

1911年 - ウォルター・オルストン、元メジャーリーグ監督(+ 1984年)

1916年 - 大沢清、元プロ野球選手(+ 2005年)

1919年 - 中尾碩志、元プロ野球選手(+ 1977年)

1921年 - 山本静雄、元プロ野球選手

1933年 - 藤子・F・不二雄、漫画家(+ 1996年)

1938年 - 金田高義、元プロ野球選手

1940年 - 松島みのり、声優

1941年 - 清水利章、調教師

1941年 - 金田星雄、元プロ野球選手

1944年 - 八木沢荘六、元プロ野球選手・元監督

1945年 - 横田順彌、SF作家

1945年 - 奥田怜子、イラストレーター・絵本作家

1946年 - 野本憲一、天文学者

1947年 - 根津甚八、俳優

1951年 - ジャコ・パストリアス、ベーシスト(+ 1987年)

1954年 - 渋谷天外 (3代目)、新生松竹新喜劇代表、喜劇俳優
1954年 - 藤山新太郎、マジシャン
1955年 - 乙骨正生、ジャーナリスト
1958年 - 三宅宗源、元プロ野球選手
1962年 - 林家正蔵 (9代目)、落語家
1963年 - 阿部重典、 茨城放送アナウンサー
1964年 - 竹内海南江、タレント
1966年 - 池田政典、俳優・声優・歌手
1966年 - ラリー・ウォーカー、元メジャーリーガー
1969年 - 三輪隆、元プロ野球選手
1969年 - やぶうち優、漫画家
1970年 - サラ・シルバーマン、コメディエンヌ
1970年 - 小早川幸二、元プロ野球選手
1971年 - フランチェスコ・トルド、イタリアのサッカー選手
1973年 - 長谷川理恵、タレント
1973年 - 門倉有希、歌手
1974年 - 田辺真由美、漫画家
1975年 - 大野敬正、ミュージシャン
1975年 - 下山真二、プロ野球選手
1975年 - 和田唱、ミュージシャン(TRICERATOPS)
1975年 - 斉藤雅人、サッカー選手
1976年 - 池谷直樹、器械体操選手
1976年 - 許銘傑、プロ野球選手
1979年 - 村上綾歌、タレント 
1979年 - 中島優美(ユウ)、ミュージシャン(GO!GO!7188)
1981年 - 山内改行、書家、詩人
1982年 - 山田タマル、シンガーソングライター
1982年 - 阿部磨有香(少年少女)、お笑いタレント
1984年 - 田口真一、ミュージシャン
1985年 - TSUKASA、AV女優
1995年 - 山上暁之進(山上兄弟)、マジシャン
2001年 - 愛子内親王、皇族

忌日
842年(承和9年10月22日) - 阿保親王、平安時代の皇族(* 792年)

1135年 - ヘンリー1世、イングランド王(* 1068年)

1155年(久寿2年11月5日) - 行玄、天台宗の僧(* 1097年)

1433年(永享5年10月20日) - 後小松天皇、北朝第6代・第100代天皇(* 1377年)

1455年 - ロレンツォ・ギベルティ、彫刻家(* 1381年頃)

1521年 - レオ10世、第217代ローマ教皇(* 1475年)

1530年 - マルガレーテ(マルグリット)、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の娘(* 1480年)

1602年(慶長7年10月18日) - 小早川秀秋、武士(* 1582年)

1729年 - ジャコーモ・フィリッポ・マラルディ、天文学者(* 1665年)

1750年 - ヨハン・ドッペルマイヤー、天文学者(* 1677年)

1755年 - モーリス・グリーン、作曲家(* 1696年)

1797年 - オリヴァー・ウォルコット、
アメリカ合衆国下院議員・コネチカット州知事(* 1726年)

1825年 - アレクサンドル1世、ロマノフ朝第10代ロシア帝国皇帝(* 1777年)

1830年 - ピウス8世、第253代ローマ教皇(* 1761年)

1848年(嘉永元年11月6日) - 曲亭馬琴、読本作者(* 1767年)

1867年(慶応3年11月6日) - 野村望東尼、歌人・尊皇攘夷運動家(* 1806年)

1882年 - 松平定安、第10代松江藩主(* 1835年)

1914年 - アルフレッド・セイヤー・マハン、アメリカ海軍少将(* 1840年)

1917年 - 池田蕉園、日本画家(* 1886年)

1928年 - 浅井虎夫、歴史学者(* 1877年)

1934年 - セルゲイ・キーロフ、スターリンの側近として知られたソ連の政治家(* 1886年)

1943年 - ダムロンラーチャーヌパープ、タイの王族・歴史学者(* 1862年)

1943年 - 男嶌舟藏、大相撲力士(* 1878年)

1947年 - アレイスター・クロウリー、神秘主義者(* 1875年)

1947年 - ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ、数学者(* 1877年)

1950年 - アーネスト・ジョン・モーラン、作曲家(* 1894年)

1952年 - ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド、イタリア首相(* 1860年)

1954年 - 下位春吉、政治運動家・童話口演家・教育家(* 1883年)

1955年 - 菊池武夫、
陸軍中将・貴族院議員・興亜専門学校(亜細亜大学前身)初代校長(* 1875年)

1964年 - J.B.S.ホールデン、生物学者(* 1892年)

1968年 - 中村天風、ヨーガ行者(* 1876年)

1971年 - 平野長靖、自然保護運動家(* 1935年)

1972年 - アントニオ・セーニ、第4代イタリア大統領(* 1891年)

1973年 - ダヴィド・ベン=グリオン、イスラエル初代首相(* 1886年)

1977年 - 海音寺潮五郎、小説家(* 1901年)

1977年 - 望月優子、女優・政治家(* 1917年)

1980年 - 松田竹千代、政治家、第55代衆議院議長(* 1888年)

1981年 - 手塚英孝、小説家・文学研究者(* 1906年)

1982年 - 武政英策、作曲家(* 1907年)

1983年 - 木村俊夫、元内閣官房長官・外務大臣(* 1909年)

1984年 - 井口愛子、ピアノ教育家(* 1910年)

1987年 - カール・ワイデル・レイモン、
「胃袋の宣教師」の異名で知られる食肉職人(* 1894年)

1991年 - ジョージ・スティグラー、経済学者(* 1911年)

1993年 - 益田喜頓、コメディアン(* 1909年)

1994年 - 姚依林、元中華人民共和国国務院副総理(* 1917年)

1998年 - 中山昭二、俳優(* 1928年)

1999年 - 井尻正二、古生物学者・地質学者(* 1913年)

2001年 - 村松克己、俳優( *1939年)

2006年 - クロード・ジャド、女優(* 1948年)

2007年 - ケン・マグレガー、テニス選手(* 1929年)

2007年 - アントン・ロジャース、俳優(* 1933年)

記念日・年中行事
世界エイズデー
世界保健機関 (WHO) が1988年に。
エイズ問題への人々の意識を高めることを目的として制定。
国際デーの一つ。シンボルはレッドリボン。

ポルトガル共和国 独立回復記念日 Restauracao da Independencia

アンゴラ共和国 開拓者の日
コスタリカ共和国 Military Abolition Day(軍備全廃の日)
1986年、大統領オスカル・アリアス・サンチェスにより宣言。

映画の日
1956年に映画産業団体連合会が制定。
神戸の神港倶楽部にて、日本ではじめて映画が一般公開されたことに由来している。

デジタル放送の日
2003年から順次放送を開始した地上デジタルテレビジョン放送が
2006年全国の都道府県庁所在地で受信可能となった事を記念して
デジタル放送推進協会と総務省によって2006年に設けられた。

カイロの日

ホッカイロの日。

データセンターの日
データセンター(Data Center)と英語の
12月(December)それぞれの頭文字と、
事業の基本をサーバ運用の安全第一と示す「1日」
をイメージしたことに由来。
ソフトバンクIDCが日本記念日協会に申請、認可された。

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年12月2日(火曜日)

[ Myマップ ][ 病院の投稿地図 ]
[ Myマップ ][ 病院の投稿地図 ]

「ここをおして」をクリックされてください。

東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年12月2日(火曜日)

「9月」がおわわりました。
「10月」も終わりました。
「11月」もおわり「12月」。

「冬」もしずかに。
しずかに。しずかに。

能の舞(のうのまい)の「おきなのあゆみ」のように。
さらにふかまりつつあゆみつつあります。
「くれ」にむかっています。

暗い朝の早朝に。
南の天に「明けの明星」が
輝いています。
闇夜の天高いかがやく惑星。

「明けの明星」金星に。
毎日「おはよう」のあいさつを
します。

早朝には
「秋の虫の音」は。
「こおろぎ」だけになりました。
そのこえの声もきこえなくなりました。

はるか暗い早朝に「こおろぎ」の
かすかな。ひとりぼっちの。
鳴き声がきこえました。
それは。
木枯らしの声でした。

毎朝の暗いうちの木枯らしの「音色」は。
毎日違います。

「ろうろう」「こうこう」

耳をすませば。
木枯らしの鳴き声は。
「ソロ」から次第に「合唱」に
なっていました。

そしてオーケストラの楽器の配列のように。
一匹一匹の
「木枯らし」の鳴いている場所がわかるように。
なってきました。

木枯らしも
「もっと深冬」そして「もっと深い冬の先」
「の季節にむけての。
ころもがえやひっこしをしている
ことがわかります。
木枯らしは
「街路樹」にとまって冬を越します。

陽ののぼる時刻はとても遅くなりました。
そして
陽のおりる夕暮れは。
とてもやくくなりました。

朝の04:30amにはふたたび「真っ暗」
の時期になりました。
あさの06:30amでもなお暗い東空
です。

これからは太陽は。
「冬」に向かいます。

冬こそ「冬」です。

あさは曇っていて。
さらに昼間でも「さむい」ことがある。
私がおきるまっくらな早朝は。
とてもとても。
とても寒いです。
雪国うまれの私はさむいのがつらい
です。

早朝「そら」をみあげれば。
晴れているはず。日差しもあるはず。

けれども空には
「雲がいっぱい」で「空はくもりそら」
です。
ふしぎな「晩秋」のひざしです。

ふとかんがえれば・・。
夏至もおわり。
真夏もおわり。
ゆたかなみのりの
「秋」の「9月」がはじまり。
そして「9月」が「おわり」。
「10月」もおわりました。
「11月」です。
「12月」です。

「実りの秋」から「収穫の秋」に向けて
「若実」をまもる
「晩秋冬」の太陽から。さらなる恵みを
「実る木の実」にあたえる。

「空」こそは。
「ソフトフイルター」の役目を。
深い「晩秋」の「おぼろくもりそら」が
しているようです。

自然とは。
とてもよくできたものです。

変幻自在であり
そして規則も正しい。
なおかつにして。
自由が自在。

大気に漂う霞がごとし。

深い山の奥に住むという

仙人の心境が。

とてもよくわかります。

晩秋冬の街路樹もそうそうたる。
ふかまる秋冬の羽振りを
まとう木々になってきました。
そして晩秋冬の。
紅葉の秋をむかえています。

街路樹は「落葉樹」がよいです。

街路樹が「松や杉」のような。
「常緑樹」では
冬はうっそうとして
陽の光をえられない。

夏場は枝ぶり葉っぱから陽の光を
さえぎれない。
晩秋も「針葉樹の落葉」では
木枯らしもつりがあわない。
とどのつまり
四季のリズムはつくれません。

ヴイバルデイの
「四季」の「夏」にある
木陰で休む羊飼いの旋律
も。
フランツ・シューベルトの
「菩提樹」の歌曲
も「うまれません」。

落葉の針葉樹で
強いからといって「からまつ」をうえられても
あわないでしょう。

私の「大好き」な。
北原白秋の「からまつの詩」。

「からまつ」は

街路樹にはそぐいません。

やはり野におけ蓮華草と同じく。
「からまつ」も蓮華草と同じくに
清楚な華やかさとはかなさを
もっています。

やはり野におけ。
蓮華草とからまつ。

秋冬の「からまつ」です。

-------------------------------
北原白秋
 
「水墨集」より

  
 落葉松
-------------------------------

      一
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 からまつをしみじみと見き。
 
 からまつはさびしかりけり。
 
 たびゆくはさびしかりけり。

      二
                 
 からまつの林を出でて、
 
 からまつの林に入りぬ。
 
 からまつの林に入りて、
 
 また細く道はつづけり。

      三
 
 からまつの林の奥も
 
 わが通る道はありけり。
  きりさめ
 霧雨のかかる道なり。
 やまかぜ
 山風のかよふ道なり。

      四
 
 からまつの林の道は、
 
 われのみか、ひともかよひぬ。
 
 ほそぼそと通ふ道なり。
 
 さびさびといそぐ道なり。

      五
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 
 からまつはさびしかりけり、
 
 からまつとささやきにけり。

      六

 からまつの林を出でて、
  あさま ね
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 からまつのまたそのうへに。

      七
 
 からまつの林の雨は
 
 さびしけどいよよしづけし。
 
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 
 からまつの濡るるのみなる。

      八
 
 世の中よ、あはれなりけり。
 
 常なれどうれしかりけり。
 
 山川に山がはの音、
 
 からまつにからまつのかぜ。

-------------------------------

木々の青葉の房が
早朝くらい中でも
うかびあがります。
とりわけ私は
くすのき科が。
「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
けやきもすきです。
カエデもすきです。
もみじもすきです。
松もすきです。
杉もすきです。
紅葉の「秋」です。
紅葉を過ぎた「秋」です。
そして「冬」です。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな萌黄色と緑です。
まるで。
大きな里山の森の冬のうねりのようです。
今年は木々のわかばの冬のめばえがとてもとても
鮮烈です。
紅葉も「鮮烈」なことと見守ります。
そして冬の木枯らしがふきます。

街角の雑草も花はおわり。
夏の草花・
「ひるがお」「つるくさ」が
秋から冬草に変貌して。

「小金」に山芋の葉は紅葉し。
ますます姿を大きくしています。

けれども。
「秋風」から「木枯らし」になり。
「遠慮がち」になりました。

雑草も。
冬草へと変貌しつつあります。

朝暗いうちは。
はださむい気が致します。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
ふとい孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

木枯らしいてつく秋竹(あきたけ)の
笹葉みどりにふるえたり
みどりのいらかをかぜはやみ
冬の陽うつすやうつろひの
竹にうまれしはやいくとせ

冬地にも空にも
冬みどり葉ひらき
冬みどり木秋空
冬天高くひろがりけり
冬ゆたかなりけり
冬いふことのなし
冬いふことがなし
冬いふことはなし
冬ゆたかなりけりあきふゆ

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない場合
に限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

平成20年

4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわちました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂き。5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
-------------------------------

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

10月13日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

-------------------------------

11月 3日(月曜日)
11月24日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
-------------------------------

12月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

-------------------------------
麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です。

-------------------------------

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は。

イタリアから亡命後。
(「ノーベル物理学賞」授賞式の直後)
アメリカでは核分裂反応の研究に従事した
エンリコ・フェルミ:Enrico Fermiは。

1942年世界最初の原子炉。
「シカゴ・パイル1号」を完成させました。
原子核分裂の連鎖反応の制御に史上初めて成功致しました。
この原子炉は原子爆弾の材料となる
プルトニウムを生産するために用いられました。

アメリカ合衆国の原子爆弾開発プロジェクトである
マンハッタン計画でも中心的な役割を演じる引き金となった。

1942年 - エンリコ・フェルミらが
シカゴ大学の原子炉で
「持続的な核分裂の連鎖反応」に成功した日です。

++++++++++++++++++++++

エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi、
1901年9月29日 - 1954年11月28日)は、
イタリア、ローマ出身の物理学者です。

物理学者として。
1・実験家と
2・理論家との2つの顔を持っています。

双方において世界最高レベルの業績を残しました。

史上稀に見る物理学者です。

++++++++++++++++++++++

エンリコ・フェルミ:Enrico Fermiの生涯

ノーベル賞
1901年、ローマに生まれました。

公務員である父アルベルト・フェルミと、
教師である母イダ・デガティスとの間の第3子でした。

1918年、ピサ高等師範学校に入学し物理学を学びました。

ところがここで非凡な才能を発揮致しました。

すぐに教師達を追い越してしまいました。

教師から逆に相対性理論について
教えを請われたこともありました。

++++++++++++++++++++++

エンリコ・フェルミ:Enrico Fermiは。

1922年に学位を取得。

1926年、「フェルミ統計」に関する理論を発表致しました。
この理論により世界的な名声を得ました。

フェルミ統計は、電子の振る舞いに
パウリの排他原理を導入した新しい統計力学であったのです。

同時期にポール・ディラックも同様の結論を導き出していたため。
フェルミ統計は「フェルミ=ディラック統計」とも呼ばれます。

++++++++++++++++++++++

エンリコ・フェルミ:Enrico Fermiと「粒子」。

電子や陽子などフェルミ統計に従う素粒子を総称して
フェルミ粒子と呼称致します。

フェルミ統計は金属の熱伝導や、
白色矮星の安定性に関する理論的な
基礎を与えるものとなりました。

++++++++++++++++++++++

エンリコ・フェルミ:Enrico Fermiは。

1926年20代半ばにしてローマ大学の
理論物理学教授に就任致しました。

ここで、ニュートリノの存在を導入した
ベータ崩壊の理論を完成させました。

また自然に存在する元素に中性子を照射することによって、
40種類以上の人工放射性同位元素を生成致しました。

さらに、熱中性子を発見し、
その性質を明らかに致しました。

これらの成果によって。
1938年にノーベル物理学賞を受賞致しました。

++++++++++++++++++++++

エンリコ・フェルミ:Enrico Fermiアメリカへ

妻のラウラ・カポーネはユダヤ人でした。

そのため、ムッソリーニのファシスト政権下では
迫害を受けました。

1938年のノーベル賞授賞式出席のためイタリアを出国。
ストックホルムで賞を受け取ったまま。
そのままアメリカに亡命致しました。

1939年、コロンビア大学の物理学教授となりました。

++++++++++++++++++++++

エンリコ・フェルミ:Enrico Fermiは。
アメリカでは核分裂反応の研究に従事致しました。

1942年、世界最初の原子炉
「シカゴ・パイル1号」を完成させました。

原子核分裂の連鎖反応の制御に史上初めて成功致しました。

この原子炉は原子爆弾の材料となる
プルトニウムを生産するために用いられました。

アメリカ合衆国の原子爆弾開発プロジェクトである
マンハッタン計画でも中心的な役割を演じました。

++++++++++++++++++++++

エンリコ・フェルミ:Enrico Fermiは。
その後の水素爆弾の開発には倫理的な観点から反対をしています。

第二次世界大戦後は宇宙線の研究を行いました。

1954年、癌により死去。

死の床においても、点滴のしずくが落ちる間隔を測定し、
流速を算出していたということです。

彼がイタリアで率いた同年代の研究仲間たち
(ラガッツィ・ディ・ヴィア・パニスペルナ)は、
後にアメリカやソビエトへ渡り。
米ソの素粒子物理学の基礎を築きました。

++++++++++++++++++++++

エンリコ・フェルミにちなみ、
原子番号100の元素はフェルミウム (Fermium)と命名されています。

また、10のマイナス15乗メートルを1フェルミと呼びます。

小惑星のひとつもフェルミと名付けられました。

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
エンリコ・フェルミ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F

エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi、1901年9月29日 - 1954年11月28日)は、イタリア、ローマ出身の物理学者。実験家と理論家との2つの顔を持ち、双方において世界最高レベルの業績を残した、史上稀に見る物理学者であった。

目次
1 生涯
1.1 ノーベル賞
1.2 アメリカへ
2 関連項目

生涯

ノーベル賞
1901年、ローマに生まれる。公務員である父アルベルト・フェルミと、教師である母イダ・デガティスとの間の第3子であった。1918年、ピサ高等師範学校に入学し、物理学を学ぶ。ここで非凡な才能を発揮し、すぐに教師達を追い越してしまった。教師から相対性理論について教えを請われたこともあった。1922年に学位を取得。

1926年、「フェルミ統計」に関する理論を発表し、世界的な名声を得た。フェルミ統計は、電子の振る舞いにパウリの排他原理を導入した新しい統計力学だった。同時期にポール・ディラックも同様の結論を導き出していたため、フェルミ統計は「フェルミ=ディラック統計」とも呼ばれる。電子や陽子など、フェルミ統計に従う素粒子を総称してフェルミ粒子と呼ぶ。フェルミ統計は、金属の熱伝導や、白色矮星の安定性に関する理論的な基礎を与えるものである。

1926年、20代半ばにしてローマ大学の理論物理学教授に就任した。ここで、ニュートリノの存在を導入したベータ崩壊の理論を完成させた。また、自然に存在する元素に中性子を照射することによって、40種類以上の人工放射性同位元素を生成した。さらに、熱中性子を発見し、その性質を明らかにした。これらの成果によって、1938年にノーベル物理学賞を受賞した。

アメリカへ
妻のラウラ・カポーネはユダヤ人であった。そのため、ムッソリーニのファシスト政権下では迫害を受ける。1938年のノーベル賞授賞式出席のためイタリアを出国。ストックホルムで賞を受け取ったが、そのままアメリカに亡命した。1939年、コロンビア大学の物理学教授となった。

アメリカでは核分裂反応の研究に従事し、1942年、世界最初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を完成させ、原子核分裂の連鎖反応の制御に史上初めて成功した。この原子炉は原子爆弾の材料となるプルトニウムを生産するために用いられた。アメリカ合衆国の原子爆弾開発プロジェクトであるマンハッタン計画でも中心的な役割を演じた。

しかし、その後の水素爆弾の開発には倫理的な観点から反対をしている。第二次世界大戦後は宇宙線の研究を行った。1954年、癌により死去。死の床においても、点滴のしずくが落ちる間隔を測定し、流速を算出していたという。彼がイタリアで率いた同年代の研究仲間たち(ラガッツィ・ディ・ヴィア・パニスペルナ)は、後にアメリカやソビエトへ渡り、米ソの素粒子物理学の基礎を築いた。

エンリコ・フェルミにちなみ、原子番号100の元素はフェルミウム (Fermium)と命名されている。また、10のマイナス15乗メートルを1フェルミと呼ぶ。小惑星のひとつもフェルミと名付けられた。

関連項目
ウィキメディア・コモンズには、エンリコ・フェルミ に関連するマルチメディアがあります。フェルミのパラドックス
ラガッツィ・ディ・ヴィア・パニスペルナ

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++

12月2日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%882%E6%97%A5
12月2日(じゅうにがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から336日目
(閏年では337日目)にあたり、年末まであと29日ある。

目次
1 できごと
2 誕生日
3 忌日
4 記念日・年中行事
5 フィクションのできごと
5.1 誕生日
6 関連項目

[編集] できごと
1804年 - ナポレオン・ボナパルトの戴冠式が
パリのノートルダム大聖堂で行われ、フランス皇帝に即位。

1805年 - アウステルリッツの戦い

1823年 - ジェームズ・モンロー米大統領によるモンロー宣言。
ヨーロッパからの自立と相互不干渉(モンロー主義)を宣言。

1852年 - ナポレオン3世がフランス皇帝に即位。

1941年 - 大本営、戦艦アリゾナを主標的とした真珠湾攻撃を訓電発令。

1942年 - エンリコ・フェルミらがシカゴ大学の原子炉で持続的な核分裂の連鎖反応に成功。

1971年 - アラブ首長国連邦成立。

1975年 - ラオスで王政を廃止し人民民主共和国宣言。

1981年 - 大阪市営地下鉄千日前線 新深江駅〜南巽駅間が開業し、全通。

1988年 - 札幌市営地下鉄東豊線 栄町駅〜豊水すすきの駅間が開業。

1990年 - TBS記者の秋山豊寛がソ連のソユーズTM11号で日本人初の宇宙飛行。

1993年 - コロンビアの麻薬密売組織メデジン・カルテルの
最高幹部パブロ・エスコバルがコロンビア治安部隊に銃殺される。

1994年 - オウム真理教による駐車場経営者VX襲撃事件。

2000年 - スマッシング・パンプキンズが解散。

2003年 - ジェイアール式マグレブが山梨実験線で581km/hの鉄道世界最高速度を記録。

2004年 - 任天堂の携帯型ゲーム機、ニンテンドーDSが日本国内で発売。

2005年 - マンダリン・オリエンタル東京が東京都中央区日本橋に開業。

2006年 - 任天堂の据え置き型ゲーム機、Wiiが日本国内で発売。

2006年 - Jリーグ、J1・浦和レッズが創立初の年間優勝。

誕生日
1817年(文化14年10月24日)- 島津久光、薩摩藩の指導者(+ 1887年)

1825年 - ペドロ2世、ブラジル皇帝(+1891年)

1858年 - 斎藤実、政治家・第30代内閣総理大臣(+ 1936年)

1859年 - ジョルジュ・スーラ、新印象派画家(+ 1891年)

1874年 - 福田徳三、経済学者(+ 1930年)

1899年 - ジョン・バルビローリ、指揮者(+ 1970年)

1905年 - 八田尚之、脚本家(+ 1964年)

1915年 - 三笠宮崇仁親王、日本の皇族・大正天皇の四男

1918年 - 高峰三枝子、女優(+ 1990年)

1923年 - マリア・カラス、オペラ歌手(+ 1977年)

1923年 - アレクサンドル・ヤコブレフ、ソビエト連邦の政治家・歴史学者(+ 2005年)

1931年 - 初見良昭、武術家・戸隠流忍術三十四代目継承者・武神館九流派八法秘剣宗家、
世界忍者戦ジライヤの山地哲山役

1936年 - 山崎努、俳優

1938年 - 権藤博、元プロ野球選手

1943年 - 太地喜和子、女優(+ 1992年)

1945年 - 油井大三郎、歴史家

1946年 - ジャンニ・ヴェルサーチ、ファッションデザイナー(+ 1997年)

1948年 - 夏木ゆたか、タレント

1949年 - 北山耕平、編集者、作家、翻訳家
1949年 - 池田秀一、声優
1957年 - 山本みどり、女優
1958年 - 浅見美那、女優
1958年 - ランディ・ガードナー、フィギュアスケート選手
1959年 - 細野不二彦、漫画家
1959年 - 仁科有理、女優
1959年 - 森武史、讀賣テレビ放送アナウンサー
1962年 - けらえいこ、漫画家
1966年 - 奥野真哉(ソウル・フラワー・ユニオン)、ミュージシャン
1966年 - 中西圭一、クレイジーケンバンド sax fl
1966年 - 新崎人生、プロレスラー
1967年 - 深江卓次、俳優
1967年 - 渡辺剛、作曲家
1968年 - デビッド・バッティ、サッカー選手
1971年 - 松嶋尚美、お笑いタレント(オセロ)
1971年 - 吉崎観音、漫画家
1971年 - フランチェスコ・トルド、サッカー選手
1973年 - モニカ・セレシュ、テニス選手
1973年 - 木内希、テレビリポーター(元北海道テレビアナウンサー)
1973年 - サイモン猪木、新日本プロレス社長
1975年 - 友永朱音、声優
1975年 - 野村真季、テレビ朝日アナウンサー
1976年 - 後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)、ミュージシャン
1976年 - 細木美和、元女優
1977年 - 宮本耀子、タレント
1979年 - 仁後真耶子、声優
1980年 - 三橋直樹、プロ野球選手
1981年 - ブリトニー・スピアーズ、全世界で人気の歌手
1981年 - 井ノ上ナオミ、タレント、声優
1982年 - 武山浩三、お笑い芸人(ジャングルポケット)
1986年 - 中山旦子、女優
1989年 - 樋口賢、プロ野球選手
1989年 - マッテオ・ダルミアン、サッカー選手
1989年 - 近藤彩希、タレント
1990年 - 八乙女光、男性アイドル、Ya-Ya-yah、Hey! Say! JUMPのメンバー
1990年 - ALISA、歌手
1990年 - 伊宮理恵、タレント
1992年 - 田名部生来、AKB48
1993年 - 石田晴香、AKB48
1993年 - 辰己絵莉花、声優
生年不明 - 西田亜沙子、アニメーター、キャラクターデザイナー

忌日
1348年(貞和4年/正平3年11月11日)- 花園天皇、第95代天皇(* 1297年)

1469年 - ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ、
フィレンツェ・メディチ家当主(* 1416年)

1515年 - ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ、スペイン王国の将軍(* 1453年)

1547年 - エルナン・コルテス、探検家(* 1485年)

1594年 - ジェラール・メルカトル、地図学者(* 1512年)

1552年 - フランシスコ・ザビエル、イエズス会宣教師(* 1506年)

1628年(寛永5年11月7日)- 小野忠明、剣術家(* 1569年)

1810年 - フィリップ・オットー・ルンゲ、画家(* 1777年)

1814年 - マルキ・ド・サド、フランスの貴族・小説家(* 1740年)

1845年 - ジモン・マイール、作曲家(* 1763年)

1846年(弘化3年10月14日)- 伴信友、国学者(* 1773年)

1849年 - アデレード、イギリス王ウィリアム4世の妃(* 1792年)

1894年 - ヘルマン・ロエスエル、法学者・経済学者(* 1834年)

1903年 - ジュゼッペ・ザナルデッリ、イタリアの首相(* 1826年)

1912年 - 川崎正蔵、実業家・川崎造船所創業者(* 1838年)

1916年 - フランチェスコ・パオロ・トスティ、作曲家(* 1846年)

1918年 - エドモン・ロスタン、劇作家・詩人(* 1868年)

1923年 - トマス・ブレトン、作曲家(* 1850年)

1924年 - フーゴ・フォン・ゼーリガー、天文学者(* 1849年)

1931年 - ヴァンサン・ダンディ、作曲家(* 1851年)

1934年 - トーマス・エスピン、天文学者(* 1858年)

1938年 - 江口きち、歌人(* 1913年)

1941年 - 野崎廣太、実業家(* 1859年)

1944年 - ヨゼフ・レヴィーン、ピアニスト(* 1874年)

1944年 - フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ、詩人・評論家(* 1876年)

1944年 - 沢村栄治、プロ野球選手(* 1917年)

1945年 - 安井てつ、教育家・東京女子大学元学長(* 1870年)

1945年 - 岩崎小弥太、実業家、三菱財閥4代目総帥(* 1879年)

1950年 - ディヌ・リパッティ、ピアニスト(* 1917年)

1955年 - 岩崎久弥、実業家(* 1865年)

1956年 - ハインリッヒ・バルクハウゼン、物理学者(* 1881年)

1959年 - ジョン・オーガスト・アンダースン、天文学者(* 1876年)

1962年 - 植原悦二郎、元国務大臣・内務大臣(* 1877年)

1962年 - 細川嘉六、ジャーナリスト・政治学者・元日本共産党参議院議員(* 1888年)

1963年 - 佐佐木信綱、歌人(* 1872年)

1964年 - 青木正児、中国文学研究家(* 1887年)

1964年 - ジョゼフ・ドッジ、銀行家(* 1890年)

1966年 - ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワー、数学者(* 1881年)

1966年 - 舟崎由之、実業家(* 1894年)

1969年 - クリメント・ヴォロシーロフ、元ソ連最高会議幹部会議長(* 1881年)

1970年 - 河西三省、元NHKアナウンサー(* 1898年)

1974年 - ソフィー=カルメン・エックハルト=グラマッテ、作曲家(* 1901年)

1979年 - 植草甚一、評論家(* 1908年)

1980年 - 麻生太賀吉、実業家・元衆議院議員(* 1911年)

1984年 - 牧野茂、元プロ野球選手・コーチ(* 1928年)

1985年 - アニエロ・デラクローチェ、マフィア(* 1914年)

1987年 - ヤーコフ・ゼルドビッチ、物理学者(* 1914年)

1990年 -アーロン・コープランド、作曲家(* 1900年)

1990年 - 浜口庫之助、作曲家(* 1917年)

1993年 - 井伊直愛、元彦根市長(* 1910年)

1993年 - パブロ・エスコバル、
コロンビアの犯罪者、メデジン・カルテルの最高幹部(* 1949年)

1998年 - 織田幹雄、陸上競技三段跳、アムステルダムオリンピック金メダリスト(* 1905年)

2002年 - イヴァン・イリイチ、哲学者(* 1926年)

2003年 - 西村公朝、仏師(* 1915年)

2004年 - アリシア・マルコワ、バレエダンサー(* 1910年)

2006年 - マリスカ・ヴェレス、
ショッキング・ブルーのボーカルを務めていた事で知られる歌手(* 1947年)

2007年 - 多田道太郎、仏文学者(* 1924年)

2007年 - エレオノラ・ロッシ=ドラゴ、女優(* 1925年)

記念日・年中行事
日本人宇宙飛行記念日(日本)
1990年12月2日にTBSの秋山豊寛記者(当時)を乗せた
ソ連のソユーズTM11号が打ち上げられ、
秋山が日本人初の宇宙飛行に成功したことに由来。

原子炉の日
1942年12月2日に、アメリカのシカゴ大学構内に設置された
実験用小型原子炉で、
世界で初めてウランの核分裂の持続的な連鎖反応に成功したことに由来。

建国記念日(ラオス)

連邦結成記念日(アラブ首長国連邦)

奴隷制度廃止国際デー
国際連合総会決議317(IV)
「人身売買および他者の搾取の禁止に関する条約」(1949年12月2日採択)を記念

安全カミソリの日

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年12月3日(水曜日)

[ Myマップ ][ 病院の投稿地図 ]
[ Myマップ ][ 病院の投稿地図 ]

「ここをおして」をクリックされてください。

東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年12月3日(水曜日)

あと「28日そこそこ」で「来年」になります。

「12月」の「冬」です。
今は「冬」です。

秋には
「金木犀:きんもくせい」花を咲かせました。
日々ますます花をさかせていました。
「実りの花」。

「金木犀:きんもくせい」は「秋」に「2度」咲きました。
「銀木犀:きんもくせい」も咲きました。
「金木犀:きんもくせい」の花は黄金色です。
「銀木犀:きんもくせい」の花は「プラチナ色」です。

かおりも全く違います。
「金木犀:きんもくせい」より。
「銀木犀:きんもくせい」は10日遅れで咲きます。

今は晩秋がおわり「冬」。
「銀木犀:きんもくせい」も「銀木犀:きんもくせい」も
はるかかなたに。
「花」はおわりました。

そして。
「木犀:もくせい」は今。
冬越しの準備をしています。

「木犀:もくせい」は常緑樹です。
「冬」になると。
「葉色」と「葉のあつさ」がかわります。
「木枯らしに耐える厚さ」になります。

山茶花のつぼみがみえます。

「やぶつばき」のつぼみがみえます。

「金木犀:きんもくせい」は不思議な木です。
「金木犀:きんもくせい」の真下では何も
「金木犀:きんもくせい」の花の香(はなのか)
はしません。
遠く離れると「香ります」。
今は「冬」。
はるか昔に花はおわりました。
そしてはるか昔に「香り」もおわりました。

けれども。
「花」こそみえませんが。
「金木犀:きんもくせい」「銀木犀:きんもくせい」
の芳香が。
いまなおとくとくと。
遠くただよっているかのごとくです。

今は晩秋から冬。「木犀:もくせい」は元気です。

「木犀:もくせい」は。
「椿」のように花が落ちて。
「木の下」に「フェルマータ"fermata"」*がありません。

「落花生」のような「木」です。

-------------------------------
C・

イタリア語におけるフェルマータ"fermata"とは。
英語"stop"に相当する名詞です。
(例えばイタリアのバス停の標識には"Fermata"の表示があります)。

音楽美学の世界では。

絵画には限られた面積があるのと同じように。
音楽には。
「限られた時間」—つまり「初め」と「終わり」—があることが
宿命とされています。
古い時代の楽譜のときはその終止線の上下や終結音の
上下に現在のフェルマータのマークの基となったデザインが
配されました。

そこで音楽の終わりを意味致しました。

時間の流れを止めることはできません。
けれども曲の終わりでは。
音楽を止めることによってその時空に終わりが
発生することとなります。
「停止」という意味の"fermata"の概念はそのように
発生したと解されます。

付与された音符や休符で音楽の時間の流れを
停止させる意味を持ちます。

「♪」
に付与されれば
「♪」
その音のまま「停止」=「ずっと鳴り続ける」
「休止符」
に付与されれば
「休止符」
その旋律は「停止」=「ずっと鳴らない」
ことになります。
楽譜の節目の
縦線に付与される場合には。
一記譜上に存在しない挿入された休符が空白時間として
求められます。
ただし
前の音から伸ばされたタイ(スラー)が。
縦線の上を横切っている場合と
そこにピアノにおけるペダルなどの保続効果の指示が見られる場合は。
空白時間として処理されず音を保続させる時間を
別途挿入することとなります。

フェルマータ"fermata"。

そのマークは「一日の終わりである日没」
に由来したデザインとも言われています。
-------------------------------

旧暦では「11月」から「冬」です。
だから今現在は。

深まり行く「晩秋」はおわり。
「冬」です。

今朝早朝の真っ暗な時間に
「吐息」が「白く」みえました。
急速に。
かけあしで「さむくなってきました」。

今朝早朝は
暗いうち晴れて。
霧雨の合間に。
久方ぶりにたくさんのたくさんの
星をみました。

そして天井の空高くひさしぶりに「月」の
かがやきをみました。

地上の変化(へんげ)が天高くたちのぼり
月や星に結晶して。
芳香をはなつがごとく光をはなつように
見えます。

空気のすんんでいるからでしょう。

「天高く」とはなるほどと考えます。

「木枯らし」の合唱も。
なかなかすてきです。

ブラスでもない。木管でもない。弦でもない。
グラスハープの。
オーケストラを聴いているようです。

そして「12月」になり
「木枯らし」の鳴き声は「アリア」
次第に出番が多くなりました。

寒い中でも
「極めて大きな声でないている」
「木枯らし」が
「1-2匹」はいるのが不思議です。

山茶花の上空でないています。

そぞろ そぞろに。
静かながらに。

「12月」の朝焼けと。
夕焼けどきに。

ひそやかながらもあきらかに。
「冬将軍」の気配にあと押しされて。
「しずかな初冬」のかおりが。
大気にかげろううや蜃気楼のように
ただよいはじめています。

昼間はまだあたたかい
小春の陽射しを感じることも
あります。

五月(さつき)がおわり。
六月がおわりました。
七月もうおわりました。
「8月」もおわりました。
夏はおわりました。

そして
「あきの「秋」「9月」がおわりました。
中秋の「10月」がおわりました。
「11月」です。
そして「12月」。
雪国の冬です。

そして。
「今年も残す所「1ヶ月」を
すごそうとしています。

12月の初冬の気配が
あっというまに。
冬の「霞(かすみ)」に「霊気(れいき)」
のように変化して。
次第に「初冬」の気配がうつろいていく。
「井戸のつるべ」がおちるようです。

「冬の12月」。
ふかまりゆく
「初冬からの冬将軍の登場」は。
威風堂々と。
感じられるような気がします。

そしてさらに。

初冬そしてさらに。

「もっと深い冬」のピアニッシモppで。
しのびよる深い冬の気配が
かんじられます。

朝日と東の朝焼け青空に。
「朝焼け」の。

空にはそらいろとピンクのレースのような

あやにしきの「くれゆくあきいろ」が感じられます。

冬陽射し(ひさし)やさしき秋。
冬空にも地にも天高くはれ。
冬の大気のひそみかくれ。
冬そらにみちてあふれれば。
冬吐息(ためいき)となり。
冬吐息が霧雨か霞になり。
冬おりてくるような感じです。
冬「冬はふかまりゆく」気配
になりました。

「10月おわりました。」
そして「11月」「深まる秋」になりました。

冬なお「力強い」の木々のめぶきは
初冬の息吹から深い冬への息吹への。
変化(へんげ)を感じます。

早朝は「肌寒い」です。
今年は「寒い」です。

百姓のうまれなので「冷冬」が心配です。

街路樹はしっかりと
枝木の穂先もたわわにつよく
中秋の萌黄色から中秋の若葉そして
晩秋のあおい「木」にかわりました。
そしてあきのあおい「木」は。
「実りの秋」のおとづれを。
そしてさらなる「秋の深まり」を。

そしていま冬。
いま冬をむかえようとしてています。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

冬山椒(さんしょう)の木の芽が
冬にも若葉はそだち。
冬若葉は冬の若枝となり。
冬若枝は天高くすこやかにのび。
冬のふかまりにますますすこやかに。
冬山椒(さんしょう)の木のみどり葉。
冬空に燃えるが如くの炎葉です。

さんしょうを
木の芽(このめ)といふは
なるほどと
かんがえる

冬深まりたり
冬空たかく
冬あやにしき
冬みどり木
冬さんしょう木
冬陽をあびてかがやけり
冬いざいまこそは
冬金色(かがね)にかわり
冬赤き秋空に燃えたたむ

冬さんしょう木
冬もえぎの炎(ほのほ)は芽葉(めは)
冬わかば葉はいずるは花ならむ
冬(ふゆ)こす枝は幹ならむ
冬いざいまこそは
冬空(そら)たかくもえたたむ
冬金色(こがねいろ)なる
冬さんしょう木
冬(ふゆ)深まれり

山本クリニックの庭には水槽が
「2つ」あります。
めだかが泳いでいます。

冬ふかく草を浮かべる水面(おも)に
冬めだかのむれのひかりたり
冬むれておよげるひめだかの
冬みずのなかなるちいさないのち
冬みずのなかなるおおきないのち
冬みのりてあまたにとほときいのちこそ
冬いざみずもにうつしはぐくまむ

けれども
早朝は本当にはだ寒いのです。

小さなふゆみつけたから
しだいに大きなあきみつけた
大きなふゆみつけたから
大きな大きなふゆみつけたは

ちょっと「こころしずまる気」がします
「初冬」です
「冬」になります。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
-------------------------------

GWの予定ですが。
平成20年4月29日(火曜日)
は祝日です。(はおわりました)
-------------------------------

平成20年5月 3日(土曜日)
平成20年5月 5日(月曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
(4・29 5・3 5.5)
=>

平成20年5月 6日(火曜日)
は同じく祝日ですが
は「お休み」を頂く予定です。
は終わりました。
5月7日(水曜日)より「定常どおり」
になります。
-------------------------------

7月21日(月曜日)は。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
=>
は終わりました。

-------------------------------

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました
-------------------------------

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました

-------------------------------

10月13日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

11月 3日(月曜日)
11月24日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
-------------------------------

12月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は

シェーンベルクやベルクと並んで
新ウィーン楽派の中核メンバーであり。
音列技法は、しばしば非常に手が込んでいる。
12の音列のうち4音ずつのグループが形作られ。

3つのグループが互いに互いの変形であるかの
ように関連づけられている。
作品の統一感はそこにあり。
しばしば音列の旋律線は、より細かく分断されている。
一つ一つの音が別々の楽器の音色をまとわされている。
「12音」の作曲家」

1883年 - アントン・ヴェーベルン、作曲家(+ 1945年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webern,
1883年12月3日 - 1945年9月15日)は。
オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者です。
ウェーベルンとも書かれます。

シェーンベルクやベルクと並んで
新ウィーン楽派の中核メンバーでありました。

なおかつ20世紀前半の作曲家として
最も前衛的な作風を展開致しました。

このため、生前は顧られる機会がほとんどありませんでした。

戦後の前衛音楽勃興の中で再評価されることにより。

世界的に多くの作曲家に影響を与えるに至りました。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webern
の生涯

生涯
オーストリア帝国の首都ウィーンに生まれました。

ヴェーベルン家はクロアチアなどに領地を所有する貴族の家庭です。
正式の名はアントン・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーベルン
(Anton Friedrich Ernst von Webern)です。

アントン・(フォン・)ヴェーベルン
(Anton (von) Webern。
作曲者自身はミドルネームを公式には使いませんでした。

1918年には(おそらく厭戦的な気分やオーストリア帝国崩壊を受けて)。
貴族のみに許された"von"を姓から外しました。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernの。

父親は成功した鉱山技師として
オーストリア帝国各地を転々としておりました。

このためヴェーベルンは少年時代を
グラーツやクラーゲンフルトなどに過ごしました。

音楽を愛好する家庭環境に育ちました。

1902年よりウィーン大学でグイード・アドラーに音楽学を師事
致しました。
ハインリヒ・イザークの
《コラリス・コンスタンティヌス》に
関する論文を提出して学位を得ました。

古楽のポリフォニー様式への関心が
後のウェーベルン自身の作風に大きな影響を与えています。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernは。
1904年からシェーンベルクに師事して作曲修行を続けました。

1908年に《パッサカリア ニ短調》作品1によって
独立を許されました。

シェーンベルク門下のベルクは
その後のウェーベルンの音楽活動において影響を及ぼしています。

音楽家として独立してからは、
イシュルやテプリツ、ダンツィヒ、シュテッティーン、プラハ
などで指揮者として活動致しました。

それからウィーンに戻りましたた。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webern
は。

第一次世界大戦後は、シェーンベルクを
輔佐して私的演奏協会を設立致しました。

1922年から1934年まで。

ウィーン労働者交響楽団の指揮者を務め、
BBC交響楽団にも定期的に客演を続けました。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン
(Anton (von) Webernは。

盟友ベルクが1935年に急逝すると。
遺された《ヴァイオリン協奏曲》の
イギリス初演で指揮を執りました。

その模様は、初演の
ヴァイオリニストルイス・クラスナーにより録音され、
2度にわたってCDに復刻されています。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン
(Anton (von) Webernは

1938年にナチス・ドイツによりオーストリアが吸収合併されると。

ウェーベルンの音楽は
「頽廃音楽」「文化的ボルシェヴィズム」の烙印を押されました。

これにより演奏活動で生計を立てることは困難になりました。

このため契約先の出版社ウニフェルザール・エディツィオーンの
編集人や校閲係を引き受けざるを得なかったのです。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernは。

1945年に終戦後に作曲活動を再開する思惑から。

ウィーンを去って。
ザルツブルク近郊のミッタージルの娘の家に避難
致しました。

しかし娘婿が元ナチ親衛隊であり。
当時は闇取引に関与していたのが
落とし穴となりました。

同年9月15日、喫煙のために。
ベランダに出てタバコに火をつけたところを。

オーストリア占領軍の米兵に発券されてしまいました。
闇取引の合図と誤解されました。
そしてその場で射殺されてしまいました。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernの
作風
ウェーベルンは寡作家です。

生前に出版された作品はわずか31曲でした。

ピエール・ブーレーズが監修・指揮したウェーベルン全集のCDは、
作品番号のない作品を含めてさえ、
ディスク6枚分で間に合っています。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernの。
しかしながらウェーベルンの後進への影響は大きいのです。

とりわけ戦後の前衛音楽への影響は濃厚でした。

後期作品は十二音技法が使われて密度の薄い音響体と
冷たい情感が特徴的です。

けれども
緻密に構成され、凝縮され、それでいて明晰な構造を持ち、
音高以外の要素も組織的に扱おうとする傾向が見られるなど
トータル・セリエリズムの前兆とみなすこともできます。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernは。
ブーレーズやシュトックハウゼンなどに影響を与えています。

ケージは。
ウェーベルンの独自な時間感覚やリズム構成をとらえました。

「音楽の神髄とは間合いと呼吸にあることを教えた作曲家である」
という趣旨の発言をしています。

ストラヴィンスキーは、シェーンベルクと
互いの作曲姿勢に反発し合ったにもかかわらず。

秘書で指揮者のロバート・クラフトの手引きで
十二音技法に精通するようになってからは。

ストラヴィンスキーは
ヴェーベルンへの傾倒のもとに自らの。
晩年様式を開花させていきました。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン
(Anton (von) Webern
は。

ある程度の長い経歴を持つ作曲家がそうであるように。

ウェーベルンは時期ごとに音楽を変化させていきまいた。

それでもなお、次のような特徴を挙げることができます。

1・
あらゆる音符が明晰に聞き分けられるほど
非常に簡素な響きのテクスチュア
念入りに選び出された音色
2・
実に事細かな演奏者への指示
特殊奏法の頻繁な利用
(管楽器のフラッター・タンギングや
弦楽器のコル・レーニョ奏法など)
しばしば長7度音程を越える旋律の跳躍
3・
楽曲の極度の短さ(《弦楽四重奏のための6つのバガテル》
(1913年)は全体を通して演奏しても3分しかかからない)

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン
(Anton (von) Webernの。

シェーンベルクに入門してから完成させた最初の作品が。
管弦楽のための《パッサカリア ニ短調》作品1(1908年)です。

構成的にはブラームスの
《交響曲第4番》フィナーレの前例に倣っています。

和声的に見ると進歩的でオーケストレーションは
尊敬していたブルックナーやマーラーの影響が認められます。
けれども。
個性的になっています。

また変奏される主題には、
お互いに逆行形の反行形を成している部分があります。

この主題が弦のピツィカートによって
途切れ途切れに提示されるなど、
後期作品を彷彿とさせるものがあります。

パッサカリアは古い音楽形式のひとつです。
後にウェーベルンが見せた古い音楽形式への関心
(たとえば《交響曲》や
《弦楽三重奏曲》にみられるカノンの利用)
の萌芽が見出されます。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン
(Anton (von) Webernの。

作品3の《5つの歌曲》(1909年)以降の作品でウェーベルンは無調を用いています。
無調期の作品では。
《弦楽四重奏のための5つの楽章》作品5(1909年)や。
《管弦楽曲のための6つの小品》作品6(1910年)などが
比較的よく演奏されます。
《管弦楽のための5つの小品》作品10(1913年)などによって
極限にまで短く凝縮された音楽は《4つの管弦楽歌曲》作品13(1918年)
あたりからさらに複雑さを極めてゆくようになります。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webern
の。

12音技法を用いた最初の例は。
《3つの宗教的民謡Drei geistliche Volkslieder 》作品17(1925年)です。

これ以降の作品はすべて12音技法で作曲されました。

器楽曲でその最初の例は、
《弦楽三重奏曲》作品20(1927年)です。

つまり《弦楽三重奏曲》は
12音技法に伝統的な楽式を融和させようとした最初の試みです。
《交響曲》作品21(1928年)に至って作風に変化が現れます。
《弦楽三重奏曲》までの極度の複雑さに変わり、
簡素な明瞭さが現れるようになります。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン
(Anton (von) Webernの。

ウェーベルンの音列技法は、しばしば非常に手が込んでいます。
12の音列のうち4音ずつのグループが形作られます。

3つのグループが互いに互いの変形であるかのように関連づけられています。
ウェーベルン作品の統一感はそこにあります。
しばしば音列の旋律線は、より細かく分断されます。
一つ一つの音が別々の楽器の音色をまとわされています。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernの。

ウェーベルンの最後の作品群は。
作曲様式における新たな発展の可能性を暗示しています。
たとえば2つのカンタータは。

以前の作品よりも大きなアンサンブルを採用しています。

所要時間が長くなり(第1番は9分、第2番は16分)、
響きの密度はいくぶん濃密。
音列作法はより単純で、盛期作品に認められる
音列の内的な動機的連関は見いだされません。

突然の不幸な事故死により。
ウェーベルンが《カンタータ第2番》作品31(1943年)の後に
、新しい方向に沿ってどこに辿り着こうしていたのかを
見定めることは、誰にもできなくなりましたた。
図形による作曲も考案していたと伝えられますが証拠は残っていません。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernの。
エピソード。

フィラデルフィアでの《交響曲》作品21の初演で演奏が終わった後で。
聴衆は反応に困って笑い出して作曲者の泣き声を覆い隠してしまいました。

ベルクの《ヴァイオリン協奏曲》では、
バルセロナにおける世界初演を指揮することになっていました。
リハーサルの最中に神経が高ぶって逐電してしまいました。

ヘルマン・シェルヘンと交代を望むと言ってスペインを後に致しました。

亡き友のことを思い出して。
練習できるような状態ではなかったのです(その後、世界初録音は果たしています)。

++++++++++++++++++++++

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernは。

新ウィーン楽派の中心3人のうちで。
唯一のカトリック(ベルクはプロテスタントでした。

シェーンベルクはカトリック教からプロテスタントに改宗した後。

1933年にナチスへの抗議としてユダヤ教に改宗)。

しかも熱心な信仰者で神秘主義者でもありました
作品のいくつかは霊的な動機や霊感から作曲されています。

ナチス政権への親近感から、
弾圧されながらも亡命の道を選びませんでした。
「自分ならば、ヒトラーに十二音音楽の意義を納得させることができる」
とすら考えていたらしいです。

晩年は親しい神父に、
「子供がコンパスと定規を使って作曲する日が来るのも、決して遠いことではない」
と語って驚かれました。

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
アントン・ヴェーベルン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webern, 1883年12月3日 - 1945年9月15日)は、オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者。ウェーベルンとも書かれる。シェーンベルクやベルクと並んで新ウィーン楽派の中核メンバーであり、なおかつ20世紀前半の作曲家として最も前衛的な作風を展開した。このため、生前は顧られる機会がほとんどなかったが、戦後の前衛音楽勃興の中で再評価され、世界的に多くの作曲家に影響を与えた。

目次
1 生涯
2 作風
3 エピソード
4 主要作品一覧
4.1 編曲作品
5 外部リンク
6 参考文献

生涯
オーストリア帝国の首都ウィーンに生まれる。ヴェーベルン家はクロアチアなどに領地を所有する貴族の家庭で、正式の名はアントン・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーベルン(Anton Friedrich Ernst von Webern)であるが、作曲者自身はミドルネームを公式には使わず、1918年には(おそらく厭戦的な気分やオーストリア帝国崩壊を受けて)、貴族のみに許された"von"を姓から外した。

父親は成功した鉱山技師として、オーストリア帝国各地を転々としており、このためヴェーベルンは少年時代をグラーツやクラーゲンフルトなどに過ごす。音楽を愛好する家庭環境に育ち、1902年よりウィーン大学でグイード・アドラーに音楽学を師事し、ハインリヒ・イザークの《コラリス・コンスタンティヌス》に関する論文を提出して学位を得た。古楽のポリフォニー様式への関心が、後のウェーベルン自身の作風に大きな影響を与えていよう。

1904年からシェーンベルクに師事して作曲修行を続け、1908年に《パッサカリア ニ短調》作品1によって独立を許された。シェーンベルク門下のベルクは、その後のウェーベルンの音楽活動において影響を及ぼしている。音楽家として独立してからは、イシュルやテプリツ、ダンツィヒ、シュテッティーン、プラハなどで指揮者として活動し、それからウィーンに戻った。第一次世界大戦後は、シェーンベルクを輔佐して私的演奏協会を設立。1922年から1934年までウィーン労働者交響楽団の指揮者を務め、BBC交響楽団にも定期的に客演を続けた。盟友ベルクが1935年に急逝すると、遺された《ヴァイオリン協奏曲》のイギリス初演で指揮を執った。その模様は、初演のヴァイオリニストルイス・クラスナーにより録音され、2度にわたってCDに復刻されている。

1938年にナチス・ドイツによりオーストリアが吸収合併されると、ウェーベルンの音楽は「頽廃音楽」「文化的ボルシェヴィズム」の烙印を押され、演奏活動で生計を立てることは困難になった。このため、契約先の出版社ウニフェルザール・エディツィオーンの編集人や校閲係を引き受けざるを得なかった。1945年に、終戦後に作曲活動を再開する思惑から、ウィーンを去ってザルツブルク近郊のミッタージルの娘の家に避難。しかし、娘婿が元ナチ親衛隊で、当時は闇取引に関与していたのが落とし穴となる。同年9月15日、喫煙のためにベランダに出てタバコに火をつけたところを、オーストリア占領軍の米兵により、闇取引の合図と誤解され、その場で射殺されたのである。

作風
ウェーベルンは寡作家であり、生前に出版された作品は、わずか31曲しかない。ピエール・ブーレーズが監修・指揮したウェーベルン全集のCDは、作品番号のない作品を含めてさえ、ディスク6枚分で間に合っている。しかしながらウェーベルンの後進への影響は大きく、とりわけ戦後の前衛音楽への影響は濃厚であった。後期作品は十二音技法が使われ、密度の薄い音響体と冷たい情感が特徴的だが、緻密に構成され、凝縮され、それでいて明晰な構造を持ち、音高以外の要素も組織的に扱おうとする傾向が見られるなど、トータル・セリエリズムの前兆とみなすこともできる。これがブーレーズやシュトックハウゼンなどに影響を与えている。一方、ケージは、ウェーベルンの独自な時間感覚やリズム構成をとらえて、「音楽の神髄とは間合いと呼吸にあることを教えた作曲家である」という趣旨の発言をしている。ストラヴィンスキーは、シェーンベルクと互いの作曲姿勢に反発し合ったにもかかわらず、秘書で指揮者のロバート・クラフトの手引きで十二音技法に精通するようになってからは、ヴェーベルンへの傾倒のもとに自らの晩年様式を開花させていった。

ある程度の長い経歴を持つ作曲家がそうであるように、ウェーベルンは時期ごとに音楽を変化させていった。それでもなお、次のような特徴を挙げることができる。

あらゆる音符が明晰に聞き分けられるほど、非常に簡素な響きのテクスチュア
念入りに選び出された音色
実に事細かな演奏者への指示
特殊奏法の頻繁な利用(管楽器のフラッター・タンギングや弦楽器のコル・レーニョ奏法など)
しばしば長7度音程を越える旋律の跳躍
楽曲の極度の短さ(《弦楽四重奏のための6つのバガテル》(1913年)は全体を通して演奏しても3分しかかからない)
シェーンベルクに入門してから完成させた最初の作品が、管弦楽のための《パッサカリア ニ短調》作品1(1908年)である。構成的には、ブラームスの《交響曲第4番》フィナーレの前例に倣っているが、和声的に見ると進歩的で、オーケストレーションは尊敬していたブルックナーやマーラーの影響が認められるものの、個性的になっている。また、変奏される主題には、お互いに逆行形の反行形を成している部分があり、この主題が弦のピツィカートによって途切れ途切れに提示されるなど、後期作品を彷彿とさせるものがある。パッサカリアは古い音楽形式のひとつであり、後にウェーベルンが見せた古い音楽形式への関心(たとえば《交響曲》や《弦楽三重奏曲》にみられるカノンの利用)の萌芽が見出される。

作品3の《5つの歌曲》(1909年)以降の作品でウェーベルンは無調を用いている。無調期の作品では、《弦楽四重奏のための5つの楽章》作品5(1909年)や、《管弦楽曲のための6つの小品》作品6(1910年)などが比較的よく演奏される。《管弦楽のための5つの小品》作品10(1913年)などによって極限にまで短く凝縮された音楽は、《4つの管弦楽歌曲》作品13(1918年)あたりからさらに複雑さを極めてゆくようになる。12音技法を用いた最初の例は、《3つの宗教的民謡Drei geistliche Volkslieder 》作品17(1925年)で、これ以降の作品はすべて12音技法で作曲された。器楽曲でその最初の例は、《弦楽三重奏曲》作品20(1927年)である。つまり《弦楽三重奏曲》は、12音技法に伝統的な楽式を融和させようとした最初の試みといってよい。《交響曲》作品21(1928年)に至って作風に変化が現れ、《弦楽三重奏曲》までの極度の複雑さに変わり、簡素な明瞭さが現れるようになる。

ウェーベルンの音列技法は、しばしば非常に手が込んでおり、12の音列のうち4音ずつのグループが形作られ、3つのグループが互いに互いの変形であるかのように関連づけられている。ウェーベルン作品の統一感はそこにあるが、しばしば音列の旋律線は、より細かく分断されて、一つ一つの音が別々の楽器の音色をまとわされている。

ウェーベルンの最後の作品群は、作曲様式における新たな発展の可能性を暗示している。たとえば2つのカンタータは、以前の作品よりも大きなアンサンブルを採用しており、所要時間が長くなり(第1番は9分、第2番は16分)、響きの密度はいくぶん濃密である。音列作法はより単純で、盛期作品に認められる音列の内的な動機的連関は見いだされない。突然の不幸な事故死により、ウェーベルンが《カンタータ第2番》作品31(1943年)の後に、新しい方向に沿ってどこに辿り着こうしていたのかを見定めることは、誰にもできなくなった。図形による作曲も考案していたと伝えられるが、証拠は残っていない。

エピソード
フィラデルフィアでの《交響曲》作品21の初演で演奏が終わった後、聴衆は反応に困って笑い出して作曲者の泣き声を覆い隠してしまった。
ベルクの《ヴァイオリン協奏曲》では、バルセロナにおける世界初演を指揮することになっていたが、リハーサルの最中に神経が高ぶって逐電し、ヘルマン・シェルヘンと交代を望むと言ってスペインを後にした。亡き友のことを思い出し、練習できるような状態ではなかったのであった(その後、世界初録音は果たしている)。
新ウィーン楽派の中心3人のうちで、唯一のカトリック(ベルクはプロテスタント。シェーンベルクはカトリック教からプロテスタントに改宗した後、1933年にナチスへの抗議としてユダヤ教に改宗)。しかも熱心な信仰者で神秘主義者でもあり、作品のいくつかは霊的な動機や霊感から作曲されている。
ナチス政権への親近感から、弾圧されながらも亡命の道を選ばなかった。「自分ならば、ヒトラーに十二音音楽の意義を納得させることができる」とすら考えていたらしい。
晩年は親しい神父に、「子供がコンパスと定規を使って作曲する日が来るのも、決して遠いことではない」と語って驚かれた。

主要作品一覧
シェーンベルクに入門する前後に独力で書かれた初期作品は、後期ロマン主義音楽の様式を採っている。これらは生前には出版されず、そのため作品番号さえ付けられなかった。それにもかかわらず、研究者ハンス・モルデンハウアー(1906年 - 1987年)によって公開され、出版されると、現在しばしば演奏・録音されるウェーベルン作品となった。大管弦楽のための牧歌《夏の風の中で Im Sommerwind 》(1904年)や《弦楽四重奏のための緩徐楽章》(1905年)がその代表であり、前者はディーリアス、後者はブラームスに近い。

管弦楽のための《パッサカリア》作品1 (1908年)
無伴奏合唱曲《軽やかなる小舟にて逃れよ》作品2 (1908年、詩:シュテファン・ゲオルゲ)
Der Siebente Ringによる《5つの歌曲》作品3 (1907-08年)
シュテファン・ゲオルゲによる《5つの歌曲》作品4 (1908-09年、ピアノ伴奏独唱曲)
弦楽四重奏のための《5つの断章》作品5 (1909年)
管弦楽のための《6つの小品》作品6 (初版:1909-10年、改訂版:1928年)
ヴァイオリンとピアノのための4つの小品 作品7 (1910年)
リルケの詩による《2つの歌曲》作品8 (1910年)
弦楽四重奏のための6つのバガテレ 作品9 (1913年)
管弦楽のための5つの小品 作品10 (1911-13年)
ピアノとチェロのための3つの小品, 作品11 (1914年)
4つの歌曲 作品12 (1915-17年)
5つの歌曲 作品13 (1914-18年)
6つの歌曲 作品14 (1917-21年、編成:歌手、クラリネット、バスクラリネット、ヴァイオリン、チェロ)
5つの宗教的歌曲 作品15 (1917-22年、室内楽伴奏)
ラテン語詩による5つのカノン 作品16 (1923-24年、編成:ソプラノ、クラリネット、バスクラリネット)
3つの宗教的民謡 作品17 (1924-25年、編成:歌手、ヴァイオリン、ヴィオラ、クラリネット、バスクラリネット)
3つの歌曲 作品18 (1925年、編成:歌手、E♭管クラリネット、ギター)
2つの歌曲 作品19 (1926年、編成:混声合唱、チェレスタ、ギター、ヴァイオリン、クラリネット、バスクラリネット)
弦楽三重奏曲 作品20 (1927)
交響曲 作品21 (1928年)
四重奏曲 作品22 (1930年、編成:ヴァイオリン、クラリネット、テナー・サクソフォーン、ピアノ)
ヒルデガルト・ヨーネの詩集による3つの歌 作品23 (1934年)
協奏曲 作品24 (1934年、編成:フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、トランペット、ヴァイオリン、ヴィオラ、ピアノ)
ヒルデガルト・ヨーネの詩による3つの歌 作品25 (1934-35年)
混声合唱と管弦楽のための《[[光線Das Augenlicht]] 》作品26 (1935年、詩:ヨーネ)
ピアノのための変奏曲 作品27 (1936年)
弦楽四重奏曲作品28 (1937-38年、BACH主題による作品)
ソプラノ独唱、混声合唱と管弦楽のための《カンタータ第1番》作品29 (1938-39年)
管弦楽のための変奏曲 作品30 (1940年)
ソプラノ独唱、バス独唱、合唱と管弦楽のための《カンタータ第2番》作品31 (1941-43年)

編曲作品
バッハ:『音楽の捧げもの』BWV1079から「6声のリチェルカーレ」(オーケストラ編曲)

外部リンク
晩年の写真と墓地の風景
ウェーベルンに関する音楽コラム、英語
同上

参考文献
岡部真一郎『ヴェーベルン—西洋音楽史のプリズム』(春秋社; ISBN 4393934822)
アントン・ウェーベルン『アントン・ウェーベルン—その音楽を享受するために』竹内豊治 編訳(りぶらりあ選書 法政大学出版局; ISBN 4588021109)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3" より作成
カテゴリ: 近現代の作曲家 | オーストリアの作曲家 | 表現主義 | 1883年生 | 1945年没

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++

12月3日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%883%E6%97%A5

できごと
1805年(文化2年10月13日) - 華岡青洲が日本初の麻酔を使った手術に成功

1946年 - NHKラジオで日本初のクイズ番組「話の泉」の放送が開始される。

1954年 - 少女漫画雑誌なかよしが創刊される。

1967年 - 世界初の心臓移植がケープタウンで行われる。
世界初のレシピエントは移植18日後に死亡。

1989年 - ジョージ・H・W・ブッシュ米大統領と
ゴルバチョフ・ソ連議長がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言。

1994年 - ソニー・コンピュータエンタテインメントがプレイステーションを発売。

1994年 -智頭急行智頭線開業。

2005年 - Jリーグ、J1・ガンバ大阪が創立初の年間優勝。

2007年 - Jリーグ準加盟クラブで日本フットボールリーグ(JFL)所属の
ロッソ熊本及びFC岐阜の2008年度からのJ2参入を承認。

2007年 - 東京都内、京浜地区のタクシーが値上げ660円から710円に

誕生日
1819年(文政2年10月16日) - 阿部正弘、幕末の老中、福山藩主(+ 1857年)

1830年 - フレデリック・レイトン、画家・彫刻家(+ 1896年)

1857年 - ジョゼフ・コンラッド、小説家(+ 1924年)

1862年 - ジュール・ランカン、ベルギー首相 (+ 1934年)

1877年 - リチャード・ピアース、航空工学者(+ 1953年)

1879年 - 永井荷風、小説家(+ 1959年)

1882年 - 種田山頭火、俳人(+ 1940年)

1883年 - アントン・ヴェーベルン、作曲家(+ 1945年)

1887年 - 東久邇宮稔彦、第43代内閣総理大臣(+ 1990年)

1888年 - 水野仙子、作家(+ 1919年)

1889年 - 小汀利得、ジャーナリスト・時事評論家(+ 1972年)

1895年 - アンナ・フロイト、心理学者(+ 1982年)

1899年 - 池田勇人、政治家・内閣総理大臣(+ 1965年)

1911年 - ニーノ・ロータ、作曲家(+ 1979年)

1924年 - ジョン・バッカス、情報工学者(+ 2007年)

1925年 - 金大中、大韓民国第15代大統領

1930年 - ジャン=リュック・ゴダール、映画監督

1939年 - 木村朱炎、書家

1939年 - 宇多川勝太郎、大相撲力士(+ 1989年)

1940年 - 篠山紀信、写真家

1941年 - 山脇百合子、絵本作家・挿絵画家

1947年 - 山内新一、元プロ野球選手

1947年 - ウェイン・ギャレット、元プロ野球選手

1948年 - オジー・オズボーン、ミュージシャン(ブラック・サバス)

1948年 - 岡崎徹、俳優、歌手
1950年 - イルカ、歌手
1951年 - 長州力、プロレスラー
1952年 - 柴田光陽、元騎手、調教師
1955年 - 麻生よう子、歌手
1957年 - 岩里祐穂、作詞家、作家
1961年 - 高松信司、アニメーション監督
1962年 - 神保悟志、俳優
1963年 - カトキハジメ、メカニックデザイナー
1964年 - パンチ佐藤、元プロ野球選手、タレント
1964年 - マルコ・テンペスト、マジシャン
1965年 - 古田新太、俳優
1968年 - 織戸学、レーシングドライバー
1970年 - クリスティアン・カランブー、フランスのサッカー選手
1971年 - 藤井貴彦、アナウンサー
1972年 - 高岡早紀、女優
1976年 - 岡本知高、ソプラニスタ
1976年 - 徳田憲治(スムルース)、ミュージシャン
1976年 - ゲーリー・グローバー、プロ野球選手
1977年 - 笑福亭智之介、落語家・マジシャン
1979年 -村田秀亮、お笑い芸人、(とろサーモン)
1979年 - 首藤奈知子(日本放送協会アナウンサー)
1980年 - 武田豊彦、お笑い芸人、アントニオ
1982年 - 美竹涼子、AV女優
1982年 - 坂本エンリケ、ファッションモデル
1984年 - 藤家和依、 ジャニーズJr.、Question?のメンバー
1984年 - 横川史学、プロ野球選手
1984年 - 高井彰大、騎手
1986年 - 園原りか、AV女優
1991年 - 碓井将大、D-BOYS
1994年 - 京本大我、ジャニーズJr.
2000年 - 鍋本凪々美、子役
生年不詳 - 安倍ようこ、声優・歌手

[

忌日
1137年 - ロタール3世、神聖ローマ皇帝(* 1075年)

1490年 - ジュリアーノ・ダ・マイアーノ、彫刻家

1610年(慶長15年10月18日) - 本多忠勝、武将・桑名藩主(* 1548年)

1839年 - フレデリク6世、デンマーク・ノルウェー王(* 1768年)

1848年(嘉永元年11月8日) - 坪井信道、蘭方医(* 1795年)

1850年(嘉永3年10月30日) - 高野長英、蘭学者(* 1804年)

1866年 - ヤン・ヴァーツラフ・カリヴォダ、作曲家(* 1801年)

1876年 - ヘルマン・ゲッツ、作曲家(* 1840年)

1882年 - ジェームズ・チャリス、天文学者(* 1803年)

1885年 - 桃井春蔵、剣術家(* 1825年)

1886年 - 箕作秋坪、蘭学者(* 1826年)

1890年 - 根岸友山、元壬生浪士・庄内藩新徴組取締役(* 1810年)

1894年 - ロバート・ルイス・スティーヴンソン、小説家(* 1850年)

1897年 - フリードリヒ・ヴィネッケ、天文学者(* 1835年)

1910年 - メリー・ベーカー・エディ、クリスチャン・サイエンスの創立者(* 1812年)

1919年 - ピエール=オーギュスト・ルノワール、画家(* 1841年)

1920年 - ウィリアム・アブニー、天文学者・化学者(* 1843年)

1931年 - 花井卓蔵、弁護士(* 1868年)

1935年 - ミルマン・パリー、叙事詩学者(* 1902年)

1937年 - 高田早苗、元文部大臣・早稲田大学総長(* 1860年)

1941年 - クリスティアン・シンディング、作曲家(* 1856年)

1942年 - ヴィルヘルム・ペッテション=ベリエル、作曲家(* 1867年)

1942年 - ヘンナー・ヘンケル、テニス選手(* 1915年)

1948年 - 式守伊之助 (16代)、大相撲の立行司(* 1892年)

1956年 - アレクサンドル・ロトチェンコ、画家・写真家・デザイナー(* 1891年)

1965年 - 河上丈太郎、政治家(* 1889年)

1969年 - 長谷部言人、人類学者(* 1882年)

1975年 - 鹿島守之助、実業家・参議院議員(* 1896年)

1978年 - ウィリアム・グラント・スティル、作曲家(* 1895年)

1979年 - 張国涛、中国共産党創立初期の幹部(* 1897年)

1980年 - オズワルド・モズリー、イギリスのファシズム運動指導者(* 1896年)

1980年 - 板沢峰生、プロ野球選手(* 1961年)

1986年 - 川島四郎、栄養学者(* 1895年)

1986年 - 武田文吾、元騎手・調教師(* 1907年)

1986年 - 東君平、絵本作家・童話作家(* 1940年)

1988年 - 清水宗徳、老荘思想研究家(* 1910年)

1993年 - 磯田一郎、実業家・経団連副会長(* 1913年)

1996年 - バーブラーク・カールマル、アフガニスタンの政治家(* 1929年)

1999年 - スキャットマン・ジョン、ミュージシャン(* 1942年)

1999年 - マデリーン・カーン、女優(* 1942年)

2000年 - 小平忠、政治家(* 1915年)

2000年 - 福田純、映画監督(* 1923年)

2004年 - 陳省身、数学者(* 1911年)

2005年 - 鎌田要人、元鹿児島県知事(* 1921年)

2005年 - 川崎寛治、元日本社会党衆議院議員(* 1922年)

2005年 - 田中敦子、画家(* 1932年)

2006年 - 大森健次郎、映画監督(* 1933年)

2006年 - 竹中省吾、裁判官(住民基本台帳ネットワークに違憲判決)(*1942年)

記念日・年中行事
カレンダーの日(日本)
太陽暦採用に伴って、明治5年12月3日(旧暦)が
明治6年(1873年)1月1日となったことに由来し、
全国団扇扇子カレンダー協議会が1987年に制定。

奇術の日(日本)
日本奇術協会が、奇術を行う際の掛け声「ワン、ツー、スリー」に因んで制定。

妻の日(日本)
1年間の妻の労をねぎらう日。
1年の最後の月である12月と、
感謝を表す「サン(3)クス(Thanks)」の語呂合わせに由来する。1995年に制定。


白いハト記念日(全世界)
子羊の群れの美津子さんの信仰の記念日。

「ここをおして」をクリックされてください。

東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年12月4日(木曜日)

ことしもずっと前に。
ひなまつりがおわり。

春分の日もはるかまえ。
「さくら咲き」
「4月」が終わりました。
「5月」になりました。
「5月」もおわりました。
6月に。「夏」になりました。
6月も終わりました。
7月 たなばた もおわり。
7月もおわりました。
8月もおわりました。
夏はすぎました。
9月の秋はおわりました。
中秋10月がおわりました。
「11月」になりました。
今は晩秋もおわり「冬」。
「12月」です。

冬です。雪国の冬です。

「晩秋」から「冬」への移り変わりは
「かけあし」のようでした。
「11月」。
「9月」の初秋がおわり。
「名月中秋10月もおわり」ました。

「11月」もおわりました。
「12月」です。
「晩秋」から「冬」への移り変わりは
「かけあし」のようでした。
「春」がゆっくりと歩いてくるのをまたねば
なりません。

「あと30日足らずで」で。
「今年」はおわります。
そして。
「来年」になります。

「冬」はかけあしでやってくる。

「春」はゆっくりと歩いてくる。

「来年」。

考えると「おそろしいもの」です。

考えなければ。
「なおおおそろしい」
ものであるものかもしれません。
「考えずにいるつけ」がまわって
くるかもしれません。

「来年」のことを考えれば「鬼」が笑う。
「来年」のことを考えずにすめば「鬼」は
笑わないのだろう。
「鬼」とはなんだろう。

今日の深夜早朝03:15amには。
久方ぶりに大きな「星空」がみえました。
早朝くらいうちは。
空に月。
「お月様」が「秋雲のじゅうたん」
天高くにねそべっている
ような「寒月」です。

06:30amころ日があければ。
くらい朝日を背に。
西のコバルトの空高く明るい。
とても高い成層圏近くの高い高度に。

西のコバルトの空高に。
「刷毛」でひいたように「絹雲(けんうん)」が
何本も何本も。
描かれて。
たなびいていました。

実に見事な筆捌(ふでさばき)です。
ためらいがない「朝焼け色」の線描です。

高い成層圏近くの高い高度に。
「刷毛でひいたように」「絹雲(けんうん)」
の端には渦巻きのような「ぬけあな」があり
「青空」が透けてみえます。

この「あおぞら」をみているととても
信じられないくらいに。
元気がわいてくることに気が付きました。
「めぐみ」の「陽射し」のおかげです。

「そら一杯の青空の天井」と
「太陽のひかりのひざし」は。
なによりもの「生きとし生けるもの」への。
「ごちそう」です。
そして「太陽のひかりのひざし」は
「めぐみ」です。

ありとあらゆる「生命」をはぐくむもの。
ありとあらゆる「生命」をなぐさめるもの。
「生きとし生けるもの」に。
「いきるちから」をさずけるものです。

さながらにして。
東山魁夷画伯の描かれた大きな壁画。
大きな屏風絵の世界。

そのものを彷彿させますです。
東山魁夷画伯は。
「よくかけたものです」。

はやいものです。
ときのたつのは。
はやいものです。

そしてふと考えれば
今年もほぼ「11ヶ月」が
終わりました。

そして中秋から晩秋にうつろい。
いまや「寒月」の「12月」です。

病院の庭園に「4本」ある
「金木犀:きんもくせい」の大木の
いずれもがこがねの花を
たんぽぽのように
枝にみのらせていました。
まだ「はつはな」で初々しかったです。
けれども「金木犀:きんもくせい」
は雨に打たれると。
花は地面にオレンジの緋色毛氈(ひいろもうせん)
のように落下致します。
オレンジ色の積雪のようです。

「金木犀:きんもくせい」に変わって
「銀木犀:きんもくせい」のプラチナ色の香りが
致しました。

冬になり。
「金木犀:きんもくせい」も
「銀木犀:きんもくせい」
も花はおわりました。

山茶花が蕾をふくらませています。
「やぶつばき」が蕾をふくらませています。

山茶花(さざんか)の「はなびら」が
そして今朝の早朝まだ「花」にもきがつかぬうちに
地に舞い下りていました。

山茶花(さざんか)の花ひとつさいて
夜の木枯らしでちったようです。
みつめれば。
木枯らしに弓射られた白鷺のはねのようでした。

ふと野草の花は一般的には。
香らない花が多いことに気づきました。

伊藤左千夫の「野菊の墓」の「野菊」は。
矢車菊 (やぐるまぎく)
はとても綺麗なむらさきの「のぎく」です。
けれども「のぎく」は香りません。
(Corn lower, Bachelor's-button)です。

因みに
最高級の(今はもうとれない)
インド・カシミール地方で産出されたの
サフアイアの色は「矢車菊色」=
「カシミール・ヴァイオレット」。

麦畑やとうもろこし畑の中に 咲いていたことから。
「コーン・フラワー」=「野菊」(Corn lower)
です。

別名 「矢車草(やぐるまそう)」 といわれることがあります。
実は「矢車菊 (やぐるまぎく)」と
「矢車草(やぐるまそう)」まったく違う植物です
矢車菊 (やぐるまぎく)が「野菊」。
「野菊」は春から夏にかけて咲くむらさきの花です。

古代エジプトのツタンカーメン王の墓 からも
発見された由緒正しき「野菊」で色は紫です。

ツタンカーメン王のまだ幼な子王妃が
「亡きツタンカーメンンにささげるけなげな姿」
が鮮烈に眼に浮びます。
「野菊」です。
けれども「野菊」は香りません

毎朝暗い早朝と暗くなる午後4時ころに
「木枯らし」がないていました。
「こおろぎ」のほかの。
「こおろぎ」の声も聞こえなくなりました。

「こおろぎ」のかわりに「木枯らし」が
鳴いている。

木枯らしがかわりに。
「ろうろう」「こうこう」とふいています。

ふと。
「寒さにおびえる」ひとの気配がかんじられました。
はてだれだろうとおもえば。
うら若く苦労に苦労をかさねて
24歳にして世を去った「樋口一葉」。
樋口一葉の「わかき」「冬の短歌」がきこえるようです。

散たまるふもとの落葉わけて思ふ
埋もれぬべき雪の山里

ちりたまるふもとのおちはわけておもふ
うもれぬへきはゆきのやまさと

庭の面につもる紅葉の色見れば
散りての後もにしきなりけり

にわのおもにつもるもみしのいろみれば
ちりてのあともにしきなりけり

世の中の秋にあはじとおくれけん
一もと野ぎく思ひあがりて

よのなかにあきにあはしとおくれけん
ひともとのきくおもひあがりて

「24歳」の「貧しい乙女」の
かなしさの表情と。
すばらしいうら若い「御婦人」の知性が。
如実によみとれます。

これからは日は。
陽は次第にみじかくなる。
日が短くなる。
朝は明けるのは遅くなり。
夕に暗くなるのは速くなる。

しだいに陽がみじかくなる・
なぜか。
不思議なやさしさ。
やすらぎと。
心やすらかなる
安堵感をかんじます。

けれども。
「安堵感」と「落胆感」は。
表裏一体。
両羽(もろば)の剣です。

「ぬかよろこび」の「ぬか」のような
性格を。
「短くなる陽」は持っています。

季節には「大気の音」があるようです。

朝空は
陽ははるかに天高く。
空色はミルク色です。
クリームのかかった雲空です。

「つつじ」の「花」が「春に」おわり。
「葉木」になりました。
東京都世田谷区山本クリニックの庭園には

「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。

「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。

金木犀の大木が4本と銀木犀が2本
あります。

「中秋」をつたえるがごとく。
モクセイの木が「香り花」が開花致しました。

今は
「晩秋」。
「木犀:もくせい」の「花」は通り過ぎました。
「山茶花(さざんか)」と「やぶつばき」が
蕾を大きくしています。
山茶花(さざんか)も「やぶつばき」も私は「大好き」
な花木です。

「花」はみえない頃からもう
「金木犀:きんもくせい」
は「香っています」。
モクセイも秋にも若葉をだします。
「木犀:モクセイ」は「荒い木」
です。
けれども「生き様」は。
樹木として
とてもとても麗しいと思います。
ある意味では威風堂々です。

「あじさい」は
のんびりやの気がする。

「あじさい」の「花」はさいたまま
「花がさいた」を忘れたかのように
ぼんやりと木にのっている。
いつ花が散るのだろう。
ふと考えます。

あじさいのはなは散らずにそのまま。
いちょうのきの落葉のように。
「葉」としてまっていくのかな。

ふと思う。

考えれば「あじさいのつぼみ」が
思い出せない。
花の咲く存在感のない植物は
あじさいです。
うすぼんやりした花木です。
水墨画の主人公にはなりえない。

この時期になり。
森山を分け入ると。

木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花の花のごとくに紅葉する
「やまはぜの葉木」が「大好き」です。

「やまうるしの紅葉」もかわいらしく。
「大好き」です。

身の丈以上ほどにもなって群生する。
野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
が。
病院の林の一角に野生のまま
おいしげっています。

野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
のパープルの真珠が群れたように実る
「実りの木の実」の風にそよぐ音色には。
おどろかされます。

あけびつたもうれしい。
あけびの「実」がみつかればなおなおうれしい。
またたびをみつけました。
根元にねこにかじられきずがある。

里山の紅葉の時期から冬の里山の時期
になりました。

四季の歩みの春夏秋冬のうつろいは
メトロノームの「あゆみ」を
感じさせます。

この「あゆみ」の「質量」は
とてもとても高いです。
質量があれば。あたかも。
重力のように。
四季のリズムにひきよせられていく。
そのような感じがします。

四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいてなお着々。
確実な「リズム」を感じます。

ここに。
「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
がくわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じです。

草花や草木につつまれた自然は。
「音楽」と同じように
ひびきとして聴こえます。

自然は
「しぜん」の
「ヴィルトオーゾ」と
「ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」
*です。

この「自然のフイルハーモニウム」の。
指揮者は。
太陽なのか大地なのか人なのか。

或は音色をかもし出す自然はオーケストラ
であるのか。
ソリストなのだろうか。

私の尊敬する「合衆国USA」の
女性で小説家(「ノーベル賞受賞者」)
「パール・サイデンストリッカー・バック
(Pearl Sydenstricker Buck)
中国名、賽珍珠(サィ・チンシュ)」
パールバックの「大地」に
その「こたえ」が示唆されています。

古代より芸術家が
自然を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判ります。

*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。

実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。

但し音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる「成分」というわけ
ではありません。

また「音楽であるため」に。
三要素が絶対必要ということ
でもないでしょう。

邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。

「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。

邦楽もその一つです。

大和の国 やまとのくにの自然は。
「大和の国の音楽」と同じように思えます。
聴こえます。

「音楽」は「音」「おと」です。
そして「しらべ」=メロディとハーモニーです。
人類が「この音楽」を「楽譜」として
「寸分たがわず」「譜面」という名の「紙」に
「かくことを完成させた」ということは
大変なことです。

人間は。
人類は。
わずか「400年」で。

「音楽の旋律」に対する「楽譜」を。
「あらたな言語」を
完全に「完成」させたことになります。

まさにミューズの神の「神業かみわざ」です。

木々のめぶきの
冬なおも。
ますます力強い息吹を感じます。

「真夏」をすぎ「秋」になると。
再び「若葉」がみられることに。
きづきました。
「ため息」がでるほど木々の「秋若葉」の
「つどい」は「つよく」「うつくしい」。

木々のてっぺんは萌黄色から
「ふかみどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「夏を迎えた葉束」になりました。
これからは
「深まる秋」をまちます。
「紅葉」の炎が。
樹木の上方で。
くすぶりまちわびてています。
冬の樹木です。

「若葉」の「新緑」から「深緑」です。

高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり夏のおとずれを
伝えていました。

桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうともいえる青葉。
そして見え隠れする「紅葉葉」。
紅葉葉の10枚20枚がひとつひとつ
の樹木にみえるようになりました。
「黄色調」です。
そして今「樹木」は「葉のいろ」をかえ
「宇宙」に舞おうとしています。

明らかなる。
「冬から春」とはことなる。
「春から夏」「夏から秋」。
「秋から冬」
にむかう四季の。
「大気の「色」のうつろい
に気づきます。

今は里山(さとやま)をさまよい。
今は里山(さとやま)をあるきたい。
今は里山(さとやま)の季節。
今は昔々里山(さとやま)であそび。
今は昔々て里山(さとやま)でおぼえ。
今は昔々里山(さとやま)でまなんだ。
今は昔々のその日々の思い出は。
今は黄金(こがね)か。あるいは。
今は銀か。いぶし銀か。
今はもしかしたらプラチナか。
今は思い出色は鉛のように。
今は重さは鉛のようになり。
今は心の奥深くに埋もれて感じられます。

「幸せ色」=「しあわせいろ」
ならばよいです。

けれども
早朝は非常に寒くなりました。

冬やま中さまよいて
冬やま中をわけいらば
冬やま中大樹の根元に隠れたり
冬やま中あけぼの色のちひさき炎(ほのほ)
冬やま中みつけたりやまの秋の華。
冬やま中やまの秋葉木のかくれんぼ
冬やま中大樹の根元に隠れたり
冬山はぜの葉木。
冬やま中やまうるしの葉木。
冬やま中あきやまはぜとふるやまうるし。
冬こす「はだか木」。
冬こす元気な木。たくましき木。

秋冬山萩(やまはぎ)の
秋冬花をかくして燃えたたむ
秋冬に実りの祭りなり
秋冬山はぜの葉炎
秋冬天高く燃ゆ

あきふゆやまはぎの
あきふゆはなをかくしてもえたたむ
あきふゆにみのりのまつりなり
あきふゆやまはせのほのほ
あきふゆてんたかくもゆ

ふゆひろくなりけり空(そら)たかし
ふゆさとやまに木々のみどり木
ふゆこもれびうけて燃えるがごとし
ふゆみどりの炎(ほのほ)
ふゆほのほうちけさむかすみはあおし
ふゆほのほにかすみにただよひて
ふゆうるわしくかがやきたり
ふゆあたたかくかおりたり
ふゆあざやかなりけり 
ふゆやまさとのやまみどり
ふゆやまさとのふかみどり

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。

多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。

「大きな夏みつけた」
から
「夏がすぎてて真秋間近い」

「小さな秋みつけた・。」

そして
「小さな冬みつけた」
そして
「大きな冬みつけた」。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
++++++++++++++++++++++

平成20年
4月29日(火曜日)
はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)祝日は「お休み」
を頂きました。
5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。
-------------------------------

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。
元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました
++++++++++++++++++++++

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

10月13日(月曜日)は
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました

++++++++++++++++++++++

11月 3日(月曜日)
11月24日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

12月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらず
インフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は。
ドイツは大詩人を産出するので興味深い国です。

とりわけの世紀のドイツの大詩人。

軍人の父と離婚した母により。
娘を欲しがっていた母により。
5歳まで女の子として育てられた詩人。

1875年 - ライナー・マリア・リルケ、詩人(+ 1926年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ
(Rainer Maria Rilke、
1875年12月4日 - 1926年12月29日)は。

20世紀を代表するオーストリア生まれの
詩人、作家、評論家です。

独特の言語表現による詩は。

ドイツ詩に新たな一面を切り開きました。
20世紀のドイツ文学の代表者の一人です。

ドイツ文学史を通して見ても。
最高峰の詩人の一人に数えられます。

また独自の宗教観や時代に対する
不安や苦しみといった概念を
もたれています。

このプロフールは20世紀をも。
象徴するようにも捉えらる気が致します。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeの生涯

プラハ(現チェコ領。
当時はオーストリア・ハンガリー帝国の領土内)の。
ユダヤ系ドイツ人の子として生まれました。

プラハ当地は。
ドイツ語文化圏から見ればかなり外れの街といえます。

プラハの街は。
スラブ人、ドイツ人、ユダヤ人が
鼎立していたところでもあります。

ドイツ人は不利な立場になりつつある街でした。

またこの街ではキリスト教の
新旧勢力の衝突の場でもありました。

このプラハの街で生まれた事が。

リルケの独特な観点を生み出したともいえます。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。

1875年軍人出のヨーゼフ・リルケと
その妻ソフィアの息子として生まれました。

二人はリルケが9歳のときに離婚しています。

父ヨーゼフは軍人向きの性格でした。
軍を去って鉄道会社の職員となりました。

そしてのちにはリルケを
陸軍の幼年学校や士官学校に入学させました。
父親はライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilke
が「軍人」になることを望みました。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilke
にとって。
この陸軍の幼年学校や士官学校に入学は。
重い心身の負担となりました。

不祥事もあって士官学校を退学することになりました。

この一件は父を深く失望させました。

けれども母ソフィアは。
父以上にリルケに影響を与えた人物でした。

娘を欲しがってリルケを5歳まで女の子として育てました。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeの母の。

このようなことをはじめ。

実母のその奇抜で
突飛な振る舞いや非現実的で虚栄的な性格によって。
リルケの生と人格に複雑な陰影を落とすことになりました。

母親に対する屈折した心情を吐露した記述は。
ルー・ザロメ宛ての手紙などに遺されています。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。

陸軍学校を経て。
1894年に19歳で処女詩集『いのちと歌』を刊行致します。

プラハ大学ついでミュンヘン大学に学びました。

詩や散文を多く執筆致します。

初期の詩作品は自らの感情を詩篇にのせて歌う
優美さによって特徴付けられます。

そのころ隆盛してきていた
ユーゲントシュティールと軌を
一にしていると見る向きもあります。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。

22歳のときに。
作家ルー・ザロメを知ります。

ザロメの後を追うようにベルリンへ行きました。
ベルリン大学で学びましだ。

作家ルー・ザロメと共にロシアやイタリアへ旅行致しました。

ロシアでの人々の素朴な信仰心に根ざした生活に触れた経験は。
『神さまの話』や
『時祷詩集』を生む契機の一つとなりました。

26歳の時にクララ・ヴェストホフと結婚したが
家庭は早くから離散状態でした。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。

27歳の時からパリでの生活を始めました。

このパリ時代に経験した不安と孤独、憂愁の体験は
『マルテの手記』を執筆するうえでの大きな源泉となります。

さらに。
この頃に彫刻家オーギュスト・ロダンと知り合って。
その芸術観から多くを学びました。

ロダンの評論も書き上げています。

(のちロダンと不和を生じたが、
リルケ自身のロダンの評価は
変わることはありませんでした)。

またシャルル・ボードレールや
ポール・セザンヌなど様々な芸術家に対する関心を深めつつ。

自らの芸術についての考えや立場を転換していきました。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeの。
それまでの優美さや感受性の流露は影を潜めて。
パリで体験した現実と孤独。

そして誠実な観察と職人的な仕事によって支えられた
ロダンの造形への意志の影響の下に。

『新詩集』ではいわゆる「事物詩」をはじめとした
語られているものを言葉によって内側から形作ろうとする
作風に達しています。

この転換を端的に表すものとして。

「どんなに恐ろしい現実にみまわれても
僕はその現実の故に。いかなる夢をも捨てようとも。
悔いないだろう」
という言葉が残っています。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeじは。

1910年に『マルテの手記』が完成。
その年から翌年にかけて北アフリカ・エジプトに旅行致しました。

リルケの目は地中海地域全体にまで広がりました。

リルケはよく手紙を書いたことでも知られます。

知人や文学者、出版者、パトロンなどに宛てた
膨大な数の手紙が刊行されています。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilke
の「手紙」の。
なかでも詩人志望の青年フランツ・カプスからの手紙に
答えて文通の始まった
『若き詩人への手紙』。

子供との二人暮しを支えるために働きながら
リルケの詩を読んでいた女性リーザ・ハイゼとの
文通の集成である
『若き女性への手紙』は。

リルケの誠実な返答や芸術についての
鋭い考察などによってよく知られています。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。
『マルテの手記』完成後は。
深い虚脱と絶望にとらわれていました。

ある侯爵夫人から詩作の場所として
ドゥイノの館を提供され、
そこで新たな霊感を得て1912年から
『ドゥイノの悲歌』を書き始めます。

『悲歌』の執筆は中断を挟みながら
10年以上にわたって続けられました。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。

1914年に第一次世界大戦が起こり兵役へ赴きました。

この体験は、やがて不安や苦しみ・虚無などの概念として
リルケの作品に表れるようになります。

またこの頃は。
トラークルやヘルダーリン、クロプシュトック
などに関心を抱いていました。

1919年にはスイスへ旅行致しました。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。

1921年に詩人・ポール・ヴァレリーの詩に感動し、
フランス語での詩作を多くするようになりました。

またヴァレリーの詩は、
『悲歌』を完成させるにあたっての
大きな力の一つともなりました。

同年に、晩年を過ごすことになる
ミュゾットの館へ移ります。

翌年の2月、創作の爆発のようにして一気に
『ドゥイノの悲歌』を完成させました。

そしてその前後に
『オルフォイスへのソネット』の全篇も成立致しました。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeの。

切迫した自由律によって
内面的空間としての世界を歌った『ドゥイノの悲歌』。

万物やその万物あらゆるものに転変する歌う神
オルフォイス(オルフェウス)
を讃える詩篇群
『オルフォイスへのソネット』は。

ともに。
20世紀のドイツ語の詩の最高傑作のひとつに数えられています。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。

ラロンの墓地にあるリルケの墓39歳の時、
詩人アンドレ・ジッドと
ピアニストのマクダ・フォン・ハッテンベルクを知りあいました。

最晩年にはヴァレリーと出会いました。

1926年に白血病の症状が出ました。

年末に体調を崩し、
12月29日に死去。51歳でした。

「バラの棘に刺されて死んだ」という逸話は有名です。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeの。

また「やってこい、わたしの認める・・・」
ではじまる未完の遺稿と
「ばらよ・・・」ではじまる墓碑銘は。

リルケの晩年の詩境をあらわすものとして名高いものです。

++++++++++++++++++++++

ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeの

作品
リルケの邦訳は、多くの出版社から出されており
比較的入手しやすい。
全集も出されている(新版河出書房新社、旧版の弥生書房は絶版)

詩集
いのちと歌 (1894)
家神へのささげ (1895)
夢を冠に (1896)
降臨節 (1897)
わがための祝い (1899,1909(『初期詩集』として))
形象詩集 (1902,1906)
時祷詩集 (1905)
旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌 (1906)
新詩集 (1907,1908) Neue Gedichte
鎮魂歌 (1909)
マリアの生涯 (1913)
オルフォイスへのソネット (1923) Die Sonette an Orpheus
ドゥイノの悲歌 (1923) Duineser Elegien

小説
人生に沿って (1898)
プラハの二つの物語 (1899)
神さまのお話 (1900) Geschichten vom lieben Gott
最後の人々 (1902)
マルテの手記 (1910) Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge

戯曲
いま、われらの死するとき (1896)
白衣の貴婦人 (1900)
日常茶飯 (1901)

評論
フィレンツェ日記 (1898)
ロダン Auguste Rodin

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
ライナー・マリア・リルケ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%82%B1

ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日 - 1926年12月29日)は、20世紀を代表するオーストリアの詩人、作家、評論家。

独特の言語表現による詩は、ドイツ詩に新たな一面を切り開いた。20世紀のドイツ文学の代表者の一人であり、ドイツ文学史を通して見ても最高峰の詩人の一人に数えられる。また独自の宗教観や時代に対する不安や苦しみといった概念は、20世紀を象徴するようにも捉えられている。

目次
1 生涯
2 作品
2.1 詩集
2.2 小説
2.3 戯曲
2.4 評論
3 外部リンク
4 関連項目

生涯
プラハ(現チェコ領。当時はオーストリア・ハンガリー帝国の領土内)のユダヤ系ドイツ人の子として生まれる。

当地は、ドイツ語文化圏から見ればかなり外れの街でプラハの街は、スラブ人、ドイツ人、ユダヤ人が鼎立していたところでもあり、ドイツ人は不利な立場になりつつある街であった。またこの街ではキリスト教の新旧勢力の衝突の場でもあった。このプラハの街で生まれた事がリルケの独特な観点を生み出したともいえる。

1875年、軍人出のヨーゼフ・リルケとその妻ソフィアの息子として生まれる。二人はリルケが9歳のときに離婚している。父ヨーゼフは軍人向きの性格だったが軍を去って鉄道会社の職員となり、のちにはリルケを陸軍の幼年学校や士官学校に入学させた。この入学はリルケにとって重い心身の負担となり、不祥事もあって士官学校を退学することになり、父を失望させた。母ソフィアは父以上にリルケに影響を与えた人物であり、娘を欲しがってリルケを5歳まで女の子として育てたことをはじめ、その奇抜で突飛な振る舞いや非現実的で虚栄的な性格によってリルケの生と人格に複雑な陰影を落とすことになる。母親に対する屈折した心情を吐露した記述が、ルー・ザロメ宛ての手紙などに遺されている。

陸軍学校を経て、1894年に19歳で処女詩集『いのちと歌』を刊行。プラハ大学ついでミュンヘン大学に学び、詩や散文を多く執筆した。初期の詩作品は自らの感情を詩篇にのせて歌う優美さによって特徴付けられ、そのころ隆盛してきていたユーゲントシュティールと軌を一にしていると見る向きもある。22歳のとき、作家ルー・ザロメを知る。ザロメの後を追うように、ベルリンへ行き、ベルリン大学で学んだ。ルーと共にロシアやイタリアへ旅行し、ロシアでの人々の素朴な信仰心に根ざした生活に触れた経験は『神さまの話』や『時祷詩集』を生む契機の一つとなった。26歳の時にクララ・ヴェストホフと結婚したが、家庭は早くから離散状態であった。

パウラ・モーデルゾーン=ベッカーによるリルケの肖像(1906年、ブレーメン)27歳の時からパリでの生活を始める。このパリ時代に経験した不安と孤独、憂愁の体験は『マルテの手記』を執筆するうえでの大きな源泉となる。この頃に彫刻家オーギュスト・ロダンと知り合ってその芸術観から多くを学び、ロダンの評論も書き上げている(のちロダンと不和を生じたが、リルケ自身のロダンの評価は変わることがなかった)。またシャルル・ボードレールやポール・セザンヌなど様々な芸術家に対する関心を深めつつ、自らの芸術についての考えや立場を転換していった。それまでの優美さや感受性の流露は影を潜め、パリで体験した現実と孤独、そして誠実な観察と職人的な仕事によって支えられたロダンの造形への意志の影響の下に、『新詩集』ではいわゆる「事物詩」をはじめとした、語られているものを言葉によって内側から形作ろうとする作風に達している。この転換を端的に表すものとして、「どんなに恐ろしい現実であっても、僕はその現実のためにどんな夢をも捨てて悔いないだろう」という言葉が残っている。1910年に『マルテの手記』が完成。その年から翌年にかけて北アフリカ・エジプトに旅行し、リルケの目は地中海地域全体にまで広がった。

リルケはよく手紙を書いたことでも知られ、知人や文学者、出版者、パトロンなどに宛てた膨大な数の手紙が刊行されている。なかでも詩人志望の青年フランツ・カプスからの手紙に答えて文通の始まった『若き詩人への手紙』や、子供との二人暮しを支えるために働きながらリルケの詩を読んでいた女性リーザ・ハイゼとの文通の集成である『若き女性への手紙』は、リルケの誠実な返答や芸術についての鋭い考察などによってよく知られている。

『マルテの手記』完成後は深い虚脱と絶望にとらわれていたが、ある侯爵夫人から詩作の場所としてドゥイノの館を提供され、そこで新たな霊感を得て1912年から『ドゥイノの悲歌』を書き始める。『悲歌』の執筆は中断を挟みながら10年以上にわたって続けられた。1914年に第一次世界大戦が起こり、兵役へ赴く。この体験は、やがて不安や苦しみ・虚無などの概念としてリルケの作品に表れるようになる。またこの頃はトラークルやヘルダーリン、クロプシュトックなどに関心を抱いていた。1919年にはスイスへ旅行する。

1921年に詩人・ポール・ヴァレリーの詩に感動し、フランス語での詩作を多くするようになる。またヴァレリーの詩は、『悲歌』を完成させるにあたっての大きな力の一つともなった。同年に、晩年を過ごすことになるミュゾットの館へ移る。翌年の2月、創作の爆発のようにして一気に『ドゥイノの悲歌』を完成させ、その前後に『オルフォイスへのソネット』の全篇も成立した。切迫した自由律によって内面的空間としての世界を歌った『ドゥイノの悲歌』と、万物やその万物あらゆるものに転変する歌う神オルフォイス(オルフェウス)を讃える詩篇群『オルフォイスへのソネット』は、ともに20世紀のドイツ語の詩の最高傑作のひとつに数えられている。

ラロンの墓地にあるリルケの墓39歳の時、詩人アンドレ・ジッドとピアニストのマクダ・フォン・ハッテンベルクを知る。最晩年にはヴァレリーと出会った。1926年に白血病の症状が出、年末に体調を崩し、12月29日に死去。51歳であった。「バラの棘に刺されて死んだ」という逸話は有名である。また「やってこい、わたしの認める・・・」ではじまる未完の遺稿と「ばらよ・・・」ではじまる墓碑銘は、リルケの晩年の詩境をあらわすものとして名高い。

作品
リルケの邦訳は、多くの出版社から出されており比較的入手しやすい。全集も出されている(新版河出書房新社、旧版の弥生書房は絶版)

詩集
いのちと歌 (1894)
家神へのささげ (1895)
夢を冠に (1896)
降臨節 (1897)
わがための祝い (1899,1909(『初期詩集』として))
形象詩集 (1902,1906)
時祷詩集 (1905)
旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌 (1906)
新詩集 (1907,1908) Neue Gedichte
鎮魂歌 (1909)
マリアの生涯 (1913)
オルフォイスへのソネット (1923) Die Sonette an Orpheus
ドゥイノの悲歌 (1923) Duineser Elegien

小説
人生に沿って (1898)
プラハの二つの物語 (1899)
神さまのお話 (1900) Geschichten vom lieben Gott
最後の人々 (1902)
マルテの手記 (1910) Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge

戯曲
いま、われらの死するとき (1896)
白衣の貴婦人 (1900)
日常茶飯 (1901)

評論
フィレンツェ日記 (1898)
ロダン Auguste Rodin

外部リンク
リルケ ライネル・マリア:作家別作品リスト(青空文庫)

関連項目
ドイツ詩
ドイツ文学
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%82%B1" より作成
カテゴリ: オーストリアの詩人 | ユダヤ系オーストリア人 | ユダヤ系ドイツ人 | 1875年生 | 1926年没

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++

12月4日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%884%E6%97%A5

できごと
794年(延暦13年11月8日) - 平安京が新都となり、同時に山背国が山城国と改められる。

1185年(文治元年11月11日) - 後白河法皇が源頼朝に源義経追討の院宣を下す。

1888年 - 香川県、愛媛県から分離。

1909年 - 大韓帝国の政治結社一進会が韓日合邦を要求する声明書を発する。

1934年 - 大雪山国立公園・阿寒国立公園・中部山岳国立公園・阿蘇国立公園
(現阿蘇くじゅう国立公園)が国立公園に指定。

1960年 - 都営地下鉄1号線(現在の浅草線) 押上駅-浅草橋駅間が開業。

1965年 - 1965年ニューヨーク空中衝突事故

1977年 - 中央アフリカ共和国終身大統領ジャン=ベデル・ボカサが戴冠式を行い
中央アフリカ帝国皇帝ボカサ1世として即位。

1982年 - 映画『E.T.』が日本で公開される。

1983年 - テレビユー福島 (TUF) 開局。

1988年 - JR西日本湖西線堅田駅 - 和邇駅間に小野駅が開業。

1994年 - WBC世界バンタム級王者薬師寺保栄と、
WBC世界バンタム級暫定王者辰吉丈一郎の間で、
日本人同士による初の統一王座決定戦が行われる。

1999年 - JR東日本奥羽本線山形駅〜新庄駅間標準軌化(山形新幹線山形駅〜新庄駅間開業)

1999年 - さくらんぼ東根駅開業。

2004年 - 50年間続いたゴジラシリーズの
最終作「ゴジラ FINAL WARS」が全国300スクリーンで公開。
又、同日に「Mr,インクレディブル」公開

誕生日
1795年 - トーマス・カーライル、歴史家(+ 1881年)

1866年 - ワシリー・カンディンスキー、画家(+ 1944年)

1875年 - ライナー・マリア・リルケ、詩人(+ 1926年)

1892年 - フランシスコ・フランコ、スペインの軍人・政治家(+ 1975年)

1908年 - アルフレッド・ハーシェイ、生物学者(+ 1997年)

1909年 - 原島宏治、政治家(+ 1964年)

1921年 - うしおそうじ、漫画家、演出家(+ 2004年)

1922年 - ジェラール・フィリップ、俳優(+ 1959年)

1930年 - ジム・ホール、ジャズ・ギタリスト

1932年 - 盧泰愚、軍人・政治家・第13代韓国大統領

1933年 - 芦屋小雁、俳優

1933年 - 野田宣雄、政治学者・歴史学者

1933年 - ホルスト・ブッフホルツ、俳優(+ 2003年)

1933年 - 河津憲一、元プロ野球選手

1936年 - 山本道子、作家

1939年 - 遠井吾郎、元プロ野球選手(+ 2005年)

1940年 - 新克利、俳優

1940年 - 久間章生、政治家

1940年 - 二瓶正也、俳優

1941年 - 花巻五郎、俳優

1944年 - 青柳裕介、漫画家(+ 2001年)

1946年 - 井上瑤、声優(+ 2003年)

1947年 - 安田好弘、弁護士

1948年 - 川又千秋、SF作家
1952年 - レオン・リー、元プロ球選手・プロ野球監督
1953年 - 三浦浩一、俳優
1955年 - 滝田洋二郎、映画監督
1955年 - 花堂純次、映画監督
1956年 - 町村敬志、社会学者
1961年 - 茶風林、声優
1963年 - セルゲイ・ブブカ、棒高跳選手
1963年 - バーナード・ブリトー、元プロ野球選手
1965年 - 近江谷太朗、俳優
1965年 - 与田剛、野球選手
1966年 - 斎田晴子、女流棋士
1966年 - 永井真理子、歌手
1968年 - チェ・ジンシル、女優
1968年 - 西方仁也、スキージャンプ選手
1969年 - 浅香唯、タレント
1969年 - 岸滋彦、騎手
1969年 - ダイナマイト・関西、プロレスラー
1970年 - 中川剛、お笑いタレント中川家
1972年 - 牧野アンナ、歌手
1972年 - 宮村優子 (声優)
1973年 - 田村淳、お笑いタレント
1974年 - 井口資仁、プロ野球選手
1974年 - アンケ・フーバー、テニス選手
1975年 - 中津川勉、クリエーター
1976年 - 愛敬尚史、プロ野球選手
1976年 - 梅村礼、卓球選手
1976年 - 日向秀和、ベーシスト
1976年 - 草野大輔、プロ野球選手
1976年 - 出羽乃富士智瑛、大相撲力士
1977年 - 野田浩輔、プロ野球選手
1978年 - イーグル・デーン・ジュンラパン、プロボクサー
1978年 - 西歩見、ファッションモデル、料理研究家
1978年 - 湯原麻利絵、タレント
1978年 - 麻由、タレント
1981年 - 高宮和也、プロ野球選手
1981年 - 金子洋平、プロ野球選手
1981年 - 岩丸史也、サッカー選手
1984年 - 岸孝之、プロ野球選手
1984年 - 根岸麻衣、モデル
1984年 - 湯元健一、レスリング選手
1985年 - ギャル曽根、タレント
1985年 - 和希優美、タレント
1986年 - 菅緑、タレント(東京海洋大学)、第7期第2日本テレビ専属アナウンサー
1986年 - 渡辺広大、サッカー選手
1987年 - 木下優樹菜、グラビアアイドル
1987年 - 平井将生、サッカー、ガンバ大阪
1988年 - 梓 (歌手)
1992年 - 五十畑颯斗、俳優
1992年 - 桑幡壱真、子役

忌日
765年 - ジャアファル・サーディク、
イスラム教シーア派・イマーム派第6代イマーム(* 702年)

771年 - カールマン、フランク王国国王(* 751年)

891年(寛平3年10月29日)- 円珍、天台宗の僧(* 814年)

1111年(天永2年11月2日)- 永観、三論宗の僧(* 1033年)

1131年 - ウマル・ハイヤーム、学者・詩人(* 1048年)

1214年 - ウィリアム1世、スコットランド王(* 1143年)

1270年 - テオバルド2世、ナバラ王・シャンパーニュ伯(* 1238年頃)

1334年 - ヨハネス22世、第196代ローマ教皇(* 1244年?)

1371年 - シメオン・ウロシュ・パレオロゴス、セサリア皇帝・イピロス専制公

1566年(永禄9年10月23日)- 牧野成定、戦国時代の武将(* 1525年)

1574年 - ゲオルグ・レティクス、天文学者・数学者(* 1514年)

1615年(元和元年10月14日)- 片倉景綱、伊達氏の重臣として知られる武将(* 1557年)

1642年 - リシュリュー、フランス宰相(* 1585年)

1653年(承応2年10月15日)- 鈴木重成、天草代官(* 1588年)

1679年 - トマス・ホッブズ、政治哲学者(* 1588年)

1696年(元禄9年11月10日)- 明正天皇、第109代天皇(* 1624年)

1798年 - ルイージ・ガルヴァーニ、医学者・物理学者(* 1737年)

1815年(文化12年11月4日)- 根岸鎮衛、旗本・第26代南町奉行(* 1737年)

1866年(慶応2年10月28日)- 水野忠誠、江戸幕府の老中・第7代沼津藩主(* 1834年)

1884年 - アリス・メアリ・スミス、作曲家(* 1839年)

1892年 - 大場久八、博徒(* 1814年)

1902年 - チャールズ・ダウ、ジャーナリスト・経済アナリスト(* 1851年)

1928年 - 磯部保次、
実業家・千代田瓦斯(東京ガス前身)創業者・政友会衆議院議員(* 1868年)

1935年 - シャルル・ロベール・リシェ、生理学者(* 1850年)

1937年 - 真鶴秀五郎、大相撲の力士・元小結(* 1902年)

1938年 - 玉錦三右エ門、大相撲第32代横綱(* 1903年)

1942年 - 中島敦、作家(* 1909年)

1944年 - 永井柳太郎、元拓務大臣・逓信大臣・鉄道大臣(* 1881年)

1945年 - トーマス・ハント・モーガン、生物学者(* 1866年)

1952年 - カレン・ホーナイ、医師・精神分析家(* 1885年)

1961年 - 津田左右吉、歴史学者(* 1873年)

1967年 - 笠信太郎、ジャーナリスト(* 1900年)

1970年 - 飯塚浩二、地理学者(* 1906年)

1973年 - 平井太郎、元郵政大臣(* 1905年)

1974年 - 服部伸、講談師(* 1880年)

1975年 - ハンナ・アーレント、政治哲学者・政治思想家(* 1906年)

1976年 - ベンジャミン・ブリテン、作曲家(* 1913年)

1976年 - トミー・ボーリン、ミュージシャン・元ディープ・パープル(* 1951年)

1978年 - サミュエル・ゴーズミット、物理学者(* 1902年)

1979年 - ヴァルター・ミュラー、物理学者・発明家(* 1905年)

1987年 - ルーベン・マムーリアン、映画監督(* 1897年)

1987年 - クルト・ヴェス、元NHK交響楽団常任指揮者(* 1914年)

1987年 - アーノルド・ローベル、絵本作家(* 1933年)

1990年 - 田島直人、陸上競技選手・ベルリンオリンピック金メダリスト(* 1912年)

1993年 - フランク・ザッパ、ミュージシャン(* 1940年)

1999年 - 大翔鳳昌巳、大相撲力士・元小結(* 1967年)

2005年 - 原ひさ子、女優(* 1909年)

2005年 - グレッグ・ホフマン、映画プロデューサー(* 1963年)

記念日・年中行事
血清療法の日
1890年12月4日、エミール・ベーリングと
北里柴三郎が血清療法開発につながる破傷風とジフテリアの抗体を発見したことから。

聖バルバラの日