東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年12月12日(金曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年12月12日(金曜日)

初秋から中秋。
そして今は「晩秋」がおわり。
12月。「冬」です。

「秋」になり「9月」がおわり。
「10月」も「31日」すぎおわりました。
秋の最後の
「11月」「晩秋月」もおわりました。

あまりにも
月日と。
時間と。そして年月のたつ。

その速さに。
恐怖さえをも感じます。

大気は「冬」の「木枯らし」。
地には「霜の花」。
天には
「山茶花」と「やぶつばき」の「つぼみ」。

そしてこの時期には。
樹木の「落ち葉」
は「ぴたり」ととまります。
落葉ぎりぎりまで。
冬にそなえて。
せめてもの。
太陽の陽射しをえるためでしょう。

白山茶花(さざんか)の花びらが
花も見えぬうちに。
暗い寒い夜中のあいだに。
いてつく木枯らしに射られて。
朝暗く地に落下しています。

木々の若葉のいろは
秋の深緑に。
深まる秋緑から紅葉にとますますあざやかになり。
そしていまは「冬木」としてのたたずまい。

「黄色」から
「紅色」の紅葉葉も。
「枯れ葉」も。
混じるようになりました。

そして「冬木」としてのたたずまい。
冬樹でも夜間照明のある樹木は「緑葉」
をしています。

霜柱の「冬」の気配ははっきりと。
同じように葉木にも感じられます。

「山茶花」の若花のつぼみが
たわわにみえます。
いつでも咲きそうなつぼみです。

「金木犀:きんもくせい」の残り香は
とおくから。
「とぼとぼ」と歩いてくるように。
ほのかに漂い。
また「とぼとぼ」と歩き去っていった
ようにいなくなりました。

「山茶花(さざんか)」の花びらは。
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに蕾膨らみ
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに花咲き
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに花びらが舞う

空の色も。
まさしくも
「冬」の「空色」になってきました。
ミルクのはいったコバルトのような
空色です。

陽ののぼるのは遅くなりました。
陽がくれるのは早くなりました。

あさの06:30AMころは。
くらくあおく
しだいに
そらがラピズラズリから
トルコ石にうつろうように。
そらがしらんできます。

今の季節の気配からは。

まぢかいけれども。
「なにかが深まりゆく」。
そして冬の訪れから。

さらにさらに。
深い冬に向かい。
そしてさらに。
深い冬の向こう側にむかう
気配のあることが。
良くわかります。

いまは川端康成の。
「雪国」。
いまはそのトンネルの中です。
「向こう側」は「雪国」です。

冬池面(いけも)の水面(みずも)
冬おさなき小さなわかみどり
冬なもしらぬ
冬小さな緑の浮き草
冬若草うきつあつまりて
冬つらなり水面(みずも)
冬水面(みずも)をおおいたり
冬水面(みずおも)にて
冬風にきそいてさまよえり
冬ちひさきわらべのごとし
冬池面の水面(みずおも)の。
冬小さきちひさなわかみどり

冬いざいまこそは
冬よき季節にあらむ
冬水面(みずも)なるそら
冬ふと空をみる

冬早朝(はやあさ)に
冬けふもはだのさむけれど
冬ぬくもりのあさ
冬陽のありがたき
冬われあゆむがごと
冬陽はあたかくなりけり
冬葉木は冬木にかわりたり
冬みちをあかるくてらさむ
冬がいだく木
冬はぐくむ木
冬みどり木あおし
冬実りの木紅し(あかし)
冬来(きた)るらむ

道端の冬野草の花もかわいらしい。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

たわわなり
みかんのわか実
みかんのふゆの実
蜜柑のいらかをかぜはやみ
ふゆかぜぜひるむや
木枯らしの
うつろひの
みかん実つきひ
はやいくとせ

冬地にも木にも
冬みどり葉ひらき
冬みどり木ときわ木
冬ひろがりて
冬いふことのなし
冬いふことがなし
冬いふことはなし
冬ゆたかなりけり冬

今年の早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は寒いです。
「毎朝寒い」。
寒いと首都高の自動車も
「寒そうな運転の車」が多いです。

それでも「冬はきぬ」。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

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平成20年3月20日(木曜日)
は祝日です。
けれどもこの日は「もともと「休診日」」
なのです。

平成20年3月20日(木曜日は
休日診療は行いません。
は終わりました

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平成20年
4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂きました。

5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
++++++++++++++++++++++

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました

++++++++++++++++++++++

10月13日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

11月 3日(月曜日)
11月24日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

++++++++++++++++++++++

12月23日(火曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

東京都世田谷区山本クリニックは
平成20年12月30日(火曜日)
まで診療を行います。
来年は。
平成21年1月5日(月曜日)から
診療を行います。

冬季休診は12月31日(火曜日)から
平成21年1月4日(日曜日)までです。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3.500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。

梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼に青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝です。

「今日は何の日」は。
19世紀〜20世紀のノルウェー出身の画家。

ある日、フィヨルドの近くを歩いている時に
「自然をつらぬく、けたたましい、終わりのない叫びを聞いた」
と言った画家。
その経験を絵画化した
『叫び』(「4作品があります)の作者として有名な画家。

1863年 - エドヴァルド・ムンク、画家(+ 1944年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch,
1863年12月12日 - 1944年1月23日)は、
19世紀〜20世紀のノルウェー出身の画家です。
『叫び』の作者として有名です。
ノルウェーでは国民的な画家です。

現行の1000ノルウェー・クローネの紙幣にも
彼の肖像が描かれています。

生と死の問題。
そして人間存在の根幹に存在する「孤独、嫉妬、不安」
などを見つめました。

これらを人物画に表現致しました。

表現主義的な作風の画家として知られます。

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munch,の生涯

ムンクは
1863年12月12日ノルウェーの
ヘードマルク県ロイテンで生まれました。

一家はエドヴァルドの生まれた翌年には。
クリスチャニア(オスロの旧称)へ移住致しました。

1868年、エドヴァルドが5歳の時に
母が結核のため30歳の若さで亡くなりました。
1877年には15歳の姉がやはり結核で亡くなりました。

エドヴァルド自身も虚弱な子供でした。
恐らく生き延びられないであろうと心配されていました。

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munch,は。
こうして身近に「死」を実感したことにより。

後のムンクの芸術に生涯影響を与え続けました。

特に『病室での死』(1893頃)、
『病める子』(1886)といった
彼の初期の諸作品では直接のモチーフになっています。

自己の個人的体験に基づく「愛」「死」「不安」を。
芸術表現に昇華致しました。

世紀末の人々の孤独や不安を表現したこと。
表現し得たことが。
ムンクが高く評価されるゆえんとなると考えています。

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munch,は。

1881年、画学校(のちの王立美術工芸学校)に入学致しました。

クリスチャン・クローグとJulius Middelthunに師事到ります。

1884年頃から
「クリスチャニア・ボヘミアン」という、
当時の前衛作家・芸術家のグループと交際するようになりました。

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。

1886年10月。
クリスチャニア秋季展に『病める子』を発表すると。

この絵は物議を醸すどころか罵倒と思えるほど批判されました。

絵を印象づけるため、あえて素描風に仕上げるスタイルを
ムンクは無意識的にとっていたのです。

この彼のスタイルが理解されなかったのです。

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは

1885年に数週間パリに滞在到ります。

1889年にはノルウェー政府の奨学金を得て正式にフランス留学
致しました。
レオン・ボナのアトリエに学びました。

パリではゴーギャン、ファン・ゴッホなどの
ポスト印象派の画家たちに大きな影響を受けました。

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。

パリに着いた翌月に父が死去致しました。

この頃から「フリーズ・オブ・ライフ」(生のフリーズ)*
の構想を抱き始めました。

(*
「フリーズ」とは。
「西洋の古典様式建築の柱列の上方にある横長の帯状装飾部分」
のことです。
「英語」の「フリーズ:freeze」ではありません。)

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。
1892年。ベルリンに移りました。

この地で『叫び』などの一連の絵を描きました。

彼は、ファン・ゴッホとともに。

この後、ドイツを中心に起こるドイツ表現主義の運動に
直接的な影響を与えた1人と考えられています。

1892年。ベルリン芸術家協会で開いた展覧会は
オープンから数日間で保守的な協会側から中止を要求され。
スキャンダルとなりました。

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。
ムンクは1890年代は、ベルリン、コペンハーゲン、パリなど。
ヨーロッパ各地を転々と致しました。

毎年夏は故国ノルウェーのオースゴールストランの海岸で
過ごすのを常としていました。

このオースゴールストランの海岸風景は多くの絵の背景に現れます。

ムンクは何人かの女性と交際したが、生涯独身を通しました。

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。

1902年の夏にオースゴールストランで過ごしていたムンクは、
数年ぶりで再会した
以前の恋人のトゥラ・ラーセンとトラブルになりました。
そして有名な発砲事件を起こすにいたります。

ピストルを撃ったのが2人のうちのどちらであったかを含めて。
事の真相は不明です。

けれどもこの事件でムンクは。
左手中指の関節の一部を失う怪我を致しました。

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。

この頃からムンクは精神が不安定になっています。
アルコールに溺れるようになりました。

1908年から1909年にかけて。
デンマークの著名な精神科医のもとで療養生活を
送りました。

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。

1909年にノルウェーに戻りました。

以後の後半生はノルウェーで過ごしました。

1909年からはクラーゲリョー、
1916年から没年まではオスロ郊外のエーケリーに定住致しました。

このノルウェー時代は、心身の健康が回復し、
建築内部装飾のための大作や、
雪の中で働く労働者をテーマとした作品などを手がけています。

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。
1914年にはオスロ大学から
同大学講堂の装飾画制作の依頼がありました。

1916年に完成致しました。
同年9月19日に除幕式が行われました。

これは11面のキャンバスからなる壁画です。
講堂正面には巨大な太陽が描かれています。

「世紀末の不安を描いた画家」のイメージとは
かなり異なったものです。

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。

ムンクは有名な作品が19世紀末の1890年代に集中しています。
「世紀末の画家」のイメージがあるのですが。
けれども晩年まで作品がありました。
没したのは第二次世界大戦中の1944年です。

ムンクは気に入った作品は売らずに手元に残しておりました。

死後は遺言によって手元に残していた全作品が
オスロ市に寄贈されました。

このためムンクの代表作の多くはオスロ市立ムンク美術館に
存在致します。

++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。

「生命のフリーズ」と装飾壁画

おもに1890年代に制作した
『叫び』*、『接吻』、『吸血鬼』、
『マドンナ』、『灰』などの一連の作品を。

ムンクは「フリーズ・オブ・ライフ」(生命のフリーズ)
と称し、連作と位置付けています。
(*『叫び』は4点制作されました。)
ムンク美術館に2点所蔵されているほか。

オスロ国立美術館所蔵と個人所蔵のものが
1点ずつあることが知られています。

「フリーズ」とは。
西洋の古典様式建築の柱列の上方に
ある横長の帯状装飾部分のことです。
「英語」の「フリーズ」ではありません。

ここでは「シリーズ」に近い意味で使われています。
これらの作品に共通するテーマは。
「愛」「死」そして愛と死がもたらす「不安」です。

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エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。

ムンクは、1902年3月。
第5回ベルリン分離派展に出品した際に。
「生命のフリーズ」の一連の作品(22点)を
横一列に並べて展示した。

その時の展示状況は写真に残されていません。

翌1903年3月ライプツィヒで開催した
展覧会の展示状況は写真が現存しています。

それによると。
展示室の壁の高い位置に白い水平の帯状の区画が設けられました。
その区画内に作品が連続して展示されています。

ムンクの意図はこれらを個別の作品ではなく。

全体として一つの作品として見てほしいということでありました。
++++++++++++++++++++++

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。

前述のベルリンの展覧会では。

作品は「愛の芽生え」「愛の開花と移ろい」「生の不安」「死」
という4つのセクションに分けられます。

「愛の芽生え」のセクションには
『接吻』『マドンナ』、
「愛の開花と移ろい」には『吸血鬼』『生命のダンス』、
「生の不安」には『不安』『叫び』、
「死」には『病室での死』『メタボリズム』
などの作品が展示されました。

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エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。

1918年、クリスチャニア(オスロ)の
ブロンクヴィスト画廊での個展で
「生命のフリーズ」の諸作品が展示された際に
ムンクは新聞に「生命のフリーズ」という文章を寄せました。

その中でこれらの作品を「一連の装飾的な絵画」
であると明言しています。

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エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。

ムンクは1916年に完成したオスロ大学講堂壁画をはじめとして。

1906年から翌年にかけて制作した、
ベルリンの小劇場のための
「ラインハルト・フリーズ」。

オスロ郊外のフレイア・チョコレート工場の
社員食堂のために制作した
「フレイア・フリーズ」(1922年完成)など。

建築内部装飾のための大作をたびたび手がけています。

このことから、ムンクという
画家を「装飾画家」という視点から
見直すべきであるということが指摘されています。

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『叫び』

『叫び』『叫び』は、その遠近法を強調した構図、
血のような空の色、フィヨルドの不気味な形、
極度にデフォルメされた人物などが印象的な作品で、
ムンクの作品中もっともよく知られ、
画家の代名詞となっています。

そのため、構図をまねたパロディが制作されたり、
ビニール製の『叫び』人形が売り出されるなど、
美術愛好家以外にも広く知られる作品ではあります。

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エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。

ムンクは、ある日、フィヨルドの近くを歩いている時に
「自然をつらぬく、けたたましい、終わりのない叫びを聞いた」
と言っておりました。
その経験を絵画化したものです。

前述のとおり。
この作品も「生命のフリーズ」の中の一作品です。
単独の絵画としてではなく連作として鑑賞されることが
ムンクの本来の意図でありました。

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エドヴァルド・ムンク:Edvard Munchは。
アメリカの美術史家であるロバート・ゼンブラムは。
パリの人類史博物館に展示されていたペルーのミイラが
『叫び』中央の人物のモデルであるという説を唱えました。

実際このミイラは丸く落ちくぼんだ目、開いた口、頬に当てられた手、痩せた体など、
『叫び』の人物と共通点が多いです。

『叫び』は4点制作されました。

ムンク美術館に2点所蔵されているほか。
オスロ国立美術館所蔵と個人所蔵のものが1点ずつあることが知られています。

このうちオスロのムンク美術館に所蔵されていた1点は。
『マドンナ』とともに2004年8月に盗み出されましたが。

2点とも2006年8月31日にオスロ市内で発見されました。

『叫び』は、1994年2月にもオスロ国立美術館所蔵の1点が盗難に遭いました。
同年5月の犯人逮捕時に発見されています。

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エドヴァルド・ムンク:Edvard Munch
代表作
叫び (1893)(オスロ、ムンク美術館)→
2004年8月22日、武装した覆面の2人組により略奪されたが
2年後にオスロ市内で発見。
マドンナ (1893-95) (ムンク美術館)→同上
思春期 (1894)(オスロ国立美術館)

その他
2005年6月4日、ドイツ連邦共和国、
ブレーメン美術館にてムンク作によるものと見られる新たな作品が発見されました。

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エドヴァルド・ムンク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AF

エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch, 1863年12月12日 - 1944年1月23日)は、19世紀〜20世紀のノルウェー出身の画家。『叫び』の作者として有名で、ノルウェーでは国民的な画家である。現行の1000ノルウェー・クローネの紙幣にも彼の肖像が描かれている。生と死の問題、そして、人間存在の根幹に存在する、孤独、嫉妬、不安などを見つめ、人物画に表現した。表現主義的な作風の画家として知られる。

目次
1 生涯
2 「生命のフリーズ」と装飾壁画
3 『叫び』
4 代表作
5 その他
6 参考文献
7 外部リンク

生涯
ムンクは1863年12月12日、ノルウェーのヘードマルク県ロイテンで生まれた。一家はエドヴァルドの生まれた翌年にはクリスチャニア(オスロの旧称)へ移住した。 1868年、エドヴァルドが5歳の時に母が結核のため30歳の若さで死に、1877年には15歳の姉がやはり結核で死ぬ。エドヴァルド自身も虚弱な子供で、生き延びられないのではと心配されていたという。こうして身近に「死」を実感したことは後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け、特に『病室での死』(1893頃)、『病める子』(1886)といった彼の初期の諸作品では直接のモチーフになっている。自己の個人的体験に基づく「愛」「死」「不安」を芸術表現に昇華し、世紀末の人々の孤独や不安を表現したことがムンクが高く評価されるゆえんである。

1881年、画学校(のちの王立美術工芸学校)に入学。クリスチャン・クローグとJulius Middelthunに師事。 1884年頃から「クリスチャニア・ボヘミアン」という、当時の前衛作家・芸術家のグループと交際するようになる。 1886年10月、クリスチャニア秋季展に『病める子』を発表すると、この絵は物議を醸し、罵倒と思えるほど批判された。 絵を印象づけるため、あえて素描風に仕上げるスタイルをムンクは無意識的にとっていたのだが、この彼のスタイルが理解されなかったのである。

1885年に数週間パリに滞在。1889年にはノルウェー政府の奨学金を得て正式にフランス留学し、レオン・ボナのアトリエに学んだ。パリではゴーギャン、ファン・ゴッホなどのポスト印象派の画家たちに大きな影響を受けた。パリに着いた翌月に父が死去。この頃から「フリーズ・オブ・ライフ」(生のフリーズ)の構想を抱き始める。

1892年、ベルリンに移り、この地で『叫び』などの一連の絵を描いた。彼は、ファン・ゴッホとともに、この後、ドイツを中心に起こるドイツ表現主義の運動に直接的な影響を与えた1人と考えられている。1892年、ベルリン芸術家協会で開いた展覧会はオープンから数日間で保守的な協会側から中止を要求され、スキャンダルとなった。

ムンクは1890年代は、ベルリン、コペンハーゲン、パリなどヨーロッパ各地を転々とし、毎年夏は故国ノルウェーのオースゴールストランの海岸で過ごすのを常としていた。このオースゴールストランの海岸風景は、多くの絵の背景に現れる。

ムンクは何人かの女性と交際したが、生涯独身を通した。1902年の夏、オースゴールストランで過ごしていたムンクは、数年ぶりで再会した、以前の恋人のトゥラ・ラーセンとトラブルになり、有名な発砲事件を起こす。ピストルを撃ったのが2人のうちのどちらであったかを含め、事の真相は不明だが、この事件でムンクは左手中指の関節の一部を失う怪我をした。

この頃からムンクは精神が不安定になってアルコールに溺れるようになり、1908年から1909年にかけて、デンマークの著名な精神科医のもとで療養生活を送った。

1909年にノルウェーに戻り、以後の後半生はノルウェーで過ごした。1909年からはクラーゲリョー、1916年から没年まではオスロ郊外のエーケリーに定住した。このノルウェー時代は、心身の健康が回復し、建築内部装飾のための大作や、雪の中で働く労働者をテーマとした作品などを手がけている。1914年にはオスロ大学から同大学講堂の装飾画制作の依頼があり、1916年に完成。同年9月19日に除幕式が行われた。これは11面のキャンバスからなる壁画で、講堂正面には巨大な太陽が描かれており、「世紀末の不安を描いた画家」のイメージとはかなり異なったものである。

ムンクは有名な作品が19世紀末の1890年代に集中しており、「世紀末の画家」のイメージがあるが、晩年まで作品があり、没したのは第二次世界大戦中の1944年である。ムンクは気に入った作品は売らずに手元に残しており、死後は遺言によって、手元に残していた全作品がオスロ市に寄贈された。このためムンクの代表作の多くはオスロ市立ムンク美術館にある。

「生命のフリーズ」と装飾壁画
おもに1890年代に制作した『叫び』、『接吻』、『吸血鬼』、『マドンナ』、『灰』などの一連の作品を、ムンクは「フリーズ・オブ・ライフ」(生命のフリーズ)と称し、連作と位置付けている。「フリーズ」とは、西洋の古典様式建築の柱列の上方にある横長の帯状装飾部分のことで、ここでは「シリーズ」に近い意味で使われている。これらの作品に共通するテーマは「愛」「死」そして愛と死がもたらす「不安」である。

ムンクは、1902年3月、第5回ベルリン分離派展に出品した際、「生命のフリーズ」の一連の作品(22点)を横一列に並べて展示した。その時の展示状況は写真に残されていないが、翌1903年3月、ライプツィヒで開催した展覧会の展示状況は写真が現存している。それによると、展示室の壁の高い位置に白い水平の帯状の区画が設けられ、その区画内に作品が連続して展示されている。ムンクの意図は、これらを個別の作品ではなく、全体として一つの作品として見てほしいということであった。前述のベルリンの展覧会では、作品は「愛の芽生え」「愛の開花と移ろい」「生の不安」「死」という4つのセクションに分けられ、「愛の芽生え」のセクションには『接吻』『マドンナ』、「愛の開花と移ろい」には『吸血鬼』『生命のダンス』、「生の不安」には『不安』『叫び』、「死」には『病室での死』『メタボリズム』などの作品が展示された。1918年、クリスチャニア(オスロ)のブロンクヴィスト画廊での個展で「生命のフリーズ」の諸作品が展示された際、ムンクは新聞に「生命のフリーズ」という文章を寄せ、その中でこれらの作品を「一連の装飾的な絵画」であると明言している。

ムンクは1916年に完成したオスロ大学講堂壁画をはじめ、1906年から翌年にかけて制作した、ベルリンの小劇場のための「ラインハルト・フリーズ」、オスロ郊外のフレイア・チョコレート工場の社員食堂のために制作した「フレイア・フリーズ」(1922年完成)など、建築内部装飾のための大作をたびたび手がけている。このことから、ムンクという画家を「装飾画家」という視点から見直すべきであるということが指摘されている。

『叫び』

『叫び』『叫び』は、その遠近法を強調した構図、血のような空の色、フィヨルドの不気味な形、極度にデフォルメされた人物などが印象的な作品で、ムンクの作品中もっともよく知られ、画家の代名詞となっている。そのため、構図をまねたパロディが制作されたり、ビニール製の『叫び』人形が売り出されるなど、美術愛好家以外にも広く知られる作品である。

ムンクは、ある日、フィヨルドの近くを歩いている時に「自然をつらぬく、けたたましい、終わりのない叫びを聞いた」と言っており、その経験を絵画化したものである。前述のとおり、この作品も「生命のフリーズ」の中の一作品であり、単独の絵画としてではなく、連作として鑑賞されることがムンクの本来の意図であった。

アメリカの美術史家であるロバート・ゼンブラムは、パリの人類史博物館に展示されていたペルーのミイラが『叫び』中央の人物のモデルであるという説を唱えた。実際このミイラは丸く落ちくぼんだ目、開いた口、頬に当てられた手、痩せた体など、『叫び』の人物と共通点が多い。

『叫び』は4点制作され、ムンク美術館に2点所蔵されているほか、オスロ国立美術館所蔵と個人所蔵のものが1点ずつあることが知られている。このうちオスロのムンク美術館に所蔵されていた1点が、『マドンナ』とともに2004年8月に盗み出されたが、2点とも2006年8月31日にオスロ市内で発見された。『叫び』は、1994年2月にもオスロ国立美術館所蔵の1点が盗難に遭い、同年5月の犯人逮捕時に発見されている。

代表作
叫び (1893)(オスロ、ムンク美術館)→2004年8月22日、武装した覆面の2人組により略奪されたが2年後にオスロ市内で発見。
マドンナ (1893-95) (ムンク美術館)→同上
思春期 (1894)(オスロ国立美術館)

その他
2005年6月4日、ドイツ連邦共和国、ブレーメン美術館にてムンク作によるものと見られる新たな作品が発見された。

参考文献
「ムンク展」カタログ、国立西洋美術館、兵庫県立美術館、東京新聞編、東京新聞発行、2007

外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、エドヴァルド・ムンク に関連するカテゴリがあります。ムンク美術館 - ムンクの作品(画像、解説あり)(英語)
Gallery Munch - Loten
Art Gallery - Edvard Munch
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AF" より作成
カテゴリ: ノルウェーの画家 | 表現主義 | 1863年生 | 1944年没 | 紙幣の人物

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12月12日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8812%E6%97%A5

できごと
316年(建興4年11月12日) - 西晋が滅亡する。

1787年 - ペンシルバニア州がアメリカ合衆国憲法を承認、アメリカ合衆国に加入。

1847年 - ドイツの電機機器メーカーシーメンスがベルリンで設立される。

1901年 - マルコーニがイギリス・カナダ間の大西洋横断無線通信を成功させる。

1911年 - イギリス支配下のインド帝国がコルカタ(カルカッタ)からニューデリーに遷都。

1913年 - 1911年にルーヴル美術館から盗まれて以来行方不明になっていた
『モナ・リザ』がフィレンツェで発見される。

1936年 - 西安事件。

1937年 - パネー号事件。
1941年 - 支那事変からの一連の戦争を総称して
「大東亜戦争」と呼ぶとする閣議決定が発表される。

1956年 - 日本の国連加盟が安保理の全会一致で決定。

1961年 - 世界初のアマチュア衛星、オスカー1号打ち上げ。

1961年 - 三無事件。

1963年 - ケニアがイギリスから独立。

1979年 - 韓国で粛軍クーデター、全斗煥少将が軍の実権を掌握。

1980年 - 日本の自動車生産台数が1100万台突破。アメリカを抜き世界1となる。

1980年 - 近藤真彦がシングル『スニーカーぶる〜す』で歌手デビュー。

1983年 - YMOが日本武道館で「散開」コンサートを行う。

1985年 - テレビ東京が虎ノ門に移転。

1985年 - 少年隊がシングル『仮面舞踏会』でレコードデビュー。

1991年 - セガがメガCDを発売。

1994年 - オウム真理教による会社員VX殺害事件(被害者は12月22日に死亡)。

1996年 - イラクでフセイン大統領の長男、ウダイの暗殺未遂事件起こる。

2000年 - 都営地下鉄大江戸線が全線開通。

2002年 - ウィキペディアの姉妹プロジェクトウィクショナリーが活動開始。

2003年 - ポール・マーティンが第21代カナダ首相に就任。

2004年 - プレイステーション・ポータブル(PSP)の発売をソニーが開始。

2004年 - 山口県防府市でコミュニティFM局エフエムわっしょいが開局。 

2006年 - ニコニコ動画開設

誕生日
1526年 - サンタ・クルス侯爵アルバロ・デ・バサーン、スペインの軍人(+ 1588年)

1724年 - カール・テオドール、バイエルン選帝侯(+ 1799年)

1791年 - マリア・ルイーザ、フランス皇帝ナポレオン1世の皇后・パルマ公国女公(+ 1847年)

1801年 - ヨハン、第4代ザクセン王国国王(+ 1873年)

1805年 - ウィリアム・ロイド・ガリソン、奴隷制廃止運動家(+ 1879年)

1821年 - ギュスターヴ・フローベール、作家(+ 1880年)

1832年 - ルートヴィヒ・シロー、数学者(+ 1918年)

1838年 - シャーバーン・バーナム、天文学者(+ 1921年)

1840年 - グスタフ・コーン、経済学者(+ 1919年)

1863年 - エドヴァルド・ムンク、画家(+ 1944年)

1866年 - アルフレート・ヴェルナー、化学者(+ 1919年)

1898年 - 黒島伝治、小説家(+ 1943年)

1902年 - アントニオ・ホセ、作曲家(+ 1936年)

1903年 - 小津安二郎、映画監督(+ 1963年)

1904年 - ニコラ・ド・ガンズビュール、俳優・ファッション雑誌編集者(+ 1981年)

1915年 - フランク・シナトラ、歌手(+ 1998年)

1923年 - 堀井数男、元プロ野球選手(+ 2006年)

1923年 - 津村謙 流行歌手(+ 1961年)

1923年 - 田中卓、歴史学者

1924年 - エド・コッチ、元アメリカ合衆国下院議員・ニューヨーク市長

1927年 - ロバート・ノイス、インテル設立者(+ 1990年)

1927年 - オナー・ブラックマン、女優

1928年 - ヘレン・フランケンソーラー、画家

1928年 - チンギス・アイトマートフ、小説家

1929年 - 穐吉敏子、ジャズピアニスト・作曲家

1932年 - 秦郁彦、歴史学者

1933年 - 田波靖男、脚本家(+ 2000年)

1936年 - 森内俊雄、小説家

1937年 - ブライアン・ラムレイ、ホラー小説家

1938年 - 秋草直之、元富士通社長

1938年 - 黒江透修、元プロ野球選手

1943年 - グローヴァー・ワシントン・ジュニア、
スムーズジャズのサックス奏者(+ 1999年)

1944年 - 舟木一夫、歌手

1946年 - エマーソン・フィッティパルディ、F1レーサー

1948年 - トム・ウィルキンソン、俳優

1948年 - 西垣通、情報工学者

1954年 - 岡田貴久子、作家
1955年 - 中村梅雀、俳優
1955年 - 井辻朱美、翻訳家・小説家・歌人
1956年 - 大森隆志、ミュージシャン
1957年 - スザンナ・タマーロ、小説家
1959年 - 小笠原和彦、空手家・プロレスラー
1960年 - 西村雅彦、俳優
1960年 - 安井邦彦、声優
1962年 - 山西惇、俳優
1962年 - トレーシー・オースチン、テニス選手
1962年 - 石野竜三、声優
1963年 - 折笠愛、声優
1963年 - 田中貴志、ミュージシャン、音楽プロデューサー
1964年 - アロンゾ・パウエル、元プロ野球選手
1965年 - 高橋ヒロシ、漫画家
1965年 - 寺田和正、実業家
1966年 - ホイス・グレイシー、柔術家
1966年 - 永野広一、声優
1966年 - 菅原祥子、声優
1968年 - 上遠野浩平、SF作家
1968年 - 藤森夕子、グラビアアイドル・女優
1968年 - 杉山賢人、元プロ野球選手
1969年 - デリック・ホワイト、元プロ野球選手
1970年 - 伽代子、タレント・女優
1970年 - 藤田貴美、漫画家
1972年 - 村松有人、プロ野球選手(福岡ソフトバンクホークス)
1974年 - 立花美哉、シンクロナイズドスイミング選手
1974年 - ノルベルト・ソラーノ、サッカー選手
1975年 - 桑島法子、声優
1975年 - 吉田尚記、ニッポン放送アナウンサー
1975年 - クレイグ・ムーア、サッカー選手
1976年 - 林克治、お笑い芸人(カリカ)
1976年 - 市川友也、元サッカー選手
1976年 - 瀬戸朝香、女優
1976年 - 穂坂優子、女優
1976年 - ダン・ホーキンス、ミュージシャン(ザ・ダークネス)
1977年 - 田辺研一郎、日本テレビアナウンサー
1977年 - 小嶋一成、声優
1977年 - ブリジット・ホール、スーパーモデル
1977年 - 宮本真希、女優
1978年 - 今野浩喜、お笑い芸人(キングオブコメディ)
1978年 - デリック・デルモア、フィギュアスケート選手
1980年 - 綾瀬麻理、ヌードモデル
1980年 - ライアン・ゴズリング、俳優
1980年 - 大木優紀、テレビ朝日アナウンサー
1981年 - 西尾美香、女子プロレスラー
1982年 - 加藤あい、女優
1982年 - 西田彩香、女優
1982年 - 大水洋介、お笑い芸人(ラバーガール)
1983年 - 未来玲可、元歌手
1984年 - 平愛梨、女優
1984年 - みずき紗英、AV女優
1985年 - 貫地谷しほり、女優
1985年 - 持田茜、AV女優
1986年 - MIZUHO、ミュージシャン(元ZONE)
1986年 - 紗羅マリー、ファッションモデル
1986年 - 日高光啓、歌手(AAA)
1988年 - 小林祐梨子、陸上競技選手
1992年 - 早野薫、タレント(AKB48)
1996年 - 美山加恋、女優

忌日
884年 - カルロマン、西フランク王国カロリング朝国王(* 866年)

900年(昌泰3年11月18日)- 藤原良世、平安時代の公卿(* 823年)

1380年(天授6年/康暦2年11月15日) - 大内弘世、守護大名(* 1325年?)

1398年(応永5年11月4日) - 足利氏満、第2代鎌倉公方(* 1359年)

1481年(文明13年11月21日) - 一休宗純、室町時代の禅僧(* 1394年)

1555年(弘治元年閏10月29日) - 武野紹鴎、豪商、茶人(* 1502年)

1574年 - セリム2世、オスマン帝国第11代スルタン(* 1524年)

1586年 - ステファン・バートリ、ポーランド王(* 1533年)

1720年(享保5年11月13日) - 酒井忠挙、江戸幕府寺社奉行・前橋藩主(* 1648年)

1766年 - ヨハン・クリストフ・ゴットシェート、劇作家・文学者・思想家(* 1700年)

1789年(寛政元年10月26日) - 徳川治貞、第9代紀州藩主・第5代西条藩主(* 1728年)

1805年(文化2年10月22日) - 智洞、浄土真宗の僧(* 1736年)

1843年 - ヴィレム1世、初代オランダ国王(* 1772年)

1849年 - マーク・イザムバード・ブルネル、技術者(* 1769年)

1851年 - ジョエル・ロバーツ・ポインセット、第15代アメリカ合衆国陸軍長官(* 1779年)

1867年(慶応3年11月17日) - 中岡慎太郎、幕末の志士(* 1838年)

1889年 - ヴィクトール・ブニャコフスキー、数学者(* 1804年)

1889年 - ロバート・ブラウニング、詩人(* 1812年)

1897年 - 浜田彦蔵、通訳・貿易商(* 1837年)

1899年 - 池田茂政、第9代岡山藩主(* 1839年)

1904年 - ロマン・コンドラチェンコ、帝政ロシアの陸軍少将(* 1857年)

1912年 - ルイトポルト、バイエルン王国の王族(* 1821年)

1913年 - メネリク2世、エチオピア皇帝(* 1844年)

1917年 - アンドリュー・テーラー・スティル、オステオパシー創始者(* 1828年)

1921年 - ヘンリエッタ・スワン・リービット、天文学者(* 1868年)

1923年 - レイモン・ラディゲ、詩人(* 1903年)

1925年 - 依田勉三、北海道開拓者(* 1853年)

1939年 - ダグラス・フェアバンクス、俳優(* 1883年)

1947年 - 中河与一、小説家・歌人(* 1897年)

1949年 - 徳川義恭、文学者・装丁家(* 1921年)

1958年 - ミルティン・ミランコビッチ、地球物理学者(* 1879年)

1963年 - テオドール・ホイス、初代ドイツ連邦大統領(* 1884年)

1963年 - 小津安二郎 映画監督(* 1903年)

1971年 - 8代目桂文楽、落語家(* 1892年)

1980年 - 花郁悠紀子 漫画家 (* 1954年)

1982年 - 竹内敏雄、美学者(* 1905年)

1985年 - アン・バクスター、女優(* 1923年)

1989年 - 田河水泡、漫画家(* 1909年)

1998年 - 隅谷正峯、刀工(* 1921年)

1999年 - ジョセフ・ヘラー、小説家(* 1923年)

2001年 - 田沢吉郎、元衆議院議員(* 1918年)

2002年 - 松島栄一、歴史学者(* 1917年)

2002年 - 笠原和夫、脚本家(* 1927年)

2003年 - ヘイダル・アリエフ、アゼルバイジャン大統領(* 1923年)

2005年 - 関口忠、電気・核融合工学者(* 1926年)

2007年 - 内藤寿七郎、日本小児科医会初代会長(* 1906年)

2007年 - 衞藤瀋吉、政治学者(* 1923年)

2007年 - 山口俊夫、法学者(* 1928年)

2007年 - ユーリ・ウォロンツォフ、外交官(* 1929年)

2007年 - アイク・ターナー、ミュージシャン(* 1934年)

記念日・年中行事
漢字の日(日本)
12月12日の「1212」が「いい字一字」とよめるという
語呂合わせにちなんで、
日本漢字能力検定協会が1995年に制定。
同協会は毎年その年の世相を象徴する
「今年を表現する漢字(今年の漢字)」を全国から募集し、
この日に京都市の清水寺で発表している。

バッテリーの日(カーバッテリーの日)
日本蓄電池工業会(現・電池工業会)が1985年に
「カーバッテリーの日」という名前で制定。
1991年に「バッテリーの日」と改称した。
野球のピッチャーとキャッチャーのことをバッテリーと呼ぶが、
それらのポジションを表す数字がそれぞれ"1"と"2"であることに由来する。
極寒気になると車のバッテリーがかかりにくくなるため、
この時期の点検を推進し、エンストによる交通事故を防止する目的もある。