東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年12月21日(日曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年12月21日(日曜日)

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種をおすすめいたします。
常時いつでも接種可能です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

冬間近のそのむかし晩秋のころ。
「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」の。
花の蕾が淡い黄金色の
が見えてから「10日間」で。
花は去りました。
黄金色のじゅうたんが毛氈(もうせん)ように。
地面「金色」に広がりました。

「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」に続いて。
「銀木犀:きんもくせい」もプラチナ色の
花が咲き始めました。

「金木犀:きんもくせい」のあとを追って。
「銀木犀:きんもくせい」の花は去り。
地面に「プラチナ」が一面に広がっていました。

今は私の「大好き」な。

「やぶつばき」と「山茶花(さざんか)」

の「とき」です。

山本クリニックの庭園には。
「野生」の。
「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」が
沢山群生してはえています。

日々の毎日にどんどんと。
みるみると。

山茶花(さざんか)や「やぶつばき」が。
つぼみを大きくしています。

けれども「山茶花(さざんか)」は蕾が大きくなった
そのよるに花咲き朝ちることが
多いです。

「種の保存」の理論からすれば
昆虫の少ない「真冬」も日々に。

開花期はながければ長いほど「実」「種」
が「たくさんできる確率は高くなる」
不思議なことです。

山茶花(さざんか)花

ぬばたまの

暗き闇夜に

木枯らしの

風に弓射られて

花ぞ舞い散る

さざんかはな

ぬばたまの

くらきやみよに

こからしの

かせにいられて

はなそまいちる

早朝には「白鷺の羽」
のように地面に
舞い降ちています。

「木犀:もくせい」の花の
「芳香」は蕾のみえるまえから
あります。
花が去ったあとは
「あっというまに芳香が消えます」。

「木犀:もくせい」たちのかおりがされば。
今度はいよいよ。

つぼみを日々
大きくしている。

山茶花(さざんか)や「やぶつばき」が
出番になりました。

「山茶花(さざんか)」と「やぶつばき」
をみまもるのは
「みかんの木」の「丸いみかん」の
「ぶどう」のような丸い群れ。

私は山茶花(さざんか)よりも
「やぶつばき」のほうずっとすきです。

いずれも野生の「やぶつばき」と
野生の「山茶花(さざんか)」ばかりです。

堂々たる。
木枯らしの吹く。
「12月」
本物の「冬」になりました。

「冬」がふかまり。

「もっと深い冬」のトンネルをこえれば。

そこは「雪国の冬」です。

「木枯らし」は

遠くの蒸気機関車の鳴き声のように

ちかくに聞こえます。

です。

きょうは。
とても寒い。
「木枯らし」が吹いています。

最近は
朝くらい早朝には「星がみえます」。
「明けの明星」の金星が南の空に高くみえます。

病院の明かりが灯り暗闇のなか。
朝はやく。

「明けの明星」の金星に「おはよう」を
毎日こえで「御挨拶」を伝えます。
「明けの明星」の金星から「おはよう」と
返事がかえってくる声をききながら。
病院の明かりをともします。

夏場の早朝のくらい時には。
明星はみえずらかった。
季節が「冬へとあゆみ」。
いよいよ。
大気が「澄んできた」ということでしょう。

冬霧雨(ふゆきりさめ)の。
冬霞(ふゆかすみ)の大気。

こおろぎの「なきごえ」はいつしか。
「合唱」から「独唱」になりました。
「ろうろう」と鳴いていました。
そしていまは「こおろぎ」はきこえないです。
「こうろぎ」の「ろうろう」は
木枯らしの「音」にかわりました。
「ろうろう」「こうこう」
「木枯らし」の鳴き声

朝暗く寒いいうちの「木枯らし」の合唱は。
「初冬」の「ふうりん」のごとし。
あれ沢山の「ふうりん」かな。
「冬」の「ふうりん」の音色です。

「ろうろう」。
さびさびと「さむい音」です。
「こうこう」
わびわびと「火のこいしくなる音」です。

「ススキの穂先」は
「そぞろに「深い晩秋・初冬」の旅愁」すら
をも感じさせます。

「ススキの穂先」には「冬ふくろう」が
何匹も集ってつどい。
何匹ものふくろうが。
何かを考えているようにみえます。

「雪」がつもれば。
「ススキの穂先」は。
「しあわせと幸福を手招き」している
何本もの「手」のように。
みえます。

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munch
の絵画のようです。

私も「日々を旅ゆく人間」です。

奥の細道の序文に松尾芭蕉が。

「月日は百代の過客(ひゃくたいのかかく)
にして行かふ年も又旅人也。」

「つきはひゃくたいのかかくにして
いきかふとしもまたたひひとなり」

とかたり。詠みました。

私は

「日々の月日」を道連れにして。

「時」を旅をするひとりの旅人(たびびと)」

です。

「日々月日の旅のつれあい」は。

「きょう」と「あす」しか。

いません。

「きょう」と「あす」しか。

私にはありません。

朝くらいとき。
陽の出の直後は。
いつも一瞬は晴れています。
いまだ かすかにも。
のこる「初冬」の気配
もあるけれども。

あきらかに。
そしてしっかりと。
しのびよるもっともっと奥の。
深く深まる冬からの大気。

「ふかまる冬」の気配が。
「確かに」。
そして明らかに。
そして輪郭はっきりと。

感じられるようになりました。

「12月」になりました。
今年も。
「あとわずか」でおわります。

はやいものです。
速いものです。
早いものです。

街路樹もそうそうたる
羽振りの木々から
「ふかまりゆく冬の樹木」にうつろうように
変化しています。

「冬」にも「樹木の若葉の芽生え」があることに
気がつきました。

春の芽吹くときには。
街路樹のポプラも
幹や枝葉の穂先が。
ろうそくのともしびのように。
「炎の様」になっていました。
あたかも
ゴッホの描いた「夜の糸杉」のように。
春の早朝はみえました。

夏になり。
この「穂先」が一気に「ポプラの葉」へと
扇・おおぎのごとく開きました。

フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「夜の糸杉」から。
フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「ひまわり」
のように。
一斉に開きました。
8月にはいってからのことです。

10月そして11月。
今現在は落ち着いた「冬」の葉木。
「冬」の木々の「葉」
へと。

「みのりの冬」にむけて。
「あつく」うつろいています。

ポプラも。つばきもくすのきも。
「中秋」には「中秋の若葉」が。
ハンカチをふるように
「秋のわかば」の「めばえ」がみえます。

そして「冬がくると」。
空と木枯らしのかなでる「蛍の光」や
「冬のコンチエルト」にあわせるように。

ポプラの葉や芽葉は。
ハンカチのようにふわふわと。
ふわふわと。
「穂先から葉葉」は「舞い振りまがら」
木を去っていきます。

樹木のハンカチは。
大地を訪ねて飛翔し。
大地にまいおり大地にもどります。
そして大地になります。

そして。
ポプラの葉や芽葉が。
ハンカチのようにふわふわと。
ふわふわと。
「穂先から葉葉」は「舞い振りまがら」
木を去っていくのは。
「夜の魔法」のようです。
「葉の去った枝」にはもう「来春の若芽のつぼみ」
がみえます。

木々の「葉」が「枝や幹」を
「保護する役割をしている」
ことに気づきました。

4月の桜の花の時期とうってかわり
桜の木の公園
の桜の木々が。
夏になりとても獰猛な気配を放つ。
初めて気がついた・。

けれども今は

「おせどにこおろぎがなき」

「電線に「木枯らし」がなく」

「深い冬」です。

冬の濃い緑の葉になり。
やさしさとおだやかさ
が感じられます。

そしていつしか
幹先に黄色い葉もまじるようになった。
しだいにしだいに。
紅黄色の葉がふえているのに
きがつきます。
さくらから。
さくらはのきえるころ
です。

紅葉。

桜の樹木も「丸くなりました」。
桜の樹木も毎年と毎日。
「旅(たび)をしている」のでしょう。

朝陽をあびる落葉樹は
「すべてが黄金色」に
かがやき。
朝陽をしっかりと。
「絵になるように」受け止めています。

「冬の朝陽」は真東に大変鋭いことに
気づきました。
眩しいです。

春は別として。
桜の木は木の下で。
夏は心安らかに。
「休める木ではないなあ」
と思います。

秋になり
桜の樹木も安堵の葉色
になりました。
ちょっとばかりびっくり致しました。

枝や幹からは秋の陽の木漏れ日がみえます。

夏桜の木は獰猛なほど葉をおいしげらせ
ていました。
夏には
桜の木の下で木陰で。心安らかにやすもうという
気はおきません。

いまは晩秋になりました。
そよかぜに揺れる葉は
招き誘われるような気すら致します。

冬になり幹にはもう「枯れ葉散る」はの根元には。
「春の芽栄え(めばえ)」
がみえます。

けれども
やはり夏桜の木は
シューベルトの歌曲の旋律にある「菩提樹」
ではないのです。

冬になり
人生に果てて(はてて)
なれるが如く桜樹木はかわりました。
良い木になってきました。
素敵(すてき)です。
冬の桜木(さくらぎ)。

木々でも。
いちょうや。松や。杉などの針葉樹
は。またソテツなどは。
「古い時代の木」です。

「チャールズ・ダーウィンの進化論」からは
「針葉樹」から。
「常緑樹」「広葉樹」「落葉樹」にと。
「進化」しているはずです。

「原始的」な樹木ほど。
「硬い幹」です。
例外はありません。

硬ければ。
幹は硬ければ動物に
「かじられる」ことはないでしょう。

いにしえの古代の時代にも。

恐竜をはじめめとする
「大型」の草食動物にも。

かたければかじられることは
なかったでしょう。

街並みを彩る街路樹には「落葉植物」が多いです。

ふと。考える。

街路樹が「松や杉」のように。
「冬も葉を持つ針葉の常緑樹」では。

冬はうっそうとして道端では
やさしい暖かな陽射しをかくしてしまう。

夏場は枝ぶり葉っぱぶりからつよすぎる日の光は
さえぎれません。
そして
「秋」の「夕焼け陽」には。
「金色のちいさき鳥の形して」
秋の夕焼けの陽射しに舞うこともできません。

常緑樹の針葉樹では。
は四季のリズムをつたえる

北大路魯山人のいう

「ざっくり感(ざっくりかん)」

のリズムヤハーモニー或は旋律が
ありません。

木々の夏の萌黄が早朝暗い中でも
うかびあがります。
私はくすのきが「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
モミジもすきです。
カエデもすきです。
松や杉もすきです。
月桂樹やシナモンもすきです。
オリーブもすきです。
オレンジの木もすきです。
「そてつ」の木もすきです。
ツバキもすきです。
木や植物がすきです。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな秋の萌黄色です。
まるで大きな深い山の森のうねりのようです。
今年は木々のわかばの秋のめばえが非常に鮮か
です。
木々は「夏樹」の役目をおわりました。
「秋木」とかわろうとしています。
「秋木」とかわりました。
そして
さらに
「冬木」へとかわろうとしています。

街角の雑草も花は咲き終わり。
盛夏の姿となりそして秋を迎える。
「ほとけの座」や「はこべ」が
「かたばみ」や「いたどり」が
ますます姿を大きくして。
そして「すすき」もくおわりました。

夏草から秋草へ。
そして秋草へのたたずまいをしています。
そしてもうすっかり秋冬草へと黄金色に転した
街角には雑草もあります。
こがねいろ。

雑草も。
同じく花をさかせ自ら種をとばし
夏葉がみえる。
そして秋を迎える。
冬が来て。木枯らしに吹かれ。
雪をかむり。そして。
春がくる。

ツツジは潅木。
ツツジの花の葉の優しさには
あらためてびっくりしました。
黄緑・草色のビロードです。

のぞきこむと若葉はまだ沢山ある。
何故か得をしたように思えました。

そして雨にうたれてそのまま地に落ちた
ツツジの若葉は幾何学的に裏側を下にむけて
逆さじょうごのように
落下していることに気がつきました。
まるで
「若草色」のキノコが沢山はえているようです。

木から落ちても。
まだ「若葉」です。ふと。
ヴェルディの「椿姫」「La Traviata」
の「つばき」を思い出しました。

1852年パリに滞在したヴェルディは
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)
の戯曲版『椿姫』の上演を見て感激し
ました。
そのころ新作の作曲依頼を受けていた
ヴェネツィアのフェニーチェ劇場のために。
翌1853年初めに比較的短時間で作曲された
『椿姫 』(La Dame aux camelias、1848年出版)
は。
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が
実際の体験を基にして書いた長編小説。
主人公のモデルはかつて作者が交際をしていた
マリー・デュプレシという高級娼婦。
恋人アルマンのイニシャルである
『AD』は
小デュマのイニシャルと同じです。

この作品は人々に愛されて幾度も舞台、映画化され
続けてきました。

朝暗いうちは。
もう。
はださむいような気が致します。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

山本クリニックには。
検見川の落合遺跡の遺跡発掘の際に
みつかった「古代のハスの種子」から。

2000年ぶりに発芽したことで有名な。
「古代蓮(ハス)」があります*。
【大賀ハス:おおがはす】です。
「有名な古代ハス」です。
とても勇壮なハスで。
花のいろはとてもあまりにも美しく。
たとえ様もありません。

ハスの花がさき。
「「蓮(ハス)」の実」になりました。
「はすの実」も「はす」の葉も。
2mくらい水面から高いところに
あります。

睡蓮(すいれん)があります。
睡蓮(すいれん)は「葉」が水に浮び。
はのきれこみは羊の足のようです。
睡蓮(すいれん)を「ひつじぐさ」とは
なるほどと考える。
睡蓮(すいれん)の茎の長さには
おどろかされます。

「姫睡蓮(ひめすいれん)」でさえも。
池はばが長ければ四方八方に「水の中の枝」。

「モネ」の描いた睡蓮(すいれん)の
「水の中の枝」は「どれほど長いのだろう」。

睡蓮(すいれん)も「太古の時代」に
陸の動物に「かじられないように」
水中に「逃げ込んだ」のでしょう。

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大賀ハス(オオガハス、おおがはす)とは。
1951年(昭和26年)、千葉県千葉市検見川
(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある
東京大学検見川厚生農場
(現・東京大学検見川総合運動場)の
落合遺跡で発掘された
今から2000年以上前の古代のハスの実から
発芽・開花したハス(古代ハス)のことです。

戦時中に東京都は燃料不足を補うために
花見川下流の湿地帯に豊富な草炭が埋蔵されていた
「草炭」を採掘していました。

採掘は戦後も継続して行われていました。
1947年(昭和22年)7月28日に作業員が採掘現場でたまたま
1隻の丸木舟と6本の櫂を掘り出しました。

その調査によりもう2隻の丸木舟と
ハスの果托などが発掘されました。

「縄文時代の船だまり」であったと推測され落合遺跡と呼ばれました。

植物学者でハスの権威者でもある大賀一郎博士
(当時・関東学院大学非常勤講師)が
発掘品の中にハスの果托があることを知り。
1951年(昭和26年)3月ボランティアの協力を得てこの遺跡の発掘調査を行いました。
翌日で打ち切りという30日の夕刻になって花園中学校の女子生徒により
地下約6mの泥炭層からハスの実1粒が発掘され予定を延長し
4月6日に2粒、計3粒のハスの実が発掘されました。

大賀博士は5月上旬から発掘された
3粒のハスの実の発芽育成を試みるも2粒は失敗に終わりました。
だが1951年3月30日に出土した1粒が育成に成功致しました。

翌年の1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪を咲かせました。
このニュースは国内外に報道されて多いな「驚愕」を与えました。
同年11月17日付米国ライフ誌に「世界最古の花・生命の復活」
として掲載され博士の姓を採って「大賀ハス」と命名されました。

シカゴ大学のリピー博士らによって放射性炭素年代測定が行われました。
ハスの実は今から2000年前の弥生時代以前のものであると推定された。

この古代ハスは、
1954年(昭和29年)6月8日に「検見川の大賀蓮」として
千葉県の天然記念物に指定されました。
また1993年(平成5年)4月29日には千葉市の花として制定され、
現在日本各地は元より世界各国へ根分けされ、
友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っています。

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ふと「パンの神」を思い出しました。
(「牧神パン(Pan)」=「Pan」=「パン」=
「飯(はん)」=「全般の般」=「パンアメリカンのパン」=

「パン」「pan」は「すべて」という意味の
古代ギリシャ語そして「サンスクリット」も同じ。

古典ギリシア語 Παν、Pan「パンの神」は。
幼少時からゼウスから他の神々全て*に好かれたので
(古代ギリシャ語でTheophilusテオフイルス/ラテン語では
amadeus アマデウス**)
「パン」と名づけられました。

「頭は人間で胴体は山羊」です。

「テュホン:テューホーン:Τυφών: Typhon」
ギリシア神話に登場する魔神***。
に追いかけられ
あわてて身を守るため川に飛び込み「頭は人間で胴体は人魚」
に変身したために。

「パニック」=「panic:パン的」
という言葉が生まれました。

星座に「山羊座」という星座があります。

山羊座は不思議ですが
「あわてて身を守るため川に飛び込み
「頭は人間で胴体は人魚」」
に変身した「パンの神」を示しています。
山羊ではありません。

むしろ正確には人魚です。

だから。
「山羊座」という「意味」はわかります。
けれども「命名」の観点から。
「山羊座」というのはかなり「妙」な気が致します。
「人魚座」というのが正しい。


名称「パンの神」の由来は「ギリシャ神話」でも
非常に多くの「言い伝え」がいくつがあります。
その「言い伝えの数」に正比例して「混乱」があります。

**
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの
「アマデウス」とは「パンの神」のことです。
(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの
ヴォルフガングは「おおかみが行く」という意味です。)

***
「テュホン:テューホーン:Τυφών: Typhon」は
「台風:たいふう」と日本語では名前を変えています。

****
タイフーン級原子力潜水艦は
旧ソ連・ロシアの941型(プロジェクト941)
戦略ミサイル搭載原子力潜水艦のことです。
タイフーンはそれに付けられたNATOコードネームですが
この名称は日本の「台風」とは「直接関係」はありません。

日曜の

朝晴れて

はじめて気づく

にわの小ささ

にちようの

あさはれて

はじめてきづく

にわのちいささ

朝晴れて

にわの小さき

気づかぬときは

病(やまい)なりけり

日曜の朝

あさはれて

にわのちいさき

きづかぬときは

やまいなりけり

にちようのあさ

休診日ですが。
早朝に朝まだ暗いうちから
首都高を走って病院に到着致します。

空はきらきらのラピス・ラズリの
紺碧のジュースから
ミルク色のはいった
トルコ石の「プリン」に変わるように変化
していきます。

遠くにぽかぽか浮ぶ「雲々」は
トルコ石の「プリン」の上の「クリーム」の
ようです。
にわのあじさいは「アイスクリーム」
のようです。

冬きらきらラピス・ラズリの空(そら)
冬紺碧のカクテルいろの空(そら)
冬ミルクをそそそいだ空(そら)
冬トルコいしのプリンの空(そら)
冬はるかにとほくたかい空(そら)
冬ほかほか浮ぶ雲々(くもぐも)そら
冬プリンの上のクリームのような空(そら)
冬睡蓮(すいれん)の水面に空(そら)
冬睡蓮(すいれん)のうえに空(そら)
冬空(そら)の向こうにまた空(そら)
冬そのまたむこうにももっと大きな空(そら)

春のうららのこもれびに
緑木いらかをかぜはやみ
青風ひるむやうつろひの
四季のつきひははやいくとせ

夏のうららのこもれびに
緑木いらかのつねなりて
赤き空(そら)にて炎えたたむ
四季のつきひははやいくとせ

秋のうららのこもれびに
緑木いらかにかぜさやか
秋風かたれるやすらきの
四季のつきひははやいくとせ

冬のうららのこもれびに
緑木いらかにかぜつよし
冬風弓(ゆみ)射る木枯らしに
四季のつきひははやいくとせ

冬椎木(しいのき)は枝高し
冬そらに吼える若葉の穂束
冬そらに吼える蒼き獅子のごとし
冬天にも地にもみどりはさける
冬のあさふかまりて
冬陽の光ゆたかなりけり
冬いふことのなし
冬いふことがなし
冬いふことはなし
冬いふこともなし
冬ゆたかなるかな秋冬

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない場合
に限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
はおわりました。

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平成20年

4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂き。5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。
-------------------------------

7月21日(月曜日)は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
-------------------------------

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

10月13日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

11月 3日(月曜日)は。
11月24日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------

12月23日(火曜日)は祝祭日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。
-------------------------------

東京都世田谷区山本クリニックは
平成20年12月30日(火曜日)
まで診療を行います。
来年は。
平成21年1月5日(月曜日)から
診療を行います。

冬季休診は12月31日(火曜日)から
平成21年1月4日(日曜日)までです。

-------------------------------

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。
「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は。

私が大変興味を持っている
チェコの姻族音楽作曲家。

チェコの多くの作曲家が。
スメタナやドヴォルザクが
「チェコらしい音楽とは何か?」を
模索していたその時代に。
国民学派でありながらも。
欧州でのあまりにも緻密かつ豊かな音楽教育を
うけたがゆえに。
苦しんだ「チェコ」の作曲家。

作曲技法面でドイツ・ロマンの様式を礎に。
革新的とは言い難い作曲はその点では
チエコのその時代にそぐわなかった作曲家。

4年後にはチエコに。
例えばヤナーチェク[Jana?ek, Leo? / 1854 - 1928]のような。
遥かに革新的な才能ある作曲家がモラヴィアの地に生まれたのだ
けれども。

スラヴ音楽の特徴ともいえる哀愁感。
チェコ民謡・チェコ舞曲のリズムなどを特徴とした
チェコ音楽と楽曲構成やその他の作曲技法の面で。
成熟していたドイツ・ロマン様式とを融合させたという点では。

彼の先輩であるスメタナやドヴォジャークなどが。
足元にすら及ぶところでは
なかったチェコも作曲家。

生徒であった
文豪シュルツの娘であったアネシュカと一緒になり。
妻子をすてた作曲家。

1850年 - ズデニェク・フィビフ、作曲家(+ 1900年)
の生誕日です。
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ズデニェク・フィビフ(Zden?k Fibich,
1850年12月21日 - 1900年10月15日)はチェコの作曲家です。

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ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibichは。

日本では「フィビヒ」ないし「フィービヒ」の発音及び表記が
一般的です。
けれども
"Fibich" の "ch" の発音はチェコ語では無声音でしかも
ach-Laut([x]) です。
「フ」又は「ク」に近いのです。
(但しそれでも耳慣れない日本人には
「ヒ」に近い音として聞こえるかも知れない)。

「フィービヒ」の様に長音を加えた表記は誤りです。

(長音とした場合、
綴りは "Fibich" ではなく "Fibich"になってしまう)。

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ズデニェク・フィビフは、スメタナ、ドヴォルザークと共に。

チェコ国民楽派の草創期を築いた作曲家です。

チェコ民族独立の気運が胎動する時代にあって。
スメタナやドヴォジャーク同様にチェコ民謡や民族舞曲の
リズムを自作に取り入れました。

チェコ民族の伝説によるオペラを作曲するなど。
その作品は民族的な素材によるものが少なくありません。

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ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibichは。
作曲技法の面では明らかにドイツ・ロマン派の系統にありました。
チェコ国民楽派として扱われるのは。

このような彼の志向によるものす。

当時のチエコはドヴォジャークやヤナーチェクのように。
音楽修行時代に。
満足にピアノに触れることもできなかった作曲家が
ほとんどでした。

フィビフはその点では。
幼少時代から非常に恵まれた環境で音楽を学び育ちました。

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ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibichは。

音楽修行を終えてからも楽壇の要職に就くことはなく。

生涯にわたりて。
主に作曲と教師、音楽監督などの職で生計を立てました。

当時のチェコ楽壇は。

同じ国民楽派とはいえ。
1・
スメタナの進歩派と。
2・
ドヴォジャークを擁する
プヴォタの保守派に二分されていました。

フィビフは。
音楽上の立場としてはスメタナの側に
立っていたこともありました。

実際に当時のチエコではズデニェク・フィビフ:Zdeněk Fibich
は。
スメタナの正統な後継者として目されていました。

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ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibich
生涯

誕生〜音楽修行時代
1850年12月21日 当時オーストリア帝国の支配下にあった
ボヘミア地方のフシェボジツェ村(V?ebo?ice)に生まれました。

洗礼名はZdenko。

父親Janはチェコの貴族。
アウエルスペルク伯Auerspergに仕える森林管理官、
母親Marieはドイツ語を話すウィーン出身の女性でした。

1859年-1862年 ヘルマンのハウプトシューレに在籍。
フィビフにとって初めての音楽教育となる
母親からのピアノの手ほどきは1859年から始まっています。

1862年-1863年 ギムナジウムに通いました。

1863年-1865年 プラハのチェコ・ギムナジウムに通いました。

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ズデニェク・フィビフ:Zdeněk Fibichは。

フランティシェク・チェルニー
(Franti?ek ?erny
(ピアノの練習曲を書いた、
ベートーヴェンの著名な弟子とは別人))
の勧めにより最初の作曲に取り組んでいます。

また
1864年 スメタナの強い後押しにより
聖イグナツ教会のオルガニストに就任致しました。

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ズデニェク・フィビフ:Zdeněk Fibichは。

1864年-1865年 ジークムント・コレショフスキー(Zikmund Kole?ovsky)
の私設音楽学校に通いました。

1865年4月12日 自作の最初のホ短調交響曲を。
自身の指揮で初演致しました。
(Slavoj協会コンサート)。

但しこの交響曲には交響曲としての番号も
作品番号も与えられていません。

ライプツィヒ音楽院に入学致しました。
ピアノをモシェレスに。
和声をリヒターに学びました。
また同時にヤダスゾーンから
対位法をプライベートレッスンで学びました。

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ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibichは。

独立・結婚
1867年 パリでピアノ教師をしながら。
かねて関心を抱いていた彫刻や絵画を学びました。

1870年には。
マンハイムで最後の音楽修行を終えるとチェコに戻りました。

両親と共にジャーキー村に移り住んでいます。

1873年 製粉所の娘の
ルージェナ・ハヌショヴァーと結婚しました。
その秋にはリトアニアのヴィリニュスで
合唱指導の職に就きました。

この最初の妻との間には1874年に双子の男女が生まれたが、
男児(リハルト)は数時間後に亡くなりました
(もう一人のエルサも2年後には亡くなってしまいました)。

さらに妻を看病しに来ていたフィビフの姉が。
そして追い討ちを掛けるように10月には
妻も亡くなってしまいました。

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ズデニェク・フィビフ:Zdeněk Fibichの再婚

1875年に。自分の姉と一緒になってくれるようにとの
亡妻の願いを容れ。
フィビフはルージェナの姉・ベッティと再婚致します。

ベッティは。
当時スメタナやフィビフの等のオペラに出演して
人気を博していた
仮劇場〜国民劇場のコントラルト歌手でありました。

この年フィビフは仮劇場(後のチェコ国民劇場)の
音楽副監督と合唱監督の職に就いています。

翌年、男児が生まれました。
この子もリハルトと名づけられました。
前妻との間に生まれたエルサは世を去りました。

1878年 敬愛するスメタナが仮劇場を去ることになりました。
これを機にフィビフも仮劇場での職を辞しています。

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ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibichは。

これは反スメタナ派が事実上劇場を支配することになり。
仕事がし難くなった為と考えられています。

ロシア正教会の合唱指導の職に就きました。
1881年まで勤めています。

この後1891年までは、創作活動を行ってはいました。

フィビフ自身に関する特に目立った記事はありません。
平穏な年月を送っていたのではないかと推測されます。

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ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibichの晩年

1891年 母を亡くす。
1893年 姉を亡くす。
作曲の教え子だった
アネシュカ・シュルゾヴァー(Ane?ka Schulzova)
との親密な関係が始まったのはこの頃からだったといわれています。

彼女との関係はフィビフが亡くなるまで続きました。

1897年 国民劇場から程近いプシュトロス通りに移り住み
妻子とは別居状態となりました。

ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibichは
1900年 風邪をこじらせ10月15日に49年の生涯の幕を閉じました。

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ズデニェク・フィビフ:Zdeněk Fibichの妻の死

翌年、彼の後を追うようにしてベッティが亡くなっています。
フィビフの遺骸は現在、ヴィシェフラトの墓地に彼の妻(ベッティ)
と共に埋葬されています。

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ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibichの。

作風
チェコ民謡に基づいた旋律です。
チェコ民族の伝説(例えば、《シャールカ》)
を主題に扱ったオペラやメロドラマ等を多く作曲しています。

けれどもこれらの楽曲の
構成や和声法・管弦楽法などの技法面では。
ドイツ・ロマン派の影響は色濃く表現されています。

その為、フィビフの作品からは
民謡の旋律や民族舞踊(フリアント、ポルカなど)
のリズムが聴き取れる一方では。

最初期の幾つかの作品を除けば。

ドヴォジャークなどのような
チエコの響きの素朴さが感じられることはあまり
ありません。

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ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibichは。

流麗で親しみやすい旋律がふんだんに使われています。
彼の作品の特徴の1つである。

この時代のチェコにおいては。
フィビフを含む多くの作曲家が
「チェコらしい音楽とは何か?」を模索していたと考えられます。

技法面でドイツ・ロマンの様式を土台にし。
革新的とは言い難いフィビフの音楽はその点では時代に
「チエコ民俗音楽」の世界では。
やや遅れて登場してきたといえるかも知れません。

実際、例えばヤナーチェク[Jana?ek, Leo? / 1854 - 1928]という。
遥かに革新的な才能がモラヴィアの地に生まれたのは。
フィビフよりも遅れること僅か4年に過ぎません。

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ズデニェク・フィビフ:Zdeněk Fibichの。

しかしながら、スラヴ音楽の特徴ともいえる
哀愁感や。
チェコ民謡・チェコ舞曲のリズムなどを特徴とした
チェコ音楽と楽曲構成やその他の作曲技法の面で。

成熟していたドイツ・ロマン様式とを融合させたという点では。
彼の先輩であるスメタナやドヴォジャークなどの及ぶところでは
ありませんでした。

そういう意味でフィビフの音楽は。
重要かつ特異な位置を占めているといえます。

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ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibichは。

彼の創作活動における功績の1つとして、
メロドラマの復興を挙げることができる。
「朗読(歌ではない)+音楽」という、
この独特な様式のジャンルに、
《クリスマスの日》Op.9,
《水の妖精》Op.15 を始めとする作品を遺しています。

これ等の作品は現在でも
「国際メロドラマコンクール」の課題曲に採用されています。

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ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibichは。

優れたピアノ連弾曲作家としての顔も持つています。
自作の「管弦楽の為の牧歌《黄昏》」、
交響詩《ザーボイ・スラヴォイとルジェク》などの
ピアノ連弾版編曲や。
ピアノ連弾の為のソナタ・変ロ長調などにおいては。
演奏効果と程よい難易度が見事なバランスで両立されています。

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ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibich

《気分、印象と追憶》とアネシュカ・シュルゾヴァー

晩年のほぼ10年間にわたり親密な関係にあった
アネシュカ・シュルゾヴァーは。
当時彼の作曲の教え子であったのです。

18歳年下の彼女は、
フィビフの創作活動に大きな影響を与えました。

全376曲・4つの作品番号に分けて発表された
フィビフのピアノ曲集《気分・印象と追憶》[Nalady, Dojmy a Upominky] には。
アネシュカと過ごした日々が
ピアノ曲による恋愛日記として綴られています。

また、文豪シュルツの娘であったアネシュカは、
その文才を生かし。
フィビフのオペラ《ヘディ》Op.43、
《シャールカ》Op.51、
また《ヘルガ》Op.55の作曲のための脚本を書いています。

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ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibichは。

これ等程には重要でないかも知れないのですが。

彼女はフィビフのピアノ五重奏曲Op.42のピアノ4手版編曲や。
ピアノ曲集《画家の作品》の草稿の写譜なども遺しています。

《気分、印象と追憶》は。
彼の他の数多くの作品との関連性を指摘できることから。
フィビフの創作の集大成と言えます。

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ズデニェク・フィビフ:Zden?k Fibichの。

なかでも「ジョフィーン島の夕べ」と題されたOp.41-139 (No.139)
の旋律は。
管弦楽の為の牧歌《黄昏》Op.39 の
中間部に既に用いられていた他。

後にヴァイオリニストのヤン・クベリークによって。
ヴァイオリンとピアノのための《詩曲》に編曲されるなど。
フィビフの作品の中でも最も知られるものとなりました。

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ズデニェク・フィビフ:Zdeněk Fibichと。
アネシュカが暮らしていたジョフィーン島(スラヴ島)には。
現在ジョフィーン館という建物が建っています。

この正面左側の壁にはフィビフを記念する
レリーフが掲げられています。

そこにはこの曲の旋律も刻まれています。
(ヤン・クベリークによって。
ヴァイオリンとピアノのための《詩曲》)

尚フィビフの死から5年後。
アネシュカは自らの手でその生涯に幕を引きました。

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ズデニェク・フィビフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%87%E3%83%8B%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%93%E3%83%95

ズデニェク・フィビフ(Zden?k Fibich, 1850年12月21日 - 1900年10月15日)はチェコの作曲家。

目次
1 はじめに
2 生涯
2.1 誕生〜音楽修行時代
2.2 独立・結婚
2.3 再婚
2.4 晩年
3 作風
4 《気分、印象と追憶》とアネシュカ・シュルゾヴァー
5 主要作品
5.1 管弦楽
5.2 オペラ・ステージドラマ・メロドラマ
5.3 ピアノ
5.4 室内楽
5.5 声楽(管弦楽を伴うものも含む)
6 関連項目
7 外部リンク

主要作品

管弦楽
交響曲3曲(但し、この他に番号無しの作品存在する)
喜劇序曲《カルルシュテインの夜》Op.26
交響詩《トマムと森の精》Op.49
交響詩《ザボイ・スラヴォイ・ルジェク》Op.37
管弦楽の為の牧歌《黄昏》Op.39
交響詩《嵐》Op.46

オペラ・ステージドラマ・メロドラマ
オペラ《メシーナの花嫁》Op.18
オペラ《ヘディ》Op.43
オペラ《シャールカ》Op.51
ステージドラマ三部作《ヒッポダミア》Op.31, 32. 33
メロドラマ《クリスマスの日》Op.9
メロドラマ《永遠》Op.14
メロドラマ《水の妖精》Op.15
メロドラマ《女王エマ》(遺作)

ピアノ
《山から》Op.29
連弾の為の《バガテル集》Op.19, 48
連弾の為の《ソナタ・変ロ長調》 Op.28
《気分・印象と追憶》Op.41, 44, 47, 57(計376曲)
《画家の作品》Op.56

室内楽
ピアノ三重奏曲 ヘ短調(遺作)
ピアノ四重奏曲 ホ短調 Op.11
ピアノ五重奏曲 ニ長調 Op.42
弦楽四重奏曲 2曲(ト長調 Op.8 及び、イ長調 遺作)
ヴァイオリンとピアノの為の《ソナチネ》ニ短調 Op.27
ヴァイオリンとピアノの為の《ソナタ》ニ長調(遺作)
ヴァイオリンとピアノの為の《演奏会用ポロネーズ》(遺作)
2つのヴァイオリンとピアノの為の《無言歌》(遺作)

声楽(管弦楽を伴うものも含む)
《6つの歌曲》Op.12
《ミサ・ブレヴィス》Op.21
カンタータ《春のロマンス》Op.23
《春の光》Op.36
なお、作品番号の与えられていない、また曲集の形で纏められていないと思われる膨大な量の作品が存在する。

関連項目
チェコの音楽

Fibichの墓
IMSLP - International Music Score Library Project 内のズデニェク・フィビフのページ。無料で楽譜が入手可能。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%87%E3%83%8B%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%93%E3%83%95" より作成
カテゴリ: チェコの作曲家 | ロマン派の作曲家 | 1850年生 | 1900年没

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++

12月21日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8821%E6%97%A5

できごと
1620年 - ピルグリム・ファーザーズが
今日プリマス・ロックとして知られる岩に上陸したとされる。

1844年 - ロッチデール先駆者協同組合設立。

1872年 - イギリスの帆船「チャレンジャー号」が世界探検のためポーツマスを出港。

1891年 - ジェームズ・ネイスミスがバスケットボールを考案。

1913年 - 初のクロスワードパズルが「ニューヨークワールド」誌に掲載される。

1917年 - 明治乳業設立。

1923年 - ネパールがイギリスから独立。

1941年 - 日本とタイの間で日泰同盟が締結される。

1946年 - 昭和南海地震が発生。

1968年 - アメリカ初の有人宇宙船「アポロ8号」打上げ。

1972年 - 「東西ドイツ基本条約」調印。関係正常化へ。

1975年 - 第1回コミックマーケット開催。

1978年 - 都営新宿線の岩本町?東大島間が開業。

1988年 - パンアメリカン航空103便爆破事件。

1994年 - ドイツの研究所、111番目の元素(ウンウンウニウム)合成。

1999年 - 横山ノック大阪府知事が大阪地方検察庁から
強制わいせつ罪で在宅起訴され、その直後に知事を辞職。

1999年 - 京都小学生殺害事件。

1999年 - 東海村JCO臨界事故で被曝したJCO社員男性(35歳)が東大病院で死亡。

誕生日
1568年(永禄11年12月3日) - 黒田長政、福岡藩初代藩主(+ 1623年)

1773年 - ロバート・ブラウン、植物学者(+ 1858年)

1780年(安永9年11月26日) - 黒住宗忠、黒住教の開祖(+ 1850年)

1804年 - ベンジャミン・ディズレーリ、イギリス首相(+ 1881年)

1805年 - トーマス・グレアム、スコットランドの化学者(+ 1869年)

1850年 - ズデニェク・フィビフ、作曲家(+ 1900年)

1878年 - ヤン・ウカシェヴィチ、論理学者・哲学者(+ 1956年)

1879年 - ヨシフ・スターリン、ソビエト連邦の指導者(+ 1953年)

1899年 - 灘尾弘吉、政治家、第60・61代衆議院議長(+ 1994年)

1905年 - アンソニー・パウエル、イギリスの小説家(+ 2000年)

1906年 - 林竹二、教育哲学者(+ 1985年)

1909年 - 松本清張、小説家(+ 1992年)

1918年 - クルト・ヴァルトハイム、第4代国連事務総長・元オーストリア大統領(+ 2007年)

1920年 - アリシア・アロンソ、バレエダンサー・振付師

1922年 - ポール・ウィンチェル、声優

1928年 - 佐藤慶、俳優、ナレーター

1936年 - 葛城隆雄、元プロ野球選手

1937年 - ジェーン・フォンダ、女優

1938年 - 夏樹静子、小説家

1940年 - フランク・ザッパ、音楽家

1940年 - 早川勝、政治家

1942年 - 胡錦濤、中華人民共和国主席

1943年 - ウォルター"ウルフマン"ワシントン、米国のミュージシャン

1944年 - マイケル・ティルソン=トーマス、指揮者

1947年 - 黒田正宏、元プロ野球選手

1948年 - サミュエル・L・ジャクソン、俳優
1950年 - 神田正輝、俳優
1953年 - 安斎肇、イラストレーター・デザイナー・ソラミミスト
1953年 - アンドラーシュ・シフ、ピアニスト
1954年 - 片岡鶴太郎、タレント・俳優・画家
1954年 - クリス・エバート、テニス選手
1955年 - 関口和之、ミュージシャン(サザンオールスターズ)
1957年 - 喜多川務、スーツアクター・俳優
1958年 - 柳沢高雄、元プロ野球選手
1959年 - フローレンス・ジョイナー、陸上競技選手(+ 1998年)
1961年 - 中嶋敦子、キャラクターデザイナー
1962年 - 小谷野敦、比較文学者
1963年 - ドノバン・レーザー・ラドック、プロボクサー
1964年 - 恵俊彰、タレント(ホンジャマカ)
1964年 - 幾原邦彦、アニメ監督、小説家
1965年 - 本木雅弘、俳優・歌手(シブがき隊)
1966年 - キーファー・サザーランド、俳優
1967年 - 草野マサムネ、ロック歌手(スピッツ)
1970年 - 谷繁元信、プロ野球選手
1971年 - はな、タレント・ファッションモデル
1971年 - マルガリータ・ドロビアツコ、フィギュアスケート選手
1974年 - カリー・ウェブ、ゴルファー
1977年 - 三重野瞳、歌手
1977年 - バディ・カーライル、プロ野球選手
1977年 - 須磨ノ富士茂雄、元大相撲力士
1978年 - 前川涼、漫画家
1978年 - ディッキー・ゴンザレス、プロ野球選手
1978年 - 伊藤彰、元プロ野球選手
1978年 - アンバー・コーウィン、フィギュアスケート選手
1979年 - TAKUYA∞、歌手(UVERworld)
1979年 - 吉川ひなの、タレント・ファッションモデル
1979年 - YAMOTO、シンガーソングライター
1980年 - 白川みなみ、タレント
1981年 - 磋牙司洋之、大相撲力士
1982年 - 濱田武、サッカー選手
1983年 - 上原美佐、女優
1984年 - 中澤優子、グラビアアイドル
1988年 - 武田奈也、フィギュアスケート選手
1988年 - 松浦拓弥、サッカー選手
1989年 - 栃本翔平、ノルディックスキージャンプ選手
生年不明 - SaCo、ボーカル(少年カミカゼ)
生年不明 - 新谷さなえ、歌手

忌日
1375年 - ジョヴァンニ・ボッカッチョ、詩人(* 1313年)

1805年(文化2年11月1日) - 徳川治保、常陸国水戸藩の第6代藩主(* 1751年)

1822年 - ギデオン・グレンジャー、第7代アメリカ合衆国郵政長官(* 1767年)

1860年 - 徐有壬(官僚・数学家)(* 1800年)

1940年 - スコット・フィッツジェラルド、小説家(* 1896年)

1945年 - ジョージ・パットン、軍人(* 1885年)

1947年 - 島田俊雄、政治家、元衆議院議長(* 1877年)

1957年 - 長谷健、小説家(* 1904年)

1959年 - 北大路魯山人、芸術家(* 1883年)

1977年 - 片桐軍三、フリールポライター、
狭山事件の元所沢署長細田行義証言を引き出す(* 1941年)

1978年 - 佐野周二、俳優(* 1912年)

1980年 - 梅田晴夫、劇作家、随筆家(* 1920年)

1985年 - 藤原釜足、俳優

1985年 - 増田甲子七、政治家(* 1898年)

1999年 - 大川慶次郎、競馬評論家(* 1929年)

2004年 - 今西祐行、児童文学作家(* 1923年)

2005年 - 大沢清輝、天文学者(* 1917年)

2006年 - アン・フィリッパ・ピアス、児童文学作家(* 1920年)

2006年 - サパルムラト・ニヤゾフ、トルクメニスタン大統領(* 1940年)

記念日・年中行事
クロスワードの日
1913年『ニューヨーク・ワールド』紙の日曜版にクロスワードパズルが初めて掲載 。

回文の日
1221の並び方が、回文と同じように前からも後からも同じ日に読めることから、作られた。

遠距離恋愛の日
1221の並び方が、両端が離れた一人を表し、
中の2が二人一緒に仲良くしていることを表すということで、
長野のFM局のアナウンサーの発案で作られた。