東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年1月3日(土曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年1月3日(土曜日)

みなさま。

あけましておめでとうございます。

ことしもすべてのひとびと。すべとのことがらが。

しあわせになられ。しあわせにはこび。

しあわせを達成できますように

あけましておめでとうございます。
「新年」も「3日」たちました。

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今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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今は「新年」の「1月」です。
「初春」です。

昨年。
「6月」=「夏の始まり」です。
「6月」がおわり「7月」です。
「7月」もおわりました。
最後の夏月「8月」。
夏の「8月」もおわりました。

「9月」の「秋」になり。
「9月」がおわりました。
「10月」もおわりました。
「11月」です。
「秋」「11月」が終わりました。

「12月」です。
今は「冬」です。

昨年の「12月」が終わりました。

今は「新年」。「初春」です。
「新年」をむかえても。

これからいよいよに。
もっと深くふかまる「冬」。
ふかまる「冬」をすぎれば。
そこは雪国の「冬」です。

「冬」。
「冬」をむかえ。
そして。
「さらにふかい冬」を。
むかえようとしています。

「ふゆ」を「むかえよう」。
「新年」そして「初春」。
「くるとしつき」は
「無我のうちにむかえよう」。

自在に「かんがえる」。
「自然」の「時の流れ」は。
真(まこと)の幸せ者です。

「新年」の「初春」だけれども。

「ひたひた」とさらに深まりゆく「冬」。
「さくさく」とひびく日々の過ぎ去る足音は。

「とぼとぼ」と。
朝早くまだ暗い街中に聞こえるようにとおざかり。

「冬」にいすわらぬ「冬役者」があらわれる。
「冬の戯曲」の「冬役者」。

「冬将軍」の「冬役者」かけあしの音がきこえます。

「冬将軍」
とはだれのつくった「ことば」か。
すごい言葉と感嘆致します。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(Johann Wolfgang von Goethe)
の「魔王:Erlkonig」*は。
「おそい冬の夜」の「嵐のなかを馬駆ける」
「父親」と「子」の情景を描写したものです。

かならずしも「冬の夜」を情景と考えなくても
「魔王」の詩*の
その「魔王」の「おそろしさ」は通じます。


魔王(Erlkonig)が。
どのようなものであるかは様々な議論があります。
その名前は字義的には「ハンノキの王」を意味する。
ゲーテは「ハンノキの王」Erlkonigから。
樹木の精霊の王として魔王を設定し想像力を膨らませたものです。

この詩はゲーテによって
1782年の歌劇『漁師の娘』
(Die Fischerin) の一部として作詞されました。

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『魔王』はデンマークで生まれた
比較的新しい伝承であると考えられます。

それをヨハン・ゴットフリート・ヘルダーが
ドイツ語に翻訳した『ハンノキの王の娘』
(Erlkonigs Tochter)がゲーテの詩の元になっています。

これはヘルダーが1778年に出版した『歌の中の人々の声』
(Stimmen der Volker in Liedern)という
民謡を集めた本に収録されています。

魔王(Erlkonig)が。
どのようなものであるかは様々な議論があります。
その名前は字義的には「ハンノキの王」を意味する。
英訳としては「妖精の王」(Elf King)がよく用いられます。
それに当たるドイツ語は「Elfenkonig」になってしまいます。

よく聞かれる説としては「Erlkonig」は
デンマーク語で妖精の王を意味する
「ellerkonge」または「elverkonge」からの
誤訳だとするものがあります。

しかし。
ゲーテはむしろその「ハンノキの王」から。
樹木の精霊の王として魔王を設定し想像力を膨らませたものです。

ドイツおよびデンマークの伝承では
魔王は死の前兆として登場します。
その意味ではアイルランドのバンシーに似ています。

魔王は死に瀕した人物の前に現れます。
魔王の姿かたちや表情がこれから
その人物に訪れる死の内容を表します。

苦しい表情であれば苦しい死であるし
穏やかな表情であれば穏やかな死であるという。

別の解釈としては妖精の王に触れられた者は必ず死に至るという
伝承が元になったという説もあります。

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「新年」「初春」。

早いです。
速いものです。
速いのか早いのか。
はやいのか。

けさ暗いうち
地をはうような「木枯らし」の
風がふきました。

「山茶花(さざんか)」と「木枯らし」は相性が。
よくないようです。

「或は」極めて相性がよいのか。
どちらかです。

暗い寒い朝に。
山茶花(さざんか)の花びらが。
夜の間に木枯しの。
弓風に射られて。
白鷺の羽が舞いおりているようです。

晩秋に聞こえたろうろうと鳴く。
こうろぎののなきごえ。
晩秋には早朝から
遠くにきこえました。

冬のこうろぎ。
「ろうろう」(朗々)と鳴いていました。
さびさびとした。

宙を舞う前の
「むささび」の声のような。
「なきごえ」でした。

「冬」になり
いまはもう「こうろぎ」の声もきこえません。

いまは。
「木枯らし」の鳴き声にかわりました。

今日の朝暗いうちに。
秋の暗闇の地面のうえから。

「早朝に霜柱の音」
が聞こえました。

不思議な「冬の霜柱の音」。
「鳴き声」のようです。

いつしか。
「木枯らし」と。
「冬の霜柱の音」だけになりました。

「木枯らし」と。
「冬の霜柱の音」は。
早朝暗いうちになくものである
ことがわかります。

「絵」にかきたい「音」です。
面白いが「おそろしい」情景であるような気が致します。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(Johann Wolfgang von Goethe)
の「魔王」のようになるのでしょうか。

「冬の霜柱の音」の声。
冬に「こうこう」と鳴く。
そして木枯らしの風音がくわわっていきます。

その木枯らし音の。
背景に流れる「通奏低音:Generalbass;ゲネラル・バス」*
「冬のふゆかぜ」のこえは。
暗闇の「冬の足音」のように聞こえる。
暗い冬の日に。
「雪の降るまち」では。
「足音だけが遠ざかっていく」「足音」

「とぼとぼ」
にしだいに重複してきました。
冬のあさの「あしおと」と「冬」のよるあしおとの。
「フーガ」と「カノン」。
木枯らしはトッカータ。


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通奏低音(つうそうていおん)とは
バロック音楽において行われる演奏形態の一つです。
低音部の旋律とともに即興的な和音を付け加えて演奏する形態です。
イタリア語のバッソ・コンティヌオ(Basso continuo)

の訳語です。
伴奏楽器が間断なく演奏し続けるということからこの名があります。
略してコンティヌオと呼ぶことも多いです。
ドイツ語のゲネラルバスも使われることがあります。

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常緑の木々の深冬葉のいろ。
緑がますますあざやかに。
深まる秋におちついて。
考えるが如く
「ロダンの彫塑」の色合いです。

常緑の木々の葉は。
深緑(ふかみどり)になりました。
そして「冬」をむかえて。
「冬緑」のいろあいに
うつろいできました。
もう「緑をうつろいて」
さすがにつかれた黄赤色の葉もみえます。
枯れ葉も樹木のにぎわいです。木々の防寒衣としては
なくてはならないものです。

「新年」
冬の夜明(よあけ)の空から。
冬の陽がのぼり。
冬の日の「空色」になってきました。

けれども。
朝暗いうちはミルクのはいった
コバルトのような
カフエ・オレ・コバルトの空色です。
そして雲は天高く冬雲です。

あさの06:00AMころに。

東の空
ほのかにあかるく
まだくらくあおく
しだいに
雲多い空はラピズラズリからトルコ石
のようににうつろうように。
しらんできます。

その上空にさらに。
明らかなる大きな質量のある。
「深まる冬の気配」を感じます。
<

冬野路はた見たりビロードのしだ
冬わらべのごときビロードのしだ
冬わらびのごとく輝けりビロードのしだ
冬山奥にひそむビロードのしだ
冬しのぶの羊歯(しだ)ビロードのしだ
冬めずらしき羊歯ビロードのしだ
冬ときわの緑のほのほビロードのしだ
冬山奥のしだのビロードのしだ
冬「まち」にもいきるビロードのしだ
冬けなげなりもあはれなりビロードのしだ
冬生い立ちしらずビロードのしだ
冬されどそのちからこそとほとしビロードのしだ

冬いざいまこそは

冬よき季節にあらむ

冬ふと空をみる

今時にもかかわらず放射冷却で
朝はとても寒いが。
「ぬくもり」はある。

確実に日は短くなりました。
葉木(はき)の樹木は「木」にかわり。
秋の木から「冬の木」にうつろいさらに
「冬の木」から。
「樹氷の木」にうつろう時期
です。

外路樹の若葉は
緑濃くオリーブの葉のごとし
つみとりたくなる
ほどにきれいです。
けれどもひそやかに木々の葉にも
「深い冬からさらにもっと深い冬」の気配がうつろいて。
うつります。

冬まちなみ蒼く(あおく)
冬いろどりて
冬木々の榛葉のかがやけり
冬暑さの夏秋をうつろひて
冬ふかまるみどりの冬木なり
冬しずまるみどりの冬木なり
冬みのりの冬こそありがたし
冬みのりの冬こそこひしかり
冬虫なきてささやけり
冬木々は榛葉にかがやけり

道端の野草もかわいらしい。
冬化粧をして。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は気温がさがり大気は不安定です。
「寒い」。
寒いと首都高の自動車も暗い中
「辛そうな運転の車」が多いです。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成21年1月12日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

平成21年2月23日(火曜日)
は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

東京都世田谷区山本クリニックは
平成20年12月30日(火曜日)
まで診療を行います。
来年は。
平成21年1月5日(月曜日)から
診療を行います。

冬季休診は12月31日(火曜日)から
平成21年1月4日(日曜日)までです。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。
梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼の青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝

「今日は何の日」は。

ドイツ画団の「青騎士」
(デア・ブラウエ・ライター/Der Blaue Reiter)
の「ひとり」。

27歳の若さで戦死したため。
その活動期間は数年間にすぎなかったドイツの画家。

チュニジア旅行で多くの水彩画を残して。
水彩画家としても高く評価されているドイツの画家。

私の「大好き」なドイツの画家。

1887年 - アウグスト・マッケ、画家(+ 1914年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

アウグスト・マッケ
(August Macke,
1887年1月3日 - 1914年9月26日)は
20世紀初頭に活動したドイツの画家です。

1910年代にカンディンスキー、マルクらとともに。
当時の前衛美術運動であった「青騎士」のグループ
に参加し活動致します。

マッケは27歳の若さで戦死したため。
その活動期間は数年間にすぎなかったのです。

単純化された形態と。
幻想的な色彩を特色とする彼の絵画は。

表現主義とも抽象絵画とも一線を画した
独自の様式を築き上げました。

東山魁夷画伯の絵画と共通点があります。

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アウグスト・マッケ:August Mackeの
修業期〜「青騎士」

マッケは1887年にドイツ北西部の
ノルトライン=ヴェストファーレン州
メシェーデで生まれました。

1904年から2年ほど。
同州の州都であるデュッセルドルフの
美術アカデミーに学びました。

この頃の作品としては
1906年作の『自画像』などが残っています。

++++++++++++++++++++++

アウグスト・マッケ:August Macke

1907年には美術コレクターの
ベルンハルト・ケーラーの経済的援助を得て。
パリに滞在致します。

後にマッケの妻となったエリザベートは。
このケーラーの姪(めい)でした。

パリでは特にセザンヌの作品に触れ影響を受けました。

パリ滞在の後、ベルリンに移り。
ドイツ印象派の画家である
ロヴィス・コリント(1858 - 1925)のアトリエに
数か月間通いました。

コリントは。
ドイツ印象派の代表的画家であるとともに
表現主義的傾向の強い画家として有名です。

++++++++++++++++++++++

アウグスト・マッケ:August Mackeは。

初期には印象派やセザンヌの影響から模索のうちに
スタートした
マッケの絵画が転機を迎えるのは。

1910年、「青騎士」の主要メンバーの一人である
フランツ・マルクに出会った頃からです。

++++++++++++++++++++++

ドイツの画家集団である
「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター/Der Blaue Reiter)は。

ロシア出身の画家で抽象絵画の創始者の一人である
ワシリー・カンディンスキーと。
ミュンヘン出身のフランツ・マルクを中心に。

ミュンヘンで活動した前衛画家のグループです。

グループの活動自体は、1911年と1912年の
2回のグループ展の開催と。

年刊機関誌『青騎士』の刊行
(結局1回しか刊行されなかった)
を行った後第一次世界大戦の勃発を受けて
短命なものに終わりました。

しかしながら
ドイツの画家集団である
「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター/Der Blaue Reiter)は。
20世紀美術のその後の動向に。
大きな影響を与えた運動として重要視されています。

++++++++++++++++++++++

「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター/Der Blaue Reiter)
「青騎士」の2回のグループ展の参加者の顔ぶれを見ると。

ドイツ表現派の代表的画家であるキルヒナーのほか。
20世紀絵画に特異な位置を占めるクレー、ドローネー、
フォーヴィスムのドランとヴラマンク、
キュビスムのピカソなど多彩な画家が参加しています。

そこには共通した画風や傾向は見られません。

むしろ。
適切な事例が思い浮かばないのですが。
当時の前衛美術のさまざまな傾向を集めた観があります。

++++++++++++++++++++++

アウグスト・マッケ:August Mackeは。

マッケは1910年ミュンヘンで
初個展を開催中であったマルクに会いました。

翌年にはマルクの住んでいたジンデルスドルフに滞在しています。

また。
1911年から翌年にかけてクレーやドローネーと知り合っています。

マッケはこれらの画家たちから影響を受けました。

中でもドローネーの色彩の影響が強く感じられます。

++++++++++++++++++++++

アウグスト・マッケ:August Mackeは。
マッケは上記2回の「青騎士」展(1911・1912年)
に参加するとともに。

1912年5月のゾンダーブント展(ケルンで開催された現代美術展)。
同年3月のベルリン新分離派展、
1913年9月のドイツ秋季サロン展(ベルリン)
などの重要な展覧会に相次いで出品しています。

++++++++++++++++++++++
アウグスト・マッケ:August Macke

チュニジア旅行〜

1913年秋から翌年にかけては
スイスの景勝地トゥーン湖畔に滞在して制作致します。
湖の風景や湖畔を散策する人々を題材とした作品が残っています。

没年となる1914年の4月には。
クレー、ルイ・モワイエ
(スイス出身の画家で、クレーをマッケに紹介した)
とともにアフリカの地中海岸にあるチュニジアへ旅行しています。

この旅行は
チュニス、ハマメット、カイルアンなどの都市をめぐる。
わずか2週間ほどの滞在でしたが。

チュニジアの風景と鮮烈な色彩は。
画家たちに強い衝撃を与えました。

マッケはこの旅行中に彼の代表作に数えられる
数十点の水彩画を残しています。こ

の旅行は同行したクレーにとっても。
画風の転換をうながす重要なもの
となりました。
++++++++++++++++++++++

アウグスト・マッケ:August Macke
早すぎた晩年

このチュニジア旅行から帰ったマッケは
新たな画風を模索していました。
けれども彼に残された時間はあまり多くなかったのです。

1914年8月、第一次大戦が勃発。
この大戦でフランツ・マルクを含む
多くの芸術家も犠牲になりました。
アウグスト・マッケ:August Mackeも「その一人」
となりかえらぬ人となりました。

マッケは1914年9月26日戦死。27歳の若さでした

++++++++++++++++++++++

作風

マッケは「青騎士」のメンバーであったことから。
いきおいドイツ表現主義に分類されることも多いのです。

けれども。
その絵画には他の表現主義の画家に見られるような
政治的・思想的な主張や生の感情をぶつけたような
色彩感覚は見られません。

彼の絵画はむしろ。
キュビスムやドローネーから強く影響を受けています。

++++++++++++++++++++++

アウグスト・マッケ:August Mackeの。
セザンヌやキュビスムの影響を受けた理知的な画面構成。

単純化された形態。

そしてドローネーの影響を受けた
鮮烈な色彩にその特色があります。

マッケの作品のうち純粋な抽象絵画は
実験的に制作した数点を見るのみです。

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アウグスト・マッケ:August Mackeは。

基本的には具象画家であり。

戸外を散策する人物などの日常的な題材を好んで取り上げました。

人物や樹木などの形態は単純化されているとはいえ。
キュビスムの形態ほどには解体されておらず。
現実感を保っています。

一方では。
独特の色使いは自然の色彩の再現から離れ。
絵画独自の表現を追求したものと言えます。

マッケは1914年(没年)のチュニジア旅行で
多くの水彩画を残し水彩画家としても高く評価されています。

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アウグスト・マッケ:August Macke

代表作
妻の肖像 1909 ミュンスター、ヴェストファーレン州立美術館
青い湖のほとりの人々 1913 カールスルーエ市立美術館
緑の上着の婦人 1913 ケルン、ヴァルラフ=リヒャルツ美術館
帽子屋の前で(赤い服の婦人と子供) 1913 個人蔵
牛とラクダのいる風景 1914 チューリヒ美術館

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アウグスト・マッケ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%B1

アウグスト・マッケ(August Macke, 1887年1月3日 - 1914年9月26日)は20世紀初頭に活動したドイツの画家。1910年代にカンディンスキー、マルクらとともに当時の前衛美術運動であった「青騎士」のグループに参加し活動した。マッケは27歳の若さで戦死したため、その活動期間は数年間にすぎなかったが、単純化された形態と幻想的な色彩を特色とする彼の絵画は、表現主義とも抽象絵画とも一線を画した独自の様式を築き上げた。

目次
1 生涯
1.1 修業期〜「青騎士」
1.2 チュニジア旅行〜早すぎた晩年
2 作風
3 代表作
4 ギャラリー

生涯

修業期〜「青騎士」

妻の肖像 1909 ミュンスター、ヴェストファーレン州立美術館マッケは1887年、ドイツ北西部のノルトライン=ヴェストファーレン州メシェーデで生まれた。1904年から2年ほど、同州の州都であるデュッセルドルフの美術アカデミーに学んだ。この頃の作品としては、1906年作の『自画像』などが残っている。その後、1907年には、美術コレクターのベルンハルト・ケーラーの経済的援助を得て、パリに滞在。後にマッケの妻となったエリザベートは、このケーラーの姪(めい)であった。パリでは特にセザンヌの作品に触れ、影響を受けた。パリ滞在の後、ベルリンに移り、ドイツ印象派の画家であるロヴィス・コリント(1858 - 1925)のアトリエに数か月間通った。コリントは、ドイツ印象派の代表的画家であるとともに表現主義的傾向の強い画家である。

初期には印象派やセザンヌの影響からスタートしたマッケの絵画が転機を迎えるのは、1910年、「青騎士」の主要メンバーの一人であるフランツ・マルクに出会った頃からである。「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター/Der Blaue Reiter)は、ロシア出身の画家で抽象絵画の創始者の一人であるワシリー・カンディンスキーと、ミュンヘン出身のフランツ・マルクを中心にミュンヘンで活動した前衛画家のグループである。グループの活動自体は、1911年と1912年の2回のグループ展の開催と、年刊機関誌『青騎士』の刊行(結局1回しか刊行されなかった)を行った後、第一次世界大戦の勃発を受けて短命なものに終わったが、20世紀美術のその後の動向に大きな影響を与えた運動として重要視されている。「青騎士」の2回のグループ展の参加者の顔ぶれを見ると、ドイツ表現派の代表的画家であるキルヒナーのほか、20世紀絵画に特異な位置を占めるクレー、ドローネー、フォーヴィスムのドランとヴラマンク、キュビスムのピカソなど多彩な画家が参加している。そこには共通した画風や傾向は見られず、むしろ、当時の前衛美術のさまざまな傾向を集めた観がある。

マッケは1910年、ミュンヘンで初個展を開催中であったマルクに会い、翌年にはマルクの住んでいたジンデルスドルフに滞在している。また、1911年から翌年にかけてクレーやドローネーと知り合っている。マッケはこれらの画家たちから影響を受け、中でもドローネーの色彩の影響が強く感じられる。

マッケは上記2回の「青騎士」展(1911・1912年)に参加するとともに、1912年5月のゾンダーブント展(ケルンで開催された現代美術展)、同年3月のベルリン新分離派展、1913年9月のドイツ秋季サロン展(ベルリン)などの重要な展覧会に相次いで出品している。

チュニジア旅行〜早すぎた晩年

小道の眺め(水彩) 1914 ミュールハイム市立美術館1913年秋から翌年にかけては、スイスの景勝地トゥーン湖畔に滞在して制作した。湖の風景や湖畔を散策する人々を題材とした作品が残っている。没年となる1914年の4月には、クレー、ルイ・モワイエ(スイス出身の画家で、クレーをマッケに紹介した)とともにアフリカの地中海岸にあるチュニジアへ旅行している。この旅行はチュニス、ハマメット、カイルアンなどの都市をめぐり、わずか2週間ほどの滞在であったが、チュニジアの風景と鮮烈な色彩は画家たちに強い衝撃を与え、マッケはこの旅行中に彼の代表作に数えられる数十点の水彩画を残している。この旅行は、同行したクレーにとっても、画風の転換をうながす重要なものであった。

このチュニジア旅行から帰ったマッケは新たな画風を模索していたが、彼に残された時間はあまり多くなかった。1914年8月、第一次大戦が勃発。この大戦でフランツ・マルクを含む多くの芸術家も犠牲になった。マッケは1914年9月26日戦死。27歳の若さであった。

作風

緑の上着の婦人 1913 ケルン、ヴァルラフ=リヒャルツ美術館マッケは「青騎士」のメンバーであったことから、ドイツ表現主義に分類されることも多いが、その絵画には他の表現主義の画家に見られるような政治的・思想的な主張や生の感情をぶつけたような色彩感覚は見られない。彼の絵画はむしろ、キュビスムやドローネーから強く影響を受けており、セザンヌやキュビスムの影響を受けた理知的な画面構成、単純化された形態、そしてドローネーの影響を受けた鮮烈な色彩にその特色がある。マッケの作品のうち、純粋な抽象絵画は実験的に制作した数点を見るのみで、基本的には具象画家であり、戸外を散策する人物などの日常的な題材を好んで取り上げた。人物や樹木などの形態は単純化されているとはいえ、キュビスムの形態ほどには解体されておらず、現実感を保っている。一方、独特の色使いは、自然の色彩の再現から離れ、絵画独自の表現を追求したものと言える。マッケは1914年(没年)のチュニジア旅行で多くの水彩画を残し、水彩画家としても高く評価されている。

代表作
妻の肖像 1909 ミュンスター、ヴェストファーレン州立美術館
青い湖のほとりの人々 1913 カールスルーエ市立美術館
緑の上着の婦人 1913 ケルン、ヴァルラフ=リヒャルツ美術館
帽子屋の前で(赤い服の婦人と子供) 1913 個人蔵
牛とラクダのいる風景 1914 チューリヒ美術館

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1月3日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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できごと
1868年(慶応3年12月9日)- 王政復古の大号令

1879年 - 平安末期から行われていた磔が残酷な死刑として廃止される。

1899年 - 英語の"automobile"(自動車)という単語が、
ニューヨーク・タイムズ紙の広告ではじめて使用される。

1929年 - 新潟県西頸城郡海岸で大暴風雪の為、30余人の死傷者が出る。

1932年 - 日本軍、錦州(中国北東部)を占拠し、北京に接近。

1938年 - 女優・岡田嘉子が演出家・杉本良吉と共に
北緯50度の樺太(現:サハリン)国境を超えてソ連に越境する。

1951年 - 「第1回紅白歌合戦」がラジオ放送。2年後から大晦日放送に。

1954年 - イタリアの公共放送会社RAIがテレビ放送を開始。

1958年 - エドモンド・ヒラリー、南極点に到達。

1959年 - アメリカ合衆国のアラスカ準州が昇格、アラスカ州となる。

1961年 - アメリカ合衆国がキューバと国交断絶。

1964年 - 西口彰事件の犯人が逮捕される。

1972年 - 日米繊維協定調印。

1976年 - TBSテレビの人気クイズ番組「クイズダービー」放送開始(〜1992年12月19日)。

誕生日
紀元前106年 - マルクス・トゥッリウス・キケロ、古代ローマの政治家(+ 紀元前43年)

1763年 - ジョゼフ・フェッシュ、カトリックの司祭(+ 1839年)

1836年(天保6年11月15日) - 坂本龍馬、幕末の志士(+ 1867年)

1840年 - ダミアン、カトリック司祭(+ 1889年)

1861年 - アーネスト・レンショー、テニス選手(+ 1899年)

1873年 - 小林一三、実業家(+ 1957年)

1876年 - ヴィルヘルム・ピーク、ドイツ民主共和国(東ドイツ)大統領(+ 1960年)

1883年 - クレメント・アトリー、第62・63代イギリス首相(+ 1967年)

1887年 - アウグスト・マッケ、画家(+ 1914年)

1889年 - 河上丈太郎、政治家(+ 1965年)

1892年 - J・R・R・トールキン、作家(+ 1973年)

1905年 - 高松宮宣仁親王、皇族(+ 1987年)

1906年 - 豊田四郎、映画監督(+ 1977年)

1908年 - レイ・ミランド、俳優(+ 1986年)

1908年 - 篠田康雄、神職(+ 1997年)

1911年 - ジョン・スタージェス、映画監督(+ 1992年)

1921年 - セルジオ・レオーネ、映画監督 (+ 1989年)

1926年 - ジョージ・マーティン、音楽プロデューサー

1926年 - 平井龍、元山口県知事(+ 2008年)

1931年 - 道場六三郎、料理人

1933年 - 5代目三遊亭圓楽、落語家

1933年 - 加藤明、元バレーボール選手、監督(+ 1982年)

1936年 - 房錦勝比古、大相撲力士(+ 1993年)

1937年 - 山本學、俳優

1939年 - 藤村志保、女優

1940年 - ゼンジー北京、マジシャン

1940年 - 森村桂、作家(+ 2004年)

1941年 - 天地総子、声優

1941年 - 岩下志麻、女優

1941年 - 横路孝弘、政治家、弁護士

1941年 - 水谷寿伸、元プロ野球選手

1943年 - ヴァン・ダイク・パークス、ミュージシャン

1943年 - 牧勝彦、元プロ野球選手

1943年 - エイドリアン・ギャレット、元プロ野球選手

1946年 - 日野元彦、ミュージシャン

1946年 - ジョン・ポール・ジョーンズ、レッド・ツェッペリンのベーシスト

1948年 - 芹澤廣明、音楽プロデューサー・ミュージシャン
1948年 - 中村晃子、女優
1948年 - 末永吉幸、元プロ野球選手
1950年 - 湖川友謙、キャラクターデザイナー、アニメーション演出家
1950年 - 南出喜久治、弁護士
1953年 - 桑田健秀、バスケットボール選手・指導者
1954年 - 高瀬春奈、女優
1956年 - 小堺一機、タレント
1956年 - 鈴木富子、声優(+ 2003年)
1956年 - メル・ギブソン、俳優
1959年 - ダンカン、放送作家、タレント
1960年 - 中村れい子、女優
1960年 - 山崎浩子、元新体操選手
1961年 - 柳葉敏郎、俳優
1961年 - 日下部みどり子、トラベルライター
1963年 - ケラリーノ・サンドロヴィッチ、演出家・脚本家、ナイロン100℃主宰
1964年 - 堀江敏幸、小説家
1966年 - 智田裕一、フジテレビ記者、元アナウンサー
1967年 - 野島卓、フジテレビアナウンサー
1967年 - 若村麻由美、女優
1969年 - ミハエル・シューマッハ、元F1レーサー
1969年 - 吉田栄作、俳優
1970年 - 長井秀和、お笑いタレント
1971年 - 北浦共笑、女優
1973年 - 川越美和、女優
1974年 - 伊藤健太郎、声優
1975年 - 麻枝准、シナリオライター・作詞家・作曲家
1976年 - 前田浩継、元プロ野球選手
1977年 - 飯塚雅弓、声優
1977年 - 小沢真珠、女優
1977年 - A.J.バーネット、メジャーリーガー
1978年 - パク・ソルミ、女優
1978年 - リヤ・ケベデ、スーパーモデル、女優
1979年 - 田中理恵、声優
1979年 - ベリッシモ・フランチェスコ・喜広、エッセイスト料理研究家
1979年 - マイケル・レストビッチ、プロ野球選手
1981年 - イーライ・マニング、アメリカンフットボール選手
1983年 - 長谷川凛、ストリッパー
1984年 - 橋本まい、声優
1987年 - 柳沢なな、女性アイドル
1987年 - 小神野由佳、グラビアアイドル
1988年 - ジョニー・エヴァンズ、サッカー選手
1989年 - 梅田彩佳、AKB48
1989年 - アレックス・D・リンツ、俳優
1990年 - 柿谷曜一朗、セレッソ大阪
1990年 - 黒川洋介、HotchPotchi
1994年 - 吹田祐実、ファッションモデル
1997年 - 澤畠流星、子役俳優
生年不明 - 藤井まき、アニメーター
生年不明 - 秋乃武彦、イラストレーター
生年不明 - 民安ともえ、声優

忌日
236年 - アンテルス、ローマ教皇

1028年(万寿4年12月4日) - 藤原道長、公卿、太政大臣(* 966年)

1028年(万寿4年12月4日) - 藤原行成、公家、三蹟の一人(* 972年)

1241年 - ヘルマン2世、テューリンゲン方伯(* 1222年)

1322年 - フィリップ5世、フランス王(* 1293年)

1437年 - キャサリン、イングランド王ヘンリー5世の妃(* 1401年)

1571年 - ヨアヒム2世、ブランデンブルク選帝侯(* 1505年)

1641年 - エレミア・ホロックス、天文学者(* 1618年)

1654年(承応2年11月15日) - 松永貞徳、俳諧師(* 1571年)

1785年 - バルダッサーレ・ガルッピ、作曲家(* 1706年)

1795年 - ジョサイア・ウェッジウッド、陶芸家(* 1730年)

1826年 - ルイ=ガブリエル・スーシェ、ナポレオン戦争期のフランス軍元帥(* 1770年)

1852年 - ルイ・ブライユ、点字の開発者(* 1809年)

1870年 - アレン・トリンブル、オハイオ州知事(* 1783年)

1908年 - チャールズ・ヤング、天文学者(* 1834年)

1918年 - 千家尊福、宗教家・第17代東京府知事(* 1845年)

1923年 - ヤロスラフ・ハシェク、小説家(* 1883年)

1931年 - ジョゼフ・ジョフル、フランス陸軍の元帥(* 1852年)

1942年 - 武内桂舟、挿絵画家(* 1861年)

1945年 - エドガー・ケイシー、予言者(* 1877年)

1946年 - ウィリアム・ジョイス、
「ホーホー卿」の異名で有名なプロパガンダ放送アナウンサー(* 1906年)

1956年 - アレクサンドル・グレチャニノフ、作曲家(* 1864年)

1956年 - ヨーゼフ・ヴィルト、ドイツ国首相(* 1879年)

1959年 - 和田英作、洋画家(* 1874年)

1967年 - ジャック・ルビー、
リー・ハーヴェイ・オズワルドを暗殺した人物(* 1911年)

1974年 - 園池公致、小説家(* 1886年)

1978年 - 三宅大輔、元プロ野球監督(* 1893年)

1979年 - コンラッド・ヒルトン、ヒルトン創業者(* 1887年)

1980年 - 星島二郎、政治家、元衆議院議長(* 1887年)

1981年 - アリス・オブ・オールバニ、イギリスの王族(* 1883年)

1981年 - 北原泰作、部落解放運動家(* 1906年)

1982年 - 北村寿夫、脚本家・児童文学作家(* 1895年)

1988年 - ローゼ・アウスレンダー、詩人(* 1901年)

1991年 - ルーク・アップリング、メジャーリーグベースボール選手(* 1907年)

2000年 - 山口勇子、作家(* 1916年)

2001年 - 桂三木助(四代目)、落語家(* 1957年)

2005年 - ウィル・アイズナー、アメリカン・コミックの漫画家(* 1917年)

2005年 - 林裕章、吉本興業会長(* 1942年)

2007年 - ヤーノシュ・フュルスト、指揮者(* 1935年)

2008年 - 崔堯森、プロボクサー(* 1972年)

記念日・年中行事
正月(三日正月)

箱根駅伝復路

元始祭(1874年 - 1948年)

ライスボウル(1984年以降)

瞳の日
眼鏡・コンタクトレンズの業界が制定。