「今日は何の日」は。

母はモスクワ音楽院に学び、
テオドル・レシェティツキにも師事して。
アントン・ルビンシテインに。
祝福されたピアニストの母親をもつ。

ロシアの作曲家かつピアニスト。
モスクワ音楽院の同級生にラフマニノフがいて。
このころは作曲家としてはラフマニノフがより有望視され。
ピアニストとしてはラフマニノフよりも有望視されていた
ロシアの作曲家かつピアニスト。

手はちいさかったが超絶技巧を持っていた。
同級生と
熾烈な争いをするほどの「テクニック」の持ち主。
右手以上の運動量を要求され。
広い音域を駆け巡ることから。
「左手のコサック」
と呼ばれる独自のピアノ書法の作曲家でピアニスト。

1872年 - アレクサンドル・スクリャービン、
作曲家(+ 1915年)
の生誕日です。
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アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン
(ロシア語: Александр Николаевич
Скрябин、
1872年1月6日 - 1915年4月27日)は。
ロシアの作曲家、ピアニスト
として余りにも有名です。。

アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン
作曲者自身はフランス語風に
Alexandre Scriabine
(もしくは Scriabine)と綴ることを好みました。

英語では Alexander Scriabin、
ドイツ語では Aleksandr Skrjabin となります。

++++++++++++++++++++++

アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンは
モスクワの小貴族(軍人貴族)の家系に生まれました。

祖先はタタール系であるとされています。
父親は中近東の言語や政情に通暁した外交官として
国内外を飛び回って家庭を顧みませんでした。

生母はスクリャービンを生んでまもなく
産褥熱で急死致しました。

このため叔母リューバの監督下で育ちました。

ちなみにスクリャービンの
亡母はモスクワ音楽院に学び、
テオドル・レシェティツキにも師事して。

アントン・ルビンシテインに
祝福されたピアニストでもありました。

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アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン

第二次世界大戦当時のソビエト連邦外務大臣として
著名な政治家のヴャチェスラフ・モロトフは父方の甥
に当たります。

イギリスのロシア正教会スールジ主教区の
府主教アンソニー・ブルームは
母方の甥です。

アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンは
幼児期からピアノを始めました。

自ら望んで陸軍兵学校に進みましたが。

小柄で虚弱なことと学業が優秀なこと。
そして楽才が顕著なことから。
特別にモスクワ音楽院への通学が認められました。

14歳から院長タネーエフに作曲と音楽理論を。
ズヴェーレフにピアノを師事致しました。

++++++++++++++++++++++

アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンは。
もともと即興演奏を好む少年でした。

14歳から院長タネーエフに作曲と音楽理論を。
ズヴェーレフにピアノを師事致しました。

この頃から作曲したものを五線譜に残すことを
習慣付けるようになりました。

1888年から周囲の勧めで正式にモスクワ音楽院に転学、
ピアノ科でサフォーノフに。
作曲科でアレンスキーに師事致しました。

同級生にラフマニノフがいました。
気難しく扱いにくい性格のあったスクリャービンに
アレンスキーは手を焼きました。

結局スクリャービンは作曲科を修了することが出来ず。
ピアノ科のみで単位を取得致しました。

このころ作曲家としてはラフマニノフが有望視され。
ピアニストとしてはスクリャービンが有望視されていました。

++++++++++++++++++++++

作曲家スクリャービンの誕生

かろうじてオクターブをつかむことができたと。
言われるほど小さな手の持ち主だったにもかかわらず。

学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと。
超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって
熾烈な競争を無理に続け。

ついに右手首を故障するに至りました。

回復するまでの間に左手を特訓するとともに。
ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を
注ぐようになりました。

右手以上の運動量を要求され。
広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」
と呼ばれる
独自のピアノ書法をそなえた作曲家スクリャービンの誕生でした。

《左手のための2つの小品》作品9(前奏曲と夜想曲からなる)は、
当時を代表する作品の一つです。

++++++++++++++++++++++

アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンは
1891年頃。
ミトロファン・ベリャーエフのサークルの同人となりました。

リムスキー=コルサコフの知遇を得ました。
生涯に渡る親交を結びました。

またベリャーエフ出版社から。

定期的に作品の出版が開始されました。

1897年に衝動的に改宗ユダヤ人女性と結婚致しました。
これは庇護者ベリャーエフの意向に沿わない出来事でした。

年金がカットされたために、
翌1898年から母校モスクワ音楽院のピアノ科教授に就任致しました。

++++++++++++++++++++++

教育者としての評価が下されることは少ないのが
作曲家やピアニストの常なのですが。

アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンは。

学生の間では誠実で忍耐強く。
学生の意欲を尊重する教師として評判がよく。
ウィーン音楽院のピアノ科からスカウトされたほどでした。

++++++++++++++++++++++

アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン

1900年ごろからニーチェ哲学に心酔致します。
とりわけ超人思想に共鳴致します。

その後は神智学にも傾倒致します。

この二つから音楽思想や作曲に影響を受けました。

1902年に作曲に専念するとしてモスクワ音楽院を辞職するが。
すでに門人タチヤナ・ド・シュリョーツェルと
愛人関係を結んでいました。

++++++++++++++++++++++

アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンは。

1904年に家庭を捨ててタチヤナとともにスイスに
出奔、西欧各地を転々と致しました。

この頃からロマン派の影響を脱し。
個性的かつ神秘主義的な作風へと向かいました。

露暦でのクリスマス生まれだったことも。
スクリャービンの神秘主義や。
救世主きどりに拍車をかけました。

++++++++++++++++++++++

アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンは。
1909年から1910年までブリュッセルに住み。

デルヴィルらのベルギー象徴主義絵画に興味を寄せつつ。
マダム・ブラヴァツキーの著作にいっそう親しみました。

これにより自らの芸術を神智学思想を表現するための
ものとして考えるようになりました。

後期の神秘和音を特徴とする作品を残しました。

それとともに前衛的作曲家として
国際的に認められるようになりました。

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アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン

終焉
1910年帰国。
このころに、アコースティック録音とピアノロールに自作の録音を残し。

クーセヴィツキーやラフマニノフの指揮で
自作の協奏曲や《プロメテ》を演奏。

作曲のかたわら国内外で精力的に演奏活動にとり組みました。

虚弱体質の反動から生涯にわたり健康を気にしすぎる気味がありました。

皮肉なことに唇への虫刺されが炎症を起こし。
膿瘍による敗血症がもとでモスクワで1915年に
急逝致しました。

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アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンの
後世への影響

スクリャービンは。
《法悦の詩》において調性音楽から離脱致しました。

これはドビュッシーが《前奏曲集 第1巻》において
フランス印象主義音楽の音楽語法を完成させ。

またシェーンベルクが《弦楽四重奏曲 第2番》に
おいてドイツ表現主義音楽の開拓に突入したのと
ほぼ同時期のことであったのです。

この点をもってスクリャービンは。
現代音楽の先駆者の一人と認められています。

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アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンは。

永らくスクリャービンは一過性の存在であると考えられて
いました。
そして音楽史上には。
何ら影響を与えなかったと看做されてきました。

初期において濃厚な影響を受けた
ストラヴィンスキーでさえ。
後にスクリャービンを「単なる妄想狂」と切り捨てています。

++++++++++++++++++++++

しかしながら現在では。
スクリャービンの影響がロシアやソ連の国境をはるかに越え。
国際的な広がりを持っていることが。
近年になって明らかにされてきました。

スクリャービンの支持者は。
フェルッチョ・ブゾーニやアルバン・ベルクがいます。

信奉者はカロル・シマノフスキや
山田耕筰、チャールズ・グリフス、
ルース・クロフォード=シーガーなどがいます。

スイス時代のスクリャービンにピアノを学んだカナダ人女性は、
シカゴで音楽教師として立ち、
結果的にジャズ・ピアニストの育成に貢献したとされました。

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アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンの。
スクリャービンの音楽美学は。

ロシア・アヴァンギャルドを含む
次世代のロシアの作曲家たちに強い影響を与えました。

比較的スクリャービンに近い作曲家は
ニコライ・オブーホフであり。
独自の記譜法と。
クロワ・ソノールと呼ばれる十字架の形をした
楽器の開発で知られています。

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アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン。

イワン・ヴィシネグラツキーもスクリャービンの
模倣から出発したものの。
やがて微分音を含む一オクターブ内に
十数個の音から成る和音の共鳴に惹かれていき。
オブーホフ同様に新しい楽器の開発にたずさわりました。

しかしながら、調性を超えた音楽の先に神秘的な力を視るという
イメージは、明らかにスクリャービンの規範なしにはありえなかった
といってよいでしょう。

ちなみにオブーホフはラヴェルに愛され、
ヴィシネグラツキーはメシアンから敬慕の念を受けていました。

オブーホフの長々と宗教的な題名をつける傾向は。
メシアンの場合と共通点が認められます。

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アレクサンドル・スクリャービン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%B3

アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン(ロシア語: Александр Николаевич Скрябин、1872年1月6日 - 1915年4月27日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト。作曲者自身はフランス語風に Alexandre Scriabine (もしくは Scriabine)と綴ることを好んだ。英語では Alexander Scriabin、ドイツ語では Aleksandr Skrjabin となる。

目次
1 生涯
1.1 生い立ちと学生時代
1.2 作曲家スクリャービンの誕生
1.3 変化と発展
1.4 終焉
2 後世への影響
3 作品
3.1 ピアノ・ソナタ
3.2 管弦楽
4 関連項目
5 参考書籍
6 外部リンク

生涯

生い立ちと学生時代
モスクワの小貴族(軍人貴族)の家系に生まれる。祖先はタタール系であるとされる。父親は中近東の言語や政情に通暁した外交官として国内外を飛び回って家庭を顧みず、生母はスクリャービンを生んでまもなく産褥熱で急死した。このため叔母リューバの監督下で育つ。ちなみにスクリャービンの亡母はモスクワ音楽院に学び、テオドル・レシェティツキにも師事してアントン・ルビンシテインに祝福されたピアニストであった。第二次世界大戦当時のソビエト連邦外務大臣として著名な政治家のヴャチェスラフ・モロトフは父方の甥に当たる。イギリスのロシア正教会スールジ主教区の府主教アンソニー・ブルームは母方の甥である。

幼児期からピアノを始める。自ら望んで陸軍兵学校に進むが、小柄で虚弱なことと学業が優秀なこと、そして楽才が顕著なことから、特別にモスクワ音楽院への通学が認められ、14歳から院長タネーエフに作曲と音楽理論を、ズヴェーレフにピアノを師事。もともと即興演奏を好む少年だったが、この頃から作曲したものを五線譜に残すことを習慣付けるようになる。1888年から周囲の勧めで、正式にモスクワ音楽院に転学、ピアノ科でサフォーノフに、作曲科でアレンスキーに師事する。同級生にラフマニノフがいた。気難しく扱いにくい性格のあったスクリャービンにアレンスキーは手を焼いた。結局スクリャービンは作曲科を修了することが出来ず、ピアノ科のみで単位を取得した。このころ作曲家としてはラフマニノフが、ピアニストとしてはスクリャービンが有望視されていた。

作曲家スクリャービンの誕生
かろうじてオクターブをつかむことができたと言われるほど小さな手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。回復するまでの間に、左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになる。右手以上の運動量を要求され、広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ書法をそなえた、作曲家スクリャービンの誕生であった。《左手のための2つの小品》作品9(前奏曲と夜想曲からなる)は、当時を代表する作品の一つである。

1891年頃、ミトロファン・ベリャーエフのサークルの同人となり、リムスキー=コルサコフの知遇を得て、生涯に渡る親交を結ぶ。またベリャーエフ出版社から、定期的に作品の出版が開始される。1897年に衝動的に改宗ユダヤ人女性と結婚するが、これは庇護者ベリャーエフの意向に沿わず、年金がカットされたために、翌1898年から母校モスクワ音楽院のピアノ科教授に就任。教育者としての評価が下されることは少ないが、学生の間では誠実で忍耐強く、学生の意欲を尊重する教師として評判がよく、ウィーン音楽院のピアノ科からスカウトされたほどだった。

変化と発展

1900年頃に撮影されたスクリャービン1900年ごろからニーチェ哲学に心酔し、とりわけ超人思想に共鳴する。その後は神智学にも傾倒し、この二つから音楽思想や作曲に影響を受ける。1902年に作曲に専念するとしてモスクワ音楽院を辞職するが、すでに門人タチヤナ・ド・シュリョーツェルと愛人関係を結んでいた。1904年に家庭を捨ててタチヤナとともにスイスに出奔、西欧各地を転々とする。この頃からロマン派の影響を脱し個性的かつ神秘主義的な作風へと向かう。露暦でのクリスマス生まれだったことも、スクリャービンの神秘主義や、救世主きどりに拍車をかけた。1909年から1910年までブリュッセルに住み、デルヴィルらのベルギー象徴主義絵画に興味を寄せつつ、マダム・ブラヴァツキーの著作にいっそう親しんだ。これにより、自らの芸術を神智学思想を表現するためのものとして考えるようになり、後期の神秘和音を特徴とする作品を残す。それとともに前衛的作曲家として国際的に認められるようになった。

終焉
1910年帰国。このころに、アコースティック録音とピアノロールに自作の録音を残し、クーセヴィツキーやラフマニノフの指揮で自作の協奏曲や《プロメテ》を演奏。作曲のかたわら国内外で精力的に演奏活動にとり組む。虚弱体質の反動から生涯にわたり健康を気にしすぎる気味があったが、皮肉なことに唇への虫刺されが炎症を起こし、膿瘍による敗血症がもとでモスクワで1915年に急逝した。

後世への影響
スクリャービンは、《法悦の詩》において調性音楽から離脱したが、これはドビュッシーが《前奏曲集 第1巻》においてフランス印象主義音楽の音楽語法を完成させ、またシェーンベルクが《弦楽四重奏曲 第2番》においてドイツ表現主義音楽の開拓に突入したのとほぼ同時期のことであった。この点をもってスクリャービンは、現代音楽の先駆者の一人と認められている。

永らくスクリャービンは一過性の存在であり、音楽史上に何ら影響を与えなかったと看做されてきた。初期において濃厚な影響を受けたストラヴィンスキーでさえ、後にスクリャービンを「単なる妄想狂」と切り捨てている。しかしながら現在では、スクリャービンの影響がロシアやソ連の国境を越え、国際的な広がりを持っていることが近年になって明らかにされてきた。スクリャービンの支持者は、フェルッチョ・ブゾーニやアルバン・ベルクがおり、信奉者はカロル・シマノフスキや山田耕筰、チャールズ・グリフス、ルース・クロフォード=シーガーなどがいる。スイス時代のスクリャービンにピアノを学んだカナダ人女性は、シカゴで音楽教師として立ち、結果的にジャズ・ピアニストの育成に貢献したとされる。

スクリャービンの音楽美学はロシア・アヴァンギャルドを含む次世代のロシアの作曲家たちに強い影響を与えた。比較的スクリャービンに近い作曲家はニコライ・オブーホフであり、独自の記譜法とクロワ・ソノールと呼ばれる十字架の形をした楽器の開発で知られる。イワン・ヴィシネグラツキーもスクリャービンの模倣から出発したものの、やがて微分音を含む一オクターブ内に十数個の音から成る和音の共鳴に惹かれていき、オブーホフ同様に新しい楽器の開発にたずさわった。しかしながら、調性を超えた音楽の先に神秘的な力を視るというイメージは、明らかにスクリャービンの規範なしにはありえなかったといってよい。ちなみにオブーホフはラヴェルに愛され、ヴィシネグラツキーはメシアンから敬慕の念を受けていた。オブーホフの、長々と宗教的な題名をつける傾向は、メシアンの場合と共通点が認められる。

作品
スクリャービンは自身が卓越したピアニストであったことから、自然とピアノ曲を数多く作曲した。「本質的にミニアチュール(小品)作家であった」と言われるように、小品のほとんどは3分程度にも満たない。これはラフマニノフら同世代のロシアの作曲家に比べて分かるように、スクリャービンは優れた旋律家ではあったものの、息の長い旋律を続けざまに書くという発想がなく、古典的な楽節構造を好んでいたこととも関連する。このことは、まったくといっていいほど声楽曲を手がけていないこととも関連していよう。

スクリャービンは少年時代からショパンやリストを敬愛したため、ピアノ書法や旋律の発想において、この両者から非常に大きな影響を受けている。しかしながら左手の特訓の結果、右手に匹敵するほど柔軟な運動力を身につけたことから、この両者と異なる独自のポリフォニックな発想も顕著である。ショパンの影響は、練習曲や前奏曲、マズルカといった楽種だけでなく、初期の作風(1900年ごろまで)にも明らかに残っている。一方、リストやワーグナーに影響された中期(1902年から1905年ごろまで)の代表的作品として、練習曲(Op.42、1903年)があり、独自の音楽語法を形成した後期の代表的な作品に、ピアノのための詩曲「焔に向かって」(Op.72、1914年)が挙げられる。

ピアノ曲以外で主要な分野は管弦楽曲(後述)のみである。室内楽曲は数曲、歌曲は1曲、ほかにオペラのスケッチが残されたに留まる。

作品についてはアレクサンドル・スクリャービンの作品一覧をご覧ください。

ピアノ・ソナタ
同時代のグラズノフの交響曲やラフマニノフの協奏曲が、それぞれの分野において19世紀ロシア音楽の金字塔を打ち立てているとすれば、ピアノ曲の分野で同様の業績を残したのがスクリャービンのピアノ・ソナタである。

スクリャービンは、ベートーヴェン以降における最も重要なピアノ・ソナタの開拓者であると言って過言ではない。第一に、初期の未発表曲も含めて11曲という量のピアノ・ソナタを残していること(少年時代の《幻想ソナタ》は実質的に夜想曲で、構成面においてソナタとは呼べない)、第二に、ベートーヴェン以降に開発された、あらゆる演奏技巧やピアノ書法を巧みに用い、表現の多様性と自在さにおいて、19世紀の西欧におけるピアノ・ソナタの前例を遥かにしのいでいること、第三に、ソナタというジャンル以外の小品においてもソナタ形式やソナチネ形式を用いて、ソナタ形式の可能性を探究していること(後年のソナタにおいて単一楽章を採る姿勢にも通低)、そして最後に、質・量ともに、ロシアにおいて前代未聞のピアノ・ソナタを連作し、メトネルやプロコフィエフに先鞭をつけたことである。

第4番までのソナタは、ベートーヴェンの立体的な動機労作や論理的な楽曲構成、ショパンの抒情的な表現や和声感覚、そしてリストの演奏技巧を組み合わせ、なおかつ独自の境地を開くことに成功している。たとえば《第2番「幻想ソナタ」》は、ベートーヴェンの《月光ソナタ》の延長上にあり、第1楽章はソナタ形式を使ったショパン風の夜想曲、第2楽章はロンド・ソナタ形式によるシュトルム・ウント・ドランク風のフィナーレと解釈することができる。第4番は、前奏曲とロンド・ソナタという風変わりな構成だが、スクリャービンのソナタでは例外的に、第5番とともに長調で作曲され、明るい響きに満たされている。

第5番以降のソナタはとりわけ個性的で、普通では使用されないような和声や構成が大胆に使われている。6番以降の作品には調号が無く、調性が機能していないため、実質的に無調で作曲されている。7番「白ミサ」(Op.64、1912)と9番「黒ミサ」(Op.68、1913)は、作曲者晩年の神秘主義への傾倒を物語る作品として有名。

第1番に先立つ《ピアノ・ソナタ変ホ短調》とその第1楽章を拡張した《アレグロ・アパッショナート》Op.4のほか、《ポロネーズ》と《幻想曲》、《悪魔的な詩曲》においてソナタ形式が使われており、《悲劇的前奏曲》や《練習曲 嬰ハ短調》Op.42-5はソナチネ形式か、またはそれに準ずる構成が採られている。

管弦楽
スクリャービンの管弦楽曲はそれほど多くなく、ピアノ協奏曲(Op.20、1898)と5つの交響曲のほかに、交響曲作曲の習作といった側面をもつ、前奏曲《夢》がある。スクリャービンは、シューマンやフランクにも前例があるように、鍵盤楽器の発想をそのままオーケストラに持ち込んだため、ピアニスティックなパッセージがしばしば目立ち、時として管弦楽法への未熟ぶりを浮かび上がらせることがある。それでもなお、豊かな音色のパレットを備えた管弦楽曲作家であり、木管楽器と弦楽器の柔らかな色彩と、金管楽器の鋭い響きとの対比や、独奏ヴァイオリンの艶やかな響きへの好みという点において、フランクやショーソンとの類似が見出される。

最初の交響曲はフィナーレに声楽が導入されているが、声楽パートの旋律は声楽的というより器楽的である。第2番は、すべての楽章がソナタ形式あるいはソナタ形式に準ずる形式が使われており、5楽章で作曲されているが、第1楽章と第2楽章、第4楽章と終楽章が連結されている。第3番《神聖なる詩》は作曲者の存命中にフランスで上演された標題交響曲で、三つの楽章すべてに付された副題が、ニーチェの超人哲学に触発されたことをほのめかしている。

後期の代表作である交響曲「法悦の詩」(Op.54、1908)と「プロメテウス— 焔の詩」(Op.60、1910)はどちらも単一楽章で作曲されている。かつては自由な形式の交響詩と看做されていたが、現在では、内部構造が自由に拡張されたソナタ形式で作曲されていることが確認されている。

「プロメテウス」では鍵盤を押すとそれに応じて色の付いた光(彼自身の共感覚に基づくとの説もある)が放射されるピアノを用いて聴覚と視覚との統合芸術を目指したが、「神秘劇」と題された最後の未完作品では、さらに五感全てに訴えるマルチメディア的芸術を企図したと言われる。そのスケッチを元に、ロシアの作曲家アレクサンドル・ネムティン(1936-1999)が大オーケストラとピアノ、合唱からなる三部構成の「神秘劇序幕」を26年の歳月をかけて完成させた。

関連項目
近代音楽、現代音楽
象徴主義、ロシア象徴主義、印象主義音楽、表現主義
ボリス・ド・シュレゼール
マリーナ・スクリアビン
ジュリアン・スクリャービン
ロシア・アヴァンギャルド
ニコライ・ロスラヴェッツ
アレクセイ・スタンチンスキー
神秘和音

参考書籍
フォービオン・バウアーズ『アレクサンドル・スクリャービン 生涯と作品』 泰流社〔叢書ムジカ・ゼピュロス〕 1995年 ISBN 4-8121-0105-0

外部リンク
IMSLP - International Music Score Library Project 内のアレクサンドル・スクリャービンのページ。無料で楽譜が入手可能。
Scriabin Society of America
スクリャービンの世界 -- pdf.ファイル
スクリャービンの78rpm・その1
スクリャービン自作自演とロシア・ピアニズム
スクリャービン:伝説のピアニストたちによる名演
Alexander Scriabin Piano scores

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%B3" より作成
カテゴリ: ロマン派の作曲家 | 近現代の作曲家 | ロシアの作曲家 | ロシアのクラシック音楽のピアニスト | 1872年生 | 1915年没

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1月6日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%886%E6%97%A5

できごと
741年(天平12年12月15日) - 聖武天皇が都を恭仁京へ遷都する。

1610年(慶長14年12月12日) -
有馬晴信がポルトガル船マードレ・デ・デウス号を焼き討ち。
岡本大八事件の発端の一つとなる。

1876年 - 日本初のスケート場が横浜に完成。

1887年 - アーサー・コナン・ドイル『緋色の研究』が刊行。
名探偵シャーロック・ホームズ初登場。

1932年 - 春秋園事件起こる。

1941年 - フランクリン・ルーズベルト米大統領が年頭教書で
「言論及び表現・信仰・欠乏・恐怖からの自由」
(4つの自由 参考:w:Four Freedoms)の演説を行う。

1950年 - 新宿駅東口近くのバクダン横丁が区画整理により撤去。

1967年 - 米軍海兵隊、南ベトナムで「メコンデルタ作戦」を開始。

1974年 - 東京競馬場にてハイセイコーの引退式が行われる。

2001年 - 日本で中央省庁再編が行われる。

誕生日
1367年 - リチャード2世、イングランド王(+ 1400年)

1412年 - ジャンヌ・ダルク、フランスの国民的英雄・聖女(+ 1431年)

1745年 - ジャック・モンゴルフィエ、モンゴルフィエ兄弟の弟(+ 1799年)

1775年(安永3年12月5日)- 伊達斉村、第8代仙台藩主(+ 1796年)

1785年(天明4年11月26日)- 足代弘訓、国学者・歌人(+ 1856年)

1799年 - ジェデッドアイア・スミス、マウンテンマン(+ 1831年)

1803年 - アンリ・エルツ、作曲家・ピアニスト(+ 1888年)

1822年 - ハインリッヒ・シュリーマン、考古学者(+ 1890年)

1828年 - ヘルマン・グリム、文化史家(+ 1901年)

1832年 - ギュスターヴ・ドレ、画家(+ 1888年)

1838年 - マックス・ブルッフ、作曲家(+ 1920年)

1850年 - エドゥアルト・ベルンシュタイン、社会民主主義思想家・政治家(+ 1932年)

1856年 - ジュゼッペ・マルトゥッチ、作曲家(+ 1909年)

1867年(慶応2年12月1日)- 床次竹二郎、内務大臣・逓信大臣(+ 1935年)

1872年 - アレクサンドル・スクリャービン、作曲家(+ 1915年)

1878年 - カール・サンドバーグ、詩人(+ 1967年)

1898年 - ジェイムス・フィッツモーリス、飛行家(+ 1965年)

1902年 - 今西錦司、生態学者・人類学者(+ 1992年)

1903年 - モーリス・アブラヴァネル、指揮者(+ 1993年)

1905年 - エリック・フランク・ラッセル、SF作家(+ 1978年)

1906年 - 杉村春子、女優(+ 1997年)

1909年 - 市川團十郎 (11代目)、歌舞伎役者(+ 1965年)

1913年 - ロレッタ・ヤング、女優(+ 2000年)

1914年 - 武田豊、実業家(+ 2004年)

1919年 - 野口二郎、元プロ野球選手(+ 2007年)

1920年 - ジョン・メイナード=スミス、生物学者(+ 2004年)

1923年 - 吉田満、小説家(+ 1979年)

1923年 - 長谷川善三、元プロ野球選手(+ 1998年)

1926年 - 立原正秋、小説家(+ 1980年)

1927年 - 神谷不二、国際政治学者

1929年 - バーブラーク・カールマル、アフガニスタンの政治家(+ 1996年)

1931年 - 八千草薫、女優

1936年 - 原知佐子、女優

1939年 - ヴァレリー・ロバノフスキー、サッカー指導者(+ 2002年)

1944年 - ロルフ・ツィンカーナーゲル、医学者

1945年 - 浜四津敏子、政治家

1945年 - 松原智恵子、女優

1946年 - シド・バレット、ミュージシャン(元ピンク・フロイド)(+ 2006年)

1947年 - ハワード・ジョージ、物理学者

1949年 - 本田路津子、ゴスペル歌手
1949年 - 矢吹二朗、俳優
1951年 - 鈴木一平、シンガーソングライター
1953年 - マルコム・ヤング、ミュージシャン(AC/DC)
1954年 - 高橋まこと、ミュージシャン(元BOOWY)
1954年 - 中畑清、元プロ野球選手
1954年 - 堀井雄二、ゲームシナリオライター
1954年 - アンソニー・ミンゲラ、映画監督(+ 2008年)
1955年 - ローワン・アトキンソン、イギリスのコメディ俳優
1958年 - CHAGE、シンガーソングライター(CHAGE and ASKA)
1959年 - 惣領冬実、漫画家
1960年 - 大場久美子、タレント
1960年 - 高田誠一、歌手(元BLACK CATS)(+ 2004年)
1960年 - 森山雄治、アニメ監督
1961年 - 木村優子、アナウンサー
1962年 - 中島マリ、女優・ものまねタレント
1965年 - ティム・マクドナルド、アメリカンフットボール選手
1971年 - 真中満、元プロ野球選手
1975年 - ゆかな、声優
1975年 - 日向あずみ、女子プロレスラー
1978年 - つじあやの、ウクレレ奏者
1978年 - 森本学、プロ野球選手
1978年 - 山北茂利、プロ野球選手
1978年 - スティーブ・ハートセル、フィギュアスケート選手
1979年 - 藤尾仁志、お笑い芸人(オクラホマ)
1979年 - 宝来眞紀子、バレーボール選手
1979年 - 竹川美子、演歌歌手
1980年 - FLIP-FLAP(AIKO、YUKO)、双子タレント
1980年 - 萱島大介、元プロ野球選手
1981年 - オオシマ・ヒロミ、日本人初のプレイメイト
1981年 - 菊地凛子、女優
1981年 - 芝田安希、女子バレーボール選手(東レ)
1982年 - ギルバート・アリナス、バスケットボール選手
1982年 - 河内貴哉、プロ野球選手
1982年 - 藤野もやむ、漫画家
1984年 - 中澤章吾 、お笑い芸人(かたつむり)
1986年 - アレックス・ターナー、歌手 (アークティック・モンキーズ)
1986年 - 美月、歌手
1989年 - 辻本賢人、プロ野球選手
1989年 - 亀田大毅、プロボクサー・亀田三兄弟の次男
1989年 - マックス・パーキス、俳優
1991年 - 関谷愛里紗、女優・ジュニアアイドル
1992年 - HIROYA、キックボクサー
1992年 - 宮原理子、女優
1994年 - 稲見友剛、ジャニーズJr.

忌日
1406年 - ロジャー・ウォールデン、イングランド大蔵卿・カンタベリー大司教

1448年 - クリストファ3世、デンマーク王(* 1418年)

1536年 - バルダッサーレ・ペルッツィ、画家・建築家(* 1481年)

1537年 - アレッサンドロ・デ・メディチ、フィレンツェ公(* 1510年)

1725年(享保9年11月22日) - 近松門左衛門、人形浄瑠璃の劇作家(* 1653年)

1731年 - エティーヌ・F・ジョフロア、化学者(* 1672年)

1831年 - ロドルフ・クレゼール、ヴァイオリニスト・作曲家(* 1766年)

1852年 - ルイ・ブライユ、アルファベットの点字開発者(* 1809年)

1856年 - ニコラ=シャルル・ボクサ、作曲家・ハープ奏者(* 1789年)

1881年 - アンリ・ヴュータン、ヴァイオリニスト・作曲家(* 1820年)

1884年 - グレゴール・ヨハン・メンデル、遺伝学者(* 1822年)

1891年 - レオ・ドリーブ、作曲家(* 1836年)

1907年 - 阿部十郎、新選組隊士(* 1837年)

1907年 - 伊達宗敦、仙台藩知事(* 1852年)

1918年 - ゲオルク・カントール、数学者(* 1845年)

1919年 - セオドア・ルーズベルト、第26代アメリカ合衆国大統領(* 1858年)

1928年 - アルビン・クレンツレーン、陸上競技選手(* 1876年)

1933年 - ヴラディーミル・ド・パハマン、ピアニスト(* 1848年)

1942年 - アンリ・ド・バイエ=ラトゥール、
第3代国際オリンピック委員会委員長(* 1876年)

1942年 - アレクサンドル・ベリャーエフ、SF作家(* 1884年)

1944年 - イーダ・ターベル、ジャーナリスト(* 1857年)

1945年 - ウラジミール・ベルナドスキー、鉱物学者・地球化学者(* 1863年)

1949年 - ヴィクター・フレミング、映画監督(* 1889年)

1959年 - 観世華雪、能楽師(* 1884年)

1965年 - 花柳章太郎、女形役者(* 1894年)

1972年 - 陳毅、中華人民共和国外交部長(* 1901年)

1978年 - バート・マンロー、ライダー(* 1899年)

1990年 - パーヴェル・チェレンコフ、物理学者(* 1904年)

1990年 - イアン・チャールソン、俳優(* 1949年)

1993年 - ディジー・ガレスピー、ジャズトランペット奏者(* 1917年)

1993年 - ルドルフ・ヌレエフ、バレエダンサー(* 1938年)

1999年 - ミシェル・ペトルチアーニ、ジャズピアニスト(* 1962年)

2001年 - 中島洋次郎、政治家(* 1959年)

2006年 - 加藤芳郎、漫画家(* 1925年)

記念日・年中行事
小寒(日本、2003年・2004年)
二十四節気の一つ。太陽の黄経が285度の時で、寒さが最も厳しくなる前の時期。

六日年越し
正月七日を「七日正月」といい、その前日を年越しとして祝う。

東京消防庁出初め式(出初め式)

公現節/公現祭/主顕節/顕現節
キリスト教の祝日の一つ。本来は1月6日の固定祝日だが、
地域や宗派によっては1月の第一日曜日に祝うところもある。

色の日
色に関係する職業の人の記念日。「い(1)ろ(6)」の語呂合せから。