東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年1月11日(日曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年1月11日(日曜日)

「新年」になりました。平成21年です。

今日は(日曜日)ですが。

もう「11日」もたちました。

とても「寒い日々」が続いています。

今年の「冬」・から「春」は予期せぬ

インフルエンザ*の

大規模な流行が予想されます。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。

薬事法の「能書」にあるとおり

「正規の」

「2回法によるインフルエンザワクチン」の

予防接種をおすすめいたします。

常時いつでも接種可能です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

昨年の。
冬間近くの。
そのむかし晩秋のころ。
「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」の。
花の蕾が淡い黄金色にかがやいて。
が見えてから「10日間」で。
花は去りました。
黄金色のじゅうたんが毛氈(もうせん)ように。
地面「金色」に広がりました。

「昨年」の。
「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」に続いて。
「銀木犀:きんもくせい」もプラチナ色の
花が咲き始めました。

「金木犀:きんもくせい」のあとを追って。
「銀木犀:きんもくせい」の花は去り。
地面に「プラチナ」が一面に広がっていました。

「新年」。「初春」。

今は私の「大好き」な。

「やぶつばき」と「山茶花(さざんか)」

の「蕾(つぼみ)」と「花」のふくらむ

季節になりました。

山本クリニックの庭園には。
「野生」の。
「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」が
とても沢山群生してはえています。

日々の毎日にどんどんと。
みるみるうちに。

山茶花(さざんか)や「やぶつばき」が。
つぼみや「花」を大きくしています。

けれども「山茶花(さざんか)」は
蕾が大きくなったそのよるには。

花咲き。
暗い朝にちっていることが
多いです。

「種の保存」の理論からすれば
昆虫の少ない「真冬」も日々に。

開花期はながければ長いほど「実」「種」
が「たくさんできる確率は高くなる」
はずです。
だから。
開花期が「短命」とは。
不思議なことです。

山茶花(さざんか)は

ぬばたまの

闇夜の暗きに

木枯らしの

風に弓射られて

花ぞ舞い散る

ささんかは

ぬばたまの

やみよのくらきに

こからしの

かせにいられて

はなそまいちる

早朝には「白鷺の羽」
のように地面に
舞い降ちています。

昨年の。
「晩秋」
「木犀:もくせい」の花の
「芳香」は蕾のみえるまえから
あります。
花が去ったあとは
「あっというまに芳香が消えます」。

「晩秋」の
「木犀:もくせい」たちのかおりがさり。

年が改まれば。

今度はいよいよ。

「冬」「初春」
つぼみを日々
大きくしている。

山茶花(さざんか)や「やぶつばき」
の季節の「初春」「新年」。

そして。
「山茶花(さざんか)」と「やぶつばき」
をみまもるのは
「みかんの木」の「丸いみかん」の
「丸い群れ」。「ぶどう」のようです。
お互いに「植物語」で話しをしているに
ちがいありません。

私は山茶花(さざんか)よりは。
「やぶつばき」がずっとすきです。

山本クリニックの庭園には。
いずれも野生の「やぶつばき」と
野生の「山茶花(さざんか)」ばかりです。

堂々たる。
木枯らしの吹く。
「1月」
本物の「冬」になりました。

さらに「冬」がふかまり。

「もっと深い冬」のトンネルをこえれば。

そこは「雪国の冬」です。

「木枯らし」は

遠くの蒸気機関車の鳴き声のように

に聞こえます。

近くに「トンネル」があることも

わかります。

「魔王:Erlkönig」の吹く「オカリナ」

のような鳴き声です。

きょうは。
とても寒い。

「木枯らし」が吹いています。
「木枯らし」は「夜」は「木」にとまって
一晩をすごすようにすらみえます。
「木枯らし」の鳴き声が。
きこえます。

最近は
朝くらい早朝には「星がみえます」。
「明けの明星」の金星が南の空に高くみえます。

病院の明かりが灯り暗闇のなか。
朝はやく。

「明けの明星」の金星に「おはよう」を
毎日こえで「御挨拶」を伝えます。
「明けの明星」の金星から「おはよう」と
返事がかえってくる声をききながら。
病院の明かりをともします。

夏場の早朝のくらい時には。
明星はみえずらかった。
季節が「冬へとあゆみ」「新年」。
いよいよ。
大気が「澄んできた」ということでしょう。

冬霧雨(ふゆきりさめ)の。
冬霞(ふゆかすみ)の大気。

こおろぎの「なきごえ」はいつしか。
「合唱」から「独唱」になりました。
「ろうろう」と鳴いていました。
そしていまは「こおろぎ」は
もうとっくにきこえないです。

「こうろぎ」の「ろうろう」は
木枯らしの「音」にかわりました。
「ろうろう」「こうこう」
「木枯らし」の鳴き声

朝暗く寒いいうちの「木枯らし」の合唱は。
「初冬」の「ふうりん」のごとし。
あれ沢山の「ふうりん」かな。
「冬」の「ふうりん」の音色です。

「ろうろう」。
さびさびと「さむい音」です。
「こうこう」
わびわびと
「たき火をよんでいる音」です。

「ススキの穂先」は
「そぞろに「深い晩秋・初冬」の旅愁」すら
をも感じさせます。

「ススキの穂先」には「冬ふくろう」が
何匹も集ってつどい。
何匹ものふくろうが。
何かを考えているようにみえます。

「雪」がつもれば。
「ススキの穂先」は。
「しあわせと幸福を手招き」している
何本もの「手」のように。
みえます。

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munch
の絵画のようです。

私も「日々を旅ゆく人間」です。

奥の細道の序文に松尾芭蕉が。

「月日は百代の過客(ひゃくたいのかかく)
にして行かふ年も又旅人也。」

「つきはひゃくたいのかかくにして
いきかふとしもまたたひひとなり」

とかたり。詠みました。

私は

「日々の月日」を道連れにして。

「時」を旅をするひとりの旅人(たびびと)」

です。

「日々月日の旅のつれあい」は。

「きょう」と「あす」しか。

いません。

「きょう」と「あす」しか。

私にはありません。

朝くらいとき。
陽の出の直後は。
いつも一瞬は晴れています。
いまだ かすかにも。
のこる「中冬」の気配
であるけれども。

あきらかに。
そしてしっかりと。
しのびよるもっともっと奥の。
深く深まる冬からの大気。

「ふかまる冬」の気配が。
「確かに」。
そして明らかに。
そして輪郭もはっきりと。

感じられるようになりました。

「新年」の「1月」になりました。
今年も平成21年がはじまりました。
「初春」「新年」。

はやいものです。
速いものです。
早いものです。

街路樹もそうそうたる
羽振りの木々から
「ふかまりゆく冬の樹木」にうつろうように
変化しています。

「初春」の「冬」にも。
「樹木の若葉の芽生え」があることに
気がつきました。

春の芽吹くときには。
街路樹のポプラも
幹や枝葉の穂先が。
ろうそくのともしびのように。
「炎の様」になっていました。
あたかも
ゴッホの描いた「夜の糸杉」のように。
春の早朝はみえました。

夏になり。
この「穂先」が一気に「ポプラの葉」へと
扇・おおぎのごとく開きました。

フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「夜の糸杉」から。
フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「ひまわり」
のように。
一斉に開きました。
8月にはいってからのことです。

10月そして11月。
今現在は落ち着いた「冬」の葉木。
「冬」の木々の「葉」
へと。

「みのりの冬」にむけて。
「あつく」うつろいています。

ポプラも。つばきもくすのきも。
「晩秋」には「中秋の若葉」が。
ハンカチをふるように
「「冬」のわかば」の「めばえ」がみえました。
今もみえます。

そして「冬がくると」。
空と木枯らしのかなでる「蛍の光」や
「冬のコンチエルト」にあわせるように。

ポプラの葉や芽葉は。
ハンカチのようにふわふわと。
ふわふわと。
「穂先から葉葉」は「舞い振りまがら」
ハンカチは木を去っていきます。

樹木のハンカチは。
大地を訪ねて飛翔し。
大地にまいおり大地にもどります。
そして大地となります。

そして。
ポプラの葉や芽葉が。
ハンカチのようにふわふわと。
ふわふわと。
「穂先から葉葉」は「舞い振りまがら」
木を去っていくのは。
「夜の魔法」のようです。
「葉の去った枝」にはもう「「初春」の若芽のつぼみ」
がみえます。

木々の「葉」が「枝や幹」を
「保護する役割をしている」
ことに気づきました。

4月の桜の花の時期とうってかわり
桜の木の公園
の桜の木々が。
夏になりとても獰猛な気配を放つ。
初めて気がついた・。

けれども今は

「おせどのこおろぎはなきやみ」

「電線に「木枯らし」がとまってないている」

「深い冬」です。

「新年」「初春」の「中冬」です。

「さくら」は冬の濃い緑の樹肌になり。
やさしさとおだやかさ
が感じられます。

そしていつしか
幹先に黄色い葉もまじえています。
しだいにしだいに。
紅黄色の葉が消えていくことに
きがつきます。

さくらから。
さくらはのきえるころ
です。

紅葉から。
「木枯らし」

桜の樹木も「丸くなりました」。
桜の樹木も毎年と毎日。
「旅(たび)をしている」のでしょう。

朝陽をあびる落葉樹は
「すべてが黄金色」に
かがやき。
朝陽をしっかりと。
「絵になるように」受け止めています。

「冬の朝陽」は真東に大変鋭いことに
気づきました。
眩しいです。

春は別として。
桜の木は木の下で。
夏は心安らかに。
「休める木ではないなあ」
と思います。
昨年は
秋になり
桜の樹木も安堵の葉色
になりました。
ちょっとばかりびっくり致しました。

枝や幹からは秋の陽の木漏れ日がみえます。

夏桜の木は獰猛なほど葉をおいしげらせ
ていました。
夏には
桜の木の下で木陰で。心安らかにやすもうという
気はおきません。

いまは晩秋から「冬」になりました。
そよかぜに揺れる残り葉は
招き誘われるような気すら致します。

冬になり幹にはもう「枯れ葉散る」。
ちったあと枝の根元には。
「春の芽栄え(めばえ)」
がみえます。

けれども
やはり夏桜の木は

シューベルトの歌曲の旋律にある「菩提樹」
ではないのです。

冬の桜木(さくらぎ)。
冬になり
人生に果てて(はてて)
なれるが如く桜樹木はかわりました。
良い木になってきました。
素敵(すてき)です。
冬の桜木(さくらぎ)。

木々でも。
いちょうや。松や。杉などの針葉樹
は。またソテツなどは。
「古い時代の木」です。

「チャールズ・ダーウィンの進化論」からは
「針葉樹」から。
「常緑樹」「広葉樹」「落葉樹」にと。
「進化」しているはずです。

「原始的」な樹木ほど。
「硬い幹」です。
例外はありません。

硬ければ。
幹は硬ければ動物に
「かじられる」ことはないでしょう。

いにしえの古代の時代にも。

恐竜をはじめめとする
「大型」の草食動物にも。

かたければかじられることは
なかったでしょう。

街並みを彩る街路樹には「落葉植物」が多いです。

ふと。考える。

街路樹が「松や杉」のように。
「冬も葉を持つ針葉の常緑樹」では。

冬はうっそうとして道端では
やさしい暖かな陽射しをかくしてしまう。

夏場は枝ぶり葉っぱぶりからつよすぎる日の光は
さえぎれません。
そして
「秋」の「夕焼け陽」には。
「金色のちいさき鳥の形して」
秋の夕焼けの陽射しに舞うこともできません。

常緑樹の針葉樹では。
は四季のリズムをつたえる

北大路魯山人のいう

「ざっくり感(ざっくりかん)」

のリズムヤハーモニー或は旋律が
ありません。

木々の夏の萌黄が早朝暗い中でも
うかびあがります。
私はくすのきが「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
モミジもすきです。
カエデもすきです。
松や杉もすきです。
月桂樹やシナモンもすきです。
オリーブもすきです。
オレンジの木もすきです。
「そてつ」の木もすきです。
ツバキもすきです。
木や植物がすきです。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな秋の萌黄色です。
まるで大きな深い山の森のうねりのようです。
今年は木々のわかばの秋のめばえが非常に鮮か
です。
木々は「夏樹」の役目をおわりました。
「秋木」とかわろうとしています。
「秋木」とかわりました。
そして
さらに
「冬木」へとかわろうとしています。
「冬木」へとかわりました。

街角の雑草も花は咲き終わり。
盛夏の姿となりそして秋を迎えそして「冬」を迎える。
「ほとけの座」や「はこべ」が
「かたばみ」や「いたどり」が
ますます姿を大きくして。

そして「すすき」もくわわりました。

夏草から秋草へ。
そして秋草へのたたずまいをしています。
そしてもうすっかり秋冬草へと黄金色に転した
街角には雑草もあります。
こがねいろ。

雑草も。
同じく花をさかせ自ら種をとばし
夏葉がみえる。
そして秋を迎える。
冬が来て。木枯らしに吹かれ。
雪をかむり。そして。
春がくる。

ツツジは潅木。
ツツジの花の葉の優しさには
あらためてびっくりしました。
黄緑・草色のビロードです。

のぞきこむと若葉はまだ沢山ある。
何故か得をしたように思えました。

そして雨にうたれてそのまま地に落ちた
ツツジの若葉は幾何学的に裏側を下にむけて
逆さじょうごのように
落下していることに気がつきました。
まるで
「若草色」のキノコが沢山はえているようです。

木から落ちても。
まだ「若葉」です。ふと。
ヴェルディの「椿姫」「La Traviata」
の「つばき」を思い出しました。

1852年パリに滞在したヴェルディは
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)
の戯曲版『椿姫』の上演を見て感激し
ました。
そのころ新作の作曲依頼を受けていた
ヴェネツィアのフェニーチェ劇場のために。
翌1853年初めに比較的短時間で作曲された
『椿姫 』(La Dame aux camelias、1848年出版)
は。
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が
実際の体験を基にして書いた長編小説。
主人公のモデルはかつて作者が交際をしていた
マリー・デュプレシという高級娼婦。
恋人アルマンのイニシャルである
『AD』は
小デュマのイニシャルと同じです。

この作品は人々に愛されて幾度も舞台、映画化され
続けてきました。

朝暗いうちは。

とても。

はださむいです。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

山本クリニックには。
検見川の落合遺跡の遺跡発掘の際に
みつかった「古代のハスの種子」から。

2000年ぶりに発芽したことで有名な。
「古代蓮(ハス)」があります*。
【大賀ハス:おおがはす】です。
「有名な古代ハス」です。
とても勇壮なハスで。
花のいろはとてもあまりにも美しく。
たとえ様もありません。

ハスの花がさき。
「「蓮(ハス)」の実」になりました。
「はすの実」も「はす」の葉も。
2mくらい水面から高いところに
あります。

睡蓮(すいれん)があります。
睡蓮(すいれん)は「葉」が水に浮び。
はのきれこみは羊の足のようです。
睡蓮(すいれん)を「ひつじぐさ」とは
なるほどと考える。
睡蓮(すいれん)の茎の長さには
おどろかされます。

「姫睡蓮(ひめすいれん)」でさえも。
池はばが長ければ四方八方に「水の中の枝」。

「モネ」の描いた睡蓮(すいれん)の
「水の中の枝」は「どれほど長いのだろう」。

睡蓮(すいれん)も「太古の時代」に
陸の動物に「かじられないように」
水中に「逃げ込んだ」のでしょう。

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大賀ハス(オオガハス、おおがはす)とは。
1951年(昭和26年)、千葉県千葉市検見川
(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある
東京大学検見川厚生農場
(現・東京大学検見川総合運動場)の
落合遺跡で発掘された
今から2000年以上前の古代のハスの実から
発芽・開花したハス(古代ハス)のことです。

戦時中に東京都は燃料不足を補うために
花見川下流の湿地帯に豊富な草炭が埋蔵されていた
「草炭」を採掘していました。

採掘は戦後も継続して行われていました。
1947年(昭和22年)7月28日に作業員が採掘現場でたまたま
1隻の丸木舟と6本の櫂を掘り出しました。

その調査によりもう2隻の丸木舟と
ハスの果托などが発掘されました。

「縄文時代の船だまり」であったと
推測され落合遺跡と呼ばれました。

植物学者でハスの権威者でもある大賀一郎博士
(当時・関東学院大学非常勤講師)が
発掘品の中にハスの果托があることを知り。
1951年(昭和26年)3月ボランティアの協力
を得てこの遺跡の発掘調査を行いました。

翌日で打ち切りという
30日の夕刻になって花園中学校の女子生徒により
地下約6mの泥炭層からハスの実1粒が発掘され予定を延長し
4月6日に2粒、計3粒のハスの実が発掘されました。

大賀博士は5月上旬から発掘された
3粒のハスの実の発芽育成を試みるも2粒は失敗に終わりました。
だが1951年3月30日に出土した1粒が育成に成功致しました。

翌年の1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪を咲かせました。
このニュースは国内外に報道されて多いな「驚愕」を与えました。
同年11月17日付米国ライフ誌に「世界最古の花・生命の復活」
として掲載され博士の姓を採って「大賀ハス」と命名されました。

シカゴ大学のリピー博士らによって放射性炭素年代測定が行われました。
ハスの実は今から2000年前の弥生時代以前のものであると推定された。

この古代ハスは、
1954年(昭和29年)6月8日に「検見川の大賀蓮」として
千葉県の天然記念物に指定されました。
また1993年(平成5年)4月29日には千葉市の花として制定され、
現在日本各地は元より世界各国へ根分けされ、
友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っています。

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ふと「パンの神」を思い出しました。
(「牧神パン(Pan)」=「Pan」=「パン」=
「飯(はん)」=「全般の般」=「パンアメリカンのパン」=

「パン」「pan」は「すべて」という意味の
古代ギリシャ語そして「サンスクリット」も同じ。

古典ギリシア語 Παν、Pan「パンの神」は。
幼少時からゼウスから他の神々全て*に好かれたので
(古代ギリシャ語でTheophilusテオフイルス/ラテン語では
amadeus アマデウス**)
「パン」と名づけられました。

「頭は人間で胴体は山羊」です。

「テュホン:テューホーン:Τυφών: Typhon」
ギリシア神話に登場する魔神***。
に追いかけられ
あわてて身を守るため川に飛び込み「頭は人間で胴体は人魚」
に変身したために。

「パニック」=「panic:パン的」
という言葉が生まれました。

星座に「山羊座」という星座があります。

山羊座は不思議ですが
「あわてて身を守るため川に飛び込み
「頭は人間で胴体は人魚」」
に変身した「パンの神」を示しています。
山羊ではありません。

むしろ正確には人魚です。

だから。
「山羊座」という「意味」はわかります。
けれども「命名」の観点から。
「山羊座」というのはかなり「妙」な気が致します。
「人魚座」というのが正しい。


名称「パンの神」の由来は「ギリシャ神話」でも
非常に多くの「言い伝え」がいくつがあります。
その「言い伝えの数」に正比例して「混乱」があります。

**
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの
「アマデウス」とは「パンの神」のことです。
(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの
ヴォルフガングは「おおかみが行く」という意味です。
よって
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは

「狼のように歩み神に愛されたモーツアルト」
ということになります)

***
「テュホン:テューホーン:Τυφών: Typhon」は
「台風:たいふう」と日本語では名前を変えています。

****
タイフーン級原子力潜水艦は
旧ソ連・ロシアの941型(プロジェクト941)
戦略ミサイル搭載原子力潜水艦のことです。
タイフーンはそれに付けられたNATOコードネームですが
この名称は日本の「台風」とは「直接関係」はありません。

日曜の

朝晴れて

はじめて気づく

にわの小ささ

にちようの

あさはれて

はじめてきづく

にわのちいささ

朝晴れて

にわの小さき

気づかぬときは

病(やまい)なりけり

日曜の朝

あさはれて

にわのちいさき

きづかぬときは

やまいなりけり

にちようのあさ

休診日ですが。
早朝に朝まだ暗いうちから
首都高を走って病院に到着致します。

空はきらきらのラピス・ラズリの
紺碧のジュースから
ミルク色のはいった
トルコ石の「プリン」に変わるように変化
していきます。

遠くにぽかぽか浮ぶ「雲々」は
トルコ石の「プリン」の上の「クリーム」の
ようです。
にわのあじさいは「アイスクリーム」
のようです。

冬きらきらラピス・ラズリの空(そら)
冬紺碧のカクテルいろの空(そら)
冬ミルクをそそそいだ空(そら)
冬トルコいしのプリンの空(そら)
冬はるかにとほくたかい空(そら)
冬ほかほか浮ぶ雲々(くもぐも)そら
冬プリンの上のクリームのような空(そら)
冬睡蓮(すいれん)の水面に空(そら)
冬睡蓮(すいれん)のうえに空(そら)
冬空(そら)の向こうにまた空(そら)
冬そのまたむこうにももっと大きな空(そら)

春のうららのこもれびに
緑木いらかをかぜはやみ
青風ひるむやうつろひの
四季のつきひははやいくとせ

夏のうららのこもれびに
緑木いらかのつねなりて
赤き空(そら)にて炎えたたむ
四季のつきひははやいくとせ

秋のうららのこもれびに
緑木いらかにかぜさやか
秋風かたれるやすらきの
四季のつきひははやいくとせ

冬のうららのこもれびに
緑木いらかにかぜつよし
冬風弓(ゆみ)射る木枯らしに
四季のつきひははやいくとせ

冬椎木(しいのき)は枝高し
冬そらに吼える若葉の穂束
冬そらに吼える蒼き獅子のごとし
冬天にも地にもみどりはさける
冬のあさふかまりて
冬陽の光ゆたかなりけり
冬いふことのなし
冬いふことがなし
冬いふことはなし
冬いふこともなし
冬ゆたかなるかな秋冬

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

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平成21年1月12日(月曜日)は。

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)は。

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の御予約の。
患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

平成21年

東京都世田谷区山本クリニックは
平成20年12月30日(火曜日)
まで診療を行います。
来年は。
平成21年1月5日(月曜日)から
診療を行います。

冬季休診は12月31日(火曜日)から
平成21年1月4日(日曜日)までです。

-------------------------------

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。
「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は。
私の「大好き」な「オルガニスト」の一人。

前半生での極めて多忙な演奏活動に加えて。
後半生での交通事故の後遺症により作曲活動が制約された
「オルガニスト」。

そのため
作曲され出版された作品は。
最も有名な《レクイエム》を含めて全部で14曲しかない
「オルガニスト」。

1902年 - モーリス・デュリュフレ、作曲家(+ 1986年)
の生誕日です。

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モーリス・デュリュフレ(Maurice Durufle,
1902年1月11日 - 1986年6月16日)は
フランスの作曲家・オルガン奏者です。

ルーヴィエール出身でパリに没しました。

長寿ではあったのですが。

前半生での極めて多忙な演奏活動に加えて。
後半生での交通事故の後遺症により作曲活動が
制約されました。

出版作品は。
最も有名な《レクイエム》を含めて。
全部で14曲しかないのです。

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モーリス・デュリュフレ:Maurice Durufleの生涯

少は年時代にルーアン大聖堂の聖歌隊員を務めました。
聖堂の附属学校でピアノとオルガン演奏を学びました。

17歳でパリに行き。
シャルル・トゥルヌミールにオルガンを学びました。

18歳でパリ音楽院に入学致します。

作曲をシャルル=マリー・ヴィドールとポール・デュカスに。
オルガンをウジェーヌ・ジグーに師事致しました。

1922年と1928年の間に。
作曲科、ピアノ伴奏、和声法、オルガン科で。
表彰されています。

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モーリス・デュリュフレ:Maurice Durufleは。

1927年にノートルダム大聖堂で。
ルイ・ヴィエルヌの助手となりました。

ヴィエルヌはデュリュフレを後任演奏家にしたがったのですが。
大聖堂の当局者はヴィエルヌを快く思ってていませんでした。

そして別人を任命致しました。

しかしヴィエルヌが。
なんと1750回目の演奏の最中に息を引き取った際。
ヴィエルヌのそばで演奏台にいたのは。
モーリス・デュリュフレ:Maurice Duruflé
であったのです。

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モーリス・デュリュフレ:Maurice Durufleは。
1929年にオルガン演奏と即興演奏に対して。

「パリ・オルガンの友」賞を授与されました。
サンテティエンヌ=デュ=モン教会のオルガニスト
の地位を得ました。

また、フルートとヴィオラ、ピアノのための
《前奏曲、レチタティーヴォと変奏曲
Prelude, Recitatif et Variations 》
作品3は。
マルセル・モイーズやジャン・ドワイアンらによって
初演されたました。

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モーリス・デュリュフレ:Maurice Durufleは。

1939年に、ロジェ・デゾルミエールの指揮により。
パリでプーランクの《オルガン協奏曲》の初演が行なわれた際の
オルガン独奏者を務めました。

それに先立ち、オルガンのレジストレーションについて
プーランクに助言を与えたのもデュリュフレであったのです。

1942年にパリ音楽院で。
マルセル・デュプレの作曲科の助手を務めました。

1940年に、戦死したジャン・アランを追悼して
《アランの名による前奏曲とフーガ
"Prelude et Fugue sur le nom d'Alain" 》
を作曲致しました。

++++++++++++++++++++++

モーリス・デュリュフレ:Maurice Durufleは。

1947年に。
代表作となる《レクイエム》作品9を作曲致しました。
ポール・パレーの指揮により初演が行なわれました。

フォーレの前例と類似点が見られます。
グレゴリオ聖歌や「ルネサンス音楽の影響」がより強固です。

全曲の導入部分を含む多くの楽章
(例えばサンクトゥスやアニュス・デイなど)で。

グレゴリオ聖歌の『レクイエム』からの
メロディの引用が見られます。

それらの引用がデュリュフレ流の高度に洗練された
フランス和声や対位法により彩られています。

現在この作品には3つの版が存在しています
(オーケストラ伴奏版、小オーケストラ伴奏版、
オブリガート・チェロ独奏つきオルガン伴奏版)。

ミサ曲《クム・ユビロMesse "Cum Jubilo" 》も。
同様に3つの版が存在致します。

++++++++++++++++++++++

モーリス・デュリュフレ:Maurice Durufleは。

1947年に女性オルガニストの
マリー=マドレーヌ・シュヴァリエが。

サンテティエンヌ=デュ=モン教会における
デュリュフレの助手となりました。
1953年に二人は結婚致します。

その後に教会オルガニスト職を。
分かち合うようになりました。

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モーリス・デュリュフレ:Maurice Duruflé
は。

不幸なことに。
1975年にマリー=マドレーヌ夫人と共に自動車事故に遭いました。

二人とも一命は取り留めました。

けれども演奏活動が続けられなくなりました。
パイプオルガンは両手両脚の体のすべてを
演奏に必要と致します。

1977年に出版された混声合唱のための《主の祈り》が
最後の公開された作品となりました。

1986年にパリで他界致しました。

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モーリス・デュリュフレ:Maurice Durufle

デュリュフレ夫妻の記念碑デュリュフレが。
オルガニストを務めたサンテティエンヌ・デュ・モン教会の
目の前に当たるパリ5区の。
パンテオン広場6番地にある住居の入口に。

モーリス・デュリュフレと妻のマリー=マドレーヌ・デュリュフレ
の記念碑が掲げられています。

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モーリス・デュリュフレ:Maurice Durufle
作品と演奏・録音

《レクイエム》がとりわけ有名だからといって。
デュリュフレが傑出したオルガニストで
あったことを忘れてはなりません。

様々なオルガンのための音楽を初演しています。

プーランクの《オルガン協奏曲》のほか。
恩師である。
ヴィエルヌの《オルガン交響曲 第6番》を1935年に初演しています。

録音も数多いものです。

自作やフォーレの《レクィエム》や。
プーランクの《オルガン協奏曲》以外にも。

サン=サーンスの《交響曲第3番 ハ短調》や。
マルカントワーヌ・シャルパンティエの
《クリスマスの真夜中のミサ》や。
オネゲルの《ダヴィデ王》や《クリスマス・カンタータ》
を録音致しました。

バッハのオルガン曲も録音しています。
いくつかの曲ではマリー=マドレーヌ夫人の
演奏も聞くことができます。

ほかに、トゥルヌミールやヴィエルヌなどの
作曲家のオルガン作品も録音
致しました。

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モーリス・デュリュフレ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%95%E3%83%AC

モーリス・デュリュフレ(Maurice Durufle, 1902年1月11日 - 1986年6月16日)はフランスの作曲家・オルガン奏者。

ルーヴィエール出身でパリに没した。長寿ではあったが、前半生での多忙な演奏活動と、後半生での交通事故の後遺症により、作曲活動が制約され、出版作品は、最も有名な《レクイエム》を含めて全部で14曲しかない。

目次
1 生涯
2 作品と演奏・録音
2.1 作品一覧
2.1.1 未出版楽譜
3 関連楽曲
4 参考文献
5 外部リンク

生涯

メシアン(右端)とデュリュフレ(右から2人目)。中央の白髭の男性はデュカス少年時代にルーアン大聖堂の聖歌隊員を務め、聖堂の附属学校でピアノとオルガン演奏を学ぶ。17歳でパリに行き、シャルル・トゥルヌミールにオルガンを学ぶ。18歳でパリ音楽院に入学し、作曲をシャルル=マリー・ヴィドールとポール・デュカスに、オルガンをウジェーヌ・ジグーに師事した。1922年と1928年の間に、作曲科、ピアノ伴奏、和声法、オルガン科で表彰される。1927年にノートルダム大聖堂でルイ・ヴィエルヌの助手となる。ヴィエルヌはデュリュフレを後任演奏家にしたがったが、大聖堂の当局者はヴィエルヌを快く思っておらず、別人を任命した。しかし、ヴィエルヌが1750回目の演奏の最中に息を引き取った際、ヴィエルヌのそばで演奏台にいたのは、デュリュフレであった。

1929年にオルガン演奏と即興演奏に対して、「パリ・オルガンの友」賞を授与され、サンテティエンヌ=デュ=モン教会のオルガニストの地位を得た。また、フルートとヴィオラ、ピアノのための《前奏曲、レチタティーヴォと変奏曲Prelude, Recitatif et Variations 》作品3は、マルセル・モイーズやジャン・ドワイアンらによって初演された。

1939年に、ロジェ・デゾルミエールの指揮により、パリでプーランクの《オルガン協奏曲》の初演が行なわれた際、オルガン独奏者を務める。それに先立ち、オルガンのレジストレーションについてプーランクに助言を与えたのもデュリュフレであった。1942年にパリ音楽院で、マルセル・デュプレの作曲科の助手を務めた。1940年に、戦死したジャン・アランを追悼して《アランの名による前奏曲とフーガ"Prelude et Fugue sur le nom d'Alain" 》を作曲した。

1947年に、代表作となる《レクイエム》作品9を作曲、ポール・パレーの指揮により初演が行なわれた。フォーレの前例と類似点が見られるが、グレゴリオ聖歌やルネサンス音楽の影響がより強固である。全曲の導入部分を含む多くの楽章(例えばサンクトゥスやアニュス・デイなど)で、グレゴリオ聖歌の『レクイエム』からのメロディの引用が見られ、それらの引用がデュリュフレ流の高度に洗練されたフランス和声や対位法により彩られている。現在この作品には3つの版が存在している(オーケストラ伴奏版、小オーケストラ伴奏版、オブリガート・チェロ独奏つきオルガン伴奏版)。ミサ曲《クム・ユビロMesse "Cum Jubilo" 》も、同様に3つの版が存在する。

1947年に女性オルガニストのマリー=マドレーヌ・シュヴァリエが、サンテティエンヌ=デュ=モン教会におけるデュリュフレの助手となる。1953年に二人は結婚し、その後に教会オルガニスト職を分かち合うようになった。1975年にマリー=マドレーヌ夫人と共に自動車事故に遭い、二人とも一命は取り留めたが演奏活動が続けられなくなる。1977年に出版された混声合唱のための《主の祈り》が、最後の公開された作品となった。1986年にパリで他界した。

デュリュフレ夫妻の記念碑デュリュフレがオルガニストを務めたサンテティエンヌ・デュ・モン教会の目の前に当たるパリ5区のパンテオン広場6番地にある住居の入口に、モーリス・デュリュフレと妻のマリー=マドレーヌ・デュリュフレの記念碑が掲げられている。

作品と演奏・録音
《レクイエム》がとりわけ有名だからといって、
デュリュフレが傑出したオルガニストであったことを忘れてよいことにはならない。
様々なオルガンのための音楽を初演しており、
プーランクの《オルガン協奏曲》のほかに、
恩師というべきヴィエルヌの《オルガン交響曲 第6番》を1935年に初演している。
録音も数多く、
自作やフォーレの《レクィエム》やプーランクの《オルガン協奏曲》以外にも、
サン=サーンスの《交響曲第3番 ハ短調》、マ
ルカントワーヌ・シャルパンティエの《クリスマスの真夜中のミサ》、
オネゲルの《ダヴィデ王》や《クリスマス・カンタータ》を録音した。
バッハのオルガン曲も録音しており、
いくつかの曲ではマリー=マドレーヌ夫人の演奏も聞くことができる。
ほかに、トゥルヌミールやヴィエルヌなどの作曲家のオルガン作品も録音した。

作品一覧
すべてデュラン社より出版されている。

《三部作》ピアノのための Tryptique 作品1 (紛失?)
《スケルツォ》オルガンのための Scherzo (1926) 作品2
《前奏曲、レチタティーヴォと変奏曲》フルート、ヴィオラとピアノのための Prelude, Recitatif et Variations (1928) 作品3
《前奏曲、アダージョと「来たれ創り主なる聖霊」によるコラール変奏曲》オルガンと男声合唱(任意)のためのPrelude, Adagio et Choral varie sur le theme du "Veni Creator" for organ and baritone choir (1930) 作品4
《組曲》オルガンのための Suite (1933) 作品5
プレリュード Prelude
シシリエンヌ Sicilienne
トッカータ Toccata
《3つの舞曲》オーケストラのための Trois Danses (1937) 作品6(ピアノ2手、4手、2台ピアノ版、オルガン版あり)
ディヴェルティスマン(嬉遊曲) Divertissement
ダンス・ラント(緩やかな踊り) Danse lente
タンブーラン(太鼓の踊り) Tambourin
《アランの名による前奏曲とフーガ》オルガンのための Prelude et Fugue sur le nom d'Alain (1940)/(1942)? 作品7
《アンダンテとスケルツォ》オーケストラのための Andante et scherzo (1940) 作品8
スケルツォ部分はOp.2からの改作
《レクイエム》 (1947) 作品9
混声四部合唱とオルガンのための版、任意でチェロを伴う
混声四部合唱と室内オーケストラのための版
混声四部合唱と大オーケストラのための版
無伴奏混声四部合唱のための《グレゴリオ聖歌による4つのモテット》Quatre Motets sur des themes gregoriens a cappella SATB chorus, (1960) 作品10,
ミサ曲《クム・ユビロ》男声合唱とオーケストラ(またはオルガン)のためのMesse "Cum Jubilo" (1966) 作品11
《ソワッソン大聖堂の 時報の鐘(ヘルプ・ファイル)の主題によるフーガ》オルガンのための Fugue sur le carillon des heures de la cathedral de Soissons (1962) 作品12
《顕現節の入祭唱への前奏曲》オルガンのための Prelude sur l'introit de l'epiphanie (1960) 作品13
《我らの父》無伴奏混声四部合唱のための Notre Pere (1976) 作品14
《瞑想》 Meditation オルガンのための(遺作、2002年デュラン社より出版)
ミサ曲「クム・ユビロ」op.11の「アニュス・デイ」の改作

未出版楽譜
《ジャン・ギャロンを称えて》和声課題集(ナクソスのオルガン曲全集にヘンリー・フェアズによるオルガン演奏での録音がある)
《シシリエンヌ》(組曲 op.5より)室内オーケストラ編曲版
バッハのカンタータBWV 22, 147のオルガン編曲
バッハの4つのコラール、オルガンとオーケストラのための編曲(1943年、シャルル・ミュンシュの指揮でシャンゼリゼ劇場にて初演、未出版)
ルイ・ヴィエルヌ《異国の夜》op.5(原曲はヴァイオリンとピアノのための)オーケストラのための編曲(アンリ・ルモワンヌ社により管理)
ルイ・ヴィエルヌ《絶望のバラード》op.61 声とオーケストラのための編曲(サラベール社により管理)
未出版楽譜に関してはデュリュフレ協会(Association Maurice Durufle, 6 Place du Pantheon, 75005 Paris)が管理している。

関連楽曲
『リタニ』(ジャン・アラン) - 『アランの名による前奏曲とフーガ』の前奏曲の終盤で、この曲が引用されている。
『デュリュフレの名による嘆き Deploration sur le nom de Durufle』(イアン・デ・マッシーニ) - デュリュフレの『組曲』や『前奏曲、レシタティーフと変奏曲』の旋律を引用し、オリジナルの旋律を加えて混声合唱と打楽器、語りのための曲に仕上げている。

参考文献
"Maurice Durufle, souvenirs et autres ecrits"(モーリス・デュリュフレ:自伝とその他の自筆文章) Frederic Blanc編 Ed. Seguier ISBN 2-84049-411-6
自伝(1976年、事故の翌年に執筆)そのものは48ページとごくわずかだが、最初が交通事故についての思い出から始まっていることが後半生に於ける悲劇を物語っている。書籍後半はデュリュフレ自身の書いた雑誌レビューや最晩年のアメリカのオルガン雑誌によるインタビューなど(ここでもまず事故の話から始まっている)。ほかにデュリュフレ自身が書いた漫画も掲載。編者のフレデリック・ブランはノートルダム・ドートゥイユ教会(パリ)のオルガニスト、およびマリー=マドレーヌ・デュリュフレの遺言により2001年よりモーリス・デュリュフレ協会の音楽監督。
その他の参考文献

Darasse, Xavier. "Maurice Durufle", in Guide de la musique d’orgue, edited by Gilles Cantagrel. Paris: Fayard, 1991: 335-337.
Ronald Ebrecht, ed. Maurice Durufle (1902-1986): The Last Impressionist. Lanham, MD: Scarecrow Press, 2002. ISBN 081084351X.
Jorg Abbing. "Maurice Durufle. Aspeckte zu Leben und Werk." Verlag Peter Ewers, 2002. ISBN 3-928243-07-1.

外部リンク
http://www.france-orgue.fr/durufle/

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1月11日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8811%E6%97%A5

できごと
604年(推古天皇11年12月5日) - 聖徳太子(厩戸皇子)が冠位十二階の制度を制定。

1172年(承安元年12月14日) - 平徳子(建礼門院徳子)が後白河法皇の養女として入内する。

1547年(天文15年12月20日) - 足利義輝が近江坂本の地で将軍に就任する。

1696年(元禄8年12月7日) -
大坂・千日前で、赤根屋半七と女舞三勝が心中。浄瑠璃『艶容女舞衣』の題材に。

1787年 - ウィリアム・ハーシェルによって天王星の2つの衛星、
チタニアおよびオベロンが発見される。

1851年 - 太平天国の乱。清国で洪秀全が率いる集団が武装蜂起。

1861年 - アラバマ州がアメリカ合衆国を脱退。

1908年 - グランド・キャニオンが国定公園となる。

1922年 - 糖尿病患者に世界初のインスリン投与。

1923年 - フランス・ベルギー軍が、
ドイツの第一次大戦賠償支払の遅延を理由にルール鉱工業地帯を占領。

1930年 - 濱口雄幸内閣が金輸出を解禁し金本位制に復帰する(金解禁)。

1930年 - 聖徳太子の肖像の新百円札が発行。

1935年 - アメリア・イアハートがハワイ・カリフォルニア間の単独飛行に成功。

1938年 - 厚生省設置。

1942年 - 日本陸軍の第五師団によってクアラルンプール占領。

1942年 - 蘭印作戦開始、日本軍がオランダ領タラカン島とメナドに侵攻する。

1962年 - 中国共産党「七千人大会」が開会、
毛沢東党主席が大躍進政策の失敗を認め自己批判する。

1964年 - ナイトクラブ「ウィスキー・ア・ゴーゴー」設立。

1973年 - 中華人民共和国に日本大使館を設置。

1978年 - ソ連の宇宙船「ソユーズ26号」「ソユーズ27号」、
軌道科学ステーション「サリュート6号」が、史上初の3つの宇宙船によるドッキング。

1991年 - リトアニア独立革命、ソビエト連邦軍がリトアニアへの軍事介入を開始。

1995年 - 4PMが歌う「上を向いて歩こう」が全米ヒットチャート10位に。

1996年 - 橋本龍太郎を第82代内閣総理大臣に指名。

1999年 - 井原鉄道井原線が開業。

2004年 - 初の2038年問題によりATMの誤作動発生。

2008年 - テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に
関する特別措置法案が衆議院の再議決により可決。

誕生日
347年 - テオドシウス1世、東西に分裂した帝国を統一した最後のローマ皇帝(+ 395年)

1359年(延文3年/正平13年12月12日) - 後円融天皇、北朝第5代天皇(+ 1393年)

1755年 - アレクサンダー・ハミルトン、弁護士・ジャーナリスト・政治家(+ 1804年)

1815年 - ジョン・A・マクドナルド、カナダ首相(+ 1891年)

1842年 - ウィリアム・ジェームズ、思想家(+ 1910年)

1853年(嘉永5年12月2日) - 東海散士、小説家、衆議院議員(+ 1922年)

1902年 - モーリス・デュリュフレ、作曲家(+ 1986年)

1905年 - マンフレッド・リー、小説家(+ 1971年)

1907年 - 山岡荘八、小説家(+ 1978年)

1907年 - ピエール・マンデス=フランス、フランス首相(+ 1982年)

1911年 - 鈴木善幸、第70代内閣総理大臣(+ 2004年)

1921年 - 谷桃子、バレリーナ

1931年 - 田口富久治、政治学者

1932年 - 石森達幸、声優

1933年 - 岡田茉莉子、女優

1933年 - 小林清志、俳優・声優

1934年 - アントニー・ホーア、計算機科学者

1936年 - エヴァ・ヘス、現代美術家(+1970年)

1936年 - 大石正彦、元プロ野球選手

1937年 - 江利チエミ、歌手(+ 1982年)

1939年 - 河原崎長一郎、俳優(+ 2003年)

1939年 - ちばてつや、漫画家

1941年 - 周防郁雄、実業家

1941年 - 大出俊、俳優

1941年 - 高橋資祐、アニメーション演出家(+ 2007年)

1943年 - 高橋良輔、アニメ監督

1948年 - 連城三紀彦、小説家

1948年 - 輪島大士、大相撲第54代横綱
1948年 - 曽根泰教、政治学者
1957年 - 氷室冴子、小説家(+ 2008年)
1957年 - 広橋公寿、元プロ野球選手
1958年 - 小野健一、声優
1961年 - 中井義則、漫画家(ゆでたまご)
1964年 - 水城まさひと、4コマ漫画家
1966年 - 西澤ヨシノリ、プロボクサー
1968年 - 内海光司、元光GENJI
1969年 - 氷上恭子、声優
1969年 - ベン・リベラ、元プロ野球選手
1970年 - 広田一成、武術選手・元俳優
1972年 - 宮下直紀、俳優
1973年 - 深津絵里、女優
1973年 - 高橋郁雄、元プロ野球選手
1975年 - 黒田哲史、元プロ野球選手
1975年 - 持田真樹、女優・歌手
1977年 - 松岡昌宏、TOKIO
1977年 - リック・ガトームソン、プロ野球選手(福岡ソフトバンクホークス)
1977年 - ニコール、歌手、作詞家、作曲家。
1978年 - 浜口京子、アマチュアレスリング
1978年 - エミール・ヘスキー、サッカー選手
1978年 - あさみちゆき、歌手
1978年 - 松井勝法、漫画家
1979年 - ミルコ・デムーロ、騎手
1979年 - 小西ゆかり、射撃選手
1979年 - 鈴木智晴、声優
1980年 - 清木場俊介(元EXILE)、歌手
1981年 - 土居龍太郎、元プロ野球選手
1982年 - ソン・イェジン、韓国女優
1982年 - デニス・コロディン、サッカー選手
1982年 - SCHON、ミュージシャン(Naifu)
1983年 - 関口まい、女優・タレント
1983年 - 栗田育美、お笑い芸人
1983年 - 小山田貴雄、プロ野球選手(東京ヤクルトスワローズ育成選手)
1983年 - スタニスラフ・ティムチェンコ、フィギュアスケート選手
1983年 - エイドリアン・スーティル、レーシングドライバー
1985年 - Rie fu、シンガーソングライター
1985年 - 中嶋一貴、レーシングドライバー
1988年 - 太田莉菜、女性タレント
1989年 - モニーク・ローズ、ファッションモデル
1989年 - 希月樹衣、タレント
1989年 - 杉浦恭平、サッカー選手
1990年 - 窪田翔太、俳優
1990年 - 八塚文香、タレント、歌手
1991年 - 中島卓也、プロ野球選手(北海道日本ハムファイターズ)
1992年 - 宮本至、愛知工業大学名電高等学校所属
1998年 - 水本凜、子役
1999年 - 梅原真子、子役
生年不明 - C.G mix、ゲーム音楽作曲家、歌手

忌日
812年 - スタウラキオス、東ローマ帝国皇帝

844年 - ミカエル1世ランガベー、東ローマ帝国皇帝

953年(天暦6年12月18日)- 平良文、平安時代の武将(* 886年)

1055年 - コンスタンティノス9世モノマコス、
東ローマ帝国マケドニア王朝皇帝(* 1000年)

1068年 - エクベルト1世、マイセン辺境伯

1271年(文永7年11月29日)- 二条良実、鎌倉時代の公卿(* 1216年)

1290年(正応2年11月29日)- 大休正念、臨済宗の僧(* 1215年)

1434年(永享5年12月1日)- 斯波義淳、室町幕府管領・守護大名(* 1397年)

1494年 - ドメニコ・ギルランダイオ、画家(* 1449年)

1570年 - ジェームズ・ステュアート (マリ伯)、スコットランド王族(* 1531年)

1660年(万治2年11月29日)- 秋田実季、初代宍戸藩主(* 1576年)

1663年(寛文2年12月2日)- 谷衛政、第2代山家藩主(* 1598年)

1666年(寛文5年12月6日)- 池田政直、初代福本藩主(* 1634年)

1672年(寛文11年12月12日)- 松平輝綱、第2代川越藩主(* 1620年)

1673年(寛文12年11月24日)- 松平定政、刈谷藩主(* 1610年)

1719年(享保3年11月21日)- 溝口重元、第5代新発田藩主(* 1680年)

1755年 - ジョゼフ=ニコラ=パンクラス・ロワイエ、作曲家(* 1705年頃)

1762年(宝暦11年12月17日)- 喜連川氏連、第7代喜連川藩主(* 1739年)

1780年(安永8年12月5日)- 南部利雄、第8代盛岡藩主(* 1724年)

1801年 - ドメニコ・チマローザ、作曲家(* 1749年)

1818年 - ヨハン・ダビット・ウィース、
「スイスのロビンソン」を著した事で知られる牧師(* 1742年?)

1829年 - フリードリヒ・シュレーゲル、思想家(* 1772年)

1843年 - フランシス・スコット・キー、
アメリカ国歌の作詞者として有名な弁護士・詩人(* 1779年)

1869年 - ジョン・ディキンソン、発明家・実業家(* 1782年)

1881年 - 田中久重、発明家・田中製作所(東芝の前身)創業者(* 1799年)

1882年 - テオドール・シュワン、生化学者(* 1810年)

1886年 - 小野梓、法学者・東京専門学校(現、早稲田大学)創立者のひとり(* 1852年)

1891年 - ジョルジュ・オスマン、
パリの都市改造を主導した事で有名なフランスの政治家(* 1809年)

1897年 - 英照皇太后、孝明天皇女御(* 1833年)

1901年 - ヴァシリー・カリンニコフ、作曲家(* 1866年)

1903年 - 奥村左近太、剣術家(* 1842年)

1911年 - 堀田正倫、第6代佐倉藩主(* 1851年)

1916年 - 高島鞆之助、枢密顧問官・元陸軍大臣(* 1844年)

1920年 - 片岡七郎、海軍大将・男爵(* 1854年)

1923年 - コンスタンティノス1世、ギリシャ国王(* 1868年)

1924年 - 髙見山酉之助、明治時代の大相撲力士・元関脇(* 1873年)

1928年 - トーマス・ハーディ、小説家(* 1840年)

1936年 - 生田長江、評論家(* 1882年)

1941年 - エマーヌエール・ラスカー、チェス選手(* 1868年)

1944年 - ガレアッツォ・チャーノ、ムッソリーニ時代のイタリア外相(* 1903年)

1952年 - 藤井健次郎、植物学者(* 1866年)

1954年 - オスカー・シュトラウス、作曲家(* 1870年)

1955年 - ジョン・マーシャル・スレイトン、元ジョージア州知事(* 1866年)

1956年 - リオネル・ファイニンガー、画家(* 1871年)

1956年 - 石田一松、演歌歌手・作詞家・作曲家・お笑いタレント・衆議院議員(* 1903年)

1958年 - エドナ・パーヴァイアンス、女優(* 1895年)

1959年 - 張景恵、満州国国務総理(* 1871年)

1966年 - アルベルト・ジャコメッティ、彫刻家(* 1901年)

1966年 - ハンネス・コーレマイネン、陸上競技選手(* 1889年)

1971年 - 喜多六平太、能役者(* 1874年)

1974年 - 山本有三、小説家(* 1887年)

1982年 - 堀越二郎、航空技術者(* 1903年)

1982年 - 松本白鸚 (初代)、歌舞伎役者(* 1910年)

1986年 - 上村一夫、漫画家(* 1940年)

1988年 - イジドール・イザーク・ラービ、物理学者(* 1898年)

1991年 - カール・アンダーソン、物理学者(* 1905年)

1991年 - 松山英太郎、俳優(* 1942年)

1992年 - 栃葉山暁輝、大相撲力士・元十両(* 1946年)

1997年 - 前田豊、バレーボール選手・指導者(* 1915年)

1998年 - クラウス・テンシュテット、指揮者(* 1926年)

1998年 - 矢代静一、脚本家(* 1927年)

2000年 - ボブ・レモン、メジャーリーグのプロ野球選手・監督(* 1920年)

2003年 - モーリス・ピアラ、映画監督(* 1925年)

2005年 - 加藤卓男、陶芸家(* 1917年)

2007年 - ドナルド・オスターブロック、天文学者(* 1924年)

2007年 - ロバート・アントン・ウィルスン、小説家(* 1932年)

2008年 - 藤倉修一、アナウンサー(* 1914年)

2008年 - エドモンド・ヒラリー、登山家(* 1919年)

2008年 - 牧野隆守、日本の元労働大臣(* 1926年)

2008年 - 小野修一、将棋棋士(* 1958年)

記念日・年中行事
鏡開き
正月に年神様に供えた鏡餅を雑煮や汁粉にして食べ、
一家の円満を願う行事。
地方によって日が違い、京都では4日に、ほかに20日に行う地方もある。

蔵開き
商家などで、新年初めて蔵を開き、
商売繁盛を祈る行事。江戸時代、大名が行った米蔵を開く儀式がその起源とされる。

成人の日(国民の祝日)---2010年、2016年、2021年など
ハッピーマンデー制度導入に伴い、
2000年から1月第2月曜日が成人の日と定められている。

塩の日
「敵に塩を送る」という言葉の語源となった戦国時代の武将、
上杉謙信と武田信玄の故事に由来する。1569年1月11日(旧暦)、
上杉謙信の助けにより武田信玄のもとに塩が届いたという。
1.11忌
小説家・山本有三の忌日。