東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年1月15日(木曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年1月15日(木曜日)

★★★
「新年」になり。
もう。
「15日」たちました。

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

今年ももうすぐに春がきて。
ひなまつりがおわり。

春分の日ももうすぐに。
「さくら咲き」
「4月」が終われば。
「5月」になり。
「5月」もおわれば。
6月に。「夏」になり。
6月も終われば。
7月 たなばた。
7月 もおわれば。
せみのなく8月。
8月の夏はすぎれば。
9月の秋になりそして9月がおわり。
中秋10月なりそして10月がおわり。
「11月」になり。
晩秋「11月」もおわり12月の「冬」。
「12月」になるのでしょう。
そしてまた「初春」がくる。

冬になる。

雪国の冬になる。
「12月」の冬至を。
すぎれば「陽」は日々たかくる。
さ来年の
「1月」「2月」は寒い雪の「冬」
もおわれば。

また来年には。
「年もあらたまり」。
「春」そして「夏」に向かうのです。

「初春」「新年」。

今現在は「冬の真っ最中」です。

けれども「昨年」12月の冬至が

おわりました。

陽は日々たかくなっているのです。

朝日ののぼるのが早くなりました。

まことに。

冬来たりなば春遠からじ。

(出 典は。

 イギリスの詩人シェリーの

『西風に寄せる歌』の一節。

英 語の原文: 

If winter comes, can spring be far behind? )

「秋」から「冬」への移り変わりは

「かけあし」

のようでした。

「9月」の初秋がおわり。
「名月中秋10月もおわり」ました。
「11月」。

「11月」もおわりました。
「12月」もおわりました。
今日は「新年」「初春」の「1月」
です。

「晩秋」から「冬」への移り変わりは
「かけあし」のようにうつろいました。

一方
「春」はゆっくりと。ゆっくりとあるいてきます。
「春」をまつのであれば。
「春」のゆっくりと歩いてくるのをまたねば
なりません。

「初春」「新年」。
平成21年になりました。

去年はおわりました。

「冬」はかけあしでやってくる。

「春」はゆっくりと歩いてくる。

さきのことすぎるかもしれないが「来年」。

このように「時」のうつろいを

心はせれば。

考えると「おそろしいもの」です。

考えなければ。
「なおおおそろしい」
ものであるものかもしれない。

「考えずにいるつけ」がまわって
くるからかもしれません。

「来年」のことを考えれば「鬼」が笑う。
「来年」のことを考えずにすむのであれば「鬼」は
笑わないのでしょう。
「鬼」とはなんだろう。

今日の深夜早朝03:15amには。
久方ぶりに大きな新年の「星空」がみえました。
早朝くらいうちは。
空に月。
「お月様」が「秋雲のじゅうたん」
天高くにねそべっている
ような「寒月」です。

06:00amころ日があければ。
まだまだくらい朝日を背に。
西のコバルトの空高く明るい。
とても高い成層圏近くの高い高度に。

西のコバルトの空高に。
「刷毛」でひいたように「絹雲(けんうん)」が
何本も何本も。
描かれて。
たなびいていました。

実に見事な筆捌(ふでさばき)です。
ためらいのない「朝焼け」
「朝焼け色」の線描です。

朝の「陽射し」ののぼるころは。

「西」の空

のほうが明るいのです。

高い成層圏近くの高い高度に。
「刷毛でひいたように」「絹雲(けんうん)」
の端には渦巻きのような「ぬけあな」があり
「さらなる遠方の青空」が透けてみえます。

さながらにして。
東山魁夷画伯の描かれた大きな壁画。
大きな屏風絵の世界。

東山魁夷画伯の描かれた大きな壁画を
彷彿とさせますです。

東山魁夷画伯。
「よくえがかけた画伯です」。

この「あおぞら」をみていると。

とても
信じられないくらいに。
元気がわいてくることに気が付きました。
「陽射し」の「めぐみ」のおかげでしょうか。

「そら一杯の青空の天井(てんじょう)」と
「太陽のひかりのひざし」は。
なによりもの「生きとし生けるもの」への。
「ごほうび」であり。

そして「太陽のひかりのひざし」は
「いのちのめぐみ」です。

ありとあらゆる「生命」「いのち」をはぐくむもの。
ありとあらゆる「生命」「いのち」をたたえるもの。
「生きとし生けるもの」の「いのち」に。
さらなる「はるかかなた」までの。
「いきるちから」をさずけるものです。

はやいものです。
ときのたつのは。
はやいものです。

そしてふと考えれば

去年も
「12か月」が
終わりました。

中秋から晩秋にうつろい。
いまや
「寒月」の「12月」がおわり。
新年の「1月」です。

病院の庭園に「何本」ある
山茶花(さざんか)や「やぶつばき」の大木が。
いずれもが紅白の花を

たんぽぽ
のように
枝にみのらせています。
まだ「はつはな」で初々しいたです。
けれども。
「やぶつばき」や山茶花(さざんか)は。
は雨に打たれると。
花は地面に紅白の毛氈(もうせん)
のように落花致します。

くれない色としろ色の積雪のようです。

山茶花(さざんか)「やぶつばき」の花の放ち。

ひろって。
手のひらにかかげれば。
「やぶつばき」の花のかおりは。
プラチナ色の香りが
致しました。

今は。
「やぶつばき」や山茶花(さざんか)が。
蕾をふくらませています。
「やぶつばき」の蕾がふくらんでいます。

山茶花(さざんか)の「はなびら」が
闇夜のあいだに。
今朝の早朝まだ「花」にもきがつかぬうちに
また地に舞い下りていました。

山茶花(さざんか)の花ひとつさいて
夜の木枯らしでちったようです。

みつめれば。
木枯らしに弓射られた白鷺(しらさぎ)
のはねが舞っているようでした。

この寒い冬も。
「昆虫」の少ない時期に。
「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」
は花をさかせ
どのように授粉して「実る」のだろう。

山茶花(さざんか)の花ひとつさいて
夜の木枯らしでちる。
「やぶつばき」も「花」はすぐに
落下する。
このあたりに。

山茶花(さざんか)と「やぶつばき」
の「人生」の「解答」があるような
気が致します。

ふと野草の花は一般的には。
香らない花が多いことに気づきました。

伊藤左千夫の「野菊の墓」の「野菊」は。
矢車菊 (やぐるまぎく)
はとても綺麗なむらさきの「のぎく」です。
けれども「のぎく」は香りません。
(Corn lower, Bachelor's-button)です。

因みに
最高級の(今はもうとれない)
インド・カシミール地方で産出されたの
サフアイアの色は「矢車菊色」=
「カシミール・ヴァイオレット」。

麦畑やとうもろこし畑の中に 咲いていたことから。
「コーン・フラワー」=「野菊」(Corn lower)
です。

別名 「矢車草(やぐるまそう)」
といわれることがあります。

実は「矢車菊 (やぐるまぎく)」と
「矢車草(やぐるまそう)」まったく違う植物。
矢車菊 (やぐるまぎく)が「野菊」。
「矢車草(やぐるまそう)」は「高山植物」。

「野菊」は春から夏にかけて咲くむらさきの花です。

古代エジプトのツタンカーメン王の墓 からも
発見された由緒正しき「野菊」で色は紫です。

ツタンカーメン王の。

まだ幼な子王妃が。

「亡きツタンカーメンンにささげるけなげな姿」
が鮮烈に眼に浮かぶ。

この「花」が。

「野菊」です。

「野菊の墓」の「野菊」。

けれども「野菊」は香りません

毎朝暗い早朝と暗くなる午後4時ころには。
「木枯らし」が
鳴いている。

木枯らしがかわりばんこに。
あちこちで
「ろうろう」「こうこう」とないています。

「木枯らし」の「声」を聞いていると。

ふと。
いにしえの
「寒さにおびえるひと」の気配が
脳裏をはしりました。
はてだれだろう。

うら若き乙女。
苦労に苦労をかさねて。
苦しんで苦しんだあげくに。
24歳にして世を去った
「樋口一葉」。

樋口一葉の
「うらわかき」「冬の短歌」がきこえるようです。

散たまるふもとの落葉わけて思ふ
埋もれぬべき雪の山里

ちりたまるふもとのおちはわけておもふ
うもれぬへきはゆきのやまさと

庭の面につもる紅葉の色見れば
散りての後もにしきなりけり

にわのおもにつもるもみしのいろみれば
ちりてのあともにしきなりけり

世の中の秋にあはじとおくれけん
一もと野ぎく思ひあがりて

よのなかにあきにあはしとおくれけん
ひともとのきくおもひあがりて

ちりたまるふもとのおちはわけておもふ

うもれぬへきはゆきのやまさと

にわのおもにつもるもみしのいろみれば

ちりてのあともにしきなりけり

よのなかにあきにあはしとおくれけん

ひともとのきくおもひあがりて

「24歳」の「とても貧しい乙女」の。

かなしさの「おもかげ」と。

光さし輝きはずむお若い「御婦人」の「知」が。

「ひしひし」とよみとれます。

「冬至」はすでにすぎました

これからは日は。
陽は次第にながくなる。
日が長くなる。
朝は明けるのは早くなり。
夕に暗くなるのは遅くなる。

しだいに陽がながくなる。
なぜか。
不思議なやさしさ。
やすらぎと。
心やすらかなる
安堵感をかんじます。

心やすらかなる
安堵感をかんじます。

けれども。
「安堵」と「落胆」は。
常に表裏一体。
両羽(もろば)の剣。

「ぬかよろこび」の「ぬか」のような
ものです。

「ながくなる陽」も両羽(もろば)の剣を
持っています。

そして。
季節には「大気の音」があるようです。

朝空は
陽ははるかに天高く。
空色はミルク色です。
クリームのかかった雲空です。

東京都世田谷区山本クリニックの庭園には

「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。

「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。

「やぶつばき」の大木が4本と山茶花(さざんか)が4本
あります。

「初春」をつたえるがごとく。
「においつばき」の木が
「香り花」が開花致しました。

「山茶花(さざんか)」と「やぶつばき」が
蕾を大きくしています。

山茶花(さざんか)も「やぶつばき」も私は「大好き」
な花木です。

「花」はみえない頃からもう
「においつばき」
は「香っています」。
「やぶつばき」は冬にも若葉をだします。
「やぶつばき」は「荒い木」
です。
けれども「生き様」は。
樹木として
とてもとても麗しいと思います。
ある意味では威風堂々です。

「山茶花(さざんか)」は
のんびりやの気がする。

山茶花(さざんか)の「花」はさいたまま
「花がさいた」を忘れたかのように
ぼんやりと木にのっている。
いつ花が散るのだろう。
ふと考えるまえにちります。

考えれば山茶花(さざんか)の蕾が
思い出せない。
ひらけばちるからかしら。
花の咲く存在感のない植物は
「山茶花(さざんか)」です。
うすぼんやりした花木です。
水墨画の主人公にはなりえない。

この「1月」時期になり。
森山を分け入ると。

木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花の花のごとくに紅葉したまま
しもがれする
「やまはぜの葉木」が「大好き」です。

「やまうるしの紅葉」もかわいらしく。
「大好き」です。

身の丈以上ほどにもなって群生する。
野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
が。
病院の林の一角に野生のまま
おいしげっています。

野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
のパープルの真珠が群れたように実る
「実りの木の実」の風にそよぐ音色には。
おどろかされます。

あけびつたもうれしい。
あけびの「実」がみつかればなおなおうれしい。

またたびをみつけました。
根元にねこにかじられきずがある。

里山の冬の時期から。
そして初春の里山の季節
になりました。

四季の歩みの春夏秋冬のうつろいは
メトロノームの「あゆみ」を
感じさせます。

この「あゆみ」の「質量」は
とてもとても高いです。
質量があれば。あたかも。
重力のように。
四季のリズムにひきよせられていく。
そのような感じがします。

四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいてなお着々。
確実な「リズム」を感じます。

ここに。
「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
がくわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じです。

草花や草木につつまれた自然は。
「音楽」と同じように
ひびきとして聴こえます。

自然は
「しぜん」の
「ヴィルトオーゾ」と
「ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」
*です。

この「自然のフイルハーモニウム」の。
指揮者は。
太陽なのか大地なのか人なのか。

或は音色をかもし出す自然はオーケストラ
であるのか。
ソリストなのだろうか。

私の尊敬する「合衆国USA」の
女性で小説家(「ノーベル賞受賞者」)
「パール・サイデンストリッカー・バック
(Pearl Sydenstricker Buck)
中国名、賽珍珠(サィ・チンシュ)」
パールバックの「大地」に
その「こたえ」が示唆されています。

古代より芸術家が
自然を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判ります。

*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。

実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。

但し音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる「成分」というわけ
ではありません。

また「音楽であるため」に。
三要素が絶対必要ということ
でもないでしょう。

邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。

「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。

邦楽もその一つです。

大和の国 やまとのくにの自然は。
「大和の国の音楽」と同じように思えます。
聴こえます。

「音楽」は「音」「おと」です。
そして「しらべ」=メロディとハーモニーです。
人類が「この音楽」を「楽譜」として
「寸分たがわず」「譜面」という名の「紙」に
「かくことを完成させた」ということは
大変なことです。

人間は。
人類は。
わずか「400年」で。

「音楽の旋律」に対する「楽譜」を。
「あらたな言語」を
完全に「完成」させたことになります。

まさにミューズの神の「神業かみわざ」です。

木々のめぶきの
冬なおも。
ますます力強い息吹を感じます。

「真夏」をすぎ「冬」になると。
再び「若葉」がみられることに。
きづきました。
「ため息」がでるほど木々の「冬若葉」の
「つどい」は「つよく」「うつくしい」。
雪の上のみどり。

木々のてっぺんは萌黄色から
「ふかみどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「冬を迎えた葉束」になりました。
これからは
「深まる冬」がすぎさり「春」。
「開花」の炎が。
樹木の上方で。
「雪の到来」を.
くすぶりてまちわびてています。
たえしのぶ冬の樹木です。

「若葉」の「新緑」から「深緑」です。

高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり冬のおとずれを
伝えていました。

桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうともいえる青葉。
そして見え隠れする「紅葉葉」。
紅葉葉の10枚20枚がひとつひとつ
の樹木にみえるようになりました。
「黄色調」です。
そして今「樹木」は「葉のいろ」をかえ
「宙」に舞おうとしています。
今現在は冬。
はだか木です

明らかなる。
「冬から春」とはことなる。
「夏から秋」。
「秋から冬」
そして「冬」の「木枯らし」。

木々の四季の。
大気の「色」のうつろい
に気づきます。

今は里山(さとやま)をさまよい。
今は里山(さとやま)をあるきたい。
今は里山(さとやま)の季節。
今は昔々里山(さとやま)であそび。
今は昔々て里山(さとやま)でおぼえ。
今は昔々里山(さとやま)でまなんだ。
今は昔々のその日々の思い出は。
今は黄金(こがね)か。あるいは。
今は銀か。いぶし銀か。
今はもしかしたらプラチナか。
今は思い出色は鉛のように。
今は重さは鉛のようになり。
今は心の奥深くに埋もれて感じられます。

「幸せ色」=「しあわせいろ」

ならばよいです。

けれども
早朝は非常に寒くなりました。

冬やま中さまよいて
冬やま中をわけいらば
冬やま中大樹の根元に隠れたり
冬やま中あけぼの色のちひさき炎(ほのほ)
冬やま中みつけたりやまの秋の華。
冬やま中やまの秋葉木のかくれんぼ
冬やま中大樹の根元に隠れたり
冬山はぜの葉木。
冬やま中やまうるしの葉木。
冬やま中あきやまはぜとふるやまうるし。
冬こす「はだか木」。
冬こす元気な木。たくましき木。

冬山萩(やまはぎ)の
冬花をかくして燃えたたむ
冬に実りの祭りなり
冬山はぜの葉炎
冬天高く燃ゆ

ふゆやまはぎの
ふゆはなをかくしてもえたたむ
ふゆにみのりのまつりなり
ふゆやまはせのほのほ
ふゆてんたかくもゆ

ふゆひろくなりけり空(そら)たかし
ふゆさとやまに木々のみどり木
ふゆこもれびうけて燃えるがごとし
ふゆみどりの炎(ほのほ)
ふゆほのほうちけさむかすみはあおし
ふゆほのほにかすみにただよひて
ふゆうるわしくかがやきたり
ふゆあたたかくかおりたり
ふゆあざやかなりけり 
ふゆやまさとのやまみどり
ふゆやまさとのふかみどり

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。

多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。

「大きな夏みつけた」
から
「夏がすぎてて真秋間近い」

「小さな秋みつけた・。」

そして
「小さな冬みつけた」
そして
「大きな冬みつけた」。
今は「冬」

もうすぐ「小さい春」がみつかるでしょう。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

++++++++++++++++++++++

東京都世田谷区山本クリニックは
平成20年12月30日(火曜日)
まで診療を行います。
来年は。
平成21年1月5日(月曜日)から
診療を行います。

冬季休診は12月31日(火曜日)から
平成21年1月4日(日曜日)までです。

+++++++++++++++++++++

平成21年01月12日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年2月11日(水曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらず
インフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は。
私が大変興味をもっている。
ロシアの「御婦人」の数学者。

12歳で三角関数の体系を「自分」で
つくりあげてしまい「パスカルの再来」といわれた
ロシアの「御婦人」の数学者。

欧州で
「3人目の「御婦人」の大学教授」
(*1番目・2番目ともイタリア人)
になられたロシアの「御婦人」の数学者。

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーに
片思いをしてフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
の好きなルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの
「悲愴ソナタ」の練習までしたが。
彼女の「お姉さま」のほうに。
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
が気がむいてしまい失意した「御婦人」の数学者。

逆に「ノーベル賞」の由来者の
アルフレッド・ノーベルに「好きになられ」
「御婦人」の数学者のほうは今度は逆には興味を示さず*。

「御婦人」の数学者の「連れ合い」に嫉妬した
アルフレッド・ノーベルが。
「ノーベル賞」から「数学」を
ぬいてしまったという「御婦人」の数学者。

(アルフレッド・ノーベルに
この「御婦人」の数学者が興味を
ひいていたら確実に「ノーベル賞」を
受賞していたと思われる)

(*当初は「ノーベル賞」に「音楽部門」があり
ヨセフ・スク:Josef Sukが
「金メダル」を「総なめ」しています。)

1850年 - ソフィア・コワレフスカヤ、数学者(+ 1891年)
の生誕日です。
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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ
(Софья Васильевна Ковалевская,
Sofja Vasiljevna Koval'evskaja,
1850年1月15日(ユリウス暦1月3日)モスクワ -
1891年2月10日(ユリウス暦1月29日)ストックホルム)
はロシアの数学者です。

愛称はソーニャです。
コワレフスカヤはコヴァレフスカヤとも訳されます。

ロシアでは初めてで。
またヨーロッパを含めても3番目に大学教授の地位を得た
女性です。
ちなみに
1番目はラウラ・バッシ、
2番目はマリア・アニェージ(Maria Gaetana Agnesi)で、
いずれもイタリア人です。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskaja
は。
幼少期のソフィアが数学に関心を持つようになったきっかけは
父と叔父によってたわいもない理由で与えられました。

父は家の子供部屋の壁紙が足りなくなったときに。
軍隊で微積分学を学んでいたころに使った
オストログラズキー(Mikhail Vasilievich Ostrogradsky)
の教科書を破いて貼り付けておいたのです。

ソフィアは数学記号を眺めながら成長することになりました。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskaja

また叔父ピョートル・ヴァシリエヴィチ・クルコフスキーが
独学で数学を研究したアマチュア数学者でした。

ソフィアはこの変わり者の叔父に憧れていました。

彼から数学を教わり。
子供のころから不思議に思っていた
記号の意味を理解して関心を深めました。

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当時のロシアでは。

どれだけ才能があっても
女性は大学に入れなかったのです。

(以下に見るように彼女が功績を成し遂げたのも、
それを評価したのも
ほとんどが外国においてのことであるのは
そのためです)

ソフィアの父は彼女に数学の勉強をやめさせてしまいました。
そのため彼女は家族が寝静まった夜中に。

借りてきた代数学の本などをこっそりと読んでいたという
ことです。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskaja
が。
ソフィアが12歳のとき、。

近所に住んでいた物理学の教授が
光学に関する本を彼女に与えたところ。

当時まだ三角関数を知らなかったソフィアは
自力でそれを解釈しようとしました。

彼女は三角関数が数学の歴史において展開されてきたのと
同じ方法でそれについて説明してみせました。

心底仰天した教授は彼女を「パスカルの再来」とまで呼び。
家庭教師をつけて数学の研究を続けさせてやれと彼女の父に嘆願
致しました。
さすがに父も折れました。

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当時のロシア人女性は
国内で高等教育を受けることができませんでした。

また夫や父親の許可証なしに家族と別居して。
外国へ行くこともできなかったのです。

そのためドイツやフランスの大学へ留学することに
憧れていた上流階級の進歩的な女性たちの間では。
やむをえず偽装結婚する者が多かったのです。
父から許しを貰えるとは考えられなかったので
ソーニャも同じ手段をとることにしました。

1868年、若き地質学・古生物学者
ウラジミール・コワレフスキーと契約結婚致しました。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskaja
ヨーロッパの大学へ。

1869年、コワレフスカヤは
ハイデルベルク大学へ出発致しました。

ここでも女性の入学は
受け付けていないということを知らされました。

何とか大学当局へ食い下がり講師の許可を得た上で
非公式の聴講生として受講する許しを得ました。

レオ・ケーニヒスベルガー(Leo Königsberger)の
下で楕円関数を学びました。

他にグスターブ・キルヒホッフ、
ヘルマン・フォン・ヘルムホルツらの
物理学の講義も受け
(受講はしていないが
ローベルト・ブンゼンとも知遇を得ています)、

3学期間を優秀な成績で修了致しました。

彼らはみな当時珍しかった
女性数学研究者の才能に賛嘆致しました。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskaja
は。

直接指導に当たったケーニヒスベルガーは。
自分の師である
カール・ワイエルシュトラスに対する
尊敬の念をつねづね語っていたので。

コワレフスカヤはワイエルシュトラスの下で
学ぶ決意を固めました。

1871年にベルリン大学へ向かいました。

ワイエルシュトラスははじめはコワレフスカヤの弟子入りを
断固断ろうと決意しておりました。

よってテストを兼ねて破天荒に難しい問題を出したところ。
彼女が難なく解いたのを見てその才能を知り仰天致しました。

以後ワイエルシュトラスはコワレフスカヤが
早すぎる死を迎えるまで。

公私にわたる指導者・協力者となりました。

ワイエルシュトラスは。
彼女を自分の講義に迎え入れようと致しました。

しかしここでも
女性であるがゆえに大学評議員会から拒否されたため。
コワレフスカヤの家庭教師として、
4年間にわたって個人的な薫陶を授けました。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskaja

全盛期の業績
1874年、ゲッティンゲン大学から
コワレフスカヤ「の3つの論文」
に対し数学の学位が与えられました。

これらの論文のテーマは。
「偏微分方程式についての理論」
「(それを適用した)土星の環の形についての研究」
「アーベル関数についての研究」でした。

特に『クレレ・ジャーナル』(Crelle's Journal)
に発表された偏微分方程式についての研究は。

初期値問題の解が1つであることを示したものです。

現在では
「コーシー=コワレフスカヤの定理」
(Cauchy-Kovalevskaya theorem)として
知られています

(コーシーが特異解を。
コワレフスカヤが一般解を与えて理論を完成させました)。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskaja
は。

同年に彼女はロシアへ戻りました。
この学位とワイエルシュトラスの強い推挙により
数学者としての名声は知れ渡っていたにもかかわらず。

やはりサンクトペテルブルク大学で
職を得ることはできません。

声が掛かった中で最もまともな職は

「小学校の算数の先生」であったということです。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskajaは。

落胆の上に父の死なども重なったため。

コワレフスカヤは気晴らしのため社交界デビューしたり
文学に手を染めたりなどして
(コワレフスカヤの文才については「その他」を参照)
以後6年間にわたり数学からは手を引くこととなりました。
ワイエルシュトラスとの交友も途絶えました。

容姿が優れていたため社交界では有名になりました。

1878年に娘を産まれて周りが静かになったのを
きっかけにして再び数学への情熱が目覚めました。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskajaは。

1880年コワレフスカヤはモスクワへ行きました。
大学で博士号試験を受けることは認められませんでした。

翌年教授職を得るため彼女はモスクワを去り。

ワイエルシュトラスを頼ってベルリンとパリへ向かいました。

モスクワを去ったのには。

事業に失敗して以降彼女と意見の合わなくなっていた
夫との別居という意味も含まれていました。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskaja
は。

1882年から彼女は結晶体における
光の屈折に関する研究に打ち込みました。

そして「3本の論文」を執筆致しました。

(ただし、この論文が依拠していた
ガブリエル・ラメ(Gabriel Lamé)の
研究に含まれているのと
同じ誤りをおかしていることが。
1916年ヴィット・ヴォルテラによって
指摘されました)。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskajaは。

1883年3月パリ滞在時に夫コワレフスキーが自殺致しました。

ショックを受けた彼女は。
引きこもり、拒食失神、目を覚ますと同時に手元のノートに
数式を書きなぐるという荒んだ生活を続けることになりました。
同年の秋には立ち直りました。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskaja
は。

1884年秋、ミッタク=レフラー
(スウェーデンの数学者。コワレフスカヤと同じく
ワイエルシュトラスの弟子で、彼の伝記も書きました。

関数論、楕円関数論、アーベル関数論など。
当時ストックホルム大学の学長だった)
の招聘により。

ついにストックホルム大学の非常勤講師の地位を得ました。

のち1889年にはロシア人女性としては初の大学教授になりました。

ストックホルムは彼女の終生の地となりました。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskaja
は。
終生の地となるストックホルムで教授職を務める一方。

アーベル関数についての新しい理論を適用することにより。
論文『固定点をめぐる剛体の回転について』を完成させました。

1888年にこの研究論文に対して
パリの科学アカデミーからボルダン賞が与えられました。

この論文の重要性は
極めて貴重であり疑いようもないものだったのです。

賞金が当初予定されていた
3000フランから5000フランに増額され授与されました。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskaja
じは。

1889年、この分野における第2の研究成果によって
スウェーデン科学アカデミー賞を受賞致しました。

また同年、チェビシェフらの推挙によって
コワレフスカヤはサンクトペテルブルグ科学アカデミー初の
女性メンバーになりました。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskaja

その他
コワレフスカヤは。
フョードル・ドストエフスキーと知り合って
彼に淡い恋心を抱きました。

注意を引くためにドストエフスキーが好きな
ベートーベンのピアノ・ソナタ「悲愴」の練習までしたが、
ドストエフスキーは姉のアンナにしか関心をもたなかったのです。

1956年と1985年にはソ連でコワレフスカヤの
伝記映画が作られています。

ノーベル賞に数学賞がないのは、
コワレフスカヤに振られたノーベルが。
彼女と親しいミッタク=レフラー
(ノーベル数学賞があったら受賞していたかもしれない)
に嫉妬したためではないかと考えられています。

晩年には幼少期の思い出をつづった
自伝的小説を執筆しており
(ミッタク=レフラーの妹で友人の
文学者アン・シャロット・レフラーが執筆協力)。

ロシアやスウェーデンをはじめとして
世界各国で極めて高い評価を受けています。

日本では野上彌生子による翻訳があります。
(『ソーニャ・コヴァレフスカヤ—自伝と追想』岩波文庫)。
他に小説と戯曲が一篇ずつ残されている。
トマス・ピンチョンが現在執筆中(?)
の最新作はコワレフスカヤを題材にしたものだと噂されています。

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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ:
Sofja Sofja Vasiljevna Koval'evskaja
は。

1891年、コワレフスカヤはストックホルムで
インフルエンザと肺炎を併発し。
41歳の若さで没しました。

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1850年 - ソフィア・コワレフスカヤ、数学者(+ 1891年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AF%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%A4

ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ(Софья Васильевна Ковалевская, Sofja Vasiljevna Koval'evskaja, 1850年1月15日(ユリウス暦1月3日)モスクワ - 1891年2月10日(ユリウス暦1月29日)ストックホルム)はロシアの数学者。愛称はソーニャ、コワレフスカヤはコヴァレフスカヤとも訳される。ロシアでは初めて、ヨーロッパを含めても3番目に大学教授の地位を得た女性である。ちなみに1番目はラウラ・バッシ、2番目はマリア・アニェージ(Maria Gaetana Agnesi)で、いずれもイタリア人である。

目次
1 家族
2 幼少期
3 ヨーロッパの大学へ
4 全盛期の業績
5 その他

家族
1850年、モスクワで生まれる。父はポーランド系の砲兵隊将校(のちに将軍)ヴァシーリイ・ヴァシリエヴィチ・クルコフスキ(Wasilij Wasiljewicz Krukowski, 1800年 - 1874年)で、ハンガリー王マーチャーシュ(マティアス・コルヴィヌス)の遠い子孫である。1858年、ロシア政府当局は彼に貴族としての地位を認め、姓をコルヴィン=クリュコフスキー(Korvin-Krjukovskij)として家名に「Korvin」(ラテン語のCorvus(カラス)に由来するクルコフスキ家の紋章)を付け加えることを許可した。ちなみにポーランド名クルコフスキもポーランド語のkruk(カラス)が語源である。

母親エリザヴェータ・フョードロヴナ・シューベルトはドイツ人で、その父はアカデミー会員フョードル・フョードロヴィチ・シューベルト、祖父はテオドール・シューベルト(別名フョードル・イヴァノヴィッチ・シューベルト、サンクトペテルブルク科学アカデミーの数学者・天文学者)であり、夫よりも教養豊かな女性であった。

ソフィアは父方の祖父がポーランド人だったこともあり、19世紀当時ロシアに制圧されていたポーランドの革命運動に対しては、他のロシア人に比べて深い理解を持っていた。

1956年と1985年にはソ連でコワレフスカヤの伝記映画が作られている。

ノーベル賞に数学賞がないのは、
コワレフスカヤに振られたノーベルが、
彼女と親しいミッタク=レフラー
(ノーベル数学賞があったら受賞していたかもしれない)
に嫉妬したためではないかという俗説がある。

晩年には幼少期の思い出をつづった
自伝的小説を執筆しており
(ミッタク=レフラーの妹で友人の文学者アン・シャロット・レフラーが執筆協力)、
ロシアやスウェーデンをはじめとして
世界各国で極めて高い評価を受けている。
日本では野上彌生子による翻訳がある
(『ソーニャ・コヴァレフスカヤ—自伝と追想』岩波文庫)。
他に小説と戯曲が一篇ずつ残されている。
トマス・ピンチョンが現在執筆中(?)の最新作はコワレフスカヤを題材にしたものだと噂されている。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AF%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%A4" より作成
カテゴリ: ロシアの数学者 | 19世紀の数学者 | 数学に関する記事 | 1850年生 | 1891年没

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++

1月15日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8815%E6%97%A5

できごと
1181年(治承4年12月28日) - 南都焼討。平重衡らが東大寺・興福寺を焼き払う。

1759年 - 大英博物館が一般向けに開館。

1868年 - 明治天皇が17歳で元服。

1873年 - 学制に基づいた日本で最初の小学校、
東京師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)設立。

1874年 - 初代警視総監を薩摩藩出身の川路利良とし東京警視庁を創設。

1919年 - ドイツ革命後のベルリンでドイツ共産党の武装蜂起が失敗。

1926年 - 京都学連事件で初めて治安維持法が適用。

1936年 - ロンドン海軍軍縮会議から日本が脱退。

1939年 - 新橋駅〜渋谷駅間で地下鉄が全通。

1939年 - 横綱双葉山、安藝ノ海に敗れ69連勝でストップ。

1940年 - 静岡市で大火災が発生し、6500戸あまりが消失。

1943年 - ペンタゴンが完成。

1947年 - ロサンゼルスでブラック・ダリア事件起こる。

1948年 - 乳幼児虐待と配給物資の粉ミルクなどの横領容疑で
寿産院の経営者夫妻を逮捕(寿産院事件)

1966年 - 常磐ハワイアンセンターがオープン。

1969年 - 高隈事件が発生。

1971年 - ナイル川上流にアスワン・ハイ・ダムが完成。

1982年 - 広島市の電話市外局番が3桁化され「082」となる。

1993年 - 北海道釧路沖地震

2001年 - ウィキペディア英語版が発足。

2002年 - 三和銀行と東海銀行が合併し、UFJ銀行が誕生。

2005年 - ドラマごくせんの第2シリーズ放送開始。

2007年 - 日本の動画共有サイトニコニコ動画がサービス開始。

誕生日
1481年(文明12年12月15日) - 足利義澄、室町幕府第11代将軍(+ 1511年)

1539年(天文7年12月25日) - 前田利家、武将、五大老(+ 1599年)

1622年 - モリエール、劇作家(+ 1673年)

1744年 - エベニーザー・ハザード、第3代アメリカ合衆国郵政長官(+ 1817年)

1759年(宝暦8年12月27日) - 松平定信、江戸幕府の老中・白河藩主(+ 1829年)

1791年 - フランツ・グリルパルツァー、劇作家(+ 1872年)

1809年 - プルードン、アナーキスト(+ 1865年)

1826年(文政8年12月8日) - 箕作秋坪、蘭学者(+ 1886年)

1850年 - ソフィア・コワレフスカヤ、数学者(+ 1891年)

1892年 - 西條八十、詩人・仏文学者(+ 1970年)

1895年 - 重政庸徳、政治家(+ 1977年)

1908年 - エドワード・テラー、核物理学者(+ 2003年)

1918年 - ガマル・アブデル・ナセル、エジプトの初代大統領(+ 1970年)

1923年 - 李登輝、台湾の政治家

1924年 - 後藤次男、元プロ野球選手

1929年 - マーティン・ルーサー・キング、公民権運動指導者(+ 1968年)

1929年 - 久保亘、政治家(+ 2003年)

1932年 - 今江祥智、児童文学作家

1937年 - コシノヒロコ、ファッションデザイナー

1938年 - 冨士眞奈美、女優

1938年 - 益田昭雄、元プロ野球選手

1940年 - 大野しげひさ、俳優、司会者

1941年 - 高橋元太郎、俳優

1942年 - 岡本おさみ、作詞家

1943年 - 樹木希林、女優

1948年 - 宮本悦朗、歌手

1950年 - 森田芳光、映画監督
1951年 - 井口成人、俳優・声優
1952年 - 森田童子、シンガーソングライター
1953年 - 西久保瑞穂、アニメーション監督
1954年 - 大石友好、元プロ野球選手
1955年 - 田中真弓、声優
1956年 - 藤村美樹、キャンディーズメンバー
1957年 - 川三番地、漫画家
1958年 - 宮崎緑、ジャーナリスト
1962年 - 石原良純、俳優・気象予報士
1962年 - パスカル・ネミロフスキ、ピアニスト
1964年 - 源五郎丸洋、元プロ野球選手
1970年 - シェイン・マクマホン、WWEのプロレスラー
1973年 - 松下美智子、実業家(tout Soleil創業者)、ネイリスト
1973年 - オーレリー・デュポン、バレエダンサー
1973年 - クリストファー・カンバーランド、元プロ野球選手
1974年 - 小磯典子、バスケットボール選手
1975年 - マリー・ピエルス、プロテニス選手
1978年 - 村井守、銀杏BOYZ
1980年 - マット・ホリデー、メジャーリーガー
1982年 - 栗羽美来、タレント・モデル
1982年 - ベンジャミン・アゴスト、フィギュアスケート選手
1985年 - 寧々、AV女優
1985年 - 鈴木誠、プロ野球選手
1985年 - 藤原紘通、プロ野球選手
1989年 - キーファー・ハベル、フィギュアスケート選手
1990年 - 三浦葵、ファッションモデル、女優
1991年 - 村上大介、フィギアスケート選手
1992年 - 高橋成美、フィギアスケート選手
1993年 - 鎌田篤、子役
1995年 - アンダーソン・ケイシー、ジャニーズJr.

忌日
69年 - ガルバ、ローマ皇帝(* 紀元前3年)

1455年 - 上杉憲忠、関東管領(* 1433年)

1595年 - ムラト3世、オスマン帝国第12代スルタン(* 1546年)

1643年 - 立花宗茂、初代柳河藩主(* 1567年)

1754年 - 蜂須賀至央、第9代徳島藩主(* 1737年)

1775年 - ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ、作曲家(* 1698年頃)

1781年 - マリアナ・ビクトリア・デ・ボルボーン、
ポルトガル王ジョゼ1世の妃(* 1714年)

1835年 - テレーズ・カバリュス、フランスの貴族(* 1773年)

1855年 - アンリ・ブラコノー、化学者・薬剤師(* 1780年)

1861年 - ヘンリー・ヒュースケン、駐日アメリカ総領事館の通訳(* 1832年)

1869年 - 土井利忠、第7代大野藩主(* 1811年)

1890年 - 宮地常磐、潮江天満宮神主(* 1819年)

1895年 - 有栖川宮熾仁親王、日本の皇族(* 1835年)

1919年 - ジェローム・E・コッジャ、天文学者(* 1849年)

1919年 - カール・リープクネヒト、社会民主主義思想家(* 1871年)

1919年 - ローザ・ルクセンブルク、革命家(* 1871年)

1926年 - 小栗風葉、小説家(* 1875年)

1934年 - ヘルマン・バール、小説家・劇作家・評論家(* 1863年)

1943年 - 田渕豊吉、衆議院議員(* 1882年)

1944年 - 野口遵、実業家・日窒コンツェルン創業者(* 1873年)

1948年 - アンリ・デランドル、天文学者(* 1853年)

1949年 - 陸徴祥、中華民国の外交官・第2代内閣総理(* 1871年)

1950年 - ヘンリー・アーノルド、アメリカ空軍元帥(* 1886年)

1955年 - イヴ・タンギー、画家(* 1900年)

1958年 - 湯浅禎夫、プロ野球選手・監督(* 1902年)

1964年 - ジャック・ティーガーデン、ジャズトロンボーン奏者(* 1905年)

1968年 - レオポルト・インフェルト、物理学者(* 1898年)

1970年 - 謝雪紅、台湾民主自治同盟初代主席(* 1901年)

1972年 - エアハルト・ミルヒ、元ドイツ空軍元帥(* 1892年)

1976年 - 仮谷忠男、建設大臣(* 1913年)

1983年 - マイヤー・ランスキー、ギャング(* 1902年)

1994年 - ハリー・ニルソン、ソングライター・歌手(* 1941年)

2005年 - ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス、ソプラノ歌手(* 1923年)

2006年 - 舟橋和郎、脚本家(* 1919年)

2006年 - ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハ、クウェートのアミール(* 1926年)

2007年 - 薄一波、元中華人民共和国国務院副総理(* 1908年)

2007年 - アワド・ハミド・バンダル、元イラク革命裁判所長官(* 1945年)

2007年 - バルザーン・イブラーヒーム・ハサン、元イラク大統領顧問(* 1951年)

2008年 - 田口とし雄、日本中央競馬会理事(* 1926年)

2008年 - 青山五郎、実業家・青山商事創業者(* 1930年)

2008年 - ブラッド・レンフロ、俳優(* 1982年)

記念日・年中行事
元成人の日(1948年 - 1999年)
国民の祝日の一つ。祝日法の改正により、
2000年からは1月の第2月曜日となり、
現在の法律ではこの日には巡ってこなくなっている。

小正月
1月1日の大正月に対し、今日1月15日を中心にした数日を言う。
農耕に関する予祝をしたり、
なまはげなどの行事を行って病気や厄災を払う地方もある。

上元
左義長

警視庁創立の日(日本)
1874年1月15日に東京警視庁(現在の警視庁)が創設されたことに由来。

ウィキペディアの日
2001年1月15日にウィキペディア英語版が発足したことから。

いちごの日
全国いちご消費拡大協議会が
「いいいちご」の語呂合わせで記念日として定めている。

半襟の日
京都半衿風呂式和装卸協同組合が制定。
襟を正す正月であり、
この日がかつて「成人の日」であったことから、
和装に縁のあるこの日を記念日とした。