東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年1月20日(火曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年1月20日(火曜日)

平成21年の「1月」も「20日」たちました。
あと「11日」で最後の「冬」「2月」です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

「昨年」
「9月」がおわわりました。
「10月」も終わりました。
「11月」もおわり。
「12月」で「冬」になりました。
「12月」がおわり。
「昨年」はおわりました。
今は
「新年」「初春」です。

「冬」も「年」を越しました。
「中冬」です。

「新年」「初春」の。
「冬」はしずかに。
しずかに。しずかに。

能の舞(のうのまい)の。
「おきなのあゆみ」のように。
そそとした「冬舞台」の上を。
さらにふかまりつつ冬の景色の舞台の上を。

あゆみつつあります。
「冬」から「春」にむかっています。

「新年」「初春」です。

暗い朝の早朝に。
南の天に「明けの明星」が
輝いています。
闇夜の天高いかがやく惑星。

「明けの明星」金星に。
毎日「おはよう」のあいさつを
します。

「新年」「初春」
早朝に。

はるか暗い早朝に「こおろぎ」の
かすかな。ひとりぼっちの。
鳴き声がきこえたような気が致しました。

けれどもそれは。

木枯らしの声。

毎朝の暗いうちの木枯らしの「音色」は。
毎日違います。

「ろうろう」「こうこう」

耳をすませば。
木枯らしの鳴き声は。
「ソロ」から次第に「合唱」に
なっていました。

そしてオーケストラの楽器の配列のように。
一風一かぜの
「木枯らし」の鳴いている場所がわかるように。
なってきました。

木枯らしも
「もっと深冬(ふかふゆ)」。
そして「もっと深い冬の先」
「の季節にむけての。

ころもがえやひっこしをしている
ことがわかります。

「木枯らし」は。

「鳥」のように。

木々の上から電線のうえにいるようです。

木枯らしは

「街路樹」にとまって。

「冬」を過ごすのでしょう。

陽ののぼる時刻はとても遅くなりました。
そして
陽のおりる夕暮れは。
とてもやくくなりました。
つるべがおちるようにすとんと
暗くなります。

朝の04:30amにはふたたび「真っ暗」
の時期になりました。
あさの06:00amでもなお暗い東空
です。

けれども「昨年」冬至もおわり。
これから日々ゆっくりと
日は長くなります。陽はたかくなります。
よるは短くなりはじめます。

これからは天上の太陽は。
「冬」から「春」に向かいます。

けれども「地上」では。
「今」こそ「冬」です。

あさは曇っていて。
さらに昼間でも「さむい」ことがある。
私がおきるまっくらな早朝は。
とてもとても。
とても寒いです。
雪国うまれの私はさむいのがつらい
です。

早朝「そら」をみあげれば。
晴れているはず。日差しもあるはず。

けれども空には
「雲がいっぱい」で「空はくもりそら」
です。
ふしぎな「冬」のひざしです。

ふとかんがえれば・・。

そして「冬」にも。
「初春」の「中冬」の。
「若芽」をまもる
「冬」の太陽から。さらなる恵みを
「実る木の芽」にあたえる。

「空」こそは。
「ソフトフイルター」の役目を。
深い「冬」の「おぼろくもりそら」が
しているようです。

自然とは。
とてもよくできたものです。

変幻自在であり
そして規則も正しい。
なおかつにして。
自由が自在。

春夏秋冬。
大気に漂う霞がごとし。

深い山の奥に住むという

仙人の心境が。

とてもよくわかります。

冬の街路樹もそうそうたる。
ふかまる冬の羽振りを。
まとう木々に姿になってきました。

そして冬の。
紅葉の冬。
枯れ葉も冬をむかえています。
木々のまとう枯れ葉は木々の
セーターのようです。
少しでも暖かければ。

街路樹は「落葉樹」がよいです。

街路樹が「松や杉」のような。
「常緑樹」では
冬はうっそうとして
陽の光をえられない。

夏場は枝ぶり葉っぱから陽の光を
さえぎれない。
晩秋も「針葉樹の落葉」では
木枯らしもつりがあわない。
とどのつまり
四季のリズムはつくれません。

ヴイバルデイの
「四季」の「夏」にある
木陰で休む羊飼いの旋律
も。
フランツ・シューベルトの
「菩提樹」の歌曲
も「うまれません」。

落葉の針葉樹で
強いからといって私の「好き」な。
「からまつ」をうえられても
街路樹には叶(かな)わないでしょう。

私の「大好き」な。
北原白秋の「からまつの詩」。

「からまつ」は

街路樹にはそぐはないかもしれません。

播磨の俳人滝野瓢水の句

「手に取るなやはり野におけ蓮華草」

のように。

やはり野におけ蓮華草。

やはり野におけから松木。

「からまつ」も蓮華草と同じくに。

清楚な華やかさとはかなさを

もっています。

やはり野におけ。
蓮華草とからまつ。

「中冬」の「からまつ」です。

そしていまからまつの時期になりました。

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北原白秋
 
「水墨集」より

  
 落葉松
-------------------------------

      一
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 からまつをしみじみと見き。
 
 からまつはさびしかりけり。
 
 たびゆくはさびしかりけり。

      二
                 
 からまつの林を出でて、
 
 からまつの林に入りぬ。
 
 からまつの林に入りて、
 
 また細く道はつづけり。

      三
 
 からまつの林の奥も
 
 わが通る道はありけり。
  きりさめ
 霧雨のかかる道なり。
 やまかぜ
 山風のかよふ道なり。

      四
 
 からまつの林の道は、
 
 われのみか、ひともかよひぬ。
 
 ほそぼそと通ふ道なり。
 
 さびさびといそぐ道なり。

      五
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 
 からまつはさびしかりけり、
 
 からまつとささやきにけり。

      六

 からまつの林を出でて、
  あさま ね
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 からまつのまたそのうへに。

      七
 
 からまつの林の雨は
 
 さびしけどいよよしづけし。
 
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 
 からまつの濡るるのみなる。

      八
 
 世の中よ、あはれなりけり。
 
 常なれどうれしかりけり。
 
 山川に山がはの音、
 
 からまつにからまつのかぜ。

-------------------------------

木々の青葉の房が
早朝くらい中でも
うかびあがります。
とりわけ私は
くすのき科が。
「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
けやきもすきです。
カエデもすきです。
もみじもすきです。
松もすきです。
杉もすきです。
からまつも好きです。

いまは
「冬」です。

「初春」「中冬」ながら。
裸木の。
木々の穂先は小さいけれども毛氈(もうせん)
のようにあざやかな萌黄色と緑です。

まるで。
大きな里山の森の冬のうねりのようです。
今年は木々のわかばの冬のめばえがとてもとても
鮮烈です。
「春」の芽はえも「鮮烈」なことと見守ります。
冬の木枯らしが若芽のうえを吹き抜けていきます。

街角の雑草も
冬草に変貌して。

「木枯らし」になり。
道端のくさばなは。
「遠慮がち」になりました。

雑草も。
冬草へと変貌しつつあります。

朝暗いうちは。
とてもはださむいです。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
ふとい孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

木枯らしいてつく冬竹(ふゆたけ)の
笹葉は蒼くふるえたり
みどり葉笹葉にかぜはやみ
冬陽をうつすやうつろひの
竹の葉木枯らしはやいくとせ

冬地にも空にも
冬みどり葉ひらき
冬みどり木冬空
冬天高くひろがりけり
冬ゆたかなりけり
冬いふことのなし
冬いふことがなし
冬いふことはなし
冬ゆたかなりけりふゆ

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成21年1月12日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ限られた時間帯で。
診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ限られた時間帯で。
診療を行います

-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ限られた時間帯で。
診療を行います

-------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

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麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です。

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「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は。
奇想と言語実験的作品が。
ダダイスト、シュールレアリスト達に
高く評価された小説家。

「アフリカの印象」「ロクス・ソルス」、
および「言語の難解さ」で著名。
「新アフリカの印象」などで「有名」な小説家。。

1877年 - レーモン・ルーセル、小説家・詩人(+ 1933年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

レーモン・ルーセル(Raymond Roussel、
1877年1月20日 - 1933年7月14日)は
フランスの小説家、詩人です。

奇想と言語実験的作品が。
ダダイスト、シュールレアリスト達に
高く評価されました。

「アフリカの印象」「ロクス・ソルス」、
および言語の難解さで著名な「新アフリカの印象」
などがあります。

++++++++++++++++++++++

レーモン・ルーセル:Raymond Roussel
生涯

少年期
パリのマルゼルブ通りで株式仲買人の父と。
資産家の娘の母の間に。
三人兄弟の末っ子として生まれました
派手な暮らしぶりの中で幼少時代を過ごしました。

父は17歳の時に死去したので。
シェル・レリスの父が財産管理の相談役となりました。

1889年12歳の時にパリ国立高等音楽・舞踊学校のピアノ科を受験。
翌年に予備科に入学し。
1893年に合格して入学、ピアニストを目指し
1898年まで在籍致しました。

しかし在学中に音楽より詩人の素質があると
考えて詩作を始めました。
1896年に処女作である長編韻文小説「代役」を書きました。

ルメール書店から自費出版致します。

この執筆中にルーセルは
「栄光の感覚」を味わい後々まで
その感覚を探し求めることになります。

++++++++++++++++++++++

レーモン・ルーセル:Raymond Rousselは。

この体験については、後に神経症の治療にあたった
ピエール・ジャネの著作『不安から恍惚へ』で
症例として記録されました。

しかしこの作品はまったく評価されませんでした。

レーモン・ルーセル:Raymond Rousselは。
大きなショックを受け、
これ以後うつ病の発作が始まるようになりました。

++++++++++++++++++++++

レーモン・ルーセル:Raymond Rousselと
出版とスキャンダル

1900年から兵役に就きました。

その4年の間に「シックノード」、「眺め」を出版。

「シックノード」では、ほとんど同音だが
意味の異なる二文を作りそのうち一つで始まり、
もう一つで終わる筋を作るという独特の方法が用いられました。

++++++++++++++++++++++

レーモン・ルーセル:Raymond Rousselは。

長い模索の時期を経て。
1909年に「アフリカの印象」を
「ゴロワ・デュ・ディマンシュ」紙に
新聞小説として連載致します。
翌年出版。
難解なこの作品は理解されませんでした。

しかしビアリッツにある母の別荘の隣人だった
エドモン・ロスタンの激賞に勧められ。

1911年に芝居として脚色してフェミナ座で上演。
続いてアントワーヌ座で1ヶ月間上演したところ。

この奇妙な舞台に観客は呆れ支配人に
抗議の手紙が殺到してしまいました。

しかし観客の中にいた
ギヨーム・アポリネール、マルセル・デュシャン、
フランシス・ピカビア夫妻、
11歳のミシェル・レリスなどは
この時の感動を後に記録しています。

++++++++++++++++++++++

レーモン・ルーセル:Raymond Roussel。

続いて1913年から14年に
「ゴロワ・デュ・ディマンシュ」紙隔週で。
「ロクス・ソルス」を連載
(連載中の題名は「ブージヴァルでの数時間」)
致します。

1914年に単行本化。
これは「アフリカの印象」と同じ手法を駆使して
構文に凝った作品でした。

モンテスキューが好意的な批評を寄せた以外は
まったく反響がない。

再び芝居として上演することにし。
莫大な資金をかけ、台本と演出は当時の流行作家であった
ピエール・フロンデ、
主役にガブリエル・シニョレなど当代の名優達、
音楽はモーリス・フーレ、
装置はエミール・ベルタン、
衣装はポール・ポワレなどを揃え、
1922年にアントワーヌ座で上演されました。

公演は熱烈な支持者であったアンドレ・ブルトンら
ダダイスト達がさくらとなって拍手喝采した以外は
観衆は激しく反発致しました。

その騒ぎのために二日目、三日目は
休演になるほどのスキャンダルとなりました。

しかしこのために小説の方にも注目が集まり。
多くの酷評の中で。
リラダンやポーに比する好意的な評もいくつか現れました。

++++++++++++++++++++++

レーモン・ルーセル:Raymond Rousselは。

続いて1924年に「額の星」。
1926年に「塵のように無数の太陽」を
発表いずれも舞台にかけたが。
いずれも前作と同様の騒ぎを引き起こしました。
これらの出版、上演によってルーセルは
相続した財産を使い尽くしました。

1928年に自宅を売却してエルヒンゲン伯爵夫人となっていた
姉の邸に移り住みます。

またこの年に、1915年から書き始めていた
「新アフリカの印象」を完成。

これまで以上に難解となったこの作品は1932年に出版され、
ダリに激賞された他は、かつての支持者達にも理解されなかった
のです。

++++++++++++++++++++++

レーモン・ルーセル:Raymond Rousselは。

この後、創作はほとんど行わず。

睡眠薬とカフェでのチェスに没頭致しました。

この時に「レーモン・ルーセル式」という
チェスの定跡を考案致しました。
旅行好きでもあり。
1920年には世界一周を企て1925年にはキャンピングカーで
ヨーロッパのあちこちを訪れたりしました。

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レーモン・ルーセル:Raymond Roussel

1933年に「私はいかにして或る種の本を書いたか」
の原稿を「死後刊行のこと」と指定して印刷屋に渡して。

1910年から愛人となっていた
シャルロット・デュフレーヌとともに
シチリア島パレルモに赴きました。

ここで睡眠薬に明け暮れる生活を送り。
中毒の治療のためにスイスの療養所に向かおうとする日
の朝にホテルの部屋で死去致しました。

「私はいかにして或る種の本を書いたか」は死の翌々年に
刊行されました。

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レーモン・ルーセル:Raymond Roussel
死後に。
1989年に、トランクルームのブデル商会から。
倉庫に眠っていた9個のボール箱に詰め込まれた
ルーセルの遺稿、遺品が、パリの国立図書館に寄贈されました。

そこには、新発見の1万行の詩、長編小説、韻文劇、
その他の写真や書類などが入っており、
20世紀フランス文学の「もっとも異様な発見」として話題になりました。

1994年からルーセル全集がポーヴェール社から刊行され。
これらの遺稿も収録された。

++++++++++++++++++++++

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レーモン・ルーセル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%AB

レーモン・ルーセル(Raymond Roussel、1877年1月20日 - 1933年7月14日)は、
フランスの小説家、詩人。奇想と言語実験的作品がダダイスト、シュールレアリスト達に高く評価された。「アフリカの印象」「ロクス・ソルス」、および言語の難解さで著名な「新アフリカの印象」などがある。

目次
1 生涯
1.1 少年期
1.2 出版とスキャンダル
1.3 死後
2 作品と評価
3 著作リスト
4 参考文献

生涯

少年期
パリのマルゼルブ通りで、株式仲買人の父と、資産家の娘の母の間に、三人兄弟の末っ子として生まれ、派手な暮らしぶりの中で幼少時代を過ごす。父は17歳の時に死去し、ミシェル・レリスの父が財産管理の相談役となった。1889年12歳の時にパリ国立高等音楽・舞踊学校のピアノ科を受験、翌年に予備科に入学し、1893年に合格して入学、ピアニストを目指し1898年まで在籍していた。しかし在学中に音楽より詩人の素質があると考えて詩作を始め、1896年に処女作である長編韻文小説「代役」を書き、ルメール書店から自費出版する。この執筆中にルーセルは「栄光の感覚」を味わい、後々までその感覚を探し求めることになる。この体験については、後に神経症の治療にあたったピエール・ジャネの著作『不安から恍惚へ』で症例として記録された。しかしこの作品はまったく評価されず、大きなショックを受け、これ以後うつ病の発作が始まるようになる。

出版とスキャンダル
1900年から兵役に就き、その4年の間に「シックノード」、「眺め」を出版。「シックノード」では、ほとんど同音だが意味の異なる二文を作り、そのうち一つで始まり、もう一つで終わる筋を作るという、独特の方法が用いられた。

長い模索の時期を経て、1909年に「アフリカの印象」を「ゴロワ・デュ・ディマンシュ」紙に新聞小説として連載、翌年出版。難解なこの作品は理解されず、しかしビアリッツにある母の別荘の隣人だったエドモン・ロスタンの激賞に勧められ、1911年に芝居として脚色してフェミナ座で上演。続いてアントワーヌ座で1ヶ月間上演したところ、この奇妙な舞台に観客は呆れ、支配人に抗議の手紙が殺到した。しかし観客の中にいたギヨーム・アポリネール、マルセル・デュシャン、フランシス・ピカビア夫妻、11歳のミシェル・レリスなどは、この時の感動を後に記録している。

続いて1913年から14年に「ゴロワ・デュ・ディマンシュ」紙隔週で「ロクス・ソルス」を連載(連載中の題名は「ブージヴァルでの数時間」)し、1914年に単行本化。これは「アフリカの印象」と同じ手法を駆使して構文に凝った作品で、モンテスキューが好意的な批評を寄せた以外はまったく反響がなく、再び芝居として上演することにし、莫大な資金をかけ、台本と演出は当時の流行作家であったピエール・フロンデ、主役にガブリエル・シニョレなど当代の名優達、音楽はモーリス・フーレ、装置はエミール・ベルタン、衣装はポール・ポワレなどを揃え、1922年にアントワーヌ座で上演された。公演は熱烈な支持者であったアンドレ・ブルトンらダダイスト達がさくらとなって拍手喝采した以外は、観衆は激しく反発し、その騒ぎのために二日目、三日目は休演になるほどのスキャンダルとなった。しかしこのために小説の方にも注目が集まり、多くの酷評の中で、リラダンやポーに比する好意的な評もいくつか現れた。

続いて1924年に「額の星」、1926年に「塵のように無数の太陽」を発表、いずれも舞台にかけたが、いずれも前作と同様の騒ぎを引き起こした。これらの出版、上演によってルーセルは相続した財産を使い尽くし、1928年に自宅を売却して、エルヒンゲン伯爵夫人となっていた姉の邸に移り住む。またこの年に、1915年から書き始めていた「新アフリカの印象」を完成。これまで以上に難解となったこの作品は1932年に出版され、ダリに激賞された他は、かつての支持者達にも理解されなかった。この後、創作はほとんど行わず、睡眠薬とカフェでのチェスに没頭する。この時に「レーモン・ルーセル式」というチェスの定跡を考案した。旅行好きでもあり、1920年には世界一周を企て、1925年にはキャンピングカーでヨーロッパのあちこちを訪れたりした。

1933年に「私はいかにして或る種の本を書いたか」の原稿を「死後刊行のこと」と指定して印刷屋に渡して、1910年から愛人となっていたシャルロット・デュフレーヌとともにシチリア島パレルモに赴く。ここで睡眠薬に明け暮れる生活を送り、中毒の治療のためにスイスの療養所に向かおうとする日の朝にホテルの部屋で死去。「私はいかにして或る種の本を書いたか」は、死の翌々年に刊行された。

死後
1989年に、トランクルームのブデル商会から、倉庫に眠っていた9個のボール箱に詰め込まれたルーセルの遺稿、遺品が、パリの国立図書館に寄贈された。そこには、新発見の1万行の詩、長編小説、韻文劇、その他の写真や書類などが入っており、20世紀フランス文学の「もっとも異様な発見」として話題になった。1994年からルーセル全集がポーヴェール社から刊行され、これらの遺稿も収録された。

作品と評価
「アフリカの印象」は、熱帯アフリカにあるポニュケレ王国の王の聖別式とそれに伴う行事、漂着したヨーロッパの客船の乗客達による演芸大会が描かれ、続いてそこに至るまでの経緯が説明される。これらは音が似ていたり、意味が似ている語や文を組み合わせて、挿話を発想するという方法で書かれた。「ロクス・ソルス」もまた同様の方法で書かれ、パリ郊外に住む科学者の邸内の発明品の数々を見て回るという展開となっている。文体は無個性に見えて、いかに少ない言葉で表現できるかを追求したもので、「私は一行一行に血を流します」という言葉をジャネに向けて残している。

「新アフリカの印象」は、エジプトの観光地の写真の描写をテーマとしている100ページほどの韻文作品で、括弧の中に何重にも括弧が開かれるという難解な構文で書かれている。

同時代には、ブルトン、ジャン・フェリー、ミシェル・カルージュ、ミシェル・レリスなどがルーセルを高く評価し、ブルトン「シュルレアリスム宣言」(1924年)では古今の作家に並べて「ルーセルは逸話においてシュルレアリストである」と述べられた。ただしルーセル自信はシュルレアリスムにはさほど興味がなく、尊敬していた作家はジュール・ヴェルヌ、ピエール・ロチで、アレクサンドル・デュマやコナン・ドイルを好んだという。ダリは「革命のためのシュルレアリスム」誌で「新アフリカの印象」について、「当代にあって、詩的にもっともとらえ難い、したがってもっとも未来性に富む」と評した。

死後の1960年代になって作品が再刊され、ミシェル・ビュトール、ミシェル・フーコー、ジャン・スタロバンスキー、アラン・ロブ=グリエ、ジャン・リカルドー、ジュリア・クリステヴァなどがルーセルを論じ、フーコーの「レーモン・ルーセル」(1963年)では言語実験について述べた。フランソワ・カデラック「レーモン・ルーセルの生涯」(1972年)では彼の生涯が綴られ、ルーセルは同性愛者でもあり、1897年には少年を相手にする事件で警察沙汰になったなどの事実も明らかにされた。イアン・ワトスンが1973年に発表した「エンベディング」は、「新アフリカの印象」で使われた言語による思考というアイデアで書かれた。

生誕100年にあたる1977年には、各雑誌、新聞が特集号を出し、「アフリカの印象」のテレビドラマが放映された。ルーセルは「現代文学の偉大な先駆者の一人」(レットル・ヌヴェル誌)と見なされ、デュシャン、レーモン・クノー、ミシェル・ビュトールなど美術、文学に大きな影響を与えたとされている。

日本では、1975年にフーコー「レーモン・ルーセル」が訳され、雑誌『地下演劇』(1976年)、『ユリイカ』(1977年)がルーセル特集号を組んだ。1980年に「アフリカの印象」が訳された際には『図書新聞』第一面で紹介され、澁澤龍?、種村季弘、吉増剛造らの好意的な評が寄せられた。1998年には岡谷公二『レーモン・ルーセルの謎』が刊行。保坂和志は『小説の誕生』(2006年)で、「アフリカの印象」「ロクス・ソルス」を紹介している。

著作リスト
Mon Ame 1897年(詩集)
「代役」La Doublure 1897年
「シックノード」Chiquenaude 1900年
「眺め」La Vue, Le Concert et La Source 1904年
「アフリカの印象」Impressions d'Afrique 1910年
「ロクス・ソルス」Locus Solus 1914年
Pages choisies d'Impressions d'Afrique et de Locus Solus 1918年
「額の星」L'Etoile au front 1925年
「塵のように無数の太陽」La Poussiere de soleils 1927年
「新アフリカの印象」Nouvelles Impressions d'Afrique 1932年
「私はいかにして或る種の本を書いたか」Comment j'ai ecrit certains de mes livres 1935年
「セーヌ」La seine 1994年(1900年執筆)
「結婚」Les Noces 1998年(1904年執筆)

参考文献
アンドレ・ブルトン 『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』 巌谷國士訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1992年、ISBN 4-00-325901-7。
レーモン・ルーセル 『アフリカの印象』 岡谷公二訳、平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2007年、ISBN 978-4-582-76613-4。
レーモン・ルーセル 『ロクス・ソルス』 岡谷公二訳、平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2004年、ISBN 4-582-76511-4。
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カテゴリ: フランスの小説家 | フランスの詩人 | 1877年生 | 1933年没表示本文 ノート 編集 履歴 個人用ツールログインまたはアカウント作成 ナビゲーション

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1月20日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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できごと
1226年(嘉禄元年12月21日) - 鎌倉幕府が評定衆を設置する。

1936年 - エドワード8世がイギリス国王に即位。

1942年 - ヴァンゼー会議でホロコーストが最終決定。

1944年 - イギリス空軍がベルリン空襲、2,300トンの爆弾が投下。

1945年 - ハンガリーが枢軸国から離脱。

1954年 - 営団地下鉄(現 東京メトロ)丸ノ内線の池袋駅〜御茶ノ水駅間が開業。

1956年 - 将棋の王将戦で升田幸三が大山康晴名人を相手に香を引いて勝利。

1961年 - ジョン・F・ケネディがアメリカ合衆国大統領に就任。

1969年 - 東大紛争: 東京大学が入学試験の中止を決定。

1976年 - 大和運輸(現在のヤマト運輸)が「宅急便」のサービスを開始。

1979年 - 奈良市で「古事記」の編者太安万侶の墓誌が出土。

1981年 - 郵便料金が値上げ。
はがきが20円から30円(3月31日まで。4月1日からは40円)に、
封書が50円から60円になる。

1996年 - ヤーセル・アラファートがパレスチナ自治政府議長に選出。

2001年 - ジョージ・W・ブッシュ大統領就任。

2005年 - 都営地下鉄新宿線の新型先頭車両、10-300R形運転開始。

誕生日
225年 - ゴルディアヌス3世、ローマ皇帝(+ 244年)

1436年(永享8年1月2日)- 足利義政、室町幕府8代将軍(+ 1490年)

1877年 - レーモン・ルーセル、小説家・詩人(+ 1933年)

1885年 - 尾崎放哉、俳人(+ 1926年)

1894年 - 西脇順三郎、詩人・英文学者(+ 1982年)

1894年 - ウォルター・ピストン、作曲家(+ 1976年)

1898年 - 津島文治、政治家(+ 1973年)

1898年 - 高垣眸、作家(+ 1983年)

1901年 - セシル・グリフィス、陸上競技選手(+ 1973年)

1903年 - 中川俊思、政治家(+ 1973年)

1912年 - 関英雄、児童文学者(+ 1996年)

1920年 - フェデリコ・フェリーニ、映画監督(+ 1993年)

1920年 - デフォレスト・ケリー、俳優(+ 1999年)

1921年 - 吉田正、作曲家(+ 1998年)

1923年 - 三國連太郎、俳優

1925年 - 高城淳一、俳優

1926年 - ヴィタリー・ウォロトニコフ、政治家

1931年 - 有吉佐和子、小説家(+ 1984年)

1931年 - 中村八大、作曲家(+ 1992年)

1931年 - 内藤博文、元プロ野球選手

1932年 - 鈴木その子、美容・料理研究家(+ 2000年)

1933年 - ジーン・スチーブンス、元プロ野球選手

1935年 - 公文俊平、社会学者・経済学者

1935年 - 堀本律雄、元プロ野球選手

1938年 - 北原亞以子、作家

1940年 - キャロル・ヘイス・ジェンキンス、フィギュアスケート選手

1941年 - あすなひろし、漫画家(+ 2001年)

1941年 - 川村龍夫、実業家

1945年 - 中川八洋、国際政治学者

1946年 - デビッド・リンチ、映画監督

1948年 - 加藤俊夫、元プロ野球選手
1949年 - 渡辺達生、写真家
1954年 - 古田将士、俳優
1955年 - 太田裕美、歌手
1955年 - 桜井賢(THE ALFEE)、ミュージシャン
1958年 - 天田益男、俳優・声優
1961年 - 上島竜兵、お笑いタレント(ダチョウ倶楽部)
1961年 - 浜尾朱美、エッセイスト・ニュースキャスター
1962年 - 玉川紗己子、声優
1962年 - IKKO、メイクアップアーティスト
1963年 - インゲボルガ・ダクネイト、女優
1964年 - 南果歩、女優
1964年 - 藤木義勝、俳優
1964年 - 金巻兼一、脚本家、劇作家
1965年 - ケビン・マース、元プロ野球選手
1966年 - 長谷川太(長谷川のび太)、アナウンサー・声優
1967年 - 長坂哲夫、フジテレビアナウンサー
1968年 - 木下博勝、医師
1969年 - ジョセフ・オツオリ、陸上選手(+ 2006年)
1969年 - 犬塚賀子、女優
1969年 - 吉成鋼、アニメーター
1971年 - ゲイリー・バーロウ、イギリス人歌手、ピアニスト、作詞家、プロデューサー
1971年 - 花田勝、第66代横綱(若乃花勝)・実業家
1974年 - フリオ・サンタナ、元プロ野球選手
1975年 - デビッド・エクスタイン、メジャーリーガー
1975年 - 横尾泰輔、NHKアナウンサー
1977年 - イリアン・ストヤノフ、サッカー選手
1977年 - 窪寺昭、俳優
1979年 - ロブ・ボードン、ドラマー(リンキンパーク)
1979年 - 久保亜沙香、グラビアアイドル
1979年 - 葵、ガゼット・ミュージシャン
1979年 - 須田麻衣、ライター
1980年 - 深水元基、俳優
1980年 - 中村祥子、バレエ・ダンサー
1980年 - ルイス・マルティネス、元プロ野球選手
1981年 - 矢縄沙弓、タレント、グラビアアイドル
1982年 - エリン・ワッソン、スーパーモデル
1982年 - 川島章良、お笑い芸人(はんにゃ)
1983年 - 金子さやか、女優
1983年 - 矢口真里、歌手・女優・タレント、元(モーニング娘。)
1985年 - 井上麻里奈、声優
1985年 - 杉山ハリー、ファッションモデル
1985年 - アレクサンデル・パヴレンコ、サッカー選手
1994年 - 藤井玲奈、子役アイドル

忌日
1343年 - ロベルト、ナポリ王(* 1277年)

1413年(応永19年12月18日)- 上杉憲定、関東管領(* 1375年)

1495年(成宗25年12月24日) - 成宗、第9代李氏朝鮮国王(* 1457年)

1587年(天正14年12月12日)- 長宗我部信親、戦国武将(* 1565年)

1587年(天正14年12月12日)- 本山親茂、戦国武将(* 1545年)

1612年 - ルドルフ2世、神聖ローマ皇帝(* 1552年)

1666年 - アンヌ・ドートリッシュ、フランス王ルイ13世の王妃(* 1601年)

1722年(享保6年12月4日)- 松平吉邦、第6代福井藩主(* 1681年)

1745年 - カール7世、神聖ローマ皇帝(* 1697年)

1819年 - カルロス4世、スペイン王(* 1748年)

1828年 - シャルロッテ・ブッフ、
「若きウェルテルの悩み」のヒロインのモデルにあたる人物(* 1753年)

1837年 - ジョン・ソーン、建築家(* 1753年)

1848年 - クリスチャン8世、デンマーク王(* 1786年)

1852年(嘉永4年12月29日) - 阿武松緑之助、大相撲第6代横綱(* 1794年?)

1859年 - ベッティーナ・フォン・アルニム、小説家(* 1785年)

1875年 - ジャン=フランソワ・ミレー、画家(* 1814年)

1891年 - カラカウア、ハワイ王国国王(* 1836年)

1900年 - ジョン・ラスキン、思想家(* 1819年)

1905年 - 内海忠勝、日本の内務大臣(* 1843年)

1913年 - ヨハニス・デ・レーケ、日本の砂防の父として有名なお雇い外国人(* 1842年)

1913年 - カール・ウィトゲンシュタイン、実業家(* 1847年)

1935年 - 戸水寛人、法学者・立憲政友会衆議院議員(* 1861年)

1936年 - ジョージ5世、イギリス王(* 1865年)

1947年 - ジョシュ・ギブソン、プロ野球選手(* 1911年)

1949年 - 中山岩太、写真家(* 1895年)

1952年 - アーサー・ファーウェル、作曲家(* 1872年)

1970年 - 石川一郎、実業家・経済団体連合会初代会長(* 1885年)

1970年 - ジョージ・ハンフリー、第55代アメリカ合衆国財務長官(* 1890年)

1971年 - 男女ノ川登三、大相撲第34代横綱(* 1903年)

1974年 - エドマンド・ブランデン、詩人(* 1896年)

1983年 - ガリンシャ、サッカー選手(* 1933年)

1984年 - パウル・ベン=ハイム、作曲家(* 1897年)

1984年 - ジョニー・ワイズミュラー、水泳選手・俳優(* 1904年)

1990年 - 東久邇稔彦、元皇族(東久邇宮稔彦王)、第43代内閣総理大臣(* 1887年)

1990年 - バーバラ・スタンウィック、女優(* 1907年)

1993年 - 園山俊二、漫画家(* 1935年)

1993年 - オードリー・ヘプバーン、女優(* 1929年)

1995年 - 金子信雄、俳優・料理研究家(* 1923年)

1996年 - ジェリー・マリガン、ジャズミュージシャン(* 1927年)

1998年 - 曾我廼家五郎八、お笑い芸人(* 1902年)

1998年 - ボボ・ブラジル、プロレスラー(* 1924年)

2000年 - 清沢哲夫、僧・思想家(* 1921年)

2001年 - 小池聰行、実業家・オリコン・エンタテインメント創業者(* 1932年)

2002年 - ババ、サッカー選手(* 1934年)

2007年 - 谷口香、女優(* 1934年)

2008年 - スザンヌ・プレシェット、女優(* 1937年)

記念日・年中行事
大寒(日本、2002年・2003年・2005年)
二十四節気の1つ。太陽の黄経が300度の時で、寒さが最も厳しくなるころ。

二十日正月

玉の輿の日
1905年のこの日、アメリカの実業家J・P・モルガンの甥の
ジョージ・モルガンが祇園の芸妓・お雪と結婚した。
お雪は「日本のシンデレラ」と呼ばれた。