東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年1月22日(木曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年1月22日(木曜日)

★★★
「新年」になり。
もう。
「22日」たちました。
あと「10日たらず」で最後の「冬」
「2月」になります。
見方をかえれば。
あと「30日足らず」で「春」になります。

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

今年ももうすぐに春がきて。
ひなまつりがおわり。

春分の日ももうすぐに。
「さくら咲き」
「4月」が終われば。
「5月」になり。
「5月」もおわれば。
6月に。「夏」になり。
6月も終われば。
7月 たなばた。
7月 もおわれば。
せみのなく8月。
8月の夏はすぎれば。
9月の秋になりそして9月がおわり。
中秋10月なりそして10月がおわり。
「11月」になり。
晩秋「11月」もおわり12月の「冬」。
「12月」になるのでしょう。
そしてまた「初春」がくる。

冬になる。

雪国の冬になる。
「12月」の冬至を。
すぎれば「陽」は日々たかくる。
さ来年の
「1月」「2月」は寒い雪の「冬」
もおわれば。

また来年には。
「年もあらたまり」。
「春」そして「夏」に向かう。

「初春」「新年」。

今現在は「冬の真最中」です。

けれども「昨年」12月の冬至が

おわりました。

陽は日々たかくなっているのです。

朝日ののぼるのが早くなりました。

まことに。

冬来たりなば春遠からじ。

(出 典は。

 イギリスの詩人シェリーの

『西風に寄せる歌』の一節。

英 語の原文: 

If winter comes,

can spring be far behind? )

「秋」から「冬」への移り変わりは

「かけあし」

のようでした。

「9月」の初秋がおわり。
「名月中秋10月もおわり」ました。
「11月」。

「11月」もおわりました。
「12月」もおわりました。
今日は「新年」「初春」の「1月」
です。

「晩秋」から「冬」への移り変わりは
「かけあし」のようにうつろいました。

一方
「春」はゆっくりと。ゆっくりとあるいてきます。
「春」をまつのであれば。
「春」のゆっくりと歩いてくるのをまたねば
なりません。

「初春」「新年」。
平成21年になりました。

去年はおわりました。

「冬」はかけあしでやってくる。

「春」はゆっくりと歩いてくる。

さきのことすぎるかもしれないが「来年」。

このように「時」のうつろいを

心はせれば。

考えると「おそろしいもの」です。

考えなければ。
「なおおおそろしい」
ものであるものかもしれない。

「考えずにいるつけ」がまわって
くるからかもしれません。

「来年」のことを考えれば「鬼」が笑う。
「来年」のことを考えずにすむのであれば「鬼」は
笑わないのでしょう。
「鬼」とはなんだろう。

今日の深夜早朝03:15amには。
久方ぶりに大きな新年の「星空」がみえました。
早朝くらいうちは。
空に月。
「お月様」が「秋雲のじゅうたん」
天高くにねそべっている
ような「寒月」です。

06:00amころ日があければ。
まだまだくらい朝日を背に。
西のコバルトの空高く明るい。
とても高い成層圏近くの高い高度に。

西のコバルトの空高に。
「刷毛」でひいたように「絹雲(けんうん)」が
何本も何本も。
描かれて。
たなびいていました。

実に見事な筆捌(ふでさばき)です。
ためらいのない「朝焼け」
「朝焼け色」の線描です。

朝の「陽射し」ののぼるころは。

「西」の空

のほうが明るいのです。

高い成層圏近くの高い高度に。
「刷毛でひいたように」「絹雲(けんうん)」
の端には渦巻きのような「ぬけあな」があり
「さらなる遠方の青空」が透けてみえます。

さながらにして。
東山魁夷画伯の描かれた大きな壁画。
大きな屏風絵の世界。

東山魁夷画伯の描かれた大きな壁画を
彷彿とさせますです。

東山魁夷画伯。
「よくえがかけた画伯です」。

この「あおぞら」をみていると。

とても
信じられないくらいに。
元気がわいてくることに気が付きました。
「太陽」の「陽射し」。
「陽射し」の「めぐみ」のおかげ。

「そら一杯の青空の天井(てんじょう)」と
「太陽のひかりのひざし」は。
なによりもの「生きとし生けるもの」への。
まことの。
「ごほうび」であるのでしょう。

「太陽のひかりのひざし」は

「いのちのめぐみ」です。

ありとあらゆる「生命」「いのち」をはぐくむもの。
ありとあらゆる「生命」「いのち」をたたえるもの。
「生きとし生けるもの」の「いのち」に。
さらなる「はるかかなた」までの。
「いきるちから」をさずけるものです。

はやいものです。
ときのたつのは。
はやいものです。

そしてふと考えれば

去年も
「12か月」が
終わりました。

中秋から晩秋にうつろい。
いまや
「寒月」の「12月」がおわり。
新年の「1月」です。

病院の庭園に「何本」ある
山茶花(さざんか)や「やぶつばき」の大木が。
いずれもが紅白の花を

たんぽぽ
のように
枝にみのらせています。
まだ「はつはな」で初々しいたです。
けれども。
「やぶつばき」や山茶花(さざんか)は。
は雨に打たれると。
花は地面に紅白の毛氈(もうせん)
のように落花致します。

くれない色としろ色の積雪のようです。

山茶花(さざんか)「やぶつばき」の花の放ち。

ひろって。
手のひらにかかげれば。
「やぶつばき」の花のかおりは。
プラチナ色の香りが
致しました。

今は。
「やぶつばき」や山茶花(さざんか)が。
蕾をふくらませています。
「やぶつばき」の蕾がふくらんでいます。

山茶花(さざんか)の「はなびら」が
闇夜のあいだに。
今朝の早朝まだ「花」にもきがつかぬうちに
また地に舞い下りていました。

山茶花(さざんか)の花ひとつさいて
夜の木枯らしでちったようです。

みつめれば。
木枯らしに弓射られた白鷺(しらさぎ)
のはねが舞っているようでした。

この寒い冬も。
「昆虫」の少ない時期に。
「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」
は花をさかせ
どのように授粉して「実る」のだろう。

山茶花(さざんか)の花ひとつさいて
夜の木枯らしでちる。
「やぶつばき」も「花」はすぐに
落下する。
このあたりに。

山茶花(さざんか)と「やぶつばき」

に。
「人生」の「解答」があるような

気が致します。

ふと野草の花は一般的には。
香らない花が多いことに気づきました。

伊藤左千夫の「野菊の墓」の「野菊」は。
矢車菊 (やぐるまぎく)
はとても綺麗なむらさきの「のぎく」です。
けれども「のぎく」は香りません。
(Corn lower, Bachelor's-button)です。

因みに
最高級の(今はもうとれない)
インド・カシミール地方で産出されたの
サフアイアの色は「矢車菊色」=
「カシミール・ヴァイオレット」。

麦畑やとうもろこし畑の中に 咲いていたことから。
「コーン・フラワー」=「野菊」(Corn lower)
です。

別名 「矢車草(やぐるまそう)」
といわれることがあります。

実は「矢車菊 (やぐるまぎく)」と
「矢車草(やぐるまそう)」まったく違う植物。
矢車菊 (やぐるまぎく)が「野菊」。
「矢車草(やぐるまそう)」は「高山植物」。

「野菊」は春から夏にかけて咲くむらさきの花です。

古代エジプトのツタンカーメン王の墓 からも
発見された由緒正しき「野菊」で色は紫です。

ツタンカーメン王の。

まだ幼な子王妃が。

「亡きツタンカーメンンにささげるけなげな姿」
が鮮烈に眼に浮かぶ。

この「花」が。

「野菊」です。

「野菊の墓」の「野菊」。

けれども。

「野菊」は香りません

毎朝暗い早朝と暗くなる午後4時ころには。
「木枯らし」が
鳴いている。

木枯らしがかわりばんこに。
あちこちで
「ろうろう」「こうこう」とないています。

「木枯らし」の「声」を聞いていると。

ふと。
いにしえの
「寒さにおびえるひと」の気配が
脳裏をはしりました。
はてだれだろう。

うら若き乙女。
苦労に苦労をかさねて。
苦しんで苦しんだあげくに。
24歳にして世を去った
「樋口一葉」。

樋口一葉の
「うらわかき」「冬の短歌」がきこえるようです。

散たまるふもとの落葉わけて思ふ
埋もれぬべき雪の山里

ちりたまるふもとのおちはわけておもふ
うもれぬへきはゆきのやまさと

庭の面につもる紅葉の色見れば
散りての後もにしきなりけり

にわのおもにつもるもみしのいろみれば
ちりてのあともにしきなりけり

世の中の秋にあはじとおくれけん
一もと野ぎく思ひあがりて

よのなかにあきにあはしとおくれけん
ひともとのきくおもひあがりて

ちりたまるふもとのおちはわけておもふ

うもれぬへきはゆきのやまさと

にわのおもにつもるもみしのいろみれば

ちりてのあともにしきなりけり

よのなかにあきにあはしとおくれけん

ひともとのきくおもひあがりて

「24歳」の「とても貧しい乙女」の。

かなしさの「おもかげ」と。

光さし輝きはずむお若い「御婦人」の「知」が。

「ひしひし」とよみとれます。

「冬至」はすでにすぎました

これからは日は。
陽は次第にながくなる。
日が長くなる。
朝は明けるのは早くなり。
夕に暗くなるのは遅くなる。

しだいに陽がながくなる。
なぜか。
不思議なやさしさ。
やすらぎと。
心やすらかなる
安堵感をかんじます。

心やすらかなる
安堵感をかんじます。

けれども。
「安堵」と「落胆」は。
常に表裏一体。
両羽(もろば)の剣。

「ぬかよろこび」の「ぬか」のような
ものです。

「ながくなる陽」も両羽(もろば)の剣を
持っています。

そして。
季節には「大気の音」があるようです。

朝空は
陽ははるかに天高く。
空色はミルク色です。
クリームのかかった雲空です。

東京都世田谷区山本クリニックの庭園には

「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。

「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。

「やぶつばき」の大木が4本と山茶花(さざんか)が4本
あります。

「初春」をつたえるがごとく。
「においつばき」の木が
「香り花」が開花致しました。

「山茶花(さざんか)」と「やぶつばき」が
蕾を大きくしています。

山茶花(さざんか)も「やぶつばき」も私は「大好き」
な花木です。

「花」はみえない頃からもう
「においつばき」
は「香っています」。
「やぶつばき」は冬にも若葉をだします。
「やぶつばき」は「荒い木」
です。
けれども「生き様」は。
樹木として
とてもとても麗しいと思います。
ある意味では威風堂々です。

「山茶花(さざんか)」は
のんびりやの気がする。

山茶花(さざんか)の「花」はさいたまま
「花がさいた」を忘れたかのように
ぼんやりと木にのっている。
いつ花が散るのだろう。
ふと考えるまえにちります。

考えれば山茶花(さざんか)の蕾が
思い出せない。
ひらけばちるからかしら。
花の咲く存在感のない植物は
「山茶花(さざんか)」です。
うすぼんやりした花木です。
水墨画の主人公にはなりえない。

この「1月」時期になり。
森山を分け入ると。

木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花の花のごとくに紅葉したまま
しもがれする
「やまはぜの葉木」が「大好き」です。

「やまうるしの紅葉」もかわいらしく。
「大好き」です。

身の丈以上ほどにもなって群生する。
野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
が。
病院の林の一角に野生のまま
おいしげっています。

野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
のパープルの真珠が群れたように実る
「実りの木の実」の風にそよぐ音色には。
おどろかされます。

あけびつたもうれしい。
あけびの「実」がみつかればなおなおうれしい。

またたびをみつけました。
根元にねこにかじられきずがある。

里山の冬の時期から。
そして初春の里山の季節
になりました。

四季の歩みの春夏秋冬のうつろいは
メトロノームの「あゆみ」を
感じさせます。

この「あゆみ」の「質量」は
とてもとても高いです。
質量があれば。あたかも。
重力のように。
四季のリズムにひきよせられていく。
そのような感じがします。

四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいてなお着々。
確実な「リズム」を感じます。

ここに。
「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
がくわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じです。

草花や草木につつまれた自然は。
「音楽」と同じように
ひびきとして聴こえます。

自然は
「しぜん」の
「ヴィルトオーゾ」と
「ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」
*です。

この「自然のフイルハーモニウム」の。
指揮者は。
太陽なのか大地なのか人なのか。

或は音色をかもし出す自然はオーケストラ
であるのか。
ソリストなのだろうか。

私の尊敬する「合衆国USA」の
女性で小説家(「ノーベル賞受賞者」)
「パール・サイデンストリッカー・バック
(Pearl Sydenstricker Buck)
中国名、賽珍珠(サィ・チンシュ)」
パールバックの「大地」に
その「こたえ」が示唆されています。

古代より芸術家が
自然を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判ります。

*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。

実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。

但し音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる「成分」というわけ
ではありません。

また「音楽であるため」に。
三要素が絶対必要ということ
でもないでしょう。

邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。

「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。

邦楽もその一つです。

大和の国 やまとのくにの自然は。
「大和の国の音楽」と同じように思えます。
聴こえます。

「音楽」は「音」「おと」です。
そして「しらべ」=メロディとハーモニーです。
人類が「この音楽」を「楽譜」として
「寸分たがわず」「譜面」という名の「紙」に
「かくことを完成させた」ということは
大変なことです。

人間は。
人類は。
わずか「400年」で。

「音楽の旋律」に対する「楽譜」を。
「あらたな言語」を
完全に「完成」させたことになります。

まさにミューズの神の「神業かみわざ」です。

木々のめぶきの
冬なおも。
ますます力強い息吹を感じます。

「真夏」をすぎ「冬」になると。
再び「若葉」がみられることに。
きづきました。
「ため息」がでるほど木々の「冬若葉」の
「つどい」は「つよく」「うつくしい」。
雪の上のみどり。

木々のてっぺんは萌黄色から
「ふかみどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「冬を迎えた葉束」になりました。
これからは
「深まる冬」がすぎさり「春」。
「開花」の炎が。
樹木の上方で。
「雪の到来」を.
くすぶりてまちわびてています。
たえしのぶ冬の樹木です。

「若葉」の「新緑」から「深緑」です。

高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり冬のおとずれを
伝えていました。

桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうともいえる青葉。
そして見え隠れする「紅葉葉」。
紅葉葉の10枚20枚がひとつひとつ
の樹木にみえるようになりました。
「黄色調」です。
そして今「樹木」は「葉のいろ」をかえ
「宙」に舞おうとしています。
今現在は冬。
はだか木です

明らかなる。
「冬から春」とはことなる。
「夏から秋」。
「秋から冬」
そして「冬」の「木枯らし」。

木々の四季の。
大気の「色」のうつろい
に気づきます。

今は里山(さとやま)をさまよい。
今は里山(さとやま)をあるきたい。
今は里山(さとやま)の季節。
今は昔々里山(さとやま)であそび。
今は昔々て里山(さとやま)でおぼえ。
今は昔々里山(さとやま)でまなんだ。
今は昔々のその日々の思い出は。
今は黄金(こがね)か。あるいは。
今は銀か。いぶし銀か。
今はもしかしたらプラチナか。
今は思い出色は鉛のように。
今は重さは鉛のようになり。
今は心の奥深くに埋もれて感じられます。

「幸せ色」=「しあわせいろ」

ならばよいです。

けれども
早朝は非常に寒くなりました。

冬やま中さまよいて
冬やま中をわけいらば
冬やま中大樹の根元に隠れたり
冬やま中あけぼの色のちひさき炎(ほのほ)
冬やま中みつけたりやまの秋の華。
冬やま中やまの秋葉木のかくれんぼ
冬やま中大樹の根元に隠れたり
冬山はぜの葉木。
冬やま中やまうるしの葉木。
冬やま中あきやまはぜとふるやまうるし。
冬こす「はだか木」。
冬こす元気な木。たくましき木。

冬山萩(やまはぎ)の
冬花をかくして燃えたたむ
冬に実りの祭りなり
冬山はぜの葉炎
冬天高く燃ゆ

ふゆやまはぎの
ふゆはなをかくしてもえたたむ
ふゆにみのりのまつりなり
ふゆやまはせのほのほ
ふゆてんたかくもゆ

ふゆひろくなりけり空(そら)たかし
ふゆさとやまに木々のみどり木
ふゆこもれびうけて燃えるがごとし
ふゆみどりの炎(ほのほ)
ふゆほのほうちけさむかすみはあおし
ふゆほのほにかすみにただよひて
ふゆうるわしくかがやきたり
ふゆあたたかくかおりたり
ふゆあざやかなりけり 
ふゆやまさとのやまみどり
ふゆやまさとのふかみどり

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。

多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。

「大きな夏みつけた」
から
「夏がすぎてて真秋間近い」

「小さな秋みつけた・。」

そして
「小さな冬みつけた」
そして
「大きな冬みつけた」。
今は「冬」

もうすぐ「小さい春」がみつかるでしょう。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

+++++++++++++++++++++

平成21年01月12日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年2月11日(水曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

平成21年3月20日(金曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらず
インフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は

1927年に19歳で学位を取得。
19歳でエネルギー密度行列の概念を。
フォン・ノイマンとは独立に発見
したロシアの物理学者。

理論物理学者の「常」で。

核爆弾の研究を強いられできるだけ「業績」を
あげないように努力したが。
結局「理論物理学者」の「御自分」にはかてず。

数値計算手法により水爆の核出力を算出すること可能になり。
結果的に水素爆弾開発に多大な貢献を致してしまった。
この貢献により、1949年と1953年のスターリン賞を受賞

1954年には社会主義労働英雄の称号を授与された。

ロシアの「ノーベル物理学賞:1962」*受賞の物理学者。
また物理学者の「ランキング方法」でも非常に
興味深いロシアの物理学者。
ちなみに。
特徴的なことは「詩」は好きだが。
「音楽を全く理解できなかった」「ノーベル物理学賞」
のロシアの物理学者。

(*絶対零度近くでのヘリウムの理論的研究)

1908年 - レフ・ランダウ、物理学者(+ 1968年)
の生誕日です。
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レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ:
Lev Davidovich Landau
(ロシア語:Ле?в Дави?дович Ланда?у、
ラテン文字転写:Lev Davidovich Landau、
1908年1月22日 - 1968年4月1日)はロシアの理論物理学者です。

絶対零度近くでのヘリウムの理論的研究によって
ノーベル物理学賞を授与されました。

エフゲニー・リフシッツとの共著である
『理論物理学教程』は、多くの言語に訳されて。

世界的にも標準的な教科書として極めて
よく知られています。

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レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ:
Lev Davidovich Landauは。

ランダウは1908年。
ダビッド・ルボヴィッチ・ランダウの第2子として
アゼルバイジャンのバクーにて誕生致しました。

父ダビッドは裕福な石油技術者でした。

母リュボフは貧しいユダヤ人家庭の出身です。
但しこの「母親」は。
科学や教育に関し非凡な能力を発揮した母親です。

薬理学に関する論文や教科書を執筆し
ユダヤ人学校で子供の教育に携わるなど
いわゆる自立した女性でした。

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レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ:
Lev Davidovich Landau
の。

ランダウの人格形成や科学的才能の開花については。
母リュボフの影響が大きかったと考えられます。

14歳でバクー国立大学物理学科に入学。
16歳でレニングラード大学に移りました。
1927年に19歳で学位を取得。

同年エネルギー密度行列の概念を
フォン・ノイマンとは独立に発見
致しました。

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レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ:
Lev Davidovich Landau
は。

レニングラード物理工学研究所で。
磁場中の電子の運動、量子電気力学の研究を2年間行った後。

1929年に奨学金を得て海外留学に旅立ちました。

コペンハーゲンの理論物理研究所に1年間滞在して。
ニールス・ボーアとの共同研究を行いました。

その後、ドイツ、イギリス、スイスを歴訪し。

ヨーロッパの指導的理論物理学者と議論を重ねました。

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レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ:
Lev Davidovich Landauは。

イギリスでは。
当時ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所にいた
ピョートル・カピッツァに出会いました。

カピッツァとの磁場中の自由電子に関する議論をもとに。

ランダウ反磁性に関する理論を纏め上げた。

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レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ:
Lev Davidovich Landau
は。

1932年から1937年にかけてハリコフの
ウクライナ物理工学研究所の理論物理部長を務めました。
ここで理論ミニマムと呼ばれるカリキュラムを作りました。

ソ連における理論物理学者の育成を行いました。

また、エフゲニー・リフシッツとの共同で理論物理学教程叢書の
執筆を始めました。

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レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ:
Lev Davidovich Landau
は。
1937年、モスクワの物理工学研究所の理論物理部長に就任致します。

同研究所長に就任したピョートル・カピッツァが発見した
ヘリウム4の超流動現象の理論的解明に着手致しました。

1938年4月28日に。
ランダウは同僚のYuli B.Rumer、Moisey A Koretsと
共に逮捕されました。

罪状はスターリンを批判するビラを作成したこと。

投獄生活は1年に及んだが、上司であるカピッツァによる
懸命な嘆願活動により釈放されました。

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レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ:Lev Davidovich Landau
は。
1941年、ヘリウム4の理論的説明をする論文を発表致しました。
この論文は。
1・
その後の物性物理学の基礎的概念となる
準粒子の概念を導入したことで知られています。

2・
またこの論文ではヘリウム4の波動伝播において
「第2音波モード」の存在を予言していました。

この「第2音波モード」は
1944年に実験的に観測されました。

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レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ:
Lev Davidovich Landau
は。

1940年代から1950年代前半にかけて。
ランダウはソビエトの。
原子爆弾および水素爆弾開発プロジェクトに
参加を余儀なくされました。

彼はこのプロジェクトに嫌悪感を示しました。

最小限の仕事に留めるよう努めました。

皮肉なことに、彼の考案した数値計算手法により
水爆の核出力を算出すること可能になりました。

結果的に水素爆弾開発に多大な貢献を致しました。

この貢献により、1949年と1953年のスターリン賞を受賞。

1954年には社会主義労働英雄の称号を授与されました。

1953年のスターリンの死後。
ランダウは核開発プロジェクトから脱退
致しました。

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科学的業績
ノーベル物理学賞を授賞対象となった絶対零度近くでの
ヘリウムの理論的研究の他。

業績は多岐にわたります。
液体ヘリウムや金属中の電子系にも応用されることとなる
フェルミ液体(フェルミ流体、Fermi liquid)の提唱、
二次相転移の現象論(ランダウ理論)、
プラズマ振動の理論(ランダウ減衰)などがあります。

ランダウ理論の超伝導への拡張であるGL理論
(ギンツブルグ-ランダウ理論)の共同研究者である
ヴィタリー・ギンツブルクは
2003年ノーベル物理学賞を受賞致しました。

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レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ:Lev Davidovich Landau
の人物像

詩を好みしばしば家族の前で朗読を披露致しました。
一方、音楽にはまったく理解を示さませんでした。

演奏を耳にすると嫌悪感を示すことがありました。

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レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ:Lev Davidovich Landau
の物理学者の「ランキング法」の発見。

ランダウは物理学者を。
0から5までのランクに分類して評価致しました。

このランクは対数スケールであり。

ランク1の研究者は
ランク2の研究者に比べ10倍の成果を上げると考えました。
この評価によると。

ランク0にアイザック・ニュートン。
アルベルト・アインシュタインはランク0.5。

ランク1にはニールス・ボーア、ヴェルナー・ハイゼンベルク、
ポール・ディラック、エルヴィン・シュレーディンガー、
エンリコ・フェルミ、サティエンドラ・ボース、
ユージン・ウィグナーらが位置づけられた。ラ

ンダウは自身をランク2.5に位置づけていましたが。
後にランク2まで評価を上げました。

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レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ:Lev Davidovich Landau
は。

1950年代、量子フェルミ液体論を展開しヘリウム3の物性など。
多くの物性を予言し成果を挙げました。

これらの成果に対し。
1962年ノーベル物理学賞が授与されました。

1962年1月7日、自動車事故により瀕死の重傷を負いました。

奇跡的に一命を取りとめたものの物理学界に復帰することは叶わず。

1968年4月1日モスクワにて没しました。

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レフ・ランダウ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ(ロシア語:Ле?в Дави?дович Ланда?у、ラテン文字転写:Lev Davidovich Landau、1908年1月22日 - 1968年4月1日)はロシアの理論物理学者。絶対零度近くでのヘリウムの理論的研究によってノーベル物理学賞を授与された。エフゲニー・リフシッツとの共著である『理論物理学教程』は、多くの言語に訳され、世界的にも標準的な教科書としてよく知られている。

目次 [非表示]
1 生涯
2 科学的業績
3 人物像
4 年表
5 References

生涯
ランダウは1908年、ダビッド・ルボヴィッチ・ランダウの第2子として、アゼルバイジャンのバクーにて誕生した。父ダビッドは裕福な石油技術者であった。母リュボフは貧しいユダヤ人家庭の出身だが、科学や教育に関し非凡な能力を発揮した。薬理学に関する論文や教科書を執筆し、ユダヤ人学校で子供の教育に携わるなど、いわゆる自立した女性であった。ランダウの人格形成や科学的才能の開花については、母リュボフの影響が大きかったとされる。[1]

14歳でバクー国立大学物理学科に入学。16歳でレニングラード大学に移り、1927年に19歳で学位を取得。同年、エネルギー密度行列の概念をフォン・ノイマンとは独立に発見した。

レニングラード物理工学研究所で、磁場中の電子の運動、量子電気力学の研究を2年間行った後、1929年に奨学金を得て海外留学に旅立った。コペンハーゲンの理論物理研究所に1年間滞在し、ニールス・ボーアとの共同研究を行った。その後、ドイツ、イギリス、スイスを歴訪し、ヨーロッパの指導的理論物理学者と議論を重ねた。イギリスでは、当時ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所にいたピョートル・カピッツァに出会った。カピッツァとの磁場中の自由電子に関する議論をもとに、ランダウ反磁性に関する理論を纏め上げた。

1932年から1937年にかけてハリコフのウクライナ物理工学研究所の理論物理部長を務めた。ここで理論ミニマムと呼ばれるカリキュラムを作り、ソ連における理論物理学者の育成を行った。また、エフゲニー・リフシッツとの共同で理論物理学教程叢書の執筆を始めた。

1937年、モスクワの物理工学研究所の理論物理部長に就任。同研究所長に就任したピョートル・カピッツァが発見したヘリウム4の超流動現象の理論的解明に着手した。

1938年4月28日、ランダウは同僚のYuli B.Rumer、Moisey A Koretsと共に逮捕された。罪状はスターリンを批判するビラを作成したことである。投獄生活は1年に及んだが、上司であるカピッツァによる懸命な嘆願活動により釈放された。1941年、ヘリウム4の理論的説明をする論文を発表。この論文は、その後の物性物理学の基礎的概念となる準粒子の概念を導入したことで知られている。またこの論文では、ヘリウム4の波動伝播において「第2音波モード」の存在を予言していたが、この「第2音波モード」は1944年に実験的に観測された。

1940年代から1950年代前半にかけて、ランダウはソビエトの原子爆弾および水素爆弾開発プロジェクトに参加を余儀なくされた。彼はこのプロジェクトに嫌悪感を示し、最小限の仕事に留めるよう努めた。皮肉なことに、彼の考案した数値計算手法により水爆の核出力を算出すること可能になり、結果的に水素爆弾開発に多大な貢献をした。この貢献により、1949年と1953年のスターリン賞を受賞し、1954年には社会主義労働英雄の称号を授与された。1953年のスターリンの死後、ランダウは核開発プロジェクトから脱退した。

1950年代、量子フェルミ液体論を展開し、ヘリウム3の物性など、多くの物性を予言し成果を挙げた。これらの成果に対し、1962年ノーベル物理学賞が授与された。

1962年1月7日、自動車事故により瀕死の重傷を負った。奇跡的に一命を取りとめたものの、物理学界に復帰することは叶わず、1968年4月1日モスクワにて没した。

科学的業績
ノーベル物理学賞を授賞対象となった絶対零度近くでのヘリウムの理論的研究の他、業績は多岐にわたり、液体ヘリウムや金属中の電子系にも応用されることとなるフェルミ液体(フェルミ流体、Fermi liquid)の提唱、二次相転移の現象論(ランダウ理論)、プラズマ振動の理論(ランダウ減衰)などがある。ランダウ理論の超伝導への拡張であるGL理論(ギンツブルグ-ランダウ理論)の共同研究者であるヴィタリー・ギンツブルクは2003年ノーベル物理学賞を受賞した。

人物像
自由恋愛の信奉者であり、結婚後も複数の愛人がいた。さらに愛人をもつことが結婚生活に安定をもたらすとして、妻や弟子たちにも不貞をすすめていた。[1][2]
詩を好み、しばしば家族の前で朗読を披露した。一方、音楽にはまったく理解を示さず、演奏を耳にすると嫌悪感を示すことがあった。[1]
ランダウは、物理学者を0から5までのランクに分類して評価した。このランクは対数スケールであり、ランク1の研究者はランク2の研究者に比べ10倍の成果を上げると考えた。この評価によると、ランク0にアイザック・ニュートン。アルベルト・アインシュタインはランク0.5。ランク1にはニールス・ボーア、ヴェルナー・ハイゼンベルク、ポール・ディラック、エルヴィン・シュレーディンガー、エンリコ・フェルミ、サティエンドラ・ボース、ユージン・ウィグナーらが位置づけられた。ランダウは自身をランク2.5に位置づけていたが、後にランク2まで評価を上げた。

年表
1908年 - バクーにて誕生
1927年 - レニングラード大学卒業
1929年 - コペンハーゲン理論物理研究所に滞在
1932年 - ウクライナ物理工学研究所 理論物理部長
1937年 - モスクワ物理工学研究所 理論物理部長
1938年 - 逮捕、投獄
1939年 - ドロヴァンツェヴァ(K.T.Drobanzeva)と結婚
1941年 - スターリン賞を受賞
1943年 - モスクワ大学教授
1946年 - ソビエト科学アカデミー会員に選出
1946年 - 長男イーゴリー誕生
1949年 - スターリン賞を受賞
1953年 - スターリン賞を受賞
1954年 - 社会主義労働英雄の称号を授与
1962年 - 自動車事故により瀕死の重傷を負う
1962年 - ノーベル物理学賞を受賞
1968年 - モスクワにて死去

References
^ a b c "ランダウ:姪からみた人物像" パリティ Vol.20 No.07 2005-07 p26-35
^ "天才物理学者ランダウの真実" 日経サイエンス 1997-11 p92-100
[表示]表・話・編・歴 ノーベル物理学賞受賞者

ジョン・コッククロフト / アーネスト・ウォルトン (1951) - フェリックス・ブロッホ / エドワード・ミルズ・パーセル (1952) - フリッツ・ゼルニケ (1953) - マックス・ボルン / ワルサー・ボーテ (1954) - ウィリス・ラム / ポリカプ・クッシュ (1955) - ウィリアム・ショックレー / ジョン・バーディーン / ウォルター・ブラッテン (1956) - 楊振寧 / 李政道 (1957) - パーヴェル・チェレンコフ / イリヤ・フランク /イゴール・タム (1958) - エミリオ・セグレ / オーウェン・チェンバレン (1959) - ドナルド・グレーザー (1960) - ロバート・ホフスタッター / ルドルフ・メスバウアー (1961) - レフ・ランダウ (1962) - ユージン・ウィグナー / マリア・ゲッパート=メイヤー / ヨハネス・ハンス・イェンゼン (1963) - チャールズ・タウンズ / ニコライ・バソフ / アレクサンドル・プロホロフ (1964) - 朝永振一郎 / ジュリアン・シュウィンガー / リチャード・P・ファインマン (1965) - アルフレッド・カストレル (1966) - ハンス・ベーテ (1967) - ルイ・アルヴァレ (1968) - マレー・ゲルマン (1969) - ハンス・アルヴェーン / ルイ・ネール (1970) - ガーボル・デーネシュ (1971) - ジョン・バーディーン / レオン・クーパー / ジョン・ロバート・シュリーファー (1972) - 江崎玲於奈 / アイヴァー・ジェーバー / ブライアン・ジョゼフソン (1973) - マーティン・ライル / アントニー・ヒューイッシュ (1974) - オーゲ・ニールス・ボーア / ベン・ロイ・モッテルソン / レオ・ジェームス・レインウォーター (1975)

1901年 - 1925年 | 1926年 - 1950年 | 1951年 - 1975年 | 1976年 - 2000年 | 2001年 - 2025年

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1月22日
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できごと
646年(大化2年1月1日) - 改新之詔が発布される。

1841年(天保11年12月30日) -
平田篤胤が儒教批判・尊王思想により江戸幕府から著述禁止・江戸退去命令を受ける。

1863年 - ロシア帝国支配下のポーランドで一月蜂起が始まる。

1901年 - イギリスで、ヴィクトリア女王の死去に伴い息子のエドワード7世が王位継承。

1905年 - 血の日曜日事件

1916年 - 初の国産飛行船である陸軍の「雄飛号」が所沢〜大阪間で実験飛行。

1976年 - 1971年に発生した連続女性殺人事件の犯人、
大久保清の死刑が東京拘置所で執行される。

1978年 - 流星の貴公子と呼ばれた名馬テンポイントが
レース中に故障発生。手術を施し闘病生活に入る(同年3月5日自然死)。

1984年 - 米アップルコンピュータがマッキントッシュを発表。

2000年 - 営団地下鉄東西線(現東京地下鉄東西線)の原木中山駅〜行徳駅間に妙典駅開業。

2002年 - 三島女子短大生焼殺事件が発生。7月23日に元建設作業員の男が逮捕される。

2003年 - パイオニア10号通信途絶。

誕生日
1561年 - フランシス・ベーコン、哲学者(+ 1626年)

1775年 - A・M・アンペール、物理学者(+ 1836年)

1788年 - バイロン、詩人(+ 1824年)

1797年 - マリア・レオポルディナ、ブラジル帝国皇后(+1826年)

1849年 - ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ、劇作家(+ 1912年)

1872年(明治4年12月13日)- 田山花袋、小説家(+ 1930年)

1902年 - ダニエル・キンゼイ、陸上競技選手(+ 1970年)

1904年 - ジョージ・バランシン、バレエ振付師(+ 1983年)

1905年 - 椋鳩十、小説家(+ 1987年)

1906年 - ロバート・E・ハワード、SF作家・ファンタジー作家(+ 1936年)

1908年 - レフ・ランダウ、物理学者(+ 1968年)

1909年 - ウ・タント、国連事務総長(+ 1974年)

1909年 - 松木謙治郎、元プロ野球選手・監督(+ 1986年) 

1910年 - 西垣徳雄、元プロ野球監督(+ 1989年)

1911年 - ブルーノ・クライスキー、政治家(+ 1990年)

1916年 - アンリ・デュティユー、作曲家

1923年 - 坂本三十次、政治家(+ 2006年)

1924年 - J・J・ジョンソン、トロンボーン奏者(+ 2001年)

1928年 - 網野善彦、歴史家(+ 2004年)

1928年 - 嶋本昭三、芸術家・現代美術家

1930年 - 南風洋子、女優(+ 2007年)

1930年 - 松平康隆、バレーボール選手、監督

1934年 - 松本明、テレビディレクター・プロデューサー

1937年 - 瑳川哲朗、俳優

1938年 - 小林恒人、政治家

1939年 - 湯川れい子、作詞家、音楽評論家

1946年 - 鳳蘭、元宝塚歌劇団星組トップスターの女優

1947年 - 星野仙一、日本代表監督、元プロ野球選手、
元中日ドラゴンズ・阪神タイガース監督、野球解説者

1948年 - たかの友梨、エステティシャン、美容研究家

1949年 - スティーヴ・ペリー、ミュージシャン (ジャーニー)

1950年 - 伊藤洋一、経済評論家

1950年 - 海老沢泰久、小説家
1951年 - 能條純一、漫画家
1953年 - チョン・ミョンフン、指揮者
1953年 - ジム・ジャームッシュ、映画監督
1954年 - 内田勘太郎、ミュージシャン (憂歌団)
1955年 - 高橋惠子、女優
1955年 - 大島蓉子、女優 
1955年 - 千葉均、ばんえい競走騎手
1956年 - ダニエル・カールタン、心理学者
1957年 - 竹田高利、タレント(コント山口君と竹田君)
1958年 - 小林聖始、元プロ野球選手
1959年 - リンダ・ブレア、女優
1960年 - 岡部まり、タレント
1960年 - マイケル・ハッチェンス、歌手(INXS)(+ 1997年)
1961年 - 山田雅人、タレント
1961年 - 中原茂、声優
1963年 - 皆川おさむ、元子役、童謡歌手
1964年 - 和田高明、アニメ演出家
1964年 - 鈴木哲、元プロ野球選手
1965年 - ダイアン・レイン、女優
1967年 - 中西学、プロレスラー
1968年 - HEATH、ベーシスト
1969年 - 土家里織、女優
1970年 - 高木理恵、歌手
1972年 - 朴?美、声優
1973年 - 間宮久美子、タレント
1973年 - 河原純一、プロ野球選手
1973年 - 中村英子、タレント
1974年 - 柳川信行、大相撲力士
1977年 - 丸久美子、タレント
1977年 - 中田英寿、元サッカー選手
1979年 - 林威助、プロ野球選手(阪神タイガース)
1980年 - 石川雅規、プロ野球選手(東京ヤクルトスワローズ)
1983年 - 陽耀勲、プロ野球選手(福岡ソフトバンクホークス)
1984年 - 香月良仁、プロ野球選手(千葉ロッテマリーンズ)
1984年 - 馬場憂太、サッカー選手(ジェフユナイテッド市原・千葉)
1984年 - レオン・ポウ、バスケットボール選手
1984年 - ライカ・オリヴェイラ(en:Raica Oliveira)、モデル
1984年 - マセオ・リグタース(en:Maceo Rigters)、サッカー選手
1985年 - 呉猛、元プロ野球選手
1985年 - モハメド・シソッコ、サッカー選手
1986年 - ダニエル・ウェイン・スミス(en:Daniel Wayne Smith)、俳優・アンナ・ニコル・スミスの息子(+ 2006年)
1987年 - 仲澤広基、プロ野球選手(読売ジャイアンツ)
1987年 - 原田明絵、アイドル、歌手(MUH〜)
1987年 - アストリッド・ヤコブセン(en:Astrid Jacobsen)、クロスカントリースキー選手
1988年 - グレッグ・オデン、バスケットボール選手
1989年 - 山中誠晃、サッカー選手
1990年 - 河合由貴、バレーボール選手
1992年 - 松永涼子、タレント
1992年 - 藤間貴彦、ジャニーズJr.
1992年 - 滝原祐太、俳優、声優
1995年 - 安東心、ジャニーズJr.
1997年 - 夏目卓実、子役
1997年 - 鵜澤正太郎、子役
1997年 - 畠山真莉愛、子役
生年不詳 - 青山ゆかり、声優

忌日
1552年 - エドワード・シーモア、イングランドの貴族・護国卿(* 1506年)

1592年 - エリザベート・ドートリッシュ、フランス王シャルル9世の妃(* 1554年)

1666年 - シャー・ジャハーン、ムガル帝国第5代皇帝(* 1592年)

1745年(延享元年12月20日)- 前田利隆、第4代富山藩主(* 1690年)

1779年 - ジェレマイア・ディクソン、天文学者(* 1733年)

1851年(嘉永3年12月21日)- 国定忠治、侠客(* 1810年)

1893年 - 河竹黙阿弥、歌舞伎狂言作者(* 1816年)

1900年 - デイビッド・エドワード・ヒューズ、電気技術者(* 1831年)

1901年 - ヴィクトリア、イギリス女王(* 1819年)

1908年 - アウグスト・ウィルヘルミ、ヴァイオリニスト(* 1845年)

1918年 - 吉田東伍、歴史学者・地理学者(* 1864年)

1922年 - フレデリック・バイエル、政治家(* 1837年)

1922年 - カミーユ・ジョルダン、数学者(* 1838年)

1922年 - ウィリアム・クリスティ、天文学者(* 1845年)

1922年 - ベネディクトゥス15世、第257代ローマ教皇(* 1854年)

1922年 - 徳川慶久、貴族院議員(* 1884年)

1936年 - 森本六爾、考古学者(* 1903年)

1938年 - 大ノ里萬助、大相撲の力士・元大関(* 1892年)

1938年 - 今井清、陸軍中将(* 1882年)

1941年 - 林忠崇、第3代請西藩主(* 1848年)

1942年 - ルイス・サントップ、ニグロリーグの野球選手(* 1890年)

1945年 - エルゼ・ラスカー=シューラー、詩人(* 1869年)

1948年 - 柳亭春楽、落語家(* 1901年)

1955年 - 河原田稼吉、内務大臣・文部大臣(* 1886年)

1959年 - エリザベス・ムーア、テニス選手(* 1876年)

1959年 - ケン・ウィリアムズ、メジャーリーグベースボール選手(* 1890年)

1959年 - マイク・ホーソーン、F1レーサー(* 1929年)

1966年 - 川田順、歌人・実業家(* 1882年)

1968年 - 松永東、第45代衆議院議長(* 1887年)

1968年 - デューク・カハナモク、水泳選手(* 1890年)

1970年 - 西角井正慶、国文学者・民俗学者(* 1900年)

1973年 - リンドン・B・ジョンソン、第36代アメリカ合衆国大統領(* 1908年)

1974年 - ジェラルド・クレメンス、天文学者(* 1908年)

1976年 - 大久保清、元死刑囚(* 1935年)

1977年 - パスカル・ペレス、プロボクサー(* 1926年)

1979年 - アリー・ハサン・サラーマ、
ミュンヘンオリンピック事件の中心人物・フォース17創設者(* 1940年?)

1984年 - 一万田尚登、第18代日本銀行総裁・大蔵大臣(* 1893年)

1985年 - 向坂逸郎、マルクス経済学者・思想家(* 1897年)

1989年 - ウィリー・ウェルズ、ニグロリーグの野球選手(* 1905年)

1992年 - 染谷誠、自由民主党衆議院議員(* 1918年)

1993年 - 安部公房、小説家(* 1924年)

1994年 - 灘尾弘吉、政治家、第60・61代衆議院議長(* 1899年)

1994年 - ジャン=ルイ・バロー、俳優(* 1910年)

1994年 - テリー・サバラス、俳優(* 1924年)

1995年 - 下田武三、外交官・最高裁判所裁判官・プロ野球コミッショナー(* 1907年)

1998年 - ハロルド・リンゼル、神学者(* 1913年)

1999年 - ジョージ・モッセ、歴史学者(* 1918年)

2001年 - 奥田八二、福岡県知事(* 1920年)

2001年 - マルセ太郎、パントマイム芸人・俳優(* 1933年)

2001年 - トミー・エイジー、メジャーリーグベースボール選手(* 1942年)

2005年 - コンスエロ・ベラスケス、作曲家・ピアニスト(* 1924年)

2006年 - 川田正子、歌手(* 1934年)

2006年 - 高橋秀直、歴史学者(* 1954年)

2007年 - アベ・ピエール、神父・慈善活動家(* 1912年)

2007年 - 千速晃、実業家(* 1935年)

2007年 - わたなべぢゅんいち、アニメーター(* 生年不明)

2008年 - クロード・ピロン、言語学者・心理学者(* 1931年)

2008年 - ヒース・レジャー、俳優(* 1979年)

記念日・年中行事
飛行船の日(日本)
1916年1月22日に、初の国産飛行船である陸軍の
「雄飛号」が所沢〜大阪間で実験飛行を行ったことに由来。

ジャズの日 (日本)
JaはJanuary (1月) の略、ZZは22日に見えるから。

カレーの日 (日本)
1982年、学校給食開始35周年を期に制定。
1982年のこの日、全国の小中学校の給食で一斉にカレーライスが出された。