東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年1月27日(火曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年1月27日(火曜日)

平成21年の「1月」も「27日」たちました。
あと「4日」で最後の「冬」「2月」になります。
そして「32日」で「春」の「3月」になります。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

「昨年」
「9月」がおわわりました。
「10月」も終わりました。
「11月」もおわり。
「12月」で「冬」になりました。
「12月」がおわり。
「昨年」はおわりました。
今は
「初春」です。

「冬」も「年」を越しました。
「中冬」です。

「初春」の。
「冬」はしずかに。
しずかに。しずかに。

能の舞(のうのまい)の。
「おきなのあゆみ」のように。
そそとした「冬舞台」の上を。
さらにふかまりつつ冬の景色の舞台の上を。

あゆみつつあります。
「冬」から「春」にむかっています。

「初春」です。

暗い朝の早朝に。
南の天に「明けの明星」が
輝いています。
闇夜の天高いかがやく惑星。

「明けの明星」金星に。
毎日「おはよう」のあいさつを
します。

「新年」「初春」
早朝に。

はるか暗い早朝に「こおろぎ」の
かすかな。ひとりぼっちの。
鳴き声がきこえたような気が致しました。

けれどもそれは。

木枯らしの声。

毎朝の暗いうちの木枯らしの「音色」は。
毎日違います。

「ろうろう」「こうこう」

耳をすませば。
木枯らしの鳴き声は。
「独唱」から次第に「合唱」に
なってきました。

そしてオーケストラの楽器の配列のように。
一風一かぜの
「木枯らし」の鳴いている場所がわかるように。
なってきました。

木枯らしも
「もっと深冬(ふかふゆ)」。
そして「もっと深い冬の先」
「の季節にむけての。

ころもがえやひっこしをしている
ことがわかります。

「木枯らし」は。

「鳥」のように。

木々の上から電線のうえにいるようです。

木枯らしは

「街路樹」にとまって。

「冬」を過ごすのでしょう。

陽ののぼる時刻はとても遅くなりました。
そして
陽のおりる夕暮れは。
とてもやくくなりました。
つるべがおちるようにすとんと
暗くなります。

朝の04:30amにはふたたび「真っ暗」
の時期になりました。
あさの06:00amでもなお暗い東空
です。

けれども「昨年」冬至もおわり。
これから日々ゆっくりと
日は長くなります。陽はたかくなります。
よるは短くなりはじめます。

これからは天上の太陽は。
「冬」から「春」に向かいます。

けれども「地上」では。
「今」こそ「真冬」です。

あさは曇っていて。
さらに昼間でも「さむい」ことがある。
私がおきるまっくらな早朝は。
とてもとても。
とても寒いです。
雪国うまれの私はさむいのがつらい
です。

早朝「そら」をみあげれば。
晴れているはず。日差しもあるはず。

けれども空には
「雲がいっぱい」で「空はくもりそら」
です。
ふしぎな「冬」のひざしです。

ふとかんがえれば・・。

そして「冬」にも。
「初春」の「中冬」の。
「若芽」をまもる
「冬」の太陽から。さらなる恵みを
「実る木の芽」にあたえる。

「空」こそは。
「ソフトフイルター」の役目を。
深い「冬」の「おぼろくもりそら」が
しているようです。

自然とは。
とてもよくできたものです。

変幻自在であり
そして規則も正しい。
なおかつにして。
自由が自在。

春夏秋冬。
大気に漂う霞がごとし。

深い山の奥に住むという

仙人の心境が。

とてもよくわかります。

冬の街路樹もそうそうたる。
ふかまる冬の羽振りを。
まとう木々に姿になってきました。

そして冬の。
紅葉の冬。
枯れ葉も冬をむかえています。
木々のまとう枯れ葉は木々の
セーターのようです。
少しでも暖かければ。

街路樹は「落葉樹」がよいです。

街路樹が「松や杉」のような。
「常緑樹」では
冬はうっそうとして
陽の光をえられない。

夏場は枝ぶり葉っぱから陽の光を
さえぎれない。
晩秋も「針葉樹の落葉」では
木枯らしもつりがあわない。
とどのつまり
四季のリズムはつくれません。

ヴイバルデイの
「四季」の「夏」にある
木陰で休む羊飼いの旋律
も。
フランツ・シューベルトの
「菩提樹」の歌曲
も「うまれません」。

落葉の針葉樹で
強いからといって私の「好き」な。
「からまつ」をうえられても
街路樹には叶(かな)わないでしょう。

私の「大好き」な。
北原白秋の「からまつの詩」。

「からまつ」は

街路樹にはそぐはないかもしれません。

播磨の俳人滝野瓢水の句

「手に取るなやはり野におけ蓮華草」

のように。

やはり野におけ蓮華草。

やはり野におけから松木。

「からまつ」も蓮華草と同じくに。

清楚な華やかさとはかなさを

もっています。

やはり野におけ。
蓮華草とからまつ。

「中冬」の「からまつ」です。

そしていまからまつの時期になりました。

-------------------------------
北原白秋
 
「水墨集」より

  
 落葉松
-------------------------------

      一
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 からまつをしみじみと見き。
 
 からまつはさびしかりけり。
 
 たびゆくはさびしかりけり。

      二
                 
 からまつの林を出でて、
 
 からまつの林に入りぬ。
 
 からまつの林に入りて、
 
 また細く道はつづけり。

      三
 
 からまつの林の奥も
 
 わが通る道はありけり。
  きりさめ
 霧雨のかかる道なり。
 やまかぜ
 山風のかよふ道なり。

      四
 
 からまつの林の道は、
 
 われのみか、ひともかよひぬ。
 
 ほそぼそと通ふ道なり。
 
 さびさびといそぐ道なり。

      五
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 
 からまつはさびしかりけり、
 
 からまつとささやきにけり。

      六

 からまつの林を出でて、
  あさま ね
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 からまつのまたそのうへに。

      七
 
 からまつの林の雨は
 
 さびしけどいよよしづけし。
 
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 
 からまつの濡るるのみなる。

      八
 
 世の中よ、あはれなりけり。
 
 常なれどうれしかりけり。
 
 山川に山がはの音、
 
 からまつにからまつのかぜ。

-------------------------------

木々の青葉の房が
早朝くらい中でも
うかびあがります。
とりわけ私は
くすのき科が。
「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
けやきもすきです。
カエデもすきです。
もみじもすきです。
松もすきです。
杉もすきです。
からまつも好きです。

いまは
「冬」です。

「初春」「中冬」ながら。
裸木の。
木々の穂先は小さいけれども毛氈(もうせん)
のようにあざやかな萌黄色と緑です。

まるで。
大きな里山の森の冬のうねりのようです。
今年は木々のわかばの冬のめばえがとてもとても
鮮烈です。
「春」の芽はえも「鮮烈」なことと見守ります。
冬の木枯らしが若芽のうえを吹き抜けていきます。

街角の雑草も
冬草に変貌して。

「木枯らし」になり。
道端のくさばなは。
「遠慮がち」になりました。

雑草も。
冬草へと変貌しつつあります。

朝暗いうちは。
とてもはださむいです。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
ふとい孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

木枯らしいてつく冬竹(ふゆたけ)の
笹葉は蒼くふるえたり
みどり葉笹葉にかぜはやみ
冬陽をうつすやうつろひの
竹の葉木枯らしはやいくとせ

冬地にも空にも
冬みどり葉ひらき
冬みどり木冬空
冬天高くひろがりけり
冬ゆたかなりけり
冬いふことのなし
冬いふことがなし
冬いふことはなし
冬ゆたかなりけりふゆ

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成21年1月12日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ限られた時間帯で。
診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ限られた時間帯で。
診療を行います

-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ限られた時間帯で。
診療を行います

-------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

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麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です。

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「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は。

ケープ植民地で軍隊の輸送にあたり。
南アフリカへの2回の航海では何も事件が発生せず。

この輸送で1903年にエドワード7世から
「Transport Medal」を授かり。

「最も安全な船長」という評価を
受けることとなった「船長」。

タイタニック号の船長にいたることになった。
「安全な船長」は「上流階級」の「指名船長」でも
ありました。
しかし「安全<な船長」も「オリンピック号」や
「タイタニック号」の頃には
「事故」もおこすようになっていた。
「大富豪が指名」の「安全な船長」

1850年 - エドワード・J・スミス、
タイタニック号船長(+ 1912年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

エドワード・ジョン・スミス
(英語: Edward John Smith、
1850年1月27日 - 1912年4月15日)は
イギリスの船長です。

一般には、1912年に沈没した豪華客船タイタニックの
船長として知られています。

イギリススタッフォードシャーの
リッチフィールドには
彼の像が建てられています。

++++++++++++++++++++++

エドワード・ジョン・スミス:
Edward John Smithの略歴

私生活
1850年1月27日イングランド中部のハンリー
(現在のストーク・オン・トレント)で
陶芸家の父エドワードと母キャサリンとの間に生まれました。

エトルリア・ブリティッシュ・スクールに通った後。
13歳の時にリバプールで船舶の仕事に就きました。
後にギブソン・アンド・カンパニー社に入った。

++++++++++++++++++++++

エドワード・ジョン・スミス:
Edward John Smith

1887年7月12日、サラ・エレノア・ペニントンと結婚致しました。

1898年には娘ヘレンが誕生致します。
一家はサウサンプトンの赤レンガの家に住みmした。

「ウッドヘッド」と呼んでいました。
ヘレンによると、スミスは葉巻とその煙を愛しておりました。

葉巻の煙が作る輪を乱されたくなかったため。
葉巻を吸っている間は書斎に誰も入れさせなかったという
ことです。

++++++++++++++++++++++

エドワード・ジョン・スミス:
Edward John Smithの。

船長として1880年3月に。
ホワイト・スター・ライン社に移りました。
セルティックの四等航海士となりました。

その後、会社のオーストラリア航路や
ニューヨーク航路に勤務し。

瞬く間に昇進を重ねていきました。
1887年、蒸気船リパブリックの船長となり。

翌1888年には特別船長資格を取得ました。

また英国海軍予備役大尉となりました。

これは戦争の際には。
スミスとスミスの船が英国海軍のものとして
活動することを求められうることを意味していました。

英国海軍艦隊の船長であったため。
他の商船が
レッド・エンサインの権利を与えられていたところを。

スミスには
ブルー・エンサインを掲げる権利が与えられていました。

++++++++++++++++++++++

エドワード・ジョン・スミス:
Edward John Smith

大型船の船長として
1895年から9年間。
スミスは客船マジェスティックの船長を務めました。
1899年に第二次ボーア戦争が始まると。

スミスはマジェスティックとともに徴用されました。

ケープ植民地で軍隊の輸送にあたりました。
南アフリカへの2回の航海では何も事件が発生せず。

スミスはこの輸送で1903年にエドワード7世から
「Transport Medal」を授かっています。

スミスは「安全な船長」という
評価を受けることとなりました。

++++++++++++++++++++++

エドワード・ジョン・スミス:
Edward John Smith

スミスの先任順位が上がるにつれて。

乗客や乗組員から穏やかで華麗だという
評価を得るようになっていきました。

1904年、他の全ての船長から報告を
受ける立場の先任船長となりました。

乗客の中には大西洋を横断する際には
スミスの船を選ぶ者もいました。

++++++++++++++++++++++

エドワード・ジョン・スミス:
Edward John Smith
は。

イギリスの上流階級から。

自分たちの乗る船の船長をスミスにするよう
普段から要求があったことから「大富豪たちの船長」
として知られるようになりました。

先任船長となって以来、新しい船が出来上がった際の
処女航海で舵を取ることは決まった仕事となっていました。

1904年、当時世界最大であった
ホワイト・スター社の客船バルチックの船長となりました。

6月29日にリバプールを発ったバルチックの処女航海では。
ニューヨークまでの間に何の事故も発生しませんでした。

その3年後の1907年。
再び大型客船アドリアティックを与えられ
ました。
この処女航海でも事故は発生しませんでした。

アドリアティックの船長時代。
スミスは予備艦隊から永年勤続表彰を受けるとともに
中佐に昇進致しました。

++++++++++++++++++++++

エドワード・ジョン・スミス:
Edward John Smith

オリンピックの船長
スミスは世界で最も経験豊かな船長の一人という
名声を築き上げていきました。

そこで、再び当時世界最大の船となる
オリンピック級客船のネームシップ。

オリンピックの最初の船長として請われることとなりました。
リバプールからニューヨークに向けてのの処女航海は。
1911年6月21日に無事終了致しました。

しかし。
ニューヨーク港に接岸する際に。

その後の事件を予感させるような事故が発生しています。
水先人によって59番桟橋に接岸する際に。

オリンピックは12隻のタグボートのうち1隻を
右舷スクリューが発生させた後流によって
衝突させてしまっています。

タグボートは反転し、巨大な船体に衝突致しました。

++++++++++++++++++++++

エドワード・ジョン・スミス::Edward John Smith

ホークとの事故
1911年9月20日。
オリンピックは初めて大きな事故を起こしました。
イギリス海軍の防護巡洋艦ホークと衝突し
ホークは船首を破損致しました。

この衝突でオリンピックの防水区画のうち2つが破壊され。
プロペラシャフト1つが折れ曲がったが
自力でサウサンプトン港に戻ることが
できました。

++++++++++++++++++++++

エドワード・ジョン・スミス::Edward John Smithは

事故調査に際して。
海軍側は事故の原因がオリンピックにあるとして訴えました。
すなわちオリンピックが巨大であったため。

その吸引力により
ホークが引き込まれたというものであったのです。

この事件の最中、ブリッジにはスミスがいました。

このホークとの事故は
ホワイト・スター社にとって経済的な痛手となり
ました。

大型船にとって営業できない時期というのは
さらに事態を悪いものにし致しました。
オリンピックはベルファストに戻り
その修理を急ぐこととなりました。

これによりハーランド・アンド・ウルフは
タイタニックのプロペラシャフトの一つを
オリンピックに使いました。

タイタニックの完成を遅らせざるをえなくなったのです。

++++++++++++++++++++++

エドワード・ジョン・スミス:
Edward John Smith

1912年2月、海上に戻ったオリンピックだが。
プロペラブレードを破損し再びドックに
戻って応急修理を行うこととなりました。

オリンピックを直ちに運行できるようにするため。
ハーランド・アンド・ウルフはそちらに力を注ぐことに
なりました。

タイタニックの処女航海は
3月20日から4月10日に延期となりました。

++++++++++++++++++++++

エドワード・ジョン・スミス::Edward John Smith
は。
タイタニック
詳細はタイタニック (客船)を参照

それまでのトラブルにも関わらず。
タイタニックがサウサンプトンから処女航海に発つ際。
スミスは船長として再び任命されました。

スミスがタイタニックの処女航海を最後に
引退するということが決まっていたという説があります。

++++++++++++++++++++++

1912年4月9日の
ハリファックス・モーニング・クロニクルには。

スミスがタイタニックを
「会社がより大きくより豪華な汽船を完成させるまで」
担当し続けると伝えています。

4月10日。
スミスは外套に山高帽という服装で自宅から
タクシーでサウサンプトン港に向かいました。
午前7時にタイタニックに乗り込みまし。

12時の出発後、港に係船されていた
シティ・オブ・ニューヨークが。
タイタニックが通過する際のスクリューの水流に巻き込まれ。
係留具が外れてタイタニックに向かってしまいました。

スミスの迅速な行動により衝突は回避されました。
タイタニックの処女航海があっという間に
終わることは避けられました。

++++++++++++++++++++++

しかし4月14日の23時40分。
タイタニックは北大西洋で氷山に衝突致しました。
船は2時間40分後に沈没し約1,500人が命を落としました。
スミスもまた亡くなった者の一人であったのです。

最期の瞬間
タイタニックが沈んだ際、スミスがどのように亡くなったのかは
諸説があります。

数人の生存者たちは、救命胴衣を身に着け海中にいる
スミスを目撃したと証言しています。
一方で、オープンブリッジに浸水が及ぶ中
操舵室にいるスミスを見たという証言もあります。

ロバート・バラードの
『タイタニック発見(The Discovery of the Titanic)』では。
沈没の10分前にあたる午前2時13分にスミスがブリッジに入っていったとしています。

この説は1997年の映画『タイタニック』でも採用されています。

しかしこの他にも、Aデッキプロムナードまで戻ったスミスが。
その直後に窓が割れて船内の大階段に向けて吸い込まれていくのを
見たという証言もあります。

タイタニックは4月14日の23時40分頃氷山に衝突致しました。
翌日の2時23分まで沈まなかったのです。

このことは。
スミス船長の死亡日が1912年4月15日であることを裏付けています。

++++++++++++++++++++++

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エドワード・スミス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9

エドワード・ジョン・スミス(英語: Edward John Smith、1850年1月27日 - 1912年4月15日)は、イギリスの船長。一般には、1912年に沈没した豪華客船タイタニックの船長として知られている。イギリススタッフォードシャーのリッチフィールドには、彼の像が建てられている[1]。

目次
1 略歴
1.1 私生活
1.2 船長として
1.3 大型船の船長として
1.4 オリンピックの船長
1.5 ホークとの事故
1.6 タイタニック
1.7 最期の瞬間
2 演じた俳優
3 脚注

略歴

私生活
1850年1月27日、イングランド中部のハンリー(現在のストーク・オン・トレント)で陶芸家の父エドワードと母キャサリンとの間に生まれた。エトルリア・ブリティッシュ・スクールに通った後、13歳の時にリバプールで船舶の仕事に就き、後にギブソン・アンド・カンパニー社に入った。

1887年7月12日、サラ・エレノア・ペニントンと結婚した。1898年には娘ヘレンが誕生、一家はサウサンプトンの赤レンガの家に住み、「ウッドヘッド」と呼んでいた。ヘレンによると、スミスは葉巻とその煙を愛しており、葉巻の煙が作る輪を乱されたくなかったため、葉巻を吸っている間は書斎に誰も入れさせなかったという。

船長として
1880年3月、ホワイト・スター・ライン社に移り、セルティックの四等航海士となった。その後、会社のオーストラリア航路やニューヨーク航路に勤務し、瞬く間に昇進を重ねていった。1887年、蒸気船リパブリックの船長となり、翌1888年には特別船長資格を取得、また英国海軍予備役大尉となった。これは、戦争の際にはスミスとスミスの船が英国海軍のものとして活動することを求められうることを意味していた。英国海軍艦隊の船長であったため、他の商船がレッド・エンサインの権利を与えられていたところ、スミスにはブルー・エンサインを掲げる権利が与えられていた。

大型船の船長として
1895年から9年間、スミスは客船マジェスティックの船長を務めた。1899年に第二次ボーア戦争が始まると、スミスはマジェスティックとともに徴用され、ケープ植民地で軍隊の輸送にあたった。南アフリカへの2回の航海では何も事件が発生せず、スミスはこの輸送で1903年にエドワード7世から「Transport Medal」を授かっている。スミスは「安全な船長」という評価を受けることとなった。

スミスの先任順位が上がるにつれて、乗客や乗組員から穏やかで華麗だという評価を得るようになっていった。1904年、他の全ての船長から報告を受ける立場の先任船長となった。乗客の中には大西洋を横断する際にはスミスの船を選ぶ者もいた。また、イギリスの上流階級から、自分たちの乗る船の船長をスミスにするよう普段から要求があったことから、「大富豪たちの船長」として知られるようになった。先任船長となって以来、新しい船が出来上がった際の処女航海で舵を取ることは決まった仕事となっていた。1904年、当時世界最大であったホワイト・スター社の客船バルチックの船長となった。6月29日にリバプールを発ったバルチックの処女航海では、ニューヨークまでの間に何の事故も発生しなかった。その3年後の1907年、再び大型客船アドリアティックを与えられ、この処女航海でも事故は発生しなかった。アドリアティックの船長時代、スミスは予備艦隊から永年勤続表彰を受けるとともに、中佐に昇進した。

オリンピックの船長
スミスは世界で最も経験豊かな船長の一人という名声を築き上げていた。そこで、再び当時世界最大の船となるオリンピック級客船のネームシップ、オリンピックの最初の船長として請われることとなった。リバプールからニューヨークに向けてのの処女航海は、1911年6月21日に無事終了した。しかし、ニューヨーク港に接岸する際、その後の事件を予感させるような事故が発生している。水先人によって59番桟橋に接岸する際、オリンピックは12隻のタグボートのうち1隻を右舷スクリューが発生させた後流によって衝突させてしまっている。タグボートは反転し、巨大な船体に衝突した。

ホークとの事故
1911年9月20日、オリンピックは初めて大きな事故を起こした。イギリス海軍の防護巡洋艦ホークと衝突し、ホークは船首を破損した。この衝突でオリンピックの防水区画のうち2つが破壊され、プロペラシャフト1つが折れ曲がったが、自力でサウサンプトン港に戻ることができた。

事故調査に際して、海軍側は事故の原因がオリンピックにあるとして訴えた。すなわちオリンピックが巨大であったため、その吸引力によりホークが引き込まれたというものであった。この事件の最中、ブリッジにはスミスがいた。

このホークとの事故は、ホワイト・スター社にとって経済的な痛手となり、大型船にとって営業できない時期というのはさらに事態を悪いものにした。オリンピックはベルファストに戻り、その修理を急ぐこととなった。これによりハーランド・アンド・ウルフはタイタニックのプロペラシャフトの一つをオリンピックに使い、タイタニックの完成を遅らせざるをえなくなった。

1912年2月、海上に戻ったオリンピックだが、プロペラブレードを破損し再びドックに戻って応急修理を行うこととなった。オリンピックを直ちに運行できるようにするため、ハーランド・アンド・ウルフはそちらに力を注ぐことになり、タイタニックの処女航海は3月20日から4月10日に延期となった。

タイタニック
詳細はタイタニック (客船)を参照

それまでのトラブルにも関わらず、タイタニックがサウサンプトンから処女航海に発つ際に、スミスは船長として再び任命された。スミスがタイタニックの処女航海を最後に引退するということが決まっていたという説があるが、1912年4月9日のハリファックス・モーニング・クロニクルには、スミスがタイタニックを「会社がより大きく、より豪華な汽船を完成させるまで」担当し続けると伝えている。

4月10日、スミスは外套に山高帽という服装で自宅からタクシーでサウサンプトン港に向かい、午前7時にタイタニックに乗り込んだ。12時の出発後、港に係船されていたシティ・オブ・ニューヨークが、タイタニックが通過する際のスクリューの水流に巻き込まれ、係留具が外れてタイタニックに向かってしまった。スミスの迅速な行動により衝突は回避され、タイタニックの処女航海があっという間に終わることは避けられた。

しかし4月14日の23時40分、タイタニックは北大西洋で氷山に衝突した。船は2時間40分後に沈没し、約1,500人が命を落とした。スミスもまた亡くなった者の一人であった。

最期の瞬間
タイタニックが沈んだ際、スミスがどのように亡くなったのかは諸説がある。数人の生存者たちは、救命胴衣を身に着け海中にいるスミスを目撃したと証言している。一方で、オープンブリッジに浸水が及ぶ中、操舵室にいるスミスを見たという証言もある。ロバート・バラードの『タイタニック発見(The Discovery of the Titanic)』では、沈没の10分前にあたる午前2時13分にスミスがブリッジに入っていったとしている。この説は1997年の映画『タイタニック』でも採用されている。しかしこの他にも、Aデッキプロムナードまで戻ったスミスが、その直後に窓が割れて船内の大階段に向けて吸い込まれていくのを見たという証言もある。タイタニックは4月14日の23時40分頃氷山に衝突したが、翌日の2時23分まで沈まなかった。このことは、スミスの死亡日が1912年4月15日であることを裏付けている。

演じた俳優
詳細はタイタニック (映画)を参照

最初に映画でスミスを演じた俳優は、1943年のナチスプロパガンダ映画『タイタニック』でのオットー・ヴェルニッケである。1953年には映画『タイタニックの最期』でブライアン・エイハーンが演じた。その後も、ローレンス・ナイスミス(『SOSタイタニック』・1958年)、ハリー・アンドリュース(『失われた航海』・1979年)、ジョージ・C・スコット(『ザ・タイタニック 運命の航海』・1996年)などが演じてきた。

スミスが登場した直近の作品は、バーナード・ヒルが演じた1997年の『タイタニック』である。この作品ではスミスの最期の場面として、下船しようとする乗組員の手を断って独りブリッジに籠り、ブリッジが水中に没して水圧に耐え切れず割れた窓から水が入り込んでいく光景を描いている。

このほかスミスをテレビで演じた人物として、1966年のテレビ映画『タイムトンネル』でのマイケル・レニーがいる。ただし、この時はなぜかエンディングクレジットで「マルコム・スミス」とクレジットされている。

脚注
^ Smith information at Titanic-Titanic.com
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カテゴリ: イギリスの船員 | 1850年生 | 1912年没

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1月27日
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できごと
1587年(天正14年12月19日) - 羽柴秀吉が太政大臣に任じられ、
豊臣の姓を名乗るようになる。

1618年(元和4年1月1日) - 江戸城の大奥を男子禁制とする。

1868年(慶応4年1月3日) - 戊辰戦争で、鳥羽・伏見の戦いが行われる。

1869年(明治元年12月15日) -
榎本武揚らが箱館で蝦夷の領有を宣言。いわゆる蝦夷共和国が発足する。

1880年 - トーマス・エジソン、白熱電球の特許を申請

1882年 - 生命保険の死亡保険金が初めて支払われる。

1915年 - アメリカ合衆国海兵隊、ハイチを占領

1934年 - スタヴィスキー事件による混乱の責任を取って、
フランスのショータン内閣総辞職。

1936年 - ロシア出身のバス歌手フョードル・シャリアピンが来日。
来日の際、帝国ホテルでシャリアピンステーキが出された。

1942年 - エンドウ沖海戦。

1945年 - ナチス・ドイツのアウシュヴィッツ強制収容所がソ連軍により解放。

1951年 - アメリカ合衆国ネバダ核実験場で初の核実験が行われる

1967年 - アポロ1号が訓練中に事故で炎上。宇宙飛行士3人が死亡。

1967年 - アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦などを含む
60ヶ国以上の国が宇宙条約に署名

1968年 - 営団地下鉄日比谷線(当時)の神谷町駅で車両火災事故

1973年 - 北ベトナム・南ベトナム・南ベトナム解放民族戦線・アメリカの四者
でベトナム和平パリ協定を締結。ベトナム戦争正式に終戦

1983年 - 青函トンネルの先進導抗が貫通

1989年 - 佐賀県北方町で、道路脇の崖下から女性3人の遺体が発見される(北方事件)

誕生日
1613年(慶長17年12月7日)- 良如、浄土真宗本願寺派13世(+ 1662年)

1756年 - ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、作曲家(+ 1791年)

1775年 - フリードリヒ・シェリング、哲学者(+ 1854年)

1806年 - ホアン・クリソストモ・アリアーガ、作曲家(+ 1826年)

1807年 - ダーフィト・シュトラウス、哲学者・神学者(+ 1874年)

1823年 - エドゥアール・ラロ、作曲家(+ 1892年)

1824年 - デイヴィッド・マッケンドリー・キー、
第30代アメリカ合衆国郵政長官(+ 1900年)

1827年(文政10年1月1日) - 河井継之助、長岡藩家老・陽明学者(+ 1868年)

1827年(文政10年1月1日) - ジョン万次郎、通訳(+ 1898年)

1832年 - ルイス・キャロル、童話作家『ふしぎの国のアリス』・数学者(+ 1898年)

1836年 - レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ、小説家(+ 1895年)

1838年(天保9年1月2日) - 町田久成、東京国立博物館初代館長(+ 1897年)

1848年(弘化4年12月22日) - 東郷平八郎、帝国海軍軍人(+ 1934年)

1850年 - エドワード・J・スミス、タイタニック号船長(+ 1912年)

1850年 - サミュエル・ゴンパーズ、労働運動指導者(+ 1924年)

1850年 - ジョン・コリア、画家(+ 1934年)

1853年 - ヨハネス・ユストゥス・ライン、地理学者・日本学者(+ 1918年)

1859年 - ヴィルヘルム2世、ドイツ皇帝(+ 1941年)

1885年 - 前田青邨、日本画家(+ 1977年)

1886年 - ラダ・ビノード・パール、インド人法学者極東国際軍事裁判判事(+ 1967年)

1891年 - イリヤ・エレンブルク、ソビエト連邦の作家(+ 1967年)

1891年 - 高橋亀吉、経済学者(+ 1977年)

1893年 - 宋慶齢、政治家・孫文夫人(+ 1981年)

1893年 - 矢内原忠雄、経済学者・東京大学学長(+ 1961年)

1895年 - ヨーゼフ・ローゼンシュトック、指揮者(+ 1985年)

1900年 - 賀陽宮恒憲王、皇族(+ 1978年)

1901年 - 千宗左、茶道家(表千家14世)(+ 1979年)

1903年 - ジョン・C・エックルス、神経生理学者(+ 1997年)

1913年 - 森下正明、生態学者、京都大学名誉教授(+ 1997年)

1915年 - 日本橋きみ栄、歌手(+ 1993年)

1918年 - エルモア・ジェームス、ブルース・ギタリスト(+ 1963年)

1924年 - ラウフ・デンクタシュ、北キプロス・トルコ共和国初代大統領

1925年 - 奥井成一、元プロ野球選手(+ 2008年)

1930年 - ボビー・ブルー・ブランド、ブルース・シンガー

1932年 - ボリス・シャハリン、
ソビエト連邦代表体操選手、東京オリンピック鉄棒金メダリスト

1936年 - サミュエル・ティン、物理学者、ノーベル物理学賞受賞者

1937年 - ジョン・オグドン、イングランドのピアニスト(+ 1989年)

1940年 - ジェームズ・クロムウェル、アメリカ合衆国の俳優

1940年 - ペトル・ルチンスキ、前モルドバ大統領

1941年 - ベアトリス・ティンズリー、天文学者・宇宙物理学者(+ 1981年)

1945年 - ニック・メイスン、「ピンク・フロイド」ドラマー

1948年 - 永倉万治、随筆家(+ 2000年)

1954年 - 杉山知之、CGアーティスト・デジタルハリウッド創業者

1954年 - 二宮城光、空手家
1955年 - ジョン・ロバーツ、第17代アメリカ合衆国連邦最高裁判所長官
1956年 - ミミ・ロジャース、女優
1957年 - フランク・ミラー、コミックライター
1960年 - 清水ミチコ、コメディアン
1960年 - 柘植伊佐夫、ヘアメイクアップアーティスト
1961年 - 江森浩子、声優
1963年 - 田中哲弥、作家
1964年 - 折原みと、漫画家
1964年 - ブリジット・フォンダ、女優
1965年 - アラン・カミング、俳優
1966年 - 三田寛子、女優
1966年 - タムリン・トミタ、女優
1966年 - 杉森建、ゲームクリエイター、イラストレーター、漫画家
1966年 - 呉俊宏、元プロ野球選手
1969年 - 小山田圭吾、音楽家
1969年 - 茂木康子、柔術家、総合格闘家
1970年 - エマニュエル・パユ、フルート奏者
1971年 - 巴富士俊英、元大相撲力士
1971年 - 古沢淳、元プロ野球選手
1971年 - 嶋村かおり、元女優、元モデル、シナリオライター
1972年 - マーク・オーエン、歌手
1974年 - オーレ・アイナル・ビョルンダーレン、バイアスロン選手
1975年 - yasu、ミュージシャン(Janne Da Arc)
1976年 - 安貞桓、サッカー選手
1978年 - 雛形あきこ、女優
1978年 - 井本貴史、お笑いタレント
1978年 - 宮澤むじか、ピアニスト
1978年 - ピーター・ラフォレスト、野球選手
1979年 - おかゆまさき、ライトノベル作家
1979年 - 生沼元、ラグビー選手(+ 2005年)
1979年 - こやまきみこ、声優
1980年 - マラト・サフィン、テニス選手
1981年 - アリシア・モリク、テニス選手、アテネオリンピック女子テニス銅メダリスト
1981年 - ノグチピント・エリキソン、サッカー選手
1981年 - 大谷ゆり、レースクイーン
1981年 - 亀岡真美、声優
1982年 - 熊木杏里、シンガーソングライター、作曲家
1984年 - 楠城祐介、プロ野球選手
1985年 - 森山愛子、演歌歌手
1987年 - 岩田慎司、プロ野球選手
1987年 - リリー・ドナルドソン、スーパーモデル
1988年 - ケルロン・モウラ・ソウザ、サッカー選手
1993年 - 中村有沙、子役タレント
1994年 - 野村涼乃、女優
1996年 - 小原裕貴、子役
1999年 - ファインモーション、競走馬
2002年 - 谷端奏人、子役

忌日
98年 - ネルウァ、ローマ皇帝(* 30年頃)

1417年(応永24年1月10日) -
上杉氏憲(禅秀)、室町時代の関東管領、上杉禅秀の乱の首謀者

1490年(延徳2年1月7日) - 足利義政、室町幕府第八代将軍(* 1436年)

1576年(天正3年12月27日)- 水野信元、戦国武将

1615年(慶長19年12月28日) - 今川氏真、駿河国の戦国大名(* 1538年)

1629年 - ヒエロニムス・プレトリウス、作曲家(* 1560年)

1646年(正保2年12月11日) - 沢庵宗彭、臨済宗の僧(* 1573年)

1731年 - バルトロメオ・クリストフォリ、楽器製作者(* 1655年)

1740年 - ブルボン公ルイ・アンリ、第4代コンデ公(* 1692年)

1802年 - ヨハン・ルドルフ・ツムシュテーク、作曲家(* 1760年)

1814年 - ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、
『ドイツ国民へ告ぐ』で知られる思想家(* 1762年)

1851年 - ジョン・ジェームズ・オーデュボン、博物画家(* 1785年)

1860年 - ヤノーシュ・ボヤイ、数学者(* 1802年)

1893年 - 登美宮吉子女王、水戸藩主徳川斉昭の正室(* 1804年)

1893年 - ジェイムズ・キャンベル、第19代アメリカ合衆国郵政長官(* 1812年)

1901年 - ジュゼッペ・ヴェルディ、作曲家(* 1813年)

1904年 - 三遊亭圓生 (4代目)、落語家(* 1846年)

1912年 - 西寛二郎、第4代教育総監(* 1846年)

1917年 - 伊達宗基、第14代仙台藩主(* 1866年)

1918年 - 素木しづ、小説家(* 1895年)

1919年 - アディ・エンドレ、詩人(* 1877年)

1922年 - ジョヴァンニ・ヴェルガ、小説家(* 1840年)

1922年 - ネリー・ブライ、ジャーナリスト(* 1864年)

1924年 - 長谷川好道、朝鮮総督・参謀総長(* 1850年)

1928年 - 大岡育造、元文部大臣・衆議院議長(* 1856年)

1929年 - 久邇宮邦彦王、皇族(* 1873年)

1945年 - 野口雨情、詩人(* 1882年)

1947年 - レイナルド・アーン、作曲家(* 1874年か1875年)

1949年 - ボリス・アサフィエフ、作曲家(* 1884年)

1956年 - エーリヒ・クライバー、指揮者(* 1890年)

1957年 - 佐々木俊一、作曲家(* 1907年)

1958年 - 松山基範、地球物理学者(* 1884年)

1957年 - 佐々木俊一、作詞家(* 1907年)

1965年 - 三船久蔵、柔道家(* 1883年)

1967年 - ガス・グリソム、宇宙飛行士(* 1926年)

1972年 - リヒャルト・クーラント、数学者(* 1888年)

1972年 - マヘリア・ジャクソン、ゴスペル歌手(* 1911年)

1974年 - 藤原亮子、歌手(* 1917年)

1985年 - 竹中正久、暴力団山口組第4代組長(* 1933年)

1987年 - ノーマン・マクラレン、アニメーション作家(* 1914年)

1993年 - 奥田良三、テノール歌手(* 1903年)

1993年 - 鈴木敬信、天文学者(* 1905年)

1993年 - アンドレ・ザ・ジャイアント、プロレスラー(* 1946年)

1998年 - 景山民夫、小説家(* 1947年)

1999年 - 大原富枝、小説家(* 1912年)

2000年 - フリードリヒ・グルダ、ピアニスト(* 1930年)

2000年 - メイ・ファッグス、陸上競技選手(* 1932年)

2001年 - マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ、
イタリア王ウンベルト2世の妃(* 1906年)

2002年 - 上野瞭、児童文学作家(* 1928年)

2002年 - 中西啓介、政治家(* 1941年)

2006年 - フィリス・キング、テニス選手(* 1905年)

2006年 - 杉浦敏介、実業家(* 1911年)

2006年 - 二宮文造、元公明党参議院議員(* 1920年)

2006年 - ヨハネス・ラウ、前ドイツ大統領(* 1931年)

2007年 - 楊伝広、十種競技選手(* 1933年)

2007年 - エレーナ・ロマノワ、陸上競技選手(* 1963年)

2008年 - スハルト、インドネシア大統領(* 1921年)

2008年 - 百瀬博教、作家、詩人、格闘技プロデューサー(* 1940年)

2008年 - 今宮エビス、お笑いタレント(* 1942年)

記念日・年中行事

国旗制定記念日(日本・民間団体)
1870年の旧暦1月27日(新暦2月27日)に
郵船商船規則(太政官布告第57号)が定められ、
日本の国旗(日章旗)のデザインの原型が決まった事にちなむ。国旗協会が制定。

国際追悼デー
2005年に国連総会本会議で決議。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の解放に因む。
特定の民族や宗教への差別・攻撃を非難する。