東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年2月3日(火曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年2月3日(火曜日)

平成21年の「2月」も「3日」たちました。
あと「25日」で最後の「冬」。
「晩冬」の「2月」はおわります。
そして。
あと「25日」で。
「春」の「3月」になります。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

「昨年」
「9月」がおわわりました。
「10月」も終わりました。
「11月」もおわり。
「12月」で「冬」になりました。
「12月」がおわり。
「昨年」はおわりました。
今は
「初春」です。

「冬」も「年」を越しました。
「1月」がおわり。
「晩冬」の「2月」です。

「初春」の。
「冬」「晩冬」はしずかに。
しずかに。しずかに。

能の舞(のうのまい)の。
「おきなのあゆみ」のように。
そそとした「冬舞台」の上を。
さらにふかまりつつ冬の景色の舞台の上を。

あゆみつつあります。
「冬」から「春」にむかっています。

「初春」です。「晩冬」です。
深い「冬」です。

暗い朝の早朝に。
南の天に「明けの明星」が
輝いています。
闇夜の天高いかがやく惑星。

「明けの明星」金星に。
毎日「おはよう」のあいさつを
します。

「晩冬」から「初春」の。

早朝に。

はるか暗い早朝に「こおろぎ」の
かすかな。ひとりぼっちの。
鳴き声がきこえたような気が致しました。

けれどもそれは。

木枯らしの声。

毎朝の暗いうちの木枯らしの「音色」は。
毎日違います。

「ろうろう」「こうこう」

耳をすませば。
木枯らしの鳴き声は。
「独唱」から次第に「合唱」に
なってきました。

そしてオーケストラの楽器の配列のように。
一風一かぜ(ひとかぜ)の
「木枯らし」の鳴いている場所も。
わかるように。なってきました。

木枯らしも
「もっと深冬(ふかふゆ)」。
そして「もっと深い冬の先」
の季節 にむけての。

ころもがえやひっこしをしている
ことがわかります。

「木枯らし」は。

「鳥」のように。

木々の上から電線のうえにやどるようです。

木枯らしは

「街路樹」にとまって。

「冬」を過ごすのでしょう。

陽ののぼる時刻はとても遅くなりました。
そして
陽のおりる夕暮れは。
とてもはやくなりました。
つるべがおちるようにすとんと
暗くなります。

朝の04:30amにはふたたび「真っ暗」
の時期になりました。
あさの06:00amでもなお暗い東空
です。

けれども「昨年」冬至もおわり。
これから日々ゆっくりと
日は長くなります。陽はたかくなります。
よるは短くなりはじめます。

これからは天上の太陽は。
「冬」から「春」に向かいます。

けれども「地上」では。
「今」「晩冬」であり「真冬」です。

あさは曇っていて。
さらに昼間でも「さむい」ことがある。
私がおきるまっくらな早朝は。
とてもとても。
とても寒いです。

雪国うまれの私はさむいのがつらい
です。

早朝「そら」をみあげれば。
晴れているはず。日差しもあるはず。

けれども空には
「雲がいっぱい」で「空はくもりそら」
です。
ふしぎな「冬」のひざしです。

ふとかんがえれば・・。

そして「冬」にも。

「初春」の「中冬」「晩冬」の。
「若芽」をまもる
「冬」の太陽から。さらなる恵みを
「実る木の芽」にあたえる。

「空」こそは。
「ソフトフイルター」の役目を。
深い「冬」の「おぼろくもりそら」が
しているようです。

自然とは。
とてもよくできたものです。

変幻自在であり
そして規則も正しい。
なおかつにして。
自由が自在。

春夏秋冬。
大気に漂う霞がごとし。

深い山の奥に住むという

仙人の心境(こころ)が。

とてもよくわかります。

冬の街路樹もそうそうたる。
ふかまる冬の羽振りを。
まとう木々に姿になってきました。

そして冬の。
紅葉の冬。
枯れ葉も冬をむかえています。
木々のまとう枯れ葉は木々の
セーターのようです。
少しでも暖かければ。

街路樹は「落葉樹」がよいです。

街路樹が「松や杉」のような。
「常緑樹」では
冬はうっそうとして
陽の光をえられない。

夏場は枝ぶり葉っぱから陽の光を
さえぎれない。
晩秋も「針葉樹の落葉」では
木枯らしもつりがあわない。
とどのつまり
四季のリズムはつくれません。

ヴイバルデイの
「四季」の「夏」にある
木陰で休む羊飼いの旋律
も。
フランツ・シューベルトの
「菩提樹」の歌曲
も「うまれません」。

落葉の針葉樹で
強いからといって私の「好き」な。
「からまつ」をうえられても
街路樹には叶(かな)わないでしょう。

私の「大好き」な。
北原白秋の「からまつの詩」。

「からまつ」は

街路樹にはそぐはないかもしれません。

播磨の俳人滝野瓢水の句

「手に取るなやはり野におけ蓮華草」

のように。

やはり野におけ蓮華草。

やはり野におけから松木。

「からまつ」も蓮華草と同じくに。

清楚な華やかさとはかなさを

もっています。

やはり野におけ。

蓮華草とからまつ。

「晩冬」の「からまつ」です。

そしていま。
「冬」のからまつの時期になりました。

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北原白秋
 
「水墨集」より

  
 落葉松
-------------------------------

      一
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 からまつをしみじみと見き。
 
 からまつはさびしかりけり。
 
 たびゆくはさびしかりけり。

      二
                 
 からまつの林を出でて、
 
 からまつの林に入りぬ。
 
 からまつの林に入りて、
 
 また細く道はつづけり。

      三
 
 からまつの林の奥も
 
 わが通る道はありけり。
  きりさめ
 霧雨のかかる道なり。
 やまかぜ
 山風のかよふ道なり。

      四
 
 からまつの林の道は、
 
 われのみか、ひともかよひぬ。
 
 ほそぼそと通ふ道なり。
 
 さびさびといそぐ道なり。

      五
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 
 からまつはさびしかりけり、
 
 からまつとささやきにけり。

      六

 からまつの林を出でて、
  あさま ね
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 からまつのまたそのうへに。

      七
 
 からまつの林の雨は
 
 さびしけどいよよしづけし。
 
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 
 からまつの濡るるのみなる。

      八
 
 世の中よ、あはれなりけり。
 
 常なれどうれしかりけり。
 
 山川に山がはの音、
 
 からまつにからまつのかぜ。

-------------------------------

木々の青葉の房が
早朝くらい中でも
うかびあがります。
とりわけ私は
くすのき科が。
「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
けやきもすきです。
カエデもすきです。
もみじもすきです。
松もすきです。
杉もすきです。
からまつも好きです。

いまは
「冬」です。

「初春」「晩冬」ながら。
裸木の。
木々の穂先は小さいけれども毛氈(もうせん)
のようにあざやかな萌黄色と緑です。

まるで。
大きな里山の森の冬のうねりのようです。
今年は木々のわかばの冬のめばえがとてもとても
鮮烈です。
「春」の芽はえも「鮮烈」なことと見守ります。
冬の木枯らしが若芽のうえを吹き抜けていきます。

街角の雑草も
冬草に変貌して。

「木枯らし」になり。
道端のくさばなは。
「遠慮がち」にながら堂々と一本の茎。

雑草も。
冬草へと変貌しつつながらえています。

朝暗いうちは。
とてもはださむいです。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
ふとい孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

木枯らしいてつく冬竹(ふゆたけ)の
笹葉は蒼くふるえたり
みどり葉笹葉にかぜはやみ
冬陽をうつすやうつろひの
竹の葉木枯らしはやいくとせ

冬春地にも空にも
冬春みどり葉ひらき
冬春みどり木冬空
冬春天高くひろがりけり
冬春ゆたかなりけり
冬春いふことのなし
冬春いふことがなし
冬春いふことはなし
冬春ゆたかなりけりふゆはる

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成21年1月12日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ限られた時間帯で。
診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ限られた時間帯で。
診療を行います

-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ限られた時間帯で。
診療を行います

-------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

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麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です。

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「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は。

「長崎の鐘」「この子を残して」の著者として。
放射線医学者として。そして著作家として高名な。

永井隆(ながいたかし)*の生誕日です。
(*1908年(明治41年)2月3日 -
1951年(昭和26年)5月1日)。
「光りつつ 秋空高く 消えにけり」 辞世の句。
++++++++++++++++++++++

永井隆(ながいたかし)の生涯
1908年(明治41年)2月3日 島根県松江市にて。

医師であった父寛、母ツネの長男(5人兄弟)
として誕生致しました。

祖父文隆より1字を授かり隆と命名されました。

幼少青年期を三刀屋町(現・雲南市)ですごします。

1928年(昭和3年)4月 松江中学を経て。

長崎医科大学(現:長崎大学医学部)に入学
致しました。

++++++++++++++++++++++

永井隆(ながいたかし)は 。

大学入学まではスポーツの苦手な優等生であったのです。

けれども
身長171センチ、体重70キロと大柄な体格であったことから
長崎医大篭球部に誘われメモ書きを怠らない熱心さで。

明治神宮で行なわれた
全国大会3等、西日本選手権制覇などに貢献致しました。

++++++++++++++++++++++

永井隆(ながいたかし)は。

1931年(昭和6年)
浦上天主堂近くの森山家に下宿致します。

なお森山家の一人娘が。
後に妻となる緑(洗礼名:マリア)でした。

森山家はカトリックであったことから。

永井隆(ながいたかし)は
カトリックに興味を持ち始めたと言われています。

++++++++++++++++++++++

永井隆(ながいたかし)は。

1932年(昭和7年)4月 大学卒業後。

助手として放射線医学教室に残り
放射線物理療法の研究に取り組みました。

++++++++++++++++++++++

永井隆(ながいたかし)は。

1933年(昭和8年)2月1日
幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し
満州事変に出征致しました。

1934年(昭和9年)
2月1日 帰還。大学の研究室助手に復帰致しました。

6月 洗礼を受け、カトリックの信徒組織である
聖ヴィンセンシオ会に入会(洗礼名:パウロ)。

無料診断・無料奉仕活動などを行ないました。

この頃に培った奉仕の精神が。
晩年の行動へと結びついて行きました。

++++++++++++++++++++++

永井隆(ながいたかし)は。
8月 森山緑と結婚致しました。

緑との間には一男二女
(長女は原爆投下前に夭折)をもうけました。

1937年(昭和12年)
長崎医科大学講師に就任致しました。

日華事変に第5師団衛生隊隊長として出征致します。

1940年(昭和15年)
長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任致しました。

1944年(昭和19年)3月3日
『尿石の微細構造』で医学博士号を授与されました。

++++++++++++++++++++++

永井隆(ながいたかし)は。
1945年(昭和20年)
6月 長年の放射線研究による被曝で
白血病と診断され。
余命3年の宣告を受けました。

この時、白血球数10万8000、
赤血球数300万であったのです。
(正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)

++++++++++++++++++++++

永井隆(ながいたかし)が白血病と診断された
「3ヵ月後」に。

8月9日 長崎に原子爆弾が投下されました。

爆心地から700メートルの距離にある
長崎医大の診察室にて被爆致しました。

右側頭動脈切断を伴う頭部外傷を
負いながらも布を頭に巻くのみで、
救いを求める人々の為に尽力致しました。

++++++++++++++++++++++

永井隆(ながいたかし)は。

8月10日 帰宅。
台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見致します。

骨片を拾い埋葬。
8月12日 救護班を組織し被爆者の救護に当たりました。

9月10日頃 昏睡状態に陥ります。

直前、辞世の句として一句。

「光りつつ 秋空高く 消えにけり」

9月20日 再び昏睡状態に陥りました。
このため救護班は解散となりました。

++++++++++++++++++++++

永井隆(ながいたかし)は。

10月15日 「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を作成。
長崎医大に提出致しました。

1946年(昭和21年)
1月28日 長崎医科大学教授に就任致しました。

7月 長崎駅近くで倒れる。以来、病床に伏すことになる。
11月17日 長崎医学会にて研究発表。

題名は「原子病と原子医学」。
1948年(昭和23年)

++++++++++++++++++++++

永井隆(ながいたかし)は。
永井隆が死までの3年あまりの日々を過ごした
如己堂(長崎県長崎市)。
荒野となった浦上の地に花を咲かせようと。

桜の苗木1000本を浦上天主堂をはじめとする
各所に寄贈致しました。

これらの桜は「永井千本桜」と呼ばれました。

3月 浦上の人たちやカトリック教会の協力により、
永井が療養を行なうための庵が完成致しました。

「己の如く人を愛せよ」の言葉から、
庵の名前を「如己堂(にょこどう)」と名付けました。

++++++++++++++++++++++

永井隆(ながいたかし)は。
8月 大学を休職し、療養に専念する。
10月18日 来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れました。

1949年(昭和24年)
5月27日 昭和天皇に会いました。

5月30日 ローマ教皇特使として
ギルロイ枢機卿が見舞いに訪れました。

8月1日 長崎市長から表彰を受けます。
9月30日 長崎医科大学教授を退官致しました。

12月3日 長崎市名誉市民の称号を受けました。

1950年(昭和25年)
5月14日 ローマ教皇特使として
フルステンベルグ大司教が見舞いに訪れ
ロザリオを下賜されました。

++++++++++++++++++++++

永井隆(ながいたかし)は。
1951年(昭和26年)
2月3日 白血球数が39万を超えました。
4月25日 右肩内出血により執筆不能となります。

5月1日 長崎大学付属病院に緊急入院。
21時50分、逝去。享年43。

5月2日 遺体解剖(医学解剖に献体する)。

5月3日 教会葬が執り行われる。

5月14日 長崎市公葬。長崎市坂本町にある
国際外人墓地に葬られました。

1952年(昭和27年) 長崎市に永井隆記念館が開館。

2001年(平成13年)4月4日
遺児の長男 永井誠一(まこと)氏逝去。享年66。
2008年(平成20年)2月2日
遺児の次女 筒井(旧姓永井)茅乃(かやの)氏逝去。享年66。

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永井隆 (医学博士)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E9%9A%86_(%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E5%8D%9A%E5%A3%AB)

永井隆(ながいたかし 1908年(明治41年)2月3日 - 1951年(昭和26年)5月1日)は医学博士。「長崎の鐘」「この子を残して」の著者。

目次
1 生涯
2 議論
3 著書
4 関連施設
5 参考資料
6 外部リンク

生涯
1908年(明治41年)2月3日 島根県松江市にて、医師であった父寛、母ツネの長男(5人兄弟)として誕生する。祖父文隆より1字を授かり隆と命名される。幼少青年期を三刀屋町(現・雲南市)ですごす。
1928年(昭和3年)4月 松江中学を経て、長崎医科大学(現:長崎大学医学部)に入学。
大学入学まではスポーツの苦手な優等生であったが、身長171センチ、体重70キロと大柄な体格であったことから長崎医大篭球部に誘われ、メモ書きを怠らない熱心さで、明治神宮で行なわれた全国大会3等、西日本選手権制覇などに貢献する。 
1931年(昭和6年) 浦上天主堂近くの森山家に下宿する。なお森山家の一人娘が後に妻となる緑(洗礼名:マリア)であった。森山家はカトリックであったことから、カトリックに興味を持ち始めたと言われている。
1932年(昭和7年)4月 大学卒業後、助手として放射線医学教室に残り、放射線物理療法の研究に取り組む。
1933年(昭和8年)2月1日 幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、満州事変に出征する。
1934年(昭和9年)
2月1日 帰還する。大学の研究室助手に復帰。
6月 洗礼を受け、カトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ会に入会(洗礼名:パウロ)。無料診断・無料奉仕活動などを行ない、この頃に培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行く。
8月 森山緑と結婚する。緑との間には一男二女(長女は原爆投下前に夭折)をもうけた。
1937年(昭和12年)
長崎医科大学講師に就任する。
日華事変に第5師団衛生隊隊長として出征する。
1940年(昭和15年) 長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任する。
1944年(昭和19年)3月3日 『尿石の微細構造』で医学博士号を授与される。
1945年(昭和20年)
6月 長年の放射線研究による被曝で白血病と診断され、余命3年の宣告を受ける。この時、白血球数10万8000、赤血球数300万であった。(正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)
8月9日 長崎に原子爆弾が投下される。爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆する。右側頭動脈切断という重傷を負いながらも布を頭に巻くのみで、救いを求める人々の為に尽力する。
8月10日 帰宅。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見、骨片を拾い埋葬。
8月12日 救護班を組織し、被爆者の救護に当たる。
9月10日頃 昏睡状態に陥る。直前、辞世の句として一句。「光りつつ 秋空高く 消えにけり」
9月20日 再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散となる。
10月15日 「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を作成。長崎医大に提出する。
1946年(昭和21年)
1月28日 長崎医科大学教授に就任する。
7月 長崎駅近くで倒れる。以来、病床に伏すことになる。
11月17日 長崎医学会にて研究発表。題名は「原子病と原子医学」。
1948年(昭和23年)

永井隆が死までの3年あまりの日々を過ごした如己堂(長崎県長崎市)荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、桜の苗木1000本を浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈する。これらの桜は「永井千本桜」と呼ばれた。
3月 浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行なうための庵が完成する。「己の如く人を愛せよ」の言葉から、庵の名前を「如己堂(にょこどう)」と名付ける。
8月 大学を休職し、療養に専念する。
10月18日 来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる。
1949年(昭和24年)
5月27日 昭和天皇に会う。
5月30日 ローマ教皇特使としてギルロイ枢機卿が見舞いに訪れる。
8月1日 長崎市長から表彰を受ける。
9月30日 長崎医科大学教授を退官する。
12月3日 長崎市名誉市民の称号を受ける。
1950年(昭和25年)
5月14日 ローマ教皇特使としてフルステンベルグ大司教が見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される。
1951年(昭和26年)
2月3日 白血球数が39万を超える。
4月25日 右肩内出血により執筆不能となる。
5月1日 長崎大学付属病院に緊急入院。21時50分、逝去。享年43。
5月2日 遺体解剖(医学解剖に献体する)。
5月3日 教会葬が執り行われる。
5月14日 長崎市公葬。長崎市坂本町にある国際外人墓地に葬られる。
1952年(昭和27年) 長崎市に永井隆記念館が開館。
2001年(平成13年)4月4日 遺児の長男 永井誠一(まこと)氏逝去。享年66。
2008年(平成20年)2月2日 遺児の次女 筒井(旧姓永井)茅乃(かやの)氏逝去。享年66。

議論
永井隆の原爆後の発言には議論がある。永井は原爆について
「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理である。神の恵みである。
浦上は神に感謝をささげねばならぬ」(長崎の鐘)と述べ、
「原爆投下は人類の罪悪の償いの生贄」であると主張した。
この主張でいけば、
「帝国主義侵略戦争を始め、最終的に戦争に敗北し、
その過程で原爆が長崎に投下された」という日本の責任と、
「国際法を無視し、残虐な兵器を用いて住民を虐殺した」
アメリカの責任が免責される。
永井の作品はこの主張に基づいていたからこそ、
アメリカの言論統制を潜り抜け、
昭和天皇に会ったり内閣総理大臣顕彰を受けたのである。
しかし、永井は政治家ではなく、彼自身が被爆していたことを忘れてはいけない。
敬虔なカトリック信者として、
彼自身も人類の悲劇の犠牲者として、広島、長崎の人々に対する慰めの意味で、
以上の言葉を述べたのであろう。

著書
永井の脱稿した年と著作の発行年は必ずしも一致しない(没後に発行されたものも含まれる)。

長崎の鐘(1946年8月)
原子野録音(1947年〜1951年 「聖母の騎士」誌上にて連載)
亡びぬものを(1948年1月)
ロザリオの鎖(1948年3月)
この子を残して(1948年4月)
生命の河(1948年8月)
花咲く丘(1949年4月)
いとし子よ(1949年10月)
乙女峠(1951年4月)
如己堂随筆(1957年12月)
村医(1978年4月)
平和塔(1979年11月)
長崎の花 上・中・下(1950年 日刊東京タイムス誌上にて連載)

関連施設
如己堂、永井隆記念館 (長崎県長崎市)
浦上天主堂 (長崎県長崎市) - 著書「長崎の鐘」の舞台。
永井隆博士記念館 (島根県雲南市)

参考資料
長崎市永井隆記念館資料
永井隆著「この子を残して」

外部リンク
己の如く人を愛した人(長崎市公式ウェブサイト)
永井隆博士記念館(島根県雲南市)
永井 隆:作家別作品リスト(青空文庫)
長崎・ヒバクシャ医療国際協力会
ウィキクォートに永井隆に関する引用句集があります。

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2月3日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%883%E6%97%A5

できごと
1451年 - オスマン帝国のスルタン、ムラッド2世が死亡、
息子メフメト2世によって継承される。

1488年 - バルトロメウ・ディアスがアフリカ南端の喜望峰にたどり着き、
アフリカ南端に辿りついた最初のヨーロッパ人となる。

1637年 - チューリップ・バブル崩壊。

1783年 - アメリカ独立戦争: スペインがアメリカ合衆国の独立を承認。

1809年 - イリノイテリトリーの創設

1815年 - スイスで最初の商業生産を目的とするチーズ工場が設立される。

1851年(嘉永4年1月3日) - ジョン万次郎がアメリカから10年ぶりに帰国する。

1870年 - アメリカ合衆国憲法修正第15条が可決される。

1922年 - 北陸本線勝山トンネル(現在の糸魚川市)雪崩が発生。
列車が巻き込まれ死者73人、負傷者30名。

1931年 - ネーピア地震。ニュージーランド史上最大の被害を出す。258人が死亡。

1962年 - ケネディ米大統領がキューバとの輸出入を全面禁止し、
キューバの経済封鎖を行うと発表。

1966年 - ソ連の無人宇宙探査機「ルナ9号」が史上初めて月面軟着陸に成功。

1969年 - カイロで開かれたパレスチナ国民議会で
ヤセル・アラファトがパレスチナ解放機構議長に任命される。

1970年 - 「核拡散防止条約」に日本が調印。

1972年 - 第11回冬季オリンピック、札幌大会開催。2月13日まで。

1998年 - アメリカ海兵隊のパイロットがイタリアのスキー場で
リフトのケーブルをくぐりぬけて飛行しようとし、ケーブルを切断、20人を死亡させる。
オープンソースという言葉が生まれた。

2005年 - 福岡市地下鉄七隈線の天神南駅〜橋本駅間が開業。

誕生日
1654年 - ピエトロ・アントニオ・フィオッコ、作曲家(+ 1714年)

1669年(寛文9年1月3日)- 荷田春満、国学者(+ 1736年)

1748年 - サミュエル・オズグッド、第4代アメリカ合衆国郵政長官(+ 1819年)

1795年 - アントニオ・ホセ・デ・スクレ、ボリビア独立の父(+ 1830年)

1809年 - フェリックス・メンデルスゾーン、作曲家(+ 1847年)

1826年 - ウォルター・バジョット、評論家・ジャーナリスト(+ 1877年)

1859年 - ヒューゴー・ユンカース、ユンカース社創設者(+ 1935年)

1869年(慶応4年1月10日)- 水野錬太郎、政治家(+ 1949年)

1874年 - ガートルード・スタイン、小説家(+ 1946年)

1878年 - 国分謙吉、政治家(+ 1958年)

1893年 - ガストン・ジュリア、数学者(+ 1978年)

1894年 - ノーマン・ロックウェル、画家(+ 1978年)

1907年 - ウォルト・モーレー、児童文学作家(+ 1992年)

1908年 - 永井隆、
「長崎の鐘」・「この子を残して」の著者として有名な医学者(+ 1951年)

1924年 - エドワード・P・トムスン、歴史家・社会主義思想家(+ 1993年)

1931年 - 雨宮敬子、彫刻家

1933年 - 濱田隆士、古生物学者

1933年 - 志賀節、政治家

1934年 - 秋山登、元プロ野球選手・監督・野球解説者(+ 2000年)

1935年 - ジョニー"ギター"ワトソン - 米国のブルース・ギタリスト

1940年 - 城之内邦雄、元プロ野球選手

1943年 - 福本清三、俳優

1944年 - ヒサクニヒコ、漫画家

1944年 - 矢玉四郎、児童文学作家・画家

1949年 - 喜多嶋修、ミュージシャン
1950年 - モーガン・フェアチャイルド、女優
1952年 - 津雲むつみ、漫画家
1954年 - 烏丸せつこ、女優
1954年 - 根岸季衣、女優
1956年 - 福江純、天文学者
1957年 - 国谷裕子、キャスター
1957年 - みぶ真也、一人芝居俳優
1959年 - 小西康陽、ミュージシャン
1963年 - 彩花みん、漫画家
1963年 - 川合俊一、タレント、元バレーボール選手
1964年 - 片瀬清利、元プロ野球選手
1964年 - ミヒャエル・ルンメニゲ、サッカー選手
1967年 - 岡本麻弥、声優
1966年 - 伊藤毅、ミュージシャン
1970年 - リッチー・コッツェン、ミュージシャン
1971年 - 有田哲平、くりぃむしちゅー
1976年 - ジョン・バート・ミアディッチ、元プロ野球選手
1976年 - イゴール・ルカニン、フィギュアスケート選手
1977年 - ブルーノ・クアドロス、サッカー選手
1977年 - ダディー・ヤンキー、ミュージシャン
1978年 - 増沢由貴子(旧姓牧原)、騎手
1979年 - 川島明、お笑い芸人(麒麟)
1980年 - 吉岡美穂、タレント、元レースクイーン
1980年 - 堤さやか、女優
1981年 - 風野舞子、タレント
1982年 - 松下亜吉、デザイナー、イラストレーター、ライター
1982年 - 清水ゆみ、女優
1984年 - まぁこ、お笑い芸人
1986年 - 柳原可奈子 、お笑い芸人
1989年 - 延江大輔、プロ野球選手
1992年 - 杉浦里穂、歌手、モデル、キャナァーリ倶楽部メンバー
1993年 - 池田晃信、俳優
1994年 - 佐藤駿、ジャニーズJr.
1996年 - 熊谷知博、子役
1997年 - 奥西亮太、子役
2000年 - 杉浦花菜、子役
非公表 - あゆみゆい、漫画家
非公表 - 永見はるか、声優
非公表 - 松永雪希、声優

忌日
619年 - カンタベリーのラウレンティウス、カンタベリー大司教

853年(仁寿2年12月22日) - 小野篁、歌人(* 802年)

1014年 - スヴェン1世、デンマーク王(* 960年)

1116年 - カールマーン1世、ハンガリー王(* 1070年頃)

1117年(永久4年12月30日)- 源基綱、平安時代の公卿(* 1049年)

1239年(暦仁元年12月28日)- 九条任子、後鳥羽天皇の中宮(* 1173年)

1399年 - ジョン・オブ・ゴーント、ランカスター公(* 1340年)

1428年(応永35年1月18日) - 足利義持、室町幕府第4代征夷大将軍(* 1386年)

1451年 - ムラト2世、第6代オスマン帝国スルタン(* 1404年)

1468年 - ヨハネス・グーテンベルク、印刷技術の開発者(* 1390年代)

1751年 - ヒダヤス・モヒュディン・カーン、ニザーム藩王

1752年(宝暦元年12月19日) - 大岡忠相、幕臣、大名、大岡越前のモデル(* 1677年)

1779年 - ルイ・ド・ジョクール、百科全書の執筆に携わった学者(* 1704年)

1814年 - ヤン・コジェルフ、作曲家(* 1738年)

1862年 - ジャン=バティスト・ビオ、物理学者(* 1774年)

1887年 - ベル・スター、西部開拓時代のアウトロー(* 1848年)

1900年 - デイヴィッド・マッケンドリー・キー、
第30代アメリカ合衆国郵政長官(* 1824年)

1901年 - 福沢諭吉、思想家(* 1835年)

1919年 - エドワード・ピッカリング、天文学者(* 1846年)

1923年 - 黒木為楨、日本陸軍の大将(* 1844年)

1924年 - ウッドロウ・ウィルソン、第28代アメリカ合衆国大統領(* 1856年)

1925年 - オリヴァー・ヘヴィサイド、技術者・数学者(* 1850年)

1935年 - ヒューゴー・ユンカース、ユンカース社創設者(* 1859年)

1936年 - ゾフィー・フォン・シェーンブルク=ヴァルデンブルク、
アルバニア公ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィートの妃(* 1885年)

1945年 - ローラント・フライスラー、ナチス・ドイツ人民法廷長官(* 1893年)

1946年 - エドワード・オッペンハイム、小説家(* 1866年)

1947年 - マーク・ミッチャー、アメリカ海軍の大将(* 1887年)

1959年 - 岡田正平、新潟県知事(* 1878年)

1959年 - バディ・ホリー、ロックンロール歌手(* 1936年)

1959年 - リッチー・ヴァレンス、ロックンロール歌手(* 1941年)

1975年 - ウム・クルスーム、歌手(* 1904年)

1978年 - 置鮎与一、博多人形作家(* 1896年)

1987年 - 高松宮宣仁親王、日本の皇族(* 1905年)

1989年 - ジョン・カサヴェテス、映画監督(* 1929年)

1994年 - アラン・ヘルフリッチ、陸上競技選手(* 1900年)

1997年 - ボフミル・フラバル、小説家(* 1914年)

1997年 - 与田凖一、児童文学者・詩人(* 1905年)

2000年 - 二階堂進、政治家(* 1909年)

2004年 - ノラ・グルムリーコヴァー、ヴァイオリニスト(* 1930年)

2005年 - エルンスト・マイヤー、生物学者(* 1904年)

2005年 - ズラブ・ジワニア、グルジア首相(* 1963年)

記念日・年中行事
節分(日本、2002年・2003年・2004年・2005年)

のり巻きの日
1987年に、全国海苔貝類漁業協同組合連合会が制定。
恵方巻用の海苔にちなんだ。

大岡越前の日
1717年2月3日に、大岡忠相が南町奉行に就任したことに由来している。

ジュディ・オングの日(アメリカ・ネバダ州にて制定)

光悦忌