東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年2月8日(日曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年2月8日(日曜日)

平成21年の「2月」になりました。

平成21年も。

もう「一ヶ月」もたちました。

「晩冬」「2月8日」の

今日は(日曜日)です。

とてもとても。

とても「寒い日々」が続いています。

今年の「冬」・から「春」は予期せぬ

インフルエンザ*の

大規模な流行が予想されます。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。

薬事法の「能書」にあるとおり

「正規の」

「2回法によるインフルエンザワクチン」の

予防接種をおすすめいたします。

常時いつでも接種可能です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

昨年の。
冬間近くの。
さらなる前の「晩秋」のころ。
「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」の。
花の蕾が淡い黄金色にかがやいて。
が見えてから「10日間」で。
花は去りました。
黄金色のじゅうたんが毛氈(もうせん)ように。
地面「金色」に広がりました。

「昨年」の。
「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」に続いて。
「銀木犀:きんもくせい」もプラチナ色の
花が咲き始めました。

「昨年」の。
「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」のあとを追って。
「銀木犀:きんもくせい」の花は去り。
地面に「プラチナ」が一面に広がっていました。

「新年」。「初春」。

今は私の「大好き」な。

「やぶつばき」と「山茶花(さざんか)」

の「蕾(つぼみ)」と「花」のふくらむ

「やぶつばき」の季節になりました。

山本クリニックの庭園は。
大昔は。
雑木林であったのです。

「野生」の。
「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」が
とても沢山群生してはえています。

日々の毎日にどんどんと。
みるみるうちに。

山茶花(さざんか)や「やぶつばき」が。
つぼみや「花」を大きくしています。

けれども「山茶花(さざんか)」は
蕾が大きくなったそのよるには。

花咲き。
暗い寒い朝にちっていることが
多いです。

「種の保存」の理論からすれば
昆虫の少ない「寒い冬」の日々に。

「寒い冬」に「花粉」を運んでくれる
昆虫はとても少ないはずだから。

花期はながければ長いほど「実」「種」
が「たくさん実る確率は高くなる」
はずです。

だから。
「花期」が「極めて短命」とは。
とても不思議なことです。

山茶花(さざんか)は

ぬばたまの

闇夜の暗きに

木枯らしの

風に弓射られて

花ぞ舞い散る

ささんかは

ぬばたまの

やみよのくらきに

こからしの

かせにいられて

はなそまいちる

早朝には「白鷺の羽」
のように地面に
舞い降ちています。

昨年の。
「晩秋」
「木犀:もくせい」の花の
「芳香」は蕾のみえるまえから
あります。
花が去ったあとは
「あっというまに芳香が消えます」。

「晩秋」の
「木犀:もくせい」たちのかおりがさり。

年が改まれば。

今度はいよいよ。

「晩冬」「初春」
つぼみを日々
大きくしている。

山茶花(さざんか)や「やぶつばき」
の季節の。
「初春」の「新年」。

そして。
「山茶花(さざんか)」と「やぶつばき」
をみまもるのは。

「みかんの木」の「丸いみかん」の
「丸い群れ」。
「丸いみかんん」はたわわになりて。
まるで「ぶどう」のようです。

お互いに「植物語」で話しをしているに
ちがいありません。

私は山茶花(さざんか)よりは。
「やぶつばき」がずっとすきです。

山本クリニックの庭園には。
いずれも。
野生の「やぶつばき」と
野生の「山茶花(さざんか)」ばかりです。

堂々たる。
木枯らしの吹く。
「2月」
本物の「冬」になりました。

さらに「冬」がふかまり。

「もっと深い冬」のトンネルをこえれば。

そこは「雪国の冬」です。

「木枯らし」は

遠くの蒸気機関車の鳴き声のように

に聞こえます。

近くに「トンネル」があることも

わかります。

「魔王:Erlkönig」の吹く「オカリナ」

のような鳴き声です。

そして。

「木枯らし」をなだめるように。

「粉雪」が舞います。

「粉雪」のほうが「役者」は上です。

「粉雪」は突如(とつじょ)天から舞い降り

ます。

そして遠くから

春の姫君「佐保姫(さほひめ)」

が春のころもをまといながめています。

きょうは。
とてもとても寒い。

「木枯らし」が吹いています。
「木枯らし」は「夜」は「木」にとまって
一晩をすごすようにみえます。

「木枯らし」の鳴き声が。
きこえます。

最近は
朝くらい早朝には「星がみえます」。
「明けの明星」の金星が南の空に高くみえます。

病院の明かりが灯り暗闇のなか。
朝はやく。

「明けの明星」の金星に「おはよう」を
毎日こえで「御挨拶」を伝えます。
「明けの明星」の金星から「おはよう」と
返事がかえってくる声をききながら。
病院の明かりをともします。
まだ真っ暗なのですが。

夏場の早朝のくらい時には。
明星はみえずらかった。
季節が「冬へとあゆみ」。
いよいよ。
大気が「澄んできた」ということでしょう。

冬霧雨(ふゆきりさめ)の。
冬霞(ふゆかすみ)の大気。

こおろぎの「なきごえ」はいつしか。
もうとっくにきこえなくなり。

「こうろぎ」の「ろうろう」は
木枯らしの「音」にかわりました。
「ろうろう」「こうこう」
「木枯らし」の鳴き声

朝暗く寒いいうちの「木枯らし」の合唱は。

「冬」の「ふうりん」のごとし。

あれ沢山の「ふうりん」かな。

「冬」の「ふうりん」の音色です。

「ろうろう」。

さびさびと「さむい音」です。

「こうこう」

わびわびと。

「たき火をよんでいる音」です。

「ススキの穂先」は
「そぞろに「深い晩秋・初冬」の旅愁」すら
をも感じさせます。

「ススキの穂先」には「冬ふくろう」が
何匹も集ってつどい。
何匹ものふくろうが。
皆で何かを真剣に考えているようにみえます。

「雪」がつもれば。
「ススキの穂先」は。
「しあわせと幸福を手招き」している
何本もの「手」のように。
みえます。

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munch
の絵画のようです。

私も「日々を旅ゆく人間」です。

奥の細道の序文に松尾芭蕉が。

「月日は百代の過客(ひゃくたいのかかく)
にして行かふ年も又旅人也。」

「つきはひゃくたいのかかくにして
いきかふとしもまたたひひとなり」

とかたり。詠みました。

私は

「日々の月日」を道連れにして。

「時」を旅をするひとりの旅人(たびびと)」

です。

「日々月日の旅のつれあい」は。

「きょう」と「あす」しか。

いません。

「きょう」と「あす」しか。

私にはありません。

朝くらいとき。
陽の出の直後は。
いつも一瞬は晴れています。
いまだ かすかにも。
のこる「晩冬」の気配
であるけれども。

あきらかに。
そしてしっかりと。
しのびよるもっともっと奥の。
深く深まる冬からの大気。

「ふかまる冬」の気配が。
「確かに」。
そして明らかに。
そして輪郭もはっきりと。

感じられるようになりました。

「新年」の「2月」になりました。
今年も平成21年がはじまり
「一ヶ月」がたちました。
「初春」「新年」。

はやいものです。
速いものです。
早いものです。

街路樹もそうそうたる
羽振りの木々から
「ふかまりゆく冬の樹木」にうつろうように
変化しています。

「初春」の「冬」にも。
「樹木の若葉の芽生え」があることに
気がつきました。

春の芽吹くときには。
街路樹のポプラも
幹や枝葉の穂先が。
ろうそくのともしびのように。
「炎の様」になっていました。
あたかも
ゴッホの描いた「夜の糸杉」のように。
春の早朝はみえました。

夏になり。
この「穂先」が一気に「ポプラの葉」へと
扇・おおぎのごとく開きました。

フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「夜の糸杉」から。
フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「ひまわり」
のように。
一斉に開きました。
8月にはいってからのことです。

10月そして11月。
今現在は落ち着いた「冬」の葉木。
「冬」の木々の「葉」
へと。

「みのりの冬」にむけて。
「あつく」うつろいています。

ポプラも。つばきもくすのきも。
「晩秋」には「中秋の若葉」が。
ハンカチをふるように
「「冬」のわかば」の「めばえ」がみえました。
今もみえます。
今は「「冬」のわかば」の「めばえ」は
すこし大きくなりました。

そして「冬がくると」。
空と木枯らしのかなでる「蛍の光」や
「冬のコンチエルト」にあわせるように。

ポプラの葉や芽葉は。
ハンカチのようにふわふわと。
ふわふわと。
「穂先から葉葉」は「舞い振りまがら」
ハンカチは木を去っていきます。

樹木のハンカチは。
大地を訪ねて飛翔し。
大地にまいおり大地にもどります。
そして大地となります。

そして。
ポプラの葉や芽葉が。
ハンカチのようにふわふわと。
ふわふわと。
「穂先から葉葉」は「舞い振りまがら」
木を去っていくのは。
「夜の魔法」「夜のガスパール」
のようです。

「葉の去った枝」には。
もう「「初春」の若芽のつぼみ」
がみえます。

木々の「葉」が「枝や幹」を
「保護する役割をしている」
ことに気づきました。

4月の桜の花の時期とうってかわり
桜の木の公園
の桜の木々が。
夏になりとても獰猛な気配を放つ。
初めて気がついた・。

けれども今は

「おせどのこおろぎはなきやみ」

「電線に「木枯らし」がとまってないている」

「深い冬」です。

「新年」「初春」の「晩冬」です。

「さくら」は冬の濃い緑の樹肌になり。
やさしさとおだやかさ
が感じられます。

そしていつしか
幹先に黄色い葉もまじえています。
しだいにしだいに。
紅黄色の葉が消えていくことに
きがつきます。

さくらから。
さくらはのきえるころ
です。

紅葉から。
「木枯らし」

桜の樹木も「丸くなりました」。
桜の樹木も毎年毎年と毎日毎日。
「旅(たび)をしている」のでしょう。

朝陽をあびる落葉樹は
「すべてがあざやかな黄金色」に
かがやきます。
朝陽をしっかりと。
「いうにいわれぬ美しい絵のごとく」
受け止めています。

「冬の朝陽」は真東に大変鋭いことに
気づきました。
眩しいです。

春は別として。
桜の木は木の下で。
夏は心安らかに。
「休める木ではないなあ」
と思います。
昨年は
秋になり
桜の樹木も安堵の葉色
になりました。
ちょっとばかりびっくり致しました。

枝や幹からは秋の陽の木漏れ日がみえます。

夏桜の木は獰猛なほど葉をおいしげらせ
ていました。
夏には
桜の木の下で木陰で。心安らかにやすもうという
気はおきません。

いまは晩秋から「冬」になりました。
そよかぜに揺れる残り葉は
招き誘われるような気すら致します。

冬になり幹にはもう「枯れ葉散る」。
ちったあと枝の根元には。
「春の芽栄え(めばえ)」
がみえます。

けれども
やはり夏桜の木は

シューベルトの歌曲の旋律にある「菩提樹」
ではないのです。

冬の桜木(さくらぎ)。
冬になり
人生に果てて(はてて)
なれるが如く桜樹木はかわりました。
良い木になってきました。
素敵(すてき)です。
冬の桜木(さくらぎ)。

木々でも。
いちょうや。松や。杉などの針葉樹
は。またソテツなどは。
「古い時代の木」です。

「チャールズ・ダーウィンの進化論」からは
「針葉樹」から。
「常緑樹」「広葉樹」「落葉樹」にと。
「進化」しているはずです。

「原始的」な樹木ほど。
「硬い幹」です。
例外はありません。

硬ければ。
幹は硬ければ動物に
「かじられる」ことはないでしょう。

いにしえの古代の時代にも。

恐竜をはじめめとする
「大型」の草食動物にも。

かたければかじられることは
なかったでしょう。

街並みを彩る街路樹には「落葉植物」が多いです。

ふと。考える。

街路樹が「松や杉」のように。
「冬も葉を持つ針葉の常緑樹」では。

冬はうっそうとして道端では
やさしい暖かな陽射しをかくしてしまう。

夏場は枝ぶり葉っぱぶりからつよすぎる日の光は
さえぎれません。
そして
「秋」の「夕焼け陽」には。
「金色のちいさき鳥の形して」
秋の夕焼けの陽射しに舞うこともできません。

常緑樹の針葉樹では。
は四季のリズムをつたえる

北大路魯山人のいう

「ざっくり感(ざっくりかん)」

のリズムヤハーモニー或は旋律が
ありません。

木々の夏の萌黄が早朝暗い中でも
うかびあがります。
私はくすのきが「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
モミジもすきです。
カエデもすきです。
松や杉もすきです。
月桂樹やシナモンもすきです。
オリーブもすきです。
オレンジの木もすきです。
「そてつ」の木もすきです。
ツバキもすきです。
ソテツもすきです。
南天もすきです。
木や植物がすきです。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな秋の萌黄色です。
まるで大きな深い山の森のうねりのようです。
今年は木々のわかばの秋のめばえが非常に鮮か
です。
木々は「夏樹」の役目をおわりました。
「秋木」とかわろうとしています。
「秋木」とかわりました。
そして
さらに
「冬木」へとかわろうとしています。
「冬木」へとかわりました。
「冬木」から春の「春木」への準備
もしています。

街角の雑草も花は咲き終わり。
盛夏の姿となりそして秋を迎えそして「冬」を迎える。
「ほとけの座」や「はこべ」が
「かたばみ」や「いたどり」が
ますます姿を大きくして。

そして「すすき」もくわわりました。

夏草から秋草へ。
そして秋草へのたたずまいをしています。
そしてもうすっかり秋冬草へと黄金色に転した
街角には雑草もあります。
こがねいろ。

雑草も。
同じく花をさかせ自ら種をとばし
夏葉がみえる。
そして秋を迎える。
冬が来て。木枯らしに吹かれ。
雪をかむり。そして。
春がくる。

ツツジは潅木。
ツツジの花の葉の優しさには
あらためてびっくりしました。
黄緑・草色のビロードです。

のぞきこむと若葉はまだ沢山ある。
何故か得をしたように思えました。

そして雨にうたれてそのまま地に落ちた
ツツジの若葉は幾何学的に裏側を下にむけて
逆さじょうごのように
落下していることに気がつきました。
まるで
「若草色」のキノコが沢山はえているようです。

木から落ちても。
まだ「若葉」です。ふと。
ヴェルディの「椿姫」「La Traviata」
の「つばき」を思い出しました。

1852年パリに滞在したヴェルディは
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)
の戯曲版『椿姫』の上演を見て感激し
ました。
そのころ新作の作曲依頼を受けていた
ヴェネツィアのフェニーチェ劇場のために。
翌1853年初めに比較的短時間で作曲された
『椿姫 』(La Dame aux camelias、1848年出版)
は。
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が
実際の体験を基にして書いた長編小説。
主人公のモデルはかつて作者が交際をしていた
マリー・デュプレシという高級娼婦。
恋人アルマンのイニシャルである
『AD』は
小デュマのイニシャルと同じです。

この作品は人々に愛されて幾度も舞台、映画化され
続けてきました。

朝暗いうちは。

とても。

はださむいです。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

山本クリニックには。
検見川の落合遺跡の遺跡発掘の際に
みつかった「古代のハスの種子」から。

2000年ぶりに発芽したことで有名な。
「古代蓮(ハス)」があります*。
【大賀ハス:おおがはす】です。
「有名な古代ハス」です。
とても勇壮なハスで。
花のいろはとてもあまりにも美しく。
たとえ様もありません。

ハスの花がさき。
「「蓮(ハス)」の実」になりました。
「はすの実」も「はす」の葉も。
2mくらい水面から高いところに
あります。

睡蓮(すいれん)があります。
睡蓮(すいれん)は「葉」が水に浮び。
はのきれこみは羊の足のようです。
睡蓮(すいれん)を「ひつじぐさ」とは
なるほどと考える。
睡蓮(すいれん)の茎の長さには
おどろかされます。

「姫睡蓮(ひめすいれん)」でさえも。
池はばが長ければ四方八方に「水の中の枝」。

「モネ」の描いた睡蓮(すいれん)の
「水の中の枝」は「どれほど長いのだろう」。

睡蓮(すいれん)も「太古の時代」に
陸の動物に「かじられないように」
水中に「逃げ込んだ」のでしょう。

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大賀ハス(オオガハス、おおがはす)とは。
1951年(昭和26年)、千葉県千葉市検見川
(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある
東京大学検見川厚生農場
(現・東京大学検見川総合運動場)の
落合遺跡で発掘された
今から2000年以上前の古代のハスの実から
発芽・開花したハス(古代ハス)のことです。

戦時中に東京都は燃料不足を補うために
花見川下流の湿地帯に豊富な草炭が埋蔵されていた
「草炭」を採掘していました。

採掘は戦後も継続して行われていました。
1947年(昭和22年)7月28日に作業員が採掘現場でたまたま
1隻の丸木舟と6本の櫂を掘り出しました。

その調査によりもう2隻の丸木舟と
ハスの果托などが発掘されました。

「縄文時代の船だまり」であったと
推測され落合遺跡と呼ばれました。

植物学者でハスの権威者でもある大賀一郎博士
(当時・関東学院大学非常勤講師)が
発掘品の中にハスの果托があることを知り。
1951年(昭和26年)3月ボランティアの協力
を得てこの遺跡の発掘調査を行いました。

翌日で打ち切りという
30日の夕刻になって花園中学校の女子生徒により
地下約6mの泥炭層からハスの実1粒が発掘され予定を延長し
4月6日に2粒、計3粒のハスの実が発掘されました。

大賀博士は5月上旬から発掘された
3粒のハスの実の発芽育成を試みるも2粒は失敗に終わりました。
だが1951年3月30日に出土した1粒が育成に成功致しました。

翌年の1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪を咲かせました。
このニュースは国内外に報道されて多いな「驚愕」を与えました。
同年11月17日付米国ライフ誌に「世界最古の花・生命の復活」
として掲載され博士の姓を採って「大賀ハス」と命名されました。

シカゴ大学のリピー博士らによって放射性炭素年代測定が行われました。
ハスの実は今から2000年前の弥生時代以前のものであると推定された。

この古代ハスは、
1954年(昭和29年)6月8日に「検見川の大賀蓮」として
千葉県の天然記念物に指定されました。
また1993年(平成5年)4月29日には千葉市の花として制定され、
現在日本各地は元より世界各国へ根分けされ、
友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っています。

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ふと「パンの神」を思い出しました。
(「牧神パン(Pan)」=「Pan」=「パン」=
「飯(はん)」=「全般の般」=「パンアメリカンのパン」=

「パン」「pan」は「すべて」という意味の
古代ギリシャ語そして「サンスクリット」も同じ。

古典ギリシア語 Παν、Pan「パンの神」は。
幼少時からゼウスから他の神々全て*に好かれたので
(古代ギリシャ語でTheophilusテオフイルス/ラテン語では
amadeus アマデウス**)
「パン」と名づけられました。

「頭は人間で胴体は山羊」です。

「テュホン:テューホーン:Τυφών: Typhon」
ギリシア神話に登場する魔神***。
に追いかけられ
あわてて身を守るため川に飛び込み「頭は人間で胴体は人魚」
に変身したために。

「パニック」=「panic:パン的」
という言葉が生まれました。

星座に「山羊座」という星座があります。

山羊座は不思議ですが
「あわてて身を守るため川に飛び込み
「頭は人間で胴体は人魚」」
に変身した「パンの神」を示しています。
山羊ではありません。

むしろ正確には人魚です。

だから。
「山羊座」という「意味」はわかります。
けれども「命名」の観点から。
「山羊座」というのはかなり「妙」な気が致します。
「人魚座」というのが正しい。


名称「パンの神」の由来は「ギリシャ神話」でも
非常に多くの「言い伝え」がいくつがあります。
その「言い伝えの数」に正比例して「混乱」があります。

**
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの
「アマデウス」とは「パンの神」のことです。
(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの
ヴォルフガングは「おおかみが行く」という意味です。
よって
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは

「狼のように歩み神に愛されたモーツアルト」
ということになります)

***
「テュホン:テューホーン:Τυφών: Typhon」は
「台風:たいふう」と日本語では名前を変えています。

****
タイフーン級原子力潜水艦は
旧ソ連・ロシアの941型(プロジェクト941)
戦略ミサイル搭載原子力潜水艦のことです。
タイフーンはそれに付けられたNATOコードネームですが
この名称は日本の「台風」とは「直接関係」はありません。

日曜の

朝黄金に晴れて

はじめて気づく

にわの小ささ

にちようの

あさこがねにはれて

はじめてきづく

にわのちいささ

朝晴れて

にわの小さき

気づかぬときは

病(やまい)なるらむ

日曜の朝

あさはれて

にわのちいさき

きづかぬときは

やまいなるらむ

にちようのあさ

休診日ですが。
早朝に朝まだ暗いうちから
首都高を走って病院に到着致します。

空はきらきらのラピス・ラズリの
紺碧のジュースから
ミルク色のはいった
トルコ石の「プリン」に変わるように変化
していきます。

遠くにぽかぽか浮ぶ「雲々」は
トルコ石の「プリン」の上の「クリーム」の
ようです。
にわのあじさいは「アイスクリーム」
のようです。

冬春きらきらラピス・ラズリの空(そら)
冬春紺碧のカクテルいろの空(そら)
冬春ミルクをそそそいだ空(そら)
冬春トルコいしのプリンの空(そら)
冬春はるかにとほくたかい空(そら)
冬春ほかほか浮ぶ雲々(くもぐも)そら
冬春プリンの上のクリームのような空(そら)
冬春睡蓮(すいれん)の水面に空(そら)
冬春睡蓮(すいれん)のうえに空(そら)
冬空春空(そら)の向こうにまた空(そら)
冬春空(そら)そのまたむこうにももっと大きな空(そら)

春のうららのこもれびに

緑木いらかをかぜはやみ

青風ひるむやうつろひの

四季のつきひははやいくとせ

夏のうららのこもれびに

緑木いらかのつねなりて

赤き空(そら)にて炎えたたむ

四季のつきひははやいくとせ

秋のうららのこもれびに

緑木いらかにかぜさやか

秋風かたれるやすらきの

四季のつきひははやいくとせ

冬のうららのこもれびに

緑木いらかにかぜつよし

冬風弓(ゆみ)射る木枯らしの

四季のつきひははやいくとせ

日々のうららのこもれびに

祈想い(おもい)のいらかにかぜつよし

生きる力に祈りはせ

四季のつきひははやいくとせ

冬春椎木(しいのき)は枝高し
冬春そらに吼える若葉の穂束
冬春そらに吼える蒼き獅子のごとし
冬春天にも地にもみどりはさける
冬春のあさふかまりて
冬春陽の光ゆたかなりけり
冬春いふことのなし
冬春いふことがなし
冬春いふことはなし
冬春いふこともなし
冬春ゆたかなるかな冬春

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成21年1月12日(月曜日)は。

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)は。

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の御予約の。
患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

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平成21年3月20日(金曜日)は。

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の御予約の。
患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。
「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は。
ドイルの画家集団
青騎士:ブラウエ・ライター:独:der Blaue Reiter
の主人公の一人として有名な。

1880年 - フランツ・マルク、画家(+ 1916年)
の生誕日です。

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フランツ・マルク(Franz Marc,
1880年2月8日、ミュンヘン - 1916年3月4日、ヴェルダン)は。

20世紀初期のドイツの画家です。。

++++++++++++++++++++++

フランツ・マルク:Franz Marcは。
風景画家の息子として生まれました。

砲兵隊の兵役後に画家を志して
1900年にミュンヘン美術院に入学致します。

1903年から1907年にかけてパリに滞在し。
フィンセント・ファン・ゴッホの絵に接しました。

1909年にワシリー・カンディンスキー率いる
新ミュンヘン美術家協会の展覧会を観て
感動し同協会に参加致しました。

しかし、1911年に協会内部の対立により
カンディンスキーの作品が拒否されたことを契機として
カンディンスキーとともに脱会致しました。

彼と共にドイツ表現主義のグループである
「青騎士」*の中心メンバーとなりました。

++++++++++++++++++++++

フランツ・マルク:Franz Marcの作品

マルクの作品は、馬、牛、猿、鹿、ロバ、狐、虎
などの動物や森を主たる対象とした。
極めて色彩にあふれた作品です。

しかもそれは現実の色彩からかけ離れていることも多い
のです。

++++++++++++++++++++++

フランツ・マルク:Franz Marcの「色彩」。

マルク本人の死後のことですが。

青い馬を描いた作品などは。

自分自身古典的な作風の絵を描いていたヒトラーから。

「青い馬などいるはずがない」として
「退廃芸術」作品と決め付けられたという
逸話も残っています。

++++++++++++++++++++++

フランツ・マルク:Franz Marcは。

晩年には。
カンディンスキーと同様に作品の抽象化
が進みました。
1914年の作品「チロル (Tyrol)」や
「戦う形・せめぎあう形 (Fighting Forms)」などは。

具象を残しながらも、カンディンスキーと
同系統の抽象絵画といっていいような
作品に仕上がっています。

++++++++++++++++++++++

フランツ・マルク:Franz Marcは。

第一次世界大戦に出征しヴェルダンの戦いにおいて
36歳の若さで命を落としました。

++++++++++++++++++++++

フランツ・マルク:Franz Marcと日本

なお日本においてはマルクの本格的な回顧展が今まで
開催されたことはありません。

再評価が待たれる人物であるのです。

++++++++++++++++++++++
*1
青騎士(ブラウエ・ライター、
独:der Blaue Reiter)とは。

1912年にヴァシリー・カンディンスキーと。

フランツ・マルクが創刊した綜合的な芸術年刊誌の名前です。

またミュンヘンにおいて1911年12月に集まった主として
表現主義画家たちによる。
ゆるやかな結束の芸術家サークルのことです。

日本語では「青騎手」とも訳されます。

++++++++++++++++++++++
*2
青騎士:ブラウエ・ライター:独:der Blaue Reiter
とは。

「青騎士」という
はっきりした芸術家集団があったわけではないのです。

その実態は芸術年刊誌『青騎士』編集部と。
彼らによる企画展であったのです。

しかし首班であったカンディンスキーの芸術理論に共感して。
お互いに近い理念と興味関心を有していた点で
青騎士は一つの芸術運動ともみなされます。

活動期間としては。
カンディンスキーとフランツ・マルクが
年刊誌の創刊を構想し始めた1911年から。

第一次世界大戦によって
メンバーが散り散りになってしまった1914年までの
約3年間であります。

非常に短命であったが。
青騎士:ブラウエ・ライター:独:der Blaue Reiterの
その後世に与えた影響は大きいものがあります。

青騎士と周辺の芸術家は。
20世紀における現代芸術の重要な先駆けとなりました。

++++++++++++++++++++++

*3
青騎士:ブラウエ・ライター:独:der Blaue Reiterとは。

表現主義
1905年、パリのサロン・ドートンヌに
颯爽とフォーヴィスムが登場致しました。

後期印象主義に影響を受けたマティスらは、
対象をキャンバスの上に再現するのではなくて。

大胆な色彩によって鑑賞者の感覚に直接訴える絵
を描こうと致しました。

同じころドイツでも。
「激しい色彩」を用いて絵画の方向性を探る運動が
始まっていました。

これは表現主義とよばれます。

フォーヴィスムや象徴主義の影響を受けて
分離派よりもさらに前衛色を増して。

ドレスデンのブリュッケや、
ミュンヘンの青騎士:ブラウエ・ライター:独:der Blaue Reiter
といったグループを中心に展開していったのです。

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++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
フランツ・マルク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF

フランツ・マルク(Franz Marc, 1880年2月8日、ミュンヘン - 1916年3月4日、ヴェルダン)は、20世紀初期のドイツの画家。

風景画家の息子として生まれ、砲兵隊の兵役後に画家を志して1900年にミュンヘン美術院に入学。1903年から1907年にかけてパリに滞在し、フィンセント・ファン・ゴッホの絵に接する。1909年にワシリー・カンディンスキー率いる新ミュンヘン美術家協会の展覧会を観て感動し、同協会に参加。しかし、1911年に協会内部の対立によりカンディンスキーの作品が拒否されたことを契機としてカンディンスキーとともに脱会し、彼と共にドイツ表現主義のグループである青騎士の中心メンバーとなった。

マルクの作品は、馬、牛、猿、鹿、ロバ、狐、虎などの動物や森を主たる対象とした、極めて色彩にあふれた作品である。しかもそれは現実の色彩からかけ離れていることも多い。マルク本人の死後のことであるが、青い馬を描いた作品などは、自分自身古典的な作風の絵を描いていたヒトラーから「青い馬などいるはずがない」として「退廃芸術」作品と決め付けられた、という逸話も残っている。

晩年には、カンディンスキーと同様に作品の抽象化が進み、1914年の作品「チロル (Tyrol)」や「戦う形・せめぎあう形 (Fighting Forms)」などは、具象を残しながらも、カンディンスキーと同系統の抽象絵画といっていいような作品に仕上がっている。

第一次世界大戦に出征し、ヴェルダンの戦いにおいて36歳の若さで命を落とした。

なお、日本においてはマルクの本格的な回顧展が今まで開催されたことはなく、再評価が待たれる人物である。

代表作
小さな黄色の馬(1912)(シュトゥットガルト美術館)
虎(1912)(ミュンヒェン、レンバッハハウス美術館)
ウィキメディア・コモンズには、フランツ・マルク に
関連するマルチメディアがあります。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF" より作成

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
青騎士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%A8%8E%E5%A3%AB

青騎士(ブラウエ・ライター、独:der Blaue Reiter)は、
1912年にヴァシリー・カンディンスキーと
フランツ・マルクが創刊した綜合的な芸術年刊誌の名前であり、
またミュンヘンにおいて1911年12月に集まった主として
表現主義画家たちによる、ゆるやかな結束の芸術家サークルである。
日本語では「青騎手」とも訳される。

フランツ・マルク「青い馬の塔」1913年,行方不明
アウグスト・マッケ「明るい家」1914年目次
1 概略
2 歴史
2.1 前史
2.1.1 表現主義
2.1.2 ミュンヘン新芸術家協会
2.2 青騎士の成立
3 青騎士の芸術運動
3.1 名前の由来
3.2 理念
3.3 芸術的特徴
3.4 《青騎士》展
3.4.1 第一回展[12]
3.4.2 第二回展[13]
3.5 年刊誌『青騎士』
4 青騎士と周辺の芸術家たち[18]
5 作品抄録[19]
6 青騎士の終焉
6.1 青騎士内部のテーマの多様性
6.2 青騎士の終焉[21]
7 後世の芸術に与えた影響
7.1 芸術の抽象化
7.1.1 絵画
7.1.2 音楽
7.2 総合芸術と青騎士
7.3 ナチスによる弾圧
7.4 レンバッハハウスにおける青騎士[22]
8 脚注
9 関連項目
9.1 人物
9.2 都市
9.3 イズム・芸術運動
9.4 その他
10 参考文献
10.1 書籍・画集
10.2 論文(日本国内)
11 外部リンク
11.1 ドイツ語
11.2 英語

概略
「青騎士」というはっきりした芸術家集団があったわけではなく、
その実態は芸術年刊誌『青騎士』編集部と、
彼らによる企画展であった。
しかし、首班であったカンディンスキーの芸術理論に共感し、
お互いに近い理念と興味関心を有していた点で
青騎士は一つの芸術運動ともみなされる。
活動期間としては、カンディンスキーとフランツ・マルクが
年刊誌の創刊を構想し始めた1911年から第一次世界大戦によって
メンバーが散り散りになってしまった1914年までの約3年間であり、
非常に短命であったが、
その後世に与えた影響は大きく、
青騎士と周辺の芸術家は20世紀における現代芸術の重要な先駆けとなった。

歴史

前史
19世紀以前には、多様な主義主張がありながらも対象を客観的に描く
という点では共通していた西洋絵画も、
19世紀末になると、それまでの伝統を乗り越えようとする試みが現れた[1]。
ドイツ語圏では、当時のアカデミズムに支配された
サロンに反抗し分離派と呼ばれる芸術家グループもいくつか誕生した。
これら分離派は同時代のヨーロッパ各地の芸術運動から影響を受けていた。

表現主義
1905年、パリのサロン・ドートンヌに颯爽とフォーヴィスムが登場した。
後期印象主義に影響を受けたマティスらは、
対象をキャンバスの上に再現するのではなく、
大胆な色彩によって鑑賞者の感覚に直接訴える絵を描こうとした。

同じころドイツでも、激しい色彩を用いて絵画の方向性を探る運動が始まっていた。
これは表現主義とよばれ、フォーヴィスムや象徴主義の影響を受けて
分離派よりもさらに前衛色を増し、
ドレスデンのブリュッケや、
本項で扱うミュンヘンの青騎士といったグループを中心に展開した[2]。

ところでカンディンスキーは1903年に同じ「青騎士」というタイトルの油彩を描いている。生涯画風を変化させ続けたカンディンスキーであったが、1903年の油彩「青騎士」にみられる印象派風の画風を脱してなお、ミュンヘン新芸術家協会を振り棄てて起こそうとした芸術の新風を体現する表題として「青騎士」が選ばれている。「青騎士」の名、モティーフにはカンディンスキーの理念が在り続けたといえる。

また「青」という色についてもカンディンスキーは別のところで言及している。

「青が深まるごと、なおいっそう人間に無限への思慮を呼び起こし、純粋さや、ついには超感覚的なものへの憧憬を喚起する。青は空の色なのだ。」[9]

?『芸術における精神的なもの』より

ここにははっきりとカンディンスキーのロマン主義的傾向が表れている。

理念
端的にいえば青騎士が目指したのは、それまで当然のこととされてきた「形象(フォルム)」へのこだわりを捨てて、すべての芸術に共通する根底を明らかにすることであった。フォルムの呪縛を乗り越えることには同時に、物質主義文明を克服する確固たる意志をも重ね合わされた。

マルクとカンディンスキーは、青騎士によって共同体が感覚として「硬い規定」を作り出したり特定の方向性を喧伝したりする新たな「芸術家の協会」を目指したのではなく、むしろ芸術表現の多様性を編集上の文脈の中で束ねることを考えた[10]。この考えのもと2回の展覧会と年刊誌『青騎士』は企画された。

アウグスト・マッケとフランツ・マルクは、人間はみな芸術を通してともに結びつけられる内的および外的現実体験を持っているという見解を支持した[11]。この考え方はカンディンスキーがその著書『芸術における精神的なもの』(1911年)によって理論的基礎を固めたものである。カンディンスキーはそれを、芸術の「内的必然性」とよび、芸術作品は内側から鑑賞者に語りかけ、見る者はその声を聴くのだと訴えた。

芸術的特徴
青騎士はそもそも主義やイズムといった様式の確立を志向する集団ではなかった。従って属する芸術家どうしの間には、表現主義的であること以上の際立った共通点はない。彼らを結び付けていた要素は同時代のヨーロッパにおける芸術運動や中世の美術、プリミティフな美術・工芸への関心であり、また芸術家の内面を宇宙や世界、歴史といった客体と共振しようとするロマン主義であった。カンディンスキーが青騎士の時代を境に抽象的画風へと変化していったように、このロマン主義はしばしば反具象的傾向となってあらわれた。

レンバッハハウスにおける青騎士[22]

レンバッハハウス美術館カンディンスキーがミュンヘンを離れたあとの1920年代に、ムルナウの画家たちの間に作品の所有権についての法律上のいさかいが起こった。これは、ミュンターがカンディンスキーの作品を大量に保有するという益を受けていいたことが一因であった。しかし、カンディンスキー本人に絵を贈られていたミュンターは、ナチ時代には膨大な量のカンディンスキーや青騎士の芸術家たちの絵画を家の地下室に隠した。自身の80歳の誕生日に際して1957年、彼女はそうした遺産の大部分をミュンヘン市に寄贈した。その内訳は、25の自筆の絵と90のカンディンスキーの油彩および300の水彩画であった。ミュンターはこうして青騎士を、ミュンヘン市立のギャラリーであるレンバッハハウス美術館を代表するコレクションにしたのである。

++「続きを読むです3」++++++++++++++++++

2月8日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%888%E6%97%A5

出来事
1567年(永禄9年12月29日) - 松平家康が徳川家康と改名する。

1807年 - アイラウの戦い。

1887年 - 逓信省のマークが「丁」に決定。14日に「〒」に変更。

1904年 - 仁川沖と旅順港のロシア艦隊を日本軍が攻撃。日露戦争が勃発。

1919年 - 2・8独立宣言。在京の朝鮮人留学生がYMCA会館に集い独立を宣言。
朝鮮での3・1独立運動の導火線となった。

1932年 - 名古屋市中村区の鶏糞小屋から首を切り取られた女の死体発見(首なし娘事件)。

1982年 - ホテルニュージャパン火災。

1983年 - イギリスの名馬シャーガーがIRAに身代金目的で誘拐され殺害される。

1983年 - 大阪市営地下鉄谷町線・大日駅〜守口駅間が開業し、全通。

1984年 - 第14回冬季オリンピック、サラエボ大会開催。2月19日まで。

1992年 - 第16回冬季オリンピック、アルベールビル大会開催。2月23日まで。

2002年 - 第19回冬季オリンピック、ソルトレークシティ大会開催。2月24日まで。

誕生日
1720年(享保5年1月1日)- 桜町天皇、第115代天皇(+ 1750年)

1810年 - エリファス・レヴィ、魔術師(+ 1875年)

1819年 - ジョン・ラスキン、思想家(+ 1900年)

1828年 - ジュール・ヴェルヌ、SF作家(+ 1905年)

1845年 - フランシス・イシドロ・エッジワース、経済学者(+ 1926年)

1851年(嘉永4年1月8日) - 岩崎弥之助、実業家・三菱財閥2代目総帥(+ 1908年)

1864年(文久4年1月1日) - 川上音二郎、俳優、興行師(+ 1911年)

1880年 - フランツ・マルク、画家(+ 1916年)

1883年 - 清水比庵、歌人・書家(+ 1975年)

1906年 - 野長瀬正夫、詩人・児童文学者(+ 1984年)

1920年 - 宮崎仁郎、元プロ野球選手(+ 2001年)

1922年 - 渡辺誠太郎、元プロ野球選手

1924年 - 久米明、俳優・声優

1924年 - 稲田悦子、フィギュアスケート選手(+ 2003年)

1925年 - ジャック・レモン、俳優(+ 2001年)

1928年 - 大江志乃夫、歴史学者

1931年 - ジェームズ・ディーン、俳優(+ 1955年)

1932年 - ジョン・ウィリアムズ (作曲家)

1933年 - 香西洋樹、天文学者

1937年 - ばってん荒川、ローカルタレント(+ 2006年)

1944年 - 山本寛斎、ファッションデザイナー

1944年 - 柴田勲、元プロ野球選手

1944年 - 船戸与一、小説家

1946年 - 中村浩美、ジャーナリスト

1948年 - 浅野史郎、元宮城県知事

1949年 - スコット・アレン、フィギュアスケート選手

1950年 - 蟹瀬誠一、ジャーナリスト

1950年 - 三遊亭楽太郎、落語家
1951年 - 本田博太郎、俳優
1952年 - 郷里大輔、声優
1953年 - かなぶんや、ディスクジョッキー
1954年 - 広井王子、マルチクリエイター・演出家・大学教授
1955年 - ジョン・グリシャム、小説家
1955年 - 徐冰、芸術家
1957年 - 岩館真理子、漫画家
1957年 - 土井善晴、料理研究家
1959年 - 山田詠美、作家
1960年 - アルフレート・グーゼンバウアー、オーストリア首相
1960年 - 知吹愛弓、アニメーション監督
1961年 - ヴィンス・ニール、ミュージシャン(モトリー・クルー)
1964年 - KO-ICHIRO、Skoop On SomebodyのKey.
1966年 - フリスト・ストイチコフ、サッカー選手
1968年 - 麻生澪、AV女優
1969年 - いがらし寒月、漫画家グループCLAMPのメンバー
1971年 - 藤村直己、広島テレビ放送アナウンサー
1972年 - 江田照男、騎手
1972年 - 望月理恵、フリーアナウンサー、キャスター
1975年 - セバスチャン・フィリップ、レーシングドライバー
1975年 - 村瀬ひとみ、元山口放送アナウンサー
1975年 - トニー・マウンス、元プロ野球選手
1976年 - 山口隆、ミュージシャン(サンボマスター)
1976年 - 田中卓志、お笑いタレント(アンガールズ)
1977年 - JHETT a.k.a YAKKO、音楽プロデューサー、DJ
1978年 - アリ、ミュージシャン(太陽族)
1978年 - 古瀬絵理、アナウンサー
1978年 - 小野洋一郎、漫画家
1979年 - 今野竹雄、タレント
1982年 - 高岡蒼甫、俳優
1983年 - 國分優香里、声優
1983年 - 篠宮暁、お笑いタレント(オジンオズボーン)
1984年 - 平井沙知、タレント
1984年 - せんむ、イラストレーター
1985年 - 松下奈緒、女優・モデル
1988年 - 福井優也、野球選手
1988年 - 佐々木希、ファッションモデル
1990年 - 林翔太、ジャニーズJr.、M.A.D.のメンバー
1993年 - 斉藤奈々、女優
1996年 - 藤原丈一郎、関西ジャニーズJr.
生年不詳 - 中原杏、漫画家
生年不詳 - 桐原いづみ、漫画家
生年不詳 - naos、作詞家・作曲家

忌日
881年(元慶5年1月6日)- 慧子内親王、平安時代の皇族

1202年(建仁2年1月14日)- 源義重、平安時代・鎌倉時代の武将(* 1114年)

1204年 - アレクシオス4世アンゲロス、東ローマ皇帝(* 1182年)

1265年 - フレグ、イルハン朝創始者(* 1218年)

1296年 - プシェミスウ2世、ポーランド王(* 1257年)

1587年 - メアリー、スコットランド女王(* 1542年)

1676年 - アレクセイ、モスクワ大公(* 1629年)

1696年 - イヴァン5世、モスクワ大公(* 1666年)

1709年 - ジュゼッペ・トレッリ、作曲家(* 1658年)

1725年 - ピョートル1世、ロシア帝国のツァーリ(* 1671年)

1766年(明和2年12月29日)- 関思恭、書家(* 1697年)

1772年 - オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ、
イギリス王太子フレデリック・ルイスの妃(* 1719年)

1849年 - フランソワ・アントワーヌ・アブネック、指揮者(* 1781年)

1849年 - フランツェ・プレシェーレン、詩人(* 1800年)

1874年 - ダーフィト・シュトラウス、哲学者(* 1807年)

1887年 - ジム・カートライト、西部開拓時代のガンマン・アウトロー(* 1848年)

1891年 - チャールズ・ワーグマン、画家・漫画家(* 1832年)

1905年 - 2代目松林伯圓、講談師(* 1834年)

1912年 - 松平勝成、第13・15代伊予松山藩主(* 1832年)

1915年 - 長塚節、歌人・小説家(* 1879年)

1918年 - ルイ・ルノー、法学者(* 1843年)

1921年 - ピョートル・クロポトキン、革命家(* 1842年)

1922年 - 橘家圓蔵 (4代目)、落語家(* 1864年)

1923年 - 大谷光瑩、東本願寺22世(* 1852年)

1929年 - マリア・クリスティナ、スペイン王アルフォンソ12世の妃(* 1858年)

1929年 - エドウィン・デンビ、第42代アメリカ合衆国海軍長官(* 1870年)

1936年 - チャールズ・カーティス、第31代アメリカ合衆国副大統領(* 1860年)

1947年 - ジュゼッピーナ・バキタ、カトリック教会の聖人(* 1869年)

1948年 - フランク・クラウス、プロボクサー(* 1887年)

1951年 - ハリー・エイブレス、メジャーリーグベースボール選手(* 1883年)

1954年 - 石射猪太郎、日本の外交官(* 1887年)

1955年 - 柳家権太楼 (初代)、落語家(* 1897年)

1956年 - コニー・マック、メジャーリーグベースボール選手・監督(* 1862年)

1957年 - ワルサー・ボーテ、物理学者(* 1891年)

1957年 - ジョン・フォン・ノイマン、数学者(* 1903年)

1960年 - 淵上白陽、写真家(* 1889年)

1960年 - ジョン・L・オースティン、哲学者(* 1911年)

1964年 - エルンスト・クレッチマー、精神医学者(* 1888年)

1965年 - 波江悌夫、建築家(* 1885年)

1965年 - 三浦義男、宮城県知事(* 1895年)

1975年 - ロバート・ロビンソン、化学者(* 1886年)

1977年 - エイヴィン・グローヴェン、作曲家(* 1901年)

1979年 - 梅若六郎 (55世)、能楽師(* 1907年)

1982年 - ラウリ・ヴィルタネン、陸上競技選手(* 1904年)

1983年 - アルフレッド・ウォーレンスタイン、指揮者(* 1898年)

1986年 - 石塚友二、俳人・小説家(* 1906年)

1994年 - 安西均、詩人(* 1919年)

1996年 - 李升基、化学者・ビニロンの共同開発者(* 1905年)

1998年 - ハルドル・ラクスネス、作家(* 1902年)

1998年 - 渋沢孝輔、詩人(* 1930年)

1999年 - みず谷なおき、漫画家(* 1960年)

1999年 - アイリス・マードック、思想家・小説家・詩人(* 1919年)

2000年 - 佐藤イツキ、PCライター(* 1960年)

2005年 - ジミー・スミス、ジャズオルガン奏者(* 1925年)

2005年 - 円谷文彦、声優(* 1942年)

2005年 - ガストン・ライエ、モトクロス選手(* 1947年)

2006年 - 伊福部昭、作曲家(* 1914年)

2006年 - 古城武司、漫画家(* 1938年)

2007年 - 星山博之、脚本家(* 1944年)

2007年 - アンナ・ニコル・スミス、モデル・女優(* 1967年)

2008年 - フィリス・A・ホイットニー、推理作家(* 1903年)

記念日・年中行事
郵便マークの日/〒マークの日

ロカビリーの日
1958年2月8日に、ロカビリーブームの火つけ役となった
日劇ウエスタン・カーニバルが開催されたことに由来する。

針供養
折れた針を豆腐やこんにゃくに刺して供養し、裁縫の上達を願う行事。
12月8日に行う地方もある。