東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年2月11日(水曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年2月11日(水曜日)

「初春」「新年」の「2月」も
「11日」たちました。
あと「3日」まで。
最後の「冬月」の「2月」
です。

そしてあと「17日」たてば。
「春」の「3月」になります。

「春」は。

まちどおしいもの

であることが

あらためて。

身にしみて。

感じられます。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。

まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

「初春」です。
「1月」は終わり。

「2月」は
「11日」たちました。

今現在は
「2月」。
「新年」の「初春」の「晩冬」です。
もうすぐ。
そこまで「春」がきています。

「昨年」の晩秋には。
晩秋の花木。
「金木犀:きんもくせい」花を咲かせました。
日々ますます花をさかせていました。
「実りの花」。

「金木犀:きんもくせい」は「秋」に「2度」咲きました。
「銀木犀:きんもくせい」も咲きました。
「金木犀:きんもくせい」の花は黄金色です。
「銀木犀:きんもくせい」の花は「プラチナ色」です。

かおりも全く違います。
「金木犀:きんもくせい」より。
「銀木犀:きんもくせい」は10日遅れで咲きました。

今は「新年」「初春」の「2月」。

「銀木犀:きんもくせい」も「銀木犀:きんもくせい」も

はるかかなたに。

「花」はおわりました。

そして。

「木犀:もくせい」は今「初春」の「晩冬」を迎え。

さらなる深い冬越しと。

「春」まちの準備をしています。

「木犀:もくせい」は常緑樹です。

「冬」になると。

「葉色」と「葉のあつさ」がかわります。

「木枯らしに耐える葉の厚さ」になります。

「初春」の「新年」の。

山茶花のつぼみがみえます。

「やぶつばき」のつぼみがみえます。

「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」は
不思議な木です。

「山茶花(さざんか)」や。
「やぶつばき」の「花」は。

「夜の「木枯らし」」に
弓射られて地上に落花致します。

「冬」の「花粉」を運ぶ「昆虫」の少ない
時期に「花は咲きます」。
「花ひらく」と同時にちります。

「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」
の木下には「毛氈(もうせん)花壇」のように。
「紅白の花びら」が。
舞いおりてています。

その地上の。
「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」
の存在を誇示するがごとくです。

「やぶつばき」や「山茶花(さざんか)」
一夜での落花現象は「謎」です。

「初春」の「新年」の「晩冬」に。
花粉を授粉してくれる
昆虫は極めて少ないはずです。

「種の保存」から。
なんらかの「方法」で。

「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」は。

地上の「紅白」のはなびらで。
昆虫にその存在を
探知させているのかもしれません。

地面の上の「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」
が「花びら」で存在を誇示しても。

木々の「花」は天上。
「花」こそみえません。

けれども
「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」
の「いのちの芳香」は。

とくとくと。
遠くまでただよっているかのごとくです。

「新年」「初春」。
「2月」の冬になりました。
常緑の。
山茶花(さざんか)や「やぶつばき」は元気です。
「春」間近(まぢか)です。

山茶花(さざんか)や「やぶつばき」は
花が落ちて。
「木の下」に「フェルマータ"fermata"」*
が。
楽譜のように記譜されているような「木」です。

「落花生」のような「木」です。

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C・

イタリア語におけるフェルマータ"fermata"とは。
英語"stop"に相当する名詞です。
(例えばイタリアのバス停の
標識には"Fermata"の表示があります)。

音楽美学の世界では。

絵画には限られた面積があるのと同じように。
音楽には。
「限られた時間」—つまり「初め」と「終わり」—があることが
宿命とされています。
古い時代の楽譜のときはその終止線の上下や終結音の
上下に現在のフェルマータのマークの基となったデザインが
配されました。

そこで音楽の終わりを意味致しました。

時間の流れを止めることはできません。
けれども曲の終わりでは。
音楽を止めることによってその時空に終わりが
発生することとなります。
「停止」という意味の"fermata"の概念はそのように
発生したと解されます。

付与された音符や休符で音楽の時間の流れを
停止させる意味を持ちます。

「♪」
に付与されれば
「♪」
その音のまま「停止」=「ずっと鳴り続ける」
「休止符」
に付与されれば
「休止符」
その旋律は「停止」=「ずっと鳴らない」
ことになります。
楽譜の節目の
縦線に付与される場合には。
一記譜上に存在しない挿入された休符が空白時間として
求められます。

ただし
前の音から伸ばされたタイ(スラー)が。
縦線の上を横切っている場合と
そこにピアノにおけるペダルなどの保続効果の指示が見られる場合は。
空白時間として処理されず音を保続させる時間を
別途挿入することとなります。

フェルマータ"fermata"。

そのマークは「一日の終わりである日没」
に由来したデザインとも言われています。
-------------------------------

旧暦では「11月」から「冬」です。
「昨年」12月が終わり。

今現在は。
「2月」は「初春」「新年」の「晩冬」です。

「冬将軍」のくる
「冬」です。

今朝早朝の真っ暗な時間に
「吐息」が「白く」みえます。

急速に。
とりわけ朝暗いうちは。
かけあしで
「とてもとてもさむくなってきました」。

今朝早朝は
暗いうち晴れて。
霧雨の合間に。
久方ぶりにたくさんのたくさんの
星をみました。

そして天井の空高くひさしぶりに「月」の
かがやきをみました。

地上の変化(へんげ)が天高くたちのぼり
月や星に結晶して。
芳香をはなつがごとく光をはなつように
見えます。

空気が澄み。
大気がすんでいるからでしょう。

「天高く」とはなるほどと考えます。

「木枯らし」の合唱も。
なかなかすてきです。

ブラスでもない。木管でもない。弦でもない。
グラスハープの。
オーケストラを聴いているようです。

そして「2月」になり
「木枯らし」の鳴き声は「アリア」として。
次第に出番が多くなりました。

寒い中でも
「極めて大きな声でうたっている」
「木枯らし」が
「1-2」はいるのが不思議です。

山茶花の木の上か。
電線にとまったり。
またさらに
上空で「木枯らし」は歌っているようです。

うっすらと「ドア」を開けると。

「魔王:Erlkönig」の吹く。

不協和音のオカリナのような。

音色ではいりこもうとします。

そぞろ そぞろに。
静かながらに。

「1月」の朝焼けと。
夕焼けどきに。

ひそやかながらもあきらかに。
「冬将軍」の気配にあと押しされて。
「確かな冬」のかおりが。
大気にかげろううや蜃気楼のように
ただよいはじめています。

昼間はあたたかい
小春の陽射しを感じることが
あります。

「初春」「新年」の「2月」。

雪国の冬です。

そして「春」間近です。

2月の冬の気配は。
あっというまに。
冬の「霞(かすみ)」に「霊気(れいき)」
のように変化して。
次第に「深い冬」の気配にうつろいていく。
「井戸のつるべ」がおちるようです。

「冬の2月」。
ふかまりゆく
「冬からの冬将軍の登場」は。
威風堂々と。
感じられるような気がします。

そしてさらに。

冬そしてさらに。

「もっと深い「春」」が。

ピアニッシモ。
ppで。
しのびよる深い冬の気配が
かんじられます。

朝日と東の朝焼け青空に。
「朝焼け」の。

空にはそらいろとピンクのレースのような

あやにしきの
「くれゆくふゆいろ」が感じられます。

冬春陽射し(ひさし)やさしき冬。
冬春空にも地にも天高くはれ。
冬春の大気のひそみかくれ。
冬春そらにみちてあふれれば。
冬春吐息(ためいき)となり。
冬春吐息が霧雨か霞になり。
冬春おりてくるような感じです。
冬春「冬はふかまりゆく」気配
になりました。

冬なお「力強い」の木々のめぶきは
初冬の息吹から深い冬への息吹への。
変化(へんげ)を感じます。

早朝は「とても寒い」です。
今年は「寒い」です。

百姓のうまれなので「冷冬」が心配です。

街路樹はしっかりと
冬ながらも枝木の穂先もたわわにつよく
「晩冬」の萌黄色の若芽もち。
「初春」のあおい「木」にかわりました。
「新年」のあおい「木」は。
「実りの冬」のおとづれを。
そしてさらなる「冬の深まり」を超えて。

そしていま厳しい冬をがんばって。
「あたたかい「春」」をむかえようとしています。

「本物の冬」から「もともっと寒い冬」

「新年」「初春」の「晩冬」
です。

「晩冬」の気配に加えて。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

冬春山椒(さんしょう)の木の芽が
冬春にも若葉はそだち。
冬春若葉は冬の若枝となり。
冬春若枝は天高くすこやかにのび。
冬春のふかまりにますますすこやかに。
冬春山椒(さんしょう)の木のみどり葉。
冬春空に燃えるが如くの炎葉です。

さんしょうを
木の芽(このめ)といふは
なるほどと
かんがえる

冬春深まりたり
冬春空たかく
冬春あやにしき
冬春みどり木
冬春さんしょう木
冬春陽をあびてかがやけり
冬春いざいまこそは
冬春金色(かがね)にかわり
冬春赤き秋空に燃えたたむ

冬春さんしょう木
冬春もえぎの炎(ほのほ)は芽葉(めは)
冬春わかば葉はいずるは花ならむ
冬春(ふゆ)こす枝は幹ならむ
冬春いざいまこそは
冬春空(そら)たかくもえたたむ
冬春金色(こがねいろ)なる
冬春さんしょう木
冬春(ふゆ)深まれり

山本クリニックの庭には水槽が
「2つ」あります。
めだかが泳いでいます。

冬春ふかく草を浮かべる水面(おも)に
冬春めだかのむれのひかりたり
冬春むれておよげるひめだかの
冬春みずのなかなるちいさないのち
冬春みずのなかなるおおきないのち
冬春みのりてあまたにとほときいのちこそ
冬春いざみずもにうつしはぐくまむ

けれども
早朝は本当にはだ寒いのです。

小さなふゆみつけたから
しだいに大きなあきみつけた
大きなふゆみつけたから
大きな大きなふゆみつけた
そして
「小さい春みつけた」は。

「こころしずまる気」がします
「初冬」かえあ
「晩冬」になります。
「初春」になります。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成21年1月12日(水曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。
限られた診療スタッフで。
限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
限られた診療スタッフで。
御予約の患者さんのみ。
限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は。

「ノーベル物理学賞」或は「ノーベル化学賞」
など「ノーベル賞」が制度化される寸前の大頭脳。
「ノーベル賞」が制度化されていたらば。

「合衆国USA」で最初の
「ノーベル賞」受賞者となったはずの
大頭脳・大天才
の物理学者・数学者である。

1839年 - ウィラード・ギブズ、物理学者(+ 1903年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ
(Josiah Willard Gibbs,
1839年2月11日 - 1903年4月28日)は。

アメリカコネチカット州ニューヘイブン出身の
数学者・物理学者・物理化学者です。

エール大学(イェール大学)教授でした。

熱力学で
「相律」を発見するなど大きな功績を残しました。

他にもギブズ自由エネルギーや
ギブズ-ヘルムホルツの式等にその名を残しました。

「ベクトル解析」の創始者の一人として。
数学にも寄与しています。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ:
Josiah Willard Gibbs
の。

ギブズの科学者としての経歴は。
4つの時期に分けられます。
-------------------------------
1・
1879年迄、ギブズは、熱力学理論を研究致しました。
2・
1880年から1884年迄は、ベクトル解析分野の研究を行いました。
3・
1882年から1889年迄は、光学と光理論の研究を致しました。
4・
1889年以降は、統計力学の教科書作成に関わりました。
-------------------------------

彼の功績を称えて。
小惑星(2937)ギブズが彼の名を取り命名されています。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ:

Josiah Willard Gibbsは。
ギブズは、アメリカ合衆国コネチカット州
ニューヘイブンで生まれ
同地で死亡しました。

同名の彼の父はニューヘブンにあった
イェール大学の神学専門大学院で。
宗教文学の教授をしていました。

今日では「同名の彼の父」は。
アミスタッド号 裁判に関与したことで
最も良く知られています

(父親のほうも「ジョシュア・ウィラード」と云う名だった訣
でしたが。
息子である彼自身が
「ジョシュア・ウィラード・ギブズ・ジュニア」として
言及されるはずですが概ねギブスの事例では
「ジュニア」は付きません)。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ:
Josiah Willard Gibbs
は。
ギブズは、イェール大学のイェール・カレッジに就学し。

数学とラテン語とで表彰されて。
クラスにおける学業優秀者として1858年に卒業致しました。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ:Josiah Willard Gibbs
は。
ギブズは、イェール大学で研究を続けました。
1863年には博士号を取得致しました。

アメリカ合衆国における最初の工学博士号となりました。

その後。
ギブズは、イェール・カレッジ講師となりました。
2年間はラテン語を、そして1年間は、
彼が当時自然哲学と呼んでいたものを教えました。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ:
Josiah Willard Gibbs
は。

1866年、ギブズは、研究のためヨーロッパに渡り、
パリ、ベルリン、ハイデルベルクで、
各1年ずつ過ごしました。

彼が、ニューヘイブン地域から離れたのは
生涯でほぼこの3年間だけだったのです。

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ジョシュア・ウィラード・ギブズ:Josiah Willard Gibbs
は。

1869年、ギブズはイェール大学に復帰し、
1871年に数理物理学教授に任命されました。
これは、アメリカ合衆国における、
最初の数理物理学教授職でした。

けれども彼が全く論文を発表しないためもあって
無給でした。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ:Josiah Willard Gibbs
は。
その後、ギブズは、熱力学理論の発展及び発表に
取り組みはじめました。

1873年、ギブズは、熱力学的物理量を
幾何学的に表現する方法に就いての論文を発表致しました。

この論文に感銘を受けた
ジェームズ・クラーク・マクスウェルは、
自らの手でギブズの概念を説明する
石膏模型を作成するほどでした
(この模型は、ギブズに贈られ、
現在もイェール大学が大いなる誇りをもって所蔵しています)。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ:Josiah Willard Gibbs
は。
ついで、ギブズは。
「不均一な物質系の平衡に就いて
"On the Equilibrium of Heterogeneous Substances"」
と云う論文を。
1876年と1878年の2回に分けて発表致しました。

不均一系平衡に関する、このギブズ論文が扱っているのは:

化学ポテンシャル概念
ギブズ自由エネルギー概念
ギブズ集団のアイデア(統計力学分野の基礎)
相律

でした。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ:
Josiah Willard Gibbs
は。
その後
1880年ギブズは、メリーランド州ボルチモアに
当時新設されたジョンズ・ホプキンス大学 から
3000ドルの給与で招聘されたのですが。

イェール大学側から2000ドルではどうかと提案されると、
それで満足しニューヘイブンに留まりました。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ:
Josiah Willard Gibbs
は。

1880年から1884年迄、ギブズは。
-------------------------------
1・
アイルランドの数学者ウィリアム・ローワン・ハミルトン が
考案した四元数 の考え方と。
2・
ドイツの数学者ヘルマン・ギュンター・グラスマンの
「広延論(Ausdehnungslehre)」の考え方を組み合わせて。
-------------------------------
「ベクトル解析」と云う数学分野を産み出しました。

(ギブズとは独立して、
オリヴァー・ヘヴィサイドも
この分野の開拓致しました。)。

ギブズはこの「ベクトル解析」を数理物理学の
目的に沿うようにしています。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ:Josiah Willard Gibbs
は。

1882年から1889年迄、ギブズは、
光学の研究を行ない光の電気理論を新たに作り上げました。
ギブズは。
この時期に彼のベクトル解析理論を完成しています。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ:
Josiah Willard Gibbs
は。

彼は、物質の構成を理論に持ち込むことを意図的に避けました。
物質組成の種類によらない一般的な理論を組み立てました。

1889年以降、ギブズは、統計力学の教科書の作成に取り組み
ました。
これは、イェール大学出版局により1902年に出版されました。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ:
Josiah Willard Gibbs
は。

ギブズは、生涯結婚せず、彼の姉及び義兄と暮らしました。
この義兄は、イェール大学の司書であり。

Transactions of the Connecticut Academy of Sciences
(「コネチカット州科学アカデミー紀要」)
の出版人でもあったのですが。

この雑誌に、ギブズの殆どの論文が発表されました。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ:
Josiah Willard Gibbs
の。

ギブズの死と、その後
ギブズは、1903年に亡くなるまでイェール大学に留まりました。

ギブズが死亡したのは、
ノーベル賞が創設後間もなくのことであり。
彼がノーベル賞を得ると云うようなことはなかったのです。

しかし、ギブズは、英国王立協会の
コプレイ・メダル(Copley Medal)を授与されており、
これは、科学に関する国際的認知として当
時では最も名誉なことであったとみなされています。

++++++++++++++++++++++

ジョシュア・ウィラード・ギブズ:Josiah Willard Gibbs
の。

科学上の評価
ギブズの死後、彼への敬意の一つとして。

イェール大学は、
「J.ウィラード・ギブズ記念理論化学教授職」を創設致しました。

ノーベル賞受賞者ラルス・オンサーガー (Lars Onsager) は、
そのイェール大学での経歴の殆どの期間この職にあったが、
彼が、ギブズと同様に。

新しい数学上のアイデアを
、物理化学(特に統計力学)に応用することに
何よりも関わったことを思えば、
これはオンサーガーにとり極めてふさしい職名でありました。

++++++++++++++++++++++

18世紀中葉、米国の大学は、
科学に殆ど関心を示さず、
古典に偏重していたから、ギブズの講義は、
学生の興味を殆ど引かなかったのです。

彼の業績に興味を持ったのは、
他の科学者、特に、ス
コットランドの物理学者
ジェームズ・クラーク・マクスウェルでした。

ギブズが論文を発表したのが、
ヨーロッパでは余り読まれていない無名雑誌であったため、
評価されるようになるのは遅く。

ギブズの考えがヨーロッパで広く受け入れられたのは、
論文がヴィルヘルム・オストヴァルトにより
書籍の形でドイツ語訳され(1888年)、
アンリ・ルシャトリエによりフランス語訳されて
(1899年)からでした。

++++++++++++++++++++++

ギブズの言葉

A mathematician may say anything he pleases,
but a physicist must be at least partially sane.
「数学者は自分の好き勝手を言えるが、物理学者は、
少なくとも部分的には分別がなければならない。」
Mathematics is a language. (at a Yale faculty meeting)
「数学とは語学である。」(イェール大学学部集会にて)

++++++++++++++++++++++

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ウィラード・ギブズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%96%E3%82%BA

ジョシュア・ウィラード・ギブズ(Josiah Willard Gibbs, 1839年2月11日 - 1903年4月28日)はアメリカコネチカット州ニューヘイブン出身の数学者・物理学者・物理化学者で、エール大学(イェール大学)教授。

熱力学で相律を発見するなど、大きな功績を残した。他にもギブズ自由エネルギーやギブズ-ヘルムホルツの式等にその名を残した。ベクトル解析の創始者の一人として数学にも寄与している。

ギブズの科学者としての経歴は、4つの時期に分けられる。1879年迄、ギブズは、熱力学理論を研究した。1880年から1884年迄は、ベクトル解析分野の研究を行った。1882年から1889年迄は、光学と光理論の研究をした。1889年以降は、統計力学の教科書作成に関わった。なお、彼の功績を称えて、小惑星(2937)ギブズが彼の名を取り命名されている。

目次
1 生涯
1.1 少年/青年期
1.2 成人後
1.3 その後
1.4 ギブズの死と、その後
2 科学上の評価
3 ギブズの言葉
4 豆知識
5 関連項目
6 文献
7 外部リンク及び参考図書

生涯

少年/青年期
ギブズは、アメリカ合衆国コネチカット州ニューヘイブンで生まれ、同地で死亡した。同名の彼の父は、ニューヘブンにあったイェール大学の神学専門大学院で宗教文学の教授をしていたが、今日では、アミスタッド号 裁判に関与したことで最も良く知られている(父親のほうも「ジョシュア・ウィラード」と云う名だった訣だが、息子である彼自身が「ジョシュア・ウィラード・ギブズ・ジュニア」として言及されることは、余りない)。ギブズは、イェール大学のイェール・カレッジに就学し、数学とラテン語とで表彰され、クラスにおける学業優秀者として1858年に卒業した。

訳注: イェール大学構内にある、グローブ・ストリート墓地(Grove Street Cemetery)に、ギブズ親子は共に埋葬されているが、少なくともそうした文脈などで、二人を同時に言及する場合には、区別するために「シニア」と「ジュニア」が付けられている。

成人後
ギブズは、イェール大学で研究を続け、1863年には博士号を取得した。それは、アメリカ合衆国における最初の工学博士号だった。その後、ギブズは、イェール・カレッジ講師となり、2年間はラテン語を、そして1年間は、彼が当時自然哲学と呼んでいたものを教えた。1866年、ギブズは、研究のためヨーロッパに渡り、パリ、ベルリン、ハイデルベルクで、各1年ずつ過ごした。彼が、ニューヘイブン地域から離れたのは、生涯でほぼこの3年間だけだった。

1869年、ギブズはイェール大学に復帰し、1871年に数理物理学教授に任命された。これは、アメリカ合衆国における、最初の数理物理学教授職だったが、彼が全く論文を発表しないためもあって無給だった。

その後、ギブズは、熱力学理論の発展及び発表に取り組みはじめた。1873年、ギブズは、熱力学的物理量を幾何学的に表現する方法に就いての論文を発表した。この論文に感銘を受けたジェームズ・クラーク・マクスウェルは、自らの手でギブズの概念を説明する石膏模型を作成したのだった(この模型は、ギブズに贈られ、現在もイェール大学が大いなる誇りをもって所蔵している)。

訳注: この石膏模型に就いては R.D. Kriz. "Visual Thinking" (Va. Tech College of Engineering Revised 02/11/95) も参照のこと。曰わく、"now gathers dust in a display case next to a trash bin. " 「今では、ゴミ箱の隣の展示ケースの中で埃を被っている。」
ついで、ギブズは、「不均一な物質系の平衡に就いて "On the Equilibrium of Heterogeneous Substances"」と云う論文を、1876年と1878年の2回に分けて、発表した。不均一系平衡に関する、このギブズ論文が扱っているのは:

化学ポテンシャル概念
ギブズ自由エネルギー概念
ギブズ集団のアイデア(統計力学分野の基礎)
相律

その後
1880年、ギブズは、メリーランド州ボルチモアに当時新設されたジョンズ・ホプキンス大学 から 3000ドルの給与で招聘されたが、イェール大学側から2000ドルではどうかと提案されると、それで満足したらしく、ニューヘイブンに留まった。

1880年から1884年迄、ギブズは、アイルランドの数学者ウィリアム・ローワン・ハミルトン が考案した四元数 の考え方と、ドイツの数学者ヘルマン・ギュンター・グラスマンの「広延論(Ausdehnungslehre)」の考え方を組み合わせて、ベクトル解析と云う数学分野を産み出した(ギブズとは独立して、オリヴァー・ヘヴィサイドも、この分野の開拓した)。ギブズは、このベクトル解析を数理物理学の目的に沿うようにしている。

1882年から1889年迄、ギブズは、光学の研究を行ない、光の電気理論を新たに作り上げた。ギブズは、この時期に彼のベクトル解析理論を完成している。彼は、物質の構成を理論に持ち込むことを意図的に避けており、物質組成の種類によらない一般的な理論を組み立てた。1889年以降、ギブズは、統計力学の教科書の作成に取り組んだが、これは、イェール大学出版局により1902年に出版された。

ギブズは、生涯結婚せず、彼の姉及び義兄と暮らした。この義兄は、イェール大学の司書であり、Transactions of the Connecticut Academy of Sciences(「コネチカット州科学アカデミー紀要」)の出版人でもあったが、この雑誌に、ギブズの殆どの論文が発表されたのだった。

ギブズの死と、その後
ギブズは、1903年に亡くなるまで、イェール大学に留まった。

ギブズが死亡したのは、ノーベル賞が創設後間もなくのことであり、彼がノーベル賞を得ると云うようなことはなかった。しかし、ギブズは、英国王立協会のコプレイ・メダル(Copley Medal)を授与されており、これは、科学に関する国際的認知として当時では最も名誉なことであったとみなされている。

科学上の評価
ギブズの死後、彼への敬意の一つとして、イェール大学は、「J.ウィラード・ギブズ記念理論化学教授職」を創設した。ノーベル賞受賞者ラルス・オンサーガー (Lars Onsager) は、そのイェール大学での経歴の殆どの期間この職にあったが、彼が、ギブズと同様、新しい数学上のアイデアを、物理化学(特に統計力学)に応用することに何よりも関わったことを思えば、これはオンサーガーにとり極めてふさしい職名であった。

18世紀中葉、米国の大学は、科学に殆ど関心を示さず、古典に偏重していたから、ギブズの講義は、学生の興味を殆ど引かなかった。彼の業績に興味を持ったのは、他の科学者、特に、スコットランドの物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルだった。ギブズが論文を発表したのが、ヨーロッパでは余り読まれていない無名雑誌であったため、評価されるようになるのは遅く、ギブズの考えがヨーロッパで広く受け入れられたのは、論文がヴィルヘルム・オストヴァルトにより書籍の形でドイツ語訳され(1888年)、アンリ・ルシャトリエによりフランス語訳されて(1899年)からだった。

ギブズの言葉

A mathematician may say anything he pleases, but a physicist must be at least partially sane.
「数学者は自分の好き勝手を言えるが、物理学者は、少なくとも部分的には分別がなければならない。」
Mathematics is a language. (at a Yale faculty meeting)
「数学とは語学である。」(イェール大学学部集会にて)

豆知識
本稿主題の「ジョシュア・ウィラード・ギブズ」に就いて:

アメリカ合衆国海軍には、彼にちなんだ、同名の艦船があった(1944-1971)。
月の南緯 18.4度 東経 84.3 度には、彼にちなんだ 「ギブズ」と云う名のクレーターがある(直径76 km)。
アメリカ合衆国郵政公社(United States Postal Service)は2005年中に、彼の記念切手(37セント)を発売する予定である。

関連項目
科学: 情報理論、情報エントロピー 、四元数、ギブスの不等式
電気: マクスウェル方程式
数学: ギブズ現象
物理化学: 相 (物性)、相律、統計力学、ギブズ自由エネルギー、ギブズ-デュエムの式、ギブズ-ヘルムホルツの式
人物: ギルバート・ルイス、ウィリアム・ローワン・ハミルトン 、ラルス・オンサーガー 、ルートヴィッヒ・ボルツマン、ウィリアム・スタンレー(William Stanley)、オリヴァー・ヘヴィサイド
[その他]: コプレイ・メダル 、イェール大学、グローブ・ストリート墓地 (Grove Street Cemetery)
リスト: 熱力学、統計力学、確率過程論関連の年表

文献
日付順

Bumstead, H. A., "Josiah Willard Gibbs". American Journal of Science, 4, XVI. 1903. (「ジョシュア・ウィラード・ギブズ」)
Longley, W. R., and R. G. Van Name, "The Collected Works of J Willard Gibbs". 1928. (「J ウィラード・ギブズ論文選集」)
Donnan, F. G., and A. E. Haas, "A Commentary on the Scientific Writings of J Willard Gibbs". 1936. ASIN 0405125445(J ウィラード・ギブズの科学上の著作への注釈)
Rukeyser,M., "Willard Gibbs: American Genius". 1942. ASIN 0918024579(「ウィラード・ギブズ: アメリカの天才」)
Gibbs, J. Willard, "The Early Work of Willard Gibbs in Applied Mechanics". 1947. ISBN 1881987175(「応用力学についてのウィラード・ギブズの初期の業績」)
Wheeler, L. P., "Josiah Willard Gibbs, The History of a Great Mind". 1952. ISBN 1881987116 (「ジョシュア・ウィラード・ギブズ。偉大なる精神の歴史」)
Gibbs, J. Willard, "Scientific Papers". 1961. ASIN 084462127 「J. ウィラード・ギブズ科学論文集」
Crowther, J. G., "Famous American Men of Science". 1969. ISBN 0836900405(「米国人著名科学者」)
Seeger, R., "Men of physics : J. Willard Gibbs, American mathematical physicist par excellence". 1974. ASIN 0080180132(「物理学者たち: 偉大なる米国人数理物理学者、J. ウィラード・ギブズ。」)

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2月11日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8811%E6%97%A5

できごと
紀元前660年(神武天皇元年1月1日) -
日本国の祝日、建国記念の日の由来となっている(2月11日はグレゴリオ暦での日付)。

1869年(明治2年1月1日) - 三浦半島に日本初の洋式灯台である観音埼灯台が完成する。

1889年 - 大日本帝国憲法・衆議院議員選挙法・貴族院令など公布。

1922年 - 1粒300mがキャッチコピーのグリコが三越百貨店で発売される。

1928年 - 第2回冬季オリンピック、サンモリッツ大会開催。2月19日まで。

1929年 - ラテラノ条約締結。バチカン市国が成立。

1937年 - 文化勲章制定

1940年 - 洲本町が市制施行し洲本市となる。

1956年 - 高市郡八木町・今井町・畝傍町・真菅村・鴨公村・磯城郡耳成村の
合併によって橿原市が誕生。

1959年 - 和製ポップス歌手のザ・ピーナッツが
「日劇コーラスパレード」でデビューする。

1959年 - 「紀元節奉祝建国祭大会」参加直後の右翼が、
批判的発言をした三笠宮崇仁親王邸に押しかける。

1967年 - 石川県加賀市の国道8号沿いに8番らーめん第1号店が開店。
以後北陸3県を代表するラーメンチェーン店へと進展。

1970年 - 日本初の人工衛星おおすみ打ち上げ。

1977年 - 革労協書記長内ゲバ殺人事件。

1979年 - ルーホッラー・ホメイニー率いる革命軍が首都・テヘランを掌握。
イラン革命政権が成立。

1990年 - 南アフリカ共和国で政治犯として捕えられていた
アフリカ民族会議の最高指導者ネルソン・マンデラが釈放される。

2000年 - 宮城県山元町にある、社台レースホース山元トレーニングセンターの中の
厩舎から出火し、小田切有一所有馬エガオヲミセテをなど現役競走馬22頭が焼死。

2004年 - 吉野家、アメリカ産牛肉のBSEによる禁輸処置が長引き在庫がなくなり、
牛丼販売の一時全面停止に踏み切る。

2005年 - 吉野家、冷凍されていたアメリカ産牛肉150トンを使用し、
ちょうど一年ぶりに一日だけ牛丼販売を再開。全国1,000店舗で計150万食を販売した。

2005年 - ウィキペディア日本語版が10万項目を達成。

2006年 - 東京都葛飾区亀有駅前に両津勘吉像除幕式

2006年 - 東京都渋谷区神宮前の表参道の同潤会青山アパート跡地に表参道ヒルズが開業。

2006年 - 市町村合併により新たに洲本市(兵庫県)、宮若市(福岡県)が誕生。

2007年 - 韓国・麗水市で麗水外国人保護所火災事故発生

誕生日
1535年 - グレゴリウス14世、ローマ教皇(+1591年)

1745年(延享2年1月11日) - 伊能忠敬、測量家(+1818年)

1776年 - イオアニス・カポディストリアス、政治家(+ 1831年)

1778年(安永7年1月15日)- 帆足万里、儒学者・経世家(+ 1852年)

1815年 - ジョン・アップルトン、政治家・外交官(+ 1864年)

1839年 - ウィラード・ギブズ、物理学者(+ 1903年)

1847年 - トーマス・エジソン、発明家(+ 1931年)

1862年(文久2年1月13日) - 有栖川宮威仁親王、近代の皇族(+ 1913年)

1887年 - 折口信夫、民俗学者・国文学者(+ 1953年)

1900年 - 戸田城聖、創価学会創設者(+ 1958年)

1908年 - 笹村草家人、彫刻家(+ 1975年)

1917年 - シドニィ・シェルダン、小説家(+ 2007年)

1921年 - エドワード・G・サイデンステッカー、翻訳家(+ 2007年)

1921年 - 中田金一、元プロ野球選手

1926年 - ポール・ボキューズ、フランス料理の調理師

1926年 - レスリー・ニールセン、俳優

1927年 - 末吉俊信、元プロ野球選手

1928年 - 田宮謙次郎、元プロ野球選手

1934年 - ジョン・サーティース、レーシングドライバー

1934年 - マヌエル・ノリエガ、パナマの国家元首

1936年 - 山口昌紀、近畿日本鉄道会長

1936年 - バート・レイノルズ、俳優

1937年 - 野添ひとみ、女優(+ 1995年)

1939年 - ジェイン・ヨーレン、児童文学作家

1940年 - 小野ヤスシ、タレント

1940年 - 唐十郎、劇作家

1940年 - 有本欽隆、声優

1940年 - 魚住汎英、政治家

1941年 - 瀧安治、元プロ野球選手(+ 2003年)

1941年 - 大沢悠里、元TBSアナウンサー

1941年 - セルジオ・メンデス (Sergio Mendes) 、ミュージシャン

1944年 - クロード・チアリ、ギタリスト

1944年 - 清水紘治、俳優

1947年 - 鳩山由紀夫、衆議院議員、民主党幹事長

1947年 - 松岡きっこ、タレント

1947年 - 布川ゆうじ、アニメーション演出家

1948年 - 桂宮宜仁親王、皇族、三笠宮家の二男

1949年 - ベン・オグリビー、元野球選手
1953年 - たいらいさお、歌手(3代目うたのおにいさん)
1955年 - 益田由美、フジテレビアナウンサー
1957年 - 土田義晴、絵本作家
1957年 - ピーター・クラスホースト、画家・彫刻家・写真家
1959年 - 井上紀良、漫画家
1959年 - 岡田惠和、脚本家
1959年 - ロベルト・モレノ、元F1レーサー
1959年 - 準・メルクル、指揮者
1959年 - 山川ユキ、歌手
1962年 - シェリル・クロウ、ミュージシャン
1963年 - 棚橋泰文、自民党衆議院議員
1964年 - 浅尾慶一郎、民主党参議院議員
1964年 - サラ・ペイリン、アラスカ州知事
1965年 - 栗林誠一郎、シンガーソングライター、作曲家
1966年 - 依田紀基、囲碁棋士
1966年 - 石渡康浩、俳優
1969年 - 小畑健、漫画家
1969年 - ジェニファー・アニストン、俳優
1969年 - 長谷川祥之、元サッカー選手
1969年 - 永野あかね、漫画家
1972年 - 緒川たまき、女優
1973年 - 寺田はるひ、声優
1974年 - 代田建紀、野球選手(千葉ロッテマリーンズ)
1976年 - 山本モナ、フリーアナウンサー、キャスター元(朝日放送)
1976年 - 内田也哉子、エッセイスト
1977年 - ホリ、ものまねタレント
1977年 - 小島邦裕、俳優
1977年 - 室伏由佳、陸上競技選手(円盤投、ハンマー投)
1977年 - 金折知則、騎手
1978年 - 栗原里奈、タレント
1979年 - エリック・カー、野球選手
1980年 - ゆうまお、シンガーソングライター
1980年 - 藤井悠、タレント
1981年 - 嶋恭輔、俳優、ファッションモデル
1984年 - 出水麻衣、TBSアナウンサー
1984年 - 深山ジュン、タレント
1987年 - 朝倉えりか、女優、タレント
1987年 - みそぎあいる、AV女優
1988年 - 明日香、スパークリング☆ポイント
1988年 - ジュンジュン、モーニング娘。
1990年 - Ara、女優
1991年 - 我妻三輪子、ファッションモデル
1991年 - 志村比芽子、タレント
1991年 - 無良崇人、フィギアスケート選手
1991年 - 畑山亜梨紗、AKB48
1997年 - 志田友美、ファッションモデル
生年不明 - 成瀬未亜、声優
生年不明 - 田内裕一、声優

忌日
55年 - ブリタンニクス、ローマ帝国の帝位後継者 (* 41年)

244年 - ゴルディアヌス3世、ローマ皇帝(* 225年)

641年 - ヘラクレイオス、東ローマ帝国皇帝(* 575年頃)

1160年(永暦元年1月3日) - 源義朝、河内源氏の武将(* 1123年)

1232年(寛喜4年1月19日) - 明恵(高弁)、僧侶、華厳宗中興の祖(* 1173年)

1503年 - エリザベス・オブ・ヨーク、イングランド王ヘンリー7世の王妃(* 1466年)

1586年 - アウグスト、ザクセン選帝侯(* 1526年)

1650年 - ルネ・デカルト、哲学者(* 1596年)

1762年 - ヨハン・トビアス・クレープス、作曲家(* 1690年)

1795年 - カール・ミカエル・ベルマン、詩人(* 1740年)

1811年(文化8年1月18日)- 稲村三伯、蘭学者(* 1758年)

1813年 - アンデルス・エーケベリ、化学者(* 1767年)

1844年(天保14年12月23日)- 為永春水、戯作者(* 1790年)

1868年 - レオン・フーコー、物理学者(* 1819年)

1882年 - フランチェスコ・アイエツ、画家(* 1791年)

1900年 - 談洲楼燕枝 (初代)、落語家(* 1837年)

1904年 - ウラジミール・マルコフニコフ、化学者(* 1838年)

1920年 - 浜野昇、医師・衆議院議員(* 1854年)

1924年 - ジャック・レーブ、実験物理学者(* 1859年)

1929年 - ヨーハン2世、リヒテンシュタイン大公(* 1840年)

1931年 - チャールズ・アルジャーノン・パーソンズ、
技術者・蒸気タービン開発者(* 1854年)

1937年 - ウォルター・バーリー・グリフィン、建築家(* 1876年)

1939年 - フランツ・シュミット、作曲家(* 1874年)

1947年 - 門脇誠一郎、柔道家(* 1886年)

1948年 - セルゲイ・エイゼンシュテイン、映画監督(* 1898年)

1956年 - セルゲイ・ニコラエヴィッチ・ブラッコ、天文学者(* 1870年)

1960年 - 野村茂久馬、実業家(* 1870年)

1963年 - 西村伊作、教育者・文化学院創立者(* 1884年)

1963年 - シルヴィア・プラス、詩人(* 1932年)

1964年 - 田中百畝、実業家(* 1901年)

1968年 - ピティリム・ソローキン、社会学者(* 1889年)

1973年 - ヨハネス・ハンス・イェンゼン、物理学者(* 1907年)

1975年 - 夏目伸六、随筆家(* 1908年)

1978年 - 江田孝、元プロ野球選手(* 1923年)

1981年 - 市川房枝、政治家(* 1893年)

1982年 - 志村喬、俳優(* 1905年)

1982年 - カラ・カラーエフ、作曲家(* 1918年)

1984年 - 小金義照、元郵政大臣(* 1898年)

1985年 - ヘンリー・ハサウェイ、映画監督・プロデューサー(* 1898年)

1986年 - フランク・ハーバート、SF作家(* 1920年)

1986年 - 遠山信二、指揮者(* 1923年)

1989年 - レオン・フェスティンガー、心理学者(* 1919年)

1994年 - ポール・ファイヤアーベント、科学哲学者(* 1924年)

1998年 - クスタ・インケリ、数学者(* 1908年)

2000年 - ロジェ・ヴァディム、
映画監督・プロデューサー・脚本家・俳優・ジャーナリスト(* 1928年)

2001年 - 大埜正雄、サッカー選手(* 1923年)

2004年 - 高木均、俳優・声優(* 1925年)

2006年 - ピーター・ベンチリー、小説家(* 1940年)

2006年 - ケン・フレッチャー、テニス選手(* 1940年)

2007年 - 細田吉蔵、政治家(* 1912年)

2007年 - 衣笠駿雄、第9代陸上幕僚長(* 1915年)

2007年 - マリアンネ・フレデリクセン、作家(* 1927年)

2008年 - 中村寅吉、ゴルフ選手(* 1915年)

2008年 - トム・ラントス、アメリカ合衆国下院議員(* 1928年)

2008年 - 野々村一男、彫刻家(+ 2008年)

記念日・年中行事
建国記念の日(日本、1967年 - )
国民の祝日の一つ。

紀元節(日本、1873年 - 1948年)
かつての祝祭日の中の四大節の一つ。
戦後廃止され、建国記念の日として再制定された。

文化勲章制定記念日(日本)
1937年2月11日に文化勲章が制定されたことに由来。

万歳三唱の日(日本)
1889年、大日本帝国憲法発布の祝典で
はじめて万歳三唱が行なわれたことを記念して制定。
天皇への祝意を表すものとして明治政府が万歳を奨励。

世界病者の日 (World Day of the Sick)

カトリックの記念日
ルルドの聖母の祝日
カトリックの記念日
イスラム革命記念日(イラン)
信教の自由を守る日

鬼祭
安久美神戸神明社(豊橋神明社)(愛知県豊橋市)
の例祭の本祭日。
天下の奇祭と称され、国指定重要無形民俗文化財。