東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年2月13日(金曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年2月13日(金曜日)

「初春」「新年」の。
1月も「31日」がおわり。

最後の「冬」月の「2月」です。
「2月」も「13日」たちました。

そしてあと「15日」で「春」=「3月」
になります。

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3.500円

2回法=7.000円

です。

平成21年になりました。
「新年」「初春」です。
「初春」「新年」の。
1月はおわりました。
「2月」も「13日」たちました。

昨年。
「秋」になり「9月」がおわり。
「10月」もおわり。
秋の最後の
「11月」「晩秋月」もおわり。
そして「12月」になり「冬」になった。
「12月」もほとんどが過ぎたかな
とおもったら。
12月31日になり。

あっというまに。
「年があらたまりました」。
「新年」「初春」です。
そして今は「晩冬」の「2月」。
「春」「3月」まで「2週間」。

あまりにも
月日と。
時間と。そして年月のたつ。

その速さに。
恐怖さえをも感じます。

大気は「冬」の「木枯らし」。
地には「霜の花」。

天には「初春」の。
「山茶花」と「やぶつばき」の
「つぼみ」そして「花」。

そして「初春」の「晩冬」のこの時期には。
樹木の「落ち葉」はおちきり。

「落ち葉」は「ぴたり」ととまります。
落葉ぎりぎりまで。

雪の「晩冬」にそなえて。
せめてもの。
太陽の陽射しをえるためであるのしょう。

「新年」「初春」の。
白山茶花(さざんか)の花びらが
「やぶつばき」の「花」が。

花も見ぬうちに。
暗い寒い夜中のあいだに。
いてつく木枯らしに弓を射られて。
朝暗く地に落下しています。

木々は
「初春」のしずかなる。
「晩冬」の
「冬木」としてのたたずまいのなりました。

「黄色」から
「紅色」の紅葉葉もほとんどが。
冬の散りゆく「枯れ葉」。
枯れ葉になりました。

そして「初春」の。
「晩冬」の
「冬木」としてのたたずまい。

冬樹でも。
夜間照明のある樹木は「緑葉」
をしています。

霜柱の「冬」です。
「木枯らし」の「冬」です。

霜柱の「冬」の気配は。
はっきりと。
「冬」の葉木にも感じられます。

でも「新年」「初春」は
木々の
「木枯らし」もなにやら静かです。

「2月」の。
「山茶花」の若花のつぼみが。
「やぶつばき」の若花のつぼみが。
たわわにみえます。
いつでも咲きそうなつぼみばかりです。

昨年の「晩秋」
「金木犀:きんもくせい」の残り香は
とおくから。
「とぼとぼ」と歩いてくるように。
ほのかに漂い。
また「とぼとぼ」と歩き去っていった
ようにいなくなりました。

「初春」の。
「山茶花(さざんか)」の花びらは。
「やぶつばき」の花びらは。
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに蕾膨らみ
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに花咲き
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに花びらが舞う。

「初春」「晩冬」の。
空の色も。
まさしくも
「晩冬」の「空色」になってきました。
ミルクのはいったコバルトのような
空色です。

陽ののぼるのは遅くなりました。
陽がくれるのは早くなりました。

けれども冬至はおわりましたから。
もうすでに。
次第に陽ののぼるのははやくなり。
陽がくれるのはおそくなるはず。

けれども
今は「初春」の「晩冬」。
「晩冬」の「2月」です。
まださらに。
これから「深い「冬」」です。
けれども。
もうすぐ「晩冬」の「2月」から。
「春」です。

あさの06:00AMころは。
くらくあおく
しだいに
そらがラピズラズリから
トルコ石にうつろうように。
そらがしらんできます。

「初春」の季節の気配からは。

まぢかいけれども。
さらに「なにかが深まりゆく」。
そして「冬」の訪れから。

さらにさらに。
深い冬に向かい。
そしてさらに。
深い冬の向こう側に。
「春」の気配のあることが。
良くわかります。

いまは川端康成の。
「雪国」。
「新年」ですが。
まだまだ。
いまはそのトンネルの中です。
「向こう側」は「雪国」です。
そして
「雪国」をすぎれば「春の国」
です。

冬春池面(いけも)の水面(みずも)
冬春おさなき小さなわかみどり
冬春なもしらぬ
冬春小さな緑の浮き草
冬春若草うきつあつまりて
冬春つらなり水面(みずも)
冬春水面(みずも)をおおいたり
冬春水面(みずおも)にて
冬春風にきそいてさまよえり
冬春ちひさきわらべのごとし
冬春池面の水面(みずおも)の。
冬春小さきちひさなわかみどり

冬春いざいまこそは
冬春よき季節にあらむ
冬春水面(みずも)なるそら
冬春ふと空をみる

冬春早朝(はやあさ)に
冬春けふもはだのさむけれど
冬春ぬくもりのあさ
冬春陽のありがたき
冬春われあゆむがごと
冬春陽はあたかくなりけり
冬春葉木は冬木にかわりたり
冬春みちをあかるくてらさむ
冬春がいだく木
冬春はぐくむ木
冬春みどり木あおし
冬春実りの木紅し(あかし)
冬春来(きた)るらむ

道端の冬野草の花もかわいらしい。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

たわわなり
みかんのわか実
みかんのふゆの実

蜜柑のいらかをかぜはやみ
ふゆかぜぜひるむや
木枯らしの
うつろひの
みかん実つきひ
はやいくとせ

冬春地にも木にも
冬春みどり葉ひらき
冬春みどり木ときわ木
冬春ひろがりて
冬春いふことのなし
冬春いふことがなし
冬春いふことはなし
冬春ゆたかなりけり冬春

今年の早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は寒いです。
「毎朝寒い」。
寒いと首都高の自動車も
「寒そうな運転の車」が多いです。

それでも「冬はきぬ」。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

++++++++++++++++++++++

平成21年1月12日日(月曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年2月11日(水曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年3月20日(金曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3.500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。

梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼に青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

感謝・感謝です。

「今日は何の日」は。

ピアニストの中のピアニストと称された。
The Pianist of Pianists」と呼ばれたピアニスト。

1870年 - レオポルド・ゴドフスキー、
ピアニスト・作曲家(+ 1938年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

レオポルド・ゴドフスキー(Leopold Godowsky,
ポーランド語 Leopold Godowski,
1870年2月13日-1938年11月21日)は。
ポーランドのピアニスト、作曲家、教師です。

「ピアニストの中のピアニスト
The Pianist of Pianists」と呼ばれます。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ゴドフスキー:Leopold Godowskyは。

ゴドフスキーは現在のリトアニアの首都ビリニュスの近く、
ソズウィ Soz?y に生まれました。

幼少の頃に。
彼はピアノ演奏と音楽理論のレッスンを受けていました。

14歳になると。
ベルリン高等音楽院に入学致します。

エルンスト・ルドルフ Ernst Rudorff の下で
研鑽を積み始めるも
3ヶ月で辞めてしまいました。

それ以外では、彼は基本的に独学家でした。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ゴドフスキー:Leopold Godowskyの
コンサート・ピアニストとしての活動

レオポルド・ゴドフスキー:Leopold Godowskyが。
(最終的にオーストラリアと南極を除く
全大陸に及ぶことになる…日本も含む)
を開始したのはゴドフスキーが僅か10歳の時でした。

1886年、北アメリカの巡回公演後、
ヴァイマルにいる
フランツ・リストの下で勉強しようと思いました
ヨーロッパに戻ってくるのですが。

直後にリストの死を知り、パリへいきました。

パリで彼は作曲家=ピアニストであった
カミーユ・サン=サーンスと親交を結びました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ゴドフスキー:Leopold Godowskyは。

サン=サーンスとの出会いは。

ゴドフスキーに
当時の優れたフランスの音楽家達と
知り合うきっかけを与えました。

サン=サーンスはゴドフスキーを
養子にし姓を継いでもらうよう申し入れ
ました。

ゴドフスキーがそれを辞退すると
サン=サーンスは大変不機嫌になったという
ことです。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ゴドフスキー:Leopold Godowskyは。

1890年、ゴドフスキーは教師として
ニューヨーク音楽大学
(New York College of Music)で活動を始めました。

ニューヨークに居るとき。
彼はフリーダ・サックス(Frieda Saxe)と結婚致しました。

アメリカ合衆国市民権を獲得致します。

1894年にはフィラデルフィアの
ブロードストリート音楽院(Broad Street Conservatory)、
翌年の1895年には
シカゴ音楽院(Chicago Conservatory)に移動。

シカゴ音楽院ではピアノ学科代表になりました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ゴドフスキー:Leopold Godowskyは。

大成功に終わった1900年のヨーロッパ巡回公演の際に。

ゴドフスキーはベルリンの地へ再び訪れました。
そこで彼は教育活動と演奏活動の二役をこなしました。

1909年から1914年にかけて、
ゴドフスキーはウィーン音楽院
(Konservatorium Wien)のマスタークラスを教えました。

1914年、第一次世界大戦が勃発し。

彼はニューヨクに戻りました。

ニューヨークにある自宅には
当時の著名なピアニストや有名人
がしばしば訪れました。

特別の仲だったセルゲイ・ラフマニノフからは、
“W.R.のポルカ”を献呈されています。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ゴドフスキー:Leopold Godowskyは。

終戦を迎えると。
ゴドフスキーは演奏活動を再開しました。

1930年6月17日に。
ロンドンでのレコーディング中に脳卒中を起こします。
それによって彼は公開演奏の経歴にピリオドを打ちました。

同時に1929年の暗黒の木曜日(世界恐慌)

彼が負った莫大な経済的損失を回復させる
手立てをも失いました。

1932年の彼の年下の息子の自殺と
1933年の妻の死は、悪化するヨーロッパの政治情勢
(それはゴドフスキーの死期を暗示していた)
への彼の絶望と相まりゴドフスキーは
作曲活動をも止めてしまいました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ゴドフスキー:Leopold Godowskyは。

悪化する欧州政情は。

ゴドフスキーが構想していた
「音楽と音楽家の世界会議」
(World Synod of Music and Musicians)や
「国際的な音楽教師機関」
(International Master Institute of Music)
を無に帰しました。

1938年11月21日に。
胃癌のためニューヨークで死去致しました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ゴドフスキー:Leopold Godowskyの。

演奏スタイル
ダイナミックレンジは狭かったと伝えられています。

一音も弾き逃さない丁寧な演奏であったことは
多くのピアニストによって証言されました。

もともと演奏家としてあがり性であったことなどから、
残されている音源からは彼が当代一流であったか
どうかを判断するのは難しいのです。

しかし、ブゾーニのような完璧主義者と異なり
比較的多くの音源が残されていました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ゴドフスキー:Leopold Godowskyは。
「気が乗っていないまま」弾いてしまった
ショパンのソナタ第二番などは彼本人も不満であったのです。

ショパンの装飾音も勝手にゴドフスキーの手によって直されるなど。

20世紀後半以後のショパン演奏とはかなりかけ離れています。

後期ロマン派の脚色が入った表現でした。

++++++++++++++++++++++

作曲家としてのレオポルド・ゴドフスキー:Leopold Godowsky

ゴドフスキーは、他の作曲家のピアノ小品に
基づくパラフレーズで最もよく知られています。

それらの作品は。

精巧な対位法的処理や。
豊かな半音階的和声により極限まで昇華されています。

この分野でのゴドフスキーの最も有名な作品は
ショパンの練習曲に基づく53の練習曲です。

対声部の導入、技巧的パッセージの右手から左手への転換、
左手独奏用編曲。

2曲の同時演奏など様々な手法を用いて。

ゴドフスキーはショパンの27の練習曲
(それは既に演奏困難なものであるが)
をそれぞれ編曲しています。

これは現代の辣腕な技巧家にとっても極めて苛酷な曲集であり。
今までに全曲演奏を行った敢然なピアニストは
カルロ・グランテと。
フランチェスコ・リベッタの2人だけです。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ゴドフスキー:Leopold Godowskyの。

しかしそれ故か、彼の作曲家としての実力は
楽壇に不当に無視されました。

ゴドフスキーの没後五十年は
「ピアニストの書いた難技巧を伴う程度の作品」
という不名誉な位置付けに甘んじました。こ

のことは新グローブ音楽辞典が2000年の版になっても、
全作品リストが編纂されていないという事実や、
カールフィッシャー社から出版された
全五巻のゴドフスキー選集の完結が2004年であったこと、
その選集の中に子供の為の
APSシリーズが含まれていないことなどに表れています。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ゴドフスキー:Leopold Godowskyの
エピソード

なお、彼の息子レオポルド・ゴドフスキー2世
(Leopold Godowsky Jr.,1900-1983)はヴァイオリニストになりました。

友人のピアニスト・レオポルド・マネス(Leopold Damrosch Mannes,1899-1964)
と共にカラー写真の開発に当たりました。

コダック社の協力により1935年に初の本格的なカラーフィルム
「コダクローム」を開発致しました。

彼はジョージ・ガーシュウィンの妹
フランセスと結婚しています。

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レオポルド・ゴドフスキー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%89%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

レオポルド・ゴドフスキー(Leopold Godowsky, ポーランド語 Leopold Godowski, 1870年2月13日-1938年11月21日)は、ポーランドのピアニスト、作曲家、教師。「ピアニストの中のピアニスト The Pianist of Pianists」と呼ばれる。

目次 [非表示]
1 ピアニストとしてのゴドフスキー
1.1 演奏スタイル
2 作曲家としてのゴドフスキー
3 エピソード
4 外部リンク

ピアニストとしてのゴドフスキー
ゴドフスキーは現在のリトアニアの首都ビリニュスの近く、
ソズウィ Soz?y に生まれた。
幼少の頃、彼はピアノ演奏と音楽理論のレッスンを受けていた。
14歳になるとベルリン高等音楽院に入学し、
エルンスト・ルドルフ Ernst Rudorff の下で研鑽を積み始めるも
3ヶ月で辞めてしまう。

それ以外では、彼は基本的に独学家だった。

コンサート・ピアニストとしての活動
(最終的にオーストラリアと南極を除く全大陸に及ぶことになる…日本も含む)
を開始したのは、ゴドフスキーが僅か10歳の時だった。
1886年、北アメリカの巡回公演後、
ヴァイマルにいるフランツ・リストの下で勉強しようと思い
ヨーロッパに戻ってくるが、直後にリストの死を知り、パリへ赴く。
パリで彼は作曲家=ピアニストであった
カミーユ・サン=サーンスと親交を結ぶ。

サン=サーンスとの出会いは、ゴドフスキーに
当時の優れたフランスの音楽家達と知り合うきっかけを与えた。
サン=サーンスはゴドフスキーを養子にし姓を継いでもらうよう申し入れたが、
ゴドフスキーがそれを辞退するとサン=サーンスは大変不機嫌になったという。

1890年、ゴドフスキーは教師として
ニューヨーク音楽大学(New York College of Music)で活動を始めた。
ニューヨークに居るとき、
彼はフリーダ・サックス(Frieda Saxe)と結婚し、
アメリカ合衆国市民権を獲得する。
1894年にはフィラデルフィアの
ブロードストリート音楽院(Broad Street Conservatory)、
翌年の1895年にはシカゴ音楽院(Chicago Conservatory)に移動。
シカゴ音楽院ではピアノ学科代表になった。

大成功に終わった1900年のヨーロッパ巡回公演の際、
ゴドフスキーはベルリンの地へ再び訪れるが、
そこで彼の時間は教育活動と演奏活動で二分した。
1909年から1914年にかけて、
ゴドフスキーはウィーン音楽院(Konservatorium Wien)のマスタークラスを教える。
1914年、第一次世界大戦が勃発し、彼はニューヨクに戻った。
ニューヨークにある自宅には当時の著名なピアニストや有名人
がしばしば訪れた。
特別の仲だったセルゲイ・ラフマニノフからは、
“W.R.のポルカ”を献呈されている。

終戦を迎えると、ゴドフスキーは演奏活動を再開したが、1930年6月17日、ロンドンでのレコーディング中に脳卒中を起こす。それによって彼は公開演奏の経歴にピリオドを打ち、同時に1929年の暗黒の木曜日(世界恐慌)で彼が負った莫大な経済的損失を回復させる手立てをも失った。1932年の彼の年下の息子の自殺と1933年の妻の死は、悪化するヨーロッパの政治情勢(それはゴドフスキーの死期を暗示していた)への彼の絶望と相まり、ゴドフスキーは作曲活動をも止めてしまう。悪化する欧州政情は、ゴドフスキーが構想していた「音楽と音楽家の世界会議」(World Synod of Music and Musicians)や「国際的な音楽教師機関」(International Master Institute of Music)を無に帰した。1938年11月21日、胃癌のためニューヨークで死去。

演奏スタイル
ダイナミックレンジは狭かったと伝えられるが、
一音も弾き逃さない丁寧な演奏であったことは多くのピアニストによって証言された。
もともと演奏家としてあがり性であったことなどから、
残されている音源からは彼が当代一流であったかどうかを判断するのは難しい。
しかし、ブゾーニのような完璧主義者と異なり
比較的多くの音源が残された。
「気が乗っていないまま」弾いてしまった
ショパンのソナタ第二番などは、彼本人も不満であった。
ショパンの装飾音も勝手にゴドフスキーの手によって直されるなど、
20世紀後半以後のショパン演奏とはかなりかけ離れており、
後期ロマン派の脚色が入った表現である。

作曲家としてのゴドフスキー
ゴドフスキーは、他の作曲家のピアノ小品に基づくパラフレーズで最もよく知られている。それらの作品は、精巧な対位法的処理、豊かな半音階的和声により極限まで昇華される。この分野でのゴドフスキーの最も有名な作品はショパンの練習曲に基づく53の練習曲だろう。対声部の導入、技巧的パッセージの右手から左手への転換、左手独奏用編曲、2曲の同時演奏など様々な手法を用いて、ゴドフスキーはショパンの27の練習曲(それは既に演奏困難なものであるが)をそれぞれ編曲している。これは現代の辣腕な技巧家にとっても極めて苛酷な曲集であり、今までに全曲演奏を行った敢然なピアニストはカルロ・グランテ、フランチェスコ・リベッタの2人だけ。 しかしそれ故か、彼の作曲家としての実力は楽壇に不当に無視され、ゴドフスキーの没後五十年は「ピアニストの書いた難技巧を伴う程度の作品」という不名誉な位置付けに甘んじた。このことは新グローブ音楽辞典が2000年の版になっても、全作品リストが編纂されていないという事実や、カールフィッシャー社から出版された全五巻のゴドフスキー選集の完結が2004年であったこと、その選集の中に子供の為のAPSシリーズが含まれていないことなどに表れている。

エピソード
なお、彼の息子レオポルド・ゴドフスキー2世
(Leopold Godowsky Jr.,1900-1983)はヴァイオリニストになったが、
友人のピアニスト・レオポルド・マネス(Leopold Damrosch Mannes,1899-1964)
と共にカラー写真の開発に当たり、
コダック社の協力により1935年に初の本格的なカラーフィルム
「コダクローム」を開発した。
彼はジョージ・ガーシュウィンの妹フランセスと結婚している。

外部リンク
日本ゴドフスキー協会
Leopold Godowsky(英語)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%89%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC" より作成
カテゴリ: ポーランドの作曲家 | ポーランドのクラシック音楽のピアニスト | 1870年生 | 1938年没

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2月13日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8813%E6%97%A5

できごと
1130年 - インノケンティウス2世が教皇に即位。

1219年 (建保7年1月27日)- 鎌倉幕府第3代将軍の源実朝が鶴岡八幡宮で
甥の公暁により暗殺。公暁も即日殺害される。

1689年 - イングランドでウィリアム3世とメアリー2世が共同統治者に就いて
「権利の章典」を認め、名誉革命が終結。

1692年 - スコットランドでグレンコーの虐殺事件。

1820年(文政2年12月29日) - 小林一茶が「おらが春」を著す。

1854年(嘉永7年1月16日) -
ペリー米東インド艦隊指令長官が7隻の軍艦を率いて2度目の来航。

1862年(文久2年1月15日) - 坂下門外の変で安藤信正が水戸の浪士に襲撃され負傷する。

1868年(慶応4年1月20日)- 尾張藩で青松葉事件起こり、5日間で14名の藩士が処刑される。

1875年 - 「平民苗字必称義務令」布告。平民に苗字を付けることを義務付け。

1945年 - イギリス・アメリカ空軍が無防備都市宣言していた
ドレスデンを空襲、2万人以上が犠牲に(ドレスデン爆撃)。

1951年 - 地方公務員法施行

1960年 - フランスによる初の原爆実験。(Gerboise Bleue)

1971年 - イギリスの通貨が十進記数法に移行。

1974年 - ソビエト連邦がソルジェニーツィンを追放。

1977年 - 青酸入りコーラ事件発生。 

1980年 - 第13回冬季オリンピック、レークプラシッド大会開催。2月24日まで。

1983年 - ハワイアン・オープンで青木功が日本人初のアメリカPGAツアー優勝を果たす。

1984年 - ソ連のアンドロポフ書記長没。チェルネンコ政治局員が就任。

1988年 - 第15回冬季オリンピック、カルガリー大会開催。2月28日まで。

1989年 - 大阪市の北区と大淀区が合区して現在の北区が誕生。

1995年 - ワイルズのフェルマーの最終定理の証明が正しいことが確認され、
360年に及ぶ歴史にピリオドを打った。

2000年 - グリコ・森永事件が時効をむかえる。

2000年 - ピーナッツ(日曜版)終了。

2005年 - 新しい下関市が誕生。

2005年 - 群馬県沼田市と利根郡白沢村、利根村が合併して新沼田市誕生。

2006年 - 滋賀県長浜市と東浅井郡浅井町、同びわ町が合併し、新しい長浜市が誕生。

2007年 - ご当地ナンバーとしてつくばナンバーの払い出しが開始された。

誕生日
1457年 - マリー・ド・ブルゴーニュ(マリー女公)、
ヴァロワ朝ブルゴーニュ公国最後の君主(+ 1482年)

1599年 - アレクサンデル7世、第237代ローマ教皇(+ 1667年)

1728年 - ジョン・ハンター、医学者(+ 1793年)

1750年(寛延3年1月7日) - 蔦屋重三郎、出版人(+ 1797年)

1754年 - タレーラン=ペリゴール、フランス革命期の政治家(+ 1838年)

1766年 - トーマス・マルサス、経済学者(+ 1834年)

1769年 - イヴァン・クルィロフ、劇作家、文学者(+ 1844年)

1778年 - フェルナンド・ソル、作曲家(+ 1839年)

1805年 - ペーター・グスタフ・ディリクレ、数学者(+ 1859年)

1831年 - ジョン・アーロン・ローリンズ、第29代アメリカ合衆国陸軍長官(+ 1869年)

1868年(慶応4年1月20日) - 岡田啓介、第31代内閣総理大臣(+ 1952年)

1870年 - レオポルド・ゴドフスキー、ピアニスト・作曲家(+ 1938年)

1873年 - フョードル・シャリアピン、オペラ歌手(+ 1938年)

1898年 - 安岡正篤、陽明学者(+ 1983年)

1902年 - 平川唯一、アナウンサー(+ 1993年)

1903年 - ジョルジュ・シムノン、推理作家(+ 1989年)

1904年 - 唐木順三、評論家・哲学者(+ 1980年)

1914年 - 倉金章介、漫画家(+ 1973年)

1915年 - アウン・サン、ミャンマーの独立運動家(+ 1947年)

1917年 - 吉阪隆正、建築家(+ 1980年)

1921年 - ジャンヌ・ドゥメッシュー、オルガニスト・ピアニスト・作曲家(+ 1968年)

1928年 - 与儀眞助、元プロ野球選手

1929年 - フランキー堺、俳優(+ 1996年)

1930年 - 八木光生、声優

1930年 - 栄屋悦男、元プロ野球選手

1933年 - 辻静雄、料理研究家(+ 1993年)

1933年 - エマニュエル・ウンガロ、ファッションデザイナー

1933年 - キム・ノヴァク、女優

1933年 - コスタ=ガヴラス、映画監督

1937年 - 小林千登勢、女優(+ 2003年)

1938年 - 種茂雅之、元プロ野球選手

1941年 - 中山美保、女優

1943年 - 中澤清、惑星科学者・宇宙物理学者

1943年 - 森本レオ、俳優

1948年 - 服部敏和、元プロ野球選手

1949年 - 南こうせつ、シンガーソングライター
1950年 - 竹宮惠子、漫画家
1950年 - ピーター・ガブリエル、ミュージシャン
1950年 - エヴァ・オーリン、スウェーデンの女優
1950年 - 島田洋八、漫才師(B&B)
1953年 - 栗本薫(中島梓)、SF作家・評論家
1955年 - 矢野顕子、ミュージシャン
1956年 - ピーター・フック、ミュージシャン
1959年 - わかぎえふ、演出家
1959年 - 山本百合子、声優
1960年 - ピエルルイジ・コッリーナ、サッカー審判・投資アドバイザー
1963年 - 仲道郁代、ピアニスト
1964年 - 出川哲朗、タレント
1964年 - 宮本和知、元プロ野球選手、タレント
1965年 - ヒロミ、タレント
1965年 - 南原清隆、お笑いコンビ、タレント(ウッチャンナンチャン)
1965年 - 優希比呂、声優
1967年 - 岡田忠之、オートバイレーサー
1968年 - 岡田達也、舞台俳優
1971年 - 神谷けいこ、女優
1974年 - ロビー・ウィリアムズ、ポップシンガー
1976年 - 大村直之、プロ野球選手(オリックスバファローズ)
1976年 - 西岡孝洋、フジテレビアナウンサー
1978年 - スコット・ドーマン、プロ野球選手(広島東洋カープ)
1979年 - ラファエル・マルケス、サッカー選手(FCバルセロナ)
1980年 - ノマ アキコ、ミュージシャン(GO!GO!7188)
1982年 - 阿部力、俳優
1982年 - 奥田みわ、歌手
1983年 - 飛永翼、お笑いコンビ、ラバーガール
1983年 - 栗山絵美、女優・モデル
1991年 - 伊勢みはと、グラビアアイドル
生年不明 - 川田まみ、I've歌手

忌日
858年 - ケネス1世、スコットランド王(* 810年)

869年(貞観10年閏12月28日) - 源信、公卿、初代源氏長者(* 810年)

1219年(建保7年1月27日) - 源実朝、鎌倉幕府第3代将軍(* 1192年)

1219年(建保7年1月27日) -
公暁、源実朝の甥、鶴岡八幡宮別当、源実朝を暗殺した人物(* 1200年)

1332年 - アンドロニコス2世パレオロゴス、東ローマ皇帝(* 1260年)

1539年 - イザベラ・デステ、マントヴァ侯夫人(* 1474年)

1542年 - キャサリン・ハワード、
イングランド王ヘンリー8世の5番目の妃(* 1521年?)

1571年 - ベンヴェヌート・チェッリーニ、美術家(* 1500年)

1583年(天正11年1月21日) - 足利義氏、第5代古河公方(* 1541年)

1660年 - カール10世、スウェーデン王(* 1622年)

1662年 - エリザベス・ステュアート、
プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の妃(* 1596年)

1787年 - ルジェル・ヨシプ・ボスコヴィッチ、科学者・イエズス会神父(* 1711年)

1818年 - ジョージ・ロジャース・クラーク、
アメリカ独立戦争期の米軍指揮官(* 1752年)

1883年 - リヒャルト・ワーグナー、作曲家(* 1813年)

1891年 - アレクサンダー・ヒュー・ホームズ・スチュアート、
第3代アメリカ合衆国内務長官(* 1807年)

1914年 - ダニエル・スワロフスキー、
ガラス製造業者・スワロフスキー創業者(* 1862年)

1916年 - ヴィルヘルム・ハンマースホイ、画家(* 1864年)

1926年 - フランシス・イシドロ・エッジワース、経済学者(* 1845年)

1950年 - ラファエル・サバチニ、小説家(* 1875年)

1952年 - アルフレート・アインシュタイン、音楽学者(* 1880年)

1956年 - ヤン・ウカシェヴィチ、論理学者・哲学者(* 1878年)

1958年 - ジョルジュ・ルオー、画家(* 1871年)

1966年 - マルグリット・ロン、ピアニスト(* 1874年)

1967年 - 鮎川義介、実業家(* 1880年)

1980年 - 本郷新、彫刻家(* 1905年)

1982年 - 江利チエミ、歌手(* 1937年)

1984年 - 植村直己、冒険家(* 1941年)(この日の交信を最後に消息を絶つ)

1997年 - ボビー・アダムズ、野球選手(* 1921年)

2003年 - ウォルト・ロストウ、経済学者(* 1916年)

2004年 - ゼリムハン・ヤンダルビエフ、チェチェン独立派指導者(* 1952年)

2005年 - ルシア・ドス・サントス、
カルメル会修道女、ファティマの聖母の目撃者(* 1907年)

2007年 - エリアナ・ラモス、ファッションモデル(* 1988年)

2008年 - 市川崑、映画監督(* 1915年)

2008年 - アンリ・サルヴァドール、シャンソン歌手(* 1917年)

2008年 - ミケーレ・グレコ、マフィア構成員(* 1924年)

記念日・年中行事
苗字制定記念日/名字の日
1875年2月13日に、明治政府が「平民苗字必称義務令」
という太政官布告を出し、すべての国民に姓を名乗ることを義務づけたことに由来。

銀行強盗の日
1866年2月13日にアメリカでジェシー・ジェイムズ (w:Jesse James)
が世界初の銀行強盗に成功したことから。