東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年2月15日(日曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年2月15日(日曜日)

平成21年の「2月」になりました。

平成21年も。

もう「一ヶ月半」もたちました。

「晩冬」「2月15日」の

今日は(日曜日)です。

とてもとても。

とても「寒い日々」が続いています。

けれども「春」の「3月」まであと

「二週間」です。

今年の「冬」・から「春」は予期せぬ

インフルエンザ*の

大規模な流行が予想されます。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。

薬事法の「能書」にあるとおり

「正規の」

「2回法によるインフルエンザワクチン」の

予防接種をおすすめいたします。

常時いつでも接種可能です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

昨年の。
冬間近くの。
さらなる前の「晩秋」のころ。

「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」の。
花の蕾が淡い黄金色にかがやいて。
が見えてから「10日間」で。
花は去りました。
黄金色のじゅうたんが毛氈(もうせん)ように。
地面「金色」に広がりました。

「昨年」の。
「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」に続いて。
「銀木犀:きんもくせい」もプラチナ色の
花が咲き始めました。

「昨年」の。
「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」のあとを追って。
「銀木犀:きんもくせい」の花は去り。
地面に「プラチナ」が一面に広がっていました。

「新年」。「初春」。

「晩冬」の「2月」

あと二週間で「春」の「3月」

今は私の「大好き」な。

「やぶつばき」と「山茶花(さざんか)」

の「蕾(つぼみ)」と「花」のふくらむ

「やぶつばき」の季節になりました。

山本クリニックの庭園は。
大昔は。
雑木林であったのです。

「野生」の。
「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」が
とても沢山群生してはえています。

日々の毎日にどんどんと。
みるみるうちに。

山茶花(さざんか)や「やぶつばき」が。
つぼみや「花」を大きくしています。

けれども「山茶花(さざんか)」は
蕾が大きくなったそのよるには。

花咲き。
暗い寒い朝にちっていることが
多いです。

「種の保存」の理論からすれば
昆虫の少ない「寒い冬」の日々に。

「寒い冬」に「花粉」を運んでくれる
昆虫はとても少ないはずだから。

花期はながければ長いほど「実」「種」
が「たくさん実る確率は高くなる」
はずです。

だから。
昆虫の少ない「冬」に。
「花期」が「極めて短命」とは。
とても不思議なことです。

山茶花(さざんか)は

ぬばたまの

闇夜の暗きに

木枯らしの

風に弓射られて

花ぞ舞い散る

ささんかは

ぬばたまの

やみよのくらきに

こからしの

かせにいられて

はなそまいちる

早朝には「白鷺の羽」
のように地面に
舞い降ちています。

昨年の。
「晩秋」
「木犀:もくせい」の花の
「芳香」は蕾のみえるまえから
あります。
花が去ったあとは
「あっというまに芳香が消えます」。

「晩秋」の
「木犀:もくせい」たちのかおりがさり。

年が改まれば。

今度はいよいよ。

「晩冬」「初春」
今は「2月」の「晩冬」
もうすく「初春」の「3月」
つぼみを日々
大きくしている。

山茶花(さざんか)や「やぶつばき」
の季節の。
「初春」の「新年」。

そして。
「山茶花(さざんか)」と「やぶつばき」
をみまもるのは。

「みかんの木」の「丸いみかん」の
「丸い群れ」。
「丸いみかんん」はたわわになりて。
まるで「ぶどう」のようです。

お互いに「植物語」で話しをしているに
ちがいありません。

私は山茶花(さざんか)よりは。
「やぶつばき」がずっとすきです。

山本クリニックの庭園には。
いずれも。
野生の「やぶつばき」と
野生の「山茶花(さざんか)」ばかりです。

堂々たる。
木枯らしの吹く。
「2月」
本物の「冬」になりました。
けれども
「春」も間近です。

さらに「冬」がふかまり。

「もっと深い冬」のトンネルをこえれば。

そこは「雪国の冬」です。

「木枯らし」は

遠くの蒸気機関車の鳴き声のように

に聞こえます。

近くに「トンネル」があることも

わかります。

「魔王:Erlkönig」の吹く「オカリナ」

のような鳴き声です。

そして。

「木枯らし」をなだめるように。

「粉雪」が舞います。

「粉雪」のほうが「役者」は上です。

「粉雪」は突如(とつじょ)天から舞い降り

ます。

そして遠くから

春の姫君「佐保姫(さほひめ)」

が春のころもをまといながめています。

きょうは。
とてもとても寒い。

「木枯らし」が吹いています。
「木枯らし」は「夜」は「木」にとまって
一晩をすごすようにみえます。

「木枯らし」の鳴き声が。
きこえます。

「木枯らし」の鳴き声が
「春」の女神の「佐保姫(さほひめ)」の笛ふく
かぜのワルツに変わる日も。
もうすぐです。

最近は
朝くらい早朝には「星がみえます」。
「明けの明星」の金星が南の空に高くみえます。

病院の明かりが灯り暗闇のなか。
朝はやく。

「明けの明星」の金星に「おはよう」を
毎日こえで「御挨拶」を伝えます。
「明けの明星」の金星から「おはよう」と
返事がかえってくる声をききながら。
病院の明かりをともします。
まだ真っ暗なのですが。

夏場の早朝のくらい時には。
明星はみえずらかった。
季節が「冬へとあゆみ」。
いよいよ。
大気が「澄んできた」ということでしょう。

冬春霧雨(ふゆきりさめ)の。
冬春霞(ふゆかすみ)の大気。

こおろぎの「なきごえ」はいつしか。
もうとっくにきこえなくなり。

「こうろぎ」の「ろうろう」は
木枯らしの「音」にかわりました。
「ろうろう」「こうこう」
「木枯らし」の鳴き声

朝暗く寒いいうちの「木枯らし」の合唱は。

「冬」の「ふうりん」のごとし。

あれ沢山の「ふうりん」かな。

「冬」の「ふうりん」の音色です。

「ろうろう」。

さびさびと「さむい音」です。

「こうこう」

わびわびと。

「たき火をよんでいる音」です。

「たき火」のはぜる元気な「音」から

「春」の間近いことが。

わかります。

「ススキの穂先」は
「そぞろに「深い晩秋・初冬」の旅愁」すら
をも感じさせます。

「ススキの穂先」には「冬ふくろう」が
何匹も集ってつどい。
何匹ものふくろうが。
皆で何かを真剣に考えているようにみえます。

「雪」がつもれば。
「ススキの穂先」は。
「しあわせと幸福を手招き」している
何本もの「手」のように。
みえます。

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munch
の絵画のようです。

私も「日々を旅ゆく人間」です。

奥の細道の序文に松尾芭蕉が。

「月日は百代の過客(ひゃくたいのかかく)
にして行かふ年も又旅人也。」

「つきはひゃくたいのかかくにして
いきかふとしもまたたひひとなり」

とかたり。詠みました。

私は

「日々の月日」を道連れにして。

「時」を旅をするひとりの旅人(たびびと)」

です。

「日々月日の旅のつれあい」は。

「きょう」と「あす」しか。

いません。

「きょう」と「あす」しか。

私にはありません。

朝くらいとき。
陽の出の直後は。
いつも一瞬は晴れています。
いまだ かすかにも。
のこる「晩冬」の気配
であるけれども。

あきらかに。
そしてしっかりと。
しのびよるもっともっと奥の。
深く深まる冬からの大気。

「ふかまる冬」の気配が。
「確かに」。
そして明らかに。
そして輪郭もはっきりと。

感じられるようになりました。

「新年」の「2月」になりました。
今年も平成21年がはじまり
「一ヶ月」がたちました。
「初春」「新年」。
「晩冬」「2月」からもうすぐ「春」ですね。

はやいものです。
速いものです。
早いものです。

街路樹もそうそうたる
羽振りの木々から
「ふかまりゆく冬の樹木」にうつろうように
変化しています。

「初春」の「冬」にも。
「樹木の若葉の芽生え」があることに
気がつきました。

春の芽吹くときには。
街路樹のポプラも
幹や枝葉の穂先が。
ろうそくのともしびのように。
「炎の様」になっていました。
あたかも
ゴッホの描いた「夜の糸杉」のように。
春の早朝はみえました。

夏になり。
この「穂先」が一気に「ポプラの葉」へと
扇・おおぎのごとく開きました。

フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「夜の糸杉」から。
フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「ひまわり」
のように。
一斉に開きました。
8月にはいってからのことです。

10月そして11月。

今は「晩冬」の「2月」「春」間近し。
今現在は落ち着いた「冬」の葉木。
「冬」の木々の「葉」
へと。
そして「春」の木々の「葉」へと。

「みのりの冬」から「春」にむけて。
「あつく」うつろいています。

ポプラも。つばきもくすのきも。
「晩秋」には「中秋の若葉」が。
ハンカチをふるように
「「冬」のわかば」の「めばえ」がみえました。
今もみえます。
今は「「冬」のわかば」の「めばえ」は
すこし大きくなりました。

そして「冬がくると」。
空と木枯らしのかなでる「蛍の光」や
「冬のコンチエルト」にあわせるように。

ポプラの葉や芽葉は。
ハンカチのようにふわふわと。
ふわふわと。
「穂先から葉葉」は「舞い振りまがら」
ハンカチは木を去っていきます。

樹木のハンカチは。
大地を訪ねて飛翔し。
大地にまいおり大地にもどります。
そして大地となります。

そして。
ポプラの葉や芽葉が。
ハンカチのようにふわふわと。
ふわふわと。
「穂先から葉葉」は「舞い振りまがら」
木を去っていくのは。
「夜の魔法」「夜のガスパール」
のようです。

「葉の去った枝」には。
もう「「初春」の若芽のつぼみ」
がみえます。

木々の「葉」が「枝や幹」を
「保護する役割をしている」
ことに気づきました。

4月の桜の花の時期とうってかわり
桜の木の公園
の桜の木々が。
夏になりとても獰猛な気配を放つ。
初めて気がついた・。

けれども今は

「おせどのこおろぎはなきやみ」

「電線に「木枯らし」がとまってないている」

「深い冬」です。

「新年」「初春」の「晩冬」です。

「晩冬」の「2月」「春」間近し。

「さくら」は冬の濃い緑の樹肌になり。
やさしさとおだやかさ
が感じられます。

そしていつしか
幹先に黄色い葉もまじえています。
しだいにしだいに。
紅黄色の葉が消えていくことに
きがつきます。

さくらから。
さくらはのきえるころ
です。

紅葉から。
「木枯らし」

桜の樹木も「丸くなりました」。
桜の樹木も毎年毎年と毎日毎日。
「旅(たび)をしている」のでしょう。

朝陽をあびる落葉樹は
「すべてがあざやかな黄金色」に
かがやきます。
朝陽をしっかりと。
「いうにいわれぬ美しい絵のごとく」
受け止めています。

「冬の朝陽」は真東に大変鋭いことに
気づきました。
眩しいです。

春は別として。
桜の木は木の下で。
夏は心安らかに。
「休める木ではないなあ」
と思います。
昨年は
秋になり
桜の樹木も安堵の葉色
になりました。
ちょっとばかりびっくり致しました。

枝や幹からは秋の陽の木漏れ日がみえます。

夏桜の木は獰猛なほど葉をおいしげらせ
ていました。
夏には
桜の木の下で木陰で。心安らかにやすもうという
気はおきません。

いまは晩秋から「冬」になりました。
そよかぜに揺れる残り葉は
招き誘われるような気すら致します。

冬になり幹にはもう「枯れ葉散る」。
ちったあと枝の根元には。
「春の芽栄え(めばえ)」
がみえます。

けれども
やはり夏桜の木は

シューベルトの歌曲の旋律にある「菩提樹」
ではないのです。

冬の桜木(さくらぎ)。
冬になり
人生に果てて(はてて)
なれるが如く桜樹木はかわりました。
良い木になってきました。
素敵(すてき)です。
冬の桜木(さくらぎ)。

木々でも。
いちょうや。松や。杉などの針葉樹
は。またソテツなどは。
「古い時代の木」です。

「チャールズ・ダーウィンの進化論」からは
「針葉樹」から。
「常緑樹」「広葉樹」「落葉樹」にと。
「進化」しているはずです。

「原始的」な樹木ほど。
「硬い幹」です。
例外はありません。

硬ければ。
幹は硬ければ動物に
「かじられる」ことはないでしょう。

いにしえの古代の時代にも。

恐竜をはじめめとする
「大型」の草食動物にも。

かたければかじられることは
なかったでしょう。

街並みを彩る街路樹には「落葉植物」が多いです。

ふと。考える。

街路樹が「松や杉」のように。
「冬も葉を持つ針葉の常緑樹」では。

冬はうっそうとして道端では
やさしい暖かな陽射しをかくしてしまう。

夏場は枝ぶり葉っぱぶりからつよすぎる日の光は
さえぎれません。
そして
「秋」の「夕焼け陽」には。
「金色のちいさき鳥の形して」
秋の夕焼けの陽射しに舞うこともできません。

常緑樹の針葉樹では。
は四季のリズムをつたえる

北大路魯山人のいう

「ざっくり感(ざっくりかん)」

のリズムヤハーモニー或は旋律が
ありません。

木々の夏の萌黄が早朝暗い中でも
うかびあがります。
私はくすのきが「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
モミジもすきです。
カエデもすきです。
松や杉もすきです。
月桂樹やシナモンもすきです。
オリーブもすきです。
オレンジの木もすきです。
「そてつ」の木もすきです。
ツバキもすきです。
ソテツもすきです。
南天もすきです。
木や植物がすきです。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな秋の萌黄色です。
まるで大きな深い山の森のうねりのようです。
今年は木々のわかばの秋のめばえが非常に鮮か
です。
木々は「夏樹」の役目をおわりました。
「秋木」とかわろうとしています。
「秋木」とかわりました。
そして
さらに
「冬木」へとかわろうとしています。
「冬木」へとかわりました。
「冬木」から春の「春木」への準備
もしています。

街角の雑草も花は咲き終わり。
盛夏の姿となりそして秋を迎えそして「冬」を迎える。
「ほとけの座」や「はこべ」が
「かたばみ」や「いたどり」が
ますます姿を大きくして。

そして「すすき」もくわわりました。

夏草から秋草へ。
そして秋草へのたたずまいをしています。
そしてもうすっかり秋冬草へと黄金色に転した
街角には雑草もあります。
こがねいろ。

雑草も。
同じく花をさかせ自ら種をとばし
夏葉がみえる。
そして秋を迎える。
冬が来て。木枯らしに吹かれ。
雪をかむり。そして。
春がくる。

ツツジは潅木。
ツツジの花の葉の優しさには
あらためてびっくりしました。
黄緑・草色のビロードです。

のぞきこむと若葉はまだ沢山ある。
何故か得をしたように思えました。

そして雨にうたれてそのまま地に落ちた
ツツジの若葉は幾何学的に裏側を下にむけて
逆さじょうごのように
落下していることに気がつきました。
まるで
「若草色」のキノコが沢山はえているようです。

木から落ちても。
まだ「若葉」です。ふと。
ヴェルディの「椿姫」「La Traviata」
の「つばき」を思い出しました。

1852年パリに滞在したヴェルディは
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)
の戯曲版『椿姫』の上演を見て感激し
ました。
そのころ新作の作曲依頼を受けていた
ヴェネツィアのフェニーチェ劇場のために。
翌1853年初めに比較的短時間で作曲された
『椿姫 』(La Dame aux camelias、1848年出版)
は。
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が
実際の体験を基にして書いた長編小説。
主人公のモデルはかつて作者が交際をしていた
マリー・デュプレシという高級娼婦。
恋人アルマンのイニシャルである
『AD』は
小デュマのイニシャルと同じです。

この作品は人々に愛されて幾度も舞台、映画化され
続けてきました。

朝暗いうちは。

とても。

はださむいです。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

山本クリニックには。
検見川の落合遺跡の遺跡発掘の際に
みつかった「古代のハスの種子」から。

2000年ぶりに発芽したことで有名な。
「古代蓮(ハス)」があります*。
【大賀ハス:おおがはす】です。
「有名な古代ハス」です。
とても勇壮なハスで。
花のいろはとてもあまりにも美しく。
たとえ様もありません。

ハスの花がさき。
「「蓮(ハス)」の実」になりました。
「はすの実」も「はす」の葉も。
2mくらい水面から高いところに
あります。

睡蓮(すいれん)があります。
睡蓮(すいれん)は「葉」が水に浮び。
はのきれこみは羊の足のようです。
睡蓮(すいれん)を「ひつじぐさ」とは
なるほどと考える。
睡蓮(すいれん)の茎の長さには
おどろかされます。

「姫睡蓮(ひめすいれん)」でさえも。
池はばが長ければ四方八方に「水の中の枝」。

「モネ」の描いた睡蓮(すいれん)の
「水の中の枝」は「どれほど長いのだろう」。

睡蓮(すいれん)も「太古の時代」に
陸の動物に「かじられないように」
水中に「逃げ込んだ」のでしょう。

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大賀ハス(オオガハス、おおがはす)とは。
1951年(昭和26年)、千葉県千葉市検見川
(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある
東京大学検見川厚生農場
(現・東京大学検見川総合運動場)の
落合遺跡で発掘された
今から2000年以上前の古代のハスの実から
発芽・開花したハス(古代ハス)のことです。

戦時中に東京都は燃料不足を補うために
花見川下流の湿地帯に豊富な草炭が埋蔵されていた
「草炭」を採掘していました。

採掘は戦後も継続して行われていました。
1947年(昭和22年)7月28日に作業員が採掘現場でたまたま
1隻の丸木舟と6本の櫂を掘り出しました。

その調査によりもう2隻の丸木舟と
ハスの果托などが発掘されました。

「縄文時代の船だまり」であったと
推測され落合遺跡と呼ばれました。

植物学者でハスの権威者でもある大賀一郎博士
(当時・関東学院大学非常勤講師)が
発掘品の中にハスの果托があることを知り。
1951年(昭和26年)3月ボランティアの協力
を得てこの遺跡の発掘調査を行いました。

翌日で打ち切りという
30日の夕刻になって花園中学校の女子生徒により
地下約6mの泥炭層からハスの実1粒が発掘され予定を延長し
4月6日に2粒、計3粒のハスの実が発掘されました。

大賀博士は5月上旬から発掘された
3粒のハスの実の発芽育成を試みるも2粒は失敗に終わりました。
だが1951年3月30日に出土した1粒が育成に成功致しました。

翌年の1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪を咲かせました。
このニュースは国内外に報道されて多いな「驚愕」を与えました。
同年11月17日付米国ライフ誌に「世界最古の花・生命の復活」
として掲載され博士の姓を採って「大賀ハス」と命名されました。

シカゴ大学のリピー博士らによって放射性炭素年代測定が行われました。
ハスの実は今から2000年前の弥生時代以前のものであると推定された。

この古代ハスは、
1954年(昭和29年)6月8日に「検見川の大賀蓮」として
千葉県の天然記念物に指定されました。
また1993年(平成5年)4月29日には千葉市の花として制定され、
現在日本各地は元より世界各国へ根分けされ、
友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っています。

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ふと「パンの神」を思い出しました。
(「牧神パン(Pan)」=「Pan」=「パン」=
「飯(はん)」=「全般の般」=「パンアメリカンのパン」=

「パン」「pan」は「すべて」という意味の
古代ギリシャ語そして「サンスクリット」も同じ。

古典ギリシア語 Παν、Pan「パンの神」は。
幼少時からゼウスから他の神々全て*に好かれたので
(古代ギリシャ語でTheophilusテオフイルス/ラテン語では
amadeus アマデウス**)
「パン」と名づけられました。

「頭は人間で胴体は山羊」です。

「テュホン:テューホーン:Τυφών: Typhon」
ギリシア神話に登場する魔神***。
に追いかけられ
あわてて身を守るため川に飛び込み「頭は人間で胴体は人魚」
に変身したために。

「パニック」=「panic:パン的」
という言葉が生まれました。

星座に「山羊座」という星座があります。

山羊座は不思議ですが
「あわてて身を守るため川に飛び込み
「頭は人間で胴体は人魚」」
に変身した「パンの神」を示しています。
山羊ではありません。

むしろ正確には人魚です。

だから。
「山羊座」という「意味」はわかります。
けれども「命名」の観点から。
「山羊座」というのはかなり「妙」な気が致します。
「人魚座」というのが正しい。


名称「パンの神」の由来は「ギリシャ神話」でも
非常に多くの「言い伝え」がいくつがあります。
その「言い伝えの数」に正比例して「混乱」があります。

**
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの
「アマデウス」とは「パンの神」のことです。
(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの
ヴォルフガングは「おおかみが行く」という意味です。
よって
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは

「狼のように歩み神に愛されたモーツアルト」
ということになります)

***
「テュホン:テューホーン:Τυφών: Typhon」は
「台風:たいふう」と日本語では名前を変えています。

****
タイフーン級原子力潜水艦は
旧ソ連・ロシアの941型(プロジェクト941)
戦略ミサイル搭載原子力潜水艦のことです。
タイフーンはそれに付けられたNATOコードネームですが
この名称は日本の「台風」とは「直接関係」はありません。

日曜の

朝黄金に晴れて

はじめて気づく

にわの小ささ

にちようの

あさこがねにはれて

はじめてきづく

にわのちいささ

朝晴れて

にわの小さき

気づかぬときは

病(やまい)なるらむ

日曜の朝

あさはれて

にわのちいさき

きづかぬときは

やまいなるらむ

にちようのあさ

休診日ですが。
早朝に朝まだ暗いうちから
首都高を走って病院に到着致します。

空はきらきらのラピス・ラズリの
紺碧のジュースから
ミルク色のはいった
トルコ石の「プリン」に変わるように変化
していきます。

遠くにぽかぽか浮ぶ「雲々」は
トルコ石の「プリン」の上の「クリーム」の
ようです。
にわのあじさいは「アイスクリーム」
のようです。

冬春きらきらラピス・ラズリの空(そら)
冬春紺碧のカクテルいろの空(そら)
冬春ミルクをそそそいだ空(そら)
冬春トルコいしのプリンの空(そら)
冬春はるかにとほくたかい空(そら)
冬春ほかほか浮ぶ雲々(くもぐも)そら
冬春プリンの上のクリームのような空(そら)
冬春睡蓮(すいれん)の水面に空(そら)
冬春睡蓮(すいれん)のうえに空(そら)
冬空春空(そら)の向こうにまた空(そら)
冬春空(そら)そのまたむこうにももっと大きな空(そら)

春のうららのこもれびに

緑木いらかをかぜはやみ

青風ひるむやうつろひの

四季のつきひははやいくとせ

夏のうららのこもれびに

緑木いらかのつねなりて

赤き空(そら)にて炎えたたむ

四季のつきひははやいくとせ

秋のうららのこもれびに

緑木いらかにかぜさやか

秋風かたれるやすらきの

四季のつきひははやいくとせ

冬のうららのこもれびに

緑木いらかにかぜつよし

冬風弓(ゆみ)射る木枯らしの

四季のつきひははやいくとせ

日々のうららのこもれびに

祈想い(おもい)のいらかにかぜつよし

生きる力に祈りはせ

四季のつきひははやいくとせ

冬春椎木(しいのき)は枝高し
冬春そらに吼える若葉の穂束
冬春そらに吼える蒼き獅子のごとし
冬春天にも地にもみどりはさける
冬春のあさふかまりて
冬春陽の光ゆたかなりけり
冬春いふことのなし
冬春いふことがなし
冬春いふことはなし
冬春いふこともなし
冬春ゆたかなるかな冬春

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成21年1月12日(月曜日)は。

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
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平成21年2月11日(水曜日)は。

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の御予約の。
患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
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平成21年3月20日(金曜日)は。

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の御予約の。
患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

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★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。
「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は。

「近代ロシア音楽の父」と呼ばれる。
1857年 - ミハイル・グリンカ、作曲家(* 1804年)
の没日です。
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ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ
(Михаил Иванович Глинка、
ミハイール・イヴァーナヴィチュ・グリーンカ:
Mikhail Ivanovich Glinka、
1804年6月1日スモレンスク近郊
ノヴォスパスコイェ Novospasskoye -
1857年2月15日ベルリン)は。

ロシア国外で広い名声を勝ち得た
最初のロシア人作曲家です。

「近代ロシア音楽の父」と呼ばれます。

ウクライナ系です。

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ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ:
Михаил Иванович Глинка
は。
グリンカは富裕な地主の家庭に生まれました。
子ども時代から音楽に興味を持っていました。

少年のころに体験した祖国戦争と
農奴オーケストラが演奏する民謡の編曲が。

成長してからの。
彼の音楽に影響を与えたといわれています。

++++++++++++++++++++++

ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ:
Михаил Иванович Глинкаは。

経済的に恵まれていた彼は若いうちから。
ピアノ、ヴァイオリン、声楽、指揮、
そして作曲を熱心に学習することができたのですが。

音楽教育はごくわずかしか受けておらず。

同胞の作曲家よりは、むしろプーシキンら
当時の詩人や画家などと交遊を結びました。

やがてはイタリアなどの
多くの諸外国で勉強する機会を得て。

芸術的に進んだ西欧の文化を吸収することができました。

しかし外国を回るうちに
徐々に彼のロシア人としてのアイデンティティが芽生えました。

ロシア的な作品を書きたいという
願いが起きてくるようになったのです。

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ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ:
Михаил Иванович Глинкаの。

この間ロシアの民族音楽に興味を示した者は
ほとんどいなかったのです。

その代わりに貴族階層は。
ドイツやフランス、イタリアなどから。
たとえばヴィンチェンツォ・ベッリーニや
ガエターノ・ドニゼッティなどの作品を輸入していました。

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ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ:
Михаил Иванович Глинка
は。

完璧なロシア的なオペラを。
最初に作曲すべく取り掛かったのがグリンカなのです。

1836年に作曲された《皇帝に捧げた命》は。

G.F.ローゼン男爵の依嘱作品で大成功をもって
賞賛されました。

これは、幅広く受容された
最初のロシア語オペラであるのです。

部分部分はロシア民謡に基づいています。

主部は伝統的なイタリア様式で構成されています。

因みに、この作品は。
ソビエト時代には政治的な理由から。
主人公の農民の名前をとって
《イワン・スサーニン》として知られ
ていました。

++++++++++++++++++++++

ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ:
Михаил Иванович Глинка
の。
オペラの第2作《ルスランとリュドミーラ》は。

1842年に作曲されました。
ほとんどは上演のまずさのせいで
今度は好意的に受容されませんでした。

この作品は、民謡の自由な活用や。
不協和音や半音階。
それに全音音階の独創的な活用が特徴的です。

それにもかかわらず。
この第2のオペラには。
国民楽派的な作曲様式が確固としています。

これは次世代のロシア人作曲家によって追随されることとなる
名作となりました。

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ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ:
Михаил Иванович Глинка
は。

1857年に対位法の研究のために滞在していたベルリンに客死
致します。

遺体はペテルブルクに運ばれて。
アレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬されました。

++++++++++++++++++++++

ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ:
Михаил Иванович Глинкаの。
作風と後世への影響。

グリンカは青年時代にイタリア、晩年にドイツに留学して。
作曲理論を学んでいます。

この間にはオペラよりも器楽曲の創作を追究致します。

イタリア時代は。
ハイドンやモーツァルトの器楽曲や
ロッシーニの序曲の様式で。
数々の室内楽曲を作曲しています。
またドイツ時代は、交響詩などの管弦楽曲が中心となっています。

中でもイタリア時代に書かれた
クラリネット三重奏曲《悲愴トリオ》ニ短調は。
イタリア風のカンタービレとスラヴの憂鬱が結びついた。

流麗かつ軽快な表現によって
大名作の再評価を受けるに至っています。

++++++++++++++++++++++

ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ:
Михаил Иванович Глинкаの。

初めて真のロシア的音楽をつくったといわれる
グリンカの作品は、ロシアのその後の作曲界に
重要な影響を与えました。

とりわけ有名なのが
「ロシア五人組」です。

このグループはグリンカの指導力を受け入れて。
はっきりとした。
ロシア的な特質のあるクラシック音楽を創造致しました。

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ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ:
Михаил Иванович Глинкаの。

グリンカ作品のうち。
歌劇《皇帝に捧げた命》
(Жизнь за царя)と。
《ルスランとリュドミラ》
(Руслан и Людмила)の二つは。

ロシア最大の詩人アレクサンドル・プーシキン原作
の台本によるものです。

これらの序曲が
しばしば演奏会でも演奏されて有名です。

管弦楽曲はあまり有名ではないのですが。

それでも交響詩
《カマリンスカヤ》(Камаринская、1848年)や
《ホタ・アラゴネーサ》(Арагонская хота1845年)
などの作品があります。

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ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ:
Михаил Иванович Глинкаは。

また数ヶ国語をマスターしていたほどの
大変な旅行家であったのです。

彼は、ロシアの民俗音楽だけでなく。
旅先で触れた各国の民俗音楽を吸収したり
自作に取り入れたりしています。

もっとも彼が旅行ばかりで
あまりロシアに滞在しなかった理由は。
国外での彼の音楽に対する高い評価に比べて。
当時のロシア国内では特に貴族などの保守的な層から
良い評価を得られなかったせいとも言われています。

反面、彼ら以外の主に貧しい若い層の音楽家たちからは
尊敬を勝ち得ていたのです。

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++「続きを読むです1」++++++++++++++++++

ミハイル・グリンカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AB

ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ(ロシア語:Михаил Иванович Глинка、ミハイール・イヴァーナヴィチュ・グリーンカ:Mikhail Ivanovich Glinka、1804年6月1日スモレンスク近郊ノヴォスパスコイェ Novospasskoye - 1857年2月15日ベルリン)は国外で広い名声を勝ち得た最初のロシア人作曲家。近代ロシア音楽の父と呼ばれる。ウクライナ系。

生涯
グリンカは富裕な地主の家庭に生まれ、子ども時代から音楽に興味を持っていた。少年のころに体験した祖国戦争と農奴オーケストラが演奏する民謡の編曲が、成長してからの彼の音楽に影響を与えたといわれる。経済的に恵まれていた彼は若いうちからピアノ、ヴァイオリン、声楽、指揮、そして作曲を熱心に学習することができたが、音楽教育はごくわずかしか受けておらず、同胞の作曲家よりは、むしろプーシキンら当時の詩人や画家などと交遊を結んだ。やがてはイタリアなどの多くの諸外国で勉強する機会を得、芸術的に進んだ西欧の文化を吸収することができた。しかし外国を回るうちに、徐々に彼のロシア人としてのアイデンティティが芽生え、ロシア的な作品を書きたいという願いが起きてくるようになった。

この間、ロシアの民族音楽に興味を示した者はほとんどいなかった。その代わりに貴族階層は、ドイツやフランス、イタリアなどから、たとえばヴィンチェンツォ・ベッリーニやガエターノ・ドニゼッティなどの作品を輸入していた。まったくロシア的なオペラを最初に作曲すべく取り掛かったのがグリンカなのである。

1836年に作曲された《皇帝に捧げた命》は、G.F.ローゼン男爵の依嘱作品で、大成功をもって賞賛された。これは、幅広く受容された最初のロシア語オペラである。部分部分はロシア民謡に基づいているのだが、主部は伝統的なイタリア様式で構成されている。因みに、この作品は、ソビエト時代には政治的な理由から、主人公の農民の名前をとって《イワン・スサーニン》として知られていた。

オペラの第2作《ルスランとリュドミーラ》は1842年に作曲されたが、ほとんどは上演のまずさのせいで、今度は好意的に受容されなかった。この作品は、民謡の自由な活用や、不協和音や半音階、それに全音音階の独創的な活用が特徴的である。それにもかかわらず、この第2のオペラは、国民楽派的な作曲様式が確固としており、これは次世代のロシア人作曲家によって追随されることとなった。

1857年に、対位法の研究のために滞在していたベルリンに客死する。遺体はペテルブルクに運ばれてアレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬された。

作風と後世への影響
グリンカは、青年時代にイタリア、晩年にドイツに留学して、作曲理論を学んでおり、この間にはオペラよりも、器楽曲の創作を追究した。イタリア時代は、ハイドンやモーツァルトの器楽曲やロッシーニの序曲の様式で、数々の室内楽曲を作曲しており、ドイツ時代は、交響詩などの管弦楽曲が中心となっている。中でもイタリア時代に書かれたクラリネット三重奏曲《悲愴トリオ》ニ短調は、イタリア風のカンタービレとスラヴの憂鬱が結びついた、流麗かつ軽快な表現によって、再評価を受けるに至っている。

初めて真のロシア的音楽をつくったといわれるグリンカの作品は、ロシアのその後の作曲界に重要な影響を与えており、とりわけ有名なのが「ロシア五人組」である。このグループはグリンカの指導力を受け入れて、はっきりとロシア的な特質のあるクラシック音楽を創造した。

グリンカ作品のうち、歌劇《皇帝に捧げた命》(Жизнь за царя)と《ルスランとリュドミラ》(Руслан и Людмила)の二つは、ロシア最大の詩人アレクサンドル・プーシキン原作の台本であり、これらの序曲がしばしば演奏会でも演奏されて有名である。管弦楽曲はあまり有名ではないが、それでも交響詩《カマリンスカヤ》(Камаринская、1848年)や《ホタ・アラゴネーサ》(Арагонская хота1845年)などの作品がある。

また、数ヶ国語をマスターしていたほどの大変な旅行家であった彼は、ロシアの民俗音楽だけでなく、旅先で触れた各国の民俗音楽を吸収したり自作に取り入れたりしている。もっとも彼が旅行ばかりであまりロシアに滞在しなかった理由は、国外での彼の音楽に対する高い評価に比べて、当時のロシア国内では特に貴族などの保守的な層から良い評価を得られなかったせいとも言われる。反面、彼ら以外の主に若い層の音楽家たちからは尊敬を勝ち得ていた。

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
2月15日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8815%E6%97%A5

できごと
1877年 - 西南戦争始まる

1892年 - 第2回衆議院議員総選挙。

1898年 - メイン号事件。アメリカの戦艦メイン号が
ハバナ港内で原因不明の爆沈。対スペイン開戦へ(米西戦争)

1938年 - 第2次人民戦線事件。
大内兵衛・江田三郎ら日本共産党と人民戦線の結成を企てたとして検挙される。
(反戦派に対する弾圧事件)

1942年 - シンガポール陥落。

1944年 - 連合軍がモンテ・カッシーノ修道院を爆撃。(モンテ・カッシーノの戦い)

1981年 - 日本劇場が閉館。

1995年 - ケビン・ミトニックがアメリカ合衆国で
もっともセキュリティが堅いシステムに侵入したとしてFBIに逮捕される。

1995年 - プログラミング言語AdaのISO規格改訂。
Adaは、史上初の国際規格化されたオブジェクト指向言語となる。

1998年 - 阪神電気鉄道と山陽電気鉄道が阪神梅田駅〜山陽姫路駅間に直通特急の運転を開始。

2005年 - カリフォルニア州サンマテオにYouTubeを設立。

誕生日
1564年(ユリウス暦) - ガリレオ・ガリレイ、物理学者・天文学者(+ 1642年)

1710年 - ルイ15世、フランス王(+ 1774年)

1748年 - ジェレミ・ベンサム、法学者(+ 1832年)

1759年 - フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフ、文献学者・評論家(+ 1824年)

1791年 - フランチェスコ・アイエツ、画家(+ 1882年)

1836年(天保6年12月29日) - 松平容保、幕末の会津藩主、京都守護職(+ 1893年)

1845年 - エリフ・ルート、第38代アメリカ合衆国国務長官(+ 1937年)

1855年(安政元年12月29日) -
津田三蔵、大津事件の実行犯として知られる警察官(+ 1891年)

1861年 - アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド、哲学者・数学者(+ 1947年)

1892年 - ジェームズ・フォレスタル、初代アメリカ合衆国国防長官(+ 1949年)

1898年 - 井伏鱒二、小説家(+ 1993年)

1899年 - ジョルジュ・オーリック、作曲家(+ 1983年)

1899年 - ゲイル・ソンダーガード、女優(+ 1985年)

1901年 - 犬塚稔、脚本家・映画監督(+ 2007年)

1904年 - 三浦敬三、プロスキーヤー(+ 2006年)

1905年 - ハロルド・アーレン、作曲家(+ 1986年)

1907年 - シーザー・ロメロ、俳優(+ 1994年)

1908年 - 近藤日出造、漫画家(+ 1979年)

1911年 - 淀井敏夫、彫刻家(+ 2005年)

1915年 - 梅崎春生、小説家(+ 1965年)

1921年 - 桜むつ子、女優(+ 2005年)

1921年 - 斎藤真、政治学者(+ 2008年)

1926年 - 松谷みよ子、児童文学作家

1929年 - 立川清登、バリトン歌手(+ 1985年)

1929年 - グラハム・ヒル、レーシングドライバー(+ 1975年)

1931年 - 黒田清、ジャーナリスト(+ 2000年)

1931年 - クレア・ブルーム、女優

1932年 - 白土三平、漫画家

1935年 - 峰恵研、俳優・声優(+ 2002年)

1937年 - 山根伸介、チャンバラトリオ

1938年 - 本郷功次郎、俳優

1939年 - 広川太一郎、声優(+ 2008年)

1942年 - 近藤正臣、俳優

1943年 - 清水章吾、俳優

1944年 - 小原伊佐美、調教師

1945年 - 高橋直樹、元プロ野球選手・野球解説者

1945年 - わたせせいぞう、漫画家

1945年 - 迫田七郎、元プロ野球選手

1948年 - 大古誠司、元バレーボール選手、監督

1950年 - 矢島正雄、脚本家・漫画原作者
1950年 - 徐克、映画監督
1951年 - いしかわじゅん、漫画家
1951年 - トミー・クルーズ、元プロ野球選手
1954年 - 立川志の輔、落語家
1954年 - 陸奥A子、漫画家
1954年 - 山本和男、元プロ野球選手
1955年 - 米村でんじろう、サイエンスプロデューサー
1956年 - 浅田美代子、タレント
1956年 - 井出洋介、プロ雀士
1956年 - レイ・コージ、元プロ野球選手
1957年 - ひかわきょうこ、漫画家
1958年 - 多賀竜昇司、鏡山親方、大相撲力士・元関脇
1958年 - トニー・タッブス、プロボクサー
1959年 - 坂上みき、ラジオパーソナリティ
1959年 - アリ・キャンベル、ミュージシャン (UB40)
1961年 - 松浦英信、元プロ野球選手
1965年 - 水間詠子(ボディビルダー)
1966年 - 山内嘉弘、元プロ野球選手
1967年 - 堀ちえみ、女優・タレント
1967年 - ひと美、声優
1968年 - 山崎邦正、タレント
1968年 - 浅田弘幸、漫画家
1969年 - 小市慢太郎、俳優
1970年 - 今沢カゲロウ、ベーシスト
1971年 - レイ・セフォー、格闘家
1974年 - 浜本広晃、タレント($10)
1974年 - 池田貴史、ミュージシャン
1974年 - アレクサンダー・ヴルツ、レーシングドライバー
1976年 - シリル・アビディ、格闘家
1977年 - マシュー・ランデル、元プロ野球選手
1978年 - インリン・オブ・ジョイトイ、タレント
1978年 - ショコラ、歌手
1979年 - 浅井晴美、声優
1979年 - 斉藤 司、タレント(トレンディエンジェル)
1980年 - 宮良忍、歌手(元DA PUMP)
1983年 - ラッセル・マーティン、メジャーリーガー
1982年 - 板倉雄一、漫画家
1984年 - mink、歌手
1985年 - 南乃花、アイドル・タレント
1986年 - 小清水亜美、声優
1986年 - 藤原良平、プロ野球選手(埼玉西武ライオンズ)
1986年 - 宮嶋麻衣、女優
1987年 - 浅倉杏美、声優
1988年 - 草野博紀、歌手(元NEWS)
1988年 - 依知川絵美、元美少女クラブ31
1988年 - 森野琴梨、AV女優
1988年 - 森岡龍、俳優
1989年 - 西脇綾香、(Perfume)
1989年 - 葵、女優
1989年 - 金原杏奈、ファッションモデル
1989年 - ブルーノ・ホッキ・デ・ソウザ、サッカー選手
1993年 - 大野菜摘、女優
2000年 - 羽鳥世那、子役
生年不詳 - 篠原千絵、漫画家
生年不詳 - 北原文野、漫画家
生年不詳 - 平井啓二、声優
生年不詳 - 泉久実子、声優
生年不詳 - 北都南、声優

忌日
1152年 - コンラート3世、神聖ローマ皇帝(* 1093年)

1162年(応保2年1月30日)- 藤原宗輔、平安時代の公卿(* 1077年)

1491年(延徳3年1月7日) - 足利義視、室町幕府の武将(* 1439年)

1591年(天正19年1月22日) - 豊臣秀長、戦国時代の武将・豊臣秀吉の弟(* 1540年)

1621年 - ミヒャエル・プレトリウス、作曲家(* 1571年?)

1637年 - フェルディナント2世、神聖ローマ皇帝(* 1578年)

1781年 - ゴットホルト・エフライム・レッシング、
詩人・劇作家・思想家・評論家(* 1729年)

1804年(享和4年1月5日) - 高橋至時、天文学者(* 1764年)

1806年(文化2年12月27日)- 松平容住、第6代会津藩主(* 1779年)

1844年 - ヘンリー・アディントン、イギリスの首相(* 1757年)

1846年 - オットー・フォン・コツェブー、航海士・探検家(* 1787年)

1857年 - ミハイル・グリンカ、作曲家(* 1804年)

1869年(明治2年1月5日)- 横井小楠、熊本藩士・儒学者(* 1809年)

1883年 - 華頂宮博厚親王、日本の皇族(* 1875年)

1922年 - 嶌田川儀兵衞、大相撲力士(* 1844年)

1922年 - 宇都宮太郎、日本陸軍の大将(* 1861年)

1923年 - 一ノ矢藤太郎、大相撲の力士(* 1856年)

1925年 - 木下利玄、歌人(* 1886年)

1927年 - ヤーコプ・ハイルマン、実業家(* 1846年)

1928年 - ハーバート・ヘンリー・アスキス、元イギリス首相(* 1852年)

1935年 - バジル・ホール・チェンバレン、日本学者(* 1850年)

1944年 - 河合栄治郎、経済学者(* 1891年)

1958年 - 徳永直、小説家(* 1899年)

1959年 - オーエン・リチャードソン、物理学者(* 1879年)

1961年 - マリベル・ビンソン、フィギュアスケート選手(* 1911年)

1965年 - ナット・キング・コール、歌手(* 1919年)

1968年 - リトル・ウォルター、ハーモニカ奏者(* 1930年)

1972年 - エドガー・スノー、ジャーナリスト(* 1905年)

1974年 - クット・アッテルベリ、作曲家(* 1887年)

1980年 - 新田次郎、小説家(* 1912年)

1981年 - カール・リヒター、指揮者(* 1926年)

1983年 - 大西良慶、北法相宗の僧(* 1875年)

1984年 - エセル・マーマン、歌手・女優(* 1908年)

1986年 - 今久留主淳、元プロ野球選手(* 1918年)

1988年 - リチャード・P・ファインマン、物理学者(* 1918年)

1992年 - ウィリアム・シューマン、作曲家(* 1910年)

1993年 - 石橋犀水、書家(* 1896年)

1999年 - 山岡久乃、女優(* 1926年)

2000年 - 進藤武松、彫刻家(* 1909年)

2002年 - 根津嘉一郎 (2代目)、実業家(* 1913年)

2002年 - 熊川好生、浦安市市長(* 1932年)

2003年 - 奥田元宋、日本画家(* 1912年)

2003年 - 吉村道明、プロレスラー(* 1926年)

2005年 - 劉炳森(中国の書家、政治家)(* 1937年)

2006年 - アンドレイ・ペトロフ、作曲家(* 1930年)

2007年 - ロバート・アドラー、発明家(* 1913年)

2007年 - レイ・エバンズ、作詞家(* 1915年)

記念日・年中行事
かまくら(秋田県横手市)

涅槃会

春一番名付けの日(日本)

コマーシャルフォトの日