東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年2月18日(水曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年2月18日(水曜日)

「初春」「新年」の「2月」も
「18日」たちました。
あと「3日」まで。
最後の「冬月」の「2月」
です。

そしてあと「10日」たてば。
「春」の「3月」になります。

「春」は。

まちどおしいもの

であることが

あらためて。

みにしみて。

感じられます。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。

まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

「初春」です。
「1月」は終わり。

「2月」は
「11日」たちました。

今現在は
「2月」。
「新年」の「初春」の「晩冬」です。
もうすぐ。
そこまで「春」がきています。

「昨年」の晩秋には。
晩秋の花木。
「金木犀:きんもくせい」花を咲かせました。
日々ますます花をさかせていました。
「実りの花」。

「金木犀:きんもくせい」は「秋」に「2度」咲きました。
「銀木犀:きんもくせい」も咲きました。
「金木犀:きんもくせい」の花は黄金色です。
「銀木犀:きんもくせい」の花は「プラチナ色」です。

かおりも全く違います。
「金木犀:きんもくせい」より。
「銀木犀:きんもくせい」は10日遅れで咲きました。

今は「新年」「初春」の「2月」。

「銀木犀:きんもくせい」も「銀木犀:きんもくせい」も

はるかかなたに。

「花」はおわりました。

そして。

「木犀:もくせい」は今「初春」の「晩冬」を迎え。

さらなる深い冬越しと。

「春」まちの準備をしています。

「木犀:もくせい」は常緑樹です。

「冬」になると。

「葉色」と「葉のあつさ」がかわります。

「木枯らしに耐える葉の厚さ」になります。

「初春」の「新年」の。

山茶花のつぼみがみえます。

「やぶつばき」のつぼみがみえます。

「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」は
不思議な木です。

「山茶花(さざんか)」や。
「やぶつばき」の「花」は。

「夜の「木枯らし」」に
弓射られて地上に落花致します。

「冬」の「花粉」を運ぶ「昆虫」の少ない
時期に「花は咲きます」。
「花ひらく」と同時にちります。

「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」
の木下には「毛氈(もうせん)花壇」のように。
「紅白の花びら」が。
舞いおりてています。

その地上の。
「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」
の存在を誇示するがごとくです。

「やぶつばき」や「山茶花(さざんか)」
一夜での落花現象は「謎」です。

「初春」の「新年」の「晩冬」に。
花粉を授粉してくれる
昆虫は極めて少ないはずです。

「種の保存」から。
なんらかの「方法」で。

「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」は。

地上の「紅白」のはなびらで。
昆虫にその存在を
探知させているのかもしれません。

地面の上の「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」
が「花びら」で存在を誇示しても。

木々の「花」は天上。
「花」こそみえません。

けれども
「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」
の「いのちの芳香」は。

とくとくと。
遠くまでただよっているかのごとくです。

「新年」「初春」。
「2月」の冬になりました。
常緑の。
山茶花(さざんか)や「やぶつばき」は元気です。

「春」間近(まぢか)です。

山茶花(さざんか)や「やぶつばき」は
花が落ちて。
「木の下」に「フェルマータ"fermata"」*
が。
楽譜のように記譜されているような「木」です。

「落花生」のような「木」です。

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C・

イタリア語におけるフェルマータ"fermata"とは。
英語"stop"に相当する名詞です。
(例えばイタリアのバス停の
標識には"Fermata"の表示があります)。

音楽美学の世界では。

絵画には限られた面積があるのと同じように。
音楽には。
「限られた時間」—つまり「初め」と「終わり」—があることが
宿命とされています。
古い時代の楽譜のときはその終止線の上下や終結音の
上下に現在のフェルマータのマークの基となったデザインが
配されました。

そこで音楽の終わりを意味致しました。

時間の流れを止めることはできません。
けれども曲の終わりでは。
音楽を止めることによってその時空に終わりが
発生することとなります。
「停止」という意味の"fermata"の概念はそのように
発生したと解されます。

付与された音符や休符で音楽の時間の流れを
停止させる意味を持ちます。

「♪」
に付与されれば
「♪」
その音のまま「停止」=「ずっと鳴り続ける」
「休止符」
に付与されれば
「休止符」
その旋律は「停止」=「ずっと鳴らない」
ことになります。
楽譜の節目の
縦線に付与される場合には。
一記譜上に存在しない挿入された休符が空白時間として
求められます。

ただし
前の音から伸ばされたタイ(スラー)が。
縦線の上を横切っている場合と
そこにピアノにおけるペダルなどの保続効果の指示が見られる場合は。
空白時間として処理されず音を保続させる時間を
別途挿入することとなります。

フェルマータ"fermata"。

そのマークは「一日の終わりである日没」
に由来したデザインとも言われています。
-------------------------------

旧暦では「11月」から「冬」です。
「昨年」12月が終わり。

今現在は。
「2月」は「初春」「新年」の「晩冬」です。

「冬将軍」のくる
「冬」です。

今朝早朝の真っ暗な時間に
「吐息」が「白く」みえます。

急速に。
とりわけ朝暗いうちは。
かけあしで
「とてもとてもさむくなってきました」。

今朝早朝は
暗いうち晴れて。
霧雨の合間に。
久方ぶりにたくさんのたくさんの
星をみました。

そして天井の空高くひさしぶりに「月」の
かがやきをみました。

地上の変化(へんげ)が天高くたちのぼり
月や星に結晶して。
芳香をはなつがごとく光をはなつように
見えます。

空気が澄み。
大気がすんでいるからでしょう。

「天高く」とはなるほどと考えます。

「木枯らし」の合唱も。
なかなかすてきです。

ブラスでもない。木管でもない。弦でもない。
グラスハープの。
オーケストラを聴いているようです。

そして「2月」になり
「木枯らし」の鳴き声は「アリア」として。
次第に出番が多くなりました。

寒い中でも
「極めて大きな声でうたっている」
「木枯らし」が
「1-2」はいるのが不思議です。

山茶花の木の上か。
電線にとまったり。
またさらに
上空で「木枯らし」は歌っているようです。

うっすらと「ドア」を開けると。

「魔王:Erlkönig」の吹く。

不協和音のオカリナのような。

音色ではいりこもうとします。

そぞろ そぞろに。
静かながらに。

「1月」の朝焼けと。
夕焼けどきに。

ひそやかながらもあきらかに。
「冬将軍」の気配にあと押しされて。
「確かな冬」のかおりが。
「春」間近くして。
大気にかげろううや蜃気楼のように
ただよいはじめています。

昼間はあたたかい
小春の陽射しを感じることが
あります。

「初春」「新年」の「2月」。

雪国の冬です。

そして「春」間近です。

2月の冬の気配は。
あっというまに。
冬の「霞(かすみ)」に「霊気(れいき)」
のように変化して。
次第に「深い冬」の気配にうつろいていく。
「井戸のつるべ」がおちるようです。

「冬の2月」。
ふかまりゆく
「冬からの冬将軍の登場」は。
威風堂々と。
感じられるような気がします。

そしてさらに。

冬そしてさらに。

「もっと深い「春」」が。

ピアニッシモ。
ppで。
しのびよる深い冬の気配が
かんじられます。

朝日と東の朝焼け青空に。
「朝焼け」の。

空にはそらいろとピンクのレースのような

あやにしきの
「くれゆくふゆいろ」
「むかえくるはるいろ」が感じられます。

冬春陽射し(ひさし)やさしき冬。
冬春空にも地にも天高くはれ。
冬春の大気のひそみかくれ。
冬春そらにみちてあふれれば。
冬春吐息(ためいき)となり。
冬春吐息が霧雨か霞になり。
冬春おりてくるような感じです。
冬春「冬はふかまりゆく」気配
になりました。

冬なお「力強い」の木々のめぶきは
初冬の息吹から深い冬への息吹への。
変化(へんげ)を感じます。

早朝は「とても寒い」です。
今年は「寒い」です。

百姓のうまれなので「冷冬」が心配です。

街路樹はしっかりと
冬ながらも枝木の穂先もたわわにつよく
「晩冬」の萌黄色の若芽もち。
「初春」のあおい「木」にかわりました。
「新年」のあおい「木」は。
「実りの冬」のおとづれを。
そしてさらなる「冬の深まり」を超えて。

そしていま厳しい冬をがんばって。
「あたたかい「春」」をむかえようとしています。

「本物の冬」から「もともっと寒い冬」

「新年」「初春」の「晩冬」
です。

「晩冬」の気配に加えて。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

冬春山椒(さんしょう)の木の芽が
冬春にも若葉はそだち。
冬春若葉は冬の若枝となり。
冬春若枝は天高くすこやかにのび。
冬春のふかまりにますますすこやかに。
冬春山椒(さんしょう)の木のみどり葉。
冬春空に燃えるが如くの炎葉です。

さんしょうを
木の芽(このめ)といふは
なるほどと
かんがえる

冬春深まりたり
冬春空たかく
冬春あやにしき
冬春みどり木
冬春さんしょう木
冬春陽をあびてかがやけり
冬春いざいまこそは
冬春金色(かがね)にかわり
冬春赤き秋空に燃えたたむ

冬春さんしょう木
冬春もえぎの炎(ほのほ)は芽葉(めは)
冬春わかば葉はいずるは花ならむ
冬春(ふゆ)こす枝は幹ならむ
冬春いざいまこそは
冬春空(そら)たかくもえたたむ
冬春金色(こがねいろ)なる
冬春さんしょう木
冬春(ふゆ)深まれり

山本クリニックの庭には水槽が
「2つ」あります。
めだかが泳いでいます。

冬春ふかく草を浮かべる水面(おも)に
冬春めだかのむれのひかりたり
冬春むれておよげるひめだかの
冬春みずのなかなるちいさないのち
冬春みずのなかなるおおきないのち
冬春みのりてあまたにとほときいのちこそ
冬春いざみずもにうつしはぐくまむ

けれども
早朝は本当にはだ寒いのです。

小さなふゆみつけたから
しだいに大きなあきみつけた
大きなふゆみつけたから
大きな大きなふゆみつけた
そして
「小さい春みつけた」は。

「こころしずまる気」がします
「初冬」かえあ
「晩冬」になります。
「初春」になります。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成21年1月12日(水曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。
限られた診療スタッフで。
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
限られた診療スタッフで。
御予約の患者さんのみ。
限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は。

アメリカ人の。
類稀なる才能の東洋美術史家。

当時の日本の美術行政、文化財保護行政にも
深く関わり。

1884年には文部省図画調査会委員に任命され。
同年岡倉天心らに同行して
近畿地方の古社寺宝物調査を行い。

法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を開扉したエピソード
で高名な東洋美術史家。

狩野芳崖の遺作であり代表作でもある
『悲母観音』(東京藝術大学蔵)を。
狩野芳崖を指導し「唐代仏画のモチーフに
近代様式を加味して制作」させた東洋美術史家。

また日本の美術文化を深く理解し。
「欧米諸国」にはない。
「国宝」(National treasures)という概念を
日本に作りもたらしたた東洋美術史家

1853年 - アーネスト・フェノロサ、東洋美術史家(+ 1908年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

アーネスト・フランシスコ・フェノロサ
(Ernest Francisco Fenollosa、
1853年2月18日 - 1908年9月21日)は。
アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者です。
明治時代に来日した外国人東洋美術史家。

日本美術を評価し。

紹介に努めたことで知られている方です。

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アーネスト・フランシスコ・フェノロサ:
Ernest Francisco Fenollosa
の生涯と日本での活動

アーネスト・フランシスコ・フェノロサ:
Ernest Francisco Fenollosa
は。

マサチューセッツ州生まれのハーバード大学卒です。

先に来日していた
動物学者エドワード・シルヴェスター・モースの紹介で
1878年(明治11年、当時25歳)に来日致しました。

東京大学で政治学、哲学、理財学(経済学)などを講じました。

フェノロサの講義を受けた者には。
井上哲次郎、高田早苗、坪内逍遥らがいます。

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アーネスト・フランシスコ・フェノロサ:
Ernest Francisco Fenollosa
は。

以上のようにフェノロサの
専門は政治学や哲学でありました。

美術が専門ではなかったのですが。

来日前にはボストン美術館付属の美術学校で
油絵とデッサンを学んだことがあり、
美術への関心はもっていました。

来日後は日本美術に深い関心を寄せました。

助手の岡倉天心とともに古寺の美術品を訪ねました。
天心とともに東京美術学校の設立に尽力致しました。

++++++++++++++++++++++

アーネスト・フランシスコ・フェノロサ:
Ernest Francisco Fenollosa
が。

フェノロサが美術に公式に関わるのは
1882年(明治15年)のことでした。

同年の第1回内国絵画共進会で審査官を務めました。
同年には狩野芳崖の作品に注目致しました。
以後2人は以後親交を結ぶことになりました。

芳崖の遺作であり代表作でもある
『悲母観音』(東京藝術大学蔵)は。

フェノロサの指導で唐代仏画のモチーフに
近代様式を加味して制作したものです。

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アーネスト・フランシスコ・フェノロサ:
Ernest Francisco Fenollosa
は。
フェノロサは狩野派絵画に心酔していました。

狩野永悳(えいとく)という当時の狩野派の画家に師事して。
「狩野永探」という画名を名乗ることを許されています。

同じ1882年には龍池会(財団法人日本美術協会の前身)にて
「美術真説」という講演を行いました。

日本画と洋画の特色を比較して。
日本画の優秀性を説きました。

++++++++++++++++++++++

アーネスト・フランシスコ・フェノロサ:
Ernest Francisco Fenollosa
は。

フェノロサは。
当時の日本の美術行政、文化財保護行政にも
深く関わりました。

1884年には文部省図画調査会委員に任命されました。
同年には岡倉天心らに同行して
近畿地方の古社寺宝物調査を行っています。

法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を開扉したエピソードは
この時のものです。

それ以前、1880年と1882年にも京都・奈良の
古社寺を訪問したことが記録からわかっています。

++++++++++++++++++++++

アーネスト・フランシスコ・フェノロサ:
Ernest Francisco Fenollosa
は。
1890年に帰国致しました。

ボストン美術館東洋部長として日本美術の紹介を行いました。
その後、1896年、1898年、1901年にも来日致しました。

1908年、ロンドン滞在中に逝去。

++++++++++++++++++++++

アーネスト・フランシスコ・フェノロサ:
Ernest Francisco Fenollosa
の評価

廃仏毀釈を経て。
また西洋文化崇拝の時代風潮の中で見捨てられていた
日本美術を高く評価し研究を進め、広く紹介した点は
日本美術にとっての恩人ともいえ。
極めて高く評価されています。

フェノロサが参加した古社寺の宝物調査は、
文化財保護法の前身である
古社寺保存法の制定(1897年)への道を開いたものであり。

東京藝術大学の前身の1つである
東京美術学校の開校にも関わるなど。

明治時代における
日本の美術研究、美術教育、伝統美術の振興、
文化財保護行政などに
フェノロサの果たした役割は極めて大きいです。

また「国宝」(National treasures)という
他国にはない「概念」は彼が考えたものです。

++++++++++++++++++++++

アーネスト・フランシスコ・フェノロサ:
Ernest Francisco Fenollosa
は。

一方、『平治物語絵巻』、尾形光琳筆『松島図』
(ともにボストン美術館所蔵)など国宝級の美術品を
海外に流出させたとして批判を受けることも多いのです。

これについては。
当時の日本人がゴミ同然に扱っていたものを
保存するためだったという意見もあります。

なお奈良県にある薬師寺の東塔を
「凍れる音楽」と評したとも言われます。

「建築は凍れる音楽」というフレーズ自体は。
もっと以前からドイツなどで使われていたものです。

薬師寺東塔を評して「凍れる音楽」と
評したのはフェノロサではないという説があります。

++++++++++++++++++++++

アーネスト・フランシスコ・フェノロサ:
Ernest Francisco Fenollosa
は。

生前、仏教に帰依しています。
1896年には滋賀県大津市の
園城寺(三井寺)で受戒致しました。

その縁で同寺塔頭の法明院
(滋賀県大津市園城寺町246)に葬られています。

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アーネスト・フェノロサ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%83%AD%E3%82%B5

アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa、1853年2月18日 - 1908年9月21日)は、アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者で、明治時代に来日したお雇い外国人。日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られる。

目次
1 生涯と日本での活動
2 評価
3 脚注
4 関連人物
5 邦訳著作 
6 関連文献

生涯と日本での活動
マサチューセッツ州生まれ、ハーバード大学卒。先に来日していた動物学者エドワード・シルヴェスター・モースの紹介で1878年(明治11年、当時25歳)に来日し、東京大学で政治学、哲学、理財学(経済学)などを講じた。フェノロサの講義を受けた者には井上哲次郎、高田早苗、坪内逍遥らがいる。

以上のようにフェノロサの専門は政治学や哲学であり、美術が専門ではなかったが、来日前にはボストン美術館付属の美術学校で油絵とデッサンを学んだことがあり、美術への関心はもっていた。来日後は日本美術に深い関心を寄せ、助手の岡倉天心とともに古寺の美術品を訪ね、天心とともに東京美術学校の設立に尽力した。

フェノロサが美術に公式に関わるのは1882年(明治15年)のことで、同年の第1回内国絵画共進会で審査官を務めた。同年には狩野芳崖の作品に注目し、2人は以後親交を結ぶことになる[1]。芳崖の遺作であり代表作でもある『悲母観音』(東京藝術大学蔵)は、フェノロサの指導で、唐代仏画のモチーフに近代様式を加味して制作したものである。フェノロサは狩野派絵画に心酔し、狩野永悳(えいとく)という当時の狩野派の画家に師事して、「狩野永探」という画名を名乗ることを許されている。同じ1882年には龍池会(財団法人日本美術協会の前身)にて「美術真説」という講演を行い、日本画と洋画の特色を比較して、日本画の優秀性を説いた。

フェノロサは当時の日本の美術行政、文化財保護行政にも深く関わった。1884年には文部省図画調査会委員に任命され、同年には岡倉天心らに同行して近畿地方の古社寺宝物調査を行っている。法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を開扉したエピソードはこの時のものである。それ以前、1880年と1882年にも京都・奈良の古社寺を訪問したことが記録からわかっている。

1890年に帰国し、ボストン美術館東洋部長として、日本美術の紹介を行った。その後、1896年、1898年、1901年にも来日した。1908年、ロンドン滞在中に逝去。

生前、仏教に帰依している。1896年には滋賀県大津市の園城寺(三井寺)で受戒した。その縁で同寺塔頭の法明院(滋賀県大津市園城寺町246)に葬られている。

評価
廃仏毀釈を経て、また西洋文化崇拝の時代風潮の中で見捨てられていた日本美術を高く評価し、研究を進め、広く紹介した点は日本美術にとっての恩人ともいえ、高く評価されている。フェノロサが参加した古社寺の宝物調査は、文化財保護法の前身である古社寺保存法の制定(1897年)への道を開いたものであり、東京藝術大学の前身の1つである東京美術学校の開校にも関わるなど、明治時代における日本の美術研究、美術教育、伝統美術の振興、文化財保護行政などにフェノロサの果たした役割は大きい。また「国宝」(National treasures)の概念は彼が考えた。

一方、『平治物語絵巻』、尾形光琳筆『松島図』(ともにボストン美術館所蔵)など国宝級の美術品を海外に流出させたとして批判を受けることも多い。これについては、当時の日本人がゴミ同然に扱っていたものを保存するためだったという意見もある。

なお、奈良県にある薬師寺の東塔を「凍れる音楽」と評したとも言われるが、「建築は凍れる音楽」というフレーズ自体は、もっと以前からドイツなどで使われていたものであり、薬師寺東塔を評して「凍れる音楽」と評したのはフェノロサではないという説もある[2]。

脚注
^ フェノロサが芳崖の作品を見出した年については従来「1884年」とされていたが、フェノロサ研究の進展により「1882年」に訂正されている。参考文献の高梨、1990、p224を参照。
^ この件については、以下の文献を参照。
町田甲一『大和古寺巡歴』、講談社学術文庫、1989、pp140 ? 144

関連人物
岡倉天心
狩野芳崖

邦訳著作 
森東吾訳 『東洋美術史綱』上・下  、東京美術 1978年 1981年
原書「Epochs of Chinese and Japanese art」 ICGミューズ出版 2000年
山口静一編訳 『フェノロサ美術論集』 中央公論美術出版 、1988年 OD(オンデマンド)版、2004年 
山口静一編訳 『フェノロサ社会論集』 思文閣出版 、2000年
高嶋良二訳 『浮世絵史概説 フェノロサ厳選20木版画による浮世絵史観 』、新生出版 2008年
村形明子編著 『アーネスト・F・フェノロサ文書集成 翻刻・翻訳と研究』上・下  京都大学学術出版会  2000年、2001年
村形明子編訳 『アーネスト・F・フェノロサ資料』全3巻  ミュージアム出版・文部省研究成果刊行図書 1982、84年、87年
村形明子編訳 『フェノロサ夫人の日本日記 一八九六年』ミネルヴァ書房、2008年

関連文献
出典を羅列するのではなく、
脚注などを用いて記述と出典を対応させてください。
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保坂清『フェノロサ 「日本美術の恩人」の影の部分』、河出書房新社 1989年
高田美一『フェノロサ遺稿とエズラ・パウンド』、近代文芸社 1995年
山口静一『フェノロサ  日本文化の宣揚に捧げた一生』全2冊 三省堂  1982年
久富貢『アーネスト・フランシスコ・フェノロサ  東洋美術との出会い』中央公論美術出版 1980年
高階秀爾『日本近代美術史論』、講談社学術文庫、1990 ちくま学芸文庫 2006
佐藤道信「フェノロサの古社寺調査と古美術保護」『月刊文化財』411号、第一法規、1997
久我なつみ『フェノロサと魔女の町』河出書房新社, 1999年
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%83%AD%E3%82%B5" より作成

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2月18日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8818%E6%97%A5

できごと
紀元前660年(神武天皇元年1月1日) -
紀記紀神話によれば、初代神武天皇が即位して日本が建国された日
(ユリウス暦換算で同年2月18日、グレゴリオ暦換算で同年2月11日)とされる。

1772年(安永7年1月15日) - 田沼意次が老中に就任する。

1874年 - 佐賀の乱で江藤新平らが佐賀県庁を占領

1908年 - 米国移民に関する日米紳士協定締結

1930年 - アメリカのクライド・トンボーが冥王星を発見。

1932年 - 日本が満洲国独立を宣言。

1935年 - 貴族院で菊池武夫陸軍中将が
美濃部達吉の「天皇機関説」を反国体的と非難。

1938年 - 石川達三著の南京従軍記『生きてゐる兵隊』
を掲載した雑誌『中央公論』3月号が発禁処分。
石川と編輯者雨宮庸蔵・発行人牧野武夫を検挙。

1943年 - ナチスによって「白いバラ」運動のメンバーが逮捕される。

1943年 - ゲッベルス独宣伝相がベルリンのスポルトパラストで行った演説で総力戦を宣言。

1950年 - 第1回さっぽろ雪まつり開会

1952年 - 陣屋事件。将棋の王将戦で升田幸三が木村義雄との対局を拒否。

1960年 - 第8回冬季オリンピック、スコーバレー大会開催。2月28日まで。

1965年 - アフリカ西部のガンビアがイギリスから独立。

1969年 - 機動隊導入により日大の全学封鎖を解除。

1975年 - 世界でも活躍した
歌手の「ザ・ピーナッツ」がこの日、16年間の歌手生活からの引退を表明する。

1978年 - 東京で「嫌煙権確立をめざす人びとの会」結成。

1978年 - 米海兵隊員らの発案により世界初のトライアスロン開催。

1988年 - 東海交通事業設立

2000年 - マイクロソフトがWindows 2000を発売。

2003年 - 韓国・大邱地下鉄放火事件。死者は192名、重軽傷者148名。

2006年 - 福島県立大野病院産科医逮捕事件

2007年 - 東京マラソン2007 開催。

2008年 - トヨタ自動車が
13代目クラウン(ロイヤルシリーズ、アスリートシリーズ)を発売。

誕生日
1516年 - メアリー1世、イングランド女王(+ 1558年)

1530年(享禄3年1月21日)- 上杉謙信、越後国の戦国大名(+ 1578年)

1745年 - アレッサンドロ・ボルタ、科学者(+ 1827年)

1836年 - シュリ・ラーマクリシュナ、宗教家(+ 1886年)

1838年 - エルンスト・マッハ、物理学者(+ 1916年)

1844年(天保15年1月1日) - 斎藤一、新選組隊士(+ 1914年)

1848年 - ルイス・カムフォート・ティファニー、
宝飾デザイナー・ガラス工芸家(+ 1933年)

1853年 - アーネスト・フェノロサ、東洋美術史家(+ 1908年)

1866年 - 中川小十郎、貴族院議員・立命館大学創設者(+ 1944年)

1878年 - 男嶌舟藏、大相撲力士(+ 1943年)

1896年 - アンドレ・ブルトン、詩人(+ 1966年)

1898年 - エンツォ・フェラーリ、フェラーリ創設者(+ 1988年)

1911年 - 加東大介、俳優(+ 1975年)

1924年 - 越路吹雪、女優、歌手(+ 1980年)

1925年 - ジョー・ルーツ、元メジャーリーガー、プロ野球監督(+ 2008年)

1929年 - 田沼武能、写真家

1929年 - 福島正実、編集者、SF作家(+ 1976年)

1930年 - 中村梅之助 (4代目)、歌舞伎俳優

1933年 - オノ・ヨーコ、芸術家

1934年 - 日野市朗、政治家、元郵政大臣(+ 2003年)

1938年 - 佐田の山晋松、大相撲第50代横綱、第7代日本相撲協会理事長

1939年 - 菅原貞敬、バレーボール選手

1940年 - 中村敦夫、俳優・元参議院議員、元みどりの会議代表

1940年 - チャールズ・ジェンキンス、元アメリカ軍人

1941年 - 瀧口政満、彫刻家

1942年 - 江刺昭子、ノンフィクション作家、フェミニスト

1947年 - 奥村チヨ、歌手

1948年 - 鈴木康博、元オフコース

1948年 - 山本一力、作家

1948年 - もりたじゅん、漫画家

1949年 - 吉川なよ子、プロゴルファー

1950年 - 塩谷立、自民党衆議院議員

1951年 - 陳水扁、第11代中華民国総統

1954年 - ジョン・トラボルタ、俳優

1958年 - 松原千明、女優

1960年 - ガゼボ (歌手)
1961年 - 影山ヒロノブ、歌手
1961年 - 宮川彬良、作曲家
1962年 - 佐野浩敏、アニメーター、イラストレーター
1963年 - 吉野秀、編集者・経営コンサルタント
1965年 - 斎藤雅樹、元プロ野球選手・野球解説者
1965年 - 馳星周、作家
1965年 - Dr.Dre、ラッパー
1965年 - ディリアナ・ゲオルギエバ、元新体操選手
1965年 - おーなり由子、絵本作家・漫画家
1967年 - ロベルト・バッジョ、サッカー選手
1970年 - 枝川親方、元幕内蒼樹山
1970年 - 岩男潤子、声優
1971年 - 皇司信秀、大相撲力士
1971年 - トーマス・ビヨーン、ゴルファー
1973年 - クロード・マケレレ、サッカー選手
1974年 - エフゲニー・カフェルニコフ、テニス選手
1974年 - 浅野るり、声優
1975年 - 駒村多恵、リポーター
1975年 - 中村一義、ミュージシャン
1978年 - 水嶋洋子、タレント・元ワンギャル
1979年 - 高島彩、フジテレビアナウンサー
1979年 - Ruiza、ミュージシャン(D)
1980年 - 美元智衣、歌手
1981年 - 池谷和志、お笑い芸人(ジョイマン)
1981年 - アンドレイ・キリレンコ、バスケットボール選手
1981年 - アレックス・リオス、メジャーリーガー
1981年 - DEAN、ファッションモデル
1981年 - 矢口哲朗、元プロ野球選手
1982年 - 中鉢明子、タレント
1986年 - 安藤サクラ、女優
1988年 - チャンミン(マックス)、歌手・東方神起
1988年 - 立石沙千加、歌手
1989年 - 河野安優美、女優
1989年 - 妹川華、ファッションモデル、タレント
1990年 - 高山紗希、タレント
1991年 - 有馬優茄、AKB48
1993年 - 小幡紗弥、女優、モデル
1995年 - グラスワンダー、種牡馬・元競走馬
生年不詳 - 中島沙帆子、4コマ漫画家

忌日
901年 - サービト・イブン=クッラ、天文学者・数学者(* 826年)

1139年 - ヤロポルク2世、キエフ大公(* 1082年)

1173年(承安3年1月5日)- 藤原光頼、平安時代の公卿(* 1124年)

1221年 - ディートリヒ、マイセン辺境伯(* 1162年)

1294年 - クビライ、モンゴルハーン(* 1215年)

1405年 - ティムール、ティムール朝創始者(* 1336年)

1455年 - フラ・アンジェリコ、画家(* 1387年)

1478年 - クラレンス公ジョージ、クラレンス公(* 1449年)

1546年 - マルティン・ルター、キリスト教宗教改革者(* 1483年)

1564年 - ミケランジェロ、彫刻家・画家(* 1475年)

1582年(天正10年1月16日) - 佐久間信盛、戦国武将・織田家重臣(* 1528年)

1590年(天正18年1月14日)- 朝日姫、豊臣秀吉の妹・徳川家康の正室(* 1543年)

1673年(寛文13年1月2日)- 浅野綱晟、第3代広島藩主(* 1637年)

1708年(宝永5年1月27日)- 田村建顕、一関藩主(* 1656年)

1712年 - ルイ、ブルゴーニュ公・フランス王太子(* 1682年)

1743年 - アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ、
メディチ家直系最後の人物(* 1667年)

1831年(天保2年1月6日)- 良寛、曹洞宗の僧侶、歌人(* 1758年)

1834年 - ウィリアム・ワート、第9代アメリカ合衆国司法長官(* 1772年)

1848年 - ヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニ、植物学者(* 1797年)

1851年 - カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビ、数学者(* 1804年)

1856年 - ヴィルヘルム・フォン・ビーラ、天文学者(* 1782年)

1878年 - ジョン・タンストール、
リンカーン郡戦争のきっかけとなった牧場経営者(* 1853年)

1887年 - 中山みき、宗教家・天理教教祖(* 1798年)

1891年 - 三条実美、幕末の公卿・明治維新の元勲(*1837年)

1897年 - ウィリアム・ウォレス、思想家(* 1843年)

1899年 - ソフス・リー、数学者(* 1842年)

1901年 - 早矢仕有的、実業家・丸善創業者(* 1837年)

1902年 - アルバート・ビアスタット、画家(* 1830年)

1903年 - 尾上菊五郎 (5代目)、歌舞伎役者(* 1844年)

1905年 - フレデリック・イーストレイク、教育者(* 1856年)

1909年 - 橋本綱常、日本陸軍の軍医(* 1845年)

1919年 - 山川捨松、大山巌の妻(* 1860年)

1931年 - 山下源太郎、日本海軍の軍令部長(* 1863年)

1932年 - フリードリヒ・アウグスト3世、第7代ザクセン王(* 1865年)

1933年 - ジェームス・J・コーベット、プロボクサー(* 1866年)

1937年 - グリゴリー・オルジョニキーゼ、ソビエト連邦共産党政治局員(* 1886年)

1939年 - 岡本かの子、小説家(* 1889年)

1941年 - 徳川達孝、大正天皇の侍従長(* 1865年)

1945年 - 建部遯吾、社会学者(* 1871年)

1947年 - ヨアヒム・エルンスト、アンハルト公(* 1901年)

1952年 - 本山白雲、彫刻家(* 1871年)

1956年 - ギュスターヴ・シャルパンティエ、作曲家(* 1860年)

1957年 - ヘンリー・ノリス・ラッセル、天文学者(* 1877年)

1959年 - エーリッヒ・ツァイスル、作曲家(* 1905年)

1960年 - ルイス・シェルドン、陸上競技選手(* 1874年)

1963年 - 徳川家正、徳川宗家第17代当主・最後の貴族院議長(* 1884年)

1965年 - 前田房之助、政治家(* 1884年)

1966年 - ロバート・ロッセン、映画監督(* 1908年)

1967年 - ロバート・オッペンハイマー、物理学者(* 1904年)

1971年 - 菅礼之助、実業家(* 1883年)

1973年 - フランク・コステロ、マフィア・コーサ・ノストラ幹部(* 1891年)

1975年 - レイモンド・モーリー、アメリカ合衆国国務次官補(* 1886年)

1981年 - 藤本定義、元プロ野球監督(* 1904年)

1983年 - 和田夏十、脚本家(* 1920年)

1984年 - 平泉澄、歴史学者(* 1895年)

1986年 - ヴァーツラフ・スメターチェク、指揮者(* 1906年)

1992年 - シルヴァン・アラン、天文学者(* 1902年)

1993年 - 鈴木清、小説家(* 1907年)

1993年 - ケリー・フォン・エリック、プロレスラー(* 1960年)

1997年 - 岩井章、労働運動家(* 1922年)

1998年 - 河原崎権十郎 (3代目)、歌舞伎役者(* 1918年)

1998年 - 福田豊土、俳優(* 1934年)

2001年 - バルテュス、画家(* 1908年)

2001年 - エディ・マシューズ、本メジャーリーガー(* 1931年)

2001年 - 宮崎仁郎、元プロ野球選手(* 1920年)

2003年 - 木村べん、イラストレーター(* 1947年)

2004年 - ジャン・ルーシュ、映画監督(* 1917年)

2007年 - 松田清、元プロ野球選手(* 1930年)

記念日・年中行事

雨水(日本、2005年)
二十四節気の1つ。太陽の黄経が330度の時で、雪が溶け始めるころに当たる。 

エアメールの日

嫌煙運動の日

冥王星の日