東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年2月26日(木曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年2月26日(木曜日)

★★★
「新年」になり。
もう。
「1月」がもうとうにおわり。
最後の「冬月」「2月」になりました。
「26日目」です。

そして。

あと「2日」で本物の「春」。
「春」の「3月」
が「やってきます」。

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

「春」になれば。

今年ももうすぐに春がきて。
「春」はふうせんのように
ひろがる季節。

ひなまつりがおわり。

たんぽぽが咲き。すみれが咲き。
おたまじゃくしが泳ぎ。
「春」は「川の水音」が「ながれ」
としてきこえるようになります。

春分の日もすぎれば。
「さくら咲き」
「4月」が終われば。
「5月」になり。
「5月」もおわれば。
6月に。「夏」になり。
6月も終われば。
7月 たなばた。
7月 もおわれば。
せみのなく8月。
8月の夏はすぎれば。
9月の秋になり秋の虫が鳴く。
そして9月がおわり。
中秋10月なり紅葉の季節。
そして10月がおわり。
「11月」になり。
晩秋「11月」もおわり12月の「冬」。
「12月」になればまた「年」があけ。
また「初春」がくる。

「はつはる」の「3月」は間近です。
「晩冬」の冬はおわりました。

「雪国の冬」はおわりました。

「12月」の冬至を。
すぎて「陽」はもうすでに
日々たかくなりつつあります。

「春」がきてそして「夏」に向かう。

「春」です。

「昨年」12月の冬至は

おわりました。

陽は日々たかくなっているのです。

朝陽ののぼるのが早くなりました。

夕陽がおりるのは遅くなりました。

まことに。

冬来たりなば春遠からじ。

ふゆきたりなば

はるとおからじ

(出 典は。

 イギリスの詩人シェリーの

『西風に寄せる歌』の一節。

英 語の原文: 

If winter comes,

can spring be far behind? )

「秋」から「冬」への

移り変わりは

二階から「かけあし」の足音のきこえるような

「かけあし」10人分

のようでした。

「9月」の初秋がおわり。
「名月中秋10月もおわり」ました。
「11月」。

「11月」もおわりました。
「12月」もおわりました。
「新年」「初春」の「1月」もおわり。
今は
「2月」「晩冬」もおわりました。

「晩秋」から「冬」への移り変わりは
「かけあし」のようにうつろいました。

一方
「春」はゆっくりと。

ゆっくりと。

ゆっくりと。あるいてきます。

だから。

「春」をまつのであれば。

「春」がゆっくりと。

歩いてくるのをまたなければ。

なりません。

もう「春」ですね。

「冬」はかけあしでやってくる。

「春」はゆっくりと歩いてやってくる。

さきのことすぎるかもしれないが「来年」。

このように「時」のうつろいを

心はせれば。

考えると「おそろしいもの」です。

考えなければ。
「なおおおそろしい」
ものであるものかもしれない。

「考えずにいるつけ」がまわって
くるからかもしれません。

「来年」のことを考えれば「鬼」が笑う。
「来年」のことを考えずにすむのであれば「鬼」は
笑わないのでしょう。
「鬼」とはなんだろう。

今日の深夜早朝03:15amには。
久方ぶりに大きな「春」の「星空」がみえました。
早朝くらいうちは。
空に月。
「お月様」が「「冬」雲のじゅうたん」
天高くにねそべっている
ようです。
「冬」よりも「春」の「夜空」は「おぼろ月夜」です。

06:00amころ日があければ。
まだまだくらい朝日を背に。
西のコバルトの空高く明るい。
とても高い成層圏近くの高い高度に。

西のコバルトの空高に。
「刷毛」でひいたように「絹雲(けんうん)」が
何本も何本も。
描かれて。
たなびいていました。

実に見事な筆捌(ふでさばき)です。
ためらいのない「朝焼け」
「春」の「朝焼け色」の線描です。

「春」の朝。

「陽射し」ののぼるころは。

「西」の空

のほうが明るいのです。

高い成層圏近くの高い高度に。
「刷毛でひいたように」「絹雲(けんうん)」
の端には渦巻きのような「ぬけあな」があり
「さらなる遠方の青空」が透けてみえます。

さながらにして。
東山魁夷画伯の描かれた大きな壁画。
大きな屏風絵の世界。

東山魁夷画伯の描かれた大きな絵画を
彷彿とさせますです。

東山魁夷画伯。
「よくえがかけた画伯です」。

この「あおぞら」をみていると。

とても

信じられないくらいに。

元気がわいてくることに気が付きました。

「太陽」の「陽射し」。

「陽射し」の「めぐみ」はなんとありがたいことでしょう。

「そら一杯の青空の天井(てんじょう)」と
「太陽のひかりのひざし」は。
「生きとし生けるもの」にとって。

なによりもの。
まことの。
「ごほうび」です。

「太陽のひかりのひざし」は

「いのちへのめぐみ」。

ありとあらゆる「生命」「いのち」をはぐくみ。
ありとあらゆる「生命」「いのち」をたたえる。
「生きとし生けるもの」の「いのち」に。
さらなる「はるかかなた」までの。
「いきるちから」をさずけるものです。
「太陽」。
ありがたいものです。

はやいものです。
ときのたつのは。
はやいものです。

そしてふと考えれば

去年も
「12か月」が
終わりました。

中秋から晩秋にうつろい。
いまや
「寒月」の「12月」がおわり。
新年の「1月」がおわり。

「2月」がおわり。

「春」です。

病院の庭園に「何本」もある
山茶花(さざんか)や「やぶつばき」の大木が。
いずれもが紅白の花を

緑野に見え隠れする蓮華草
のように
枝にみのらせています。

「やぶつばき」は。
「はつはな」で初々しいたです。
けれども。
「やぶつばき」や山茶花(さざんか)は。
は雨に打たれると。
花は地面に紅白の毛氈(もうせん)
のように落花してしまいます。

くれない色としろ色の雪のようです。

「山茶花(さざんか)」「やぶつばき」の花の花びら。

ひろって。
手のひらにかかげれば。
「においやぶつばき」の花のかおりは。
プラチナ色の香りが
致しました。

今は。
「やぶつばき」や山茶花(さざんか)が。
蕾をふくらませています。
「やぶつばき」のはながは鐘のように。
ふくらんでいます。

山茶花(さざんか)の「はなびら」が
闇夜のあいだに。
今朝の早朝まだ「花」にもきがつかぬうちに
また地に舞い下りていました。

山茶花(さざんか)の花ひとつさいて
夜の木枯らしでちったようです。

みつめれば。
「春吹雪:はるふぶき」
に弓射られた白鷺(しらさぎ)
のはねが舞っているようでした。

この寒い「春」も。
「昆虫」の少ない時期に。
「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」
は花をさかせ
どのように授粉して「実る」のだろう。

山茶花(さざんか)の花ひとつさいて
夜の「春吹雪:はるふぶき」でちる。
「やぶつばき」も「花」はすぐに
落下する。
このあたりに。

「山茶花(さざんか)」

と「やぶつばき」

に。

「人生」の。

「解答」があるような

気が致します。

ふと野草の花は一般的には。
香らない花が多いことに気づきました。

伊藤左千夫の「野菊の墓」の「野菊」は。
矢車菊 (やぐるまぎく)
はとても綺麗なむらさきの「のぎく」です。
けれども「のぎく」は香りません。
(Corn lower, Bachelor's-button)です。

因みに
最高級の(今はもうとれない)
インド・カシミール地方で産出されたの
サフアイアの色は「矢車菊色」=
「カシミール・ヴァイオレット」。

麦畑やとうもろこし畑の中に 咲いていたことから。
「コーン・フラワー」=「野菊」(Corn lower)
です。

別名 「矢車草(やぐるまそう)」
といわれることがあります。

実は「矢車菊 (やぐるまぎく)」と
「矢車草(やぐるまそう)」まったく違う植物です。
矢車菊 (やぐるまぎく)が「野菊」。
「矢車草(やぐるまそう)」は「高山植物」。

「野菊」は春から夏にかけて咲くむらさきの花です。

古代エジプトのツタンカーメン王の墓 からも
発見された由緒正しき「野菊」。
色は紫。むらさきです。

ツタンカーメン王の。

まだ幼な子王妃が。

「亡きツタンカーメンンに野菊の花束ささげるけなげな姿」
が鮮烈に眼に浮かびます。

この「花」が。

「野菊」です。

「野菊の墓」の「野菊」。

けれども。

「野菊」は

香りません

毎朝暗い早朝と暗くなる午後4時ころには。
「春吹雪:はるふぶき」が
ふいている。

「春吹雪:はるふぶき」がかわりばんこに。
あちこちで
「ろうろう」「こうこう」とないています。

「春吹雪:はるふぶき」
の「声」を聞いていると。

ふと。
いにしえの
「寒さにおびえるひと」の気配が
脳裏をはしりました。
はてだれだろう。

うら若き乙女。
苦労に苦労をかさねて。
苦しんで苦しんだあげくに。
24歳にして世を去った
「樋口一葉」。

樋口一葉の
「うらわかき」「「冬」と「春」の短歌」がきこえるようです。

散たまるふもとの落葉わけて思ふ
埋もれぬべき雪の山里

ちりたまるふもとのおちはわけておもふ
うもれぬへきはゆきのやまさと

庭の面につもる紅葉の色見れば
散りての後もにしきなりけり

にわのおもにつもるもみしのいろみれば
ちりてのあともにしきなりけり

世の中の秋にあはじとおくれけん
一もと野ぎく思ひあがりて

よのなかにあきにあはしとおくれけん
ひともとのきくおもひあがりて

折々に散るものどけし春雨の
はれたる軒の山桜ばな

わが園のものとおもへば初わかな
はつかなれども嬉しかりけり

立ち渡る霞をみれば足引きの
山にも野にも春は来にけむ

わたつ海の波のいづこに立ち初て
果なくつゝむ春の霞ぞ

さざ波やしがの都のいにしへの
おもかげうすく立つ霞かな

鶯のけさおとづるゝ声聞て
はじめて春の心地こそすれ

うれしくもわがものにして聞てけり
このあかつきの鶯の声

のどかなるけさの雨にやはるの野の
みどりも色まさるらむ

おくれたる友の為にとしをりして
谷間の蕨折り残しけり

ちりたまるふもとのおちはわけておもふ

うもれぬへきはゆきのやまさと

にわのおもにつもるもみしのいろみれば

ちりてのあともにしきなりけり

よのなかにあきにあはしとおくれけん

ひともとのきくおもひあがりて

「24歳」の「とても貧しい乙女」の。

かなしさの「おもかげ」と。

光さし輝きはずむ。

いまだお若い「御婦人」の「知」が。

「ひしひし」とよみとれます。

「冬至」はすでにすぎました

これからは日は。
陽は次第にながくなる。
日が長くなる。
朝は明けるのは早くなり。
夕に暗くなるのは遅くなる。

しだいに陽がながくなる。
なぜか。
不思議なやさしさ。
やすらぎと。
心やすらかなる
安堵感をかんじます。

心やすらかなる
安堵感をかんじます。

けれども。
「安堵」と「落胆」は。
常に表裏一体。
両羽(もろば)の剣。

「ぬかよろこび」の「ぬか」のような
ものです。

「ながくなる陽」も両羽(もろば)の剣を
持っています。

そして。
季節には「大気の音色(ねいろ)」もあるようです。

朝空は
陽ははるかに天高く。
空色はミルク色です。
クリームのかかった雲空です。

東京都世田谷区山本クリニックの庭園には

「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。

「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。

「やぶつばき」の大木が4本と山茶花(さざんか)が4本
あります。

「初春」をつたえるがごとく。
「においつばき」の木が
「香り花」が開花致しました。

「山茶花(さざんか)」と「やぶつばき」が
蕾を大きくしています。

山茶花(さざんか)も「やぶつばき」も私は「大好き」
な花木です。

「花」はみえない頃からもう
「においつばき」
は「香っています」。
「やぶつばき」は冬にも若葉をだします。
「やぶつばき」は「荒い木」
です。
けれども「生き様」は。
樹木として
とてもとても麗しいと思います。
ある意味では威風堂々です。

「山茶花(さざんか)」は
のんびりやの気がする。

山茶花(さざんか)の「花」はさいたまま
「花がさいた」を忘れたかのように
ぼんやりと木にのっている。
いつ花が散るのだろう。
ふと考えるまえにちります。

考えれば山茶花(さざんか)の蕾が
思い出せない。
ひらけばちるからかしら。
花の咲く存在感のない植物は
「山茶花(さざんか)」です。
うすぼんやりした花木です。
水墨画の主人公にはなりえない。

この「3月」になり。
森山を分け入ると。

木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花の花のごとくに紅葉したまま
しもがれする
「やまはぜの葉木」が「大好き」です。

「やまうるしの紅葉」もかわいらしく。
「大好き」です。

身の丈以上ほどにもなって群生する。
野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
が。
病院の林の一角に野生のまま
おいしげっています。

野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
のパープルの真珠が群れたように実る
「実りの木の実」の風にそよぐ音色には。
おどろかされます。

あけびつたもうれしい。
あけびの「実」がみつかればなおなおうれしい。

またたびをみつけました。
根元にねこにかじられきずがある。

里山の冬の時期から。
そして初春の里山の季節
になりました。

四季の歩みの春夏秋冬のうつろいは
メトロノームの「あゆみ」を
感じさせます。

この「あゆみ」の「質量」は
とてもとても高いです。
質量があれば。あたかも。
重力のように。
四季のリズムにひきよせられていく。
そのような感じがします。

四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいてなお着々。
確実な「リズム」を感じます。

ここに。
「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
がくわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じです。

草花や草木につつまれた自然は。
「音楽」と同じように
ひびきとして聴こえます。

自然は
「しぜん」の
「ヴィルトオーゾ」と
「ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」
*です。

この「自然のフイルハーモニウム」の。
指揮者は。
太陽なのか大地なのか人なのか。

或は音色をかもし出す自然はオーケストラ
であるのか。
ソリストなのだろうか。

私の尊敬する「合衆国USA」の
女性で小説家(「ノーベル賞受賞者」)
「パール・サイデンストリッカー・バック
(Pearl Sydenstricker Buck)
中国名、賽珍珠(サィ・チンシュ)」
パールバックの「大地」に
その「こたえ」が示唆されています。

古代より芸術家が
自然を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判ります。

*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。

実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。

但し音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる「成分」というわけ
ではありません。

また「音楽であるため」に。
三要素が絶対必要ということ
でもないでしょう。

邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。

「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。

邦楽もその一つです。

大和の国 やまとのくにの自然は。
「大和の国の音楽」と同じように思えます。
聴こえます。

「音楽」は「音」「おと」です。
そして「しらべ」=メロディとハーモニーです。
人類が「この音楽」を「楽譜」として
「寸分たがわず」「譜面」という名の「紙」に
「かくことを完成させた」ということは
大変なことです。

人間は。
人類は。
わずか「400年」で。

「音楽の旋律」に対する「楽譜」を。
「あらたな言語」を
完全に「完成」させたことになります。

まさにミューズの神の「神業かみわざ」です。

木々のめぶきの
冬なおも。
ますます力強い息吹を感じます。

「真夏」をすぎ「冬」になると。
再び「若葉」がみられることに。
きづきました。
「ため息」がでるほど木々の「冬若葉」の
「つどい」は「つよく」「うつくしい」。
雪の上のみどり。

木々のてっぺんは萌黄色から
「ふかみどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「冬を迎えた葉束」になりました。
これからは
「深まる冬」がすぎさり「春」。
「開花」の炎が。
樹木の上方で。
「雪の到来」を.
くすぶりてまちわびてています。
たえしのぶ冬の樹木です。

「若葉」の「新緑」から「深緑」です。

高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり冬のおとずれを
伝えていました。

桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうともいえる青葉。
そして見え隠れする「紅葉葉」。
紅葉葉の10枚20枚がひとつひとつ
の樹木にみえるようになりました。
「黄色調」です。
そして今「樹木」は「葉のいろ」をかえ
「宙」に舞おうとしています。
今現在は冬。
はだか木です

明らかなる。
「冬から春」とはことなる。
「夏から秋」。
「秋から冬」
そして「冬」の「木枯らし」。

木々の四季の。
大気の「色」のうつろい
に気づきます。

今は里山(さとやま)をさまよい。
今は里山(さとやま)をあるきたい。
今は里山(さとやま)の季節。
今は昔々里山(さとやま)であそび。
今は昔々て里山(さとやま)でおぼえ。
今は昔々里山(さとやま)でまなんだ。
今は昔々のその日々の思い出は。
今は黄金(こがね)か。あるいは。
今は銀か。いぶし銀か。
今はもしかしたらプラチナか。
今は思い出色は鉛のように。
今は重さは鉛のようになり。
今は心の奥深くに埋もれて感じられます。

「幸せ色」=「しあわせいろ」

ならばよいです。

けれども
早朝は非常にあたたかくなりました。

春やま中さまよいて
春やま中をわけいらば
春やま中大樹の根元に隠れたり
春やま中あけぼの色のちひさき炎(ほのほ)
春やま中みつけたりやまの秋の華。
春やま中やまの秋葉木のかくれんぼ
春やま中大樹の根元に隠れたり
春山はぜの葉木。
春やま中やまうるしの葉木。
春やま中あきやまはぜとふるやまうるし。
春こす「はだか木」。
春こす元気な木。たくましき木。

春山萩(やまはぎ)の
春花をかくして燃えたたむ
春に実りの祭りなり
春山はぜの葉炎
春天高く燃ゆ

はるやまはぎの
はるはなをかくしてもえたたむ
はるにみのりのまつりなり
はるやまはせのほのほ
はるてんたかくもゆ

はるひろくなりけり空(そら)たかし
はるさとやまに木々のみどり木
はるこもれびうけて燃えるがごとし
はるみどりの炎(ほのほ)
はるほのほうちけさむかすみはあおし
はるほのほにかすみにただよひて
はるうるわしくかがやきたり
はるあたたかくかおりたり
はるあざやかなりけり 
はるやまさとのやまみどり
はるやまさとのふかみどり

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。

多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。

「大きな夏みつけた」
から
「夏がすぎてて真秋間近い」

「小さな秋みつけた・。」

そして
「小さな冬みつけた」
そして
「大きな冬みつけた」。

「小さい春」がみつかって。

「春」になりました。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

+++++++++++++++++++++

平成21年01月12日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年2月11日(水曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年3月20日(金曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらず
インフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は。

7歳のとき。
まだ楽譜が読めるようになっていなかった
にもかかわらず。
モーツァルトの幻想曲と自作のマズルカを録音して。
エミール・ギレリスをして
「音楽界の神童」と称せしめたロシアのピアニスト。

12歳のときの『ラ・カンパネラ』の演奏で。
ラジオ放送を通じて
イギリスの聴衆に驚愕のあまり
あまねく知られるようになったピアニスト。

オペラのベルカント歌唱を研究。
ロングペダルによるレガート奏法を
うみだしたピアニスト。

日本文学の『源氏物語』を愛読した
天才ピアニスト。

1930年 - ラザール・ベルマン、ピアニスト(+ 2005年)
の生誕日です。

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ラザール・ベルマン
(ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рман
ラーザリ・ナウーマヴィチュ・ビェールマン,
ラテン文字の転写例:Lazar' Naumovič Berman,
1930年2月26日 レニングラード - 2005年2月6日 フィレンツェ)

は旧ソ連出身のロシア人ピアニストです。

日本では慣習的になぜか
「ラザール」と表記されています。

けれどもロシア語の発音では
「ラーザリ」のはずです。

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ラザール・ベルマン
(ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рман
は。

レニングラード(現サンクトペテルブルク)生まれました。
両親はユダヤ人であった。
母アンナはレニングラード音楽院
(現サンクトペテルブルク音楽院)出身でした。

聴覚障害により引退するまで。
自らもピアニストとして立っていました。

その母親の手ほどきでピアノを始め、
3歳で初めてコンクールに参加し。
4歳で最初の演奏会を行いました。

7歳のとき。
まだ楽譜が読めるように
なっていなかったにもかかわらず。

モーツァルトの幻想曲と
自作のマズルカを録音致しました。
エミール・ギレリスをして「音楽界の神童」
と称せしめました。

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ラザール・ベルマン
(ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рман
は。

9歳になると家族に連れられモスクワに移りました。

モスクワ音楽院でアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルに
師事するかたわら。

スヴャトスラフ・リヒテルや
ヴラディーミル・ソフロニツキー、
マリヤ・ユーディナからも指導を受けました。

10歳でモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団と共演して
モーツァルトのピアノ協奏曲第25番を演奏し。
公式デビューを果たしました。

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ラザール・ベルマン
(ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рман
は。

1941年に第二次世界大戦の勃発により。

ヴォルガ川河畔のクーイブィシェフへ疎開を余儀なくされました。

生活状況の悪化から
母親は息子の指をかばい。
がかじかむことのないように。
自分の手袋の指を切って
息子に(手袋の指を)与えなければならないほどでした。

間もなく国際的な桧舞台に少しずつ進出し。

12歳のときの『ラ・カンパネラ』の演奏は。
ジオ放送を通じてイギリスの聴衆にも知られる
ようになりました。

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ラザール・ベルマン
(ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рманの
初期の活動。

1951年のベルリン国際青少年音楽祭と
1956年のブダペスト国際音楽コンクールにおいて優勝致しました。

1956年にはウラジミール・アシュケナージ
とともにベルギーのエリザベート王妃国際音楽コンクールに参加し
5位に入賞しています。

958年にはロンドンで演奏会を行いサガ・レーベルに録音を残しまし
た。

音楽院卒業とともに。

国内と東欧諸国において。

精力的な演奏活動に入りました。

とりわけハンガリーでは「フランツ・リストの再来」
として絶賛されました。

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ラザール・ベルマン
(ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рман
は。
1961年に、同じくピアニストである
ヴァレンティナ夫人と結婚致しました。

二人の一粒種のパヴェルは
ヴァイオリニストとして活動しています。

ベルマンは後の1992年5月にプラハの春音楽祭に
息子と共に出演し。
スメタナ・ホールにて
ブラームスのピアノ協奏曲第1番を弾き。
息子のパヴェルも同ヴァイオリン協奏曲を演奏。

スプラフォン・レーベルより2枚組のCDを発売しています。

1960年代になると演奏活動が下火になります。

やがて沈黙を続ける幻の演奏家と見なされるようになったが、
それには後述のような事情が絡んでいました。

またベルマンはこの当時の10年間にピアニズムを研鑽し。

オペラのベルカント歌唱を研究。
ロングペダルによるレガート奏法を体得するのに
費やしました。

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ラザール・ベルマン
(ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рман
は。

西側諸国でもソ連のメロディア・レーベルの録音に
親しんでいるような好楽家や。
ソ連旅行をしたことのある人の間では。
ベルマンの名はすでに「驚愕的」として
知られていました。

それでもベルマンが
1975年にアメリカ合衆国に演奏旅行を行うまでは。

概してその名が
「鉄のカーテン」の外で有名であったとは言い難いのです。

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ラザール・ベルマン:
ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рман
の。

ニューヨーク・デビューでは
リストの『超絶技巧練習曲』を演奏して
電撃的な大評判を捲き起こしました。
(アメリカ・デビューはマイアミ大学のスポーツ・アリーナ)。

「ニューヨーク・タイムズ」誌は。

「ベルマンの目もくらむようなテクニックは、
ホロヴィッツだけがライヴァルになることができるもの」
と絶賛しています。

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ラザール・ベルマン:
ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рман
は。

それまでにすでにソ連では概ね演奏活動を制約され。

「古びてがたがたのピアノ」
(象牙の鍵盤のいくつかは剥がれ落ち、
透かし彫りの譜面台を照らす照明はロウソクだった)
で演奏しながら。

なお様々な聴衆の関心を集めていました。

外国からの演奏旅行の招請は。
ソ連の官立音楽代理店であるゴスコンツェルトによって
無視され続けました。

ベルマンは2室からなるモスクワの狭いアパートに住み。
そのうち1室はグランド・ピアノに占領されていました。

後年、ベルマンは。
「ピアノを離れて散歩に行くとか、
映画を見に行くとかという気持ちにはまったくなれない」
と語っており。
ピアノに一身をささげていました。

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ラザール・ベルマン:
ロシア語: Ла́зар
ь Нау́мович Бе́рман
は。
だが1975年の米国デビューの後に。
ベルマンは大いに引く手あまたとなりました。

ドイツ・グラモフォンやEMI、CBSらが奪い合うようにし
て録音に起用致しました。

ベルマンはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を。
ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮で録音しただけでなく。

1976年には「国際連合の日」を記念して。
アンタル・ドラティの指揮で
国際的なテレビ放映に出演した際にも演奏致しました。

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ラザール・ベルマン:
ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рман
は。

1977年には初来日致しました。

やはりクラシック・ファンの注目を浴びました。
この時、北海道の札幌で行われた演奏会の模様が
東京FMでラジオ放送(TDKオリジナル・コンサート)されました。

ベルマンの強い意向により。
その音源はビクターより
『サッポロ・リサイタル』として発売されました。

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ラザール・ベルマン:
ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рман
は。
ベルマンの語るところによれば
日本文学の『源氏物語』を愛読
致しておりました。

イギリスでの
演奏活動は1970年代後半から1980年代初頭に行われました。

1976年12月に、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールに出演して
プロコフィエフとリストを演奏致しました。

1978年にはクラウス・テンシュテット指揮ロンドン交響楽団と共演して。
リストのピアノ協奏曲第2番を演奏致しました。

1984年にはプロムスに出演し
ジョン・プリッチャードの指揮で
チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を披露致しました。

1970年代後半に。
クラウディオ・アバド指揮ロンドン交響楽団の指揮により。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を録音しています。

またハチャトゥリアンのピアノ協奏曲を
作曲者自身の指揮で録音される計画もあったが。
作曲者の死去により水泡に帰しました。

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ラザール・ベルマン:
ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рман
の。
ソ連当局との軋轢と出国。

ソ連当局はその頃になってさえ。
断続的にベルマンの演奏旅行を縛ろうと致しました。
1980年にランダフ音楽祭への出演はキャンセルされることになりました。
西側での演奏旅行が済むと。
KGBの監視役がベルマンの旅行カバンから。
ソ連邦でご法度のアメリカの文芸作品を押収したのです。

結果として、ソ連当局によってベルマンは
要注意人物に名指しされその活動は禁じられました。
ベルマンがユダヤ系であるために事態はこじれるばかりであった
(ソ連においてユダヤ人は反体制派の烙印を押され、
国外逃亡を行う輩と見なされていた)。

上記の理由によりベルマンは。
グラモフォンへ1980年にラフマニノフの前奏曲集と
『コレッリの主題による変奏曲』を録音したのを最後に。
西側のメジャー・レーベルから姿を消しています。

1986年にテミルカーノフ/ベルリン放送響と
チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の原典版を世界初録音しています。

しかしながら。
ソ連邦の存続が危うくなりこのような妨害活動の回数が下がると。
ベルマンはついにロシアを去って
1990年にイタリア入り(イタリアでの彼の評価は高く、
人気をミケランジェリと二分していた)し。
1995年にフィレンツェに定住致しました。

イタリア移住に前後して
ファツィオリ社のピアノを愛用するようになりました。

1988年に再来日した際にもこの名器を用いて演奏を行ないました。
おそらく日本で公的な演奏に
同社のピアノを用いたのは、ベルマンが初めてであろう。
亡くなるまでマスタークラスを主宰し日本人では
根岸弥生や大井浩明がベルマンの薫陶を受けています。
没後にドイツとロシアで回想録が出版されています。

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ラザール・ベルマン:
ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рман
の。
演奏様式
「私は19世紀の人間であり、ヴィルトゥオーソと
呼ばれるタイプの演奏家に属している」と自認していたように、
鮮やかな超絶技巧と芝居っ気たっぷりの演奏、
濃やかな情緒表現と強靭なタッチが特徴的で、
一夜で3つのピアノ協奏曲とソナタ1曲を弾き切ったこともある。

スクリャービンやプロコフィエフを除いて
近現代の音楽の演奏にはさほど興味を示さず、
いきおい19世紀のロマン派音楽がレパートリーを占めた。

リスト作品、とりわけ『超絶技巧練習曲』の
比類ない解釈ゆえに定評があり、
1977年にはハンガリーよりフランツ・リスト賞を授与されています。

19世紀のたいていの作曲家のピアノ曲をレパートリーにしていたが、
ショパン作品だけはなかなか弾こうとしなかった。
「もちろん以前は弾いたのだが、
何年間もワルシャワの
ショパン国際ピアノコンクールに参加したけれども
入選しなかったんだ。

自尊心がひどく傷つけられてね、
それからは二度とショパンを弾かないって誓ったのさ」と語っている。

ただし1970年代には、ドイツ・グラモフォンに
ポロネーズ集の録音を残しており、
また当時の演奏会の映像にも
ショパン作品の演奏を認めることができます。

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ラザール・ベルマン;
ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рман
は。
ソフロニツキーの薫陶を受けたにもかかわらず。

イン・テンポで粛々と演奏を進め。

アゴーギクをほとんど崩さないのも特徴的でした。

この点では現代的な感覚も偲ばれるが
ラフマニノフや恩師ゴリデンヴェイゼルの録音にも
同様の趣味や傾向が見受けられるため。

ベルマンの演奏様式は
ゴリデンヴェイゼルから19世紀の伝統を受け継ぎつつ。
独自にそれを発展させたものと見られます。

ベルマンは楽譜に示されたペダルの長さを厳格に守る傾向もあり、
そのため現代のグランドピアノで演奏すると、
ペダルが長く。
響きが豊かになりすぎると批判されることもあったようです。

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ラザール・ベルマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3

ラザール・ベルマン(ロシア語: Ла́зарь Нау́мович Бе́рман ラーザリ・ナウーマヴィチュ・ビェールマン, ラテン文字の転写例:Lazar' Naumovič Berman, 1930年2月26日 レニングラード - 2005年2月6日 フィレンツェ)は旧ソ連出身のロシア人ピアニスト。日本では慣習的に「ラザール」と表記されているが、ロシア語の発音では「ラーザリ」が近い。

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++

2月26日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8826%E6%97%A5

できごと
745年(天平17年1月21日) - 行基が大僧正になる。

1634年(寛永11年1月29日) - 江戸幕府が大名火消を設置する。

1714年(正徳4年1月12日) - 絵島生島事件が始まる。
江戸城大奥の絵島が生島新五郎と密会する。

1815年 - ナポレオンがエルバ島を脱出。

1914年 - パナマ運河が開通。

1936年 - 二・二六事件、内大臣齋藤實・大蔵大臣高橋是清ら殺害される。

1986年 - テレビアニメ「ドラゴンボール」放送開始。

1989年 - オフコースが同日のライブ公演を以って解散

1993年 - ニューヨーク世界貿易センタービル爆破事件

2003年 - 飛鳥時代の迎賓館跡とされる奈良県明日香村の石神遺跡から、
元嘉暦に基づく具注暦を記した木簡が発見される。

誕生日
1799年 - ベノワ・クラペイロン、物理学者(+ 1864年)

1802年 - ヴィクトル・ユーゴー、詩人(+ 1885年)

1808年 - オノレ・ドーミエ、画家(+ 1879年)

1829年 - リーバイ・ストラウス、リーバイス創設者(+ 1902年)

1846年 - バッファロー・ビル、ガンマン(+ 1917年)

1852年 - ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ、
菜食主義者・ケロッグ社共同創設者(+ 1943年)

1873年 - 与謝野鉄幹、歌人(+ 1935年)

1873年 - 河東碧梧桐、俳人(+ 1937年)

1882年 - ハズバンド・キンメル、アメリカ合衆国海軍軍人(+ 1968年)

1896年 - アンドレイ・ジダーノフ、スターリンの
側近として知られたソ連の政治家(+ 1948年)

1899年 - 島田清次郎、小説家(+ 1930年)

1904年 - 小渕光平、政治家(+ 1958年)

1908年 - テックス・アヴェリー、アニメーター(+ 1980年)

1911年 - 岡本太郎、芸術家(+ 1996年)

1913年 - 本田実、アマチュア天文家(+ 1990年)

1918年 - シオドア・スタージョン、SF作家(+ 1985年)

1920年 - 川内康範、作詞家・脚本家・作家

1922年 - ウィリアム・ボーモル、経済学者

1924年 - 竹下登、第74代内閣総理大臣(+ 2000年)

1925年 - 高木均、俳優・声優(+ 2004年)

1928年 - 上田哲、元衆議院議員

1929年 - 五社英雄、映画監督(+ 1992年)

1930年 - ラザール・ベルマン、ピアニスト(+ 2005年)

1930年 - 日高敏隆、動物行動学者

1931年 - 岡本伊三美、元プロ野球選手・監督

1933年 - 渡辺省三、元プロ野球選手(+ 1998年)

1935年 - 早瀬日如、僧侶

1936年 - 山花貞夫、政治家(+ 1999年)

1937年 - マーク・ルーイン、プロレスラー

1938年 - 愛新覚羅慧生、清朝最後の皇帝溥儀の姪(+ 1957年)

1938年 - 梶本靖郎、元プロ野球選手

1942年 - 山下洋輔、ミュージシャン

1944年 - 津嘉山正種、俳優・声優

1947年 - 藤田訓弘、元プロ野球選手

1948年 - 門田博光、元プロ野球選手、野球評論家
1948年 - 土田よしこ、漫画家
1948年 - 河村健一郎、元プロ野球選手
1949年 - 海江田万里、元衆議院議員
1952年 - 池原しげと、漫画家
1953年 - マイケル・ボルトン、歌手
1955年 - 武上純希、脚本家
1956年 - 桑田佳祐、歌手、サザンオールスターズ
1957年 - 鈴木淑子、競馬ジャーナリスト
1958年 - 森英治、ミュージシャン、作曲家。
1958年 - 宇佐美毅、国文学者
1961年 - 増田隆宣、キーボーディスト、B'zのサポートメンバー
1964年 - 廣田浩章、元プロ野球選手
1966年 - 秋村謙宏、元プロ野球選手
1967年 - 初芝清、元プロ野球選手
1967年 - 西川慎一、元プロ野球選手
1967年 - 三浦知良、サッカー選手(横浜FC)
1967年 - 吉田伸男、フジテレビアナウンサー
1969年 - 王丹、中国民主化運動活動家
1969年 - 崎元仁、作曲家
1971年 - マックス・マーティン、音楽プロデューサー
1971年 - 原田政彦、元プロ野球選手
1972年 - 遠藤一馬、ミュージシャン
1973年 - マーシャル・フォーク、アメリカンフットボール
1973年 - ジェニー・トンプソン、競泳選手
1974年 - 栃乃洋泰一、大相撲力士
1974年 - ハウス加賀谷、タレント元 松本ハウス
1974年 - 山崎樹範、声優、俳優
1974年 - セバスティアン・ローブ、WRCドライバー
1974年 - 若林隆信、元プロ野球選手
1975年 - 草野康太、俳優
1975年 - 田原晃司、元プロ野球選手
1977年 - Rio、歌手
1977年 - Lina(松田律子)、歌手・MAXメンバー
1979年 - センコウ、MC(ET-KING)
1980年 - 石井里佳、歌手
1981年 - 景夕、歌手・Kraメンバー
1984年 - 小林高也、プロ野球選手(中日ドラゴンズ)
1984年 - 出羽良彰、ミュージシャン・樹海メンバー
1985年 - 藤本美貴、歌手・元モーニング娘。メンバー
1985年 - 加賀美早紀、女優
1986年 - 小沢加奈子、タレント
1986年 - クリスタル・ケイ、歌手
1986年 - 有村実樹、モデル
1987年 - ジュリア・ボンド、ポルノ女優
1988年 - キム・ヨンギョン、バレーボール選手
1988年 - 新谷仁美、陸上競技選手
1990年 - 児玉絹世、いもうと
1990年 - 伊藤工真、騎手
1990年 - 大江原圭、騎手
1991年 - 上原奈美、タレント(子役)
1992年 - 篠崎愛、グラビアアイドル
1992年 - 田辺優、女子プロレスラー

忌日
870年(貞観12年2月19日)- 春澄善縄、平安時代の公卿(* 797年)

1154年 - ルッジェーロ2世、シチリア王(* 1095年)

1266年 - マンフレーディ、シチリア王(* 1232年)

1341年(興国2年2月10日) - 日道、日蓮正宗大石寺第4世法主(* 1283年)

1577年 - エリク14世、スウェーデン王(* 1533年)

1614年(慶長18年1月18日)- 最上義光、出羽国の戦国大名・山形藩主(* 1546年)

1678年(延宝6年1月6日) - 夕霧太夫(初代)、遊女

1723年 - トマス・ダーフィー、劇作家・詩人(* 1653年)

1726年 - マクシミリアン2世エマヌエル、バイエルン選帝侯(* 1662年)

1770年 - ジュゼッペ・タルティーニ、作曲家(* 1692年)

1789年 - エクリプス、イギリスの大競走馬、サラブレッド三大始祖の1頭 (* 1765年)

1801年(寛政13年1月14日)- 鈴木今右衛門、慈善家

1813年 - ロバート・リビングストン、アメリカ合衆国外務長官(* 1746年)

1821年 - ジョゼフ・ド・メーストル、外交官・思想家(* 1753年)

1878年 - アンジェロ・セッキ、天文学者(* 1818年)

1889年 - カルル・ダヴィドフ、チェロ奏者(* 1838年)

1913年 - フェリクス・ドレーゼケ、作曲家(* 1835年)

1921年 - カール・メンガー、経済学者(* 1840年)

1930年 - 福井茂兵衛、俳優・落語家(* 1860年)

1931年 - オットー・ヴァラッハ、化学者(* 1847年)

1933年 - ティーラ・フォン・デーネマルク、
ハノーファー王太子エルンスト・アウグストの妃(* 1853年)

1936年 - 高橋是清、日本の第20代内閣総理大臣(* 1854年)

1936年 - 斎藤実、日本の第30代内閣総理大臣(* 1858年)

1936年 - 松尾伝蔵、日本の内閣総理大臣秘書官(* 1872年)

1936年 - 渡辺錠太郎、日本陸軍の教育総監(* 1874年)

1938年 - 小崎弘道、キリスト教の牧師(* 1856年)

1939年 - 斎藤博、外交官(* 1886年)

1943年 - テオドール・アイケ、ナチス・ドイツ親衛隊大将(* 1892年)

1958年 - 横山大観 日本画家(* 1868年)

1961年 - ムハンマド5世、モロッコ王(* 1909年)

1966年 - 八杉貞利、言語学者(* 1876年)

1969年 - カール・ヤスパース、哲学者(* 1883年)

1969年 - 知花朝信、空手家(* 1885年)

1969年 - レヴィ・エシュコル、イスラエルの首相(* 1895年)

1970年 - 山下太郎、実業家、元山下汽船社長(* 1896年)

1971年 - フェルナンデル、コメディアン(* 1903年)

1976年 - 金城哲夫、脚本家(* 1938年)

1981年 - ハワード・ハンソン、作曲家(* 1896年)

1982年 - 衣笠貞之助、映画監督(* 1896年)

1983年 - 松井義男、ダイワ精工創業者(* 1906年)

1985年 - チャリング・クープマンス、経済学者(* 1910年)

1991年 - 細川潤一、作曲家(* 1913年)

1994年 - ビル・ヒックス、コメディアン(* 1961年)

1996年 - モイセイ・ヴァインベルク、作曲家(* 1919年)

1996年 - 大藪春彦、小説家(* 1935年)

1996年 - 田中希代子、ピアニスト(* 1932年)

1998年 - セオドア・シュルツ、経済学者(* 1902年)

1999年 - 片岡清一、政治家(* 1911年)

2002年 - 成田亨、デザイナー・彫刻家(* 1929年)

2003年 - 藤原彰、歴史家(* 1922年)

2003年 - 宮脇俊三、紀行作家(* 1926年)

2004年 - ボリス・トライコフスキー、マケドニア共和国大統領(* 1956年)

2005年 - ジェフ・ラスキン、コンピュータ技術者(* 1943年)

2006年 - エース・アダムズ、メジャーリーグベースボール選手(* 1910年)

2007年 - 高松英郎、俳優(* 1929年)

2007年 - 坂谷真史、競艇選手(* 1980年)

2008年 - 阿部光子、小説家(* 1912年)

記念日・年中行事
二・二六事件の日

脱出の日

咸臨丸の日

パナマ運河開通記念日

血液銀行開業記念日