東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年3月1日(日曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年3月1日(日曜日)

平成21年の「3月」になりました。

平成21年の。

今年の「春」がきました。

「初春」の「3月」の。

今日は「1日」で(日曜日)です。

「春」「3月」だけれども。

とてもとても。

とても「寒い日々」が続いています。

けれども「春」の「3月」です。

「春」がきた。「春」がきた。

どこに来た。

今年の「冬」・から「春」は予期せぬ

インフルエンザ*の

大規模な流行が予想されます。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。

薬事法の「能書」にあるとおり

「正規の」

「2回法によるインフルエンザワクチン」の

予防接種をおすすめいたします。

常時いつでも接種可能です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

昨年の。
冬間近くの。
さらなる前に。

「晩秋」>のころ。

「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」の。
花の蕾が淡い黄金色にかがやいて。
が見えてから「10日間」で。
花は去りました。
黄金色のじゅうたんが毛氈(もうせん)ように。
地面「金色」に広がりました。

「昨年」の。
「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」に続いて。
「銀木犀:きんもくせい」もプラチナ色の
花が咲き始めました。

「昨年」の。
「秋」の日の。
「金木犀:きんもくせい」のあとを追って。
「銀木犀:きんもくせい」の花は去り。
地面に「プラチナ」が一面に広がっていました。

「新年」。「初春」。

「晩冬」の「2月」がおわり。

「春」の「3月」

今は私の「大好き」な。

「やぶつばき」の

の「蕾(つぼみ)」と「花」のふくらむ季節。

「やぶつばき」の季節になりました。

私の「大好き」な草の「花」。

「すみれ」咲く季節になりました。

そしていろいろな。
「春」の木々の花も咲く季節。

花の開く季節になりました。

山本クリニックの庭園は。
大昔は。
雑木林であったのです。

「野生」の。
「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」が
とても沢山群生してはえています。

日々の毎日にどんどんと。
みるみるうちに。

山茶花(さざんか)や「やぶつばき」が。
つぼみや「花」を大きくしています。

けれども「山茶花(さざんか)」は
蕾が大きくなったそのよるには。

花咲き。
暗い寒い朝にちっていることが
多いです。

「種の保存」の理論からすれば
「春」とはいえ昆虫の少ない「寒いの日々」に。

「寒い冬」に「花粉」を運んでくれる
昆虫はとても少ないはずだから。

花期はながければ長いほど「実」「種」
が「たくさん実る確率は高くなる」
はずです。

だから。
昆虫の少ない季節に。
「花期」が「極めて短命」とは。
とても不思議なことです。

「4月」の「桜」もそのような傾向があります。

山茶花(さざんか)は

ぬばたまの

暗き闇夜に

春嵐の

風に弓射られて

花ぞ舞い散る

ささんかは

ぬばたまの

くらきやみよに

はるかせの

かせにいられて

はなそまいちる

早朝には「白鷺の羽」
のように地面に
舞い降ちています。

昨年の。
「晩秋」
「木犀:もくせい」の花の
「芳香」は蕾のみえるまえから
あります。
花が去ったあとは
「あっというまに芳香が消えます」。

「晩秋」の
「木犀:もくせい」たちのかおりがさり。

年が改まれば。

今度はいよいよ。

「晩冬」「初春」
今は「2月」の「晩冬」
がおわり。

「初春」の「3月」。

つぼみを日々
大きくしている。

山茶花(さざんか)や「やぶつばき」や。

「すみれ」
の季節の。

「春」の「3月」。

そして。
「山茶花(さざんか)」と「やぶつばき」や
「すみれのはな」
をみまもるのは。

「みかんの木」の「丸いみかん」の
「丸い群れ」。
「丸いみかんん」はたわわにみのり。
まるで「ぶどうのふさ」のようです。

お互いに「植物語」で話しをしているに
ちがいありません。

私は山茶花(さざんか)よりは。
「やぶつばき」がずっとすきです。

山本クリニックの庭園には。
いずれも。
野生の「やぶつばき」と
野生の「山茶花(さざんか)」ばかりです。
野生の「すみれ」もさいています。

堂々たる。
木枯らしの吹く。
「2月」がおわり。
本物の「春」になりました。

もう「春」はじめです。

「冬」がふかまり。

「もっと深い冬」のトンネルをこえれば。

そこは「雪国の冬」でした。

「木枯らし」は

遠くの蒸気機関車の鳴き声のように

に聞こえました。

近くに「トンネル」があることも

わかります。

「魔王:Erlkönig」の吹く「オカリナ」

のような鳴き声でした。

そして。

「木枯らし」をなだめるように。

「粉雪」が舞います。

「粉雪」のほうが「役者」は上です。

「粉雪」は突如(とつじょ)天から舞い降り

ます。

そして。

春の姫君。

「東」の姫君の「佐保姫(さほひめ)」

が春霞のころもをまとい。

舞い降りました。

きょうは。
とてもとても寒い。

「木枯らし」の鳴き声が
「春」の女神の「佐保姫(さほひめ)」の笛ふく
かぜのワルツに変わりました。

最近は
朝くらい早朝には「星がみえます」。
「明けの明星」の金星が南の空に高くみえます。

病院の明かりが灯り暗闇のなか。
朝はやく。

「明けの明星」の金星に「おはよう」を
毎日こえで「御挨拶」を伝えます。
「明けの明星」の金星から「おはよう」と
返事がかえってくる声をききながら。
病院の明かりをともします。
まだ真っ暗なのですが。

夏場の早朝のくらい時には。
明星はみえずらかった。
季節が「冬から「春」へとあゆみ」。
いよいよ。
大気が「澄んできた」ということでしょう。

春霧雨(ふゆきりさめ)の。
春霞(ふゆかすみ)の大気。

わずかにいすわる
木枯らしの「音」。
「ろうろう」「こうこう」
「木枯らし」の鳴き声

「ろうろう」「こうこう」
「木枯らし」の鳴き声とともに。

「春一番」の「「春」のしらべ」が
あわせきこえます。
「どれみふあ」「そそそそ」

朝暗く寒いいうちの「はるかぜ」の合唱は。

「春」の「ふうりん」のごとし。

あれ沢山の「ふうりん」かな。

「春」の「ふうりん」の音色です。

「ろうろう」。

さやかにやさしい「あたたかい音」です。

「こうこう」

わびわびと。

「蜜蜂をもよんでいる音」です。

「蜜蜂」のはぜる元気な「音」から

「春」のおとずれが。

わかります。

「ススキの穂先」は
「そぞろに「深い晩秋・初冬」そして「春」の旅愁」すら
をも感じさせます。

「ススキの穂先」には「「春」ふくろう」が
何匹も集ってつどい。
何匹ものふくろうが。
皆で何かを真剣に考えているようにみえます。

「春」がくれば。
「緑葉をのこした「春ススキ」」。
「ススキの穂先」は。
「しあわせと幸福を手招き」している
何本もの「手」のように。
みえます。

エドヴァルド・ムンク:Edvard Munch
の「春」の絵画のようです。

私も「日々を旅ゆく人間」です。

奥の細道の序文に松尾芭蕉が。

「月日は百代の過客(ひゃくたいのかかく)
にして行かふ年も又旅人也。」

「つきはひゃくたいのかかくにして
いきかふとしもまたたひひとなり」

とかたり。詠みました。

私は

「日々の月日」を道連れにして。

「時」を旅をするひとりの旅人(たびびと)」

です。

「日々月日の旅のつれあい」は。

「きょう」と「あす」しか。

いません。

「きょう」と「あす」しか。

私にはありません。

朝くらいとき。
陽の出の直後は。
いつも一瞬は晴れています。
いまだ かすかにも。
のこる「晩冬」の気配
であるけれども。

あきらかに。
そしてしっかりと。
しのびよるもっともっと奥の。
深く深まる冬からの大気。

「あたたかい「春」」の気配が。
「確かに」。
そして明らかに。
そして輪郭もはっきりと。

感じられるようになりました。

「晩冬」「2月」から「3月」。

もう「春」です。

はやいものです。
速いものです。
早いものです。

街路樹もそうそうたる
羽振りの木々から
「はじまりゆく「春」の樹木」にうつろうように
変化しています。

「春」。
「樹木の若葉の芽生え」があることに
気がつきました。

春の芽吹くときには。
街路樹のポプラも
幹や枝葉の穂先が。
ろうそくのともしびのように。
「炎の様」になっていました。
あたかも
ゴッホの描いた「夜の糸杉」のように。
春の早朝はみえました。

夏になり。
この「穂先」が一気に「ポプラの葉」へと
扇・おおぎのごとく開きました。

フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「夜の糸杉」から。
フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「ひまわり」
のように。
一斉に開きました。
8月にはいってからのことです。

10月そして11月。

今は「晩冬」の「2月」がおわり。

「春」の「3月」。

今現在は落ち着いた「春」の葉木。
「春」の木々の「葉」
へと。
そしてふかまる「春」の木々の「幹:みき」へと。

「冬」から「みのりの春」にむけて。
「あつく」うつろいています。

ポプラも。つばきもくすのきも。
「晩秋」には「中秋の若葉」が。
ハンカチをふるように
「「冬」のわかば」の「めばえ」がみえました。
今もみえます。
今は「「冬」のわかば」の「めばえ」は
とても大きくなりました。
「春」の「めばえ」です。

「冬がくると」。
空と木枯らしのかなでる「蛍の光」や
「冬のコンチエルト」にあわせるように。

ポプラの葉や芽葉は。
ハンカチのようにふわふわと。
ふわふわと。
「穂先から葉葉」は「舞い振りまがら」
ハンカチは木を去っていきました。

樹木のハンカチは。
大地を訪ねて飛翔し。
大地にまいおり大地にもどります。
そして大地となります。

そして。
ポプラの葉や芽葉が。
ハンカチのようにふわふわと。
ふわふわと。
「穂先から葉葉」は「舞い振りまがら」
木を去っていく光景は。
あたかも。
「夜の魔法」「夜のガスパール」
のようです。

「葉の去った枝」には。
もう「「春」の若芽のつぼみ」
が。
「若芽」がみえます。

木々の「葉」が「枝や幹」を
「保護する役割をしている」
ことに気づきました。

4月の桜の花の時期とうってかわり
桜の木の公園
の桜の木々が。
夏になりとても獰猛な気配を放つ。
初めて気がついた・。

「新年」「初春」の「晩冬」はおわりました。

「晩冬」の「2月」がおわり

「春」の「3月」になりました。

「さくら」は春の濃い緑の樹肌になり。
やさしさとおだやかさ
が感じられます。

そしていつしか
幹先に若葉色の葉もまじえています。
しだいにしだいに。
紅黄色の葉が消え若葉にかわりつついくことに
きがつきます。

さくらから。
さくらはのきぬずれのおとが。
きこえるころ
です。

桜の樹木も「丸くなりました」。
桜の樹木も毎年毎年と毎日毎日。
「旅(たび)をしている」のでしょう。

朝陽をあびる落葉樹は
「すべてがあざやかな黄金色」に
かがやきます。
朝陽をしっかりと。
「いうにいわれぬ美しい絵のごとく」
受け止めています。

「冬の朝陽」は真東に大変鋭いことに
気づきました。
眩しいです。

今は「春」の朝日です。

「あたたかいろ」がかんじられます。

春は別として。
桜の木は木の下で。
夏は心安らかに。
「休める木ではないなあ」
と思います。
昨年は
秋になり
桜の樹木も安堵の葉色
になりました。
ちょっとばかりびっくり致しました。

枝や幹からは秋の陽の木漏れ日がみえます。

夏桜の木は獰猛なほど葉をおいしげらせ
ていました。
夏には
桜の木の下で木陰で。心安らかにやすもうという
気はおきません。

いまは晩秋から「冬」になりました。
そよかぜに揺れる残り葉は
招き誘われるような気すら致します。

冬になり幹にはもう「枯れ葉散る」。
ちったあと枝の根元には。
「春の芽栄え(めばえ)」
がみえます。

けれども
やはり夏桜の木は

シューベルトの歌曲の旋律にある「菩提樹」
ではないのです。

冬の桜木(さくらぎ)。
冬になり
人生に果てて(はてて)
なれるが如く桜樹木はかわりました。
良い木になってきました。
素敵(すてき)です。
冬の桜木(さくらぎ)。
「春」の桜木(さくらぎ)。

木々でも。
いちょうや。松や。杉などの針葉樹
は。またソテツなどは。
「古い時代の木」です。

「チャールズ・ダーウィンの進化論」からは
「針葉樹」から。
「常緑樹」「広葉樹」「落葉樹」にと。
「進化」しているはずです。

「原始的」な樹木ほど。
「硬い幹」です。
例外はありません。

硬ければ。
幹は硬ければ動物に
「かじられる」ことはないでしょう。

いにしえの古代の時代にも。

恐竜をはじめめとする
「大型」の草食動物にも。

かたければかじられることは
なかったでしょう。

街並みを彩る街路樹には「落葉植物」が多いです。

ふと。考える。

街路樹が「松や杉」のように。
「冬も葉を持つ針葉の常緑樹」では。

冬はうっそうとして道端では
やさしい暖かな陽射しをかくしてしまう。

夏場は枝ぶり葉っぱぶりからつよすぎる日の光は
さえぎれません。
そして
「秋」の「夕焼け陽」には。
「金色のちいさき鳥の形して」
秋の夕焼けの陽射しに舞うこともできません。

常緑樹の針葉樹では。
は四季のリズムをつたえる

北大路魯山人のいう

「ざっくり感(ざっくりかん)」

のリズムヤハーモニー或は旋律が
ありません。

木々の夏の萌黄が早朝暗い中でも
うかびあがります。
私はくすのきが「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
モミジもすきです。
カエデもすきです。
松や杉もすきです。
月桂樹やシナモンもすきです。
オリーブもすきです。
オレンジの木もすきです。
「そてつ」の木もすきです。
ツバキもすきです。
ソテツもすきです。
南天もすきです。
木や植物がすきです。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな秋の萌黄色です。
まるで大きな深い山の森のうねりのようです。
今年は木々のわかばの秋のめばえが非常に鮮か
です。
木々は「夏樹」の役目をおわりました。
「秋木」とかわろうとしています。
「秋木」とかわりました。
そして
さらに
「冬木」へとかわろうとしています。
「冬木」へとかわりました。
「冬木」から春の「春木」にかわりました。

街角の雑草も花は咲き終わり。
盛夏の姿となりそして秋を迎えそして「冬」を迎える。
「ほとけの座」や「はこべ」が
「かたばみ」や「いたどり」が
ますます姿を大きくして。

そして「すすき」もくわわりました。

夏草から秋草へ。
そして秋草へのたたずまいをしています。
そしてもうすっかり秋冬草へと黄金色に転した
街角には雑草もあります。
こがねいろ。

雑草も。
同じく花をさかせ自ら種をとばし
夏葉がみえる。
そして秋を迎える。
冬が来て。木枯らしに吹かれ。
雪をかむり。そして。
春がくる。

そして今は「春」。

ツツジは潅木。
ツツジの花の葉の優しさには
あらためてびっくりしました。
黄緑・草色のビロードです。

のぞきこむと若葉はまだ沢山ある。
何故か得をしたように思えました。

そして雨にうたれてそのまま地に落ちた
ツツジの若葉は幾何学的に裏側を下にむけて
逆さじょうごのように
落下していることに気がつきました。
まるで
「若草色」のキノコが沢山はえているようです。

木から落ちても。
まだ「若葉」です。ふと。
ヴェルディの「椿姫」「La Traviata」
の「つばき」を思い出しました。

1852年パリに滞在したヴェルディは
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)
の戯曲版『椿姫』の上演を見て感激し
ました。
そのころ新作の作曲依頼を受けていた
ヴェネツィアのフェニーチェ劇場のために。
翌1853年初めに比較的短時間で作曲された
『椿姫 』(La Dame aux camelias、1848年出版)
は。
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が
実際の体験を基にして書いた長編小説。
主人公のモデルはかつて作者が交際をしていた
マリー・デュプレシという高級娼婦。
恋人アルマンのイニシャルである
『AD』は
小デュマのイニシャルと同じです。

この作品は人々に愛されて幾度も舞台、映画化され
続けてきました。

朝暗いうちは。

とても。

はださむいです。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

山本クリニックには。
検見川の落合遺跡の遺跡発掘の際に
みつかった「古代のハスの種子」から。

2000年ぶりに発芽したことで有名な。
「古代蓮(ハス)」があります*。
【大賀ハス:おおがはす】です。
「有名な古代ハス」です。
とても勇壮なハスで。
花のいろはとてもあまりにも美しく。
たとえ様もありません。

ハスの花がさき。
「「蓮(ハス)」の実」になりました。
「はすの実」も「はす」の葉も。
2mくらい水面から高いところに
あります。

睡蓮(すいれん)があります。
睡蓮(すいれん)は「葉」が水に浮び。
はのきれこみは羊の足のようです。
睡蓮(すいれん)を「ひつじぐさ」とは
なるほどと考える。
睡蓮(すいれん)の茎の長さには
おどろかされます。

「姫睡蓮(ひめすいれん)」でさえも。
池はばが長ければ四方八方に「水の中の枝」。

「モネ」の描いた睡蓮(すいれん)の
「水の中の枝」は「どれほど長いのだろう」。

睡蓮(すいれん)も「太古の時代」に
陸の動物に「かじられないように」
水中に「逃げ込んだ」のでしょう。

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大賀ハス(オオガハス、おおがはす)とは。
1951年(昭和26年)、千葉県千葉市検見川
(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある
東京大学検見川厚生農場
(現・東京大学検見川総合運動場)の
落合遺跡で発掘された
今から2000年以上前の古代のハスの実から
発芽・開花したハス(古代ハス)のことです。

戦時中に東京都は燃料不足を補うために
花見川下流の湿地帯に豊富な草炭が埋蔵されていた
「草炭」を採掘していました。

採掘は戦後も継続して行われていました。
1947年(昭和22年)7月28日に作業員が採掘現場でたまたま
1隻の丸木舟と6本の櫂を掘り出しました。

その調査によりもう2隻の丸木舟と
ハスの果托などが発掘されました。

「縄文時代の船だまり」であったと
推測され落合遺跡と呼ばれました。

植物学者でハスの権威者でもある大賀一郎博士
(当時・関東学院大学非常勤講師)が
発掘品の中にハスの果托があることを知り。
1951年(昭和26年)3月ボランティアの協力
を得てこの遺跡の発掘調査を行いました。

翌日で打ち切りという
30日の夕刻になって花園中学校の女子生徒により
地下約6mの泥炭層からハスの実1粒が発掘され予定を延長し
4月6日に2粒、計3粒のハスの実が発掘されました。

大賀博士は5月上旬から発掘された
3粒のハスの実の発芽育成を試みるも2粒は失敗に終わりました。
だが1951年3月30日に出土した1粒が育成に成功致しました。

翌年の1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪を咲かせました。
このニュースは国内外に報道されて多いな「驚愕」を与えました。
同年11月17日付米国ライフ誌に「世界最古の花・生命の復活」
として掲載され博士の姓を採って「大賀ハス」と命名されました。

シカゴ大学のリピー博士らによって放射性炭素年代測定が行われました。
ハスの実は今から2000年前の弥生時代以前のものであると推定された。

この古代ハスは、
1954年(昭和29年)6月8日に「検見川の大賀蓮」として
千葉県の天然記念物に指定されました。
また1993年(平成5年)4月29日には千葉市の花として制定され、
現在日本各地は元より世界各国へ根分けされ、
友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っています。

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ふと「パンの神」を思い出しました。
(「牧神パン(Pan)」=「Pan」=「パン」=
「飯(はん)」=「全般の般」=「パンアメリカンのパン」=

「パン」「pan」は「すべて」という意味の
古代ギリシャ語そして「サンスクリット」も同じ。

古典ギリシア語 Παν、Pan「パンの神」は。
幼少時からゼウスから他の神々全て*に好かれたので
(古代ギリシャ語でTheophilusテオフイルス/ラテン語では
amadeus アマデウス**)
「パン」と名づけられました。

「頭は人間で胴体は山羊」です。

「テュホン:テューホーン:Τυφών: Typhon」
ギリシア神話に登場する魔神***。
に追いかけられ
あわてて身を守るため川に飛び込み「頭は人間で胴体は人魚」
に変身したために。

「パニック」=「panic:パン的」
という言葉が生まれました。

星座に「山羊座」という星座があります。

山羊座は不思議ですが
「あわてて身を守るため川に飛び込み
「頭は人間で胴体は人魚」」
に変身した「パンの神」を示しています。
山羊ではありません。

むしろ正確には人魚です。

だから。
「山羊座」という「意味」はわかります。
けれども「命名」の観点から。
「山羊座」というのはかなり「妙」な気が致します。
「人魚座」というのが正しい。


名称「パンの神」の由来は「ギリシャ神話」でも
非常に多くの「言い伝え」がいくつがあります。
その「言い伝えの数」に正比例して「混乱」があります。

**
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの
「アマデウス」とは「パンの神」のことです。
(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの
ヴォルフガングは「おおかみが行く」という意味です。
よって
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは

「狼のように歩み神に愛されたモーツアルト」
ということになります)

***
「テュホン:テューホーン:Τυφών: Typhon」は
「台風:たいふう」と日本語では名前を変えています。

****
タイフーン級原子力潜水艦は
旧ソ連・ロシアの941型(プロジェクト941)
戦略ミサイル搭載原子力潜水艦のことです。
タイフーンはそれに付けられたNATOコードネームですが
この名称は日本の「台風」とは「直接関係」はありません。

日曜の

朝晴れて

はじめて気づく

にわの小ささ

にちようの

あさはれて

はじめてきづく

にわのちいささ

朝晴れて

にわの小さき

気づかぬときは

病(やまい)なるらむ

日曜の朝

あさはれて

にわのちいさき

きづかぬときは

やまいなるらむ

にちようのあさ

休診日ですが。
早朝に朝まだ暗いうちから
首都高を走って病院に到着致します。

空はきらきらのラピス・ラズリの
紺碧のジュースから
ミルク色のはいった
トルコ石の「プリン」に変わるように変化
していきます。

遠くにぽかぽか浮ぶ「雲々」は
トルコ石の「プリン」の上の「クリーム」の
ようです。
にわのあじさいは「アイスクリーム」
のようです。

春きらきらラピス・ラズリの空(そら)
春紺碧のカクテルいろの空(そら)
春ミルクをそそそいだ空(そら)
春トルコいしのプリンの空(そら)
春はるかにとほくたかい空(そら)
春ほかほか浮ぶ雲々(くもぐも)そら
春プリンの上のクリームのような空(そら)
春睡蓮(すいれん)の水面に空(そら)
春睡蓮(すいれん)のうえに空(そら)
春空(そら)の向こうにまた空(そら)
春空(そら)そのまたむこうにももっと大きな空(そら)

春のうららのこもれびに

緑木いらかをかぜはやみ

青風ひるむやうつろひの

四季のつきひははやいくとせ

夏のうららのこもれびに

緑木いらかのつねなりて

赤き空(そら)にて炎えたたむ

四季のつきひははやいくとせ

秋のうららのこもれびに

緑木いらかにかぜさやか

秋風かたれるやすらきの

四季のつきひははやいくとせ

冬のうららのこもれびに

緑木いらかにかぜつよし

冬風弓(ゆみ)射る木枯らしの

四季のつきひははやいくとせ

日々のうららのこもれびに

祈想い(おもい)のいらかにかぜつよし

生きる力に祈りはせ

四季のつきひははやいくとせ

春椎木(しいのき)は枝高し
春そらに吼える若葉の穂束
春そらに吼える蒼き獅子のごとし
春天にも地にもみどりはさける
春のあさふかまりて
春陽の光ゆたかなりけり
春いふことのなし
春いふことがなし
春いふことはなし
春いふこともなし
春ゆたかなるかな春

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成21年1月12日(月曜日)は。

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
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平成21年2月11日(水曜日)は。

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の御予約の。
患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
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平成21年3月20日(金曜日)は。

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の御予約の。
患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

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★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。
「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は。

私が大変興味をもっている高貴な「御婦人」

極めて稀なことだが。
「一介の女官」であったかたが「オーストリア太閤」の夫人
となった「御婦人」。
歴史的には「非常に極めてまれ」な「御婦人」
である(例がない)。
大公の妃になるにあたり「皇族としての特権をすべて放棄」して。
将来生まれる子供には皇位を継がせないことを条件に。
結婚を承認された「御婦人」。

皇族の中では「最高位の婦人」のはず。
けれども。
いかなるときも皇族の集まりでは「末席の末席」に
すわらせられた。

サラエヴォ事件として「有名」だが。

1914年オーストリア領であったサラエヴォ
(現ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領)で夫
フランツ・フェルディナント大公と共に暗
殺された「御婦人」。
46歳没。

セルビア人の
青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。

この事件をきっかけとして。
第一次世界大戦が勃発した「御婦人」。

1868年 - ゾフィー・ホテク、
オーストリア・ハンガリー帝国皇太子
フランツ・フェルディナント大公の妃(+ 1914年)
の生誕日です。

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ゾフィー・ホテク(Sophie Chotek Grafin von Chotova,
Herzogin von Hohenberg; 1868年3月1日
シュトゥットガルト - 1914年6月28日 サラエヴォ)は。

オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者
フランツ・フェルディナント大公の妃です。

++++++++++++++++++++++

ゾフィー・ホテク;
Sophie Chotek Grafin von Chotova, Herzogin von Hohenberg
ボヘミアの伯爵家出身でテシェン公フリードリヒ
(カール大公の孫)家
の女官であったのですが。

フランツ・フェルディナント大公と恋に落ちました。

しかし彼は数少ない皇位継承者であったため。

身分の低い彼女との結婚は猛反対を受けました。

しかし最終的にゾフィーが皇族としての特権をすべて放棄して。

将来生まれる子供には皇位を継がせないことを条件に
結婚を承認されました。

++++++++++++++++++++++

ゾフィー・ホテク:
Sophie Chotek Grafin von Chotova, Herzogin von Hohenberg
の結婚式。

2人の結婚式は1900年7月1日に挙行されました。

しかしその後もゾフィーは冷遇され続けました。

公式行事においては幼児を含む全ての
皇族の末席に座ることを余儀なくされました。

それ以外の公の場(劇場など)でも。

夫たる大公との同席は許されませんでした。

また、大公妃の称号は許されませんでした。

代わりにホーエンベルク公爵夫人の称号が与えられました
(ゾフィーの死後に長男マクシミリアンが公爵位を継ぎました)。

++++++++++++++++++++++

1914年オーストリア領であったサラエヴォ
(現ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領)で夫
フランツ・フェルディナント大公と共に暗殺されました
(サラエヴォ事件)。46歳。

ゾフィーの有した称号のは、以下の通りでした。

ゾフィー・ホテク・フォン・ホトコウヴァ伯爵令嬢
(GrafinSophie Chotek von Chotkova、1868年 - 1900年)

ホーエンベルク公爵夫人(Furstin von Hohenberg、1900年 - 1909年)

ホーエンベルク公爵夫人殿下( Herzogin von Hohenberg、1909年 - 1914年)

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ゾフィー・ホテク:
Sophie Chotek Grafin von Chotova, Herzogin von Hohenberg
は。

ハプスブルク家の家憲で貴賤結婚が禁じられていたため。

ゾフィーに対してオーストリア皇族としての。

殿下の称号は絶対に許され
なかったのです。

++++++++++++++++++++++

ゾフィー・ホテク:
Sophie Chotek Grafin von Chotova, Herzogin von Hohenberg

子女
ゾフィー(1901年 ? 1990年)
マクシミリアン (1902年 ? 1962年)
エルンスト(1904年 ? 1954年)
男子(1908年、夭折)
第二次世界大戦中、
ゾフィー、マクシミリアン、エルンストの3人は、
マクシミリアンがナチス・ドイツのアンシュルス
(独墺合邦)に反対していたため、家族とともに
ダッハウ強制収容所に送られ、敗戦まで収容されていた。

関連書籍
「ハプスブルク家の女たち」江村洋(講談社現代新書)

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サラエヴォ事件
(サラエヴォじけん、サラエボ事件、サライェヴォ事件)
とは、1914年6月28日に
オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝=国王の継承者
フランツ・フェルディナント大公夫妻が
当時オーストリア領であったサラエヴォ
(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中。

セルビア人の。
青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。

この事件をきっかけとして第一次世界大戦が勃発致しました。

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++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
ゾフィー・ホテク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%86%E3%82%AF

ゾフィー・ホテク(Sophie Chotek Grafin von Chotova, Herzogin von Hohenberg; 1868年3月1日 シュトゥットガルト - 1914年6月28日 サラエヴォ)はオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の妃。

目次
1 生涯
2 子女
3 関連書籍
4 関連項目

生涯
ボヘミアの伯爵家出身でテシェン公フリードリヒ(カール大公の孫)家の女官であったが、フランツ・フェルディナント大公と恋に落ちる。しかし彼は数少ない皇位継承者であり、身分の低い彼女との結婚は猛反対を受ける。しかし最終的にゾフィーが皇族としての特権をすべて放棄し、将来生まれる子供には皇位を継がせないことを条件に結婚を承認された。2人の結婚式は1900年7月1日に挙行された。しかしその後もゾフィーは冷遇され続け、公式行事においては幼児を含む全ての皇族の末席に座ることを余儀なくされた。それ以外の公の場(劇場など)でも、夫たる大公との同席は許されなかった。また、大公妃の称号は許されず、代わりにホーエンベルク公爵夫人の称号が与えられた(ゾフィーの死後に長男マクシミリアンが公爵位を継いだ)。

1914年オーストリア領であったサラエヴォ(現ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領)で夫フランツ・フェルディナント大公と共に暗殺される(サラエヴォ事件)。46歳。

ゾフィーの有した称号のは、以下の通りである。

ゾフィー・ホテク・フォン・ホトコウヴァ伯爵令嬢(GrafinSophie Chotek von Chotkova、1868年 - 1900年)

ホーエンベルク公爵夫人(Furstin von Hohenberg、1900年 - 1909年)

ホーエンベルク公爵夫人殿下( Herzogin von Hohenberg、1909年 - 1914年)

ハプスブルク家の家憲で貴賤結婚が禁じられていたため、ゾフィーに対してオーストリア皇族としての殿下の称号は絶対に許されなかった。

子女
ゾフィー(1901年 ? 1990年)
マクシミリアン (1902年 ? 1962年)
エルンスト(1904年 ? 1954年)
男子(1908年、夭折)
第二次世界大戦中、ゾフィー、マクシミリアン、エルンストの3人は、マクシミリアンがナチス・ドイツのアンシュルス(独墺合邦)に反対していたため、家族とともにダッハウ強制収容所に送られ、敗戦まで収容されていた。

関連書籍
「ハプスブルク家の女たち」江村洋(講談社現代新書)

関連項目
フランツ・フェルディナント大公
フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)
第一次世界大戦
サラエヴォ事件

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++

サラエボ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(サラエヴォ事件 から転送)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A9%E4%BA%8B%E4%BB%B6

サラエヴォ事件(サラエヴォじけん、サラエボ事件、サライェヴォ事件)とは、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝=国王の継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が当時オーストリア領であったサラエヴォ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。この事件をきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。

目次
1 背景
2 陰謀
3 暗殺
4 影響
5 都市伝説
6 関連項目
7 外部リンク

背景
ボスニア・ヘルツェゴビナは1878年のベルリン会議でオーストリアが占領し、その後1908年には正式にオーストリア領に併合されていた。多くのボスニア住民、特にボスニアのセルビア人住民はこれに反発し、セルビアや他の南スラヴ諸国への統合を望んでいた。

オーストリア当局はセルビアにとり重要な祝日(Vidovdan = 聖ウィトゥスの日)である6月28日をフェルディナント大公のサラエヴォ訪問の当日に設定した。この日はまた、1389年にセルビアがオスマン帝国に敗北を喫したコソボの戦いの記念日でもあった。更には大公夫妻の14回目の結婚記念日でもあった。大公の妃ゾフィーは伯爵家の生まれであった為、ハプスブルク家は彼女を皇族の一員とは認めていなかった。ウィーンで不遇の生活を強いられていた妻を気遣って、大公はサラエヴォへの旅に彼女を伴うこととした。

陰謀
暗殺事件の実行犯はセルビア軍将校を中心とした秘密組織である黒手組から拳銃と爆弾を受け取っていた。黒手組がどの程度暗殺事件に関与していたのかについては議論の余地がある。ある歴史家は暗殺事件は黒手組の計画したもので、暗殺犯たちはその実行部隊にすぎないとしている。それに反して実行犯たちは自らのイデオロギーに基づいて行動したとする意見もある。黒手組が実行犯たちに武器と自決用の青酸化合物を手渡したことには疑問の余地はない。

セルビア政府の関与の有無についても未だ明らかとはなっていない。バルカン戦争に勝利を収めたばかりのセルビア政府が、オーストリア=ハンガリー帝国を刺激することを恐れてボスニアにおけるテロを防ごうとしていたと思われる証拠が存在する。近年ではロシアの秘密警察であるオフラーナやレーニン率いる共産主義者の関与を指摘する声も存在する。

暗殺
事件の正確な経緯は明らかとなっていない。この節で示すのは、互いに矛盾する目撃者からの情報を集めたものである。

7人いた暗殺犯は武器に習熟しておらず、計画が成功したのはいくつかの偶然が重なったためである。午前10時15分に4台の車からなる車列が、1人目の暗殺犯メフメト・メフメトバシッチの前を通り過ぎた。彼は窓から大公を狙撃しようとしたが、狙いが定まらず引き金は引かなかった。10時頃、2人目の犯人ネジェルコ・チャブリノヴィッチは、爆弾(またはダイナマイト)を大公の乗る車に投げつけたが、狙いが逸れて爆発し、後続の車が被害を受けた。彼は毒を飲み、川に身を投げた。車列はスピードを上げて市庁舎に向かった。車が市庁舎に着いた時の映像が残されており、運転手が車の後ろをチェックする様子が映っている。この後の、大公らが市庁舎を出る時の映像と共に、これはサラエヴォ事件当日の唯一の映像である(『映像の世紀』第1集『20世紀の幕開け』で放送された)。

チャブリノヴィッチは川から引きずり出され、身柄を警官に拘束されるまでに民衆から手ひどい暴行を受けた。彼の飲んだ毒物は変質していたか、致死量に達していないものだった。爆発音を聞いて暗殺犯の残りの数名は持ち場を離れた。

暗殺されたときにフェルディナント大公が乗っていた自動車。弾丸の穴は後部車輪上にある。市庁舎に到着していたフェルディナント大公は予定を変更し、爆発で怪我をした者を見舞いに病院へ向かうことにした。その一方、プリンツィプは食事を摂ろうとある店に立ち寄っていた(彼が暗殺の不成功を知っていたのかは明らかではない)。病院へと向かう大公の車は、ちょうどその店の前の交差点で道を誤り、プリンツィプは方向転換をしている車に大公が乗っていることに気づいた。彼はピストルを取り出し、車に駆け寄って1発目を妃ゾフィーの腹部に、2発目を大公の首に撃ち込んだ。大公夫妻はボスニア総督官邸に送られたが、2人とも死亡した。

プリンツィプははじめ毒を仰いで、次にピストルで自殺を図ったが、生理的拒否により毒は吐き出し、ピストルは手からもぎ取られて失敗に終わった。

影響

ガヴリロ・プリンツィプ当局の尋問の間、プリンツィプをはじめとする暗殺犯たちは黙秘を貫いていたが、ダニロ・イリイッチが自白し、武器がセルビア政府の支給品であったことを告白した。

オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア政府を非難し、セルビアにとって受け入れがたい要求を含んだ最後通牒を突きつけた(オーストリア最後通牒)。オーストリア政府はセルビアが無条件で全条件を受け入れなければ宣戦を布告することを通告した。驚いたことに、セルビア政府は唯二点を除いてこの要求を受諾した。しかし、1914年7月28日オーストリアは無条件での受諾を求める事前の通告通りセルビアに対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。

暗殺犯たちは、成年であったために絞首刑となったイリイッチを除いて、懲役刑を課せられた。プリンツィプは獄中で結核のために死亡している。

第一次世界大戦後からユーゴスラビアの崩壊までプリンツィプはセルビアの愛国者として賞揚された。暗殺現場付近の橋はプリンツィプ橋と名づけられたが、近年民族紛争のあおりもあって元のラテン橋という名称に戻されている。また、プリンツィプが狙撃前に立っていたといわれる場所にはそれを記念する足形も設置されていたが、こちらも現在は撤去されている。

都市伝説
大公夫妻の乗っていた自動車については、
「事件後に複数の所有者の手に渡り、みな悲惨な最期を遂げた」
という都市伝説が語られることがある。
「最終的に博物館に所蔵されていたが、第二次世界大戦中に攻撃を受けて失われた」
と続く場合もあるが、
上の写真を見てもわかるように、現在もウィーンの軍事博物館に保存展示されている。

関連項目
第一次世界大戦

外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、サラエボ事件 に関連するカテゴリがあります。サラェボ事件 『第一次世界大戦』内

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3月1日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%881%E6%97%A5

できごと
1562年 - ヴァシーでプロテスタントたちが虐殺される
(ヴァシーの虐殺、ユグノー戦争のはじまり)。

1709年(宝永6年1月20日) - 将軍徳川綱吉の死後10日目で生類憐れみの令が廃止

1867年 - ネブラスカ州がアメリカ合衆国に加入し、37番目の州となる。

1874年 - 第四国立銀行開業

1885年 - 日本鉄道・品川駅〜赤羽駅(現在の山手線・赤羽線)間が開業。

1886年 - 熱田駅〜武豊駅(現在の東海道本線・武豊線)間が開業。

1888年 - 神秘主義団体黄金の夜明け団発足

1896年 - アドワの戦い。イタリアのエチオピア侵攻軍がアドワで大敗。

1905年 - 日露戦争で奉天会戦が行われる。3月10日まで。

1919年 - 日本統治下の朝鮮で三・一独立運動が起こる。

1930年 - 谷口雅春によって生長の家が立教される。

1932年 - 満州国の建国が宣言される。

1932年 - リンドバーグ愛児誘拐事件。

1938年 - 京都府で日本初のタクシーメーター制が導入される。

1942年 - バタビア沖海戦で、日本海軍が連合軍艦隊に勝利し、
インドネシア方面の連合軍艦隊は壊滅する。

1949年 - 東京都新宿区戸山の陸軍戸山学校跡に戸山ハイツが完成。

1954年 - 太平洋のビキニ環礁でアメリカが核実験(水爆)、第五福竜丸が被曝。

1958年 - ラジオ九州テレビジョン(現RKB毎日放送テレビ)開局。

1959年 - フジテレビジョン開局。

1959年 - 毎日放送テレビジョン(MBS)、九州朝日放送テレビジョン(KBC)開局。

1962年 - アメリカン航空1便墜落事故

1967年 - 京阪神急行電鉄千里線(現・阪急電鉄千里線) 
南千里駅〜北千里駅間が開業。この時北千里駅に日本初の自動改札機が設置される。

1969年 - NHKのFM本放送開始。

1971年 - 五木ひろしがシングル『よこはま・たそがれ』で演歌歌手(再)デビュー。

1982年 - テレビ東京をキー局とする初の系列局、テレビ大阪(TVO)開局。

1992年 - 「暴力団対策法」、「育児休業法」施行

1997年 - 大阪ドームオープン。

1999年 - 対人地雷全面禁止条約が発効。

2003年 - 大和銀行とあさひ銀行が合併し、りそな銀行成立。

2003年 - 東京スタジアムが味の素スタジアムに名称を変更。

2004年 - 佐渡島内の全市町村が合併し、佐渡市が誕生。

2004年 - 長崎県壱岐郡の郷ノ浦町、勝本町、芦辺町、石田町が合併。壱岐市が誕生。

2004年 - 広島県高田郡内の全市町村が合併。安芸高田市が誕生。

2005年 - NTT東日本・NTT西日本による固定電話の施設設置負担金が従来の半額に。

2006年 - ホンダの国内四輪車販売チャネル
「プリモ店」「クリオ店」「ベルノ店」を、
「ホンダ」チャネルに統合(同年8月より新屋号「Honda Cars」に変更)。

2006年 - 北海道の伊達市と、大滝村が合併し、新・伊達市が誕生。

2006年 - 英語版ウィキペディアの記事数が100万件突破。

2007年 - JR石北本線で列車とトレーラーが衝突・脱線。卒業式に向かう高校生ら51人負傷。

2008年 - syrup16gが日本武道館ライブを最後に解散。

誕生日
1574年(天正2年2月8日) - 結城秀康、戦国武将、大名(+ 1607年)

1810年 - フレデリック・ショパン、音楽家(+ 1849年)

1858年 - ゲオルク・ジンメル、社会学者・哲学者(+ 1918年)

1868年 - ゾフィー・ホテク、
オーストリア・ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナント大公の妃(+ 1914年)

1879年 - 田辺七六、政治家、実業家(+ 1952年)

1883年 - 朝倉文夫、彫刻家(+ 1964年)

1888年 - 由谷義治、政治家(+ 1958年)

1889年 - 岡本かの子、小説家(+ 1939年)

1889年 - 和辻哲郎、倫理学者(+ 1960年)

1892年 - 芥川龍之介、小説家(+ 1927年)

1895年 - 小倉遊亀、日本画家(+ 2000年)

1900年 - 鈴木傳明、俳優(+ 1985年)

1904年 - グレン・ミラー、バンド指揮者 (+ 1944年)

1908年 - 菊田一夫、劇作家(+ 1972年)

1908年 - 若林忠志、元プロ野球選手(+ 1965年)

1912年 - 矢野健太郎、数学者(+ 1993年)

1922年 - イツハク・ラビン、イスラエル前首相(+ 1995年)

1927年 - ハリー・ベラフォンテ、音楽家・俳優

1928年 - 伊藤謙哉、天文学者

1928年 - 山根俊英、元プロ野球選手

1929年 - ジョージ・マルコフ

1932年 - 百瀬宏、国際政治学者

1932年 - 伊沢修、元プロ野球選手(+ 1989年)

1933年 - 南田洋子、女優

1935年 - 武藤礼子、声優(+ 2006年)

1939年 - 祓川正敏、元プロ野球選手

1941年 - 肥田美代子、政治家・児童文学作家

1942年 - 亀渕昭信、ニッポン放送相談役(前社長)

1943年 - 加藤茶、コメディアン(ザ・ドリフターズ)

1944年 - ロジャー・ダルトリー、ミュージシャン(ザ・フー)

1944年 - 山本重政、元プロ野球選手

1947年 - 末成由美、喜劇女優

1947年 - テリー・レイ、元プロ野球選手

1951年 - 大田卓司、元プロ野球選手
1952年 - 峰竜太、タレント(戸籍上。実際には2月29日)
1953年 - カルロス・ケイロス、サッカー選手
1954年 - ロン・ハワード、映画監督、映画プロデューサー、俳優
1955年 - 藤堂新二、俳優
1956年 - 花咲アキラ、漫画家
1956年 - 矢島健一、俳優
1956年 - ヤン・ヴァン・デル・ロースト、作曲家
1957年 - 高柳秀樹、元プロ野球選手
1957年 - ジョニー・レイ、本プロ野球選手
1959年 - 徳弘正也、漫画家
1961年 - 柱谷幸一、サッカー選手・監督
1961年 - ミッチェル・ゲイロード、体操選手
1963年 - 川崎麻世、俳優
1963年 - 岡野進一郎、俳優
1966年 - 島田まさし、お笑いタレント(吉本興業)
1967年 - 藤井克典、NHKアナウンサー
1968年 - 相楽晴子、女優
1969年 - ダグ・クリーク、元プロ野球選手
1969年 - 葉山みどり、元AV女優
1970年 - 鄭珉台、野球選手
1970年 - 中山美穂、女優・歌手
1970年 - 西川弘志、俳優
1972年 - 石野見幸、歌手(+ 2007年)
1972年 - ジミー・ハースト、元プロ野球選手
1973年 - 道上龍、レーシングドライバー
1976年 - 小島聖、女優
1976年 - 小林美佐、声優
1976年 - バレリオ・ベルミリオ、バレーボール選手
1978年 - マシコタツロウ、作曲家、歌手
1978年 - 野川さくら、声優
1978年 - 向井久子、元女子バレーボール選手(東レ)
1979年 - 井上千尋、AV女優
1980年 - 井上裕介、NON STYLE
1981年 - Tatsh(清水達也)、作曲家
1981年 - ジェシカ・ミラー、フィギュアスケート選手
1982年 - 廣野理恵、モデル
1983年 - 山本ヤマト、漫画家、イラストレーター
1986年 - 五郎丸歩、ラグビー選手
1986年 - 香穂里、タレント
1988年 - 松崎桃子、グラビアアイドル
1988年 - 楯真由子、女優
1988年 - 張振旺、野球選手
1988年 - カルロス・アルベルト・ベラ、サッカー選手
1989年 - カルロス・ベラ、サッカー選手
1989年 - 原菜摘子、女子サッカー選手
1991年 - 成田梨紗、AKB48
1994年 - 大野真緒、女優
1999年 - アローキャリー、競走馬(+ 2006年)

忌日
1201年(建仁元年1月25日) - 式子内親王、歌人、新三十六歌仙の一人(* 1149年)

1891年 - エドゥアルト・シェーンフェルト、天文学者(* 1828年)

1911年 - ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ、化学者(* 1852年)

1939年 - 岡本綺堂、小説家(* 1872年)

1941年 - 森矗昶、実業家・昭和電工創業者・衆議院議員(* 1884年)

1952年 - 久米正雄、小説家・劇作家(* 1891年)

1971年 - 平塚武二、児童文学者(* 1904年)

1974年 - 田中耕太郎、
法学者・文部大臣・最高裁判所長官・国際司法裁判所判事(* 1890年)

1974年 - ボビー・ティモンズ、ジャズピアノ奏者(* 1935年)

1976年 - ジャン・マルティノン、指揮者(* 1910年)

1978年 - 岡潔、数学者(* 1901年)

1983年 - 小林秀雄、文芸評論家(* 1902年)

1987年 - 小坂佳隆、元プロ野球選手(* 1935年)

1988年 - 加藤嘉、映画俳優(* 1913年)

1999年 - 長谷川悟史、プロレスラー(* 1976年)

1999年 - 西村一孔、元プロ野球選手(* 1935年)

2001年 - 小田稔、天文学者(* 1923年)

2001年 - 久和ひとみ、ニュースキャスター(* 1960年)

2005年 - 飯島夏樹、小説「天国で君に逢えたら」を執筆、
13万部を超えるヒット(* 1966年)

2005年 - 木村保、元プロ野球選手(* 1934年)

記念日・年中行事
ビキニ・デー
1954年3月1日に、太平洋のビキニ環礁でアメリカが核実験を行い、
第五福竜丸が被曝したことから。

この日、世界で反核集会等がおこなわれる。

三一節(韓国)
 1919年3月1日に、韓国、ソウルで起こった三・一独立運動を記念して。

豚の日