東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年3月7日(土曜日)

「ここをおして」をクリックされてください。

「ここをおして」をクリックされてください。は
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年3月7日(土曜日)

「春」。

「3月」です。

「春」の「3月」になりました。

「春」がきた。

「春」がきた。

どこにきた。

-------------------------------
今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

「晩冬」の「2月」がおわり。
「春」になりました。
「3月」です。
「春」です。

昨年。
「6月」=「夏の始まり」です。
「6月」がおわり「7月」です。
「7月」もおわりました。
最後の夏月「8月」。
夏の「8月」もおわりました。

「9月」の「秋」になり。
「9月」がおわりました。
「10月」もおわりました。
「11月」です。
「秋」「11月」が終わりました。

「12月」です。
「冬」になりました。

昨年の「12月」が終わりました。

「新年」の「初春」になりました。
「1月」がすぎ。

「初春」の「2月」

もう「3月」です。

雪国の「春」を過ぎれば。

そこは。

「里山」の「春」

雪国の「冬」から

「春」。

「ちいさな春」をこえて。

「大きな春」を。

むかえようとしています。

雪国の「春」を過ぎれば。

そこは。

「里山」の「春」

「ふゆ」を「むかえよう」。
「新年」そして「初春」。
「くるとしつき」は
「無我のうちにむかえよう」。
「冬」がすぎたら。
そうしたら「春」をむかえよう。

自在に「かんがえてながれてゆく」。

「自然」の「ときの流れ」は。
真(まこと)の幸せ者の「しらべ」です。

「新年」の「初春」だけれども。

「1月」は去り「2月」。
「2月」は去り「3月」。

「ひたひた」とさらに深まりゆき。

とおりすぎていった「冬」。

「さくさく」とひびく

日々の過ぎ去る足音は。

「とぼとぼ」と。

朝早くまだ暗い街中に

聞こえるようにとおざかり

さってゆきました。

白く柔らかな春霞の衣をまとう若々しい

「春」の「さほ姫」*

は「冬将軍」をいなして。

「春」を導いて。

そして「春」になりました。

「佐保姫(さほひめ)」は春の神です。

五行説では春は東の方角にあたります。
平城京の東に佐保山があるために。
春の神は佐保姫と呼ぶようになりました。

白く柔らかな春霞の衣をまとう若々しい女性です。
竜田山の神で秋の竜田姫と対を成すことになります。

「冬将軍」

とはだれのつくった「ことば」か。

すごい言葉と感嘆致します。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(Johann Wolfgang von Goethe)
の「魔王:Erlkonig」*は。
「おそい冬の夜」の「嵐のなかを馬駆ける」
「父親」と「子」の情景を描写したものです。

かならずしも「冬の夜」を情景と考えなくても
「魔王」の詩*の
その「魔王」の「おそろしさ」は通じます。


魔王(Erlkonig)が。
どのようなものであるかは様々な議論があります。
その名前は字義的には「ハンノキの王」を意味する。

ゲーテは「ハンノキの王」Erlkonigから。
樹木の精霊の王として。
魔王を設定し想像力を膨らませたものです。

この詩はゲーテによって
1782年の歌劇『漁師の娘』
(Die Fischerin) の一部として作詞されました。

-------------------------------

『魔王』はデンマークで生まれた

「比較的新しい伝承」であると考えられます。

それをヨハン・ゴットフリート・ヘルダーが
ドイツ語に翻訳した『ハンノキの王の娘』
(Erlkonigs Tochter)が
ゲーテの詩の元になっています。

これはヘルダーが1778年に出版し
た『歌の中の人々の声』
(Stimmen der Volker in Liedern)という
民謡を集めた本に収録されています。

魔王(Erlkonig)が。
どのようなものであるかは様々な議論があります。
その名前は字義的には「ハンノキの王」を意味する。
英訳としては。
「妖精の王」(Elf King)がよく用いられます。
それに当たるドイツ語は。
「Elfenkonig」になってしまいます。

よく聞かれる説としては「Erlkonig」は
デンマーク語で妖精の王を意味する
「ellerkonge」または「elverkonge」からの
誤訳だとするものがあります。

しかし。
ゲーテはむしろその「ハンノキの王」から。
樹木の精霊の王として。
魔王を設定し想像力を膨らませたものです。

ドイツおよびデンマークの伝承では
魔王は死の前兆として登場します。
その意味では
「アイルランドのバンシー」に似ています。

魔王は死に瀕した人物の前に現れます。
魔王の姿かたちや表情がこれから
その人物に訪れる死の内容を表します。

苦しい表情であれば苦しい死であるし
穏やかな表情であれば穏やかな死であるという。

別の解釈としては
妖精の王に触れられた者は必ず死に至るという
伝承が元になったという説もあります。

-------------------------------

「新年」そして「初春」。

今は「春」

早いです。
速いものです。
速いのか早いのか。
はやいのか。

けさ暗いうち
地をはうような「春吹雪:はるふぶき」の
暴風がふきました。

「山茶花(さざんか)」と「春吹雪:はるふぶき」
は相性が。よくないようです。

「或は」極めて相性がよいのかもしれません。
どちらかです。

暗い寒い朝に。
山茶花(さざんか)の花びらが。
夜の間に「春吹雪:はるふぶき」の。
弓風に射られて。
白鷺の羽が舞いおりているようです。

「冬」の「木枯らし」の音は。
宙を舞う前の
「むささび」の声のような。
「なきごえ」でした。
いまはもう「木枯らし」の声は聞こえません。

いまは。
「春吹雪:はるふぶき」の。
歌声にかわりました。

そして「春」。

「佐保姫(さほひめ)」のワルツ
が聞こえます。
「春吹雪:はるふぶき」。
「「春」いちばん」。

今日の朝暗いうちに。
秋の暗闇の地面のうえから。

「早朝に「春かぜ」の音」
が聞こえました。

不思議な「「春」の「春かぜ」の音」。
「鳴き声」のようです。

いつしか。
「春吹雪:はるふぶき」と。
「「春かぜ」の音」だけになりました。

「春かぜ」と
「春吹雪:はるふぶき」は。
早朝暗いうちにふくものである
ことがわかります。

「絵」にかきたい「音」なのです。

面白いが「おそろしい」情景であるような気も致します。
しいてこわい光景をおもいうかべるのであれば

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(Johann Wolfgang von Goethe)
の「春」の「魔王」のようになるのでしょう。

「春」の声。
「こうこう」と鳴く。
「春吹雪:はるふぶき」
の風音がくわわっていきます。

その「春吹雪:はるふぶき」の音の。
背景に流れる「通奏低音:Generalbass;ゲネラル・バス」*
「はるのはるかぜ」のこえは。
暗闇の「はるの足音」のように聞こえる。
あかるい「春」の日に。
「陽射しの降るまち」では。
「足音だけが遠ざかっていく」「足音」

「とぼとぼ」
にしだいに重複してきました。
「春」のあさの「あしおと」と「さむさ」のさるあしおとの。
そして「春」のあしおとの。
「フーガ」と「カノン」。
「春吹雪:はるふぶき」はトッカータ。
「はるいちばん」は「フーガ」と「カノン」。


-------------------------------

通奏低音(つうそうていおん)とは
バロック音楽において行われる演奏形態の一つです。
低音部の旋律とともに即興的な和音を付け加えて演奏する形態です。
イタリア語のバッソ・コンティヌオ(Basso continuo)

の訳語です。
伴奏楽器が間断なく演奏し続けるということからこの名があります。
略してコンティヌオと呼ぶことも多いです。
ドイツ語のゲネラルバスも使われることがあります。

-------------------------------

常緑の木々の深冬葉のいろ。
緑がますますあざやかに。
深まる秋におちついて。
考えるが如く
「ロダンの彫塑」の色合いです。

常緑の木々の葉は。
深緑(ふかみどり)になりました。
そして「冬」をむかえて。
「冬緑」のいろあいに
うつろいできました。
もう「緑をうつろいて」
さすがにつかれた黄赤色の葉もみえます。
枯れ葉も樹木のにぎわいです。木々の防寒衣としては
なくてはならないものです。
「春」をむかえます。

「新年」
「春」の夜明(よあけ)の空から。
「春」の陽がのぼり。
「春」の日の「空色」になってきました。

けれども。
朝暗いうちはミルクのはいった
コバルトのような
カフエ・オレ・コバルトの空色です。
そして雲は天高く「春」の雲です。

あさの06:00AMころに。

東の空
さやかににあかるく
まだくらくあおく
しだいに
雲多い空はラピズラズリからトルコ石
のようににうつろうように。
しらんできます。

その上空にさらに。
明らかなる大きな質量のある。
「深まる冬の気配」を感じます。

春野路はた見たりビロードのしだ
春わらべのごときビロードのしだ
春わらびのごとく輝けりビロードのしだ
春山奥にひそむビロードのしだ
春しのぶの羊歯(しだ)ビロードのしだ
春めずらしき羊歯ビロードのしだ
春ときわの緑のほのほビロードのしだ
春山奥のしだのビロードのしだ
春「まち」にもいきるビロードのしだ
春けなげなりもあはれなりビロードのしだ
春生い立ちしらずビロードのしだ
春されどそのちからこそとほとしビロードのしだ

「春」きたれり。

「春」いざいまこそは

「春」よき季節にあらむ

「春」ふと空をみる

今時にもかかわらず放射冷却で
朝はとても寒いが。
「ぬくもり」はある。

確実に日は長くなりました。
葉木(はき)の樹木は「木」にかわり。
秋の木から「冬の木」にうつろいさらに
「冬の木」から。
「「春」の木」にうつろう時期
です。

外路樹の若葉は
緑濃くオリーブの葉のごとし
つみとりたくなる
ほどにきれいです。
けれどもひそやかに木々の葉にも
「深い冬からさらに「春」」
の気配がうつろいて。
うつります。

そして春の「佐保姫(さほひめ)」
が微笑みをうかべみつめています。

春まちなみ蒼く(あおく)
春いろどりて
春木々の榛葉のかがやけり
春暑さの夏秋をうつろひて
春ふかまるみどりの冬木なり
春しずまるみどりの冬木なり
春みのりの冬こそありがたし
春みのりの冬こそこひしかり
春虫なきてささやけり
春木々は榛葉にかがやけり

道端の野草もかわいらしい。
冬化粧をして。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は気温がさがり大気は不安定です。
「寒い」。
寒いと首都高の自動車も暗い中
「辛そうな運転の車」が多いです。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成21年1月12日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)
は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)
は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
-------------------------------

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
-------------------------------

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。
梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼の青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝

「今日は何の日」は。

私が大変興味をもっている
画家魂のかたまりの画家。

ワシリー・カンディンスキーと並び。
本格的な抽象絵画を描いた。
最初期の画家とされる画家。

1921年代表作である、
水平・垂直の直線と三原色から成る
「コンポジション」の作風を確立した
画家。

1872年 - ピエト・モンドリアン、画家、芸術家(+ 1944年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

ピエト・モンドリアン
(Piet Mondrian、
本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン
Pieter Cornelis Mondriaan
1872年3月7日 - 1944年2月1日)は1。
9世紀末〜20世紀のオランダ出身の画家です。

ワシリー・カンディンスキーと並び。

本格的な抽象絵画を描いた最初期の画家とされます。

++++++++++++++++++++++

ピエト・モンドリアン:
Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン
は。
モンドリアンは。

初期には風景、樹木などを描いていました。

やがて完全な抽象へ移行致します。
有名な「リンゴの樹」の連作を見ると。

樹木の形態が単純化され。
完全な抽象へと向かう過程が読み取れます。

++++++++++++++++++++++

ピエト・モンドリアン:
Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン

作風は、表現主義の流れをくむ
カンディンスキーの「熱い抽象」とはまったく対照的です。

「冷たい抽象」と呼ばれます。
水平と垂直の直線のみによって分割された画面に。
赤・青・黄の三原色のみを用いるという
ストイックな原則を貫いた一連の作品群が
もっともよく知られています。

++++++++++++++++++++++

ピエト・モンドリアン:
Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン
は。

モンドリアンは1。
872年オランダのアメルスフォールトに生まれました。

幼少の頃に叔父に連れられて郊外にスケッチに出るなどして
絵画への興味を抱きました。

1892年から3年間の間。
アムステルダム国立美術アカデミーにおいて。
伝統的な美術教育を受けました。

この頃から線描よりも色彩を重視する傾向が作風に現れています。

++++++++++++++++++++++

ピエト・モンドリアン:
Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン
は。

アカデミー卒業後は次第にリアリズムを離れるようになります。

印象派やポスト印象派
特にゴッホやスーラの影響を受けた画風に転しました。

この頃のモンドリアンは。
「色と線がそれ自体でもっと自由に語ることができるように」
することを試みていました。

++++++++++++++++++++++

ピエト・モンドリアン:
Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン
は。
1911年、アムステルダムにおける美術展で。

キュビスムの作品に接して深い感銘を受けました。
パリへ行く決心を致します。

1912年から1914年までパリに滞在し。
ピカソやブラックが提唱するキュビスムの理論に従って
事物の平面的・幾何学的な形態への還元に取り組みました。

その過程でモンドリアンは抽象への志向を強め。

彼の考える「キュビスムの先」を目指すことになります。

++++++++++++++++++++++

ピエト・モンドリアン:
Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン
の。

キュビスムの探求がもたらしたこの転機について。

モンドリアンは
「キュビスムは自らの発見がもたらす
論理的帰結を受け止めていないことが、
徐々にわかってきた。
つまりキュビスムが展開する抽象化は、
その究極の目標である、
純粋なリアリティの表現へと。
向かっていないと思うようになった」
と述べています。

彼はそのリアリティの表現が
“純粋造形”によってのみ確立され得ると感じ。
より一層の表現の探求に向かうことになりました。

++++++++++++++++++++++

ピエト・モンドリアン:
Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン
は。

1914年、父親の病気の知らせを受けて
オランダに戻ったモンドリアンは。
折りしも始まった第一次大戦のためにパリに戻れなくなります。

オランダに残ることを余儀なくされました。

しかし戦争のさなかに多くの芸術家と知り合いました。

特にテオ・ファン・ドースブルフと出会ったことは
モンドリアンにとっても大きな転機となりました。

++++++++++++++++++++++

ピエト・モンドリアン:
Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン
は。
1917年にはドースブルフと共に
芸術雑誌『デ・ステイル』を創刊。

ここで彼らの唱えた芸術理論が「新造形主義」と
呼ばれるものです。

モンドリアンは1925年に『デ・ステイル』を去るまで
(もっとも住居は1919年にはパリに移していた)。

エッセイを寄稿するなどメンバーの一員として活動致しました。

彼は宇宙の調和を表現するためには
完全に抽象的な芸術が必要であると主張致しました。

その創作は一貫して抽象表現の可能性の
探求に向けられるようになります。

極限まで幾何学化・単純化された海と埠頭や樹木の絵から。

一切の事物の形態から離れた抽象絵画への移行が起こりました。

短く黒い多数の上下左右の線のみによる絵。
三色からなる四角形の色面を様々な間隔で配置した絵など。

様々な作品を試みました。

この試行錯誤の時期から、
作品には「コンポジション」の題が付けられるようになりました。

++++++++++++++++++++++

ピエト・モンドリアン:
Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン
は。

抽象表現の実験が続く中で。
次第にモンドリアンの絵は黒い上下左右の直線と。

その線に囲まれた様々な大きさの四角形の色面から
構成されるようになりました。

色面の色の種類も青・赤・黄の三色に限定されるようになり
(黒の色面があることもある)、
作品によって三色全てかあるいは
一色か二色のみが使われるようになりました。

こうして1921年、モンドリアンの代表作である、
水平・垂直の直線と三原色から成る
「コンポジション」の作風が確立されました。

++++++++++++++++++++++

ピエト・モンドリアン:
Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン
は。

モンドリアンは純粋なリアリティと
調和を絵画において実現するためには。

絵画は平面でなくてはならない
(つまり従来の絵画のような
空間や奥行きの効果は除かれねばならない)
と考えました。

また自らの絵画こそ純粋な
リアリティと調和を実現しうると考えていました。

そのような作品を創るために
、彼は作品ごとに構図を決めるにあたって
苦心と試行錯誤を重ねました。

色むらやはみ出した部分の一切ない
厳密な線や色面を描きあげるために
細心の注意と努力を払っていたのです。

++++++++++++++++++++++

ピエト・モンドリアン:
Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン
の現実。

そうした抽象画のモンドリアンを理解する人も多かったが。
生活を支えるために
淡い色調で描かれた植物(特に花)の絵を描いては
売っていたということです。

またモンドリアンはキャンバスを45度傾けた
(角を上下左右にもってきた)作品を創ったり。
額縁を用いなかったりなど描画以外の面でも様々な工夫を凝らしました。

++++++++++++++++++++++

1930年代、モンドリアンは。

抽象画家のグループ
「抽象・創造(アプストラクシオン=クレアシオン)」
に参加するなどしながら。

パリで一貫して自らの到達した「コンポジション」
の作品を描き続けました。
1937年にはエッセイ
『造形芸術と純粋造形芸術』を刊行しています。

1938年にはロンドンに移るが。
これは迫る戦争を避けてのものでした。

ロンドンでの作品には。
作風の点ではさほどの変化はないものの。
『コンコルド広場』などのように
作品の題名に地名などが現れるようになりました。
1940年には激しくなりつつある戦火を避けて
ニューヨークに移住致しました。

++++++++++++++++++++++

「合衆国USA」のピエト・モンドリアン:
Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン

亡命してきたモンドリアンは一部で注目されました。
『フォーチュン』誌は亡命芸術家12人を特集した記事において
モンドリアンも取り上げました。

タイポグラフィーやレイアウト、
建築、工業デザインなど
様々な商業美術に与えた影響の大きさを強調
致しました。

アメリカに移ってからのモンドリアンは
上下左右の直線に黒以外の色も用いるようになり
(それ以前にも直線のみの作品では
黒以外の色を用いたこともあったが。

色面と共に黒以外の直線を用いたのは
ニューヨーク時代以降である)。

それをきっかけにして
モンドリアンの絵はより
華やかに展開していくことになりました。

ニューヨーク時代の代表作
『ブロードウェイ・ブギウギ』は。
アメリカで初めて聴いたブギウギに
触発されて描かれたものです。

上下左右の直線と三原色の原則に従いつつも。
上下左右の直線は黄色になり
その直線の部分部分に赤・青・白の色面が
数多く描かれるなど華やかな画面構成となり。

完全な抽象絵画でありながら。
画面からはニューヨークの街の喧騒やネオンの
輝きさえ感じ取れるようだとする評者もいます。

++++++++++++++++++++++

1942年、モンドリアンは生涯初の個展を開きました。
1943年には『ブロードウェイ・ブギウギ』が
ニューヨーク近代美術館に購入されるなど。
その作品に対する評価もようやく高まりはじめました。

もっともモンドリアン自身はそれまでの
自らの作品に満足することなく。
目指す絵画を創り上げるために試行錯誤を続けていました。

亡くなる少し前に彼は、自分の目標は次々に高くなるので。

その実現に悪戦苦闘すると述べています。

1944年、風邪をこじらせて肺炎となり。
未完の『ヴィクトリー・ブギウギ』を
遺してニューヨークで死去致しました。

絵を平面として捉え、額縁を取り除き。
何かの描写ではない一つのそれ自体として完成された
表現としての絵を追求したモンドリアンの姿勢は。
様々な変化を経つつ抽象表現主義や
ミニマル・アートに受け継がれています。

++++++++++++++++++++++

ピエト・モンドリアン:
Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン
代表作
ブロードウェイ・ブギウギ (1942-43)(ニューヨーク近代美術館)
赤・青・黄のコンポジション(1930)(個人蔵)

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
ピエト・モンドリアン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3

ピエト・モンドリアン(Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン Pieter Cornelis Mondriaan 1872年3月7日 - 1944年2月1日)は19世紀末〜20世紀のオランダ出身の画家。ワシリー・カンディンスキーと並び、本格的な抽象絵画を描いた最初期の画家とされる。

モンドリアンは、初期には風景、樹木などを描いていたが、やがて完全な抽象へ移行する。有名な「リンゴの樹」の連作を見ると、樹木の形態が単純化され、完全な抽象へと向かう過程が読み取れる。作風は、表現主義の流れをくむカンディンスキーの「熱い抽象」とはまったく対照的で、「冷たい抽象」と呼ばれる。水平と垂直の直線のみによって分割された画面に、赤・青・黄の三原色のみを用いるというストイックな原則を貫いた一連の作品群がもっともよく知られる。

生涯
モンドリアンは1872年、オランダのアメルスフォールトに生まれた。幼少の頃に叔父に連れられて郊外にスケッチに出るなどして、絵画への興味を抱く。1892年から3年間、アムステルダム国立美術アカデミーにおいて、伝統的な美術教育を受けた。この頃から線描よりも色彩を重視する傾向が作風に現れている。アカデミー卒業後は次第にリアリズムを離れるようになり、印象派やポスト印象派、特にゴッホやスーラの影響を受けた画風に転ずる。この頃のモンドリアンは「色と線がそれ自体でもっと自由に語ることができるように」することを試みていた。

1911年、アムステルダムにおける美術展でキュビスムの作品に接して深い感銘を受け、パリへ行く決心をする。1912年から1914年までパリに滞在し、ピカソやブラックが提唱するキュビスムの理論に従って事物の平面的・幾何学的な形態への還元に取り組む。その過程でモンドリアンは抽象への志向を強め、彼の考える「キュビスムの先」を目指すことになる。キュビスムの探求がもたらしたこの転機について、モンドリアンは「キュビスムは自らの発見がもたらす論理的帰結を受け止めていないことが、徐々にわかってきた。つまりキュビスムが展開する抽象化は、その究極の目標である、純粋なリアリティの表現へと向かっていないと思うようになった」と述べている。彼はそのリアリティの表現が“純粋造形”によってのみ確立され得ると感じ、より一層の表現の探求に向かうことになる。

1914年、父親の病気の知らせを受けてオランダに戻ったモンドリアンは、折りしも始まった第一次大戦のためにパリに戻れなくなり、オランダに残ることを余儀なくされる。しかし戦争のさなかに多くの芸術家と知り合い、特にテオ・ファン・ドースブルフと出会ったことはモンドリアンにとっても大きな転機となった。1917年にはドースブルフと共に芸術雑誌『デ・ステイル』を創刊。ここで彼らの唱えた芸術理論が「新造形主義」と呼ばれるものである。モンドリアンは1925年に『デ・ステイル』を去るまで(もっとも住居は1919年にはパリに移していた)、エッセイを寄稿するなどメンバーの一員として活動した。彼は宇宙の調和を表現するためには完全に抽象的な芸術が必要であると主張し、その創作は一貫して抽象表現の可能性の探求に向けられるようになる。極限まで幾何学化・単純化された海と埠頭や樹木の絵から、一切の事物の形態から離れた抽象絵画への移行が起こり、短く黒い多数の上下左右の線のみによる絵、三色からなる四角形の色面を様々な間隔で配置した絵など、様々な作品を試みた。この試行錯誤の時期から、作品には「コンポジション」の題が付けられるようになる。

抽象表現の実験が続く中で、次第にモンドリアンの絵は黒い上下左右の直線と、その線に囲まれた様々な大きさの四角形の色面から構成されるようになる。色面の色の種類も青・赤・黄の三色に限定されるようになり(黒の色面があることもある)、作品によって三色全てかあるいは一色か二色のみが使われるようになる。こうして1921年、モンドリアンの代表作である、水平・垂直の直線と三原色から成る「コンポジション」の作風が確立された。モンドリアンは純粋なリアリティと調和を絵画において実現するためには、絵画は平面でなくてはならない(つまり従来の絵画のような空間や奥行きの効果は除かれねばならない)と考え、また自らの絵画こそ純粋なリアリティと調和を実現しうると考えていた。そのような作品を創るために、彼は作品ごとに構図を決めるにあたって苦心と試行錯誤を重ね、色むらやはみ出した部分の一切ない厳密な線や色面を描きあげるために細心の注意と努力を払っていた。そうした抽象画のモンドリアンを理解する人も多かったが、生活を支えるために淡い色調で描かれた植物(特に花)の絵を描いては売っていたという。またモンドリアンはキャンバスを45度傾けた(角を上下左右にもってきた)作品を創ったり、額縁を用いなかったりなど、描画以外の面でも様々な工夫を凝らした。

1930年代、モンドリアンは抽象画家のグループ「抽象・創造(アプストラクシオン=クレアシオン)」に参加するなどしながら、パリで一貫して自らの到達した「コンポジション」の作品を描き続けた。1937年にはエッセイ『造形芸術と純粋造形芸術』を刊行している。1938年にはロンドンに移るが、これは迫る戦争を避けてのものであった。ロンドンでの作品には、作風の点ではさほどの変化はないものの、『コンコルド広場』などのように作品の題名に地名などが現れるようになる。1940年には激しくなりつつある戦火を避けてニューヨークに移住した。亡命してきたモンドリアンは一部で注目され、『フォーチュン』誌は亡命芸術家12人を特集した記事においてモンドリアンも取り上げ、タイポグラフィーやレイアウト、建築、工業デザインなど様々な商業美術に与えた影響の大きさを強調した。アメリカに移ってからのモンドリアンは上下左右の直線に黒以外の色も用いるようになり(それ以前にも直線のみの作品では黒以外の色を用いたこともあったが、色面と共に黒以外の直線を用いたのはニューヨーク時代以降である)、それをきっかけにしてモンドリアンの絵はより華やかに展開していくことになる。ニューヨーク時代の代表作『ブロードウェイ・ブギウギ』は、アメリカで初めて聴いたブギウギに触発されて描かれたものであり、上下左右の直線と三原色の原則に従いつつも、上下左右の直線は黄色になり、その直線の部分部分に赤・青・白の色面が数多く描かれるなど華やかな画面構成となり、完全な抽象絵画でありながら、画面からはニューヨークの街の喧騒やネオンの輝きさえ感じ取れるようだとする評者もいる。

1942年、モンドリアンは生涯初の個展を開いた。1943年には『ブロードウェイ・ブギウギ』がニューヨーク近代美術館に購入されるなど、その作品に対する評価もようやく高まりはじめる。もっともモンドリアン自身はそれまでの自らの作品に満足することなく、目指す絵画を創り上げるために試行錯誤を続けていた。亡くなる少し前に彼は、自分の目標は次々に高くなるので、その実現に悪戦苦闘すると述べている。1944年、風邪をこじらせて肺炎となり、未完の『ヴィクトリー・ブギウギ』を遺してニューヨークで死去した。絵を平面として捉え、額縁を取り除き、何かの描写ではない一つのそれ自体として完成された表現としての絵を追求したモンドリアンの姿勢は、様々な変化を経つつ抽象表現主義やミニマル・アートに受け継がれている。

代表作
ブロードウェイ・ブギウギ (1942-43)(ニューヨーク近代美術館)
赤・青・黄のコンポジション(1930)(個人蔵)
ウィキメディア・コモンズには、ピエト・モンドリアン に関連するマルチメディアがあります。

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
3月7日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%887%E6%97%A5

できごと
1788年 - イギリスの探検家ジェームズ・クック(キャップテン・クック)がハワイ島に到達。

1866年(慶応2年1月21日) - 薩摩藩と長州藩との間で薩長同盟が成立する。

1873年 - 神武天皇即位日を紀元節と改称。

1900年 - 未成年者喫煙禁止法公布。

1908年 - 青函連絡船運行開始。

1919年 - 株式会社白木屋(現・東急百貨店)設立。

1927年 - クロンシュタットの反乱勃発。

1927年 - 北丹後地震発生。

1932年 - 東京都墨田区玉ノ井の「お歯黒どぶ」から
男のバラバラ死体発見(玉ノ井バラバラ事件)。「バラバラ」の表現の嚆矢。

1936年 - ラインラント進駐。

1948年 - 「警察法」・「消防組織法」施行。

1949年 - ドッジ・ライン発表。

1968年 - 石川テレビ放送設立。

1972年 - 連合赤軍リンチ事件で最初の遺体が発見される。

1977年 - 第1回アラブ・アフリカ首脳会議がカイロで開催される。

1980年 - 山口百恵が三浦友和との婚約と引退を発表。

1983年 - 新潟テレビ21設立。

誕生日
189年 - プブリウス・セプティミウス・ゲタ、ローマ皇帝(+ 211年)

1602年(慶長7年1月14日)- 狩野探幽、狩野派絵師(+ 1674年)

1693年 - クレメンス13世、ローマ教皇(+ 1769年)

1780年 - アレキサンドレ・ドシャペル、非公式のチェスの世界チャンピオン(+ 1847年)

1792年 - ジョン・ハーシェル 、天文学者(+ 1871年)

1802年 - エドウィン・ランドシーア、画家(+ 1873年)

1829年(文政12年2月3日)- 西周、啓蒙家・教育者(+ 1897年)

1837年(天保8年2月1日)- 児島惟謙、裁判官(+ 1908年)

1872年 - ピエト・モンドリアン、画家、芸術家(+ 1944年)

1873年 - 川上秋月、俳優、噺家、講釈師、寄席芸人(+ 1943年)

1875年 - モーリス・ラヴェル、作曲家(+ 1937年)

1884年 - 後藤文夫、政治家(+ 1980年)

1889年 - 堤康次郎、実業家・政治家・第44代衆議院議長(+ 1964年)

1899年 - 石川淳、小説家(+ 1987年)

1921年 - 藤原審爾、小説家(+ 1984年)

1924年 - 安部公房、小説家(+ 1993年)

1924年 - エドゥアルド・パオロッツィ、彫刻家・美術家(+ 2005年)

1925年 - 野口正明、元プロ野球選手(+ 2004年)

1926年 - 萩原延壽、歴史家(+ 2001年)

1928年 - 仁木悦子、小説家(+ 1986年)

1930年 - 山下毅雄、作曲家(+ 2005年)

1931年 - 井上洋介、絵本作家・イラストレーター

1932年 - 河内桃子、女優(+ 1998年)

1936年 - 種村直樹、鉄道研究家

1940年 - ハンナ・ウィルケ、フェミニズム美術の
パフォーミング・アーティスト、画家、彫刻家、写真家(+ 1993年)

1940年 - 上條恒彦、俳優・歌手

1940年 - 上村一夫、漫画家(+ 1986年)

1945年 - 谷垣禎一、衆議院議員、自民党政調会長

1946年 - 松井孝典、惑星科学者

1947年 - 牧田吉明、新左翼活動家

1954年 - 福島知春、元プロ野球選手
1955年 - 佐藤準、作曲家・アレンジャー
1955年 - 片岡功、俳優
1956年 - 岡まゆみ、女優
1957年 - オール阪神、漫才師(オール阪神・巨人)
1958年 - 高山文彦、ノンフィクション作家
1959年 - トム・レーマン、ゴルファー
1960年 - イワン・レンドル、元テニス選手
1960年 - 尾崎加寿夫、サッカー選手
1961年 - 高市早苗、衆議院議員
1965年 - 宮里太、元プロ野球選手
1966年 - 櫻井敦司、ミュージシャン(BUCK-TICKボーカル)
1967年 - 矢沢あい、漫画家
1969年 - ゆうきとも、マジシャン
1970年 - 王理恵、スポーツキャスター
1972年 - チャン・ドンゴン、俳優
1973年 - 羽田惠理香、タレント(元CoCo)
1973年 - 上原茂行、元ヤクルトスワローズバッテリーコーチ
1975年 - 菊地原毅、プロ野球選手
1978年 - 西出大一、芸術家
1979年 - 中山由起枝、射撃選手
1980年 - ローラ・プレポン、女優
1982年 - 山川恵里佳、タレント
1982年 - 藁谷麻美、元声優、アナウンサー
1988年 - 守崎哲平、俳優
1989年 - SATOMI'、歌手
1995年 - 菊池風磨、俳優、ジャニーズJr.、B.I.Shadowのメンバー
2003年 - メイショウサムソン、競走馬

忌日
紀元前322年 - アリストテレス、古代ギリシアの哲学者(* 紀元前384年)

161年 - アントニヌス・ピウス、ローマ皇帝(* 86年)

664年(麟徳元年2月5日) - 玄奘三蔵、三蔵法師、四大訳経家の一人(* 602年)

744年(天平16年閏1月13日)- 安積親王、聖武天皇第二皇子(* 728年)

1274年 - トマス・アクィナス、哲学者・神学者(* 1225年頃)

1619年(元和5年1月21日)- 中井正清、大工頭(* 1565年)

1625年 - ヨハン・バイエル、天文学者(* 1572年)

1645年(正保2年2月10日)- 本多忠利、第3代岡崎藩主(* 1600年)

1657年(明暦3年1月23日)- 林羅山、儒学者(* 1583年)

1724年 - インノケンティウス13世、第244代ローマ教皇(* 1655年)

1748年 - ピエトロ・ジャンノーネ、歴史家(* 1676年)

1817年(文化14年1月20日)- 柳沢保光、第3代大和郡山藩主(* 1753年)

1842年 - パウル・フリードリヒ、メクレンブルク=シュヴェリーン大公(* 1800年)

1873年 - サーモン・P・チェース、元アメリカ合衆国財務長官・オハイオ州知事(* 1808年)

1881年 - フランツ・ミクロシッチ、言語学者(* 1813年)

1887年 - 黒田長溥、第11代福岡藩主(* 1811年)

1888年 - クリストファー・メミンジャー、元アメリカ連合国財務長官(* 1803年)

1905年 - 竹崎順子、教育家

1919年 - 三島彌太郎、第8代日本銀行総裁(* 1867年)

1925年 - ゲオルギー・リヴォフ、ロシア臨時政府首相(* 1861年)

1931年 - テオ・ファン・ドースブルフ、画家(* 1883年)

1932年 - アリスティード・ブリアン、フランス首相(* 1862年)

1934年 - 三島霜川、小説家(* 1876年)

1940年 - エドウィン・マーカハム、詩人(* 1852年)

1954年 - オットー・ディールス、化学者(* 1876年)

1959年 - 鳩山一郎、日本の第52-54代内閣総理大臣(* 1883年)

1971年 - 西川辰美、漫画家(* 1916年)

1971年 - リチャード・モンタギュー、論理学者・数学者(* 1930年)

1975年 - ミハイル・バフチン、思想家(* 1895年)

1979年 - 雷震、中華民国の政治家・評論家(* 1897年)

1981年 - 出光佐三、実業家・出光興産創業者(* 1885年)

1981年 - ヒルデ・スパーリング、テニス選手(* 1908年)

1981年 - キリル・コンドラシン、指揮者(* 1914年)

1982年 - 竹中郁、詩人(* 1904年)

1983年 - イーゴリ・マルケヴィチ、作曲家・指揮者(* 1912年)

1983年 - ドナルド・マクリーン、イギリスの外交官・ソビエト連邦の諜報員(* 1913年)

1986年 - ジェイコブ・ジャヴィッツ、元アメリカ合衆国上院議員(* 1904年)

1988年 - ディヴァイン、女優・歌手(* 1945年)

1989年 - 石原幹市郎、日本の元自治大臣(* 1903年)

1991年 - 森類、随筆家(* 1911年)

1995年 - 土井勝、料理研究家(* 1921年)

1996年 - 佐藤守良、日本の元農林水産大臣(* 1922年)

1997年 - エドワード・ミルズ・パーセル、物理学者(* 1912年)

1999年 - スタンリー・キューブリック、映画作家(* 1928年)

2000年 - 鶴岡一人、プロ野球選手・監督(* 1916年)

2000年 - 二宮洋一、サッカー選手・監督(* 1917年)

2000年 - チャールズ・グレイ、俳優(* 1928年)

2000年 - ウィリアム・ドナルド・ハミルトン、生物学者(* 1936年)

2001年 - 三原朝雄、日本の元文部大臣・防衛庁長官(* 1909年)

2001年 - 花沢徳衛、俳優(* 1911年)

2001年 - 岩垂寿喜男、政治家(* 1929年)

2003年 - 黒岩重吾、作家(* 1924年)

2007年 - ヒダシュ・フリジェシュ、作曲家(* 1928年)

2007年 - ピノ・ランチェッティ、ファッションデザイナー(* 1928年)

2008年 - 上田トシコ、漫画家(* 1917年)

2008年 - フランシス・ピム、イギリスの外務英連邦大臣(* 1922年)

記念日・年中行事
消防記念日(日本)
1948年3月7日に「消防組織法」が施行されたことから。
明治以来消防は警察の所管とされていたが、これにより消防庁の所管となった。
1950年に国家消防庁(現在の消防庁)が制定。

花粉症の日(日本)
スギの花粉は、元日からの最高気温の合計が
450度を超えると本格的に飛び始め、
750度に達する頃がピークになる。

それはちょうど3月上旬になるので、
晴れの特異日である3月7日に制定されたとする説がある。

ただし、制定主体未確認、制定日未確認のため
「花粉症の日」は存在しない可能性もある。