東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年3月19日(木曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年3月19日(木曜日)

やっと。

「春」の「3月」

になりました。

まばゆいほど。

うれしい。

「春」の陽射しです。

ももいろの。

とてもあかるい陽射しです。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

「春」になりました。

今年も春がきました。

「春」がきて。

今は。

「春」はふうせんのように

ひろがってゆく季節です。

ひなまつりはおわり。

野原には。

たんぽぽが咲き。

すみれが咲き。

よもぎや。

すぎながいっぱいになりました。

「春」は「川の水音」が。

「せせらぎ」の。

「ながれのおと」

としてきこえるようになりました。

「春」の小川。

「さらさら」とながれる。

はるのおがわ。

なるほどと。

とても感銘致しました。

春分の日もすぎれば。
「さくら」咲きはじめ
「さくら」がおわり。
「4月」が終われば。
「5月」になり。
「5月」もおわれば。
6月に。「夏」になり。
6月も終われば。
7月 たなばた。
7月 もおわれば。
せみのなく8月。
8月の夏はすぎれば。
9月の秋になり秋の虫が鳴く。
そして9月がおわり。
中秋10月なり紅葉の季節。
そして10月がおわり。
「11月」になり。
晩秋「11月」もおわり12月の「冬」。
「12月」になればまた「年」があけ。
また「初春」がくる。

そして来年も「春」の「3月」がくる。

「はつはる」の「3月」です。
「晩冬」の冬はおわりました。

「雪国の冬」はおわりました。

そして「12月」の冬至を。

すぎて「陽」はもうすでに

日々たかくなりつつあります。

「春」がきてそして「夏」に向かうのです。

「春」です。

「昨年」12月の冬至は

おわりました。

陽は日々たかくなっている。

とてもよくわかります。

朝陽ののぼるのが早くなりました。

夕陽がおりるのは遅くなりました。

朝の「春」の陽射しは窓越しにも「まばゆい」

くらいです。

夕暮れの「春」の陽射しは「きかんぼう」

の「やんちゃぼうず」のようです。

おちつきません。

まことに。

冬来たりなば春遠からじ。

ふゆきたりなば

はるとおからじ

(出 典は。

 イギリスの詩人シェリーの

『西風に寄せる歌』の一節。

英 語の原文: 

If winter comes,

can spring be far behind? )

「秋」から「冬」への

移り変わりは

二階から。

「かけあし」の足音のきこえる。

怒涛のごとき「はやさ」でした。

「かけあし」10人分

のようでした。

「9月」の初秋がおわり。
「名月中秋10月もおわり」ました。
「11月」。

「11月」もおわりました。
「12月」もおわりました。
「新年」「初春」の「1月」もおわり。
今は
「2月」「晩冬」もおわりました。

「晩秋」から「冬」への移り変わりは
「かけあし」のようにうつろいました。

一方
「春」はゆっくりと。

ゆっくりと。

ゆっくりと。あるいてきます。

だから。

「春」をまつのであれば。

「春」がゆっくりと。

歩いてくるのをまたなければ。

なりません。

もう「春」ですね。

「冬」はかけあしでやってくる。

「春」はゆっくりと歩いてやってくる。

さきのことすぎるかもしれないが「来年」。

このように「時」のうつろいを

心はせれば。

考えると「おそろしいもの」です。

考えなければ。
「なおおおそろしい」
ものであるものかもしれない。

「考えずにいるつけ」がまわって
くるからかもしれません。

「来年」のことを考えれば「鬼」が笑う。
「来年」のことを考えずにすむのであれば「鬼」は
笑わないのでしょう。
「鬼」とはなんだろう。

今日の深夜早朝03:15amには。

久方ぶりに。

大きな「春」の「星空」がみえました。

早朝くらいうちは。

空に月。

「お月様」が「「冬」雲のじゅうたん」

天高くにねそべって。

かさををさしている

ようです。

「春」の「夜空」は「おぼろ月夜」です。

06:00amころ日があければ。
まだまだくらい朝日を背に。
西のコバルトの空高く明るい。
とても高い成層圏近くの高い高度に。

西のコバルトの空高に。
「刷毛」でひいたように「絹雲(けんうん)」が
何本も何本も。
描かれて。
たなびいていました。

実に見事な筆捌(ふでさばき)です。
ためらいのない「朝焼け」
「春」の「朝焼け色」の線描です。

「春」の朝。

「陽射し」ののぼるころは。

「西」の空

のほうが明るいのです。

朝が明けて午前になれば。

まばゆいほどの。

「春」のひざしが。

陽がのぼる。

東から。

窓のカーテンと。

木々の合間をぬって。

「外にでて!」とさそうがごとく。

よびかけてくるようです。

高い成層圏近くの高い高度に。
「刷毛でひいたように」「絹雲(けんうん)」
の端には渦巻きのような「ぬけあな」があり
「さらなる遠方の青空」が透けてみえます。

さながらにして。
東山魁夷画伯の描かれた大きな壁画。
大きな屏風絵の世界。

東山魁夷画伯の描かれた大きな絵画を
彷彿とさせますです。

東山魁夷画伯。
「よくえがかけた画伯です」。

この「あおぞら」をみていると。

陽のひかりをみていると。

とても

信じられないくらいに。

元気がわいてくることに。

気が付きました。

「太陽」の「陽射し」。

「陽射し」の「めぐみ」は。

なんと。

ありがたいことだろう。

尊いことだろう。

そら一杯の青空の

天井(てんじょう)と。

「太陽のひかりのひざし」は。

「生きとし生けるもの」にとって。

なによりもの。

まことの。

「ごほうび」なのであり。

「よろこび」です。

「太陽のひかりのひざし」は

「いのちへのめぐみ」。

「いのちのよろこび」。

ありとあらゆる「生命」「いのち」をはぐくみ。
ありとあらゆる「生命」「いのち」をたたえる。
ありとあらゆる「生命」「いのち」をなぐさめる。

「生きとし生けるもの」の「いのち」に。
さらなる。
「はるかかなた」までの。
「いきるちから」をさずけるものです。
「太陽」。
ありがたいものです。

はやいものです。
ときのたつのは。
はやいものです。

そしてふと考えれば

去年も
「12か月」が
終わりました。

中秋から晩秋にうつろい。
いまや
「寒月」の「12月」がおわり。
新年の「1月」がおわり。
「晩冬」の「2月」がおわり。

「春」です。

病院の庭園に「何本」もある
「春の花」の大木が。
いずれもが紅白の花を

緑野に見え隠れする蓮華草
のように
みのらせています。

「春の花」は。
「はつはな」で初々しいです。
けれども。
「春の花」は。

は雨に打たれると。
花は地面に紅白の毛氈(もうせん)
のように落花してしまいます。

くれない色としろ色の雪のようです。

「春の花」の花の花びら。

ひろって。
手のひらにかかげれば。
「春の花」の花のかおりは。
プラチナ色の香りが
致しました。

今は。
「春の花」が。
蕾をふくらませています。
「春の花」の。

はながは鐘(ベル)のように。
ふくらんでいます。

「春」の花の「はなびら」が。

闇夜のあいだに。

朝の早朝まだ。

「花」にもきがつかぬうちに

また地に舞い下りています。

「春の花」の花ひとつさいて。

夜の「春吹雪:はるふぶき」で。

ちったようです。

みつめれば。

「春吹雪:はるふぶき」に。

弓射られた白鷺(しらさぎ)の羽が。

舞っているようでした。

寒い「春」も。

「昆虫」の少ない時期に。

「春の花」は。

は花をさかせ。

どのように授粉して。

「実る」のだろう。

「春の花」の花ひとつさいて。

夜の「春吹雪:はるふぶき」で。

ちる。

「春の花」は。

「花」はすぐに

落下する。

このあたりに。

「春の花」

には。

ひとのよの。

「人生」の。

「解答」があるような

気が致します。

ふと野の花は。

一般的には。

香らない花が。

多いことに気づきました。

伊藤左千夫の「野菊の墓」の「野菊」は。
矢車菊 (やぐるまぎく)
はとても綺麗なむらさきの「のぎく」です。
けれども「のぎく」は香りません。
(Corn lower, Bachelor's-button)です。

因みに
最高級の(今はもうとれない)
インド・カシミール地方で産出されたの
サフアイアの色は

「矢車菊色:やぐるまそう色」といわれます。

「カシミール・ヴァイオレット」。

麦畑やとうもろこし畑の中に 咲いていたことから。
「コーン・フラワー」=「野菊」(Corn lower)
です。

別名 「矢車草(やぐるまそう)」
といわれることがあります。

実は「矢車菊 (やぐるまぎく)」と
「矢車草(やぐるまそう)」まったく違う植物です。
矢車菊 (やぐるまぎく)が「野菊」。
「矢車草(やぐるまそう)」は「高山植物」。

「野菊」は春から夏にかけて咲くむらさきの花です。

古代エジプトのツタンカーメン王の墓 からも
発見された由緒正しき「野菊」。
色は紫。むらさきです。

ツタンカーメン王の。

まだ幼な子王妃が。

「亡きツタンカーメンンに野菊の花束ささげるけなげな姿」
が鮮烈に眼に浮かびます。

この「花」が。

「野菊」です。

「野菊の墓」の「野菊」。

けれども。

「野菊」は

香らない。

毎朝暗い早朝と。

うす暗くなる午後4時ころには。

「春吹雪:はるふぶき」が

ふいている。

「春吹雪:はるふぶき」がかわりばんこに。

あちこちで

「ろうろう」「こうこう」とないています。

「春かぜ」の
「春吹雪:はるふぶき」
の「コーラス」を聞いていると。

ふと。

「この「春」におびえるひと」の気配が
脳裏をはしりました。
はてだれだろう。

うら若き乙女。
苦労に苦労をかさねて。
苦しんで苦しんだあげくに。
24歳にして世を去った
「樋口一葉」。

樋口一葉の
「うらわかき」「「冬」と「春」の短歌」がきこえるようです。

散たまるふもとの落葉わけて思ふ
埋もれぬべきは雪の山里

ちりたまるふもとのおちはわけておもふ
うもれぬへきはゆきのやまさと

庭の面につもる紅葉の色見れば
散りての後もにしきなりけり

にわのおもにつもるもみしのいろみれば
ちりてのあともにしきなりけり

世の中の秋にあはじとおくれけん
一もと野ぎく思ひあがりて

よのなかにあきにあはしとおくれけん
ひともとのきくおもひあがりて

折々に散るものどけし春雨の
はれたる軒の山桜ばな

おりおりにちるものどけしはるさめの
はれたるのきのやまさくらばな

わが園のものとおもへば初わかな
はつかなれども嬉しかりけり

わがそののものとおもへばはつわかな
はつかなれどもうれしかりけり

立ち渡る霞をみれば足引きの
山にも野にも春は来にけむ

たちわたるかすみをみれはあしひきの
やまにものにもはるはきにけむ

わたつ海の波のいづこに立ち初て
果なくつゝむ春の霞ぞ

わたつみのなみのいづこにたちそめて
はてなくつつむはるのかすみぞ

さざ波やしがの都のいにしへの
おもかげうすく立つ霞かな

ささなみやしかのみやこのいにしえの
おもかけうすくたつかすみかな

鶯のけさおとづるゝ声聞て
はじめて春の心地こそすれ

うくいすのけさおとつるるこへききて
はしめてはるのここちこそすれ

うれしくもわがものにして聞てけり
このあかつきの鶯の声

うれしきもわかものにしてきこへけり
このあかつきのうくいすのこへ

のどかなるけさの雨にやはるの野の
みどりも色まさるらむ

のとかなるけさのあめにや
はるののの
みとりのいろもまさるらむ

おくれたる友の為にとしをりして
谷間の蕨折り残しけり

おくれたるとものためにとしをりして
たのまのわらひおりのこしけり

ちりたまるふもとのおちはわけておもふ

うもれぬへきはゆきのやまさと

にわのおもにつもるもみしのいろみれば

ちりてのあともにしきなりけり

よのなかにあきにあはしとおくれけん

ひともとのきくおもひあがりて

-------------------------------

おりおりにちるものどけしはるさめの

はれたるのきのやまさくらばな

わがそののものとおもへばはつわかな

はつかなれともうれしかりけり

たちわたるかすみをみれはあしひきの

やまにものにもはるはきにけむ

わたつみのなみのいづこにたちそめて

はてなくつつむはるのかすみぞ

ささなみやしかのみやこのいにしえの

おもかけうすくたつかすみかな

うくいすのけさおとつるるこへききて

はしめてはるのここちこそすれ

うれしきもわかものにしてきこへけり

このあかつきのうくいすのこへ

のとかなるけさのあめにや

はるののの

みとりのいろもまさるらむ

おくれたるとものためにとしをりして

たのまのわらひおりのこしけり

「24歳」の「とても貧しい乙女」の。

「春」によろこび。

「春」におびえおののく。

かなしさの「おもかげ」と。

光さし輝きはずむ。

いまだお若い「御婦人」の「知」が。

「ひしひし」とよみとれます。

「冬至」はすでにすぎました

これからは日は。
陽は次第にながくなる。
日が長くなる。
朝は明けるのは早くなり。
夕に暗くなるのは遅くなる。

しだいに陽がながくなる。
なぜか。
不思議なやさしさ。
やすらぎと。
心やすらかなる
安堵感をかんじます。

心やすらかなる
安堵感をかんじます。

けれども。
「安堵」と「落胆」は。
常に表裏一体。
両羽(もろば)の剣。

「ぬかよろこび」の「ぬか」のような
ものです。

「ながくなる陽」も両羽(もろば)の剣を
持っています。

そして。
季節には「大気の音色(ねいろ)」もあるようです。

朝空は
陽ははるかに天高く。
空色はミルク色です。
クリームのかかった雲空です。

東京都世田谷区山本クリニックの庭園には

「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。

「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。

「やぶつばき」の大木が4本と山茶花(さざんか)が4本
あります。

「初春」をつたえるがごとく。
「においつばき」の木が
「香り花」が開花致しました。

「山茶花(さざんか)」と「やぶつばき」が
蕾を大きくしています。

山茶花(さざんか)も「やぶつばき」も私は「大好き」
な花木です。

「花」はみえない頃からもう
「においつばき」
は「香っています」。
「やぶつばき」は冬にも若葉をだします。
「やぶつばき」は「荒い木」
です。
けれども「生き様」は。
樹木として
とてもとても麗しいと思います。
ある意味では威風堂々です。

「山茶花(さざんか)」は
のんびりやの気がする。

山茶花(さざんか)の「花」はさいたまま
「花がさいた」を忘れたかのように
ぼんやりと木にのっている。
いつ花が散るのだろう。
ふと考えるまえにちります。

考えれば山茶花(さざんか)の蕾が
思い出せない。
ひらけばちるからかしら。
花の咲く存在感のない植物は
「山茶花(さざんか)」です。
うすぼんやりした花木です。
水墨画の主人公にはなりえない。

この「3月」になり。
森山を分け入ると。

木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花の花のごとくに紅葉したまま
しもがれする
「やまはぜの葉木」が「大好き」です。

「やまうるしの紅葉」もかわいらしく。
「大好き」です。

身の丈以上ほどにもなって群生する。
野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
が。
病院の林の一角に野生のまま
おいしげっています。

野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
のパープルの真珠が群れたように実る
「実りの木の実」の風にそよぐ音色には。
おどろかされます。

あけびつたもうれしい。
あけびの「実」がみつかればなおなおうれしい。

またたびをみつけました。
根元にねこにかじられきずがある。

里山の冬の時期から。
そして初春の里山の季節
になりました。

四季の歩みの春夏秋冬のうつろいは
メトロノームの「あゆみ」を
感じさせます。

この「あゆみ」の「質量」は
とてもとても高いです。
質量があれば。あたかも。
重力のように。
四季のリズムにひきよせられていく。
そのような感じがします。

四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいてなお着々。
確実な「リズム」を感じます。

ここに。
「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
がくわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じです。

草花や草木につつまれた自然は。
「音楽」と同じように
ひびきとして聴こえます。

自然は
「しぜん」の
「ヴィルトオーゾ」と
「ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」
*です。

この「自然のフイルハーモニウム」の。
指揮者は。
太陽なのか大地なのか人なのか。

或は音色をかもし出す自然はオーケストラ
であるのか。
ソリストなのだろうか。

私の尊敬する「合衆国USA」の
女性で小説家(「ノーベル賞受賞者」)
「パール・サイデンストリッカー・バック
(Pearl Sydenstricker Buck)
中国名、賽珍珠(サィ・チンシュ)」
パールバックの「大地」に
その「こたえ」が示唆されています。

古代より芸術家が
自然を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判ります。

*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。

実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。

但し音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる「成分」というわけ
ではありません。

また「音楽であるため」に。
三要素が絶対必要ということ
でもないでしょう。

邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。

「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。

邦楽もその一つです。

大和の国 やまとのくにの自然は。
「大和の国の音楽」と同じように思えます。
聴こえます。

「音楽」は「音」「おと」です。
そして「しらべ」=メロディとハーモニーです。
人類が「この音楽」を「楽譜」として
「寸分たがわず」「譜面」という名の「紙」に
「かくことを完成させた」ということは
大変なことです。

人間は。
人類は。
わずか「400年」で。

「音楽の旋律」に対する「楽譜」を。
「あらたな言語」を
完全に「完成」させたことになります。

まさにミューズの神の「神業かみわざ」です。

木々のめぶきの
冬なおも。
ますます力強い息吹を感じます。

「真夏」をすぎ「冬」になると。
再び「若葉」がみられることに。
きづきました。
「ため息」がでるほど木々の「冬若葉」の
「つどい」は「つよく」「うつくしい」。
雪の上のみどり。

木々のてっぺんは萌黄色から
「ふかみどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「冬を迎えた葉束」になりました。
これからは
「深まる冬」がすぎさり「春」。
「開花」の炎が。
樹木の上方で。
「雪の到来」を.
くすぶりてまちわびてています。
たえしのぶ冬の樹木です。

「若葉」の「新緑」から「深緑」です。

高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり冬のおとずれを
伝えていました。

桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうともいえる青葉。
そして見え隠れする「紅葉葉」。
紅葉葉の10枚20枚がひとつひとつ
の樹木にみえるようになりました。
「黄色調」です。
そして今「樹木」は「葉のいろ」をかえ
「宙」に舞おうとしています。
今現在は冬。
はだか木です

明らかなる。
「冬から春」とはことなる。
「夏から秋」。
「秋から冬」
そして「冬」の「木枯らし」。

木々の四季の。
大気の「色」のうつろい
に気づきます。

今は里山(さとやま)をさまよい。
今は里山(さとやま)をあるきたい。
今は里山(さとやま)の季節。
今は昔々里山(さとやま)であそび。
今は昔々て里山(さとやま)でおぼえ。
今は昔々里山(さとやま)でまなんだ。
今は昔々のその日々の思い出は。
今は黄金(こがね)か。あるいは。
今は銀か。いぶし銀か。
今はもしかしたらプラチナか。
今は思い出色は鉛のように。
今は重さは鉛のようになり。
今は心の奥深くに埋もれて感じられます。

「幸せ色」=「しあわせいろ」

ならばよいです。

けれども
早朝は非常にあたたかくなりました。

春やま中さまよいて
春やま中をわけいらば
春やま中大樹の根元に隠れたり
春やま中あけぼの色のちひさき炎(ほのほ)
春やま中みつけたりやまの秋の華。
春やま中やまの秋葉木のかくれんぼ
春やま中大樹の根元に隠れたり
春山はぜの葉木。
春やま中やまうるしの葉木。
春やま中あきやまはぜとふるやまうるし。
春こす「はだか木」。
春こす元気な木。たくましき木。

春山萩(やまはぎ)の
春花をかくして燃えたたむ
春に実りの祭りなり
春山はぜの葉炎
春天高く燃ゆ

はるやまはぎの
はるはなをかくしてもえたたむ
はるにみのりのまつりなり
はるやまはせのほのほ
はるてんたかくもゆ

はるひろくなりけり空(そら)たかし
はるさとやまに木々のみどり木
はるこもれびうけて燃えるがごとし
はるみどりの炎(ほのほ)
はるほのほうちけさむかすみはあおし
はるほのほにかすみにただよひて
はるうるわしくかがやきたり
はるあたたかくかおりたり
はるあざやかなりけり 
はるやまさとのやまみどり
はるやまさとのふかみどり

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。

多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。

「大きな夏みつけた」
から
「夏がすぎてて真秋間近い」

「小さな秋みつけた・。」

そして
「小さな冬みつけた」
そして
「大きな冬みつけた」。

「小さい春」がみつかって。

「春」になりました。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

+++++++++++++++++++++

平成21年01月12日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年2月11日(水曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年3月20日(金曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらず
インフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は。

本邦にはない「職業」である「宣教師」。

「宣教師」として。
当時「暗黒大陸」として「なにもわからない」「大陸」
であった。
アフリカ大陸の「宣教」のために。
アフリカ大陸に渡り。

あらためて「奴隷」の存在を知って。
「奴隷解放」に目覚めで尽力したが。

夜間にライオンに襲われ左腕の重傷をおったが
(後に衰弱した本人の識別に役立った)

英国政府とは裏腹に。
「奴隷解放」に目覚めて奴隷商人
を「なくそう」と尽力したが。
何度もの苦難の際に
余りにも「親切な援助」をさまざまな奴隷商人から
受けて。
悩みぬき。

また現地人とのトラブルから結果暗黒大陸のアフリカ
を放浪し「横断」して「結果」
後世からは。
「探検家」とされてしまった宣教師。

1・初めてアフリカ大陸横断に成功
2・ヨーロッパ人として初めて
モシ・オ・トゥニャ(Mosi-oa-Tunya)滝を目に致し。
その壮大な瀑布に感銘を受け。
当時のイギリス女王ヴィクトリアにちなみ
ヴィクトリア滝の発見者となり。

結果「宣教師」よりも
アフリカ大陸探検家として有名な。

1813年 - デービッド・リビングストン、探検家(+ 1873年)
の生誕日です。

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デイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone、
1813年3月19日-1873年5月1日)は。

ヴィクトリア朝期のスコットランドの宣教師。

ヨーロッパ人で初めて当時「暗黒大陸」と呼ばれていた
アフリカ大陸を横断した探検家です。

また、現地の状況を詳細に報告し。
アフリカでの奴隷解放へ向けて尽力した人物です。

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リヴィングストンは。
1813年、スコットランドのラナークシャー地方、
ブランタイア(en:Blantyre, South Lanarkshire)で生まれ
ました。

生家は貧しく10歳の頃から近所の紡績工場で働くことを
余儀なくされるが。
聖書、ラテン語等の学問への意欲は旺盛でした。

彼は日中の工場での仕事中に本を読む工夫をしつつ。
仕事が終わってからは夜間学校で熱心に勉強を致しました。

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デイヴィッド・リヴィングストン:David Livingstone
は。

この時期に中国、朝鮮、日本で宣教を行った
オランダの宣教師の。

Karl Friedrich August Gutzlaffに深く感銘を受け。
宣教師になり。

中国で医療を施しながら
布教することを志すようになりました。

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デイヴィッド・リヴィングストン:David Livingstone
は。
1836年、グラスゴー大学に入学。

長期休暇の度にブランタイルへ戻って工場で働きながら。
医学と神学を学びました。

1838年にはロンドン宣教師協会へ入会し
宣教師としての研修を受けました。

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デイヴィッド・リヴィングストン:David Livingstone
は。
1840年から始まった阿片戦争により
彼の中国行きは頓挫してしまいました。

同じくスコットランド人でアフリカ大陸に渡った
宣教師ロバート・モファットと知り合い。

話を聞きアフリカでの宣教に魅了されました。

宣教拠点をアフリカへ変更したリヴィングストンは。
南アフリカ支部の宣教師として派遣されることとなりました。

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デイヴィッド・リヴィングストン:David Livingstone
は。

1840年12月8日。
蒸気船で当時イギリス領であった南アフリカへ出発。
ケープタウンへ到着後移動し。

ボチュアナランド(現ボツワナ)のクルマンに居を構えまそた。

ロンドンの監督官からの指示を待つ間、
布教の拠点となる地方を探し、
アフリカ内陸部を北上し方々を探検、
クルマンから北東方向へ200マイルの地点にある、
Mabotsaを第一の拠点に設定致しました。

その直後、夜間に野生のライオンに襲われた
リヴィングストンは左腕に重傷を負いました。

死後その傷は彼を識別する身体的な証拠となりました。

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デイヴィッド・リヴィングストン:David Livingstone
は。

1844年、クルマンにてモファットと合流した
リヴィングストンは、同行していた
モファットの長女メアリーと結婚致しました。

リヴィングストンはモファットの反対を押し切り。
メアリーとともにMabotsaへに移動致しました。

1846年まで2人はMabotsaに滞在し
布教と医療を続けるが。

現地の民族の反発もあり。
より多くの現地人を布教できる場所を探すため。

内陸部へ移動致しました。

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デイヴィッド・リヴィングストン:David Livingstone
は。

その過程で、カラハリ砂漠を北上した一行は。

1849年8月1日に、ヨーロッパ人で初めてヌガミ湖に到達致しました。

その後も探検を続け。
1851年6月にはマコロロ王国を経由して
ザンベジ川まで到達したが子供の一人が熱病で倒れたことから。

これ以上家族とともに探検を続けるのは危険だと判断。

1852年4月に家族をケープタウンからイングランドへ送り返しました。

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デイヴィッド・リヴィングストン:David Livingstone
は。

その後。
リヴィングストンは再度衛生度の高い内陸の高地に
布教拠点を作ることを目指し。
マコロロを再訪。

ザンベジ川へ辿り着くものの適切な土地が見つからず。
西へ向かいました。

これには、当時すでにヨーロッパでは
禁止され非合法となっているものの。

アフリカではスルタンたちによって
公然と続けられていた奴隷貿易による搾取を廃絶するために。

中央アフリカの交易ルートを探索する意図もありました。

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デイヴィッド・リヴィングストン:David Livingstone
は。

1854年4月にコンゴ川を通過した一行は。
5月31日に南大西洋沿いの都市ルアンダに到着。
熱病と飢餓と赤痢に苦しみ。

半死半生の状態であったリヴィングストンは。

休息も兼ねてルアンダから王立地理協会に
探検の報告を詳細に記述した手紙を送りました。

この手紙がもとで1855年にはメダルを授与されることとなりました。

この旅の途中。
再三奴隷商人達から非常に親切な助けを得たため、
リビングストン本人は苦悩しています。

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デイヴィッド・リヴィングストン:David Livingstone
は。
1854年9月に一行はルアンダを出発し。
ザンベジ川沿いへ元来たルートを辿りました。

1855年11月17日、その途上で。

ヨーロッパ人として初めて
モシ・オ・トゥニャ
(Mosi-oa-Tunya)滝を目に致しました。

その壮大な瀑布に感銘を受けたリヴィングストンは。
当時のイギリス女王ヴィクトリアにちなみ
ヴィクトリア滝と名づけました。

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デイヴィッド・リヴィングストン:David Livingstone
は。

さらに西へ進み続けた一行は、
ポルトガル植民地のテテを経て、
1856年3月2日、インド洋沿いに位置する
モザンビークの都市キリマネに到達、

2年6ヶ月かけて、ヨーロッパ人として
初めてアフリカ大陸の横断に成功致しました。

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デイヴィッド・リヴィングストン:David Livingstone
は。

イギリス国内では消息を絶ち。
死亡説まで流れているリヴィングストンを探索する動きも出て
いました。

過酷な旅に加えて現地での妨害もあり、
失敗続きでした。

1869年10月、ニューヨーク・ヘラルドの経営者である
ジェームズ・ゴードン・ベネット・ジュニアは。

ニューヨーク・ヘラルドの特派員の1人である
ヘンリー・スタンリーに電報を送り呼び寄せました。

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スタンリーはリヴィングストン捜索の依頼に承諾し。

莫大な資金提供と発見が成功した際の報奨金を約束されました。

1871年11月10日。

スタンリーはウジジ近辺でリヴィングストンの従者と遭遇し。
従者に導かれて本人と対面致しました。

骸骨のようにやせ衰えた姿を見てスタンリーが発した
「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか」
"Dr. Livingstone, I presume?"のセリフは。

のちにイギリスで思いがけず人と対面した時の挨拶として
使われるようになるほど。

劇的なエピソードとして伝えられました。
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デイヴィッド・リヴィングストン:David Livingstone
は。

スタンリーは1872年3月15日、
イギリスへ向けて旅立ち、
5ヵ月後にリヴィングストンの許に
57人の従者と十分な物資を送りました。

8月15日にリヴィングストン一行は
バングウェル湖へ向け出発し、

翌年4月29日にはバングウェル湖南側の村、
チタンポへたどり着きました。

しかし、日記に探検の記録を書き付ける余力もないまま、
5月1日、マラリアの複合症により息を引き取った。

彼の従者たちは深く悲しみにくれながらも、
彼の残した日記、資料、携行品などを防水の箱に入れ、
彼の亡骸に簡単な防腐処理を施してザンジバルへと運びました。

亡骸はザンジバルで埋葬されそうになるが。
故郷のあるイギリスへ返すべきだと従者が主張したため。
海を越えてイギリスへと運ばれました。

1874年4月18日、無事イギリスへ到着した
亡骸は左腕の傷跡により確認されたのち。

ウエストミンスター寺院へ葬られました。

リヴィングストンの残した資料と日記は、
彼の友人により
"Last Journals of David Livingstone in Central Africa"
(『デイヴィッド・リヴィングストンの中央アフリカでの最後の日記』
)として編纂され出版されました。

リヴィングストンのアフリカ大陸での移動は
数万マイルに及ぶと推測されており。

その生涯で南北では赤道近辺からケープタウンまで。
東西ではインド洋から南大西洋までを旅したことになります。

彼が果たせなかったナイルの水源の探求は。

意思を継いだスタンリーによって、
ルウェンゾリ山地にある水源が発見されたことにより、
19世紀の論争にはほぼ決着が付きました。

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デイヴィッド・リヴィングストン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3

デイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone、1813年3月19日-1873年5月1日)は、ヴィクトリア朝期のスコットランドの宣教師であり、ヨーロッパ人で初めて、当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断した探検家である。また、現地の状況を詳細に報告し、アフリカでの奴隷解放へ向けて尽力した人物でもある。

探検家でありながら結果的にヨーロッパの植民地支配のために尽力することとなったスタンリーに対し、リヴィングストンは、自身ではあくまでも自分の第1の目的は宣教であり、探検はその拠点を探索するための手段であると著書の中で述べている。彼の功績により、ヨーロッパからの宣教師の流入は格段に増え、彼の著書に触発され、宣教師を志す若者も増えたと言われている。

ザンビアには彼を称えた都市リヴィングストンがあり、今も彼の記念碑と彼の資料を集めた博物館が建っている。

外部リンク
以下には執筆時の参考にしたものが含まれている。

Project Gutenberg e-texts:
Missionary Travels And Researches In South Africa(英語)
Dr. Livingstone's Expedition To The Zambesi and its tributaries(英語)
The Personal Life of David Livingstone(英語)
Christian Biography Resources
David Livingstone Scottish Missionary and Explorer to Africa(英語)
David Livingstone Africa's Great Missionary and Explorer(英語)
David Livingstone: Missionary Explorer(英語)
リヴィングストンの探険とザンビア
謎の世界史人物伝 デヴィッド・リヴィングストン
スタンリー - 伝説のナイル水源

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3" より作成
カテゴリ: イギリス史の人物 | イギリスの探検家 | アフリカの探検家 | 宣教師 | 1813年生 | 1873年没

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++

3月19日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8819%E6%97%A5

できごと
1279年(祥興2年2月6日)- 崖山の戦い、モンゴルにより南宋が滅亡。

1839年 - ルイ・マンデ・ダゲール、世界初の実用的カメラ「ダゲレオタイプ」を発表。

1915年 - 冥王星が初めて写真に捉えられる。(当時は旧惑星だと認識されなかった)

1920年 - アメリカ合衆国上院がヴェルサイユ条約の批准を否決する。

1927年 - アカデミー賞設立記念日。
アメリカで映画芸術科学アカデミー(AMPAS)が設立された。

1956年 - 旭通信社(=ASATSU、現在のADK)設立

1962年 - アルジェリア独立戦争が停戦。

1972年 - インドとバングラデシュが友好条約に調印。

1973年 - コナミ設立。

1973年 - 小松左京の小説(書き下ろし)「日本沈没」が発売される。

1982年 - アルゼンチン軍が南ジョージア島に上陸し、フォークランド戦争が始まる。

1991年 - 成田空港高速鉄道の成田駅(JR東日本成田線)と
京成電鉄京成成田駅- 成田空港駅間開通。

1997年 - 東電OL殺人事件。

2002年 - アメリカのアフガニスタン侵攻:
タリバンやアルカーイダを多数殺害し、アナコンダ作戦が終了。

2003年 - 営団地下鉄半蔵門線水天宮前駅〜押上駅間開通。
東急田園都市線〜東武伊勢崎線の相互直通運転開始。

2003年 - アメリカ・イギリスによるイラクの自由作戦の開始。イラク戦争開戦。

2005年 - 小田急電鉄50000形電車(ロマンスカーVSE)営業運転開始。

誕生日
1434年(永享6年2月9日) - 足利義勝、室町幕府7代将軍(+ 1443年)

1593年 - ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、画家(+ 1652年)

1666年 - イヴァン5世、モスクワ大公(+ 1696年)

1782年 - ヴィルヘルム・フォン・ビーラ、天文学者(+ 1856年)

1799年 - ウィリアム・ドーズ、天文学者(+ 1868年)

1801年 - サルヴァトーレ・カンマラーノ、オペラ台本作家(+ 1852年)

1813年 - デービッド・リビングストン、探検家(+ 1873年)

1815年 - ジェームス・カーティス・ヘボン、キリスト教宣教師・明治学院創設者(+ 1911年)

1832年 - ヴァーンベーリ・アールミン、東洋学者・旅行者(+ 1913年)

1848年 - ワイアット・アープ、ガンマン(+ 1929年)

1849年 - アルフレート・フォン・ティルピッツ(+ 1930年)

1855年 - デイヴィッド・ペック・トッド、天文学者(+ 1939年)

1867年(慶応3年2月14日)- 豊田佐吉、発明家・豊田自動織機創業者(+ 1930年)

1873年 - マックス・レーガー、作曲家(+ 1916年)

1875年 - 張作霖、満州軍閥(+ 1928年)

1891年 - アール・ウォーレン、
カリフォルニア州知事・アメリカ最高裁長官(+ 1974年)

1893年 - ヘンリー・ギルマン、化学者(+ 1986年)

1900年 - フレデリック・ジョリオ=キュリー、物理学者(+ 1958年)

1901年 - 中村梅吉、政治家・第57代衆議院議長(+ 1984年)

1904年 - 阿部五郎、衆議院議員(+ 1963年)

1905年 - アルベルト・シュペーア、ナチス・ドイツの建築家(+1981年)

1906年 - アドルフ・アイヒマン、ナチス・ドイツのホロコースト指揮者(+1962年)

1912年 - アドルフ・ガーランド、
第二次大戦時ドイツ空軍のエースパイロット(+ 1996年)

1917年 - ディヌ・リパッティ、ピアニスト(+ 1950年)

1918年 - 福永武彦、小説家(+ 1979年)

1922年 - 小野田寛郎、日本陸軍・陸軍少尉フィリピン、ルバング島から生還。

1927年 - アレン・ニューウェル、人工知能研究者(+ 1992年)

1929年 - 平山亨、映画監督・プロデューサー

1933年 - フィリップ・ロス、小説家

1936年 - ウルスラ・アンドレス、女優

1938年 - 鄭夢九、実業家

1946年 - 鈴木正幸、俳優

1946年 - 蛸島彰子、女流将棋棋士

1947年 - グレン・クローズ 女優

1947年 - ゲーリー・ジェスター、元プロ野球選手

1948年 - 朱里エイコ、歌手(+ 2004年)

1953年 - 潘恵子、声優(戸籍上は4月5日)
1955年 - ブルース・ウィリス、映画俳優
1957年 - 尾崎亜美、シンガーソングライター
1958年 - 中多和宏、声優
1959年 - 森厚三、元プロ野球選手
1960年 - 川端順、元プロ野球選手
1961年 - いとうせいこう、小説家
1964年 - 沖田真子、ビニ本・裏本モデル
1964年 - 北原佐和子、歌手・女優
1967年 - 三五十五、パフォーマンス集団電撃ネットワークメンバー
1968年 - 米崎薫臣、元プロ野球選手
1969年 - 蛯名正義、騎手
1970年 - ミハエル・クルム、レーシングドライバー
1971年 - ナジャ・アウアマン、ファッションモデル
1971年 - DTクローマー、元プロ野球選手
1972年 - 稲森いずみ、女優
1972年 - 久保恵子、タレント
1972年 - 荒石由紀恵、アナウンサー
1974年 - 後藤浩輝、騎手
1975年 - ビビアン・スー、タレント
1976年 - アレッサンドロ・ネスタ、サッカー選手
1976年 - 市川喜康、ミュージシャン
1976年 - 本村洋
1976年 - 市川実和子、女優
1976年 - Ikoman、アレンジャー
1977年 - 岡田義徳、俳優
1978年 - 杉村一樹、騎手
1979年 - イワン・リュビチッチ、テニス選手
1979年 - ヒディエット・ターコルー、バスケットボール選手
1980年 - 下川みくに、歌手
1982年 - 岬ゆうら、ストリッパー
1982年 - 黒崎優、ストリッパー
1983年 - いのうえのぞみ、グラビアアイドル、タレント
1985年 - 梅澤レナ、ファッションモデル
1988年 - Alex、ファッションモデル、ONE OK ROCKメンバー
1988年 - レオ・シン、サッカー選手
1989年 - 太田暁音、陸上競技選手

忌日
1205年(元久2年2月27日)- 藤原隆信、平安時代の公卿・画家(* 1142年)

1238年 - ヘンリク1世、ポーランド王(* 1163年)

1255年(建長7年2月10日)- 雅成親王、鎌倉時代の皇族(* 1200年)

1279年(祥興2年2月6日)- 陸秀夫、南宋の重臣(* 1236年)

1279年(祥興2年2月6日)- 趙?(衛王、祥興帝)、第9代南宋皇帝(* 1272年)

1286年 - アレグザンダー3世、スコットランド王(* 1241年)

1406年 - イブン=ハルドゥーン、歴史家(* 1332年)

1566年(永禄9年2月28日)- 有馬晴純、肥前国の戦国大名(* 1483年)

1610年(慶長15年2月24日)- 長谷川等伯、絵師(* 1539年)

1674年(延宝2年2月12日)- 松平定長、第3代伊予松山藩主(* 1640年)

1687年 - ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール、探検家(* 1643年)

1697年 - ニコラウス・ブルーンス、作曲家(* 1665年)

1721年 - クレメンス11世、第243代ローマ教皇(* 1649年)

1819年 - フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ、哲学者(* 1743年)

1829年 - ジョン・テイラー、ニューヨーク州知事(* 1742年)

1884年 - エリアス・リョンロート、文献学者(* 1802年)

1900年 - シャルル=ルイ・アノン、作曲家(* 1819年)

1908年 - エドゥアルト・ツェラー、哲学者(* 1814年)

1909年 - ジェームス・ハチソン・スターリング、哲学者(* 1820年)

1914年 - ジュゼッペ・メルカリ、地震学者(* 1850年)

1916年 - ワシーリー・スリコフ、画家(* 1848年)

1928年 - 岩下清周、実業家(* 1857年)

1930年 - ヘンリー・フォールズ、指紋研究家(* 1843年)

1930年 - アーサー・バルフォア、イギリス首相(* 1848年)

1943年 - 藤島武二、画家(* 1867年)

1943年 - フランク・ニッティ、ギャングスタ(* 1888年)

1945年 - 折口春洋、国文学者(* 1907年)

1950年 - エドガー・ライス・バローズ、SF作家(* 1875年)

1950年 - ウォルター・ハース、化学者(* 1883年)

1954年 - ヴァルター・ブラウンフェルス、作曲家(* 1882年)

1978年 - ガストン・ジュリア、数学者(* 1893年)

1982年 - ランディ・ローズ、ギタリスト(* 1956年)

1983年 - 戸川猪佐武、政治評論家(* 1923年)

1985年 - 永沢富士雄、元プロ野球選手(* 1904年)

1987年 - ルイ・ド・ブロイ、物理学者(* 1892年)

1989年 - アラン・シヴィル、ホルン奏者(* 1929年)

1990年 - 根本龍太郎、日本の内閣官房長官(* 1907年)

1995年 - 山田康雄、俳優・声優(* 1932年)

1996年 - ヴァージニア・ヘンダーソン、看護学者(* 1897年)

1996年 - 陳景潤、数学者(* 1933年)

1997年 - ウィレム・デ・クーニング、画家(* 1904年)

1998年 - 大隅健一郎、法学者(* 1904年)

2003年 - 華倫変、漫画家(* 1974年)

2003年 - 冬木弘道、プロレスラー(* 1960年)

2003年 - 小野正一、元プロ野球選手(* 1933年)

2004年 - 四世井上八千代、日本舞踊家(* 1905年)

2005年 - ジョン・ザッカリー・デロリアン(en:John DeLorean)、DMC社長(* 1925年)

2006年 - 坂本三十次、政治家(* 1923年)

2006年 - チャニング・ポロック、マジシャン(* 1926年)

2007年 - 石野久男、日本社会党衆議院議員(* 1911年)

2007年 - ルーサー・イングラム、ソウル歌手(* 1937年)

2007年 - 太宰義人、調教師(* 1945年)

2008年 - アーサー・C・クラーク、SF作家(* 1917年)

2008年 - ポール・スコフィールド、俳優(* 1922年)

記念日・年中行事
スペインのバレンシアでサン・ホセの火祭り

ミュージックの日