東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年3月25日(水曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年3月25日(水曜日)

「3月」「春」になりました。

もうすぐ「4月」です。

「春」の「3月」になりました。

「春」は。

まちどおしいもの

であったことが

あらためて。

あらためて。

みにしみて。

感じられます。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。

まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

「初春」です。

今は。「3月」。

最初のあたらしい「春」です。

「春」になりました。

「昨年」の晩秋には。
晩秋の花木。
「金木犀:きんもくせい」花を咲かせました。
日々ますます花をさかせていました。
「実りの花」。

「金木犀:きんもくせい」は「秋」に「2度」咲きました。
「銀木犀:きんもくせい」も咲きました。
「金木犀:きんもくせい」の花は黄金色です。
「銀木犀:きんもくせい」の花は「プラチナ色」です。

かおりも全く違います。
「金木犀:きんもくせい」より。
「銀木犀:きんもくせい」は10日遅れで咲きました。

今は「初春」の「3月」。

「銀木犀:きんもくせい」も

「銀木犀:きんもくせい」も

はるかかなたに。

「花」はおわりました。

そして。

「木犀:もくせい」は。

今「3月」の「春」を迎え。

さらなるあたたかき「春」にむけて。

もっと大きな「春」をまつ。

準備をしています。

「木犀:もくせい」は常緑樹です。

「春」になると。

「葉色」と「葉のあつさ」はかわります。

「「春かぜ」に耐える葉の厚さ」。

になります。

秋のみのりの花まで。

すこやかに育つ「葉」になります。

「初春」の「3月」の。

「春の花」の花がみえます。

「春の花」の草花もみえます。

「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」は
不思議な木です。

「山茶花(さざんか)」や。
「やぶつばき」の「花」は。

とりわけ夜の「春吹雪:はるふぶき」に
弓射られて地上に落花致します。

「春」とはいえ。
まだ「はやい」。

さむく。
「花粉」を運ぶ「昆虫」の少ない
時期に「花は咲きます」。
あおして。
花がひらくと同時に花はちります。

「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」
の木下には「毛氈(もうせん)花壇」のように。
「紅白の花びら」が。
舞いおりてています。

その地上の。
「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」
の存在を誇示するがごとくです。

「やぶつばき」や「山茶花(さざんか)」
一夜の落花は「謎」のようです。

「春」のこの時期。
昆虫は極めて少ないから。

「種の保存」から。
なんらかの「方法」で。

「山茶花(さざんか)」や「やぶつばき」は。

地上の「紅白」のはなびらで。

昆虫に頭上にその存在を
探知させているのかもしれません。

地面の上の

「春の花」が。

「花びら」で存在を誇示しても。

木々の「花」は天上。

「花」こそみえません。

けれども。

「春の花」。

その「いのちの芳香」は。

とくとくと。

遠くまで。

ただよっているかのごとくです。

「新年」「初春」。

「3月」の「春」です。

常緑の。

「春の花」は元気です。

元気な「春」です。

「春の花」の木は

花が落ちて。

「木の下」に「フェルマータ"fermata"」*

が。

楽譜のように記譜されているような。

「春の花」の「木」。

「落花生」のような「春の花」の木です。

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C・

イタリア語におけるフェルマータ"fermata"とは。
英語"stop"に相当する名詞です。
(例えばイタリアのバス停の
標識には"Fermata"の表示があります)。

音楽美学の世界では。

絵画には限られた面積があるのと同じように。
音楽には。
「限られた時間」—つまり「初め」と「終わり」—があることが
宿命とされています。
古い時代の楽譜のときはその終止線の上下や終結音の
上下に現在のフェルマータのマークの基となったデザインが
配されました。

そこで音楽の終わりを意味致しました。

時間の流れを止めることはできません。
けれども曲の終わりでは。
音楽を止めることによってその時空に終わりが
発生することとなります。
「停止」という意味の"fermata"の概念はそのように
発生したと解されます。

付与された音符や休符で音楽の時間の流れを
停止させる意味を持ちます。

「♪」
に付与されれば
「♪」
その音のまま「停止」=「ずっと鳴り続ける」
「休止符」
に付与されれば
「休止符」
その旋律は「停止」=「ずっと鳴らない」
ことになります。
楽譜の節目の
縦線に付与される場合には。
一記譜上に存在しない挿入された休符が空白時間として
求められます。

ただし
前の音から伸ばされたタイ(スラー)が。
縦線の上を横切っている場合と
そこにピアノにおけるペダルなどの
保続効果の指示が見られる場合は。
空白時間として処理されず音を保続させる時間を
別途挿入することとなります。

フェルマータ"fermata"。

そのマークは「一日の終わりである日没」
に由来したデザインとも言われています。
-------------------------------

「春」。

「春」の女神の。

「佐保姫(さほひめ)」が導く。

「春」です。

今朝早朝の真っ暗な時間に

「吐息」が「白く」みえます。

急速に。

とりわけ朝暗いうちは。

かけあしで朝はあけますが。

「とてもとてもさむいです」。

今朝早朝は。

暗いうち晴れて。

霧雨の合間に。

久方ぶりにたくさんのたくさんの。

星をみました。

そして天井の空高く。

ひさしぶりに「月」の

かがやきをみました。

地上の変化(へんげ)が天高くたちのぼり
月や星に結晶して。
芳香をはなつがごとく光をはなつように
見えます。

空気が澄み。
大気がすんでいるからでしょう。

「天高く」

(てんたかく)とは。

なるほどと考えます。

ささやかな
「春吹雪:はるふぶき」の合唱も。
なかなかすてきです。

ブラスでもない。木管でもない。弦でもない。
グラスハープの。
スラーをかけた。
オーケストラを聴いているようです。

「3月」になり
「春吹雪:はるふぶき」のかぜおとは。
「アリア」として。
次第に出番が多くなりました。

寒い中でも
「極めて大きな声でうたっている」
「春吹雪:はるふぶき」が
「1-2」はいるのが不思議です。

「春の花」の木の上か。
電線にとまったり。
またさらに
上空で「春吹雪:はるふぶき」は。
歌っているようです。

うっすらと「まど」を開けると。

「佐保姫(さほひめ)」の吹く。

「春」のワルツのような。

音色ではいりこもうとします。

「春」のかおりがします。

そぞろ そぞろに。
静かながらに。

「3月」の朝焼けと。
夕焼けどきに。

ひそやかながらもあきらかに。
「佐保姫(さほひめ)」の舞う。

気配にあと押しされて。

「確かな「春」」のかおりが。
大気にかげろううや蜃気楼のように
ただよいはじめています。

昼間はあたたかい
陽射しを感じることが
多くなりました。

「初春」「新年」の「3月」。

「春」です。

そして「あたたかい春」です。

3月の「初春」の気配は。
あっというまに。
「春」の「霞(かすみ)」に「霊気(れいき)」
のように。
おぼろに変化して。

次第に「暖かい春」の気配にうつろいていく。
「井戸のつるべ」があがるようです。

「もっと深い「春」」が。

ピアニッシモ。
ppで。
しのびよりました。

朝日と東の朝焼け青空に。
「朝焼け」の。

空にはそらいろとピンクのレースのような

あやにしきの
「くれゆくはるのいろ」
「むかえくるはるのいろ」が感じられます。

春陽射し(ひさし)やさしき春。
春空にも地にも天高くはれ。
春の大気のひそみかくれ。
春そらにみちてあふれれば。
春吐息(ためいき)となり。
春吐息が霧雨か霞になり。
春おりてくるような感じです。
春のふかまりゆく気配
になりました。

冬なお「力強い」の木々のめぶきは
初冬の息吹から春への息吹への。
変化(へんげ)を感じます。

早朝は「とても寒い」です。
今年は「寒い」です。

百姓のうまれなので「冷春」が心配です。

街路樹はしっかりと
冬ながらも枝木の穂先もたわわにつよく
「晩冬」の萌黄色の若芽もち。
「初春」のあおい「木」にかわりました。
「新年」のあおい「木」は。

「実りの「春」」のおとづれを。
そしてさらなる「冬の深まり」を超えて。

そしていま厳しい冬をがんばって。
「あたたかい「春」」を。

むかえようとしています。

「本物の冬」から。

「もともっと寒い冬」

「晩冬」のをのりこえ。

「春」になりました。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

春山椒(さんしょう)の木の芽が
春にも若葉はそだち。
春若葉は冬の若枝となり。
春若枝は天高くすこやかにのび。
春のふかまりにますますすこやかに。
春山椒(さんしょう)の木のみどり葉。
春空に燃えるが如くの炎葉です

さんしょうを
木の芽(このめ)といふは
なるほどと
かんがえる

春深まりたり
春空たかく
春あやにしき
春みどり木
春さんしょう木
春陽をあびてかがやけり
春いざいまこそは
春金色(かがね)にかわり
春赤き春空に燃えたたむ

春さんしょう木
春もえぎの炎(ほのほ)は芽葉(めは)
春わかば葉はいずるは花ならむ
春(はる)こす枝は幹ならむ
春いざいまこそは
春空(そら)たかくもえたたむ
春金色(こがねいろ)なる
春さんしょう木
春(ふゆ)深まれり

山本クリニックの庭には水槽が
「2つ」あります。
めだかが泳いでいます。

春ふかく草を浮かべる水面(おも)に
春めだかのむれのひかりたり
春むれておよげるひめだかの
春みずのなかなるちいさないのち
春みずのなかなるおおきないのち
春みのりてあまたにとほときいのちこそ
春いざみずもにうつしはぐくまむ

けれども
早朝は本当にはだ寒いのです。

小さなふはるつけたから
しだいに大きなはるみつけた。

大きなはるみつけたから
さらに大きな大きなはるみつけた

「小さい春みつけた」は。

「こころしずまる気」

がいたします。

「春」になります。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成21年1月12日(水曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。
限られた診療スタッフで。
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
限られた診療スタッフで。
御予約の患者さんのみ。
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は。
世界の名指揮者
泣く子も黙る天才指揮者
20世紀を代表する指揮者

1867年 - アルトゥーロ・トスカニーニ、指揮者(+ 1957年)
の生誕日です。

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アルトゥーロ・トスカニーニ:
Arturo Toscanini,
(1867年3月25日 - 1957年1月16日)は。
イタリア出身の指揮者です。

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略歴
1867年 パルマで生まれる。当地でチェロを学ぶ。
1886年 南米への演奏旅行中に指揮の代役をつとめ転向。
1898年 ミラノ・スカラ座音楽監督。(〜1908年)
1908年 メトロポリタン歌劇場音楽監督。(〜1915年)
1926年 ニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督。(〜1936年)
1934年 ザルツブルク音楽祭。(〜1937年)
1937年 ファシスト党政権に反対してアメリカへ亡命。
当地で引退を表明。
その後NBC交響楽団が創立され復帰。
1954年 演奏会で記憶障害をきたし降板。直後に引退を表明。
1957年 死去。89歳。

++++++++++++++++++++++

アルトゥーロ・トスカニーニ:Arturo Toscanini
は。
スカラ座やメトロポリタン等の音楽監督を歴任致しました。
20世紀を代表する指揮者とされています。

ロマン派のスタイルを脱却した演奏法で音楽における
新即物主義といわれます。
ライヴァルのフルトヴェングラーと対極をなしました。

速く正確なテンポ、統一したアンサンブル等は
戦後の演奏法の規範となりました。

++++++++++++++++++++++

アルトゥーロ・トスカニーニ:Arturo Toscanini
は。

徹底した楽譜至上主義ともいわれています。
しばしば部分的にオーケストレーションを
改編することもありました。

レパートリーは膨大です。

イタリア・オペラのみならず。

バイロイト音楽祭においてワーグナーを振り。
ベートーヴェンやブラームス、レスピーギといった
作曲家の管弦楽作品も得意と致しました。

『ワリー』や『トゥーランドット』等の
現在主要な
イタリア・オペラを初演しています。

++++++++++++++++++++++

アルトゥーロ・トスカニーニ:Arturo Toscanini
は。

戦後NBC交響楽団を起用し。
数多くのレコーディングを行いました。
またリハーサルの厳しいことで知られています。

駄目出し(NO)
の多さからトスカノーノとあだ名されました(後述)。

++++++++++++++++++++++

アルトゥーロ・トスカニーニ:Arturo Toscanini
は。

トスカニーニは極度の近視でした。

本番もリハーサルも暗譜で指揮するのが常でありました。

しかし、1954年4月4日の演奏会
(オール・ワーグナー・プログラム・コンサート。
曲目は「タンホイザー」序曲とバッカナーレ)
での記憶障害により指揮を止めてしまいました。

そしてこの演奏会の直後にトスカニーニの引退が発表されました
(引退は演奏会の前に計画されていたとされます)。

++++++++++++++++++++++

アルトゥーロ・トスカニーニ:Arturo Toscanini
が。
引退に際し公開した声明は、以下の通り極めて簡潔なものである。

 "The sad time has come when I must reluctantly lay aside
my baton and say good-bye to my orchestra."

 「我が指揮棒を不本意ながら置き、
なおかつ我がオーケストラに
別れを告げねばならぬ悲しい時が来てしまった。」
++++++++++++++++++++++

アルトゥーロ・トスカニーニ:Arturo Toscanini

逸話 その1
1・
プッチーニの遺作オペラ
『トゥーランドット』の初演に際し、
別な作曲家が補作したフィナーレの直前で演奏を止め。

「マエストロはここまでで筆を絶ちました」
と言って指揮台をおり、
公演はそこで終了してしまいた。

トスカニーニが公演中に声を発したのはこの時のみです。
なお、台詞について異説があり。
別説では「ここで死が芸術を打ち負かしました」
とされている。

トスカニーニはオペラピットを去り、
場内の照明が灯り、聴衆も静かに帰ったということです。

2・
トスカニーニはオーケストラを
リハーサルで徹底的に鍛え、
妥協を許さない専制的な指揮者であった。
こうした態度はオーケストラのみならず
オペラ歌手にまで及びました。

あるとき著名なプリマドンナが
「マエストロ、私はスターですよ!」と反論すると
トスカニーニは平然と
「マダム、あなたは間違っている。
スターは空にあるものですよ。」
と答えたといわれる。

3・
トスカニーニの暗譜能力は驚異的であり、
合奏曲約250曲の全パート、
オペラ約100曲の譜面と歌詞、
更に多くの小品を完璧に覚えていたという。

あるとき、
バスーン奏者が演奏会の前に自分の楽器の
キーを一つ壊してしまいました。

トスカニーニに相談したところ。
トスカニーニは暫く考えてから、
「今夜の曲ではその音は使われないから、
心配しないで良い」と答えたそうです。

4・
元来トスカニーニはパルマ音楽院では作曲科の学生でした。
ところが学生のときワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』
を観覧し作曲家になることを断念。
そのままチェロ科に移ってしまいました。

5・
なお彼が作曲したピアノ曲「子守歌」が。
白石光隆により録音されている
(フルトヴェングラー、セルらの曲と共に
『大指揮者のピアノ曲』としてキングレコードから発売。)。

6・
ラヴェルの「ボレロ」を指揮した際、
興奮した会場の聴衆の拍手に、
作曲者同席の慣例に従ってトスカニーニは。

ラヴェルを立たせて巻き起こる拍手を
作曲者に向けようとしが。
テンポの解釈の違いからラヴェルは
自分の席に座ったままで、
聴衆の拍手には応えようとしなかったという。

7・
この行動はすぐに新聞紙上で騒がれるなど
一時は音楽界格好の話題となったが、
後にラヴェルはトスカニーニへの手紙の中で、
この事件が実は誤解に基づくものである事を説明しています。

8・
ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」を録音し、
レコードをショスタコーヴィチに贈ったのだが、
作曲者本人はトスカニーニの演奏が気に入らなかったらしい。

9・
トスカニーニは非常に短気であり、
オーケストラのリハーサルの際には
怒鳴り声を発することは頻繁にありました。

戦前に出演したバイロイト音楽祭では、
オーケストラが一音出すたびに「ノー、ノー!」と怒鳴るので
「トスカノーノ」というあだ名を付けられていました。

しかし当時のオーケストラ団員は仕事に対するモラルが低く。
各々が好き勝手な譜読みをしたり、
リハーサルを勝手に休み他所でアルバイトをするような者もいた。

10・
指揮者が理想どおりの音楽を表現しようとするためには
厳しい姿勢を示す必要があったのです。
トスカニーニがリハーサル中に激怒すると、
指揮棒を折る、スコアを破く、
インク瓶や懐中時計を地面に投げつける、
譜面台を壊したりするということもよくあり、
コンサートマスターの指を指揮棒で刺してしまい
、裁判沙汰になったこともあった。

++++++++++++++++++++++

アルトゥーロ・トスカニーニ:Arturo Toscanini
逸話その2
1・
しかし一通り暴れ終わった後は平然とした顔で
「それではリハーサルを始めましょう」と
何食わぬ顔でリハーサルを始めた。また、
いかにもイタリア人らしく激しく怒っても翌日には忘れてしまい、
まったく後に引くということがなかった。

2・
翌日も怒りが残るジョージ・セルとは対極をなし、
オーケストラの団員から憎まれるようなことはなかったという。

3・
トスカニーニはオーケストラ団員から非常に恐れられていたが、
ウィーン・フィルは別であった。
ある時トスカニーニがウィーン・フィルとの
リハーサル中に激しく怒り、
スコアを両手で持って地面に叩きつけると、
高名なチェロ奏者フリードリッヒ・ブックスバウム
(ロゼー弦楽四重奏団のメンバー)は
自分のパート譜をそっとスコアの隣に置いたという。

しかし、トスカニーニはこの優れたオーケストラに一目置き、
リハーサルで憤激することも非常に稀になり良好な関係を保っていた。
ある時ムソルグスキーの『展覧会の絵』を指揮した時、
トスカニーニが「絵」を一つ飛ばしてしまい
力強く指揮棒を振り下ろすと誰も反応せず、

4・
びっくりしたトスカニーニが気がついて今度は
静かに合図するとオーケストラは鳴り出した。
後にトスカニーニは「彼らは私の間違いに気付いてくれた」
とウィーン・フィルを賞賛したという。

5・
あるとき、ニューヨークの演奏会で、
聴衆が数人遅刻してくると、トスカニーニは
ナポレオン風に腕を組み、「遅れてはいかん!」と叱り、
呆然としたオーケストラに対し、
目の前のチェロの譜面台をわざとらしく叩き、
演奏を始めたという。

6・
トスカニーニは指揮者・レオポルド・ストコフスキーとは
犬猿の仲であった。
ストコフスキーのスコア改変に対して
「あいつは作曲者に対する殺人者だ」と罵り、
一方ストコフスキーも「怒鳴れば何でも思い通りになると思ってるイタリア人」
と皮肉を言っている。

しかし、もともとは関係は良好だったらしく、
自らの演奏会に賓客としてストコフスキーを招き、
その演奏を聴いた彼は
「これほど多くのことを学ばせてもらった演奏に対して、
料金を払わないわけにはいかない」と、
チケットの代金を払ったという逸話もある。

また、「あいつが振れば、どんな指揮者より良い音が鳴る」と、
改変に対しては嫌悪感を抱きつつも、
指揮自体の手腕は高く評価していたようである。

7・

トスカニーニの末娘であるワンダは、
ピアニストのウラジミール・ホロヴィッツと結婚した。
トスカニーニはホロヴィッツと共演したこともあるが、
大ピアニストであるホロヴィッツに対して「でくのぼう」
呼ばわりしたこともあったという。

トスカニーニは大変な好色家で、
共演者の歌手との浮名を流すこともしばしばであった。
それについて妻は常に悩んでいたという。
しかし家族愛は強く家族の人数分のハートを彫刻した腕輪をはめていたり、
孫(ホロヴィッツとワンダの娘)
ソニアを溺愛し、結果的に断られたものの
一時は養子にしてくれるように頼んだことも知られている。

8・
臨終の際、ソニアが見舞いに来たときトスカニーニは、
「おお、ソニア、ソニア。来てくれたのか。
おじいちゃん、もうすぐ死ぬからな」と言ったという。

9・
ジークフリート・ワーグナーの死後、
相性が合わなかった未亡人のヴィニフレートがナチスに接近すると、
トスカニーニは「一切変わらん限り帰らない!」
と叫んでバイロイト音楽祭から身を引いた。
さらに1937年、ザルツブルクの路上で
フルトヴェングラーと口論となった。

両者は前年のニューヨーク・フィルの引き継ぎをめぐって
感情のしこりがあったが、
フルトヴェングラーがドイツにとどまっていることで、
ヒトラーの言いなりになっていると解し
、険悪な関係となっていた。
「あなたはナチだから出ていけ!
自由な国と奴隷化された国の双方では指揮する資格はない。」、
「あなたにまかせるなら出て行きます。
でも音楽家にとって自由な国も奴隷化された国もない。
演奏するのがたまたまヒトラーの国といって、
ヒトラーの部下とは限らない。
偉大な音楽こそナチスの敵ではないですか!」、

「第三帝国で指揮するのはみんなナチスだ!」
といった内容で喧嘩別れした。
以降二人が会うことはなかったといわれる。

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アルトゥーロ・トスカニーニ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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アルトゥーロ・トスカニーニ:Arturo Toscanini, 1867年3月25日 - 1957年1月16日)は、イタリア出身の指揮者。

目次
1 略歴
2 人物
3 逸話
4 関連項目
5 脚注

略歴
1867年 パルマで生まれる。当地でチェロを学ぶ。
1886年 南米への演奏旅行中に指揮の代役をつとめ転向。
1898年 ミラノ・スカラ座音楽監督。(〜1908年)
1908年 メトロポリタン歌劇場音楽監督。(〜1915年)
1926年 ニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督。(〜1936年)
1934年 ザルツブルク音楽祭。(〜1937年)
1937年 ファシスト党政権に反対してアメリカへ亡命。当地で引退を表明。その後NBC交響楽団が創立され復帰。
1954年 演奏会で記憶障害をきたし降板。直後に引退を表明。
1957年 死去。89歳。

人物
スカラ座やメトロポリタン等の音楽監督を歴任し、20世紀を代表する指揮者とされる。ロマン派のスタイルを脱却した演奏法で音楽における新即物主義といわれ、ライヴァルのフルトヴェングラーと対極をなした。速く正確なテンポ、統一したアンサンブル等は戦後の演奏法の規範となった。徹底した楽譜至上主義ともいわれているが、しばしば部分的にオーケストレーションを改編することもあった。レパートリーは膨大で、イタリア・オペラのみならず、バイロイト音楽祭においてワーグナーを振り、ベートーヴェンやブラームス、レスピーギといった作曲家の管弦楽作品も得意とした。『ワリー』や『トゥーランドット』等の現在主要なイタリア・オペラを初演している。戦後NBC交響楽団を起用し数多くのレコーディングを行った。また、リハーサルの厳しいことで知られ、駄目出しの多さからトスカノーノとあだ名された(後述)。

トスカニーニは極度の近視であり、本番もリハーサルも暗譜で指揮するのが常であった。しかし、1954年4月4日の演奏会(オール・ワーグナー・プログラム・コンサート。曲目は「タンホイザー」序曲とバッカナーレ)での記憶障害により指揮を止めてしまった。そしてこの演奏会の直後にトスカニーニの引退が発表された(引退は演奏会の前に計画されていたとされる)。引退に際し公開した声明は、以下の通り極めて簡潔なものである。

 "The sad time has come when I must reluctantly lay aside my baton and say good-bye to my orchestra."

 「我が指揮棒を不本意ながら置き、なおかつ我がオーケストラに別れを告げねばならぬ悲しい時が来てしまった。」

逸話
プッチーニの遺作オペラ『トゥーランドット』の初演に際し、別な作曲家が補作したフィナーレの直前で演奏を止め、「マエストロはここまでで筆を絶ちました」と言って指揮台をおり、公演はそこで終了した。トスカニーニが公演中に声を発したのは、この時のみである。なお、台詞について異説があり、英語版Wikipediaでは「ここで死が芸術を打ち負かしました」とされている。トスカニーニはオペラピットを去り、場内の照明が灯り、聴衆も静かに帰ったという。
トスカニーニはオーケストラをリハーサルで徹底的に鍛え、妥協を許さない専制的な指揮者であった。こうした態度はオーケストラのみならずオペラ歌手にまで及んだ。あるとき著名なプリマドンナが「マエストロ、私はスターですよ!」と反論すると、トスカニーニは平然と「マダム、あなたは間違っている。スターは空にあるものですよ。」と答えたといわれる。
トスカニーニの暗譜能力は驚異的であり、合奏曲約250曲の全パート、オペラ約100曲の譜面と歌詞、更に多くの小品を完璧に覚えていたという。あるとき、バスーン奏者が演奏会の前に自分の楽器のキーを一つ壊してしまい、トスカニーニに相談した。トスカニーニは暫く考えてから、「今夜の曲ではその音は使われないから、心配しないで良い」と答えた[1]。
元来トスカニーニはパルマ音楽院では作曲科の学生であった。ところが学生のときワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を観覧し作曲家になることを断念、そのままチェロ科に移ってしまった。なお彼が作曲したピアノ曲「子守歌」は、白石光隆により録音されている(フルトヴェングラー、セルらの曲と共に『大指揮者のピアノ曲』としてキングレコードから発売。)。
ラヴェルの「ボレロ」を指揮した際、興奮した会場の聴衆の拍手に、作曲者同席の慣例に従ってトスカニーニはラヴェルを立たせて巻き起こる拍手を作曲者に向けようとしが、テンポの解釈の違いからラヴェルは自分の席に座ったままで、聴衆の拍手には応えようとしなかったという。この行動はすぐに新聞紙上で騒がれるなど一時は音楽界格好の話題となったが、後にラヴェルはトスカニーニへの手紙の中で、この事件が実は誤解に基づくものである事を説明している。
ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」を録音し、レコードをショスタコーヴィチに贈ったのだが、作曲者本人はトスカニーニの演奏が気に入らなかったらしい。
トスカニーニは非常に短気であり、オーケストラのリハーサルの際には怒鳴り声を発することは頻繁にあった。戦前に出演したバイロイト音楽祭では、オーケストラが一音出すたびに「ノー、ノー!」と怒鳴るので「トスカノーノ」というあだ名を付けられていた。しかし当時のオーケストラ団員は仕事に対するモラルが低く、各々が好き勝手な譜読みをしたり、リハーサルを勝手に休み他所でアルバイトをするような者もいた。指揮者が理想どおりの音楽を表現しようとするためには厳しい姿勢を示す必要があった。
トスカニーニがリハーサル中に激怒すると、指揮棒を折る、スコアを破く、インク瓶や懐中時計を地面に投げつける、譜面台を壊したりするということもよくあり、コンサートマスターの指を指揮棒で刺してしまい、裁判沙汰になったこともあった。しかし一通り暴れ終わった後は平然とした顔で「それではリハーサルを始めましょう」と何食わぬ顔でリハーサルを始めた。また、いかにもイタリア人らしく激しく怒っても翌日には忘れてしまい、まったく後に引くということがなかった。翌日も怒りが残るジョージ・セルとは対極をなし、オーケストラの団員から憎まれるようなことはなかったという。
トスカニーニはオーケストラ団員から非常に恐れられていたが、ウィーン・フィルは別であった。ある時トスカニーニがウィーン・フィルとのリハーサル中に激しく怒り、スコアを両手で持って地面に叩きつけると、高名なチェロ奏者フリードリッヒ・ブックスバウム(ロゼー弦楽四重奏団のメンバー)は自分のパート譜をそっとスコアの隣に置いたという。しかし、トスカニーニはこの優れたオーケストラに一目置き、リハーサルで憤激することも非常に稀になり良好な関係を保っていた。ある時ムソルグスキーの『展覧会の絵』を指揮した時、トスカニーニが「絵」を一つ飛ばしてしまい力強く指揮棒を振り下ろすと誰も反応せず、びっくりしたトスカニーニが気がついて今度は静かに合図するとオーケストラは鳴り出した。後にトスカニーニは「彼らは私の間違いに気付いてくれた」とウィーン・フィルを賞賛したという。
あるとき、ニューヨークの演奏会で、聴衆が数人遅刻してくると、トスカニーニはナポレオン風に腕を組み、「遅れてはいかん!」と叱り、呆然としたオーケストラに対し、目の前のチェロの譜面台をわざとらしく叩き、演奏を始めたという。
トスカニーニは指揮者・レオポルド・ストコフスキーとは犬猿の仲であった。ストコフスキーのスコア改変に対して「あいつは作曲者に対する殺人者だ」と罵り、一方ストコフスキーも「怒鳴れば何でも思い通りになると思ってるイタリア人」と皮肉を言っている。しかし、もともとは関係は良好だったらしく、自らの演奏会に賓客としてストコフスキーを招き、その演奏を聴いた彼は「これほど多くのことを学ばせてもらった演奏に対して、料金を払わないわけにはいかない」と、チケットの代金を払ったという逸話もある。また、「あいつが振れば、どんな指揮者より良い音が鳴る」と、改変に対しては嫌悪感を抱きつつも、指揮自体の手腕は高く評価していたようである。
トスカニーニの末娘であるワンダは、ピアニストのウラジミール・ホロヴィッツと結婚した。トスカニーニはホロヴィッツと共演したこともあるが、大ピアニストであるホロヴィッツに対して「でくのぼう」呼ばわりしたこともあったという。
トスカニーニは大変な好色家で、共演者の歌手との浮名を流すこともしばしばであった。それについて妻は常に悩んでいたという。しかし家族愛は強く家族の人数分のハートを彫刻した腕輪をはめていたり、孫(ホロヴィッツとワンダの娘)ソニアを溺愛し、結果的に断られたものの一時は養子にしてくれるように頼んだことも知られている。臨終の際、ソニアが見舞いに来たときトスカニーニは、「おお、ソニア、ソニア。来てくれたのか。おじいちゃん、もうすぐ死ぬからな」と言ったという。
ジークフリート・ワーグナーの死後、相性が合わなかった未亡人のヴィニフレートがナチスに接近すると、トスカニーニは「一切変わらん限り帰らない!」と叫んでバイロイト音楽祭から身を引いた。さらに1937年、ザルツブルクの路上でフルトヴェングラーと口論となった。両者は前年のニューヨーク・フィルの引き継ぎをめぐって感情のしこりがあったが、フルトヴェングラーがドイツにとどまっていることで、ヒトラーの言いなりになっていると解し、険悪な関係となっていた。「あなたはナチだから出ていけ!自由な国と奴隷化された国の双方では指揮する資格はない。」、「あなたにまかせるなら出て行きます。でも音楽家にとって自由な国も奴隷化された国もない。演奏するのがたまたまヒトラーの国といって、ヒトラーの部下とは限らない。偉大な音楽こそナチスの敵ではないですか!」、「第三帝国で指揮するのはみんなナチスだ!」といった内容で喧嘩別れした。以降二人が会うことはなかったといわれる。

関連項目
イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

脚注
^ Kim Stanley Robinson Blue Mars, Bantam, p.671. ISBN 0-553-57335-7

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3月25日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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できごと [編集]
807年(大同2年2月13日) - 古語拾遺が成立する。

940年(天慶3年2月14日) - 平将門と追討の平貞盛・藤原秀郷の軍勢が激突し、
将門が討ち死にする(承平天慶の乱)。

1655年 - オランダの天文学者クリスティアーン・ホイヘンスが土星の衛星タイタンを発見。

1802年 - アミアンの和約(英仏の講和条約)が結ばれる。

1837年(天保8年2月19日) - 大塩平八郎の乱

1911年 - ニューヨークのトライアングルウェストシャツ工場で火災。死者145人。

1943年 - 黒澤明監督の初監督作品『姿三四郎』封切り。

1945年 - 硫黄島で日本軍守備隊が玉砕。

1948年 - 川島芳子北京にて刑死。

1957年 - ローマ条約調印

1972年 - 西城秀樹がシングル『恋する季節』で歌手デビュー。

1973年 - 石川さゆりがシングル『かくれんぼ』で歌手デビュー。

1977年 - 狩人がシングル『あずさ2号』で歌手デビュー。

1978年 - 石野真子がシングル『狼なんか怖くない』で歌手デビュー。

1984年 - 阪急電鉄西宮北口駅に存在した神戸線と今津線の平面交差
(ダイヤモンドクロッシング)を解消。

1989年 - みなとみらい21地区で横浜博覧会 (YES'89) 開催。10月1日まで。

1991年 - スピッツがシングル『ヒバリのこころ』とアルバム『スピッツ』で
メジャーデビュー。

1991年 - 桃花台新交通桃花台線(ピーチライナー)が開業。

1992年 - ハウステンボスが開園。

1993年 - NECホームエレクトロニクスがPCエンジンDuo-Rを発売。

1993年 - 長野自動車道が全線開通。

1995年 - 門司港レトロがオープン。

1996年 - TBSがオウム真理教に坂本弁護士のビデオテープを見せたことを認める。

1996年 - 百武彗星が地球に最接近。

2005年 - 2005年日本国際博覧会(愛知万博、愛称=愛・地球博)開催。

2007年 - 午前9時42分、「平成19年(2007年)能登半島地震」発生。

誕生日
1692年(元禄5年2月8日)- 徳川継友、第6代尾張藩主(+ 1731年)

1767年 - ジョアシャン・ミュラ、軍人(+ 1815年)

1818年 - ヤコブ・ブルクハルト、歴史家(+ 1897年)

1852年(嘉永5年閏2月5日) - 寺内正毅、軍人、内閣総理大臣(+ 1919年)

1867年 - アルトゥーロ・トスカニーニ、指揮者(+ 1957年)

1867年 - ガットスン・ボーグラム、彫刻家(+ 1941年)

1872年(明治5年2月17日) - 島崎藤村、小説家(+ 1972年)

1881年 - バルトーク・ベーラ、作曲家(+ 1945年)

1882年 - 荻野久作、産婦人科医(+ 1975年)

1887年 - 南雲忠一、軍人(+ 1944年)

1896年 - 岡田源三郎、元プロ野球監督(+ 1977年)

1903年 - 佐伯勇、実業家(+ 1989年)

1910年 - 春日一幸、政治家(+ 1989年)

1916年 - 内藤幸三、元プロ野球選手(+ 2002年)

1923年 - 上野重雄、元プロ野球選手

1924年 - 京マチ子、女優

1925年 - パウル・ビーヘル、児童文学作家(+ 2006年)

1930年 - 桂春団治(三代目)、落語家

1930年 - 長谷川良平、元プロ野球選手、監督(+ 2006年)

1933年 - 生方恵一、元NHKアナウンサー

1937年 - 柴田秀勝、声優

1937年 - 山田真二、俳優、歌手(+ 2007年)

1940年 - 志茂田景樹、小説家

1940年 - 竜崎勝、男優(+ 1984年)

1942年 - 李麗仙、女優

1947年 - エルトン・ジョン、シンガーソングライター

1948年 - 橋本治、小説家

1950年 - きよ彦、着物デザイナー

1951年 - ジャンボ鶴田、プロレスラー(+ 2000年)
1957年 - 的場均、騎手・調教師
1958年 - 新井正人、歌手、作曲家
1958年 - 小林美樹、元アイドル歌手、アナウンサー
1959年 - 嘉門達夫、シンガーソングライター
1959年 - 原田宗典、小説家
1961年 - 小曽根真、音楽家
1965年 - サラ・ジェシカ・パーカー、女優
1966年 - 堀部圭亮、タレント
1966年 - 宮川一朗太、俳優
1966年 - ヤマジカズヒデ(dip (バンド))
1966年 - トム・グラヴィン、メジャーリーガー
1967年 - マシュー・バーニー、現代美術家
1967年 - デヴィ・トーマス、フィギュアスケート選手
1969年 - 瀬戸輝信、元プロ野球選手
1969年 - エリック・シュールストロム、元プロ野球選手
1969年 - スコット・サンダース、元プロ野球選手
1970年 - さがね正裕、タレント(X-GUN)
1971年 - 登坂栄児(大日本プロレス統括部長)
1973年 - アンダース・フリーデン、ミュージシャン
1973年 - 稲光伸二、漫画家
1975年 - 金村康平、元プロ野球選手
1975年 - 青木希久子、NHKアナウンサー
1976年 - Nana(本名:沢詩奈々子)、MAXのメンバー、タレント
1976年 - ジジ・リョン、タレント
1976年 - ケン・ロイド、ミュージシャン(FAKE?) ex.Oblivion Dust
1977年 -和田聰宏、俳優
1978年 - 野仲美貴、タレント
1979年 - はいだしょうこ、タレント
1980年 - 中村まゆみ、舞台女優・元お笑い芸人
1980年 - オレグ・ボイコ、フィギュアスケート選手
1981年 - 金子学、お笑いタレント(ナナイロ)
1981年 - 町田慎吾、ジャニーズJr.・Musical Academy
1982年 - 福士加代子、陸上選手
1983年 - 溝口涼子、漫画家
1985年 - 平塚奈菜、タレント
1985年 - 荻野なお、女優
1986年 - サンデーサイレンス、競走馬(+ 2002年)
1986年 - マルコ・ベリネッリ、バスケットボール選手
1987年 - 織田信成 (フィギュアスケート選手)
1987年 - 柳賢振、野球選手
1988年 - 熊谷智哉、サッカー選手
1988年 - 相沢桃、AV女優
1988年 - miko (歌手)
1989年 - 稲垣ほなみ、SKE48
1990年 - 鈴木梨乃、アイドル、女優
1993年 - 宮舘涼太、Jr.BOYS
2002年 - ディープインパクト (競走馬)
生年不詳 - 吉田小百合、声優

忌日
603年(推古天皇11年2月4日)- 来目皇子、飛鳥時代の皇族

940年(天慶3年2月14日)- 平将門、武将、親皇(* 903年?)

1223年 - アフォンソ2世、ポルトガル王(* 1185年)

1558年 - マルコス・デ・ニサ、探検家(* 1495年頃)

1561年 - コンラドゥス・リュコステネス、モラリスト(* 1518年)

1603年(慶長8年2月13日) - 生駒親正、高松藩主(* 1526年)

1738年 - ターロック・オキャロラン、ハープ奏者(* 1670年)

1743年(寛保3年2月30日)- 蜂須賀宗英、第7代徳島藩主(* 1684年)

1751年 - フレドリク1世、スウェーデン王(* 1676年)

1801年 - ノヴァーリス、小説家(* 1772年)

1818年 - ヘンリー・リー (3世)、バージニア州知事(* 1756年)

1867年 - ジャック・イニャス・イトルフ、建築家(* 1792年)

1891年 - 斉藤きち、『唐人お吉』の名で知られる芸者(* 1841年)

1892年 - 三島億二郎、越後長岡藩大参事(* 1825年)

1897年 - チャールズ・エリオット、造園家・都市計画家(* 1859年)

1905年 - 松前修広、松前藩主(* 1865年)

1914年 - フレデリック・ミストラル、詩人(* 1830年)

1918年 - クロード・ドビュッシー、音楽家・作曲家(* 1862年)

1919年 - 辰野金吾、建築家(* 1854年)

1936年 - 山本条太郎、南満州鉄道総裁(* 1867年)

1948年 - 川島芳子、「東洋のマタ・ハリ」の異名で知られる情報員(* 1907年)

1951年 - エディ・コリンズ、メジャーリーグベースボール選手(* 1887年)

1953年 - 5代目柳亭左楽、落語家(* 1872年)

1953年 - 柳家つばめ (3代目)、落語家(* 1884年)

1957年 - 片岡良一、国文学者(* 1897年)

1957年 - マックス・オフュルス、映画監督(* 1902年)

1961年 - アーサー・ドルリー、国際サッカー連盟会長(* 1891年)

1968年 - 下村定、日本の陸軍大臣(* 1887年)

1975年 - ファイサル、サウジアラビア王(* 1906年)

1979年 - 安藝ノ海節男、大相撲第37代横綱(* 1914年)

1980年 - 向江璋悦、法学者(* 1910年)

1980年 - ロラン・バルト、思想家(* 1915年)

1980年 - ミルトン・エリクソン、精神科医・心理学者(* 1901年)

1980年 - ワルター・ジュスキント、指揮者(* 1913年)

1986年 - 増田卓、元プロ野球選手(* 1921年)

1991年 - 細田徳寿、大分県知事(* 1904年)

1995年 - ジェームズ・コールマン、社会学者(* 1926年)

1996年 - 佐藤朔、フランス文学者(* 1905年)

2001年 - 塩瀬盛道、元プロ野球選手(* 1931年)

2003年 - 古尾谷雅人、俳優(* 1957年)

2004年 - 下川辰平、俳優(* 1930年)

2006年 - リチャード・フライシャー、映画監督(* 1916年)

2007年 - 島尾ミホ、小説家(* 1919年)

2007年 - アンドラニク・マルカリャン、アルメニア首相(* 1951年)

2008年 - ジーン・ピュアリング、歌手・編曲者(* 1929年)

記念日・年中行事
聖母マリアお告げの祝日(キリスト教)
いわゆる受胎告知の日。

電気記念日(日本)
1878年3月25日に、東京・銀座木挽町に開設された
中央電信局の開局祝賀会が虎ノ門の工部大学校(現在の東京大学工学部)で開かれ、
式場に50個のアーク灯が点灯された。(日本初の電灯)
これを記念して日本電気協会が1927年9月に制定。

公立学校修了式(日本、当日が休日の場合は直前の平日になる)
日本の学校の年度は会計年度と同じく4月から翌年3月までであり、
この日までに修了式が行われる。学生には学年最後のイベントで、次の日から春休みとなる。

ユダヤ暦第2アダルの15日(2005年)・プーリーム