東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年3月30日(月曜日)

「ここをおして」をクリックされてください。

「ここをおして」をクリックされてください。は
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年3月30日(月曜日)

平成21年の。

「春」になりました。

「2月」はおわりました。

「春」の「3月」になります。

やっと「春」になりました。

長かった「冬」。

季節にも「ながさ」があり。

その年によって「ながさ」がちがう

ようです。

「春」のながさはどうだろうか。

今年の「冬」・から「春」は予期せぬ

インフルエンザ*の

大規模な流行が予想されます。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。

薬事法の「能書」にあるとおり

「正規の」

「2回法によるインフルエンザワクチン」の

予防接種を行います。

御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

「新年」「初春」になり。
「1月」がおわり。
「2月」。
「2月」がおわりました。

「春」の「3月」。
「春」になったとたん。

また。
きゅうにさむくなりました
とてもとてもさむくなりました

「昨年」
夏がおわり。
「9月」「初秋」も終わりました。

そして
「10月」がおわり。
「10月」中秋もおわり「11月」。
「中秋」から「晩秋」へとうつろいゆき。
「11月」がおわりました。
昨年の「冬」「12月」が過ぎれば。

いまは。
「1月」「2月」がおわり。
「3月」の「春」をむかえています。

そろそろ とぼとぼと。

「春」にむかって深まり行く。

「たしかなる」

「「春」のふかまる」

季節のかおり。

「あきらかなる」「「春」」の。

あゆみのしらべから。

「3月」の。

「「春」はじめ」の気配が。

手応えはしっかりと。

感じられます。

「春吹雪:はるふぶき」は。

「春かぜ」に。

おわれながら。

さやかな「春かぜ」が。

ただよっています。

「初春」の「冬」からかわり

「春」「3月」。

深まる「春]「3月」の「かおり」。

この

「初春」の

「冬のかおりへの変化(へんげ)」は。

毎年ちがいます。

「冬」から「春」への。

かおりの変化(へんげ)」は。

「毎年」新しい。

「うれしい新品のかおり」

がします。

寒い大気の織り成す(たいきのおりなす)。

冬の季節の風から。

「冬」から。

「新たなる新品のかおり」の。

「春」を恵まれることは。

とても幸せなことなのではないかと考えます。

けれども。

さむいです。

「初春」「新年」「晩冬」の「2月」

はおわり。

「春」「3月」です。

暗い早朝に。
「昨年」「12月」には
「木枯らし」の鳴き声が聞こえました。

陽がのぼるにつれ。
「木枯らし」の声は小さくなってゆきます。
そして「「木枯らし」のつぶやき」になり。

そして。
聞こえなくなりました。

「初春」の。「3月」の「春」の。
「春かぜ」の「音色」にかわりました。

「春」の「春かぜ」の鳴き声の音色は。

「夏」の「せみ」と異なり

「いわにしみいる」ねいろでは

ありません。

「ふうせん」のような。

「「春かぜ」にとばされる」

「春」の風鈴(ふうりん)を。

おもわせる音色です。

「春吹雪:はるふぶき」に。

とばされるように。

「春かぜ」の

声楽4声

(ソプラノ・アルト・テノール・バス)が。

混声の合唱で聞こえます。

「ろうろう」。

「春吹雪:はるふぶき」は。

「春かぜ」にかわりました。

まだ真暗い早朝の朝もやから。
「早い「春」のおとずれ」の「大気」が。

かすみのような「香り」で。
しのびよる気配は。
ろうそくの灯(ともしび)
のようにゆらぎながら。

「初春」の。
何かを。行く先をさがしながら。
何かをさがしながら。
照らすかのようにさまよい。
近寄りしのびよることが
わかります。
ゆきさきは。
もっとふかい「春かぜ」の「春」。

「春」。

「春」です。

昨年も終わり

「新年」「初春」です。

はやいものです。

はやいものです。

「2月」の「晩冬」から「3月」にかけては。
「さらに」。
「大気」と「自然の気配」に。
「特有の独特の気配と香り」が混じります。
感じられるようです。
不思議な感しが致します。

木々は
「「春かぜ」をむかえる」準備をすませて。

これからの。
「春」の。
「「春」へのあらたな実り」に向けての。
息吹が力強く感じられます。

今早朝は「とても肌寒い」です。

今年はとてもとても「寒い」です。

街路樹はしっかりと。
「初春」の枝木の穂先もたわわにつよく。
「春」に向けての。
萌黄色から若葉の芽吹きをそなえ
「冬」の「木」に
かわりました。

そしていま。
「冬」にも若葉を抱く木々は。
さらに「春」の芽栄え(めばえ)に。

うつろいてかわろうと
しています。

「昨年」はあっというまに
「7月」が終わりました。
「8月」です。
「8月」=せみのしぐれなく夏です
「8月」が終わりました。
「9月」が終わりました。
「10月」=「実りの秋」です。
「11月」収穫の晩秋です。
「12月」木枯らしの冬です。

「12月」がおわり。
「1月」「2月」がおわり。
「初春」の「3月」です。

木々がへったため。
夏にはせみの声も少なくなりました。
けれども「一昨年」より
「昨年」はは鳴き声は多かった
ようにおもえます。

こおろぎの声も「一昨年」より
「昨年」は多かったように
おもえました。

今は。

「初春」の「3月」

の「春かぜ」の「こえ」。

「ろうろう」。

みかんの木に「春かぜ」

がとまっているようです。

「鳥」(とり)の様です。

「春かぜ」の声はいつもかわります。

みかんの木は。

とても沢山の実をつけています。

黄金にプラチナのみかんのようです。

「初春」の気配に加えて。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

山椒(さんしょう)の木の芽が
「初春」の若葉にすくすくとそだち。
若枝も冬天高くすこやかにのび。
ますますに。ますますに。
「冬の陽」をあびて。
「春」の山椒(さんしょう)の葉の。
みどりがとても。
奇麗です。

山椒のことを
「きのめ」=木の芽とはなるほどと
かんがえる。

春さんしょう木
春萌黄(もえぎ)鮮やかに芽葉(めは)
春みどり葉わか葉いずる花のごと
春夏(なつ)こすわか枝は幹ならむ
春なりてたゆまずとまらず
春冬あゆみそだちて
春幹は天たかくそだちたり
春いざいまこそは
春空(そら)にもえたたむ
春金色(こがね)の炎
春さんしょう木春

けれども
早朝は本当にはだ寒いのです。

「小さな冬みつけた」から

しだいに「大きな冬みつけた」

「大きな冬みつけた」から。

そして「大きな大きな冬」みつけた・は。

おわり。

「春」がきた。

ちょっと「安心する気」が致します。
「春」はもうきました。

「「春」の女神」の。

「佐保姫(さほひめ)」の導く

ワルツのきこえる「春」です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

-------------------------------

平成21年1月12日(月曜日)
は。
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ限られた
時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。
限られた
時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。
限られた
時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年4月29日(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は。

数学基礎論への強い関心から。
1918年にワルシャワ大学の
数学の哲学講座担当講師に就任し。

オントロジー(Ontology)・
メレオロジー(Mereology)・
プロトテティック(Protothetic)
の三つの体系からなる論理学を展開致して。

ルヴフ=ワルシャワ学派に
おける論理学研究をリードする存在
となった論理学者。

(そのオントロジー (Ontology)は
検索エンジンの検索理論に応用されていますが。
まだこの理論の「0.1%」しか検索エンジンには
活用されていません)

1886年 - スタニスワフ・レシニェフスキ、
論理学者・数学者(+ 1939年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

スタニスワフ・レシニェフスキ:
Stanis?aw Le?niewski,
1886年3月30日 - 1939年5月13日)は
ポーランドの論理学者です。

モスクワ近郊のセルプコフに生まれました。

++++++++++++++++++++++

スタニスワフ・レシニェフスキ:
Stanis?aw Le?niewski

ドイツ各地の大学で学んだ後。

ルヴフ大学にて
カジミェシュ・トヴァルドフスキ、
ヴァツワフ・シェルピンスキ、
ヤン・ウカシェヴィチらに学びました。

1912年に提出された博士論文は。

対象言語とメタ言語の区別に関する
先駆的内容を含んでおりました。

後に彼の弟子となるアルフレト・タルスキの
研究に大きな影響を与えました。

++++++++++++++++++++++

スタニスワフ・レシニェフスキ:
Stanis?aw Le?niewski
は。

また、このころ社会主義運動にも
身を投じました。
一時期ローザ・ルクセンブルクの
助手を務めたこともありました。

++++++++++++++++++++++

スタニスワフ・レシニェフスキ:
Stanis?aw Le?niewski
は。

数学基礎論への関心を強めていたレシニェフスキは。
1918年にワルシャワ大学の数学の
哲学講座担当講師に就任致します。

オントロジー(Ontology)、
メレオロジー(Mereology)、
プロトテティック(Protothetic)
の三つの体系からなる論理学を展開致しました。

ルヴフ=ワルシャワ学派における
論理学研究をリードする存在
となりました。

++++++++++++++++++++++

オントロジー (Ontology) は。

哲学用語で存在論のことです。

ものの存在自身に関する探究、
あるいはシステムや理論の背後にある存在に関する仮定
という意味です。

これから派生してコンピュータ等でも用いられる。

コンピュータにおけるオントロジー
人工知能分野をはじめとするコンピュータの世界では。
「概念化の明示的な仕様」と定義されることがあります。

ウェブをはじめとした文書検索において。
従来の方法では単語単位での一致か。
よくても類義語を含む文書を検索するのが限度でした。

ここにオントロジーの概念を導入する。
それぞれの文書の内容を説明する
意味情報(メタデータ)を各文書に付加し。

メタデータを記述する用語を定義する構造を構築する。
この構造がオントロジーとなります。

++++++++++++++++++++++

スタニスワフ・レシニェフスキ:Stanis?aw Le?niewski
のオントロジー (Ontology)と検索エンジン

オントロジーを導入することにより。

検索対象となる
文書が単なる単語の集まりとしてではなく。

文書全体で大きな意味を持ったデータとして扱われ。

各文書について
統一的な付加情報をもたせることができます。

これにより、本当に必要な情報を的確に検索することが可能と
なります。

++++++++++++++++++++++

スタニスワフ・レシニェフスキ:Stanis?aw Le?niewski
のオントロジー (Ontology)の波及。

このように、メタデータとオントロジーの技術を用い。

文書の意味に即した処理を計算機が行うことが
出来るウェブを
セマンティックウェブ*と呼びます。
次世代の検索技術が実現されることなどで
期待されています。

++++++++++++++++++++++

スタニスワフ・レシニェフスキ:
Stanis?aw Le?niewski
は。

1936年にはワルシャワ大学教授に就任したが。
その三年後に甲状腺癌のため没しました。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD" より作成
カテゴリ: 論理学者 | 1886年生 | 1939年没

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++

スタニスワフ・レシニェフスキ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD

スタニスワフ・レシニェフスキ(Stanis?aw Le?niewski, 1886年3月30日 - 1939年5月13日)はポーランドの論理学者。モスクワ近郊のセルプコフに生まれる。

ドイツ各地の大学で学んだ後、ルヴフ大学にてカジミェシュ・トヴァルドフスキ、ヴァツワフ・シェルピンスキ、ヤン・ウカシェヴィチらに学ぶ。1912年に提出された博士論文は、対象言語とメタ言語の区別に関する先駆的内容を含んでおり、後に彼の弟子となるアルフレト・タルスキの研究に大きな影響を与えた。また、このころ社会主義運動にも身を投じ、一時期ローザ・ルクセンブルクの助手を務めたこともあった。

数学基礎論への関心を強めていたレシニェフスキは、1918年にワルシャワ大学の数学の哲学講座担当講師に就任。オントロジー(Ontology)、メレオロジー(Mereology)、プロトテティック(Protothetic)の三つの体系からなる論理学を展開し、ルヴフ=ワルシャワ学派における論理学研究をリードする存在となった。

1936年にはワルシャワ大学教授に就任したが、その三年後に甲状腺癌のため没した。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD" より作成
カテゴリ: 論理学者 | 1886年生 | 1939年没

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
オントロジー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC

オントロジー (Ontology) は、哲学用語で存在論のこと。ものの存在自身に関する探究、あるいはシステムや理論の背後にある存在に関する仮定という意味である。これから派生してコンピュータ等でも用いられる。

コンピュータにおけるオントロジー
人工知能分野をはじめとするコンピュータの世界では、「概念化の明示的な仕様」と定義されることがある。

ウェブをはじめとした文書検索において、従来の方法では単語単位での一致か、よくても類義語を含む文書を検索するのが限度であった。ここにオントロジーの概念を導入する。それぞれの文書の内容を説明する意味情報(メタデータ)を各文書に付加し、メタデータを記述する用語を定義する構造を構築する。この構造がオントロジーとなる。

オントロジーを導入することにより、検索対象となる文書が単なる単語の集まりとしてではなく、文書全体で大きな意味を持ったデータとして扱われ、各文書について統一的な付加情報をもたせることができる。これにより、本当に必要な情報を的確に検索することが可能となる。

このように、メタデータとオントロジーの技術を用い、文書の意味に即した処理を計算機が行うことが出来るウェブをセマンティックウェブと呼び、次世代の検索技術が実現されることなどで期待されている。

バイオインフォマティクス
さらに上記から派生した意味で、バイオインフォマティクスでも、概念・用語の明示的な仕様のことをいう。

生物学では異なる分野(例えば対象とする生物種が違う)で同じ用語を異なる意味に用いることがあり、また遺伝子の相同性が高いからといって同じカテゴリの遺伝子とみなしてよいとも限らない。このあたりを明確化し、将来的にはテキストマイニングなどを用いて自動的に新たな知識を抽出することを目的として遺伝子オントロジープロジェクトが進められている。これは上位概念として生物学・医学関係全般を対象としたオントロジーの一部に位置づけられている。

外部リンク
人工知能学会
人工知能学会 セマンティックウェブとオントロジー研究会
Gene ontology home

++「続きを読むです3」++++++++++++++++++
3月30日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8830%E6%97%A5

できごと
1282年 - シチリアでシャルル・ダンジューの圧制に対して暴動が発生(シチリアの晩祷)

1492年 - アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世が、
カトリックへの改宗にかかわらず、スペインからユダヤ人を追放することを宣言する。

1856年 - パリ条約が調印され、クリミア戦争が終結。

1858年 - アメリカのハイマン・リップマンが、
消しゴムをニカワで鉛筆に固定させる「消しゴム付き鉛筆」を発明。

1867年 - アメリカ合衆国の国務長官ウィリアム・スワードにより、
アラスカが720万ドル(1エーカー・約4047平方メートル当たり2セント)
で購入される。当時は「スワードの愚行」と呼ばれ、良い評価は受けなかった。

1912年 - フランスがモロッコを保護領とする。

1924年 - 村山貯水池完成。

1940年 - 日中戦争:日本政府が汪兆銘を首班とする南京政府の樹立を宣言。

1942年 - ノルウェー亡命政府が対日断交を宣言。

1945年 - 第二次世界大戦:ソ連軍がオーストリアに侵入し、ウィーンを占領。

1953年 - 皇太子明仁親王がエリザベス2世戴冠式出席のために横浜港を出発。

1959年 - 砂川事件の第一審において在日米軍違憲判決(伊達判決)。

1968年 - テレビアニメ「巨人の星」放送開始

1969年 - フランスの女子学生、
フランシーヌ・ルコントがベトナム戦争に抗議し、
焼身自殺(歌「フランシーヌの場合」は、
歌:新谷のり子、詞:いまいずみあきら、曲:郷伍郎)。

1977年 - 京焼・清水焼を伝統工芸品に指定。

1981年 - アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンが
ワシントンD.C.近郊でジョン・ヒックリーに狙撃される。
警官2名と大統領補佐官1名が負傷。

1986年 - 視聴者参加クイズ番組「世界一周双六ゲーム」(ABC系、司会乾浩明)が放送終了。

1987年 - 安田火災がゴッホの「ひまわり」を53億円で落札。

1995年 - 國松孝次警察庁長官自宅前で狙撃される(警察庁長官狙撃事件)。

1996年 - 東京臨海高速鉄道りんかい線新木場駅〜東京テレポート駅間が開業。

1997年 - 三井三池鉱山が閉山。

2002年 - 産経新聞が東京本社管内での夕刊発行を廃止、大阪新聞が廃刊。

2006年 - 東京都渋谷区表参道に
ラルフ・ローレンのアジア最大の旗艦店「ラルフ・ローレン表参道」がオープン。

2007年 - ザ・リッツ・カールトン東京が東京都港区赤坂に開業。

2008年 - 東京都交通局日暮里・舎人ライナー、横浜市営地下鉄グリーンラインが開業。

誕生日
1130年 - モーシェ・ベン=マイモーン、哲学者(+ 1204年)

1222年(貞応元年2月16日) - 日蓮、僧、日蓮宗開祖(+ 1282年)

1746年 - フランシスコ・デ・ゴヤ、画家(+ 1828年)

1793年 - フアン・マヌエル・デ・ロサス、アルゼンチンの指導者(+ 1877年)

1820年 - アンナ・シュウエル、作家(+ 1878年)

1844年 - ポール・ヴェルレーヌ、詩人(+ 1896年)

1853年 - フィンセント・ファン・ゴッホ、画家(+ 1890年)

1868年 - コロマン・モーザー、美術家・デザイナー(+ 1918年)

1869年 - エミリオ・アギナルド、フィリピン共和国初代大統領(+ 1964年)

1886年 - スタニスワフ・レシニェフスキ、論理学者・数学者(+ 1939年)

1892年 - 野坂参三、日本共産党の指導者(+ 1993年)

1893年 - 世耕弘一、政治家(+ 1965年)

1903年 - 片岡千恵蔵、俳優(+ 1983年)

1905年 - 織田幹雄、陸上競技三段跳選手(+ 1998年)

1908年 - 井野川利春、元プロ野球選手(+ 1976年)

1924年 - 徳網茂、元プロ野球選手(+ 1976年)

1920年 - 芥川比呂志、俳優・演出家(+ 1981年)

1926年 - 中条静夫、俳優(+ 1994年)

1927年 - 堤清二、実業家・小説家

1928年 - 常見昇、元プロ野球選手(+ 2005年)

1935年 - 原貢、元東海大学野球部監督

1938年 - 島倉千代子、歌手

1942年 - 中島義雄、官僚

1942年 - 千原陽三郎、元プロ野球選手

1942年 - 大和田稔、元騎手、調教師

1943年 - 谷口守泰、アニメーター(アニメアール代表)

1944年 - 島野育夫、元プロ野球選手、野球解説者(+2007年)

1945年 - エリック・クラプトン、ミュージシャン

1947年 - 津島佑子、小説家

1949年 - 桂雀三郎、落語家、ミュージシャン
1952年 - 佐伯かよの、漫画家
1955年 - 寺沢武一、漫画家
1960年 - 安寿ミラ、女優
1960年 - ダニエル・カール、タレント
1960年 - 目加田頼子、NHKアナウンサー
1961年 - 米倉ますみ、演歌歌手、浪曲師
1962年 - 藤臣柊子、エッセイスト
1962年 - M.C.ハマー、ミュージシャン
1962年 - 小川洋子、小説家
1963年 - ローリー・クック、ミュージシャン
1963年 - 西端弥生、タレント、
1963年 - 田中美羽、元タレント
1964年 - トレイシー・チャップマン、歌手・シンガーソングライター
1964年 - イアン・ジーリング、俳優
1965年 - 破矢ジンタ、ミュージシャン(ジッタリン・ジン)
1966年 - 村上里佳子、タレント
1966年 - テリー・ブロス、元プロ野球選手
1967年 - 坂本冬美、演歌歌手
1967年 - 林原めぐみ、声優・歌手
1967年 - クリストファー・ボウマン、フィギュアスケート選手(+ 2008年)
1968年 - セリーヌ・ディオン、歌手
1968年 - 村上正明、俳優
1969年 - 伊平崇耶(UPLIFT)、アニメプロデューサー
1969年 - 安藤麻吹、女優・声優
1970年 - セクレタリアト、競走馬(+1989年)
1970年 - 白田あゆみ、元アイドル歌手
1971年 - 入江泰浩、アニメーション監督
1971年 - 小川つぐみ、元AV女優
1974年 - 高橋健一 、お笑い芸人(キングオブコメディ)
1973年 - ヤン・コラー、サッカー選手
1974年 - 千原ジュニア、お笑い芸人(千原兄弟)
1976年 - 川澄綾子、声優
1976年 - 山口寛雄、ミュージシャン
1977年 - 松川浩子、毎日放送アナウンサー
1977年 - 高橋正純、DJ・アナウンサー
1977年 - クリス・ロハス、野球選手
1978年 - 奥村政佳、ミュージシャン(RAGFAIR)・気象予報士
1978年 - ジョシュ・バード、野球選手
1979年 - ノラ・ジョーンズ、ジャズのシンガーソングライター・歌手・ピアニスト
1980年 - カーター・ウィリアムス、プロフェッショナルファイター
1980年 - 倉野麻里、テレビ東京アナウンサー
1980年 - 前浪ヨシアキ、ミュージシャン(せきずい)
1980年 - リカルド・オソリオ、サッカー選手
1981年 - 工藤隆人、プロ野球選手
1982年 - 高木康成、プロ野球選手
1982年 - 香川絵馬、ファッションモデル
1982年 - 畑端省吾、騎手
1983年 - 田馥甄(ヒビ・ティエン)、台湾の歌手(S.H.E)
1985年 - 藤原ゆか、漫画家
1986年 - 安良城紅、美少女クラブ31
1989年 - 岡田彩菜、歌手・アイドル
生年不詳 - 小松未歩、シンガーソングライター
生年不詳 - 小林ゆう - 読者モデル

忌日
1472年 - アメデーオ9世、サヴァイア公(* 1435年)

1559年 - アダム・リース、数学者(* 1492年)

1582年(天正10年3月7日)- 武田信廉、戦国武将(* 1532年)

1654年(承応3年2月12日)- 黒田忠之、第2代福岡藩主(* 1602年)

1678年(延宝6年2月8日)- 小笠原長矩、江戸幕府寺社奉行・三河吉田藩主(* 1624年)

1707年 - ヴォーバン、フランス軍の元帥・軍事技術者(* 1633年)

1764年 - ピエトロ・ロカテッリ、作曲家(* 1695年)

1830年 - ルートヴィヒ1世、バーデン大公(* 1763年)

1832年 - ステファン・グルームブリッジ、天文学者(* 1755年)

1840年 - ジョージ・ブライアン・ブランメル、
セレブリティ・ダンディスト(* 1778年)

1842年 - エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン、画家(* 1755年)

1871年 - ルイーゼ・ファン・オラニエ=ナッサウ、
スウェーデン王カール15世の王妃(* 1828年)

1909年 - 3代目笑福亭松鶴、落語家(* 1844年)

1912年 - 藤田伝三郎、実業家・藤田組創業者(* 1841年)

1924年 - 福原有信、実業家・資生堂創業者(* 1848年)

1925年 - ルドルフ・シュタイナー、思想家・哲学者(* 1861年)

1933年 - ジョン・アイセル、陸上競技選手(* 1884年)

1936年 - コンチータ・スペルビア、メゾソプラノ歌手(* 1895年)

1944年 - チャールズ・バーノン・ボーイズ、物理学者(* 1855年)

1945年 - 小室翠雲、日本画家(* 1874年)

1947年 - アーサー・マッケン、小説家(* 1863年)

1949年 - フリードリッヒ・ベルギウス、化学者(* 1884年)

1950年 - レオン・ブルム、元フランス首相(* 1872年)

1956年 - E・C・ベントリー、推理作家(* 1875年)

1961年 - フィリベール・ジャック・メロッテ、天文学者(* 1880年)

1963年 - アレクサンドル・ガウク、指揮者(* 1893年)

1966年 - マックスフィールド・パリッシュ、画家・イラストレーター(* 1870年)

1966年 - イェリー・ダラーニ、ヴァイオリニスト(* 1893年)

1967年 - 細谷雄二、医学者(* 1897年)

1970年 - ハインリヒ・ブリューニング、第12代ドイツ国首相(* 1885年)

1972年 - 武井大助、実業家(* 1887年)

1975年 - 中村英子、女優(* 1951年)

1976年 - 原田督三、元プロ野球選手(* 1919年)

1981年 - ダグラス・ロウ、陸上競技選手(* 1902年)

1981年 - 相模太郎、声優(* 1931年)

1984年 - カール・ラーナー、カトリック教会の司祭・神学者(* 1904年)

1984年 - 金山次郎、プロ野球選手(* 1922年)

1985年 - 野上弥生子、小説家(* 1885年)

1985年 - 大島鎌吉、陸上競技選手(* 1908年)

1985年 - 笠置シヅ子、歌手(* 1914年)

1986年 - ジェームズ・キャグニー、俳優(* 1899年)

1986年 - 鈴木龍二、元セントラル・リーグ会長(* 1896年)

1988年 - 田谷力三、テノール歌手(* 1899年)

1990年 - 岩崎忠雄、実業家(* 1909年)

1993年 - アンドレ・ブリュネ、フィギュアスケート選手(* 1901年)

1993年 - リチャード・ディーベンコーン、画家(* 1922年)

1996年 - 齊藤了英、実業家(* 1916年)

1998年 - 田中龍夫、政治家(* 1910年)

1999年 - 南条あや、ネットアイドル(* 1980年)

2002年 - エリザベス・バウエス=ライオン、イギリス王ジョージ6世の王妃(* 1900年)

2003年 - ヴァレンチン・パヴロフ、元ソビエト連邦首相(* 1937年)

2003年 - マイケル・ジェッター、俳優(* 1952年)

2004年 - 林大、日本語学者(* 1913年)

2004年 - 河邨文一郎、整形外科医・詩人(* 1917年)

2004年 - トマ・アンドラーシュ、ハンガリー軍の元兵士(* 1925年)

2006年 - ジョン・マクガハン、小説家(* 1934年)

2008年 - 清水基吉、俳人・小説家(* 1918年)

記念日・年中行事
マフィアの日
1282年、イタリアシチリア島で
「マフィア」という言葉の由来とされる事件が発生したことに由来。

2009年03月31日
東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年3月31日(火曜日)

「ここをおして」をクリックされてください。

東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年3月31日(火曜日)

「晩冬」の「2月」はおわりました。

そして。

「春」の「3月」になりした。

「初春」

「4月」ももうすぐです。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

「昨年」
「9月」がおわわりました。
「10月」も終わりました。
「11月」もおわり。
「12月」で「冬」になりました。
「12月」がおわり。
「昨年」はおわりました。

「冬」も「年」を越しました。
「1月」がおわり。
「晩冬」の「2月」もおわりました。
「3月」「春」です。

「初春」の。
「3月」はしずかに。
しずかに。しずかに。

能の舞(のうのまい)の。

「おきなのあゆみ」のように。

そそとした「春舞台」の上を。

さらにふかまりつつゆく

春の景色の舞台の上を。

あゆみつつあります。

能の舞(のうのまい)の。

「おきなのあゆみ」は

「春」の「3月」から。

さらにおくふかい「春」に。

むかっています。

暗い朝の早朝に。
南の天に「明けの明星」が
輝いています。
闇夜の天高いかがやく惑星。

「明けの明星」金星に。
毎日「おはよう」のあいさつを
します。

「初春」の「3月」の。

早朝に。

はるか暗い早朝に「こおろぎ」の
かすかな。ひとりぼっちの。
鳴き声がきこえたような気が致しました。

けれどもそれは。

「春かぜ」の声。

毎朝の暗いうち「春かぜ」の「音色」は。
毎日違います。

「ろうろう」「こうこう」

耳をすませば。
「春かぜ」の鳴き声は。

「独唱」から次第に「合唱」に
なってきました。

そしてオーケストラの楽器の配列のように。
一風一かぜ(ひとかぜ)の
「春かぜ」の鳴いている場所も。
わかるように。なってきました。

「春かぜ」も
「春」深い季節の「春」
 にむけての。

ころもがえやひっこしをしている
ことがわかります。

もうすぐ「さくらかぜ」に

衣替えするでしょう。

「春吹雪:はるふぶき」は。

「鳥」のように。

木々の上から電線のうえにやどるようです。

「春吹雪:はるふぶき」は

「街路樹」にとまって。

「春」を過ごすのでしょう。

「春」です。

「春かぜ」のうたう季節

になりました。

けれども「昨年」「12月」に。

冬至もおわり。

これから日々ゆっくりと

日は長くなります。

陽はたかくなります。

よるは短くなりはじめます。

これからは天上の太陽は。

「冬」から「春」に向かいます。

けれども「地上」では。

「今」まだ「初春」です。

あさは曇っていて。
さらに昼間でも「さむい」ことがある。
私がおきるまっくらな早朝は。
とてもとても。
とても寒いです。

雪国うまれの私はさむいのがつらい
です。

早朝「そら」をみあげれば。
晴れているはず。日差しもあるはず。

けれども空には
「雲がいっぱい」で「空はくもりそら」
です。
ふしぎな「春」のひざしです。

ふとかんがえれば・・。

そして「春」には。

「春」の「さむさ」から。

「若芽」をまもる。

「春」の太陽から。さらなる恵みを。

「実る木の芽」にあたえる。

「空」こそは。

「ソフトフイルター」の役目を。

深い「春」の「おぼろくもりそら」が。

しているようです。

自然とは。

とてもよくできたものです。

変幻自在であり

そして規則も正しい。

なおかつにして。

自由が自在。

春夏秋冬。

大気に漂う霞がごとし。

深い山の奥に住むという

仙人の心境(ここち)が。

とてもよくわかります。

「春」の街路樹もそうそうたる。
ふかまる冬の羽振りを。
まとう木々に姿になってきました。

そして冬の。
紅葉の冬。
枯れ葉も「春」をむかえています。

木々のまとう枯れ葉は木々の
セーターのようです。
少しでも暖かければ。

街路樹は「落葉樹」がよいです。

街路樹が「松や杉」のような。
「常緑樹」では
冬はうっそうとして
陽の光をえられない。

夏場は枝ぶり葉っぱから陽の光を
さえぎれない。
晩秋も「針葉樹の落葉」では
木枯らしもつりがあわない。
とどのつまり
四季のリズムはつくれません。

ヴイバルデイの
「四季」の「夏」にある
木陰で休む羊飼いの旋律
も。
フランツ・シューベルトの
「菩提樹」の歌曲
も「うまれません」。

落葉の針葉樹で
強いからといって私の「好き」な。
「からまつ」をうえられても
街路樹には叶(かな)わないでしょう。

私の「大好き」な。
北原白秋の「からまつの詩」。

「からまつ」は

街路樹にはそぐはないかもしれません。

播磨の俳人滝野瓢水の句

「手に取るな

やはり野におけ蓮華草」

のように。

やはり野におけ蓮華草。

やはり野におけから松木。

「からまつ」も蓮華草と同じくに。

清楚な華やかさとはかなさを

もっています。

やはり野におけ。

蓮華草とからまつ。

「春」の「からまつ」です。

そしていま。
「春」をあゆむ「からまつ」の時期になりました。

-------------------------------
北原白秋
 
「水墨集」より

  
 落葉松
-------------------------------

      一
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 からまつをしみじみと見き。
 
 からまつはさびしかりけり。
 
 たびゆくはさびしかりけり。

      二
                 
 からまつの林を出でて、
 
 からまつの林に入りぬ。
 
 からまつの林に入りて、
 
 また細く道はつづけり。

      三
 
 からまつの林の奥も
 
 わが通る道はありけり。
  きりさめ
 霧雨のかかる道なり。
 やまかぜ
 山風のかよふ道なり。

      四
 
 からまつの林の道は、
 
 われのみか、ひともかよひぬ。
 
 ほそぼそと通ふ道なり。
 
 さびさびといそぐ道なり。

      五
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 
 からまつはさびしかりけり、
 
 からまつとささやきにけり。

      六

 からまつの林を出でて、
  あさま ね
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 からまつのまたそのうへに。

      七
 
 からまつの林の雨は
 
 さびしけどいよよしづけし。
 
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 
 からまつの濡るるのみなる。

      八
 
 世の中よ、あはれなりけり。
 
 常なれどうれしかりけり。
 
 山川に山がはの音、
 
 からまつにからまつのかぜ。

-------------------------------

木々の青葉の房が
早朝くらい中でも
うかびあがります。
とりわけ私は
くすのき科が。
「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
けやきもすきです。
カエデもすきです。
もみじもすきです。
松もすきです。
杉もすきです。
からまつも好きです。

いまは
「春」です。

「春」になり。
裸木の。
木々の穂先は小さいけれども毛氈(もうせん)
のようにあざやかな萌黄色と緑です。

まるで。
大きな里山の森の冬のうねりのようです。
今年は木々のわかばの冬のめばえがとてもとても
鮮烈です。
「春」の芽はえも「鮮烈」なことと見守ります。
「春吹雪:はるふぶき」が。
若芽のうえを吹き抜けていきます。

街角の雑草も
春草に変貌して。

「春吹雪:はるふぶき」になり。
道端のくさばなは。
「遠慮がち」にながら堂々と一本の茎。

雑草も。
春草へと変貌しつつながらえています。
あたたかかう
ふかまる「春」をまつ。
「春」の野原の雑草です。

朝暗いうちは。
とてもはださむいです。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
ふとい孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

春風いてつく冬竹(ふゆたけ)の
笹葉は蒼くふるえたり
みどり葉笹葉にかぜはやみ
春陽をうつすやうつろひの
竹の葉春かぜはやいくとせ

春地にも空にも
春みどり葉ひらき
春みどり木冬空
春天高くひろがりけり
春ゆたかなりけり
春いふことのなし
春いふことがなし
春いふことはなし
春ゆたかなりけりはる

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成21年1月12日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ限られた時間帯で。
診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ限られた時間帯で。
診療を行います

はおわりました。
-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ限られた時間帯で。
診療を行います
はおわりました。

-------------------------------

平成21年4月29日(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

-------------------------------
麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です。

-------------------------------

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は。
ウイーンフイルをはじめとする
名オーケストラから絶大なる信頼と
指揮者としての音楽性を高く評価され。

1945年ソ連軍がウィーンを目前に迫った
4月2日にウィーン・フィルと
戦中最後の演奏会を行い。
(曲目はブラームスの「ドイツ・レクィエム」)。

てソ連軍によるウィーン占領直後、
オーストリア独立宣言の日(4月27日)には、
解放記念コンサートでウィーン・フィルを指揮
(曲目はベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番、
シューベルトの交響曲第8番「未完成」、
チャイコフスキーの交響曲第5番)。

1893年 - クレメンス・クラウス、指揮者(+ 1954年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

クレメンス・ハインリヒ・クラウス:
Clemens Heinrich Krauss, 1893年3月31日 - 1954年5月16日)
はウィーン出身の名指揮者です。

++++++++++++++++++++++

クレメンス・ハインリヒ・クラウス:
Clemens Heinrich Krauss
は。
母親はウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)
のソロ・バレリーナで当時まだ17歳にもならない
クレメンティーネ・クラウスでした。

私生児だったクラウスは外交官だった祖父の下で育ちました。

クラウスの持つそのエレガントな美貌から、
父親はハプスブルク家の人間ではないかという噂が絶えず。

バルタッツィ侯爵、ヨハン・サルヴァトール大公、
あるいは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世などと言われています。

++++++++++++++++++++++

クレメンス・ハインリヒ・クラウス:
Clemens Heinrich Krauss
は。

10歳でウィーン少年合唱団に入団致しました。
その後市立ウィーン音楽院で
作曲家リヒャルト・ホイベルガーに学びました。

リガ、ニュルンベルク、シュテッティン、
グラーツ、フランクフルト
など各地の歌劇場で研鑽を積んだ後。

1929年にフランツ・シャルクの後任として
ウィーン国立歌劇場の音楽監督に。

また翌年
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの後任として
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の
常任指揮者に就任致しました。
(クラウスが辞任後
ウィーン・フィルは常任指揮者制そのものを廃止し、
70年を経た現在もなお復活の予定はないのです)。

++++++++++++++++++++++

クレメンス・ハインリヒ・クラウス:
Clemens Heinrich Krauss
は。
クラウスはまさにウィーンを
掌中に収めたかに見えました。
折りしも1928年に始まった世界恐慌
で演奏会やオペラへの客足が鈍り
(ウィーン・フィルの演奏会のチケットなど楽員が
内輪で捌かねばならないほどだった)ました。

またクラウスは当時前衛的だった作品を。
プログラムに盛んに取り上げたため
各方面から強い反発を受けました

++++++++++++++++++++++

クレメンス・ハインリヒ・クラウス:
Clemens Heinrich Krauss
は。

ついに1934年に国立歌劇場を失脚して
ウィーンを離れた後。

935年にナチスと衝突して辞任した
エーリッヒ・クライバーの後任として
ベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任致しました。

また1937年にはナチスによって
辞任に追いやられた
ハンス・クナッパーツブッシュの後任として
バイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任致しました。

++++++++++++++++++++++

クレメンス・ハインリヒ・クラウス:
Clemens Heinrich Krauss
は。
1941年からはやはりナチスによりザルツブルク音楽祭の
総監督に任命されています
(これが災いし
戦後は1952年まで音楽祭から締め出されてしまう)。

この戦前、戦中の。
ナチスとの協力関係が後に
指摘されることになりました。

クラウスはフルトヴェングラー同様に
最後までナチス党員ではなかった。
ナチスの下で要職に就く一方では。

ナチスの手からユダヤ人音楽家を
少なからず救ったとも言われています。

++++++++++++++++++++++

クレメンス・ハインリヒ・クラウス:
Clemens Heinrich Krauss
は。

戦後クラウス自身はは彼自身のナチスに対する
日和見的な態度について。

強く恥じ反省したということです。

第2次世界大戦終結直前の1944年に。

空襲が激しくなったウィーンに戻って
ウィーン・フィルと行動を共に致しました。

++++++++++++++++++++++

クレメンス・ハインリヒ・クラウス:
Clemens Heinrich Krauss
は。

1945年、ソ連軍がウィーンを目前に迫った
4月2日にウィーン・フィルと
戦中最後の演奏会を行いました
(曲目はブラームスの「ドイツ・レクィエム」)。

そしてソ連軍によるウィーン占領直後、
オーストリア独立宣言の日(4月27日)には、
解放記念コンサートでウィーン・フィルを指揮する
(曲目はベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番、
シューベルトの交響曲第8番「未完成」、
チャイコフスキーの交響曲第5番)。

++++++++++++++++++++++

クレメンス・ハインリヒ・クラウス:Clemens Heinrich Krauss
は。
しかしその後、ナチスに協力したという容疑で
連合国軍より演奏活動の停止を命ぜらました。

1947年に非ナチ化裁判において無罪となり活動を再開。

1954年に亡くなるまでウィーンを中心にヨーロッパや
中南米で活躍致しました。

++++++++++++++++++++++

クレメンス・ハインリヒ・クラウス:
Clemens Heinrich Krauss
の。

戦後の活動で注目に値するのは
1952年のザルツブルク音楽祭において
リヒャルト・シュトラウスの「ダナエの愛」の初演を行ったこと
(1944年にすでに作曲家自身の前でゲネプロまで行ったが、
ナチスの指示により公演中止となった)。

および1953年にバイロイト音楽祭で
リヒャルト・ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」
「パルジファル」を指揮し大成功を収めたことです。

バイロイト出演は、
ヴィーラント・ワーグナーが音楽祭再開後推し進めたいわゆる
「新バイロイト様式」に、
ハンス・クナッパーツブッシュが抗議して
出演をキャンセルしたことに伴い実現した
(ヴィーラントは翌年以降もクラウスに任せるつもりだったが、
クラウスの死により急遽クナッパーツブッシュと和解して
彼をバイロイトに呼び戻した)。

++++++++++++++++++++++

クレメンス・ハインリヒ・クラウス:Clemens Heinrich Krauss

戦前の華麗な経歴とは対照的に。

戦後は特に重要なポストに就くことはありませんでした。

生粋の劇場人であるクラウスは
(母がバレリーナだったため
「生まれずして舞台に立っていた」と自らを語った)、

1955年に再建予定のウィーン国立歌劇場の音楽監督への
復職を切望しており、
そのためにライヴァルのエーリッヒ・クライバーに対する
妨害工作を行ったといわれています

(因みにエーリッヒ・クライバーは
後にベルリン国立歌劇場に復帰する)。

しかし最終的に時の文部大臣の指示により
カール・ベームが次期監督に決定し、
このショックがクラウスの死を早めたと言われています。

++++++++++++++++++++++

クレメンス・ハインリヒ・クラウス:
Clemens Heinrich Krauss
は。

決定の直後に失意のクラウスはメキシコへ演奏旅行に出かけ、
演奏会直後に心臓発作のため急逝致しました。

最後の演奏会の曲目は、
ハイドンの交響曲第88番
(クラウスはこの曲を得意としてよく取り上げた)、
デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」、
ブラームスのピアノ協奏曲第2番、
ベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番でした。

クラウスはメキシコには行きたくなかったので
わざと主催者側に高額の報酬を要求したが、
その要求が受け入れられてしまったため
行かざるをえなくなったと言われています。

ウィーンの市民はみな悲しんで。
クラウスのために半旗を掲げたとのことである。

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
クレメンス・クラウス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9

クレメンス・ハインリヒ・クラウス:Clemens Heinrich Krauss, 1893年3月31日 - 1954年5月16日)はウィーン出身の名指揮者。

目次
1 生涯
2 演奏スタイル
3 レパートリー
4 レコード録音
5 ニューイヤーコンサート
6 外部リンク

生涯
母親はウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)のソロ・バレリーナで、当時まだ17歳にもならないクレメンティーネ・クラウスであり、私生児だったクラウスは外交官だった祖父の下で育った。クラウスの持つそのエレガントな美貌から、父親はハプスブルク家の人間ではないかという噂が絶えず、バルタッツィ侯爵、ヨハン・サルヴァトール大公、あるいは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世などと言われている。

10歳でウィーン少年合唱団に入団し、その後市立ウィーン音楽院で作曲家リヒャルト・ホイベルガーに学ぶ。リガ、ニュルンベルク、シュテッティン、グラーツ、フランクフルトなど各地の歌劇場で研鑽を積んだ後、1929年にフランツ・シャルクの後任としてウィーン国立歌劇場の音楽監督に、また翌年ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの後任としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任する(クラウスが辞任後ウィーン・フィルは常任指揮者制そのものを廃止し、70年を経た現在もなお復活の予定はない)。クラウスはまさにウィーンを掌中に収めたかに見えたが、折りしも1928年に始まった世界恐慌で演奏会やオペラへの客足が鈍り(ウィーン・フィルの演奏会のチケットなど楽員が内輪で捌かねばならないほどだった)、またクラウスは当時前衛的だった作品をプログラムに盛んに取り上げたため各方面から強い反発を受けた。ついに1934年に国立歌劇場を失脚してウィーンを離れた後、1935年にナチスと衝突して辞任したエーリッヒ・クライバーの後任としてベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任する。また1937年にはナチスによって辞任に追いやられたハンス・クナッパーツブッシュの後任としてバイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任する。1941年からはやはりナチスによりザルツブルク音楽祭の総監督に任命されている(これが災いし戦後は1952年まで音楽祭から締め出されてしまう)。この戦前、戦中のナチスとの協力関係が後に指摘されることになるが、クラウスはフルトヴェングラー同様に最後までナチス党員ではなく、ナチスの下で要職に就く一方、ナチスの手からユダヤ人音楽家を少なからず救ったとも言われている。戦後クラウスは、彼自身のナチスに対する日和見的な態度を強く恥じ、反省したという。

第2次世界大戦終結直前の1944年に、空襲が激しくなったウィーンに戻ってウィーン・フィルと行動を共にする。1945年、ソ連軍がウィーンを目前に迫った4月2日にウィーン・フィルと戦中最後の演奏会を行う(曲目はブラームスの「ドイツ・レクィエム」)。そしてソ連軍によるウィーン占領直後、オーストリア独立宣言の日(4月27日)には、解放記念コンサートでウィーン・フィルを指揮する(曲目はベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番、シューベルトの交響曲第8番「未完成」、チャイコフスキーの交響曲第5番)。しかしその後、ナチスに協力したという容疑で連合国軍より演奏活動の停止を命ぜられたが、1947年に非ナチ化裁判において無罪となり活動を再開。1954年に亡くなるまでウィーンを中心にヨーロッパや中南米で活躍した。

戦後の活動で注目に値するのは1952年のザルツブルク音楽祭においてリヒャルト・シュトラウスの「ダナエの愛」の初演を行ったこと(1944年にすでに作曲家自身の前でゲネプロまで行ったが、ナチスの指示により公演中止となった)、および1953年にバイロイト音楽祭でリヒャルト・ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」「パルジファル」を指揮し大成功を収めたことである。バイロイト出演は、ヴィーラント・ワーグナーが音楽祭再開後推し進めたいわゆる「新バイロイト様式」に、ハンス・クナッパーツブッシュが抗議して出演をキャンセルしたことに伴い実現した(ヴィーラントは翌年以降もクラウスに任せるつもりだったが、クラウスの死により急遽クナッパーツブッシュと和解して彼をバイロイトに呼び戻した)。

戦前の華麗な経歴とは対照的に、戦後は特に重要なポストに就くことはなかったが、生粋の劇場人であるクラウスは(母がバレリーナだったため「生まれずして舞台に立っていた」と自らを語った)、1955年に再建予定のウィーン国立歌劇場の音楽監督への復職を切望しており、そのためにライヴァルのエーリッヒ・クライバーに対する妨害工作を行ったといわれている(因みにエーリッヒ・クライバーは後にベルリン国立歌劇場に復帰する)。しかし最終的に時の文部大臣の指示によりカール・ベームが次期監督に決定し、このショックがクラウスの死を早めたと言われている。決定の直後に失意のクラウスはメキシコへ演奏旅行に出かけ、演奏会直後に心臓発作のため急逝した。最後の演奏会の曲目は、ハイドンの交響曲第88番(クラウスはこの曲を得意としてよく取り上げた)、デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」、ブラームスのピアノ協奏曲第2番、ベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番であった。クラウスはメキシコには行きたくなかったのでわざと主催者側に高額の報酬を要求したが、その要求が受け入れられてしまったため行かざるをえなくなったと言われている。ウィーンの市民はみな悲しんでクラウスのために半旗を掲げたとのことである。

演奏スタイル
クラウスの演奏スタイルは細部まで極めて緻密に仕上げられ、かつ速めのしなやかなテンポによる緊張感にあふれたものである。また、その音楽から立ちのぼる匂うような優雅さ、高貴さ、艶やかさはやはりウィーン人ならではというべく、この特質はモーツァルトのオペラや、リヒャルト・シュトラウスの交響詩やオペラ(たとえば「ばらの騎士」「サロメ」「アラベラ」など)、ヨハン・シュトラウスのワルツ・ポルカなどにおいて発揮されたといえる。クラウスがウィーンで非常な人気を誇った理由に、彼の典雅な演奏スタイルと貴族的な容姿にあったであろうことは想像に難くない。クラウスの指揮はいわゆる「ウィーン風」の典型として見られることも多いが、たとえば同じウィーンの指揮者ヨーゼフ・クリップスなどのように古典性の枠から出ないものではなく、クナッパーツブッシュやシューリヒトに並ぶ濃厚な個性に裏付けられている。

クラウスの指揮ぶりはリヒャルト・シュトラウスと同様、非常に無駄のない小さい身振りでオーケストラから最大限の能力を引き出すというものだった。クラウスに師事したオトマール・スウィトナーによれば、当時の指揮者でバトンテクニックに優れていたのはクラウスとハンス・クナッパーツブッシュであったという。

また、芸術に対する厳しい姿勢もあり、ハンス・ホッターは「舞台上演の後に練習をすることもあった」と語っている。

ウィーン生まれの指揮者で大成した存在は意外と少なく、戦後まで活躍した中で世界的大指揮者の域に達したのは(現在もなお)クラウスとエーリッヒ・クライバーしかいない。クライバーは(息子のカルロスもそうだが)ウィーン的伝統とは鋭く対立することが多かったこともあり、クラウスの名は「最後のウィーンの巨匠」として今なお懐旧と畏敬を込めて語られ続けている。

レパートリー
クラウスのレパートリーは非常に広範であるが、主に次の3つに大別することができよう。すなわちモーツァルト、ハイドンなどのウィーン古典物、彼と縁の深いリヒャルト・シュトラウス、そしてベルク、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、オネゲル、ラヴェル、プロコフィエフといった近現代の作曲家による音楽である。

特にクラウスとリヒャルト・シュトラウスは非常に緊密な関係を保ち、作曲者から「アラベラ」「平和の日」「ダナエの愛」などの初演を任され、シュトラウス最後のオペラである「カプリッチョ」のリブレットはクラウスの手によって成され、初演も彼の手にゆだねられた。なお、クラウスの妻のヴィオリカ・ウルズレアクはアラベラの初演でタイトルロールを歌うなど、夫婦そろってシュトラウス後期の舞台作品を支えたと言ってよい。また戦前から近現代の作曲家の紹介に非常に積極的だったが、ウィーン国立歌劇場監督時代にベルクの「ヴォツェック」といった意欲的なレパートリーが保守的な聴衆に歓迎されず、彼の任期を縮めさせる要因になった。また、ベルリンを拠点に活動していた晩年のレハールに初のウィーン国立歌劇場初演作品「ジュディッタ」(最後の作品となった)を依嘱したこともある。オペラという名目になっているがミュージカルに近いオペレッタであり、原則オペレッタを上演しない(「メリー・ウィドウ」ですら1990年代まで取り上げなかった)同劇場としては異例であった。

レコード録音
クラウスは同時代の指揮者たちに比べて録音が非常に少ないが、代表的な演奏は以下の通りである。

ハイドン/交響曲第88番「V字」(バイエルン放送交響楽団 1953年)
モーツァルト/歌劇「フィガロの結婚」全曲(ウィーン・フィル 1942年)
モーツァルト/ハフナー・セレナード(ウィーン交響楽団 1950年)
ベートーヴェン/荘厳ミサ曲(ウィーン・フィル 1940年)
シューベルト/交響曲第9番「ザ・グレイト」(ウィーン交響楽団 1950年)
メンデルスゾーン/劇音楽「真夏の夜の夢」抜粋(ウィーン交響楽団 1950年)
ワーグナー/楽劇「ニーベルングの指環」全曲(バイロイト音楽祭 1953年)
ワーグナー/舞台神聖祝典劇「パルシファル」全曲(バイロイト音楽祭 1953年)
ヨハン・シュトラウス2世/喜歌劇「こうもり」全曲(ウィーン・フィル 1950〜1953年)
ヨハン・シュトラウス2世/喜歌劇「ジプシー男爵」全曲(ウィーン・フィル 1950〜1953年)
ヨハン・シュトラウス・ファミリー/ワルツ・ポルカ集(ウィーン・フィル 1929年および1950〜1953年)
リヒャルト・シュトラウス/楽劇「サロメ」全曲(ウィーン・フィル 1954年)
リヒャルト・シュトラウス/楽劇「ばらの騎士」全曲(バイエルン国立歌劇場 1944年)
リヒャルト・シュトラウス/歌劇「アラベラ」全曲(ウィーン・フィル 1942年)
リヒャルト・シュトラウス/楽劇「カプリッチョ」全曲(バイエルン放送交響楽団 1953年)
リヒャルト・シュトラウス/楽劇「ダナエの愛」全曲(ウィーン・フィル 1952年)
リヒャルト・シュトラウス/交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」(ウィーン・フィル 1950年)
リヒャルト・シュトラウス/家庭交響曲(バイエルン放送交響楽団 1953年)

ニューイヤーコンサート
クラウスはウィーン・フィルと最もかかわりの深い指揮者の一人であるが、ウィーン・フィルが楽友協会大ホールで毎年1月1日におこなう、世界的に有名なニューイヤーコンサート(Neujahrskonzert)を1939年始めたのはクラウスである(ただし当初は12月31日に行われ、1941年から1月1日にも開催されるようになった)。ニューイヤーコンサートのプログラムは、主にヨハン・シュトラウス・ファミリーの陽気で美しいワルツやポルカで構成されており、12月30日(公開総練習)と12月31日(ジルヴェスターコンサート)も同様のプログラムが繰り返される。クラウスが最後に指揮した1954年1月1日のライヴ録音(OPUS蔵レーベルでCD化)では、むせるようなウィーンの香りにあふれた演奏と聴衆の熱狂的な反応が聴かれ、まさにウィーン市民のための祭典のような趣がある。クラウスが突然この世を去った後、ウィーン・フィルのコンサートマスターであるヴィリー・ボスコフスキーに指揮が委ねられたが、マゼール時代を経て輪番制となってからは、必ずしもシュトラウスを得意としない指揮者もおつきあいで振ることもあって次第にローカル色が薄れ、今や人気指揮者によるインターナショナルな行事に変質してしまった観がある。

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++

3月31日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8831%E6%97%A5

できごと
1814年 - 6ヶ国反仏連合軍がパリに入城しナポレオン戦争が終わる。

1854年(嘉永7年3月3日) -
ペリー提督と江戸幕府の間に日米和親条約(神奈川条約)が結ばれ、
下田・函館が通商港とされる。

1877年 - 大分県中津で西郷軍に呼応した士族が叛乱。西南戦争

1885年 - イギリスがボツワナ共和国を保護領とする。

1889年 - エッフェル塔が完成。

1905年 - ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がモロッコの港である
タンジールを訪問する(タンジール事件)。

1906年 - 鉄道国有法公布

1908年 - 池田亀太郎(出歯亀の由来)を強姦殺人容疑で拘引。

1909年 - セルビアがオーストリアによるボスニア・ヘルツェコヴィナの支配を承認する。

1919年 - ハイデラバード・ハイ・コートが完成。

1922年 - ドイツでヒンターカイフェック事件起きる。

1938年 - 笠松隕石(岐阜県羽島郡笠松町の民家に隕石が落下)

1941年 - イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズが就役。

1944年 - 海軍乙事件で古賀峯一日本海軍元帥が殉職

1946年 - 立命館土曜講座開始(現在も続く)

1947年 - 教育基本法・学校教育法公布

1948年 - 近鉄奈良線列車暴走追突事故

1953年 - 比叡山延暦寺の根本中堂を国宝建造物に指定。

1963年 - 吉展ちゃん誘拐殺人事件が発生。

1965年 - 淀橋浄水場廃止。

1966年 - 法務省が、日本の総人口が1億人を突破したと発表。

1966年 - ソ連の打ち上げた宇宙船ルナ10号が、初めて月の周回軌道を回る。

1969年 - 大阪市電がこの日限りで全線廃止。

1970年 - 赤軍派が日本航空機よど号をハイジャックする(よど号ハイジャック事件)。

1972年 - 横浜市電がこの日限りで全線廃止。

1972年 - 汽車製造が川崎重工業との合併に伴い、営業を終了。

1974年 - 名古屋市電がこの日限りで全線廃止

1975年 - 毎日放送テレビ(MBS)と朝日放送テレビ(ABC)の
東京キー局がネットチェンジ(『腸捻転』解消)。
東京放送(TBS)系列だったABCが日本教育テレビ(NET。現・テレビ朝日)系列に、
NET系列だったMBSがTBS系列に変わった。

1981年 - 福井鉄道南越線がこの日限りで廃止。

1981年 - ピンク・レディーが解散

1987年 - 筑波鉄道筑波線がこの日限りで全線廃止。

1987年 - 日本国有鉄道がこの日限りで分割民営化される。

1991年 - ワルシャワ条約の軍事的な相互協力条項が停止。

1991年 - 北総開発鉄道(現・北総鉄道)京成高砂駅-新鎌ヶ谷駅間が開通。

1994年 - 野上電気鉄道がこの日限りで全線廃止。

1998年 - mozilla.orgが Mozilla のソースコードを公開。

1998年 - 山一證券が自主廃業に伴い営業を終了。

1998年 - 日本原子力発電株式会社東海発電所の営業運転終了。

2000年 - SPEEDが解散。

2000年 - 有珠山噴火。

2001年 - ユニバーサル・スタジオ・ジャパンオープン。

2001年 - 北関東自動車道・高崎JCT - 伊勢崎IC間開通。

2002年 - 向ヶ丘遊園が閉園。

2002年 - 長野電鉄木島線信州中野駅 - 木島駅間がこの日限りで廃止。

2004年 - 名鉄三河線の猿投駅 - 西中金駅間、碧南駅 - 吉良吉田駅間がこの日限りで廃止。

2005年 - 名古屋鉄道の岐阜市内線・揖斐線・美濃町線・田神線、日立電鉄線、
のと鉄道能登線がこの日限りで廃止。

2006年 - 北海道静内郡静内町と三石郡三石町が廃置分合され、
日高郡新ひだか町が設置される。(これに伴い静内郡および三石郡は消滅)

2006年 - 神戸ポートピアランドが閉園。

2007年 - イー・モバイルが東名阪においてHSDPAデータ通信サービス
「EMモバイルブロードバンド」を開始。

2007年 - くりはら田園鉄道の石越駅 - 細倉マインパーク前駅間がこの日限りで廃止。

2007年 - 鹿島鉄道の石岡駅 - 鉾田駅間がこの日限りで廃止。

2007年 - NTTドコモが提供してきた無線呼出しサービス
「クイックキャスト(旧ポケットベル)」のサービス終了。
全国展開のポケットベルサービスが消える。 

2008年 - ツーカーがこの日をもって、ツーカー電話サービスを終了した。

誕生日
250年 - コンスタンティウス・クロルス、西ローマ帝国皇帝、
コンスタンティヌス朝の創始者 (+ 306年)

1425年 - ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ、ミラノ女公(+ 1468年)

1499年 - ピウス4世、ローマ教皇(+ 1565年)

1519年 - アンリ2世、フランス国王(+ 1559年)

1536年(天文5年3月10日) - 足利義輝、室町幕府第13代将軍(+ 1565年)

1596年 - ルネ・デカルト、哲学者(+ 1650年)

1656年(明暦2年3月6日)- 井伊直興、第4・7代彦根藩主(+ 1717年)

1723年 - フレデリク5世、デンマーク王(+ 1766年)

1732年 - フランツ・ヨセフ・ハイドン、作曲家(+ 1809年)

1778年(安永7年3月3日)- 中村歌右衛門 (3代目)、歌舞伎役者(+ 1838年)

1778年 - コンラート・ヤコブ・テミンク、動物学者(+ 1858年)

1794年 - トマス・マッキーン・トンプソン・マッケナン、
第2代アメリカ合衆国内務長官(+ 1852年)

1821年 - フリッツ・ミューラー、博物学者(+ 1897年)

1850年 - チャールズ・ウォルコット、古生物学者(+ 1927年)

1870年 - トミー・ライアン、プロボクサー(+ 1948年)

1871年 - アーサー・グリフィス、アイルランドの民族主義運動家(+ 1922年)

1872年 - アレクサンドラ・コロンタイ、ボリシェヴィキの活動家(+ 1952年)

1872年 - セルゲイ・ディアギレフ、ロシア・バレエ団創設者(+ 1929年)

1884年 - アドリアン・ヴァン・マーネン、天文学者(+ 1946年)

1885年 - ジュール・パスキン、画家(+ 1930年)

1893年 - クレメンス・クラウス、指揮者(+ 1954年)

1898年 - 下総皖一、作曲家(+ 1962年)

1900年 - グロスター公ヘンリー、オーストラリア総督(+ 1974年)

1906年 - 朝永振一郎、物理学者(+ 1979年)

1909年 - 貴志康一、作曲家(+ 1937年)

1909年 - ロベール・ブラジヤック、著作家・ジャーナリスト(+ 1945年)

1911年 - フレディ・グリーン、ジャズギタリスト(+ 1987年)

1914年 - 船山馨、小説家(+ 1981年)

1915年 - 横井庄一、軍人(+ 1997年)

1918年 - トミー・ボルト、プロゴルファー

1925年 - 永井路子、小説家

1926年 - ジョン・ファウルズ、小説家(+ 2005年)

1927年 - 福島譲二、政治家(+ 2000年)

1929年 - 三枝和子、小説家(+ 2003年)

1930年 - 奥村公延、俳優

1932年 - 大島渚、映画監督

1934年 - カルロ・ルビア、物理学者

1935年 - ハーブ・アルパート、音楽家

1935年 - 今橋恒、俳優・声優

1936年 - 毒蝮三太夫、タレント

1938年 - 野村道子、声優

1939年 - フォルカー・シュレンドルフ、映画監督

1939年 - ズヴィアド・ガムサフルディア、グルジア大統領(+ 1993年)

1942年 - 鈴木良武、アニメ原作者、脚本家

1942年 - 円谷文彦、声優(+ 2005年)

1943年 - クリストファー・ウォーケン、俳優、藤島正之、弁護士

1944年 - 出久根達郎、小説家

1948年 - アルバート・ゴア・ジュニア、第45代アメリカ合衆国副大統領

1948年 - 古沢憲司、元プロ野球選手
1950年 - 近藤喜文、アニメ映画監督(+ 1998年)
1950年 - 舘ひろし、俳優
1953年 - 中野栄治、騎手・調教師
1955年 - アンガス・ヤング、ミュージシャン(AC/DC)*59年の説もあり
1957年 - 小林健二、将棋棋士
1959年 - シルク、漫才師(非常階段)
1961年 - 戸川純、タレント・ミュージシャン
1962年 - 藤臣柊子、漫画家
1963年 - 森福都、小説家
1964年 - 鶴久政治、タレント・歌手(元チェッカーズ)
1964年 - バルビーノ・ガルベス、元読売ジャイアンツ投手
1968年 - 小川直也、プロレスラー、元柔道家(バルセロナオリンピック銀メダリスト)
1969年 - KYONO、ミュージシャン(THE MAD CAPSULE MARKETS)
1970年 - 宮迫博之、お笑いタレント(雨上がり決死隊)
1971年 - 筒井道隆、俳優
1971年 - ユアン・マクレガー、俳優
1972年 - アレハンドロ・アメナバール、映画監督
1973年 - ホルスタイン・モリ夫、お笑いタレント(モリマン)
1974年 - 駒田健吾、TBSアナウンサー
1975年 - ライアン・ループ、元プロ野球選手
1976年 - 勝野慎子、シンガーソングライター
1977年 - 上原さくら、女優
1977年 - 龍円愛梨、テレビ朝日記者、元アナウンサー
1977年 - Toshiya、ベーシスト (Dir en grey)
1977年 - ジェイミー・ブラウン、元プロ野球選手
1978年 - 針谷桂樹、ナレーター
1980年 - 王建民、メジャーリーガー(ニューヨーク・ヤンキース)
1980年 - 坂本真綾、声優
1980年 - 佐々木優介、お笑いタレント(磁石)
1981年 - AMADORI、ミュージシャン
1981年 - 新谷良子、声優
1981年 - 眞鍋かをり、女優、タレント
1982年 - 柳田殖生、プロ野球選手
1982年 - ジェシカ・ジョセフ、フィギュアスケート選手
1983年 - 鈴木寛史、バレーボール選手
1985年 - あいり&めいり、双子のAV女優ユニット
1988年 - ホーガン・エフレイム、サッカー選手
1988年 - ベアトリサ・リャン、フィギアスケート選手
1989年 - 大川雅大、俳優
1990年 - 山崎将平、俳優
1992年 - 宮脇里奈、美少女クラブ31
1995年 - 大多和莉里亜、子役
生年不明 - 和教?、ボーカル(少年カミカゼ)

忌日
1671年 - アン・ハイド、ヨーク公ジェームズの最初の妃(* 1637年)

1703年 - ヨハン・クリストフ・バッハ、作曲家(* 1642年)

1727年 - アイザック・ニュートン、科学者(* 1643年)

1821年(文政4年2月28日)- 山片蟠桃、経世論家・思想家(* 1748年)

1837年 - ジョン・コンスタブル、画家(* 1776年)

1841年 - ジョージ・グリーン、物理学者・数学者(* 1793年)

1855年 - シャーロット・ブロンテ、小説家(* 1816年)

1877年 - アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー、
哲学者、数学者、経済学者(* 1801年)

1880年 - ヘンリク・ヴィェニャフスキ、作曲家・ヴァイオリニスト(* 1835年)

1888年 - ジャン=マリー・ギュイヨー、哲学者・詩人(* 1854年)

1913年 - ジョン・モルガン、実業家(* 1837年)

1917年 - エミール・アドルフ・フォン・ベーリング、医学者(* 1854年)

1944年 - 古賀峯一、旧日本海軍元帥(* 1885年)

1945年 - ハンス・フィッシャー、化学者(* 1881年)

1946年 - 武田麟太郎、小説家(* 1904年)

1948年 - 河内源一郎、醸造学者(* 1883年)

1952年 - ヴァルター・シェレンベルク、ナチス・ドイツ親衛隊少将(* 1910年)

1967年 - 伊藤熹朔、舞台美術家(* 1899年)

1968年 - エリー・ナイ、ピアニスト(* 1882年)

1970年 - 井上博、ミュージシャン、元はしだのりひことシューベルツ (* 1949年)

1976年 - ポール・ストランド、写真家(* 1890年)

1980年 - ジェシー・オーエンス、アメリカ合衆国の陸上競技選手(* 1913年)

1983年 - 片岡千恵蔵、俳優(* 1903年)

1983年 - 尾崎一雄、小説家(* 1899年)

1988年 - ウィリアム・マクマホン、第20代オーストラリア首相(* 1908年)

1991年 - 生野幸吉、作家(* 1924年)

1993年 - ブランドン・リー、俳優(* 1965年)

1994年 - 式守伊之助 (26代)、大相撲の立行司(* 1927年)

1995年 - 若ノ海正照、大相撲力士・元前頭二枚目(* 1945年)

1997年 - ライマン・スピッツァー、天体物理学者(* 1914年)

2001年 - クリフォード・シャル、物理学者(* 1915年)

2001年 - 中村歌右衛門 (6代目)、歌舞伎役者(* 1917年)

2006年 - ジャッキー・マクリーン、アルトサックス奏者(*1932年)

2008年 - ニコライ・バイバコフ、ゴスプラン議長(* 1911年)

2008年 - ジュールズ・ダッシン、映画監督(* 1911年)

記念日・年中行事

日本における学校や役所などの一年の期間である会計年度
(日本の一般社会では単に年度と言うとこの会計年度のことを指す)の最終日である。
(例:2006年3月31日は2005年度の最終日である)。

一般企業においては必ずしも3月31日が会計年度最終日とは限らない。[1]

オーケストラの日