東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年4月13日(月曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年4月13日(月曜日)

平成21年の。

「春」になりました。

「2月」はおわりました。

「春」の「3月」もおわりました。

「春」「4月」になりました。

長かった「冬」。

季節にも「ながさ」があり。

その年によって。

「ながさ」がちがう

ようです。

「春」のながさはどうだろう。

今年の「冬」・から「春」は予期せぬ

インフルエンザ*の

大規模な流行が予想されます。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。

薬事法の「能書」にあるとおり

「正規の」

「2回法によるインフルエンザワクチン」の

予防接種を行います。

御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

「新年」「初春」になり。
「1月」がおわり。
「2月」。
「2月」がおわりました。

「春」の「3月」もおわりました。
「春」の「4月」になったとたん。

また。
きゅうにさむくなりました
とてもとてもさむくなりました。

今は「4月」「春」です。

「昨年」
夏がおわり。
「9月」「初秋」も終わりました。

そして
「10月」がおわり。
「10月」中秋もおわり「11月」。
「中秋」から「晩秋」へとうつろいゆき。
「11月」がおわりました。
昨年の「冬」「12月」が過ぎれば。

いまは。
「1月」「2月」「3月」がおわり。
「4月」の「春」をむかえています。

そろそろ とぼとぼと。

「春」にむかって奥深まり行く。

「たしかなる」

「「春」のあゆみ」

季節のかおり。

「あきらかなる」「「春」」の。

あゆみのしらべから。

「4月」の。

「「春」なかば」の気配が。

手応えしっかりと。

感じられます。

「春吹雪:はるふぶき」は。

「春かぜ」に。

おわれながら。

さやかな「春かぜ」が。

ただよっています。

「春」「4月」。

深まる「春]「4月」の「かおり」。

この

「初春」の

「冬のかおりへの変化(へんげ)」は。

毎年ちがいます。

「冬」から「春」への。

かおりの変化(へんげ)」は。

「毎年」新しい。

「うれしい新品のかおり」

がします。

寒い大気の織り成す(たいきのおりなす)。

冬の季節の風から。

「冬」から。

「新たなる新品のかおり」の。

「春」を恵まれることは。

とても幸せなことなのではないかと考えます。

けれども。

さむいです。

「初春」の「3月」

はおわり。

「春」「4月」です。

暗い早朝に。
「昨年」「12月」には
「木枯らし」の鳴き声が聞こえました。

陽がのぼるにつれ。
「木枯らし」の声は小さくなってゆきます。
そして「「木枯らし」のつぶやき」になり。

そして。
聞こえなくなりました。

「4月」の「春」の。
「春かぜ」の「音色」にかわりました。

「春」の「春かぜ」の鳴き声の音色は。

「夏」の「せみ」と異なり

「いわにしみいる」ねいろでは

ありません。

「ふうせん」のような。

「「春かぜ」にとばされる」

「春」の風鈴(ふうりん)を。

おもわせるような音色です。

「春吹雪:はるふぶき」に。

とばされるように。

「春かぜ」の

声楽4声

(ソプラノ・アルト・テノール・バス)が。

混声の合唱で聞こえます。

「ろうろう」。

「春吹雪:はるふぶき」は。

「春かぜ」にかわりました。

まだ真暗い早朝の朝もやから。
「早い「春」のおとずれ」の「大気」が。

かすみのような「香り」で。
しのびよる気配は。
ろうそくの灯(ともしび)
のようにゆらぎながら。

「初春」の。
何かを。行く先をさがしながら。
何かをさがしながら。
照らすかのようにさまよい。
近寄りしのびよることが
わかります。
ゆきさきは。
もっとふかい「春かぜ」の「春」。

「春」。

「春」です。

「4月」の。

「春」です。

はやいものです。

はやいものです。

「2月」の「晩冬」から「3月」にかけては。
「さらに」。
「大気」と「自然の気配」に。
「特有の独特の気配と香り」が混じります。
感じられるようです。
不思議な感しが致します。

木々は
「「春かぜ」をむかえる」準備をすませて。

これからの。
「春」の。
「「春」へのあらたな実り」に向けての。
息吹が力強く感じられます。

今早朝は「とても肌寒い」です。

今年はとてもとても「寒い」です。

街路樹はしっかりと。
「初春」の枝木の穂先もたわわにつよく。
「春」に向けての。
萌黄色から若葉の芽吹きをそなえ
「春」の「木」に
かわりました。

そしていま。
「冬」にも若葉を抱いた木々は。
さらに「春」の芽栄え(めばえ)に。

うつろいてかわろうと
しています。

「昨年」はあっというまに
「7月」が終わりました。
「8月」です。
「8月」=せみのしぐれなく夏です
「8月」が終わりました。
「9月」が終わりました。
「10月」=「実りの秋」です。
「11月」収穫の晩秋です。
「12月」木枯らしの冬です。

「12月」がおわり。
「1月」「2月」がおわり。
「初春」の「3月」です。
そして「3月」がおわり。
いまは「4月」です。

木々がへったため。
夏にはせみの声も少なくなりました。
けれども「一昨年」より
「昨年」はは鳴き声は多かった
ようにおもえます。

こおろぎの声も「一昨年」より
「昨年」は多かったように
おもえました。

今は。

「春」の「4月」

の「春かぜ」の「こえ」。

「ろうろう」。

みかんの木に「春かぜ」

がとまっているようです。

「鳥」(とり)の様です。

「春かぜ」の声はいつもかわります。

みかんの木は。

とても沢山の実をつけています。

黄金にプラチナのみかんのようです。

「初春」の気配に加えて。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

山椒(さんしょう)の木の芽が
「初春」の若葉にすくすくとそだち。
若枝も冬天高くすこやかにのび。
ますますに。ますますに。
「冬の陽」をあびて。
「春」の山椒(さんしょう)の葉の。
みどりがとても。
奇麗です。

山椒のことを
「きのめ」=木の芽とはなるほどと
かんがえる。

春さんしょう木
春萌黄(もえぎ)鮮やかに芽葉(めは)
春みどり葉わか葉いずる花のごと
春夏(なつ)こすわか枝は幹ならむ
春なりてたゆまずとまらず
春冬あゆみそだちて
春幹は天たかくそだちたり
春いざいまこそは
春空(そら)にもえたたむ
春金色(こがね)の炎
春さんしょう木春

けれども
早朝は本当にはだ寒いのです。

「小さな「春」みつけた」から

しだいに「大きな「春」みつけた」

「大きな「春」みつけた」から。

そして「大きな大きな「春」」みつけた。

大きな大きな。

「春」がきた。

ちょっと「安心する気」が致します。
「春」はもうきました。

「「春」の女神」の。

「佐保姫(さほひめ)」の導く

ワルツのきこえる「春」です。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成21年1月12日(月曜日)
は。
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ限られた
時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。
限られた
時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。
限られた
時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年4月29日(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

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私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は。
私が大変興味をもっているイングランドの
政治家。

常に政敵と戦う必要に迫られており。

冷酷さなしには政界で生き残れなかったのも確かであった
政治家。

権利の請願に参加しながらも。
国王に強く敵対しなかったのも
彼の出身選挙区であるヨークシャーの人々の
意見を吸い上げての奥深い政治家。

最後に国王の「専制」の責任を。
一身に背負って人生を終えた
「英国:United Kingdom UK」の政治家。

ウェントワースは期待された役割を果たしただけとする
意見がある一方。
横暴さや冷酷さを指摘する声もある政治家。

この「英国:United Kingdom UK」
の政治家をめぐる議論は現在進行形で続いている政治家。
1593年 - ストラフォード伯爵トマス・ウェントワース、
イングランドの政治家(+ 1641年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

ストラフォード伯トマス・ウェントワース:
Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford、
1593年4月13日 ? 1641年5月12日)は。

清教徒革命直前のイングランドの政治家です。
アイルランド総督などを歴任した
国王チャールズ1世の側近。

内戦前夜のイングランドで議会勢力から糾弾され
斬首刑にされました。

++++++++++++++++++++++

トマス・ウェントワースは
1630年代イングランドにおいて、チャールズ1世のもと
「ロード=ストラフォード体制」とよばれる
統治体制を担った国王側の人物とされます。

しかし実際には、イングランド全体における
発言力を持ちはじめたのは1638年〜1640年ごろにすぎなかった
のです。

イングランド北部ヨークシャー出身で下院議員から
治安判事をへてアイルランド総督に就任致しました。

++++++++++++++++++++++

ストラフォード伯トマス・ウェントワース:
Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford
は・

アイルランドの諸改革に大ナタをふるいました。
よって。
ウェントワースのやりかたは敵を多く作りました。

また現在も意見の分かれる人物です。

++++++++++++++++++++++

ストラフォード伯トマス・ウェントワース:
Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford

ウェントワースが生きた17世紀は。

イングランドにピューリタニズムが浸透しはじめた時代であ
りました。

独立派や長老派などピューリタンは。
イングランド国教会のヒエラルキー構造を
批判したのみならず

党派によっては千年王国論など政治面での
ドラスティックな改革を要求する存在であったのです。

++++++++++++++++++++++

ストラフォード伯トマス・ウェントワース:
Thomas Wentworth, 1st Earl of Straffor
は。

こうした層がイングランドに生まれてきていたなかで。
ウェントワースは。
従来の教会・国家像を堅守する保守側の政治家でありました。

ウェントワースは人生のなかで。
ジョン・サヴィルやバッキンガム公など。
幾人かの政敵と対峙致しました。

彼らとの対立は深刻でした。

生き残るためには冷酷さ・残忍さを持ち合わせている
必要がありました。

++++++++++++++++++++++

ストラフォード伯トマス・ウェントワース:
Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford
は。

映画「クロムウェル」などで悪役として描かれているのは。

こうした冷酷な面を有していたことによります。
またピューリタニズムの浸透が薄いイングランド北部に
生を享けたウェントワースにとって。

政治的ピューリタニズムは
反逆的危険思想に映ったことも事実です。

++++++++++++++++++++++

ストラフォード伯トマス・ウェントワース:
Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford
は。

ウェントワースの
政治的な理想は国王と議会の調和でありました。

ウェントワースにとって議会の権限(徴税など)と
国王の権限(外交・戦争および議会の召集・解散)は
それぞれ不可侵のものでありました。

17世紀の議会は国王大権に真っ向から対立していました。

ウェントワースの目指した理想は。
エリザベス時代の体制でした。
17世紀には通用しなかったという指摘もあります。

++++++++++++++++++++++

ストラフォード伯トマス・ウェントワース:
Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford
は。

後世の評価
トマス・ウェントワースへの評価は。
時代によって二転三転致しました。

アイルランドの人々にとっては議論の余地のない
悪役でありました。

ヨーク大学のウェントワース・カレッジに
その名を残しているように。

イングランドにおいては
必ずしも悪役として評価されているわけではありません。

清教徒革命における
国王派やのちのトーリたちに
とっては殉教者のひとりであるのです。

議会派やホイッグにとっては尊大な権力志向者でありました。

++++++++++++++++++++++

ストラフォード伯トマス・ウェントワース:
Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford
に対して。

このようにウェントワースをめぐる評価は分裂状態にありました。

1732年にノウラー(Knowler)の名で出版された
「Strafford's Letters」が転機をもたらしました。

ウェントワースの非公開の手紙・書簡などからなる
この書は、著者ノウラーの背後にパトロンとして
ウェントワースの曾孫ロッキンガム子爵が
先祖の名誉を回復しようとしたものでした。

つごうの悪い部分は削除して出版されたものでありました。

しかしこれが真に受けられ、
以降20世紀中ごろまでウェントワースは
忠実なる国王の従僕にして悲劇の主人公ということになりました。

20世紀前半、
バークレア(1931)・
ウェッジウッド(1935)・
バークンヘッド(1938)がそれぞれ
ウェントワースの伝記を出版致しました。

いずれも好意的評価を与えるものでありました。

++++++++++++++++++++++

ところが「つごうの悪い部分」が
20世紀半ばに見つかってしまいました。

風向きが変化することになりました。

ウェントワースの強権的で無慈悲な態度をしめす
記述がすくなからず見つかりました。

ウェッジウッドは1961年改訂版を出して対応致しました。
ウェントワースは一転して。
イングランド内戦の原因を作った
犯人のひとりになってしまいました。

ウェントワースをどのように描写するかについて。
歴史家の間で見解の一致はみられません。

++++++++++++++++++++++

ストラフォード伯トマス・ウェントワース:
Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford
の背景。

ウェントワースは常に政敵と戦う必要に迫られており。

冷酷さなしには政界で生き残れなかったのも確かであった。
権利の請願に参加しながらも国王に強く敵対しなかったのも、
彼の出身選挙区であるヨークシャーの人々の
意見を吸い上げてのことであったのです。

彼の積極的意志はアイルランド総督時代にみられます。
議会運営をうまく行い、カトリックのみならず
プロテスタントの不在地主の所有地にもメスを入れたことは
ウェントワースによるものであったのです。

これによってウェントワースはイングランド在住の
既得権者の恨みを買いました。

最後に国王の「専制」の責任を一身に背負って人生を終えました。
ウェントワースは期待された役割を果たしただけであるとする
意見がある一方。
横暴さや冷酷さを指摘する声もあります。
ウェントワースをめぐる議論は現在進行形で続いています。
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ストラフォード伯爵トマス・ウェントワース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BC%AF%E7%88%B5%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B9

ストラフォード伯トマス・ウェントワース:Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford、1593年4月13日 ? 1641年5月12日)は清教徒革命直前のイングランドの政治家で、アイルランド総督などを歴任した国王チャールズ1世の側近。内戦前夜のイングランドで議会勢力から糾弾され、斬首刑にされた。

トマス・ウェントワースは1630年代イングランドにおいて、チャールズ1世のもと「ロード=ストラフォード体制」とよばれる統治体制を担った国王側の人物とされる。しかし実際には、イングランド全体における発言力を持ちはじめたのは1638年〜1640年ごろにすぎなかった。イングランド北部ヨークシャー出身で下院議員から治安判事をへてアイルランド総督に就任、アイルランドの諸改革に大ナタをふるった。ウェントワースのやりかたは敵を多く作り、また現在も意見の分かれる人物である。

目次
1 時代背景・人物像
2 生涯
2.1 青年期まで
2.2 下院議会
2.3 権利の請願
2.4 アイルランド総督
2.5 アイルランド植民計画
2.6 議会からの弾劾
2.7 私権剥奪法
3 後世の評価
4 脚注
5 参考文献
6 関連作品

時代背景・人物像 [
ウェントワースが生きた17世紀は、イングランドにピューリタニズムが浸透しはじめた時代であった。独立派や長老派などピューリタンは、イングランド国教会のヒエラルキー構造を批判したのみならず、党派によっては千年王国論など政治面でのドラスティックな改革を要求する存在であった。こうした層がイングランドに生まれてきていたなかで、ウェントワースは従来の教会・国家像を堅守する保守側の政治家であった。

ウェントワースは人生のなかで、ジョン・サヴィルやバッキンガム公など、幾人かの政敵と対峙した。彼らとの対立は深刻で、生き残るためには冷酷さ・残忍さを持ち合わせている必要があった。映画「クロムウェル」などで悪役として描かれているのは、こうした冷酷な面を有していたことによる。またピューリタニズムの浸透が薄いイングランド北部に生を享けたウェントワースにとって、政治的ピューリタニズムは反逆的危険思想に映った[1]。

ウェントワースの政治的な理想は国王と議会の調和であった。ウェントワースにとって議会の権限(徴税など)と国王の権限(外交・戦争および議会の召集・解散)はそれぞれ不可侵のものであり、17世紀の議会は国王大権に真っ向から対立していた。ウェントワースの目指した理想はエリザベス時代の体制であり、17世紀には通用しなかったという指摘もある。

生涯

青年期まで
トマス・ウェントワースは準男爵ウィリアム・ウェントワースとアンとの間の第2子[2]としてロンドンで生まれた。ウェントワース家は歴史の古いジェントリの家系で、いわゆる名門とされる家のひとつであった。父ウィリアムは、リポンの司祭を家庭教師として招きトマス・ウェントワースの教育に当たらせた。1607年からインナー・テンプル法曹学院に学び、2年後にケンブリッジ大学セント・ジョン校に入学した。

1611年カンバーランド伯爵の娘マーガレット・クリフォードと結婚し、ナイトの称号を得た。ウェントワースの教育を完成させたのはグランドツアーであった。フランスのパリ、オルレアン、ボルドーなどに渡り、フランス語・イタリア語・スペイン語を習得した。1613年イングランドに戻り、翌年父の死に伴い家督を相続した。年収4000ポンドという当時としては巨額の資産を手にしたが、そのほとんどは8人の弟・妹たちの教育費に消えていった。

下院議会
ウェントワースは1614年、ヨークシャー州選出議員としてイングランド議会に参加しはじめた。当時は「混乱議会Addled Parliament[3]」のさなかで、国王と議会が対立していた。ウェントワースも他の議員たちと同様、ジェームズ1世とその側近バッキンガム公の施策に反対の立場をとっていた[4]。しかし、ウェントワースは他の議員ほど熱心な反対者ではなかった。イングランドの法によれば、外交権や戦争を始める権利は国王に帰するものであり、対スペイン開戦を主張する議会は、ウェントワースにとっては、国王大権への挑戦と映った。1621年に召集された議会ではスペイン討つべしとの声が大きかった[5]が、ウェントワースはこれと距離を置き、この議会を王が解散するのを支持した。

1622年に妻マーガレットが死亡し、3年後にウェントワースはアラベラ・ホレスと再婚した。同年ジェームズ1世が死去してチャールズ1世が即位した。バッキンガム公の唱える対スペイン開戦には否定的で、むしろ国内の問題にあたるべきだとウェントワースは主張していた。議会が11月に解散してからは、ウェントワースはヨークシャー州長官に就任した。しかし国王チャールズが議会の承認なしの課税を進めようとしてそれに反対し、さらにジェントリに課された強制借り上げ金の支払いを拒否した。これによってウェントワースは一転、監獄の住人となった。

バッキンガム公ジョージ・ヴィラーズ。ウェントワースが台頭する以前はジェームズ1世・チャールズ1世の右腕的存在だった

権利の請願
1628年はウェントワースにとって一大転機となった年であった。この年、議会は権利の請願を提出し、それまでの王の腹心バッキンガム公が暗殺された。王権を抑制する権利の請願をウェントワースは支持していた。チャールズ1世はしぶしぶこれに同意したが、ウェントワースは同時に王権に対して敬意を払うべきであると考えていた。議会と王の中間をとった彼の主張は、議会内強硬派から裏切り者の烙印を押されることになった。いっぽうで王の覚えはめでたくなり、男爵に位階を進め、政治的影響力を高めていった。

1628年の議会における関心事は、王の意思のみによる課税を防ぐことにあった。ウェントワースは議会の正統な権利であるとしてこれを支持したが、いっぽうで王と議会の全面的衝突を防ごうとも考えていた。イングランド法に照らして権利の請願が急進的に過ぎると判断したウェントワースは、請願を王の逆鱗に触れにくいかたちにしようとした。しかしチャールズも議会も譲歩しようとせず、ウェントワースの根回しは徒労に終わった。かわって主導権はジョン・エリオットらに渡り、対立は先鋭化していった。議会の解散権は王にあり、これを行使されれば王は非常事態の名のもとに資金調達が可能になる──そう考えたウェントワースは上院議員らと諮ったうえでエリオットらに譲歩を求めたが、口論になるばかりであった。

こうしたウェントワースの言動に国王チャールズ1世は信頼感を高め、12月に北部法廷(Council of the North)長官および子爵に叙した。議会は1629年に解散され、それから1640年にいたるまで召集されなかった。ピューリタンが多数を占める議会と王の仲立ちをしていたウェントワースは、両者の決定的対立そのどちらかを選ばざるを得なくなった。ウェントワースが王を選んだことが、彼の運命を決定づけた。大司教ウィリアム・ロードと並んでチャールズ1世治下の双璧となって権限を揮うことができたが、議会からは敵視されることになった。

ダブリン城。当時アイルランド総督府を兼ねていた

アイルランド総督
ウェントワースはさらに枢密院に席を得(1629年)、1631年に2人目の妻を亡くして翌年エリザベス・ローズと結婚した。ウェントワースは3人の舅を持つことになり、この人脈の助力もあって力を増してきていた。1632年1月、評判になっていた辣腕を買われてアイルランド総督に就任し、アイルランドにおける国王の名代となった。ウェントワースはアイルランドにイングランドの法制度を導入した。彼のやりかたは極端で専制的であったともいわれるが、アイルランドの政治的経済的近代化をもたらしたのもウェントワースであった。

ウェントワース以前のアイルランドは、宗教的にはカトリックとプロテスタント、民族的にはイングランド人入植者からスコットランド人・ノルマン人やケルト人などからなる多様でまとまりのない状態であった。ウェントワースはこれをまとめ、強力な政府を作ることを期待されていた。トマス・ローは「総督(訳注:ウェントワース)は議会の設立とそれによる統治が重要であることを知っており、よくアイルランドを治めた」と書き残している。形骸化していた既存の政府を再編し、ウェントワースは議会をうまくコントロールしてイングランド式の秩序をどうにか実現した。リネンを生産してスペインとの交易を始めるなど、アイルランド経済にもメスを入れた。

こうした施策によって関税収入は25,000ポンド(1633 - 34)から57,000ポンド(1637 - 38)にまで上がった。さらに軍備を増強して海賊を取り締まり、プロテスタント教会の領地をカトリック教会から取り戻した。しかしこうしたウェントワースの統治は、イングランドではあまり支持されなかった。彼らの興味はアイルランドの繁栄ではなく、イングランドの経済であり、アイルランドのリネン工業はイングランドの同業者を脅かすことになったからである。

1635年ウェントワースは、300年前の名義を持ち出して各都市から補助金を上納するよう迫った。ゴールウェイの評議会はこれを拒否した。ウェントワースが強制没収でこれに応じたことは、アイルランドの人々の反感を買った。ウェントワースにも慈悲の心はあったが、他のイングランド人がそうであったように、ウェントワースもアイルランド人やカトリックに対する思いやりは持ち合わせていなかった。ウェントワースの統治は、基本的にイングランドの慣習・法・信仰を施行するというものであった。「この王国(訳註:アイルランド)がカトリックである限り、この王国の臣民はイングランドの王の従僕たりえないことは明らかだ」と彼自身が書き残している。

アイルランド植民計画
ウェントワースの評判を落としたもののひとつに、アイルランド各地へのイングランド人植民計画があげられる。これはカトリックが多数を占めていたアイルランドをプロテスタント化すること、アイルランド経済活性化のためのカンフル剤たらしめること、そして人口が増えつつあったイングランドにおいて植民先を提供すること[6]などがその目的だった。植民用の土地を確保するために、不在地主の土地所有を禁じ、それに違反した場合は土地召し上げを行う旨の法を施行した。この法はカトリックのみならずプロテスタント地主の土地をも没収することになり、既得権者の怒りを買った。

議会からの弾劾
ウェントワースは1639年9月イングランドに呼び戻され、危機的状況にあった国家財政問題、および対スコットランド問題(主教戦争)など国家全体にわたる諸問題についての主要なアドバイスを行う立場になった。しばらくアイルランドにいたウェントワースは、ここ数年来の王と議会の対立を知らず、対スコットランド戦争のための税収を認めさせるために議会を招集するよう勧めた。翌年1月ストラフォード伯爵位に叙され、3月にアイルランドに戻って議会を開いた。彼はスコットランドの長老派討伐のための補助金を議会に認めさせ、開戦の準備を整えた。ウェントワースはふたたびイングランドに赴き、貴族たちに国王を支持するよう説得して回り、議会の反発に悩まされていた国王チャールズ1世に対しては、期待していたほどの金額は集まらなかったものの、これで満足すべきだと助言した。ところが議会(短期議会)はウェントワースの予測を裏切って、スコットランドとの和平を主張した。課税を認めるために議会が出した交換条件はさらに高圧的なものとなり、ウェントワースも議会の解散を支持せざるを得なかった。ウェントワースら枢密院は財源をどこに求めるかで意見が割れて集約できなかった。

主教戦争で屈辱的な敗戦と和睦を経た1640年11月には、議会を再度招集するしか道は残されていなかった[7]。11月3日に集まった議会は、ただちにウェントワースを呼び出した。「彼の名誉が傷つけられない」ことを文書で約束したうえでの呼び出しであったが、議員たちの怒りは充満していた。ウェントワースはこのことを察知し、11月9日に到着するとすぐにチャールズに、議会派がスコットランド勢力と通じているという批判を展開するよう頼んだ。しかし機先を制したのは議会派であった。ウェントワースはジョン・ピムによって告発され、11月25日にロンドン塔送りとなった。罪状は王国の法を蹂躙したということであった。

ウェントワースの裁判。ロンドン塔所長と共に被告席に立っているのがウェントワース、チャールズは玉座の奥で王妃たちとともに裁判を見ている

私権剥奪法
議会から王の手先として糾弾されたウェントワースだったが、議員たちの攻撃材料はいかにも貧弱であった。唯一ともいえる証拠であるウェントワースの演説のメモは断片的で、いかようにも解釈できる代物だった。ウェントワースはこの点を突き、4月10日、弾劾の失敗によってひとまずウェントワースは命をつなぎ止めた。しかし弾劾の失敗は同時に、ウェントワースをして絶対王政の象徴たらしめた。議員たちは彼をつぶす必要を感じ、私権剥奪法[8]を提案し、204対59の大差で通過させた。上院で否決させることは可能で、国王側はその算段で動いていたが、民衆とジェントリたちの怒りは尋常ならざるもので、上院の貴族たちを恐怖させるに十分であった。このまま上院で審議すれば可決しウェントワースの首と胴体が離れると考えたチャールズ1世は、主だった議員とロンドン塔を武力によって制しようと計画した。しかしこの計画が事前に洩れ、チャールズとウェントワースの立場を悪化させる結果に終わった。上院は私権剥奪法を通過させざるをえず、残る壁はチャールズ1世が法案に署名するのみとなった。

チャールズはウェントワースに良心の呵責を感じて署名を拒んでいたが、ウェントワース自身からの嘆願が最終的に決断させることになった。

「…私は、陛下の署名拒否によって起こるであろう暴動や虐殺といった惨事を防ぐために、陛下にご署名なさることを謹んで嘆願いたします。現在の不幸な状況を乗り越えて、陛下と議会が神の祝福のもとに合意にいたることができるならば、これにまさる望みはありません。」

ウェントワースの処刑場面5月10日チャールズは法案に署名し、12日タワーヒルにおいて20万の観衆の前でウェントワースは首を刎ねられた。

ウェントワース処刑のしらせがアイルランドに届くと、当地の治安はたちまち混乱に陥った。ウェントワースのイングランド化政策によって追いやられていたカトリック系住民が反乱を起こし、プロテスタント住民が虐殺されたという報が過大にイングランドに伝わった。これがイングランドの秩序も混乱に陥れ、イングランド内戦と三王国戦争(清教徒革命)によってブリテン諸島は戦争の時代に突入することになった。

ウェントワースの死から8年後の1649年、チャールズ1世もウェントワースに倣って処刑された。チャールズは処刑前の最後の望みを「罪状をウェントワースの処刑に署名したことにしてほしい」と言い残したといわれる。

後世の評価
トマス・ウェントワースへの評価は、時代によって二転三転した。アイルランドの人々にとっては議論の余地のない悪役であったが、ヨーク大学のウェントワース・カレッジにその名を残しているように、イングランドにおいては必ずしも悪役として評価されているわけではない。清教徒革命における国王派やのちのトーリたちにとっては殉教者のひとりであり、議会派やホイッグにとっては尊大な権力志向者であった。このようにウェントワースをめぐる評価は分裂状態にあったが、1732年にノウラー(Knowler)の名で出版された「Strafford's Letters」が転機をもたらした。ウェントワースの非公開の手紙・書簡などからなるこの書は、著者ノウラーの背後にパトロンとしてウェントワースの曾孫ロッキンガム子爵が先祖の名誉を回復しようとしたものであり、つごうの悪い部分は削除して出版されたものであった。しかしこれが真に受けられ、以降20世紀中ごろまでウェントワースは忠実なる国王の従僕にして悲劇の主人公ということになった。20世紀前半、バークレア(1931)・ウェッジウッド(1935)・バークンヘッド(1938)がそれぞれウェントワースの伝記を出版したが、いずれも好意的評価を与えるものであった。ところが「つごうの悪い部分」が20世紀半ばに見つかってしまい、風向きが変化することになる。ウェントワースの強権的で無慈悲な態度をしめす記述がすくなからず見つかり、ウェッジウッドは1961年改訂版を出して対応した。ウェントワースは一転、イングランド内戦の原因を作った犯人のひとりになってしまった。

ウェントワースをどのように描写するかについて、歴史家の間で見解の一致はみられない。ウェントワースは常に政敵と戦う必要に迫られており、冷酷さなしには政界で生き残れなかったのも確かであった。権利の請願に参加しながらも国王に強く敵対しなかったのも、彼の出身選挙区であるヨークシャーの人々の意見を吸い上げてのことであった。彼の積極的意志はアイルランド総督時代にみられる。議会運営をうまく行い、カトリックのみならずプロテスタントの不在地主の所有地にもメスを入れたことはウェントワースによるものであった。これによってウェントワースはイングランド在住の既得権者の恨みを買い、最後に国王の「専制」の責任を一身に背負って人生を終えた。ウェントワースは期待された役割を果たしただけであるとする意見がある一方、横暴さや冷酷さを指摘する声もある。ウェントワースをめぐる議論は現在進行形で続いている。

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4月13日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8813%E6%97%A5

できごと
1598年 - フランス国王アンリ4世が「ナントの勅令」を発布。
プロテスタントにカトリックと同等の信教の自由を認める。

1888年 - 日本初の喫茶店『可否茶館』が開店。

1903年 - 日本で小学校令が改正され国定教科書制度が取り入れられる。

1917年 - アメリカ海軍の戦艦ニューメキシコが進水。

1919年 - インドでイギリス軍が発砲しインド民衆に数百人の死傷者がでる
(アムリットサル事件、アムリットサルの虐殺、アムリッツァル虐殺事件)。

1922年 - 少年団日本連盟(現在の財団法人ボーイスカウト日本連盟)結成。

1931年 - 濱口雄幸(首相)が前年11月に狙撃されたことが元で病状が悪化し、内閣総辞職。

1940年 - 日本初のテレビドラマ「夕餉前」の実験放送。

1940年 - 第二次世界大戦: 第2次ナルヴィク海戦

1943年 - ドイツのラジオ放送が、
ソ連領内カチンの森でポーランド将校4千人の遺体を発見と報じる(カティンの森事件)。

1948年 - アミーン・フサイニー指揮下のアラブ人ゲリラがヘブライ大学の
医療スタッフを虐殺(ハダサー医療従事者虐殺事件)

1975年 - 伝説のロックバンド、キャロルが解散。

1992年 - テレビ朝日系テレビアニメ『クレヨンしんちゃん』放送開始。現在も放送中。

1994年 - フジテレビ系刑事ドラマ『古畑任三郎』放送開始。
同シリーズは2006年の正月の特番で終了するまで約11年続いた。

1997年 - ゴルフのタイガー・ウッズが
史上最年少の「21歳3ヶ月」でマスターズ・トーナメント初優勝。

2001年 - 日本でDV防止法が公布される。

誕生日
1593年 - ストラフォード伯爵トマス・ウェントワース、イングランドの政治家(+ 1641年)

1743年 - トーマス・ジェファーソン、第3代アメリカ合衆国大統領(+ 1826年)

1771年 - リチャード・トレヴィシック、機械技師(+ 1833年)

1808年 - アントニオ・メウッチ、発明家(+ 1889年)

1838年(天保9年3月19日) - 後藤象二郎、政治家(+ 1897年)

1848年(嘉永元年3月10日) - 浅野総一郎、実業家・浅野財閥の創始者(+ 1930年)

1866年 - ブッチ・キャシディ、ガンマン(+ 1908年?)

1893年 - 伊藤道郎、ダンサー・振付師(+ 1961年)

1894年 - 徳川夢声、講談師・俳優(+ 1971年)

1894年 - アーサー・ファデン、オーストラリア首相(+ 1973年)

1898年 - 森有一、俳人(+ 1984年)

1901年 - ジャック・ラカン、精神分析学者(+ 1981年)

1905年 - 水田三喜男、政治家(+ 1976年)

1906年 - サミュエル・ベケット、劇作家(+ 1989年)

1907年 - 藤田隆治、日本画家(+ 1965年)

1915年 - 大山デブ子、女優(+ 1981年)

1924年 - 吉行淳之介、小説家(+ 1994年)

1926年 - 宮尾登美子、小説家

1927年 - モーリス・ロネ、俳優(+ 1983年)

1928年 - 坪島孝、映画監督

1932年 - ジェニファー・ニックス、フィギュアスケート選手(+ 1980年)

1933年 - 藤田まこと、俳優

1940年 - 松永真、グラフィックデザイナー

1942年 - 森本潔、元プロ野球選手

1943年 - ビル・プロンジーニ、推理作家

1949年 - 沢井孝子、女優
1949年 - 五月女豊、元プロ野球選手
1950年 - ロン・パールマン、俳優
1950年 - ウィリアム・サドラー、俳優
1953年 - 鈴木俊一、衆議院議員
1954年 - 鶴田一郎、グラフィックデザイナー
1955年 - 上沼恵美子、タレント(元・海原千里)
1955年 - 西城秀樹、歌手
1955年 - 森口祐子、プロゴルファー
1958年 - 萬田久子、女優
1960年 - なかいま強、漫画家
1960年 - ルディ・フェラー、サッカー選手
1961年 - 牛島和彦、元プロ野球選手・監督
1963年 - 白石文子、声優
1963年 - ガルリ・カスパロフ、チェスプレーヤー
1963年 - 串原泰夫、元プロ野球選手
1964年 - 西崎幸広、元プロ野球選手
1964年 - 石塚かおり、アナウンサー
1965年 - 藤王康晴、元プロ野球選手
1966年 - ウェスリー・チェンバレン、元プロ野球選手
1968年 - 中村智子、朝日放送アナウンサー
1969年 - 増田政行、元プロ野球選手
1970年 - リック・シュローダー、俳優
1970年 - 古屋剛、元プロ野球選手
1971年 - ケビン・オーミー、元プロ野球選手
1973年 - 吉田恵、サッカー選手
1973年 - 若ノ城宗彦、元大相撲力士
1974年 - 牧田勝吾、元プロ野球選手
1975年 - 利根川朱里、女優
1976年 - ジョナサン・ブランディス、映画俳優(+ 2003年)
1978年 - カルレス・プジョル、サッカー選手
1978年 - 稲葉健、日本のタレント
1979年 - ホリスキー、元競走馬・種牡馬(+ 2003年)
1980年 - ホセロ・ディアス、プロ野球選手
1982年 - イェレナ・ニコリッチ、バレーボール選手
1983年 - 藤田祥史、プロサッカー選手
1984年 - 水嶋ヒロ、俳優
1984年 - 高橋弘篤、スケルトン選手
1986年 - オサイチジョージ、元競走馬・種牡馬
1986年 - カリブソング、元競走馬・種牡馬(+ 1994年)
1986年 - おおつか麗衣、女優
1987年 - 碧井椿、歌手(PINC INC)
1988年 - 真陽、グラビアアイドル
1988年 - 會澤翼、プロ野球選手
1988年 - アンデルソン・ルイス・デ・アブレウ・オリベイラ、サッカー選手
1988年 - ツインターボ、元競走馬
1993年 - ファビラスラフイン、元競走馬
1994年 - ブロードアピール、元競走馬
1994年 - マイネルマックス、元競走馬
1998年 - アグネスタキオン、元競走馬 種牡馬

忌日
1093年 - フセヴォロド1世、キエフ大公(* 1030年)
1202年(建仁2年3月19日)- 藤原成経、平安時代の公卿
1605年 - ボリス・ゴドゥノフ、ロシアのツァーリ(* 1552年)
1695年 - ラ・フォンテーヌ、詩人(* 1621年)
1728年 - サミュエル・モリノー、イギリス海相・天文学者(* 1689年)
1741年(寛保元年2月28日)- 近衛熙子、江戸幕府第6代将軍徳川家宣の正室(* 1666年)
1794年 - リュシル・デュプレシ、カミーユ・デムーランの妻(* 1770年)
1826年 - フランツ・ダンツィ、作曲家(* 1763年)
1844年(弘化元年2月26日)- 間宮林蔵、探検家(* 1775年)
1853年 - レオポルト・グメリン、化学者(* 1788年)
1874年 - 江藤新平、政治家(* 1834年)
1874年 - 島義勇、元開拓使主席判官・秋田県令(* 1822年)
1880年 - ロバート・フォーチュン、植物学者(* 1812年)
1882年 - ブルーノ・バウアー、哲学者(* 1809年)
1889年 - ジョン・パーマー・アッシャー、第7代アメリカ合衆国内務長官(* 1816年)
1903年 - モーリッツ・ラーツァルス、哲学者(* 1824年)
1904年 - 斎藤緑雨、小説家・評論家(* 1868年)
1905年 - 田口卯吉、経済学者(* 1855年)
1905年 - 鳥尾小弥太、枢密顧問官・貴族院議員(* 1847年)
1908年 - 松浦詮、第12代平戸藩主(* 1840年)
1912年 - 石川啄木、俳人・歌人(* 1886年)
1918年 - ラーヴル・コルニーロフ、ロシア帝国の軍人・白衛軍の指導者(* 1870年)
1920年 - 高木兼寛、医学者(* 1849年)
1929年 - 後藤新平、政治家(* 1857年)
1933年 - 島崎赤太郎、教育者・オルガン奏者(* 1874年)
1936年 - 成瀬正一、フランス文学者(* 1892年)
1941年 - アニー・ジャンプ・キャノン、天文学者(* 1863年)
1943年 - 山田安民、実業家・ロート製薬創業者(* 1868年)
1943年 - オスカー・シュレンマー、芸術家・彫刻家・デザイナー(* 1888年)
1944年 - セシル・シャミナード、作曲家・ピアニスト(* 1857年)
1945年 - エルンスト・カッシーラー、哲学者(* 1874年)
1945年 - 岩井半四郎(九代目)(* 1882年)
1955年 - 羽田亨、東洋史学者(* 1882年)
1959年 - エドゥアルト・ファン・ベイヌム、指揮者(* 1900年)
1960年 - 後藤誉之助、官僚、経済学者(* 1916年)
1966年 - フェリクス・フォン・ルックナー、ドイツ海軍の軍人・冒険家(* 1881年)
1966年 - ジョルジュ・デュアメル、作家、詩人(* 1884年)
1966年 - 高石勝男、競泳選手(* 1906年)
1974年 - ジェファーソン・キャフェリー、外交官(* 1886年)
1982年 - 吉田静一、経済学者(* 1930年)
1983年 - 中村鴈治郎(二代目)、俳優(* 1902年)
1984年 - ラルフ・カークパトリック、音楽学者・チェンバロ奏者(* 1911年)
1986年 - フランク・デチッコ、マフィアの幹部(* 1935年)
1987年 - ハーバート・ジョージ・ブルーマー、社会学者(* 1900年)
1987年 - 立木勝、政治家、第45・46代大分県知事(* 1906年)
1989年 - 西堀栄三郎、登山家、化学者(* 1903年)
1990年 - 木島則夫、アナウンサー(* 1925年)
1992年 - フェザ・ギュルセイ、物理学者(* 1921年)
1997年 - 西田修平、陸上競技選手(* 1910年)
1999年 - 曽我廼家明蝶、俳優(* 1908年)
1999年 - 清川正二、競泳選手、実業家(* 1913年)
2002年 - オレステ・ピッキオーニ、物理学者(* 1915年)
2005年 - 江頭匡一、実業家・ロイヤルホールディングス創業者(* 1923年)
2005年 - ドン・ブレイザー、元プロ野球選手、指導者(* 1932年)
2005年 - 福士敬章、元プロ野球選手(* 1950年)
2006年 - ミュリエル・スパーク、小説家(* 1918年)

記念日・年中行事
喫茶店の日
1888年のこの日、
東京・下谷上野西黒門町に日本初の喫茶店「可否茶館」が開店した日。

決闘の日
慶長17年4月13日(旧暦。新暦では1612年5月13日)、
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘(いわゆる巌流島の決闘)が行なわれたことに因む。

水産デー
1901年のこの日に旧漁業法が制定されたことに因み、
大日本水産会が1933年5月に制定。

現在の漁業法が施行された1949年3月13日に因み、3月13日が「漁業法記念日」となっているが、
これが「水産デー」と呼ばれることもある。