東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年4月17日(金曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年4月17日(金曜日)

「春」=「4月」

になりました。

「春」は。

たけなわです。

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3.500円

2回法=7.000円

です。

「春」「4月」です。

昨年。
「秋」になり「9月」がおわり。
「10月」もおわり。
秋の最後の
「11月」「晩秋月」もおわり。
そして「12月」になり「冬」になった。
「12月」もほとんどが過ぎたかな
とおもったら。
12月31日になり。

あっというまに。
「年があらたまりました」。
「初春」をすぎて。

そして今「4月」です。

「初春」の「3月」を

乗り越えて。

「春」「4月」です。

あまりにも
月日と。
時間と。そして年月のたつ。

その速さに。
恐怖さえをも感じます。

大気は「春」。

「春かぜ」は。

「春吹雪:はるふぶき」。

天に「春」の。

「春の花」の「はな」。

地に「春」の。

「春の花」の「はなびら」。

「春の花」の

「花」。

「春」のこの時期には。
樹木の「落ち葉」はおちきり。

「落ち葉」は「ぴたり」ととまります。
落葉ぎりぎりまで。

「春」の「みのり」にそなえて。
しっかりと。

「春」の
太陽の陽射しをえるためであるのしょう。

「春」には。

「春の花」の花びらが

「春の花」の「花」が。

花も見ぬうちに。

暗い寒い夜中のあいだに。

「春吹雪:はるふぶき」に。

弓を射られて。

朝暗いうちにも。

地に落下しています。

木々は

「晩冬」の

「冬木」としてのたたずまいから。

まさしく。

あかるい「春」のたたずまいに。

なりました。

「春の花」に。

「春吹雪:はるふぶき」。

また

「春」の気配は。

はっきりと。

「まちかど」の葉木にも感じられます。

「春吹雪:はるふぶき」は。

「どのようなの風」に。

変化していくのでしょうか。

「3月」の。

「春の花」の

若花のつぼみが。

「春の花」の

若花のはなびらが。

たわわにみえます。

「春の花」のつぼみは。

いつでも咲きそうな。

つぼみばかりです。

紅いどんぐりのような。

つぼみです。

昨年の「晩秋」
「金木犀:きんもくせい」の残り香は
とおくから。
「とぼとぼ」と歩いてくるように。
ほのかに漂い。
また「とぼとぼ」と歩き去っていった
ようにいなくなりました。

「初春」の。
「春の花」の花びらは。
「やぶつばき」の花びらは。
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに蕾膨らみ
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに花咲き
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに花びらが舞う。

「春」「あけぼの」の。

空の色は。

まさしくも

「春」の「空色」

になってきました。

ミルクのはいった

コバルトのような

空色です。

冬至はおわりましたから。

もうすでに。

しだいに。

次第に陽ののぼるのは。

はやくなり。

陽がくれるのは。

おそくなっています。

今は「春」。

「4月」です。

「初春」の。

「3月」が去りゆき。

今はものりの「春」です。

あさの05:00AMころは。
くらくあおく
しだいに
そらがラピズラズリから
トルコ石にうつろうように。
そらがしらんできます。

「初春」の季節の気配からは。

まぢかいけれども。
さらに「なにかが深まりゆく」。
そして「春」の訪れから。

さらにさらに。
深い「春」に向かい。
そしてさらに。
深い「春」の向こう側に。
さらなる「春」の気配の。
あることが。
良くわかります。

川端康成の。

「雪国」の。

トンネルの中から。

「向こう側」は「雪国」。

そして

「雪国」をすぎれば。

「春の国」。

今は「春」です。

春池面(いけも)の水面(みずも)
春おさなき小さなわかみどり
春なもしらぬ
春小さな緑の浮き草
春若草うきつあつまりて
春つらなり水面(みずも)
春水面(みずも)をおおいたり
春水面(みずおも)にて
春風にきそいてさまよえり
春ちひさきわらべのごとし
春池面の水面(みずおも)の。
春小さきちひさなわかみどり

春いざいまこそは
春よき季節にあらむ
春水面(みずも)なるそら
春ふと空をみる

春早朝(はやあさ)に
春けふもはだのさむけれど
春ぬくもりのあさ
春陽のありがたき
春われあゆむがごと
春陽はあたかくなりけり
春葉木は冬木にかわりたり
春みちをあかるくてらさむ
春がいだく木
春はぐくむ木
春みどり木あおし
春実りの木紅し(あかし)
春来(きた)るらむ

道端の冬野草の花もかわいらしい。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

たわわなり
みかんのわか実
みかんの「春」の実

蜜柑のいらかをかぜはやみ
はるかぜぜひるむや
春吹雪:はるふぶき
みかん実つきひ
はやいくとせ

春地にも木にも

春みどり葉ひらき

春みどり木ときわ木

春ひろがりて

春いふことのなし

春いふことがなし

春いふことはなし

春ゆたかなりけり春

今年の早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は寒いです。
「毎朝寒い」。
寒いと首都高の自動車も
「寒そうな運転の車」が多いです。

それでも「「春」はきぬ」。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成21年1月12日日(月曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年2月11日(水曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年3月20日(金曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年4月29日(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3.500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。

梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼に青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

感謝・感謝です。

「今日は何の日」は。

1932年から1937年にかけて。
世界で初めてのベートーヴェンのピアノソナタ全集と
ピアノ協奏曲全集(サージェント指揮)を
レコーディング。
またベートーヴェンのピアノソナタの解釈を
詳細に記載した楽譜編集でも有名なピアニスト。
(シュナーベル版と呼称)

1882年 - アルトゥル・シュナーベル、ピアニスト(+ 1951年)
の生誕日です。

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アルトゥル・シュナーベル:Artur Schnabel,
1882年4月17日 ビアラ(ビェルスコ=ビャワ)
近郊クンツェンドルフ Kunzendorf (リプニク Lipnik) -
1951年8月15日 スイス・アクセンシュタイン Axenstein)は。

オーストリア→アメリカのピアノ奏者、作曲家です。

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アルトゥル・シュナーベル:Artur Schnabel
は。
オーストリア領ガリチアのクンツェンドルフ
(現在はポーランド・リプニク*)に生まれました。

ここは。
ヨハネ・パウロ2世の家系ともゆかりのある町です。

(*地名が類似致しますが。
モラヴィアのリプニーク Lipnik(ライプニック Leipnik)
ではありません。)

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アルトゥル・シュナーベル:Artur Schnabel
は。

幼い頃から。
「天才少年」として楽才を発揮致しました。

ウィーンにて幾人かのピアノ教師に学んだ後。
モーツァルトのピアノ協奏曲第20番のソリストとしてデビュー
致しました。

デビュー後に改めて名ピアノ教師として名高い
レシェティツキに師事し、一時助手も務めました。

また、ブラームスからは
「将来最も恐るべき天才」と絶賛されました。

しかし、ウィーンの雰囲気にいまひとつ馴染めなかったか、
後にベルリンに引越しをしています。

++++++++++++++++++++++

アルトゥル・シュナーベル:Artur Schnabel
は。

ベルリンでは後の夫人であるアルト歌手の
テレーゼ・ベーアと出会いました。
彼女の伴奏ピアニストとして活躍することとなりました。

1912年ごろからヴァイオリニストの
カール・フレッシュなどと室内楽活動を行うようになり。
室内楽のピアニストとして評価を高めていきました。

++++++++++++++++++++++

アルトゥル・シュナーベル:Artur Schnabel
は。

1921年にはアメリカにデビュー致しました。
その頃からベルリンで教授に就任したり。
フルトヴェングラーらと共演を重ねました。

1927年にはベートーヴェンのピアノソナタの
全曲演奏を7夜にわたって開催致しました。
「ベートーヴェン弾き」としての名声を確立致しました。
++++++++++++++++++++++

アルトゥル・シュナーベル:Artur Schnabel
は。
1932年から1937年にかけて。
世界で初めてのベートーヴェンのピアノソナタ全集と
ピアノ協奏曲全集(サージェント指揮)を
レコーディングしています。

またアルトゥル・シュナーベル:Artur Schnabel
のベートーヴェンのピアノソナタの解釈を
詳細に記載した楽譜編集でも有名です。
シュナーベル版として。

世界中で愛用されています。
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アルトゥル・シュナーベル:Artur Schnabel
は。

1933年からはナチの台頭によりスイスに移住。
さらに1938年からはアメリカに本拠を移し。
1944年にアメリカの市民権を取得致しました。

1946年3月3日、カーネギーホールでの
ロジンスキー指揮の
ニューヨーク・フィルハーモニック演奏会で。

モーツァルトのピアノ協奏曲第23番を演奏中、
第3楽章の途中で曲を忘れてしまい。
演奏をやり直しました。

こういったアクシデントにもひるまず。
第二次世界大戦後もアメリカとヨーロッパで演奏活動と
レコーディング活動を続けました。

1951年8月15日に亡くなりました。

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アルトゥル・シュナーベル:Artur Schnabel。
シュナーベルの演奏スタイルとレパートリー
シュナーベルは技巧より。
表現を重視した演奏を致しました。

大げさな表現をよしとせず。
客観的な表現に特に重きを置きました。

シュナーベルのベートーヴェン解釈は。
内面的な精神と外面の造形を絶妙に
両立させたものといわれます。

後の世代のベートーヴェン弾きである
バックハウスやケンプらとの
解釈とは一線を画す解釈を繰り広げました。

現代の視点からすると、
テンポのふらつきなど不満な面はあるものの、
解釈の仕方としては軽視できないものがあります。

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アルトゥル・シュナーベル:Artur Schnabel

シュナーベルのレパートリーは狭く。

ベートーヴェン以外ではモーツァルトや
シューベルト、ブラームスなどを
レパートリーとしていました。

ベートーヴェンに対して
使った解釈を他にも当てはめていましたが。
シューベルトに関しては。
少々濃い味付けをした解釈をしていたようです。

また、当時はマイナーな存在であった
シューベルトのピアノソナタを広く知らしめたのも
シュナーベルでした。な

若い頃はもう少し幅広いレパートリーを誇っていました。

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アルトゥル・シュナーベル:Artur Schnabel
とレコーディング 。

シュナーベルは世界最初の
「ベートーヴェン・ピアノソナタ全集」録音の完成者であるが、
これはウォルター・レッグ考案の
「協会レコード」という手法によるものです。

協会レコードとは、様々な作曲家のメジャーな曲から
マイナーな曲までを幅広くレコード化する目的です。

その企画実現に必要な費用を「予約金」で賄うもので。
第一弾としてエレナ・ゲルハルトによる
「ヴォルフ協会」が1931年に企画され、
これが成功すれば第二弾として
ベートーヴェン・ピアノソナタ全集レコード制作の企画を
立ち上げてもよいとレッグはHMVから示唆されていました。

第1回ヴォルフ協会が日本からの111組という
大量予約で奇跡的に成立→発売にこぎつけたため。
「ベートーヴェン・ピアノ・ソナタ協会」
の企画が始まりました。
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アルトゥル・シュナーベル:Artur Schnabel
の。

なお、この企画がシュナーベルの事実上の
ファースト・レコーディングになりました。
けれども。
これより先の1905年頃にピアノ・ロールに録音を残しています。

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アルトゥル・シュナーベル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB

アルトゥル・シュナーベル:Artur Schnabel, 1882年4月17日 ビアラ(ビェルスコ=ビャワ)近郊クンツェンドルフ Kunzendorf (リプニク Lipnik) - 1951年8月15日 スイス・アクセンシュタイン Axenstein)はオーストリア→アメリカのピアノ奏者、作曲家。

目次
1 生涯
2 シュナーベルの演奏スタイルとレパートリー
3 レコーディング
3.1 ベートーヴェン
3.2 ウェーバー
3.3 モーツァルト
3.4 シューベルト
3.5 シューマン
3.6 ブラームス
4 作曲活動
5 その他
6 参考文献

生涯
オーストリア領ガリチアのクンツェンドルフ(現在はポーランド・リプニク)に生まれる。ここはヨハネ・パウロ2世の家系ともゆかりのある町である。モラヴィアのリプニーク Lipnik(ライプニック Leipnik)ではない。幼い頃から「天才少年」として楽才を発揮し、ウィーンにて幾人かのピアノ教師に学んだ後、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番のソリストとしてデビュー。デビュー後に改めて名ピアノ教師として名高いレシェティツキに師事し、一時助手も務めた。また、ブラームスからは「将来最も恐るべき天才」と絶賛された。しかし、ウィーンの雰囲気にいまひとつ馴染めなかったか、後にベルリンに引越しをしている。ベルリンでは後の夫人であるアルト歌手のテレーゼ・ベーアと出会い、彼女の伴奏ピアニストとして活躍することとなる。

1912年ごろからヴァイオリニストのカール・フレッシュなどと室内楽活動を行うようになり、室内楽のピアニストとして評価を高めていく。また、1921年にはアメリカにデビューし、その頃からベルリンで教授に就任したりフルトヴェングラーらと共演を重ねる。1927年にはベートーヴェンのピアノソナタの全曲演奏を7夜にわたって開催し、「ベートーヴェン弾き」としての名声を確立する。1932年から1937年にかけて、世界で初めてのベートーヴェンのピアノソナタ全集とピアノ協奏曲全集(サージェント指揮)をレコーディング。また、ベートーヴェンのピアノソナタの解釈を詳細に記載した楽譜編集でも有名で、シュナーベル版として世界中で愛用されている。1933年からはナチの台頭によりスイスに移住。さらに1938年からはアメリカに本拠を移し、1944年にアメリカの市民権を取得した。

1946年3月3日、カーネギーホールでのロジンスキー指揮のニューヨーク・フィルハーモニック演奏会でモーツァルトのピアノ協奏曲第23番を演奏中、第3楽章の途中で曲を忘れてしまい、演奏をやり直した。こういったアクシデントにもひるまず、第二次世界大戦後もアメリカとヨーロッパで演奏活動とレコーディング活動を続けたが、1951年8月15日に亡くなった。

シュナーベルの演奏スタイルとレパートリー
シュナーベルは技巧よりかは表現を重視した演奏をしたが、大げさな表現をよしとせず客観的な表現に特に重きを置いた。シュナーベルのベートーヴェン解釈は内面的な精神と外面の造形を絶妙に両立させたものといわれ、後の世代のベートーヴェン弾きであるバックハウスやケンプらとの解釈とは一線を画す解釈を繰り広げた。現代の視点からすると、テンポのふらつきなど不満な面はあるものの、解釈の仕方としては軽視できないものがある。
シュナーベルのレパートリーは狭く、ベートーヴェン以外ではモーツァルトやシューベルト、ブラームスなどをレパートリーとしていた。ベートーヴェンに対して使った解釈を他にも当てはめていたが、シューベルトに関しては少々濃い味付けをした解釈をしていたようである。また、当時はマイナーな存在であったシューベルトのピアノソナタを広く知らしめたのもシュナーベルであった。なお、若い頃はもう少し幅広いレパートリーを誇っていた。

レコーディング
「生涯」の項で記したように、シュナーベルは世界最初の「ベートーヴェン・ピアノソナタ全集」録音の完成者であるが、これはウォルター・レッグ考案の「協会レコード」という手法によるものである。
協会レコードとは、様々な作曲家のメジャーな曲からマイナーな曲までを幅広くレコード化する目的で、その企画実現に必要な費用を「予約金」で賄うもので、第一弾としてエレナ・ゲルハルトによる「ヴォルフ協会」が1931年に企画され、これが成功すれば第二弾としてベートーヴェン・ピアノソナタ全集レコード制作の企画を立ち上げてもよいとレッグはHMVから示唆されていた。第1回ヴォルフ協会が日本からの111組という大量予約で奇跡的に成立→発売にこぎつけたため、「ベートーヴェン・ピアノ・ソナタ協会」の企画が始まった。

なお、この企画がシュナーベルの事実上のファースト・レコーディングになるが、これより先の1905年頃、ピアノ・ロールに録音を残している。

ベートーヴェン
ピアノソナタ
第1集:第24番、第27番、第32番
第2集:第9番、第13番、第30番
第3集:第15番、第19番、第31番
第4集:第2番、第14番、第26番
第5集:第11番、第20番、第23番
第6集:第6番、第8番、第18番
第7集:第1番、第10番、第28番
第8集:第3番、第17番、第22番
第9集:第12番、第21番
第10集:第29番
第11集:第4番、第16番
第12集:第5番、第7番、第25番
第13集:ディアベリ変奏曲
第14集:6つのバガテルOp.126、ロンド・ア・カプリッチョOp.129「失われた小銭への怒り」、ロンドイ長調WoO.49、創作主題による6つの変奏曲ヘ長調Op.34、幻想曲ト短調Op.77
第15集:メヌエット変ホ長調WoO.82、7つのバガテルOp.33、「エロイカ変奏曲」、「エリーゼのために」(1938年盤)
第13集以下は「ベートーヴェン・ピアノ協会」として別勘定する書物もある(ここではナクソス・ヒストリカルの表記に拠る)。「エリーゼのために」(1932年盤)、ロンドハ長調Op.51-1もSP盤の余白埋めとしてレコーディングされている。なお、アメリカに移ってからの1942年に、第30番と第32番をRCAに再録音している。
「ベートーヴェン・ピアノ・ソナタ協会」は日本からの予約が2000組になるなど大盛況となり、以後フリッツ・クライスラーによる「ベートーヴェン・ヴァイオリン・ソナタ協会」(これでクライスラーはベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲録音を初めて完成させることになる)、エトヴィン・フィッシャーとパブロ・カザルスによる「バッハ協会」(フィッシャー:平均律クラヴィーア曲集全曲、カザルス:無伴奏チェロ組曲全曲)など、「協会レコード」ものが続々生まれてくることとなった。

ピアノ協奏曲
ピアノ協奏曲第1番(1932年3月23日:マルコム・サージェント指揮ロンドン交響楽団)
ピアノ協奏曲第2番(1935年4月5日:サージェント指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、1946年:イサイ・ドブロウェン指揮フィルハーモニア管弦楽団)
ピアノ協奏曲第3番(1933年2月17日:サージェント指揮ロンドン・フィル、1946年:イサイ・ドブロウェン指揮フィルハーモニア管弦楽団)
ピアノ協奏曲第4番(1933年2月16日:サージェント指揮ロンドン・フィル、1946年:イサイ・ドブロウェン指揮フィルハーモニア管弦楽団)
ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(1932年3月24日:サージェント指揮ロンドン・フィル、1947年5月27日・28日:アルチェオ・ガリエラ指揮フィルハーモニア管弦楽団)
ヴァイオリンソナタ
ヴァイオリンソナタ第5番「春」(1948年:ヨゼフ・シゲティ(LIVE))
ヴァイオリンソナタ第10番(1948年:シゲティ(LIVE))
チェロソナタ
チェロソナタ第2番(1934年12月6日・16日:グレゴール・ピアティゴルスキー)
チェロソナタ第3番(ピエール・フルニエ)

ウェーバー
「舞踏への勧誘」(1947年)

モーツァルト [編集]
ピアノ協奏曲第17番(1942年3月22日:フリッツ・シュティードリー指揮ニューヨーク・フィルハーモニック(LIVE。一部のみ))
ピアノ協奏曲第19番(1937年1月:サージェント指揮ロンドン響)
ピアノ協奏曲第20番(1944年12月14日:ジョージ・セル指揮ニューヨーク・フィル(LIVE)、1948年6月19日:ウォルター・ジュスキント指揮フィルハーモニア管)
ピアノ協奏曲第21番(1937年1月12日:サージェント指揮ロンドン響)
ピアノ協奏曲第22番(1941年11月16日:ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィル(LIVE))
ピアノ協奏曲第23番(1946年3月3日:アルトゥール・ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(LIVE))
ピアノ協奏曲第24番(1948年6月18日:ジュスキント指揮フィルハーモニア管)
ピアノ協奏曲第27番(1934年5月2日:ジョン・バルビローリ指揮ロンドン響)
2台のピアノのための協奏曲K.365(1936年10月28日:エイドリアン・ボールト指揮ロンドン響、カール・ウルリヒ・シュナーベル(Pf))
ピアノ四重奏曲第1番(1934年12月19日:プロ・アルテ四重奏団)
ピアノソナタ第8番(1939年1月27日)
ピアノソナタ第12番(1946年6月)
ピアノソナタ第13番(1944年(LIVE))
ピアノソナタ第16番(1948年6月)
ピアノソナタへ調(1943年11月14日(LIVE))
ロンドイ短調K.511(1946年6月)
ヴァイオリンソナタ第41番(1948年:シゲティ(LIVE))

シューベルト
ピアノ五重奏曲「ます」(1935年11月16日:プロ・アルテ四重奏団員、クロード・ホブデイ(Cb))
ピアノソナタニ長調D.850(1939年1月26日・27日)
ソナタ変ロ長調D.960(1939年1月25日)
即興曲集D.899(1950年)
即興曲集D.935(1950年)
アレグレットD.915(1950年)

シューマン
ピアノ五重奏曲(1934年11月19日:プロ・アルテ四重奏団)
「子供の情景」(1947年6月3日)

ブラームス
ピアノ協奏曲第1番(1938年1月9日・12月18日:セル指揮ロンドン・フィル)
ピアノ協奏曲第2番(1935年11月7日・14日:ボールト指揮BBC交響楽団)
幻想曲集Op.116第2番(1947年6月4日)
間奏曲Op.117第1番(1947年6月4日)
ラプソディーOp.79第2番(1947年6月4日)
シュナーベルのベートーヴェン・ピアノソナタ全集を初めとする主だったレコードは現在、ナクソスなどから復刻されている。

作曲活動
シュナーベルは演奏活動の合間を縫って作曲活動も行っている。ピアニストとしてはブラームスよりも新しい作品はほとんど演奏しなかったにもかかわらず、作曲家としては当時の最先端の技法である無調の作品を残している。交響曲第2番は60分近い演奏時間を持つ大曲である。

主な作品
交響曲第1番(1938年)
交響曲第2番(1941〜43年)
交響曲第3番(1948年)
7つのピアノ曲
ピアノソナタ

その他
長男はカール・ウルリッヒ・シュナーベルであり、米国マンハッタン音楽院のピアノ科教授を長く勤めた。父の健在時は2人でデュオを結成し、シューベルトの連弾曲を披露したこともある。

教え子にはクリフォード・カーゾン、リリー・クラウス、レオン・フライシャー、映画「戦場のピアニスト」で名高いウワディスワフ・シュピルマンらがいる。

フライシャーの語るシュナーベル
フライシャーは9歳から10年間シュナーベルに師事してきた。フライシャーが言うには、シュナーベルの指導方法には特に定められたメソッドはなく、また同じ曲を2日連続で練習させなかったという。また、シュナーベルはフライシャーが女性に興味を持ち出して練習に身が入らなくなったのを看破し、「もう自分の足で歩いてゆけ」と"卒業"させている。シュナーベルのレパートリーに関してもフライシャーは、「何かしらに影響されて偏見を持っていたのでは」と回想している。

参考文献
エリーザベト・シュヴァルツコップ著・河村錠一郎訳『レッグ&シュヴァルツコップ回想録 レコードうら・おもて』音楽之友社、1986年。
岩井宏之「アルトゥール・シュナーベル 「森を見て木を見る」に徹した大局的構成感 ベートーヴェン全集は聖典として時代を画す」『続・不滅の巨匠たち』音楽之友社、1994年
歌崎和彦『証言/日本洋楽レコード史(戦前編)』音楽之友社、1998年。
都築正道「INTERVIEW レオン・フライシャー」『CHOPIN 2007年3月号』株式会社ショパン、2007年。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB" より作成
カテゴリ: オーストリアのクラシック音楽のピアニスト | 1882年生 | 1951年没

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4月17日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8817%E6%97%A5

できごと
1780年 - マルティニーク島の海戦勃発。

1895年 - 日清講和条約(下関条約)調印。

1917年(ロシア暦4月4日) - ウラジーミル・レーニンが
「四月テーゼ」を発表 :ロシア革命で、ロシアに帰国して発表。
戦争を続ける臨時政府の全権をソビエトが握るべきと主張。

1947年 - 日本で公共職業安定所発足。

1952年 - 鳥取大火 :鳥取市にて大火があり、5228戸が焼失、中心街が全滅。

1970年 - アポロ13号(米国)、地球に帰還。

1980年 - 中華人民共和国が国際通貨基金(IMF)に加盟。

1985年 - 阪神甲子園球場で行われた野球、阪神タイガース-読売ジャイアンツ戦において、
ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布がバックスクリーン3連発を放つ。

2005年 - 東日本旅客鉄道・山手線から205系が引退 :E231系500番台増備完了による。

2007年 - 長崎市長射殺事件 :
長崎駅前で、長崎市の伊藤一長市長が山口組系暴力団員に銃撃される。
翌18日未明に胸部大動脈損傷等による大量出血により死亡。

誕生日
1573年 - マクシミリアン1世、バイエルン選帝侯(+ 1651年)

1870年(明治3年3月17日) - 三田村鳶魚、随筆家・時代考証家(+ 1952年)

1882年 - アルトゥル・シュナーベル、ピアニスト(+ 1951年)

1894年 - ニキータ・フルシチョフ、ソビエト連邦共産党第一書記(+ 1971年)

1917年 - 南村侑広、プロ野球選手(+ 1990年)

1918年 - ウィリアム・ホールデン、俳優(+ 1983年)

1924年 - 藤城清治、影絵作家

1931年 - 滝口順平、声優
1935年 - 畑正憲、小説家・生物学者
1937年 - フェルディナント・ピエヒ、自動車技術者・実業家
1939年 - 戸梶正夫、プロ野球選手
1942年 - 大泉逸郎、歌手
1942年 - バスター・ウィリアムス、ジャズベース奏者
1942年 - 高嶋秀武、ジャーナリスト、フリーアナウンサー
1943年 - 川島勝司、野球選手
1944年 - 高野孟、ジャーナリスト
1947年 - 若松勉、プロ野球選手・監督
1947年 - 野崎恒男、プロ野球選手
1954年 - あきやまるな、声優
1954年 - 高見沢俊彦、ミュージシャン(THE ALFEE)
1954年 - リカルド・パトレーゼ、レーシングドライバー
1959年 - 山口哲治、プロ野球選手
1962年 - 船越雅史、アナウンサー
1962年 - 吉村元富、プロ野球選手
1964年 - 明貴美加、メカデザイナー
1965年 - 武内陶子、アナウンサー
1965年 - 黒田崇矢、声優
1965年 - 黒田慶樹、紀宮清子内親王の夫
1965年 - クレイグ・ワーシントン、プロ野球選手
1967年 - ゴルゴ松本、タレント(TIM)
1969年 - ジェフ・ボール、プロ野球選手
1972年 - ムティア・ムラリタラン、クリケット選手
1972年 - イシノアラシ、競走馬
1973年 - 海鵬涼至、大相撲力士
1973年 - 小林賢太郎、俳優・劇作家・漫画家(ラーメンズ)
1973年 - 城石憲之、野球選手
1974年 - ヴィクトリア・ベッカム、ミュージシャン(スパイス・ガールズ)
1975年 - ステファノ・フィオーレ、サッカー選手
1976年 - 橘未稀、AV女優・ストリッパー
1976年 - 遠藤竜志、プロ野球選手
1976年 - モリタイシ、漫画家
1977年 - 玉城千春、ミュージシャン(Kiroro)
1979年 - オールアロング、競走馬
1979年 - 大沼綾子、バレーボール選手
1980年 - 大雷童太郎、大相撲力士
1980年 - ロンググレイス、競走馬
1982年 - 林知花、女優
1982年 - イ・ジュンギ、俳優
1982年 - アラン・ストリート、フィギュアスケート選手
1983年 - 大谷昌司、サッカー選手
1984年 - 日下広太、野球選手
1985年 - 本田拓也、サッカー選手
1985年 - 今井優、元AKB48
1985年 - ジョー・ウィルフリード・ツォンガ、テニス選手
1986年 - 中村明花、ファッションモデル
1987年 - 田沢由哉、プロ野球選手
1987年 - ハクタイセイ、競走馬
1988年 - 森田貴寛、歌手
1988年 - 水渕葵、女優、タレント
1988年 - フジヤマケンザン、競走馬
1992年 - 猪瀬愛、女優
1993年 - 若葉克実、俳優

忌日
1355年 - マリーノ・ファリエロ、ヴェネツィアのドージェ(* 1285年)
1669年 - アントニオ・ベルターリ、作曲家(* 1605年)
1696年 - セヴィニエ侯爵夫人マリー・ド・ラビュタン=シャンタル、作家(* 1626年)
1711年 - ヨーゼフ1世、神聖ローマ皇帝(* 1678年)
1742年 - アルヴィド・ホルン、スウェーデンの政治家(* 1664年)
1761年 - トーマス・ベイズ、数学者(* 1702年)
1764年 - ヨハン・マッテゾン、作曲家(* 1681年)
1790年 - ベンジャミン・フランクリン、政治家・物理学者(* 1706年)
1882年 - アントニオ・フォンタネージ、画家(* 1818年)
1892年 - アレキサンダー・マッケンジー、カナダ首相(* 1822年)
1898年 - ボビー・マシューズ、メジャーリーグベースボール選手(* 1851年)
1902年 - フランシスコ・デ・アシース・デ・ボルボーン、スペイン女王イサベル2世の王配(* 1822年)
1932年 - 藤沢友吉 (初代)、藤沢薬品工業創業者(* 1866年)
1937年 - 李箱、詩人(* 1910年)
1942年 - ジャン・ペラン、物理学者(* 1870年)
1948年 - 鈴木貫太郎、日本の第42代内閣総理大臣(* 1868年)
1954年 - 徳川頼貞、自由党参議院議員・音楽学者(* 1892年)
1960年 - 諸口十九、俳優(* 1891年)
1960年 - エディ・コクラン、ロカビリー歌手(* 1938年)
1963年 - 徳川好敏、日本陸軍の飛行機操縦士・中将(* 1884年)
1974年 - ヒュー・テイラー、化学者(* 1890年)
1976年 - カール・ピーター・ヘンリク・ダム、生化学者・生理学者(* 1895年)
1987年 - 香川良介、俳優(* 1896年)
1987年 - 福家俊一、政治家(* 1912年)
1987年 - 武内つなよし、漫画家・小説家(* 1922年)
1988年 - ルイーズ・ネヴェルソン、彫刻家(* 1900年)
1990年 - 南村侑広、プロ野球選手(* 1917年)
1993年 - トゥルグト・オザル、第8代トルコ大統領(* 1927年)
1994年 - 宇野光雄、プロ野球選手・プロ野球監督(* 1917年)
1994年 - ロジャー・スペリー、神経心理学者(* 1913年)
1997年 - 秋岡芳夫、工業デザイナー(* 1920年)
1998年 - リンダ・マッカートニー、写真家・ミュージシャン(* 1941年)
1998年 - タイガー立石、画家・漫画家・絵本作家・陶芸家(* 1941年)
2000年 - 大塚正士、大塚製薬社長・会長(* 1919年)
2001年 - 山田智彦、作家(* 1936年)
2002年 - 坂野重信、政治家(* 1917年)
2003年 - アール・キング、R&Bギタリスト・シンガーソングライター(* 1934年)
2003年 - 今藤幸治、サッカー選手(* 1972年)
2004年 - アブドゥルアズィーズ・アッ=ランティースィー、ハマース指導者(* 1947年)
2004年 - ベルナール・カトラン、画家(* 1919年)
2004年 - アール・マイナー、日本文学研究者(* 1926年)
2005年 - 黒沼克史、ノンフィクション作家(* 1955年)
2005年 - 中村翫之助(四代目)、歌舞伎俳優(* 1935年)
2008年 - エメ・セゼール、詩人(* 1913年)
2008年 - 横山友美佳、バレーボール選手(* 1987年)

記念日・年中行事
ハローワークの日(職安記念日)
1947年のこの日、それまでの職業紹介所が
「公共職業安定所」に改称したことによる。
現在は「ハローワーク」という愛称で呼ばれている。

恐竜の日
1923年のこの日、
アメリカの動物学者ロイ・チャップマン・アンドリュースが
ゴビ砂漠へ向けて北京を出発したことに因む。
その後5年間に及ぶ旅行中に、恐竜の卵の化石を世界で初めて発見し、
その後の本格的な恐竜研究の始まりになった。

なすび記念日
冬春なす主産県協議会が2004年に制定。
「ヨ(4)イ(1)ナ(7)ス」の語呂合わせ、4月が冬春ナスの最盛期であること、
4月にナスが好物であった徳川家康に献上されていたこと、
徳川家康の命日が旧暦の4月17日であることによる。

飯田・下伊那の日、五平もち記念日
「し(4)もい(1)な(7)」の語呂合せ。
長野県飯田・下伊那地方の特産である五平もちをPRする日。

椎名の日
「し(4)い(1)な(7)」の語呂合せ。声優の椎名へきるの記念日として
毎年イベントが開催されるなど、神聖な日とされている。

少年保護デー
1952年に、11月27日の「司法保護記念日」と統合され、
9月13日の「更生保護記念日」となった。