東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年4月18日(土曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年4月18日(土曜日)

「春」。

「4月」です。

「春」の。

「4月」になりました。

「春」がきた。

「春」がきた。

どこにきた。

「山」にきて「里」にきて。

「野」にきたる。

-------------------------------
今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

「晩冬」の「2月」がおわり。
「春」になりました。
「3月」です。
「3月」がおわり。
「4月」になりました。
「春」です。

昨年。
「6月」=「夏の始まり」です。
「6月」がおわり「7月」です。
「7月」もおわりました。
最後の夏月「8月」。
夏の「8月」もおわりました。

「9月」の「秋」になり。
「9月」がおわりました。
「10月」もおわりました。
「11月」です。
「秋」「11月」が終わりました。

「12月」です。
「冬」になりました。

昨年の「12月」が終わりました。

「新年」の「初春」になりました。
「1月」がすぎ。

「初春」の「2月」がすぎ。

「3月」がおわり。

もう「4月」です。

雪国の「春」を。

過ぎれば。

そこは里の「春」

雪国の「冬」から

「里山」の「春」に。

「野」の「春」に。

そして。

街(まち)の「春」に。

なりました。

「ちいさな春」をこえて。

「大きな春」を。

むかえようとしています。

雪国の「春」を過ぎれば。

そこは。

「里山」の「春」

「野」の「春」

「まち」の「春」

「ふゆ」を「むかえよう」。
「新年」そして「初春」。
「くるとしつき」は
「無我のうちにむかえよう」。
「冬」がすぎたら。
そうしたら「春」をむかえよう。

自在に「かんがえてながれてゆく」。

「自然」の「ときの流れ」は。
真(まこと)の幸せ者の「しらべ」。

「新年」の「初春」だけれども。

「1月」は去り「2月」。
「2月」は去り「3月」。
「3月」は去り「4月」。

「ひたひた」と。

さらに深まりゆき。

とおりすぎていった「冬」。

「さくさく」とひびく。

日々の過ぎ去る足音は。

「とほとほ」と。

朝早くまだ暗い街中に

聞こえるようにとおざかり。

さってゆき。

そして「新たな季節」が。

かわりにやってくる。

白く柔らかな春霞の衣をまとう若々しい

「春」の「さほ姫」*

は「冬将軍」をいなして。

「春」を導いて。

そしていま。

「春」の「4月」になりました。

「佐保姫(さほひめ)」は春の神です。

五行説では春は東の方角にあたります。
平城京の東に佐保山があるために。
春の神は佐保姫と呼ぶようになりました。

白く柔らかな春霞の衣をまとう若々しい女性です。

竜田山の神で秋の竜田姫と対を成すことになります。

日本の「春」の女神(めがみ)

「佐保姫(さほひめ)」。

「どなた」がみつけた「姫君」か。

すごき女神と感嘆致します。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(Johann Wolfgang von Goethe)
の「魔王:Erlkonig」*は。
「おそい冬の夜」の「嵐のなかを馬駆ける」
「父親」と「子」の情景を描写したものです。

かならずしも「冬の夜」を情景と考えなくても
「魔王」の詩*の
その「魔王」の「おそろしさ」は通じます。


魔王(Erlkonig)が。
どのようなものであるかは様々な議論があります。
その名前は字義的には「ハンノキの王」を意味する。

ゲーテは「ハンノキの王」Erlkonigから。
樹木の精霊の王として。
魔王を設定し想像力を膨らませたものです。

この詩はゲーテによって
1782年の歌劇『漁師の娘』
(Die Fischerin) の一部として作詞されました。

-------------------------------

『魔王』はデンマークで生まれた

「比較的新しい伝承」であると考えられます。

それをヨハン・ゴットフリート・ヘルダーが
ドイツ語に翻訳した『ハンノキの王の娘』
(Erlkonigs Tochter)が
ゲーテの詩の元になっています。

これはヘルダーが1778年に出版し
た『歌の中の人々の声』
(Stimmen der Volker in Liedern)という
民謡を集めた本に収録されています。

魔王(Erlkonig)が。
どのようなものであるかは様々な議論があります。
その名前は字義的には「ハンノキの王」を意味する。
英訳としては。
「妖精の王」(Elf King)がよく用いられます。
それに当たるドイツ語は。
「Elfenkonig」になってしまいます。

よく聞かれる説としては「Erlkonig」は
デンマーク語で妖精の王を意味する
「ellerkonge」または「elverkonge」からの
誤訳だとするものがあります。

しかし。
ゲーテはむしろその「ハンノキの王」から。
樹木の精霊の王として。
魔王を設定し想像力を膨らませたものです。

ドイツおよびデンマークの伝承では
魔王は死の前兆として登場します。
その意味では
「アイルランドのバンシー」
に似ています。

魔王は死に瀕した人物の前に現れます。
魔王の姿かたちや表情がこれから
その人物に訪れる死の内容を表します。

苦しい表情であれば苦しい死であるし
穏やかな表情であれば穏やかな死であるという。
別の解釈としては
妖精の王に触れられた者は必ず死に至るという
伝承が元になったという説もあります。

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「新年」そして「初春」。

今は「4月」の「春」

早いです。

速いものです。

速いのか早いのか。

はやいのか。

けさ暗いうちに。

地をはうような。

「春吹雪:はるふぶき」の

嵐(あらし)がふきました。

「春の花」と「春吹雪:はるふぶき」

は相性が。

よくないようです。

もしかしたら極めて相性が。

よいのかもしれません。

どちらかです。

暗い寒い朝に。

「春の花」の花びらが。

夜の間に「春吹雪:はるふぶき」の。

弓風に射られて。

白鷺の羽が舞いおりているようです。

「春」の。

「春吹雪:はるふぶき」の音は。

宙を舞う前の。

「むささび」の声のような。

「おたけび」。

けれども。

しだいに。

「春吹雪:はるふぶき」は。

歌声のようにかわりました。

そして「春」。

「佐保姫(さほひめ)」のワルツ

が聞こえます。

「春吹雪:はるふぶき」。

「「春」いちばん」。

今日の朝暗いうちに。
秋の暗闇の地面のうえから。

「早朝に「春かぜ」の音」
が聞こえました。

不思議な「「春」の「春かぜ」の音」。
「鳴き声」のようです。

いつしか。
「春吹雪:はるふぶき」と。
「「春かぜ」の音」だけになりました。

「春かぜ」と
「春吹雪:はるふぶき」は。
早朝暗いうちにふくものである
ことがわかります。

「絵」にかきたい「音」なのです。

面白いが「おそろしい」情景であるような気も致します。
しいてこわい光景をおもいうかべるのであれば

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(Johann Wolfgang von Goethe)
の「春」の「魔王」のようになるのでしょう。

「春」の声。
「こうこう」と鳴く。
「春吹雪:はるふぶき」
の風音がくわわっていきます。

その「春吹雪:はるふぶき」の音の。
背景に流れる「通奏低音:Generalbass;ゲネラル・バス」*
「はるのはるかぜ」のこえは。
暗闇の「はるの足音」のように聞こえる。
あかるい「春」の日に。
「陽射しの降るまち」では。
「足音だけが遠ざかっていく」「足音」

「とぼとぼ」
にしだいに重複してきました。
「春」のあさの「あしおと」と。
「さむさ」のさるあしおとの。
そして「春」のあしおとの。
「フーガ」と「カノン」。
「春吹雪:はるふぶき」はトッカータ。
「はるいちばん」は「フーガ」と「カノン」。*
-------------------------------

通奏低音(つうそうていおん)とは
バロック音楽において行われる演奏形態の一つです。
低音部の旋律とともに即興的な和音を付け加えて演奏する形態です。
イタリア語のバッソ・コンティヌオ(Basso continuo)

の訳語です。
伴奏楽器が間断なく演奏し続けるということからこの名があります。
略してコンティヌオと呼ぶことも多いです。
ドイツ語のゲネラルバスも使われることがあります。

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常緑の木々の深冬葉のいろ。
緑がますますあざやかに。
深まる秋におちついて。
考えるが如く
「ロダンの彫塑」の色合いです。

常緑の木々の葉は。
深緑(ふかみどり)になりました。
そして「冬」をむかえて。
「冬緑」のいろあいに
うつろいできました。
もう「緑をうつろいて」
さすがにつかれた黄赤色の葉もみえます。
枯れ葉も樹木のにぎわいです。木々の防寒衣としては
なくてはならないものです。
「春」をむかえます。

「新年」
「春」の夜明(よあけ)の空から。
「春」の陽がのぼり。
「春」の日の「空色」になってきました。

けれども。
朝暗いうちはミルクのはいった
コバルトのような
カフエ・オレ・コバルトの空色です。
そして雲は天高く「春」の雲です。

あさの04:00AMころに。

東の空
さやかににあかるく
まだくらくあおく
しだいに
雲多い空はラピズラズリからトルコ石
のようににうつろうように。
しらんできます。

その上空にさらに。
明らかなる大きな質量のある。
「深まる「春」の気配」を感じます。

春野路はた見たりビロードのしだ
春わらべのごときビロードのしだ
春わらびのごとく輝けりビロードのしだ
春山奥にひそむビロードのしだ
春しのぶの羊歯(しだ)ビロードのしだ
春めずらしき羊歯ビロードのしだ
春ときわの緑のほのほビロードのしだ
春山奥のしだのビロードのしだ
春「まち」にもいきるビロードのしだ
春けなげなりもあはれなりビロードのしだ
春生い立ちしらずビロードのしだ
春されどそのちからこそとほとしビロードのしだ

「春」きたれり。

「春」いざいまこそは

「春」よき季節にあらむ

「春」ふと空をみる

今時にもかかわらず放射冷却で
朝はとても寒いが。
「ぬくもり」はある。

確実に日は長くなりました。
葉木(はき)の樹木は「木」にかわり。
秋の木から「冬の木」にうつろいさらに
「冬の木」から。
「「春」の木」にうつろう時期
です。

外路樹の若葉は
緑濃くオリーブの葉のごとし
つみとりたくなる
ほどにきれいです。
けれどもひそやかに木々の葉にも
「深い冬からさらに「春」」
の気配がうつろいて。
うつります。

そして春の「佐保姫(さほひめ)」
が微笑みをうかべみつめています。

春まちなみ蒼く(あおく)
春いろどりて
春木々の榛葉のかがやけり
春暑さの夏秋をうつろひて
春ふかまるみどりの冬木なり
春しずまるみどりの冬木なり
春みのりの冬こそありがたし
春みのりの冬こそこひしかり
春虫なきてささやけり
春木々は榛葉にかがやけり

道端の野草もかわいらしい。
冬化粧をして。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は気温がさがり大気は不安定です。
「寒い」。
寒いと首都高の自動車も暗い中
「辛そうな運転の車」が多いです。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成21年1月12日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)
は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)
は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------
平成21年4月29日(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
-------------------------------

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
-------------------------------

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。
梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼の青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝

「今日は何の日」は。
20世紀における最も個性的な指揮者の一人。

その生命力あふれる独創的な解釈と
「ストコフスキー・サウンド
(日本では「ストコ節」とも)」
と呼ばれた華麗な音色で、聴衆の圧倒的な人気を得た指揮者。
「音の魔術師」の異名の独特の演奏手法で
有名な指揮者。
1882年 - レオポルド・ストコフスキー、指揮者(+ 1977年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー:Leopold Stokowski,
1882年4月18日 - 1977年9月13日)は
20世紀における最も個性的な指揮者の一人です。

イギリスのロンドンに生まれ。
主にアメリカで活動致しました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー
:Leopold Stokowski
は。
教会のオルガニストとしてスタート致しました。

1909年5月12日にパリで指揮者としてデビュー。

その6日後にはロンドンでもデビュー。
シンシナティ交響楽団の常任指揮者を経て、
1912年にフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者に就任、
以来1940年にいたるまでその地位を守りました。

彼はフィラデルフィア管弦楽団を
世界一流のアンサンブルに育てました。

しかし任期の最後の方では楽団サイドとはうまく行かず。
(楽員レベルとは最後までうまく行っていました)。

ユージン・オーマンディと
共同監督という形が取られました。

彼はこれに不満があったのか
フィラデルフィア管弦楽団とのコンサートは。
辞任後の1941年に戦前最後のコンサート
(バッハのマタイ受難曲)
をした後1960年まで途絶えることとなりました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー
:Leopold Stokowski
は。

その後は全米青年管弦楽団(1940年〜1941年)。
ニューヨークシティ管弦楽団(1944年〜)や
アメリカ交響楽団(1962年〜)といった
オーケストラを創設致しました。

NBC交響楽団(1941年〜1944年)、
ヒューストン交響楽団(1955年〜1960年)の
指揮者を歴任致しました。

その一方で、戦後はヨーロッパ諸国など
世界各地への客演も活発におこないました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー
:Leopold Stokowskiは。

1961年には生涯で唯一オペラハウスで指揮致しました。
(メトロポリタン歌劇場にて、
プッチーニの「トゥーランドット」)

1965年には日本フィルハーモニー交響楽団と
読売日本交響楽団を指揮するために来日しています。

最晩年の1973年にアメリカ交響楽団を
秋山和慶に譲って故郷イギリスに帰りました。

生涯現役
(ただし公開の演奏会に出演したのは1975年が最後)
を貫いて精力的に音楽活動を続けた指揮者です。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー
:Leopold Stokowski
は。
1976年、94歳の時にはCBSコロンビアと6年契約
(契約満了時に100歳を迎える計算となる)
を結んだが、
1977年9月13日正午前にハンプシャー州ネ
ザーウォロップの自宅で
心臓発作により95歳で没しました。

19日からラフマニノフの交響曲第2番を
レコーディングする予定でありました。

数年後にはベートーヴェンの「田園」を
デジタルレコーディングする予定だったということです。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー
:Leopold Stokowski
は。
幅広い音楽活動
彼はメディアへの関心が深く。

早い時期からレコーディングに積極的でありました。
まだアコースティック録音の時代であった1917年以来、
膨大な数の録音を行いました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー
:Leopold Stokowskiの最初の録音は。
ブラームスのハンガリー舞曲第5番と第6番でした。

1925年に初めてオーケストラの電気録音を行いました。
1932年には当時の米ベル研究所により。
これも世界初となるステレオ録音を行いました。

また「オーケストラの少女」や、
ディズニーの画期的な音楽アニメーション
「ファンタジア」など、
映画にも出演致しました。

クラシック音楽の大衆への普及に努めました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー
:Leopold Stokowskiは。

「ファンタジア」により1941年の
第14回アカデミー賞の特別賞を
ウォルト・ディズニーとともに授けられました
(当時のアカデミー賞には、アニメに対する賞は
設けられていなかったのです)。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー:Leopold Stokowski
は。
様々の困難を乗り越えて
(保守的なオーケストラの理事会との対立、
経済的な困難に対しては私財をなげうつこともありました。
後者に関しては、1962年のアメリカ交響楽団の創設
につながってゆきました)。

しばしば難解なものであった同時代の音楽の。
擁護にも力を注ぎました。

アメリカの聴衆に
マーラー、ベルク、シベリウス、ストラヴィンスキーや
ショスタコーヴィチらの作品を紹介致しました。

またラフマニノフ、シェーンベルク、ヴァーレーズ、アイヴズ
などの作品を世に送り出しました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー:Leopold Stokowski

彼が世界初演、あるいはアメリカ初演したうちの
代表的なものは以下の通りです。
1916年交響曲第8番「千人の交響曲」(マーラー)、「アルプス交響曲」(リヒャルト・シュトラウス)アメリカ初演(彼は前者の世界初演を聞いている)
1922年「春の祭典」(ストラヴィンスキー)、「恋は魔術師」(ファリャ)アメリカ初演
1931年歌劇「ヴォツェック」(ベルク)アメリカ初演
1932年「グレの歌」(シェーンベルク)、左手のためのピアノ協奏曲(ラヴェル)アメリカ初演
1934年「パガニーニの主題による狂詩曲」(ラフマニノフ)世界初演
1937年交響曲第3番(ラフマニノフ)世界初演
1940年交響曲第6番(ショスタコーヴィチ)アメリカ初演、ヴァイオリン協奏曲(シェーンベルク)世界初演
1947年「メタモルフォーゼン」(リヒャルト・シュトラウス)アメリカ初演
1965年交響曲第4番(アイヴズ)世界初演
++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー:Leopold Stokowski
は。
演奏スタイル
ストコフスキーは。

16世紀のルネサンス音楽から
前述の20世紀音楽に到る極めて
幅広いレパートリーを手中に収めており。
どんな曲でも常に新鮮で刺激のある演奏を致しました。

彼はオーケストラを操る達人でありました。
指揮棒を使わずに指揮を行い
(指揮棒を使わない理由については「1本の棒より、
10本の指の方が。
遥かに優れた音色を引き出せる」と語っています)。

表情豊かな音楽を引き出しました。
楽曲をより分かり易く効果的に響かせるために
楽曲の改変をも辞さず批評家をしばしば敵に回しました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー:Leopold Stokowski
の。
その生命力あふれる独創的な解釈と、
「ストコフスキー・サウンド
(日本では「ストコ節」とも)」
と呼ばれた華麗な音色で、聴衆の圧倒的な人気を得ました。

「音の魔術師」の異名はこの独特の演奏手法に由来致しました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー:Leopold Stokowski
は。

大方の指揮者が老境に入ると演奏する曲を絞るのに対して。
90歳以降もそれまでに。
取り上げたことのない無名な現代音楽を演奏するなど。
最晩年まで新たなレパートリー拡大に積極的でした。

その衰えることの無い音楽への情熱に対する畏怖と尊敬から、
しばしば「永遠の音楽青年」という呼称が用いられました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー
:Leopold Stokowski
は。

また、よりよい音響を求めて舞台上における
オーケストラの配置も研究致しました。

それまで多く採用されていた第1ヴァイオリンと
第2ヴァイオリンを左右両翼に分けた配置を。
現在のようにまとめて配置する形を生み出したのは
ストコフスキーです。

彼自身は、その後弦楽器群と管楽器群を
左右に分ける配置を多く使うようになりました
(映像やライヴ録音で確かめることができます)。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー:Leopold Stokowski
は。

この他、拍手に対しても非常にこだわりがありました。
現在では常識となっている
「楽曲間の拍手は控える」ということを、
最も積極的に徹底させたのも彼です。
1920年代の演奏会でチャイコフスキーの
交響曲第4番の第3楽章が終了した後、
会場から拍手が出た際。

聴衆に向かって
「そのような行為は前時代的なもので、
古い慣習のように思います」と言い。

拍手はすべて演奏が終了してから行なって
欲しいと促しています。

特にフィラデルフィア時代は拍手自体に対して
かなり懐疑的あり。

29年には
「今後自分の演奏会では拍手は行なわないで欲しい」
とまで発言しています。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー:Leopold Stokowski
は。

その際に出
た「では、我々は楽しんだことをどのようにして
演奏家達に伝えれば良いのでしょう」という意見に対して

「美しい絵画の前では拍手は起こりません。
彫刻の前でも好感を抱いたとしても、喝采は起こりません」
と答えています。

結局はフィラデルフィアの会員の大多数が反対し、
すべての楽章が終了した後の拍手は、
しても構わないということで決着しています。

また、イングリッシュホルンやホルン等の
ソロパートに強烈なビブラートを掛けさせることでも有名で、
この点も好き嫌いを分ける要因でした。

オルガン曲、ピアノ曲などのオーケストラ編曲にも
すぐれた手腕を見せました。

++++++++++++++++++++++

レオポルド・ストコフスキー:Leopold Stokowski
は。
特に「トッカータとフーガ ニ短調」など
J.S.バッハの作品を編曲したものは有名で、
今日でも演奏されています。

「トッカータとフーガ ニ短調」は当初、
オーケストラの練習用に編曲されたが、
殊のほか好評だったので演奏会にかけてみたところ
評判をとりました。

批評家らは彼の編曲によるバッハの作品
を「バッコフスキー(バッハ+ストコフスキー)作曲」
と揶揄したが、聴衆の支持もあって彼の編曲による
バッハの作品は数多くレパートリーに加えられるようになりました。

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レオポルド・ストコフスキー:Leopold Stokowski
は。

彼は1962年、自身の編曲によるバッハの作品に関してこう述べています。

「彼が私の編曲をどう思うか。それは私の死後の運命が
どうなるか分からないけど、とにかく行った先で
彼に会ってみないことには何とも言えない。」

ムソルグスキーの「展覧会の絵」の編曲も手がけています。
最も有名なラヴェル版では
冒頭の「プロムナード」の
メロディをトランペットが演奏するのに対して、
ストコフスキー版では弦楽器が演奏するようになっています。
この様な独特の解釈により、
ラヴェル版に勝るとも劣らない魅力的な編曲に仕上がっています。

1917年から1977年まで、
およそ60年のも及ぶストコフスキーの数多い録音歴。
以下の演奏は個性的な名演奏として名高いものです。
音楽の「職人」マエストロです。

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レオポルド・ストコフスキー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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レオポルド・ストコフスキー:Leopold Stokowski, 1882年4月18日 - 1977年9月13日)は20世紀における最も個性的な指揮者の一人である。イギリスのロンドンに生まれ、主にアメリカで活動した。

目次
1 生涯
2 幅広い音楽活動
3 演奏スタイル
4 録音
5 映画
6 ストコフスキーと日本
7 脚注
8 参考文献
9 外部リンク

生涯
彼は教会のオルガニストとしてスタートしたが、1909年5月12日にパリで指揮者としてデビュー、その6日後にはロンドンでもデビュー。シンシナティ交響楽団の常任指揮者を経て、1912年にフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者に就任、以来1940年にいたるまでその地位を守った。彼はフィラデルフィア管弦楽団を世界一流のアンサンブルに育てた。しかし、任期の最後の方では楽団サイドとはうまく行かず(楽員レベルとは最後までうまく行っていたようである)、ユージン・オーマンディと共同監督という形が取られた。彼はこれに不満があったのか、フィラデルフィア管弦楽団とのコンサートは、辞任後の1941年に戦前最後のコンサート(バッハのマタイ受難曲)をした後1960年まで途絶えることとなった。

その後は全米青年管弦楽団(1940年〜1941年)、ニューヨークシティ管弦楽団(1944年〜)やアメリカ交響楽団(1962年〜)といったオーケストラを創設、また、NBC交響楽団(1941年〜1944年)、ヒューストン交響楽団(1955年〜1960年)の指揮者を歴任した。その一方で、戦後はヨーロッパ諸国など世界各地への客演も活発におこなった。1961年には生涯で唯一オペラハウスで指揮をし(メトロポリタン歌劇場にて、プッチーニの「トゥーランドット」)、1965年には日本フィルハーモニー交響楽団と読売日本交響楽団を指揮するために来日している(後述)。最晩年の1973年にアメリカ交響楽団を秋山和慶に譲って故郷イギリスに帰り、生涯現役(ただし公開の演奏会に出演したのは1975年が最後)を貫いて精力的に音楽活動を続けた。1976年、94歳の時にはCBSコロンビアと6年契約(契約満了時に100歳を迎える計算となる)を結んだが、1977年9月13日正午前にハンプシャー州ネザーウォロップの自宅で心臓発作により95歳で没した。19日からラフマニノフの交響曲第2番をレコーディングする予定であり、数年後にはベートーヴェンの「田園」をデジタルレコーディングする予定だったという。

幅広い音楽活動
彼はメディアへの関心が深く、早い時期からレコーディングに積極的であった。まだアコースティック録音の時代であった1917年以来、膨大な数の録音を行った。最初の録音はブラームスのハンガリー舞曲第5番と第6番であった。1925年に初めてオーケストラの電気録音を行い、1932年には当時の米ベル研究所により、これも世界初となるステレオ録音を行った[1]。

また、「オーケストラの少女」や、ディズニーの画期的な音楽アニメーション「ファンタジア」など、映画にも出演し、クラシック音楽の大衆への普及に努めた。「ファンタジア」により1941年の第14回アカデミー賞の特別賞をウォルト・ディズニーとともに授けられた(当時のアカデミー賞には、アニメに対する賞は設けられていなかった)。

一方で、彼は様々の困難を乗り越えて(保守的なオーケストラの理事会との対立、経済的な困難に対しては私財をなげうつこともあった。後者に関しては、1962年のアメリカ交響楽団の創設につながってゆく)、しばしば難解なものであった同時代の音楽の擁護にも力を注いだ。アメリカの聴衆にマーラー、ベルク、シベリウス、ストラヴィンスキーやショスタコーヴィチらの作品を紹介、また、ラフマニノフ、シェーンベルク、ヴァーレーズ、アイヴズなどの作品を世に送り出した。彼が世界初演、あるいはアメリカ初演したうちの代表的なものは以下の通りである。

1916年交響曲第8番「千人の交響曲」(マーラー)、「アルプス交響曲」(リヒャルト・シュトラウス)アメリカ初演(彼は前者の世界初演を聞いている)
1922年「春の祭典」(ストラヴィンスキー)、「恋は魔術師」(ファリャ)アメリカ初演
1931年歌劇「ヴォツェック」(ベルク)アメリカ初演
1932年「グレの歌」(シェーンベルク)、左手のためのピアノ協奏曲(ラヴェル)アメリカ初演
1934年「パガニーニの主題による狂詩曲」(ラフマニノフ)世界初演
1937年交響曲第3番(ラフマニノフ)世界初演
1940年交響曲第6番(ショスタコーヴィチ)アメリカ初演、ヴァイオリン協奏曲(シェーンベルク)世界初演
1947年「メタモルフォーゼン」(リヒャルト・シュトラウス)アメリカ初演
1965年交響曲第4番(アイヴズ)世界初演

演奏スタイル
ストコフスキーは、16世紀のルネサンス音楽から前述の20世紀音楽に到る極めて幅広いレパートリーを手中に収めており、どんな曲でも常に新鮮で刺激のある演奏をした。彼はオーケストラを操る達人であり、指揮棒を使わずに指揮を行い(指揮棒を使わない理由については「1本の棒より、10本の指の方が遥かに優れた音色を引き出せる」と語っている)、表情豊かな音楽を引き出した。楽曲をより分かり易く、効果的に響かせるために楽曲の改変をも辞さず、批評家をしばしば敵に回したが、その生命力あふれる独創的な解釈と、「ストコフスキー・サウンド(日本では「ストコ節」とも)」と呼ばれた華麗な音色で、聴衆の圧倒的な人気を得た。「音の魔術師」の異名はこの独特の演奏手法に由来する。

大方の指揮者が老境に入ると演奏する曲を絞るのに対して、90歳以降もそれまでに取り上げたことのない無名な現代音楽を演奏するなど、最晩年まで新たなレパートリー拡大に積極的であった。その衰えることの無い音楽への情熱に対する畏怖と尊敬から、しばしば「永遠の音楽青年」という呼称が用いられる。

また、よりよい音響を求めて舞台上におけるオーケストラの配置も研究し、それまで多く採用されていた第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを左右両翼に分けた配置を、現在のようにまとめて配置する形を生み出したのはストコフスキーである。彼自身は、その後弦楽器群と管楽器群を左右に分ける配置を多く使うようになった(映像やライヴ録音で確かめることができる)。

この他、拍手に対しても非常にこだわりがあり、現在では常識となっている楽曲間の拍手は控えるということを、最も積極的に徹底させたのも彼である。1920年代の演奏会でチャイコフスキーの交響曲第4番の第3楽章が終了した後、会場から拍手が出た際、聴衆に向かって「そのような行為は前時代的なもので、古い慣習のように思います」と言い、拍手はすべて演奏が終了してから行なって欲しいと促している。 特にフィラデルフィア時代は拍手自体に対してかなり懐疑的あり、29年には「今後自分の演奏会では拍手は行なわないで欲しい」とまで発言している。その際に出た「では、我々は楽しんだことをどのようにして演奏家達に伝えれば良いのでしょう」という意見に対して

「美しい絵画の前では拍手は起こりません。彫刻の前でも好感を抱いたとしても、喝采は起こりません」
と、答えている。結局はフィラデルフィアの会員の大多数が反対し、すべての楽章が終了した後の拍手は、しても構わないということで決着している。

また、イングリッシュホルンやホルン等のソロパートに強烈なビブラートを掛けさせることでも有名で、この点も好き嫌いを分ける要因である。

オルガン曲、ピアノ曲などのオーケストラ編曲にもすぐれた手腕を見せ、特に「トッカータとフーガ ニ短調」などJ.S.バッハの作品を編曲したものは有名で、今日でも演奏されている。「トッカータとフーガ ニ短調」は当初、オーケストラの練習用に編曲されたが、殊のほか好評だったので演奏会にかけてみたところ評判をとった。批評家らは彼の編曲によるバッハの作品を「バッコフスキー(バッハ+ストコフスキー)作曲」と揶揄したが、聴衆の支持もあって彼の編曲によるバッハの作品は数多くレパートリーに加えられるようになった。彼は1962年、自身の編曲によるバッハの作品に関してこう述べている。

「彼が私の編曲をどう思うか。それは私の死後の運命がどうなるか分からないけど、とにかく行った先で彼に会ってみないことには何とも言えない。」
ムソルグスキーの「展覧会の絵」の編曲も手がけている。最も有名なラヴェル版では冒頭の「プロムナード」のメロディをトランペットが演奏するのに対して、ストコフスキー版では弦楽器が演奏するようになっている。この様な独特の解釈により、ラヴェル版に勝るとも劣らない魅力的な編曲に仕上がっている。

録音
1917年から1977年まで、およそ60年のも及ぶストコフスキーの数多い録音歴。以下の演奏は個性的な名演奏として名高い。

戦前期(フィラデルフィア管弦楽団、NBC交響楽団、全米青年交響楽団)
リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」
バッハ-ストコフスキー:「トッカータとフーガ」「パッサカリアとフーガ」「神はわがやぐら」
ビゼー「カルメン」組曲
シェーンベルク:「グレの歌」(ライヴ録音)
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番(Pf:ラフマニノフ)
ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」交響的合成
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番
ブラームスの交響曲全集を初めて作ったのはストコフスキーである。1927年から1931年にかけて作られた。また、SP盤のサイズでLPレコードなみの録音時間を実現した長時間レコードへの録音にも積極的だったが、世界恐慌のあおりでレコードそのものの生産が中止になってしまった。ライヴ録音も戦後期ほど多くないが、前述「グレの歌」初演ライヴやNBC響とのものを中心に残している。

戦後期(ロンドン交響楽団、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、アメリカ交響楽団etc)
チャイコフスキー:交響曲第5番
リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」
ドヴォルジャーク:交響曲第9番「新世界」
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(Pf:グレン・グールド)
マーラー:交響曲第2番「復活」
ジョゼフ・カントルーブ:「オーヴェルニュの歌」より(Sp:アンナ・モッフォ)
最後の録音はビゼーの交響曲とメンデルスゾーンの「イタリア」であった。BBCなどから多数のライヴ録音もリリースされている。

映画
先に記した「ファンタジア」以外でも何本かの映画に出演している

「1937年の大放送」(1937年)
ラジオのコマーシャル放送をめぐる恋愛騒動を描いた作品。ストコフスキーはベニー・グッドマンやマーサ・レイ(後年、チャーリー・チャップリンの「殺人狂時代」に出演)らとともに、話の本筋とは少し離れた部分で出演。
「オーケストラの少女」"A hundred Men and a Girl"(1937年)
失業中のトロンボーン奏者(アドルフ・マンジュー)を父に持つ娘(ディアナ・ダービン)が、ストコフスキーに失業楽士を集めたオーケストラの指揮を頼む・・・という作品。ストコフスキーは劇中でモーツァルトの「アレルヤ」、ワーグナーの「ローエングリン」前奏曲、チャイコフスキーの交響曲第5番、ベルリオーズの「ラコッツィ行進曲」、ヴェルディの「椿姫」、リストの「ハンガリー狂詩曲」を演奏し、台詞もある。
「カーネギー・ホール」(1947年)
カーネギー・ホールが主役であり、そこへの出演を夢見る少年とその母が本来の主役であるが、出演する名演奏家の顔ぶれが豪華すぎて、そちらが実質主役のようになっている。ストコフスキーは劇中でチャイコフスキーの交響曲第5番第2楽章を指揮。他にブルーノ・ワルター、フリッツ・ライナー&ヤッシャ・ハイフェッツなどが出演。
また、いくつかのアニメ映画にいくらか茶化されたキャラクターで登場している(ちなみに「ファンタジア」では、アニメでなく本人がシルエットで出演)。

ストコフスキーと日本
戦前の日本においては、一部識者を除くとストコフスキーは人気指揮者の一人であった。当時日本で発売されていたストコフスキーのレコードが、「カルメン」など日本で通俗的な存在の曲目が多く、演奏家より曲目でレコードを買う傾向が強かったとされる戦前のレコード愛好家にとってはストコフスキーのレコードは「外れが少ない」レコードであった。また、近衛秀麿とも親しかった。
そのストコフスキーが日本の地を踏んだのは1965年7月のことであった。日本フィルハーモニー交響楽団と、当時日フィルを支援していたフジテレビ系の外郭団体が招聘元であり、東京文化会館と日本武道館でコンサートを開いた。

1965年7月8日の公演(東京文化会館)
バッハ:パッサカリアとフーガ、ハ短調
アイヴズ:「答えのない質問」
柴田南雄:「シンフォニア」
チャイコフスキー:交響曲第4番
1965年7月13日の公演(日本武道館)
バッハ:トッカータとフーガニ短調(ストコフスキー編)
ベートーヴェン:交響曲第5番
ヘンリー・カウエル:琴と管弦楽のための協奏曲
ストラヴィンスキー:「ペトルーシュカ」
スーザ:「星条旗よ永遠なれ」(アンコール)
この公演では、ストコフスキーは弦楽器群のチェロとコントラバスと管楽器群の位置を変えるなど、独特の楽器配置を行ったりした。また、「星条旗よ永遠なれ」の演奏では、警視庁音楽隊や在京各学校の鼓笛隊などから人員を集め、ピッコロ26、トランペット10、トロンボーン12を以って金管部分を大補強した。
一方で、武道館の公演では正力松太郎の横槍でなかなか公演許可が下りない(「武道館で軟弱な西洋音楽とはもっての外」と、ビートルズの有名な一件より前に同じようなことがあった。ストコフスキーは武道館で演奏会を開いた最初の外国人音楽家となった)など苦労もあったが、一番大きな事件は読売日本交響楽団との二重契約騒動であった。これは、結果的には招聘元の外郭団体がストコフスキー招聘の成功直後に活動を停止してしまったことと、ストコフスキーがマネージャーを持たなかったことに原因があったのだが、契約条項に「フリーの日は日フィルは干渉できない」云々という一文があったため、日フィル側は「見て見ぬふり」で読響との公演を黙認したが、結果的に認められたのは7月10日の読響公演の内ベートーヴェンの交響曲第7番の指揮のみであり(他の曲は飯守泰次郎の指揮)、他に企画されていた公演は契約条項や滞在許可の兼ね合いもあり中止となった。

脚注
^ 「ラジオ技術」1981年8、10月号に詳細が記されている。

参考文献
ポール・ロビンソン 横山一雄訳『音の魔術師 ストコフスキー』音楽之友社、1978年
John Hunt "Leopold Stokowski Discography・Concert register"
草刈津三『私のオーケストラ史〜回想と証言〜』デュオ・ジャパン、2005年
「ラジオ技術」1981年8、10月号 ラジオ技術社

外部リンク
The Leopold Stokowski Site(英語)
先代:
カール・ポーリヒ フィラデルフィア管弦楽団
首席指揮者・音楽監督
1912 - 1940 次代:
ユージン・オーマンディ
先代:
ブルーノ・ワルター
(音楽顧問) ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団
音楽顧問
1949 - 1950 次代:
ディミトリ・ミトロプーロス

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4月18日
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できごと
1906年 - アメリカ西海岸地区を中心とした大規模なサンフランシスコ地震が発生。

1923年 - ヤンキー・スタジアム開場。

1925年 - 国際アマチュア無線連合、パリで結成。

1927年 - 蒋介石を中心として南京国民政府が樹立され、
中国共産党が排除される(国共分裂)。

1942年 - 東京・名古屋・四日市・神戸にB-25爆撃機16機が初来襲(ドーリットル空襲)。

1942年 - ピエール・ラヴァルがヴィシー政権の首相に就任。

1943年 - 海軍甲事件。

1946年 - 国際司法裁判所が開所。

1946年 - 国際連盟解散。

1949年 - アイルランドがイギリス連邦を離脱、共和制に移行。

1954年 - ガマール・アブドゥン=ナーセルがエジプトの実権を掌握。

1955年 - 第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)開催。

1956年 - アメリカの映画俳優グレース・ケリーがモナコ大公レーニエ3世と結婚。

1968年 - 霞が関ビルディング開場。

1972年 - 電子楽器メーカーローランド設立。

1980年 - ジンバブエがイギリスより独立。

1983年 - ベイルートのアメリカ大使館に自爆テロ、63名の死者。

1984年 - 報徳会宇都宮病院患者リンチ事件。
看護婦が精神病患者にリンチを加え死なす、院長が患者の生活保護費を流用。

1987年 - 大阪市営地下鉄御堂筋線・我孫子駅〜中百舌鳥駅間が開業し、全通。

2002年 - 新東京国際空港(現成田国際空港)において暫定平行滑走路の供用開始。

誕生日
1797年 - アドルフ・ティエール、政治家・歴史家(+ 1877年)

1798年 - 中山みき、天理教教祖

1799年 - ジョン・ヤング・メイソン、アメリカ合衆国司法長官(+ 1859年)

1819年 - フランツ・スッペ、作曲家(+ 1895年)

1838年 - ポール・ボアボードラン、化学者(+ 1912年)

1882年 - 五島慶太、実業家・政治家(+ 1959年)

1882年 - レオポルド・ストコフスキー、指揮者(+ 1977年)

1888年 - 4代目柳家小さん、落語家(+ 1947年)

1888年 - ダフィー・ルイス、メジャーリーガー(+ 1979年)

1903年 - 三岸好太郎、画家(+ 1934年)

1907年 - ラース・ヴァレリアン・アールフォルス、数学者(+ 1996年)

1917年 - 島尾敏雄、小説家(+ 1986年)

1918年 - 橋本忍、脚本家

1918年 - 神島二郎、政治学者(+ 1998年)

1920年 - エーリヒ・パウージン、フィギュアスケート選手

1927年 - サミュエル・P・ハンティントン、政治学者

1928年 - 佐藤幹夫、数学者

1932年 - 川合伸旺、俳優(+ 2006年)

1935年 - 蓬茨霊運、天文学者(+ 1999年)

1937年 - 青木宥明、プロ野球選手(+ 2001年)

1940年 - ウラジーミル・ワシーリエフ、バレエダンサー・振付家

1942年 - ヨッヘン・リント、レーシング・ドライバー(+ 1970年)

1942年 - 橋野昭南、プロ野球選手

1943年 - 上杉邦憲、宇宙工学者・米沢藩上杉氏第17代目当主

1943年 - 鬼頭洋、プロ野球選手
1944年 - 溜池敏隆、プロ野球選手
1945年 - 大塚徹、プロ野球選手
1949年 - 鈴木康二朗、プロ野球選手
1949年 - つボイノリオ、歌手・タレント
1950年 - 真夏竜、俳優
1951年 - 松永二三男、アナウンサー
1952年 - 笹本信二、プロ野球選手
1953年 - 岸田敏志、シンガーソングライター
1955年 - 河埜敬幸、プロ野球選手
1955年 - ボビー・カスティーヨ、プロ野球選手
1956年 - 巨砲丈士、大相撲力士
1956年 - 宅麻伸、俳優
1957年 - ジーニー、13歳まで部屋に監禁されていた少女
1958年 - 小宮悦子、アナウンサー
1959年 - 伊豆田洋之、ミュージシャン
1961年 - 松野行秀(ゴージャス松野)、タレント・プロレスラー・AV男優
1964年 - 長原成樹、タレント
1965年 - 高橋功一、プロ野球選手
1967年 - 松山秀明、プロ野球選手
1968年 - 小野文恵、NHKアナウンサー
1968年 - 久永るみ、声優
1968年 - 黒崎めぐみ、NHKアナウンサー
1969年 - 黒田清子、旧皇族(旧名・紀宮清子)
1970年 - 佐伯貴弘、プロ野球選手
1970年 - 朝岡実嶺、女優
1970年 - 高嶋徹、プロ野球選手
1973年 - ハイレ・ゲブレセラシェ、陸上選手
1973年 - 北川哲也、プロ野球選手
1974年 - 伊藤裕子、女優
1974年 - 堀田一郎、プロ野球選手
1975年 - 斉藤秀光、野球選手
1975年 - 天達武史、気象予報士
1976年 - Fayray、歌手
1976年 - 内田謙一郎、サッカー選手
1978年 - 都築龍太、サッカー選手
1979年 - アンソニー・デビッドソン、レーシングドライバー
1979年 - 上地雄輔、俳優
1979年 - コートニー・カーダシアン、ソーシャライト、タレント
1980年 - 石堂克利、プロ野球選手
1981年 - 星村麻衣、シンガーソングライター
1981年 - 吉川めぐみ、女優・モデル
1981年 - 中本和希、プロ野球選手
1983年 - 富永旭、プロ野球選手
1983年 - ミゲル・カブレラ、メジャーリーガー
1985年 - 水落暢明、プロ野球選手
1986年 - 岩本貴裕、プロ野球選手
1986年 - 小倉大輔、ミュージシャン(色糸ステラ)
1987年 - 加藤幸宏、ジャニーズJr.、M.A.D.のメンバー
1987年 - さとう里香、グラビアアイドル・タレント
1987年 - 阿部一樹、サッカー選手
1988年 - 土井誠、元ジャニーズJr.
1988年 - 土井龍二、元ジャニーズJr.
1988年 - 頓所大輔、野球選手
1989年 - 熊代聖人、野球選手
1989年 - 丹羽将弥、プロ野球選手
1989年 - 水谷太洋、フィギアスケートアイスダンス選手
2001年 - くぅ?ちゃん、ペットモデル、ペットタレント
生年不詳 - 嶋村侑、声優

忌日
879年(元慶3年3月23日)- 正子内親王、淳和天皇の皇后(* 810年)

943年(天慶6年3月7日)- 藤原敦忠、平安時代の公卿・歌人(* 906年)

1802年 - エラズマス・ダーウィン、医師・自然哲学者(* 1731年)

1853年 - ウィリアム・R・キング、第13代アメリカ合衆国副大統領(* 1786年)

1873年 - ユストゥス・フォン・リービッヒ、化学者(* 1803年)

1882年 - ヴィルヘルム・ファトケ、神学者(* 1806年)

1883年 - エドゥアール・ロシュ、天文学者(* 1820年)

1898年 - ギュスターヴ・モロー、画家(* 1826年)

1919年 - 上杉茂憲、第13代米沢藩主(* 1844年)

1928年 - 宮崎道三郎、法学者(* 1855年)

1936年 - オットリーノ・レスピーギ、作曲家(* 1879年)

1940年 - カタリーナ・シュラット、
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の愛人(* 1853年)

1940年 - キッド・マッコイ、プロボクサー(* 1870年)

1942年 - ガートルード・ヴァンダービルト・ホイットニー、彫刻家(* 1875年)

1943年 - 山本五十六、日本海軍の軍人・連合艦隊司令長官(* 1884年)

1945年 - アーニー・パイル、アメリカ軍の従軍記者(* 1900年)

1945年 - ジョン・フレミング、
フレミングの法則発見者として有名な物理学者(* 1849年)

1945年 - ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィート、アルバニア公(* 1876年)

1947年 - ヨゼフ・ティソ、第二次世界大戦期のスロバキアの指導者(* 1887年)

1949年 - レナード・ブルームフィールド、言語学者(* 1887年)

1951年 - アントニオ・オスカル・カルモナ、ポルトガルの大統領(* 1869年)

1955年 - アルベルト・アインシュタイン、物理学者(* 1879年)

1955年 - オイゲン・ヘリゲル、哲学者(* 1884年)

1962年 - 佐藤武夫、プロ野球選手(* 1916年)

1963年 - 夏目鏡子、夏目漱石の妻(* 1877年)

1964年 - 朝倉文夫、彫刻家(* 1883年)

1970年 - 牧野英一、法学者(* 1878年)

1970年 - ミハウ・カレツキ、経済学者(* 1899年)

1973年 - アルフレッド・ジョイ、天文学者(* 1882年)

1974年 - マルセル・パニョル、作家(* 1895年)

1981年 - 横森久、俳優・声優(* 1928年)

1982年 - 大栗裕、作曲家(* 1918年)

1983年 - 八木治郎、フリーアナウンサー・NHK出身(* 1925年)

1993年 - 木村政彦、柔道家(* 1917年)

2002年 - トール・ヘイエルダール、人類学者・探検家(* 1914年)

2003年 - エドガー・F・コッド、計算機科学者(* 1923年)

2004年 - 野坂浩賢、日本の内閣官房長官(* 1924年)

2007年 - 伊藤一長、政治家、長崎県長崎市長(* 1945年)

2007年 - 小野兼弘、宗教家、釈尊会会長(* 1953年)

2008年 - 吉野裕子、民俗学者(* 1916年)

2008年 - 麻生美由樹、グラビアアイドル・AV女優(* 1987年)

記念日・年中行事
発明の日
1885年のこの日に現在の「特許法」の元となる
「専売特許条例」が公布されたことに由来し、発明協会が1954年に制定。

独立記念日(ジンバブエ)
1980年4月18日にイギリスから独立。

世界アマチュア無線の日
1925年4月18日、パリ大学で国際アマチュア無線連合結成総会が行なわれた事を記念し、
連合が1973年に制定。
お香の日
595年4月に香木が日本に漂着したという最初の記録が日本書紀にあることから、この4月と「香」を分解した「一十八日」にかけて、1992年4月4日に全国薫物線香組合協議会が制定。
よい歯の日
「よ(4)い(1)は(8)」の語呂合わせで日本歯科医師会が1993年に制定。他に11月8日が「いい歯の日」となっている。