東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年5月8日(金曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年5月8日(金曜日)

「春」=「5月」

になりました。

「春」。

今は「春」たけなわです。

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3.500円

2回法=7.000円

です。

「春」「5月」です。

昨年。
「秋」になり「9月」がおわり。
「10月」もおわり。
秋の最後の
「11月」「晩秋月」もおわり。
そして「12月」になり「冬」になった。
「12月」もほとんどが過ぎたかな
とおもったら。
12月31日になり。

あっというまに。
「年があらたまりました」。
「初春」をすぎて。

そして今「5月」です。

「初春」の「3月」「4月」を

乗り越えて。

「春」「5月」です。

あまりにも
月日と。
時間と。そして年月のたつ。

その速さに。
恐怖さえをも感じます。

大気は「春」。

「春かぜ」は。

「春吹雪:はるふぶき」。

天に「春」の。

「春の花」の「はな」。

地に「春」の。

「春の花」の「はなびら」。

「春の花」の

「花」。

「春」のこの時期には。
樹木の「落ち葉」はおちきり。

「落ち葉」は「ぴたり」ととまります。
落葉ぎりぎりまで。

「春」の「みのり」にそなえて。
しっかりと。

「春」の
太陽の陽射しをえるためであるのしょう。

「春」には。

「春の花」の花びらが

「春の花」の「花」が。

花も見ぬうちに。

暗い寒い夜中のあいだに。

「春吹雪:はるふぶき」に。

弓を射られて。

朝暗いうちにも。

地に落下しています。

木々は

「晩冬」の

「冬木」としてのたたずまいから。

まさしく。

あかるい「春」のたたずまいに。

なりました。

「春の花」に。

「春吹雪:はるふぶき」。

また

「春」の気配は。

はっきりと。

「まちかど」の葉木にも感じられます。

「春吹雪:はるふぶき」は。

「どのようなの風」に。

変化していくのでしょうか。

「5月」の。

「春の花」の

若花のつぼみが。

「春の花」の

若花のはなびらが。

たわわにみえます。

「春の花」のつぼみは。

いつでも咲きそうな。

つぼみばかりです。

紅いどんぐりのような。

つぼみです。

昨年の「晩秋」
「金木犀:きんもくせい」の残り香は
とおくから。
「とぼとぼ」と歩いてくるように。
ほのかに漂い。
また「とぼとぼ」と歩き去っていった
ようにいなくなりました。

「初春」の。
「春の花」の花びらは。
「やぶつばき」の花びらは。
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに蕾膨らみ
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに花咲き
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに花びらが舞う。

「春」「あけぼの」の。

空の色は。

まさしくも

「春」の「空色」

になってきました。

ミルクのはいった

コバルトのような

空色です。

冬至はおわりましたから。

もうすでに。

しだいに。

次第に陽ののぼるのは。

はやくなり。

陽がくれるのは。

おそくなっています。

今は「春」。

「5月」です。

「立夏」。

「初春」の。

「3月」「4月」が去りゆき。

今はみのりの「春」「5月」です。

あさの04:00AMころは。
くらくあおく
しだいに
そらがラピズラズリから
トルコ石にうつろうように。
そらがしらんできます。

「初春」の季節の気配からは。

まぢかいけれども。
さらに「なにかが深まりゆく」。
そして「春」の訪れから。

さらにさらに。
深い「春」に向かい。
そしてさらに。
深い「春」の向こう側に。
さらなる「春」の気配の。
あることが。
良くわかります。

川端康成の。

「雪国」の。

トンネルの中から。

「向こう側」は「雪国」。

そして

「雪国」をすぎれば。

そこは「春の国」。

今は「春」です。

春池面(いけも)の水面(みずも)
春おさなき小さなわかみどり
春なもしらぬ
春小さな緑の浮き草
春若草うきつあつまりて
春つらなり水面(みずも)
春水面(みずも)をおおいたり
春水面(みずおも)にて
春風にきそいてさまよえり
春ちひさきわらべのごとし
春池面の水面(みずおも)の。
春小さきちひさなわかみどり

春いざいまこそは
春よき季節にあらむ
春水面(みずも)なるそら
春ふと空をみる

春早朝(はやあさ)に
春けふもはだのさむけれど
春ぬくもりのあさ
春陽のありがたき
春われあゆむがごと
春陽はあたかくなりけり
春葉木は冬木にかわりたり
春みちをあかるくてらさむ
春がいだく木
春はぐくむ木
春みどり木あおし
春実りの木紅し(あかし)
春来(きた)るらむ

道端の冬野草の花もかわいらしい。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

たわわなり
みかんのわか実
みかんの「春」の実

蜜柑のいらかをかぜはやみ
はるかぜぜひるむや
春吹雪:はるふぶき
みかん実つきひ
はやいくとせ

春地にも木にも

春みどり葉ひらき

春みどり木ときわ木

春ひろがりて

春いふことのなし

春いふことがなし

春いふことはなし

春ゆたかなりけり春

今年の早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は寒いです。
「毎朝寒い」。
寒いと首都高の自動車も
「寒そうな運転の車」が多いです。

それでも「「春」はきぬ」。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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++++++++++++++++++++++

平成21年1月12日日(月曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年2月11日(水曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年3月20日(金曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年4月29日(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3.500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。

梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼に青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

感謝・感謝です。

「今日は何の日」は。

ナポリ王国のカリスマの
ギタリスト・作曲家。
19世紀初頭におけるクラシック・ギターの
ヴィルトゥオーゾの一人と看做されている
ギタリスト。
19世紀初頭のウィーンで活躍した演奏家や作曲家の
中でも。
最高の一人に数えられたギタリスト。

1829年 - マウロ・ジュリアーニ、ギタリスト・作曲家(* 1781年)
の没日です。

++++++++++++++++++++++

マウロ・ジュゼッペ・セルジオ・パンタレーオ・ジュリアーニ
:Mauro Giuseppe Sergio Pantaleo Giuliani,
1781年7月27日 ? 1829年5月8日)は。
ナポリ王国のギタリスト・作曲家です。

19世紀初頭におけるクラシック・ギターの
ヴィルトゥオーゾの一人と看做されています。

++++++++++++++++++++++

マウロ・ジュゼッペ・セルジオ・パンタレーオ・ジュリアーニ
:Mauro Giuseppe Sergio Pantaleo は。
ビシェーリエに生まれました。

早くから兄ニコラとともにバルレッタに移り、
その地を学習の拠点としました。

初めはチェロの指導を受けました。
ギタリストになりましたが。
生涯にわたってこの楽器を完全に諦めたわけでは
ありません。

またおそらくヴァイオリンも学んでいたようです。

その後ギターに没頭するようになり。
わずかな期間で
非常に熟練したギター奏者に成長致しました。

ジュリアーニがついたギター教師については不明であり。
ジュリアーニのイタリア時代のギター活動についても
厳密に分かっているわけではありません。

++++++++++++++++++++++

マウロ・ジュゼッペ・セルジオ・パンタレーオ・ジュリアーニ
:Mauro Giuseppe Sergio Pantaleo は。
マリア・ジュゼッペ・デル・モナコと結婚し。

息子ミケーレ(1801年 バルレッタ - ?)を授かりました。
その後は一時期ボローニャやトリエステに滞在していたようです。

1806年の夏、チェロやギター、
対位法の学習を済ませると。

家族を残したままウィーンに出向きました。

++++++++++++++++++++++

マウロ・ジュゼッペ・セルジオ・パンタレーオ・ジュリアーニ
:Mauro Giuseppe Sergio Pantaleo は。

この地でヴィルムート嬢(Fraulein Willmuth)
とかいう女性と関係を結び、1807年には1女マリアを儲け
ました。

ウィーンでは、
古典派の器楽曲の様式に通じるようになりました。
1807年には古典派様式による自作の出版に取り掛かりました。

ヨーロッパ全土に演奏旅行に乗り出しました。
行く先々で。
その超絶技巧や音楽的な趣味が称賛されました。

大成功をおさめて音楽界の名士となりました。

19世紀初頭のウィーンで活躍した演奏家や作曲家のなかでも、
最高の一人に数えられました。

++++++++++++++++++++++

ジュリアーニは、西洋音楽の状況において。

ギターの新たな役割を洗練させた音楽家です。

オーストリア帝国の上流社会や、
ベートーヴェンやロッシーニのような著名な作曲家
にも知られるようになりました。

ウィーンで最も活動的な演奏家と共演した。

1815年にピアニストの
ヨハン・ネポムク・フンメル
(その後はイグナツ・モシェレス)、
ヴァイオリニストのヨーゼフ・マイゼーダー、
チェリストのメルクとともに、
シェーンブルン宮殿の植物園で。

(入場料が1ドゥカートだったことにちなんで
「ドゥカーテン・コンツェルト」と呼ばれた)

一連の室内楽の演奏会を行ないました。
ジュリアーニはこれに出演したことで、
ウィーンの音楽環境の中で名声を馳せました。

++++++++++++++++++++++

同じく1815年には、ウィーンの帝国議会の名士たちの
ための公式の演奏家となりました。
それ以前の1813年12月8日には、
ベートーヴェンの《交響曲 第7番》の初演にも
(おそらくチェリストとして)参加しています。

ウィーンでは。
作曲家としてはささやかながら成功致しました。

ジュリアーニはほとんど楽譜出版社アルタリアと提携して
いました。
同社がジュリアーニのギター曲の大部分を出版致しました。

その他の地域のあらゆる出版社と取り引きし、
自作をヨーロッパ各地に広めてもらいました。

また、ギター教師としても名声を得て、
ボブロヴィッチやホレツキーらの。
数々の門人を輩出致しました。

++++++++++++++++++++++

1819年に、主に経済的な理由から、
ウィーンを後にする
(財産や預貯金は、
債権者への返済のために差し押さえられていた)。

イタリアに戻ると、トリエステやヴェネツィアに過ごし、
ついにローマに落ち着きました。

ローマでは大して成功せず、
わずかな作品を出版し。
1度きりの演奏会を開いただけでした。

この間、1813年生まれの娘エミリアは、
1821年から1826年まで腹違いの姉妹マリアとともに。
ラドラツィオーネ・デル・ジェズー女子修道院で
教育を受けている。

++++++++++++++++++++++

1823年7月は、重病の父親を見舞いに、
度々ナポリを訪ねています。

両シチリア王国の都では、ジュリアーニの評価が好転
致しました。
地方の出版社によって
その他のギター曲を出版してもらうことができました。

1826年には、ポルティチにて
フランチェスコ1世とボルボーネ家の宮廷のために
御前演奏を披露致しました。

この頃がさしずめジュリアーニのナポリ時代であり、
同じく巧みなギター奏者に成長した娘エミリア
としばしば共演するようになりました。

1827年の末までに体を壊し、
1828年5月8日にナポリで生涯を閉じました。

ジュリアーニの訃報に、
ナポリの音楽界はほとんど動揺しなかったという
ことです。

++++++++++++++++++++++

作品
ジュリアーニは、ギター曲の作曲家として
変奏曲形式を非常に好みました。

変奏曲はウィーンで大変人気のあるジャンルでもありました。

ジュリアーニは、楽器の特性に逆らわずに、
旋律を音楽的な効果のあるパッセージに
織り上げていくことのできる能力が際立っていました。

このような能力の実例の一つが、
《ヘンデルの主題による変奏曲》作品107。

この主題は、ヘンデルの
《ハープシコード組曲 第5番 ホ長調》の
「アリアと変奏」から、
現在「調子の良い鍛冶屋」の俗称で知られるア
リア主題にほかならないのです。

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マウロ・ジュリアーニ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8B

マウロ・ジュゼッペ・セルジオ・パンタレーオ・ジュリアーニ:Mauro Giuseppe Sergio Pantaleo Giuliani, 1781年7月27日 ? 1829年5月8日)はナポリ王国のギタリスト・作曲家。19世紀初頭におけるクラシック・ギターのヴィルトゥオーゾの一人と看做されている。

目次
1 生涯
2 作品
3 主要作品一覧
3.1 協奏的作品
3.2 室内楽曲
3.3 ギター二重奏曲
3.4 ギター独奏曲
3.5 ギター伴奏歌曲
3.6 著作
4 参考資料
4.1 評伝
4.2 作品論
5 外部リンク

生涯
ビシェーリエに生まれるが、早くから兄ニコラとともにバルレッタに移り、その地を学習の拠点とした。初めはチェロの指導を受け、生涯にわたってこの楽器を完全に諦めたわけではなく、またおそらくヴァイオリンも学んでいたらしい。その後ギターに没頭するようになり、わずかな期間で非常に熟練したギター奏者に成長した。ジュリアーニがついた教師については不明であり、ジュリアーニのイタリア時代の活動についても厳密に分かっているわけではない。

マリア・ジュゼッペ・デル・モナコと結婚し、息子ミケーレ(1801年 バルレッタ - ?)を授かる。その後は一時期ボローニャやトリエステに滞在していたらしい。1806年の夏、チェロやギター、対位法の学習を済ませると、家族を残したままウィーンに出向く。この地でヴィルムート嬢(Fraulein Willmuth)とかいう女性と関係を結び、1807年には1女マリアを儲けた。

ウィーンでは、古典派の器楽曲の様式に通じるようになり、1807年には古典派様式による自作の出版に取り掛かる。ヨーロッパ全土に演奏旅行に乗り出し、行く先々で、その超絶技巧や音楽的な趣味が称賛された。大成功をおさめて音楽界の名士となり、19世紀初頭のウィーンで活躍した演奏家や作曲家のなかでも、最高の一人に数えられた。

ジュリアーニは、西洋音楽の状況において、ギターの新たな役割を洗練させた音楽家である。オーストリア帝国の上流社会や、ベートーヴェンやロッシーニのような著名な作曲家にも知られるようになり、ウィーンで最も活動的な演奏家と共演した。1815年にピアニストのヨハン・ネポムク・フンメル(その後はイグナツ・モシェレス)、ヴァイオリニストのヨーゼフ・マイゼーダー、チェリストのメルクとともに、シェーンブルン宮殿の植物園で(入場料が1ドゥカートだったことにちなんで「ドゥカーテン・コンツェルト」と呼ばれた)一連の室内楽の演奏会を行なった。ジュリアーニはこれに出演したことで、ウィーンの音楽環境の中で名声を馳せた。同じく1815年には、ウィーンの帝国議会の名士たちのための公式の演奏家となった。それ以前の1813年12月8日には、ベートーヴェンの《交響曲 第7番》の初演にも(おそらくチェリストとして)参加している。

ウィーンでは、作曲家としてはささやかながら成功した。ジュリアーニは、ほとんど楽譜出版社アルタリアと提携しており、同社がジュリアーニのギター曲の大部分を出版したのだが、その他の地域のあらゆる出版社と取り引きし、自作をヨーロッパ各地に広めてもらった。また、ギター教師としても名声を得て、ボブロヴィッチやホレツキーら、数々の門人を輩出した。

1819年に、主に経済的な理由から、ウィーンを後にする(財産や預貯金は、債権者への返済のために差し押さえられていた)。イタリアに戻ると、トリエステやヴェネツィアに過ごし、ついにローマに落ち着いた。ローマでは大して成功せず、わずかな作品を出版し、1度きりの演奏会を開いただけだった。この間、1813年生まれの娘エミリアは、1821年から1826年まで腹違いの姉妹マリアとともに、ラドラツィオーネ・デル・ジェズー女子修道院で教育を受けている。

1823年7月は、重病の父親を見舞いに、度々ナポリを訪ねている。両シチリア王国の都では、ジュリアーニの評価が好転し、地方の出版社によって、その他のギター曲を出版してもらうことができた。1826年には、ポルティチにてフランチェスコ1世とボルボーネ家の宮廷のために御前演奏を披露した。この頃がさしずめジュリアーニのナポリ時代であり、同じく巧みなギター奏者に成長した娘エミリアとしばしば共演するようになった。1827年の末までに体を壊し、1828年5月8日にナポリで生涯を閉じた。ジュリアーニの訃報に、ナポリの音楽界はほとんど動揺しなかったという。

作品
ジュリアーニは、ギター曲の作曲家として変奏曲形式を非常に好んだ。変奏曲はウィーンで大変人気のあるジャンルでもあった。ジュリアーニは、楽器の特性に逆らわずに、旋律を音楽的な効果のあるパッセージに織り上げていくことのできる能力が際立っていた。このような能力の実例の一つが、《ヘンデルの主題による変奏曲》作品107である。この主題は、ヘンデルの《ハープシコード組曲 第5番 ホ長調》の「アリアと変奏」から、現在「調子の良い鍛冶屋」の俗称で知られるアリア主題にほかならない。

ジュリアーニの作曲家としての業績は数多い。作品番号にして150曲のギター曲は、19世紀のギター曲のレパートリーの中核をなしている。きわめて難度の高い楽曲を、ギター独奏用に書いただけでなく、室内楽(ヴァイオリンやフルートとの二重奏曲)や協奏曲においても作曲した。

ジュリアーニの目立った作品といえば、3つのギター協奏曲(作品30、作品36、作品70)や、ギター独奏用の6つの幻想曲(作品119〜作品124。ロッシーニのアリアを原曲とし、「ロッシニアーナ(Rossiniane)」と呼ばれる)、《ギター五重奏曲》作品65、イタリア様式による大序曲、ギター伴奏歌曲集などである。多くの交響楽をギター独奏用ないしはギター二重奏用に編曲しており、たとえばロッシーニの《セビリアの理髪師》序曲のトランスクリプションといった例がある。さらに、教育用の作品も数多く手がけており、中には今なおギター教師によって練習曲として利用されるものもある。

主要作品一覧

協奏的作品
ギターと管弦楽のための協奏曲(Concerto)作品30 1812年頃
ギターと管弦楽のための大協奏曲(Gran Concerto)作品36 1812年頃
ギターと管弦楽のための大協奏曲(Gran Concerto)作品70 1822年頃

室内楽曲
ギター、ヴァイオリン、チェロのための《セレナーデ》作品19
ヴァイオリンとギターのための《協奏的二重奏曲》(Duo Concertante)作品25
フルートないしはヴァイオリンとギターのための《協奏的大二重奏曲(大ソナタ)》(Gran Duetto Concertante)作品52 1812年頃
弦楽四重奏とギターのための《大五重奏曲》(Gran Quintetto)作品65 1812年頃
フルートとギターのための《大セレナータ》(Gran Serenata)作品82
フルートないしはヴァイオリンとギターのための《協奏的大二重奏曲(大ソナタ)》(Gran Duetto Concertante)作品85 1817年頃
大協奏曲(Gran Concerto)作品36(ピアノ伴奏版)1824年頃
大協奏曲(Gran Concerto)作品70(ピアノ伴奏版)1824年頃

ギター二重奏曲
協奏的大変奏曲(Grandi Variazioni Concertanti)作品35 1833年
協奏的ポロネーズ(Polonesi concertanti)作品137

ギター独奏曲
ソナタ ハ長調(Sonata)作品15 1812年頃
3つの華麗なるソナタ(Tre Sonate Brillanti)作品96
大ソナタ「英雄」(Gran Sonata Eroica)作品150 1843年頃
大序曲(Grande Ouverture)作品61 1809年
ロンド ハ長調(Rondo en La Mayor)作品14-4
「皿と平鍋」の旋律と6つの変奏(Sei variazioni sull'aria "A Schisserl und a Reindl")作品38 1812年
華麗なる変奏曲(Variazioni Brillanti)作品87 1815年頃
大変奏曲(Grandi Variazioni)作品88
幻想曲《ロッシニアーナ 第1番》Rossiniana 作品119 1820年頃
幻想曲《ロッシニアーナ 第2番》作品120 1821年頃
幻想曲《ロッシニアーナ 第3番》作品121 1821年頃
幻想曲《ロッシニアーナ 第4番》作品122 1824年頃
幻想曲《ロッシニアーナ 第5番》作品123 1824年頃
幻想曲《ロッシニアーナ 第6番》作品124 1828年頃

ギター伴奏歌曲
声楽のための《6つのカヴァティーナ》(Sei Cavatine)作品39
ソプラノのための《6つのリート》(Sei Lieder)作品89

著作
Mauro Giuliani: Studio per la chitarra. Type: Italian : Book Book. Publisher: Bonn [etc.] : chez N. Simrock [etc.], [1812] OCLC 68319701
Mauro Giuliani: 120 daily guitar studies for the right hand. Type: English : Book Book Publisher: New York : Celesta Pub. Co., [c1949] OCLC 42884308

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5月8日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%888%E6%97%A5

できごと
1429年 - ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍が、
イギリス軍を撃破し、オルレアン市を解放

1865年(慶応元年4月8日) - 元号が元治から慶応に改元。

1931年 - オーストリア最大の銀行クレディット・アンシュタルトが破綻。
5月11日に取引が全面停止される。

1942年 - ポートモレスビーを攻略しようとした
日本海軍と連合国海軍の間で史上初の航空母艦同士の海戦が発生、
連合国空母一隻撃沈、一隻大破の戦果を得るが上陸作戦中止(海戦は戦術的勝利)(珊瑚海海戦)

1944年 - アメリカ海軍の航空母艦タイコンデロガが就役。

1945年 - フランスでの前日の降伏文書調印を受け、ヨーロッパの西部戦線で停戦。
(VEデイ、ヨーロッパ戦勝記念日)

1945年 - ベルリン郊外のカルルスホルストにて
ゲオルギー・ジューコフ将軍とヴィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に調印、
第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線)が終結。
ソ連による戦勝記念日は翌5月9日となっている。

1954年 - ディエン・ビエン・フー要塞の司令部が陥落、
フェルディナンド・ド・カストリ将軍以下、1万人のフランス兵が捕虜に

1954年 - アジアサッカー連盟設立

1978年 - イタリアの登山家メスナーらが初のエベレスト無酸素登頂に成功。

1980年 - 世界保健機関 (WHO) が天然痘の根絶宣言を行う。

1993年 - 横浜・八景島シーパラダイスオープン。

2001年 - 武富士弘前支店強盗殺人・放火事件発生。2002年3月4日容疑者逮捕。

2002年 - 北朝鮮亡命者が中国瀋陽にある日本国総領事館へ駆け込む事件が発生。

2005年 - ガンバ大阪の前田雅文がJ1通算1万ゴール目を達成。

2008年 - 茨城県を震源とする地震が発生。

誕生日
1587年 - ヴィットーリオ・アメデーオ1世、サヴォイア公(+ 1637年)

1828年 - アンリ・デュナン、赤十字社創設者(+ 1910年)

1884年 - ハリー・S・トルーマン、第33代アメリカ合衆国大統領(+ 1972年)

1889年 - アーサー・カミング、フィギュアスケート選手(+ 1914年)

1901年 - オットー・カイザー、フィギュアスケート選手(+ 1977年)

1922年 - 野本喜一郎、プロ野球選手(+ 1986年)

1928年 - 澁澤龍彦、小説家(+ 1987年)

1928年 - 宗田理、小説家

1932年 - ソニー・リストン、プロボクサー(+ 1970年)

1934年 - 高坂正堯、政治学者(+ 1996年)

1936年 - 小池一夫、漫画原作者・脚本家

1937年 - トマス・ピンチョン、小説家

1937年 - アルト・ロペス、プロ野球選手

1938年 - ジャン・ジロー、漫画家

1939年 - 近衞忠煇、第14代日本赤十字社社長

1939年 - 赤木圭一郎、俳優

1944年 - 家城比呂志、振付師

1945年 - キース・ジャレット、ピアニスト

1950年 - 岡田勝、俳優、殺陣師、アクションコーディネーター

1951年 - 大村雅朗、作曲家・アレンジャー(+ 1997年)
1954年 - 吉川美代子、TBSアナウンサー
1955年 - メレス・ゼナウィ、エチオピア首相
1956年 - 水谷修、夜回り先生
1956年 - 望月卓也、プロ野球選手
1957年 - 福田重男、ジャズピアニスト
1957年 - かたせ梨乃、俳優
1958年 - 坪内祐三、文芸評論家
1959年 - 榊原郁恵、タレント
1959年 - 中原めいこ、シンガーソングライター
1960年 - 天童荒太、小説家
1960年 - フランコ・バレージ、サッカー選手
1961年 - 田上明、プロレスラー・大相撲力士
1962年 - オレステス・デストラーデ、プロ野球選手・西武ライオンズ
1963年 - 池田貴族、ミュージシャン(+ 1999年)
1963年 - 新田純一、俳優、歌手
1965年 - さくらももこ、漫画家
1965年 - 河井英里、歌手(+ 2008年)
1965年 - 稲船敬二、ゲームクリエイター
1967年 - 谷川史子、漫画家
1967年 - 西村由紀江、作曲家、ピアニスト
1968年 - 阿部宏美、アナウンサー
1968年 - K DUB SHINE、ヒップホップMC
1969年 - 曙太郎、第64代横綱・K-1・プロレス
1972年 - 文東煥、野球選手
1973年 - 赤坂晃、俳優、アイドル
1973年 - 荒川弘、漫画家
1973年 - 中田有紀、アナウンサー
1973年 - 富岡久貴、プロ野球選手
1974年 - 陳甲龍、野球選手
1975年 - エンリケ・イグレシアス、歌手
1976年 - 幸村誠、漫画家
1977年 - たかはし智秋、声優、Aice5のメンバー
1978年 - 佐藤敦之、陸上競技選手
1980年 - 星野八千穂、プロ野球選手
1980年 - 吉本亮、プロ野球選手
1980年−星野貴紀、声優
1982年 - ブアカーオ・ポー.プラムック、ムエタイ選手
1982年 - 新井麻希、TBSアナウンサー
1983年 - NAOTO、ミュージシャン(ORANGE RANGE)
1984年 - 井尚美、グラビアアイドル
1984年 - デヴィッド・キング、フィギュアスケート選手
1985年 - 宮崎真汐、女優
1985年 - 青木亜希、モデル
1986年 - 佐藤聡美、声優
1991年 - サクラローレル、競走馬

忌日
1782年 - ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ、ポルトガルの廷臣(* 1699年)

1785年 - エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール、
フランス外相・陸相・海相(* 1719年)

1794年 - アントワーヌ・ラヴォアジエ、化学者(* 1743年)

1829年 - マウロ・ジュリアーニ、ギタリスト・作曲家(* 1781年)

1842年 - ジュール・デュモン・デュルヴィル、探検家(* 1790年)

1873年 - ジョン・スチュアート・ミル、思想家・経済学者(* 1806年)

1880年 - ギュスターヴ・フローベール、小説家(* 1821年)

1885年 - パヴェル・クシーシュコフスキー、作曲家(* 1820年)

1891年 - ブラヴァツキー夫人、オカルティスト(* 1831年)

1903年 - ポール・ゴーギャン、画家(* 1848年)

1904年 - エドワード・マイブリッジ、写真家(* 1830年)

1914年 - アーサー・カミング、フィギュアスケート選手(* 1889年)

1927年 - シャルル・ナンジェッセ、フランス空軍のエース・パイロット(* 1883年)

1936年 - オスヴァルト・シュペングラー、哲学者・歴史学者(* 1880年)

1942年 - 八田與一、土木水利技術者(* 1886年)

1944年 - エセル・スマイス、作曲家(* 1858年)

1950年 - 相馬御風、詩人・作詞家・歌人(* 1883年)

1975年 - アベリー・ブランデージ、国際オリンピック委員会会長(* 1887年)

1979年 - タルコット・パーソンズ、社会学者(* 1902年)

1982年 - ジル・ヴィルヌーヴ、F1ドライバー(* 1950年)

1985年 - シオドア・スタージョン、SF作家(* 1918年)

1988年 - ロバート・A・ハインライン、SF作家(* 1907年)

1991年 - ルドルフ・ゼルキン、ピアニスト(* 1903年)

1995年 - テレサ・テン、歌手(* 1953年)

1998年 - 鈴木勉、書体デザイナー(* 1949年)

2006年 - 竹元勝雄、プロ野球選手(* 1926年)

2007年 - 栽弘義、沖縄水産高校野球部監督(* 1941年)

記念日・年中行事
世界赤十字デー
1948年にストックホルムで開催された第20回赤十字社連盟理事会で決定。

5月8日が赤十字社の創設者、アンリ・デュナンの誕生日であることから。

ゴーヤーの日
1997年より、沖縄県とJA沖縄経済連が
「ゴーヤーの日」を制定。
沖縄県では5月を境にしてゴーヤー(ニガウリ)の出荷量が増える。