東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年6月4日(木曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年6月4日(木曜日)

「夏」です。

「夏」の「6月」

になりました。

まばゆいほど。

ことばでは。

いいつくせないほどに。

まぶしくて。

ありがたくやさしい。

「夏」「6月」の。

するどくつよい陽射しです。

しあわせいろの。

とても。

とてもあかるい陽射しです。

「6月」の。

「朝」の陽射しの「あかるさ」は。

なにものにも。

たとえようこそありません。

「しずかなひざし」です。

けれども「朝陽」は。

「するどい」。

夏朝陽(なつあさひ)

緑木枝間に

われを見る

まばゆくも

鋭く輝く

眼(まなこ)なりけり

なつあさひ

みどりきえたまに

われをみる

まばゆくも

するどくかかやく

まなこなりけり

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

「夏」になりました。

今年も夏がきました。

「夏」がきて。

今は「6月」。

「夏」はふうせんのように。

ふくらみ。

ひろがってゆく季節です。

「5月」です。

「盛夏」まぢかし。

ひなまつりはおわり。

野には。

たんぽぽが葉草となり。

夏草が咲き。

よもぎや。

すぎながいっぱいになりました。

みどり葉のつつじが。

さえほこっています。

「夏」になり「川の水音」は。

あたかも。

「ゆたかな清流」の。

「みずのながれのおと」に。

きこえるようになりました。

「夏」の小川。

「どんどん」ながれる。

なつのおがわ。

高さも低さこそ見えないのに。

あゆみたゆまず。

ながれる水の流れ。

とても感銘致します。

春分の日もすぎれば。
「さくら」咲きはじめ
「さくら」がおわり。
「4月」が終われば。
「5月」になり。
「5月」もおわれば。
6月に。「夏」になり。
6月も終われば。
7月 たなばた。
7月 もおわれば。
せみのなく8月。
8月の夏はすぎれば。
9月の秋になり秋の虫が鳴く。
そして9月がおわり。
中秋10月なり紅葉の季節。
そして10月がおわり。
「11月」になり。
晩秋「11月」もおわり12月の「冬」。
「12月」になればまた「年」があけ。
また「初春」がくる。

そして来年も「春」の「3月」がきて。
そして「4月」「5月」がおわり。
そして「6月」がくる。

もう「なつ」の「6月」です。

「陽」はもうすでに

日々とてもたかくなりつつあります。

「夏」がきて。

今は「ま夏」に向かう「ひざし」です。

「夏」の「6月」です。

「夏」の「6月」の。

「夏至」までもうすぐ。

陽は日々たかくなっている。

とてもよくわかります。

朝陽ののぼるのが早くなりました。

夕陽がおりるのは遅くなりました。

朝の「夏」の陽射しは

窓越しにも「まばゆい」

くらいです。

夕暮れの「夏」の陽射しは

「はしりおえた」

「マラソン選手」のようです。

つかれて。けれども充実して。

くれてゆきます。

まことに。

冬来たりなば春遠からじ。

ふゆきたりなば

はるとおからじ

(出 典は。

 イギリスの詩人シェリー*の

『西風に寄せる歌』の一節。

英 語の原文: 

If winter comes,

can spring be far behind? )

「英国:United Kingdom UK」のロマン派の
詩人は。「御自分」のテーマの「鳥」を
紋章のようにもっています。
英国ロマン派の詩人は、
それぞれ愛好し、崇拝する鳥を持っていました。

ジョン・キーツは、
「夜鶯」(ほととぎす)の神秘的な声に魅惑され。
夜の闇に響くその歌声を主題に詩を書いています。

ワーズワースにとって、詩の霊感をもたらし、
彼に生きることの喜びを教えてくれる鳥は、
「郭公」(かっこう)でした。

パーシー・シェリーは「雲雀」(ひばり)の声に魅惑され。
ひばりを崇拝する鳥として。
主題とした詩を書いています。

「春」から「夏」への

移り変わりは

二階から。

「かけあし」の足音のとんときこえぬ。

「空き家」のごとき「うつろい」でした。

二階から。

「かけあし」の足音のきこえぬ。

「かげろう」

の「たたずまい」のようでした。

「9月」の初秋がおわり。
「名月中秋10月もおわり」ました。
「11月」。

「11月」もおわりました。
「12月」もおわりました。
「新年」「初春」の「1月」もおわり。
今は
「2月」「晩冬」もおわりました。

「春」から「夏」への移り変わりは

「かげろう」のようにうつろいました。

一方

「夏」はひそやかにと。

ゆっくりと。

ひそかに。あるいて来ます。

そしてゆっくりと。

「秋」になるまで

あるいて行きます。

だから。

「夏」をまつのであれば。

「夏」がひそやかに。

しのび歩いてくるのをまたなければ。

なりません。

「秋」がくるのをまつのであれば。

「夏」がゆっくりと。

歩いていくのをまたねば。

なりません。

もう「夏」ですね。

「夏」はゆっくりとあるいてやってくる。

「夏」はひそやかにかくれてやってくる。

さきのことすぎるかもしれないが「来年」。

このように「時」のうつろいを

心はせれば。

考えると「おそろしいもの」です。

考えなければ。
「なおおおそろしい」
ものであるものかもしれない。

「考えずにいるつけ」がまわって
くるからかもしれません。

「来年」のことを考えれば「鬼」が笑う。
「来年」のことを考えずにすむのであれば「鬼」は
笑わないのでしょう。
「鬼」とはなんだろう。

今日の深夜早朝03:15amには。

久方ぶりに。

大きな「夏」の「星空」がみえました。

早朝くらいうちは。

空に月。

「お月様」が「「冬」雲のじゅうたん」

天高くにねそべって。

かさををさしている

ようです。

「夏」の「夜空」の。

「おぼろ月夜」です。

「赤い月」でした。

04:00amころ日があければ。
まだまだくらい朝日を背に。
西のコバルトの空高く明るい。
とても高い成層圏近くの高い高度に。

西のコバルトの空高に。
「刷毛」でひいたように「絹雲(けんうん)」が
何本も何本も。
描かれて。
たなびいていました。

実に見事な筆捌(ふでさばき)です。
ためらいのない「朝焼け」
「夏」の「朝焼け色」の線描です。

「夏」の朝。

「陽射し」ののぼるころは。

「西」の空

のほうが明るいのです。

朝が明けて午前になれば。

まばゆいほどの。

「夏」のひざしが。

陽がのぼる。

東から。

窓のカーテンと。

木々の合間をぬって。

「さあ 外にでて!」

とさそうがごとく。

大きな声で。

よびかけてくるようです。

高い成層圏近くの高い高度に。
「刷毛でひいたように」「絹雲(けんうん)」
の端には渦巻きのような「ぬけあな」があり
「さらなる遠方の青空」が透けてみえます。

さながらにして。
東山魁夷画伯の描かれた大きな壁画。
大きな屏風絵の世界。

東山魁夷画伯の描かれた大きな絵画を
彷彿とさせますです。

東山魁夷画伯。
「よくえがかけた画伯です」。

この「あおぞら」をみていると。

陽のひかりをみていると。

とても

信じられないくらいに。

元気がわいてくることに。

気が付きました。

「太陽」の「陽射し」。

「陽」の「めぐみ」は。

なんと。

ありがたいことだろう。

なんと尊いことだろう。

そら一杯の青空の

天井(てんじょう)と。

「太陽のひかりのひざし」は。

「生きとし生けるもの」にとって。

なによりもの。

まことの。

「めぐみ」なのであり。

それを戴けるのは。

「よろこび」ふかきことです。

「太陽のひかりのひざし」は

「いのちへのめぐみ」。

「いのちのよろこび」。

ありとあらゆる「生命」「いのち」をはぐくみ。
ありとあらゆる「生命」「いのち」をたたえる。
ありとあらゆる「生命」「いのち」をなぐさめる。

「生きとし生けるもの」の「いのち」に。
さらなる。
「はるかかなた」までの。
「いきるちから」をさずけるものです。
「太陽」。
ありがたいものです。

はやいものです。
ときのたつのは。
はやいものです。

そしてふと考えれば

去年も
「12か月」が
終わりました。

中秋から晩秋にうつろい。
いまや
「寒月」の「12月」がおわり。
新年の「1月」がおわり。
「晩冬」の「2月」がおわり。
「初春」の「3月」「4月」がおわり。

「夏」「6月」です。

「夏の花」の花の花びら。

ひろって。
手のひらにかかげれば。
「夏の花」の花のかおりは。
プラチナ色の香りが
致しました。

今は。
「夏の花」が。
蕾をふくらませています。
「夏の花」の。

はながは鐘袖(ベル・スリーブ)のように。
ふくらんでいます。

「夏」の花の「はなびら」が。

闇夜のあいだに。

朝の早朝まだ。

「花」にもきがつかぬうちに

また地に舞い下りています。

「夏の花」

には。

ひとのよの。

「人生」の。

「こたえ」でもあるような

気が致します。

ふと野の花は。

一般的には。

香らない花が。

多いことに気づきました。

伊藤左千夫の「野菊の墓」の「野菊」は。
矢車菊 (やぐるまぎく)
はとても綺麗なむらさきの「のぎく」です。
けれども「のぎく」は香りません。
(Corn lower, Bachelor's-button)です。

因みに
最高級の(今はもうとれない)
インド・カシミール地方で産出されたの
サフアイアの色は

「矢車菊色:やぐるまそう色」といわれます。

「カシミール・ヴァイオレット」。

麦畑やとうもろこし畑の中に 咲いていたことから。
「コーン・フラワー」=「野菊」(Corn lower)
です。

別名 「矢車草(やぐるまそう)」
といわれることがあります。

実は「矢車菊 (やぐるまぎく)」と
「矢車草(やぐるまそう)」まったく違う植物です。
矢車菊 (やぐるまぎく)が「野菊」。
「矢車草(やぐるまそう)」は「高山植物」。

「野菊」は春から夏にかけて咲くむらさきの花です。

古代エジプトのツタンカーメン王の墓 からも
発見された由緒正しき「野菊」。
色は紫。むらさきです。

ツタンカーメン王の。

まだ幼な子王妃が。

「亡きツタンカーメンンに野菊の花束ささげるけなげな姿」
が鮮烈に眼に浮かびます。

この「花」が。

「野菊」です。

「野菊の墓」の「野菊」。

けれども。

「野菊」は

香らない。

毎朝暗い早朝と。

うす暗くなる午後6時ころには。

「季節風」が

ふいている。

「季節風」がかわりばんこに。

あちこちで

「ろうろう」「こうこう」とないています。

「夏かぜ」の
「季節風」の
の「コーラス」を聞いていると。

ふと。

「この「夏」におびえるひと」の気配が
脳裏をはしりました。
はてだれだろう。

うら若き乙女。
貧しさに。
苦労に苦労をかさねて。
苦しんで苦しんだ苦しんだあげくに。
24歳にして世を去った
「樋口一葉」。

樋口一葉の
夏ではあるけれども。
「うらわかき」「「冬」と「春」の短歌」がきこえるようです。

散たまるふもとの落葉わけて思ふ
埋もれぬべきは雪の山里

ちりたまるふもとのおちはわけておもふ
うもれぬへきはゆきのやまさと

庭の面につもる紅葉の色見れば
散りての後もにしきなりけり

にわのおもにつもるもみしのいろみれば
ちりてのあともにしきなりけり

世の中の秋にあはじとおくれけん
一もと野ぎく思ひあがりて

よのなかにあきにあはしとおくれけん
ひともとのきくおもひあがりて

折々に散るものどけし春雨の
はれたる軒の山桜ばな

おりおりにちるものどけしはるさめの
はれたるのきのやまさくらばな

わが園のものとおもへば初わかな
はつかなれども嬉しかりけり

わがそののものとおもへばはつわかな
はつかなれどもうれしかりけり

立ち渡る霞をみれば足引きの
山にも野にも春は来にけむ

たちわたるかすみをみれはあしひきの
やまにものにもはるはきにけむ

わたつ海の波のいづこに立ち初て
果なくつゝむ春の霞ぞ

わたつみのなみのいづこにたちそめて
はてなくつつむはるのかすみぞ

さざ波やしがの都のいにしへの
おもかげうすく立つ霞かな

ささなみやしかのみやこのいにしえの
おもかけうすくたつかすみかな

鶯のけさおとづるゝ声聞て
はじめて春の心地こそすれ

うくいすのけさおとつるるこへききて
はしめてはるのここちこそすれ

うれしくもわがものにして聞てけり
このあかつきの鶯の声

うれしきもわかものにしてきこへけり
このあかつきのうくいすのこへ

のどかなるけさの雨にやはるの野の
みどりも色まさるらむ

のとかなるけさのあめにや
はるののの
みとりのいろもまさるらむ

おくれたる友の為にとしをりして
谷間の蕨折り残しけり

おくれたるとものためにとしをりして
たのまのわらひおりのこしけり

ちりたまるふもとのおちはわけておもふ

うもれぬへきはゆきのやまさと

にわのおもにつもるもみしのいろみれば

ちりてのあともにしきなりけり

よのなかにあきにあはしとおくれけん

ひともとのきくおもひあがりて

-------------------------------

おりおりにちるものどけしはるさめの

はれたるのきのやまさくらばな

わがそののものとおもへばはつわかな

はつかなれともうれしかりけり

たちわたるかすみをみれはあしひきの

やまにものにもはるはきにけむ

わたつみのなみのいづこにたちそめて

はてなくつつむはるのかすみぞ

ささなみやしかのみやこのいにしえの

おもかけうすくたつかすみかな

うくいすのけさおとつるるこへききて

はしめてはるのここちこそすれ

うれしきもわかものにしてきこへけり

このあかつきのうくいすのこへ

のとかなるけさのあめにや

はるののの

みとりのいろもまさるらむ

おくれたるとものためにとしをりして

たのまのわらひおりのこしけり

「24歳」の「とても貧しい乙女」の。

「夏」によろこび。

「夏」にもおびえおののく。

隠したくはない「乙女のほこり」

けれども。

隠さざるを得ぬ「乙女のほこり」

かなしさの。おもかげと。

光さす。輝きと。

いまだお若い「御婦人」の「知」「智」が。

ほこりたかくも。

はかなくも。

「ひしひし」とよみとれます。

「冬至」はすでにすぎました

これからは日は。
陽は次第にながくなる。
日が長くなる。
朝は明けるのは早くなり。
夕に暗くなるのは遅くなる。

しだいに陽がながくなる。
なぜか。
不思議なやさしさ。
やすらぎと。
心やすらかなる
安堵感をかんじます。

心やすらかなる
安堵感をかんじます。

けれども。
「安堵」と「落胆」は。
常に表裏一体。
両羽(もろば)の剣。

「ぬかよろこび」の「ぬか」のような
ものです。

「ながくなる陽」も両羽(もろば)の剣を
持っています。

そして。
季節には「大気の音色(ねいろ)」もあるようです。

朝空は
陽ははるかに天高く。
空色はミルク色です。
クリームのかかった雲空です。

東京都世田谷区山本クリニックの庭園には

「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。

「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。

この「6月」になり。
森山を分け入ると。

木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花の花のごとくに紅葉したまま
しもがれする
「やまはぜの葉木」が「大好き」です。

「やまうるしの紅葉」もかわいらしく。
「大好き」です。

身の丈以上ほどにもなって群生する。
野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
が。
病院の林の一角に野生のまま
おいしげっています。

野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
のパープルの真珠が群れたように実る
「実りの木の実」の風にそよぐ音色には。
おどろかされます。

あけびつたもうれしい。
あけびの「実」がみつかればなおなおうれしい。

またたびをみつけました。
根元にねこにかじられきずがある。

里山の冬の時期から。
そして初春の里山の季節
になりました。

四季の歩みの春夏秋冬のうつろいは
メトロノームの「あゆみ」を
感じさせます。

この「あゆみ」の「質量」は
とてもとても高いです。
質量があれば。あたかも。
重力のように。
四季のリズムにひきよせられていく。
そのような感じがします。

四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいてなお着々。
確実な「リズム」を感じます。

ここに。
「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
がくわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じです。

草花や草木につつまれた自然は。
「音楽」と同じように
ひびきとして聴こえます。

自然は
「しぜん」の
「ヴィルトオーゾ」と
「ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」
*です。

この「自然のフイルハーモニウム」の。
指揮者は。
太陽なのか大地なのか人なのか。

或は音色をかもし出す自然はオーケストラ
であるのか。
ソリストなのだろうか。

私の尊敬する「合衆国USA」の
女性で小説家(「ノーベル賞受賞者」)
「パール・サイデンストリッカー・バック
(Pearl Sydenstricker Buck)
中国名、賽珍珠(サィ・チンシュ)」
パールバックの「大地」に
その「こたえ」が示唆されています。

古代より芸術家が
自然を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判ります。

*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。

実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。

但し音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる「成分」というわけ
ではありません。

また「音楽であるため」に。
三要素が絶対必要ということ
でもないでしょう。

邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。

「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。

邦楽もその一つです。

大和の国 やまとのくにの自然は。
「大和の国の音楽」と同じように思えます。
聴こえます。

「音楽」は「音」「おと」です。
そして「しらべ」=メロディとハーモニーです。
人類が「この音楽」を「楽譜」として
「寸分たがわず」「譜面」という名の「紙」に
「かくことを完成させた」ということは
大変なことです。

人間は。
人類は。
わずか「400年」で。

「音楽の旋律」に対する「楽譜」を。
「あらたな言語」を
完全に「完成」させたことになります。

まさにミューズの神の「神業かみわざ」です。

木々のめぶきの
冬なおも。
ますます力強い息吹を感じます。

「真夏」をすぎ「冬」になると。
再び「若葉」がみられることに。
きづきました。
「ため息」がでるほど木々の「冬若葉」の
「つどい」は「つよく」「うつくしい」。
雪の上のみどり。

木々のてっぺんは萌黄色から
「ふかみどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「冬を迎えた葉束」になりました。
これからは
「深まる冬」がすぎさり「春」。
「開花」の炎が。
樹木の上方で。
「雪の到来」を.
くすぶりてまちわびてています。
たえしのぶ冬の樹木です。

「若葉」の「新緑」から「深緑」です。

高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり冬のおとずれを
伝えていました。

桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうともいえる青葉。
そして見え隠れする「紅葉葉」。
紅葉葉の10枚20枚がひとつひとつ
の樹木にみえるようになりました。
「黄色調」です。
そして今「樹木」は「葉のいろ」をかえ
「宙」に舞おうとしています。

明らかなる。
「冬から春」とはことなる。
「夏から秋」。
「秋から冬」
そして「冬」の「木枯らし」。

木々の四季の。
大気の「色」のうつろい
に気づきます。

今は里山(さとやま)をさまよい。
今は里山(さとやま)をあるきたい。
今は里山(さとやま)の季節。
今は昔々里山(さとやま)であそび。
今は昔々て里山(さとやま)でおぼえ。
今は昔々里山(さとやま)でまなんだ。
今は昔々のその日々の思い出は。
今は黄金(こがね)か。あるいは。
今は銀か。いぶし銀か。
今はもしかしたらプラチナか。
今は思い出色は鉛のように。
今は重さは鉛のようになり。
今は心の奥深くに埋もれて感じられます。

「幸せ色」=「しあわせいろ」

ならばよいです。

けれども
早朝は非常にあたたかくなりました。

夏やま中さまよいて
夏やま中をわけいらば
夏やま中大樹の根元に隠れたり
夏やま中あけぼの色のちひさき炎(ほのほ)
夏やま中みつけたりやまの秋の華。
夏やま中やまの秋葉木のかくれんぼ
夏やま中大樹の根元に隠れたり
夏山はぜの葉木。
夏やま中やまうるしの葉木。
夏やま中あきやまはぜとふるやまうるし。
夏こす「はだか木」。
夏こす元気な木。たくましき木。

夏山萩(やまはぎ)の
夏花をかくして燃えたたむ
夏に実りの祭りなり
夏山はぜの葉炎
夏天高く燃ゆ

なつやまはぎの
なつはなをかくしてもえたたむ
なつにみのりのまつりなり
なつやまはせのほのほ
なつてんたかくもゆ

ひろくなりけり空(そら)たかし
さとやまに木々のみどり木
こもれびうけて燃えるがごとし
みどりの炎(ほのほ)
ほのほうちけさむかすみはあおし
ほのほにかすみにただよひて
うるわしくかがやきたり
あたたかくかおりたり
あざやかなりけり 
やまさとのやまみどり
やまさとのふかみどり

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。

多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。

「大きな夏みつけた」

から

「夏がすぎてて真秋間近い」

「小さな秋みつけた・。」

そして

「小さな冬みつけた」

そして

「大きな冬みつけた」。

そして

「小さい春」がみつかって。

しだいにおおきな。

「春」になりました。

「夏」がちかづく「八十八夜」

今は「夏」。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

+++++++++++++++++++++

平成21年01月12日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年2月11日(水曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年3月20日(金曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
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平成21年4月29日(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
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★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらず
インフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は

20世紀における
ソ連・ロシア・東側諸国指揮界の第一人者であり。

世界でも有数の指揮者の一人である。

1903年(ユリウス暦5月22日) -
エフゲニー・ムラヴィンスキー、指揮者(+ 1988年)
の生誕日です。

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エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー
(エヴゲーニイ・アレクサーンドロヴィチ・ムラヴィーンスキイ
;ロシア語:Евгений Александрович Мравинский,
イヴギェーニイ・アリクサーンダラヴィチュ・ムラヴィーンスキイ;
ラテン文字転写の例:Evgeny Aleksandrovich Mravinsky、
1903年6月4日
(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では5月22日)
- 1988年1月19日)は、ロシア出身の指揮者です。

20世紀における
ソ連・ロシア・東側諸国指揮界の第一人者であり。

世界でも有数の指揮者の一人に挙げられています。

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エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー
は。
ムラヴィンスキーは、長身痩躯で非常に舞台栄えが良く、
厳しい楽曲解釈と相まって
聴衆を酔わす事が出来るカリスマ性の持ち主でした。

また指揮の技術にも非常に優れています。

晩年には指揮棒を使わずに手の繊細な動きと視線によって
オーケストラをコントロールする姿が
リハーサルの映像等で見ることが出来ます。

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エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー
に。

50年間に渡りムラヴィンスキーの薫陶を受け続けた
レニングラード・フィルとの数々の演奏は。

トスカニーニを思わせるムラヴィンスキーの厳密なスコア解釈、
テンポ設定を高度なアンサンブルによって
レニングラード・フィルが手足の如く表現すると言う
非常にレベルの高いものです。

消え入りそうなピアニッシモから
雷鳴の様なフォルティッシモに至るまで
一途乱れぬ演奏は。
西側でも非常に高く評価されていました。

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エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー
は。

彼の家を訪れた人物や妻
(アレキサンドラ・ヴァビリナ・ムラヴィンスカヤ。
レニングラード・フィル首席フルート奏者として夫
とともに4度来日演奏している)
の証言によると。

その名声とは裏腹に。
私生活は極めて質素であったようです。
自然と文学や芸術を愛する
つつましい生活を送っていたようです。

また人を魅了するユーモアセンスの持ち主でもあり。
彼との会話は笑いが絶えない非常に楽しいものであったそうです。

妻には
「持ち物を増やしてはならない。いつ何が起きるか分からない」
と語っていたとのことです。

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エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー
は。

指揮者生涯の大部分に当たる約50年間にわたって
国立レニングラード・フィルハーモニーの常任指揮者の地位を務め。

レニングラード音楽院院長の要職も歴任し、
国家的にも重要なポストを占めました。

けれども
生涯を通じて旧ソヴィエト指導部に対して
強い疑念と反感を持ち続け、
遂にソヴィエト共産党員とはなりませんでした。

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エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー
は。
生前は、西側諸国に登場する機会が限られていたことなどから
近年になり漸く貴重な映像や膨大な録音が発見され。

資料の分析・咀嚼が進み、
現在もその評価が著しく高まっています。

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エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー
のリハーサル

その独裁的なリハーサルは伝説的とも言われ、
近年発売されたDVDやリハーサル録音等で
その片鱗を伺うことができます。

徹底した厳格かつ妥協の無い完全主義を貫いたゆえに、
そのリハーサルは長大な時間を費やすことも多々ありました。

BBCがムラヴィンスキーの特別番組を放送した中に、
旧レニングラード・フィルのヴァイオリン奏者が語った
彼の仕事ぶりを示す象徴的なエピソードがあります。

それは、ブルックナーの交響曲第7番のリハーサルの話です。

「ムラヴィンスキーはオーケストラの
メンバーが完璧だと思っても満足せずに、
家でスコア研究をし尽くし、
メンバー全員にぎっしりと書き込みで埋まった
楽譜を配布しました。

通しリハーサルの日は何度も何度も繰り返し
細かい要求に答えなければならず体力的に厳しかった。
忘れられない一日となった。

最後の通しリハーサルのときはあまりにも完璧で信じられない
演奏となり、そのクライマックスでは
まるでこの世のものではないような感覚に襲われた。

しかし、最も信じ難いことは、
ムラヴィンスキーが
この演奏の本番をキャンセルしてしまったことであった。
その理由は。
『通しリハーサルのように本番はうまくいくはずがなく、
あのような演奏は二度とできるはずがない』というものであった
ということです。
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ムラヴィンスキーにとって演奏は神に捧げるものでありました。
その時点で上手くいってしまえば後はどうでもよいものでした。

このような厳しい通しリハーサルを、
演奏頻度が多かったチャイコフスキーの5番や
ショスタコーヴィチの5番のときでさえ、
少なくとも10回は行ったということです。

結果的に音楽の完成度が高まるのは当然ではあるが、
ムラヴィンスキーは常に不満を感じていたとのことでした。

オーケストラのメンバーは全く嫌気がさしそうでありますが。

そう言う訳でもなく周囲からは
常に絶大な尊敬を浴びていた模様でもあります。

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これもBBCの番組内でのインタビューで、
ある旧レニングラード・フィルの
ヴアイオリン女性奏者が以下のように語っています。

「ムラヴィンスキーは演奏家としての
わたしの人生に大きな影響を与えた人です。

最初レニングラード・フィルに入団した時点では、
ただ他人よりうまくヴァイオリンを弾けると
いうだけの人間でした。

しかし、ムラヴィンスキーの指揮の下で
演奏できたことにより、
初めて本物の音楽家になれたように思えます。」

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エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー
は。

また、録音についてもいろいろ矛盾した側面を持っていました。
マイクの存在と録音作業そのものを嫌い、
演奏前は「マイクを全て撤去しろ」と要求したり、
録音終了後「全て消去しろ」と述べたりし、
関係者を困らせたりしたかと思えば、
録音予定のない比較的満足のいった演奏終了後
「今日の録音はうまくいったか?」
と尋ねてみたりしたこともあるそうである。

ある曲目のレコーディングの際、繰り返し繰り返し
10回も通し演奏を行った後、
録音技師が
「マエストロ、もう十分です。これらのものの
良い所を繋ぎ合わせて良い物にできますから」
と言うと即座に「いや、まだ不十分だ!」
と返したそうです。

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エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー
ムラヴィンスキーにとって。

継ぎ接ぎだらけの編集された録音というものは
全く眼中になく想定の範囲外のものでありました。

完璧で理想的な通し演奏の実現のみしか念頭になかったのです。

そのような姿勢もあってか、生
前の名声やその崇高な芸格と比較して
発売されたレコードの量は非常に限られており。

死後漸く様々な録音が発見され日の目を見たが、
その種類が少ないことが惜しまれています。
また、生前のレコードの種類の少なさと比較し、
死後のレコードの種類の多さの差が
非常に大きいのも極めて特異な例と言えます

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エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー

日本との関係
レニングラード・フィルは1958年に初来日を果たしました。
ムラヴィンスキーは病気のために同行できませんでした。
1970年はムラヴィンスキーに出国許可が下りず(表向きは急病とされる)、
代役でスヴャトスラフ・リヒテルが初来日しています。

1973年になってリヒテルの代役としてようやく
初来日が実現到します。
飛行機嫌いのため、シベリア鉄道と船を長期間乗り継いでの来日でした。

ムラヴィンスキーは最初、
遙か遠方の日本まで足を運ぶことをあまり快く思っていなかったとされているが、
迎える側の献身もあり、
彼は日本に対して非常に大きな好感を抱いたということです。

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その後は1975年、1977年、1979年と、三回の来日を果たしています。

1981年、1986年にも来日が予定されていたが、
それぞれ出国の不許可、体調不良により断念した。

1981年の来日断念に関しては、
1979年の来日時にレニングラード・フィルの楽員から
亡命者が出たことで、もともと党との関係が良好でなかった
ムラヴィンスキーの立場がさらに悪化したことと、
日本のモスクワオリンピックボイコットによる
ソ連当局の悪感情が影響したためとされています。

尚、1986年の来日公演は
1973年以来の映像収録も予定されていました。

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エフゲニー・ムラヴィンスキー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B2%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC
エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー(エヴゲーニイ・アレクサーンドロヴィチ・ムラヴィーンスキイ;ロシア語:Евгений Александрович Мравинский, イヴギェーニイ・アリクサーンダラヴィチュ・ムラヴィーンスキイ;ラテン文字転写の例:Evgeny Aleksandrovich Mravinsky、1903年6月4日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では5月22日) - 1988年1月19日)は、ロシア出身の指揮者である。20世紀におけるソ連・ロシア・東側諸国指揮界の第一人者、世界でも有数の指揮者の一人に挙げられる。
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6月4日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%884%E6%97%A5

できごと
1615年(元和元年5月8日) - 豊臣秀頼と淀殿が自刃し大坂夏の陣が終結。豊臣氏が滅亡。
1745年 - オーストリア継承戦争: ホーエンフリートベルクの戦い
1844年 - オオウミガラス絶滅。
1920年 - 第一次世界大戦で、ハンガリーが連合国とトリアノン条約を結び講和する。
1928年 - 満州にて関東軍の河本大作が軍閥の張作霖を爆殺(満州某重大事件)。
1937年 - 第一次近衛文麿内閣発足。
1937年 - パブロ・ピカソの代表作『ゲルニカ』が完成。
1975年 - 沢田研二がザ・ピーナッツの伊藤エミとの結婚を表明する。
1989年 - 六四天安門事件。
1989年 - ポーランド議会の一部自由選挙(戦後初)が行われ、「連帯」が両院で獲得議席数99%超の圧勝をおさめる。
1996年 - 海上自衛隊のリムパック派遣部隊護衛艦「ゆうぎり」のCIWS誤射で米海軍機を撃墜。
2002年 - サッカー日本代表が、埼玉スタジアム2002で行われた2002 FIFAワールドカップ対ベルギー戦で2-2で引き分け、日本代表としてワールドカップ史上初の勝点を挙げる
2004年 - 巨人の清原和博が2000本安打を達成。

誕生日
1738年 - ジョージ3世、イギリス王(+ 1820年)
1809年 - ベンジャミン・スタントン、第6代オハイオ州副知事(+ 1872年)
1809年 - コロンバス・デラノ、第11代アメリカ合衆国内務長官(+ 1896年)
1855年(安政2年4月20日)- 犬養毅、第29代内閣総理大臣(+ 1932年)
1867年 - カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム、軍人・政治家(+ 1951年)
1868年 - ヘンリエッタ・スワン・リービット、天文学者(+ 1921年)
1883年 - 諸橋轍次、漢字研究家・『大漢和辞典』編者(+ 1982年)
1903年(ユリウス暦5月22日) - エフゲニー・ムラヴィンスキー、指揮者(+ 1988年)
1911年 - 島岡吉郎、野球監督(+ 1989年)
1912年 - 森本薫、劇作家(+ 1946年)
1916年 - 山根実、元プロ野球選手
1918年 - 田川誠一、政治家
1923年 - 崇仁親王妃百合子、皇族
1930年 - 降旗節雄、経済学者
1936年 - 高橋栄一郎、元プロ野球選手(+ 2007年)
1937年 - 橋詰文男、元プロ野球選手(+ 1983年)
1941年 - 三宅博、元プロ野球選手
1941年 - 石戸四六、元プロ野球選手(+ 1980年)
1943年 - 梓みちよ、歌手
1950年 - 庄司陽子、漫画家
1953年 - 小嶋進、実業家(ヒューザー社長)
1953年 - リンダ・リングル、ハワイ州知事
1954年 - 山路和弘、俳優・声優
1961年 - 山本元気、ニッポン放送アナウンサー
1963年 - 樋口潮、テレビプロデューサー
1966年 - チェチーリア・バルトリ、メゾソプラノ歌手
1967年 - 大久保勝也、元プロ野球選手
1969年 - 作山和英、元プロ野球選手
1969年 - ロベルト・ペレス、元プロ野球選手
1970年 - 後藤隆之、野球選手
1971年 - 末光篤、シンガーソングライター(SUEMITSU & THE SUEMITH)
1972年 - 山田かがり、元バスケットボール選手
1973年 - 竹内朋康、ギタリスト(SUPER BUTTER DOG、マボロシ)
1973年 - GWINKO、歌手
1973年- 平川大輔、声優
1973年 - 石本豊、元プロ野球選手
1973年 - デービッド・ランドクイスト、元プロ野球選手
1974年 - 和泉元彌、狂言師
1975年 - アンジェリーナ・ジョリー、女優
1976年 - 林昌勇、プロ野球選手
1977年 - 西又葵、イラストレーター
1978年 - 小林宏之、プロ野球選手
1978年 - グローバー義和、ミュージシャン
1979年 - 高原直泰、サッカー選手
1979年 - 柳田真孝、レーシングドライバー
1980年 - 秋山純、ジャニーズJr.、Musical Academy
1981年 - クリストフ・スミヨン、騎手
1984年 - 半田健人、俳優
1984年 - 紅月ルナ、AV女優
1984年 - 伊藤博樹、芸人
1985年 - 加藤幹典、プロ野球選手
1985年 - 富貴晴美、作曲家
1985年 - 鈴木拡樹、俳優
1985年 - アナ・キャロリーナ・レストン、ファッションモデル(+ 2006年)
1985年 - エヴァン・ライサチェク、フィギュアスケート選手
1986年 - ユチョン(ミッキー)、歌手・東方神起
1986年 - 西山由樹、バレーボール選手
1988年 - 伊集院峰弘、プロ野球選手
1989年 - 高橋生、歌手
1990年 - 岡本里奈、モデル
1990年 - ザック・ファッロ、ドラマー (米ロックバンドパラモア)
1997年 - りほ、プロレスラー

忌日
755年(天平勝宝8歳5月2日)- 聖武天皇、日本の第45代天皇(* 701年)
1039年 - コンラート2世、神聖ローマ皇帝(* 990年?)
1094年 - サンチョ1世、アラゴン王(* 1042年頃)
1135年(紹興5年4月21日)- 徽宗、北宋第8代皇帝(* 1082年)
1571年(元亀2年5月12日) - 氏家卜全、武将
1615年(元和元年5月8日)- 豊臣秀頼、武将(* 1593年)
1615年(元和元年5月8日) - 淀殿、豊臣秀吉の側室(* 1569年?)
1615年(元和元年5月8日) - 安井道頓、道頓堀の開鑿者(* 1533年)
1615年(元和元年5月8日) - 大野治長、武将(* 1569年)
1615年(元和元年5月8日) - 毛利勝永、武将(* 1577年)
1615年(元和元年5月8日) - 真田幸昌、武将(* 1601年)
1661年(寛文元年5月8日) - 五郎八姫、松平忠輝の正室、伊達政宗の娘(* 1594年)
1680年(延宝8年5月8日)- 徳川家綱、江戸幕府第4代征夷大将軍(* 1641年)
1689年(元禄2年4月17日)- 毛利綱広、第3代長州藩主(* 1639年)
1746年(貞享3年4月16日)- 松平乗邑、江戸幕府老中・佐倉藩主(* 1686年)
1798年 - ジャコモ・カサノヴァ、術策家・作家(* 1725年)
1830年 - アントニオ・ホセ・デ・スクレ、ボリビア独立の父(* 1795年)
1887年 - ウィリアム・A・ウィーラー、第19代アメリカ合衆国副大統領(* 1819年)
1894年 - ヴィルヘルム・ロッシャー、経済学者(* 1817年)
1907年 - アガーテ・バッケル=グロンダール、作曲家(* 1847年)
1909年 - 吉川経健、岩国藩主(* 1855年)
1918年 - チャールズ・W・フェアバンクス、第26代アメリカ合衆国副大統領(* 1852年)
1919年 - 徳大寺実則、公卿・内大臣・侍従長(* 1840年)
1928年 - 張作霖、軍人・政治家(* 1875年)
1940年 - チャールズ・ネイゲル、第4代アメリカ合衆国商務労働長官(* 1849年)
1941年 - ヴィルヘルム2世、ドイツ皇帝(* 1859年)
1942年 - ラインハルト・ハイドリヒ、ナチス・ドイツ親衛隊大将(* 1904年)
1946年 - 松井慶四郎、元外務大臣(* 1868年)
1951年 - セルゲイ・クーセヴィツキー、指揮者(* 1874年)
1954年 - 山崎朝雲、彫刻家(* 1867年)
1959年 - 土方与志、演出家(* 1898年)
1959年 - チャールズ・ヴィダー、映画監督(* 1900年)
1962年 - 前田多門、元文部大臣(* 1884年)
1964年 - サムイル・マルシャーク、詩人・児童文学作家・翻訳家(* 1887年)
1966年 - 市川團蔵 (8代目)、歌舞伎役者(* 1882年)
1966年 - 張勉、元大韓民国国務総理(* 1899年)
1968年 - 大橋八郎、第4代NHK会長・第2代日本電信電話公社総裁(* 1885年)
1968年 - 保篠龍緒、翻訳家(* 1892年)
1968年 - ドロシー・ギッシュ、女優(* 1898年)
1968年 - アレクサンドル・コジェーヴ、哲学者(* 1902年)
1969年 - ラファエル・オスナ、テニス選手(* 1938年)
1971年 - ルカーチ・ジェルジ、哲学者(* 1885年)
1982年 - 黒田辰秋、漆芸家(* 1904年)
1994年 - ジャン・デトワイラー、作曲家(* 1907年)
1994年 - 斉藤丑松、作曲家(* 1912年)
1995年 - ライスシャワー、競走馬(* 1989年)
1997年 - ロニー・レーン、ミュージシャン(* 1946年)
2001年 - ディペンドラ、ネパール皇太子・国王(* 1972年)
2002年 - ピョートル・イワシュチン、ソ連軍参謀本部情報総局長(* 1909年)
2005年 - 印順、僧・仏教学者(* 1906年)
2007年 - クリート・ボイヤー、メジャーリーグ・大洋ホエールズ所属のプロ野球選手(* 1937年)
2008年 - 斎藤守慶 - 毎日放送最高顧問、元代表取締役社長・会長(* 1928年)
2008年 - オベ・アンダーソン、ラリードライバー、元トヨタ・チーム・ヨーロッパ・トヨタF1代表(* 1938年)
2008年 - アガタ・ムロズ、バレーボール選手(* 1982年)

記念日・年中行事
虫歯予防デー(6月10日まで歯の衛生週間)
1928年から1938年まで日本歯科医師会が実施していた記念日。6月4日の「64」が「むし」と読めることから。
ペンテコステ(キリスト教西方教会、2006年)
ローメンの日