東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年6月6日(土曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年6月6日(土曜日)

「夏」。

「6月」です。

「夏」の。

「6月」になりました。

「夏」がきた。

「夏」がきた。

どこにきた。

「山」にきて「里」にきて。

「野」にきたる。

-------------------------------
今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

「晩冬」の「2月」がおわり。
「春」になりました。

「3月」「4月」「5月」がおわり。
「6月」になりました。
「夏」です。

昨年。
「6月」=「夏の始まり」です。
「6月」がおわり「7月」です。
「7月」もおわりました。
最後の夏月「8月」。
夏の「8月」もおわりました。

「9月」の「秋」になり。
「9月」がおわりました。
「10月」もおわりました。
「11月」です。
「秋」「11月」が終わりました。

「12月」です。
「冬」になりました。

昨年の「12月」が終わりました。

「新年」の「初春」になりました。
「1月」がすぎ。

「初春」の「2月」がすぎ。

「3月」「4月」「5月」がおわり。

いま「6月」です。

野の「夏」

里の「夏」。

「まち」の「夏」。

そして。

「わたくし」の「夏」。

「野」の「夏」に。

「里山」の「夏」に。

そして。

街(まち)の「夏」に。

「みどり」の「夏」に。

なりました。

「ちいさな夏」をこえて。

「大きな夏」を。

むかえようとしています。

いまは。

「里山」の「夏」

「野」の「夏」

「まち」の「夏」

「ふゆ」を「むかえよう」。
「新年」そして「初春」。
「くるとしつき」は
「無我のうちにむかえよう」。
「冬」がすぎたら。
そうしたら「春」をむかえよう。
「春」がすぎたら「夏」をむかえよう。

自在に「かんがえることなくながれてゆく」。

「自然」の「ときの流れ」は。
真(まこと)の幸せの「しらべ」。

「1月」は去り「2月」。
「2月」は去り「3月」。
「3月」は去り「4月」。
「4月」は去り「5月」。
「5月」は去り「6月」。

「ひたひた」と。

さらに深まりゆき。

とおりすぎていく「夏」。

「さくさく」とひびく。

日々の過ぎ去る足音は。

「とほとほ」と。

朝早くまだ暗い街中に

聞こえるようにとおざかり。

さってゆき。

そしてまた「新たな季節」が。

かわりにやってくる。

白く柔らかな春霞の衣をまとう若々しい

「春」の「さほ姫」*

は「冬将軍」をいなして。

「春」を導いて。

そしていま。

「佐保姫(さほひめ)」は去り。

「夏」の「6月」になりました。

「佐保姫(さほひめ)」は春の神です。

五行説では春は東の方角にあたります。
平城京の東に佐保山があるために。
春の神は佐保姫と呼ぶようになりました。

白く柔らかな春霞の衣をまとう若々しい女性です。

竜田山の神で秋の竜田姫と対を成すことになります。

「夏」がきて。

去り行く。

日本の「春」の女神(めがみ)

「佐保姫(さほひめ)」。

「どなた」がみつけた「姫君」か。

すごき女神と感嘆致します。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(Johann Wolfgang von Goethe)
の「魔王:Erlkonig」*は。
「おそい冬の夜」の「嵐のなかを馬駆ける」
「父親」と「子」の情景を描写したものです。

かならずしも「冬の夜」を情景と考えなくても
「魔王」の詩*の
その「魔王」の「おそろしさ」は通じます。


魔王(Erlkonig)が。
どのようなものであるかは様々な議論があります。
その名前は字義的には「ハンノキの王」を意味する。

ゲーテは「ハンノキの王」Erlkonigから。
樹木の精霊の王として。
魔王を設定し想像力を膨らませたものです。

この詩はゲーテによって
1782年の歌劇『漁師の娘』
(Die Fischerin) の一部として作詞されました。

-------------------------------

『魔王』はデンマークで生まれた

「比較的新しい伝承」であると考えられます。

それをヨハン・ゴットフリート・ヘルダーが
ドイツ語に翻訳した『ハンノキの王の娘』
(Erlkonigs Tochter)が
ゲーテの詩の元になっています。

これはヘルダーが1778年に出版し
た『歌の中の人々の声』
(Stimmen der Volker in Liedern)という
民謡を集めた本に収録されています。

魔王(Erlkonig)が。
どのようなものであるかは様々な議論があります。
その名前は字義的には「ハンノキの王」を意味する。
英訳としては。
「妖精の王」(Elf King)がよく用いられます。
それに当たるドイツ語は。
「Elfenkonig」になってしまいます。

よく聞かれる説としては「Erlkonig」は
デンマーク語で妖精の王を意味する
「ellerkonge」または「elverkonge」からの
誤訳だとするものがあります。

しかし。
ゲーテはむしろその「ハンノキの王」から。
樹木の精霊の王として。
魔王を設定し想像力を膨らませたものです。

ドイツおよびデンマークの伝承では
魔王は死の前兆として登場します。
その意味では
「アイルランドのバンシー」
に似ています。

魔王は死に瀕した人物の前に現れます。
魔王の姿かたちや表情がこれから
その人物に訪れる死の内容を表します。

苦しい表情であれば苦しい死であるし
穏やかな表情であれば穏やかな死であるという。
別の解釈としては
妖精の王に触れられた者は必ず死に至るという
伝承が元になったという説もあります。

-------------------------------

今は「6月」の「夏」

早いです。

速いものです。

速いのか早いのか。

はやいのか。

けさ暗いうちに。

地をはうような。

「季節風」の

嵐(あらし)がふきました。

「夏の花」と「季節風」は。

相性が。

よくないようです。

もしかしたら逆に。

極めて相性が。

よいのかもしれません。

どちらかです。

暗い朝に。

「夏の花」の花びらが。

夜の間に「季節風」の。

弓風に射られて。

白鷺の羽が舞いおりているようです。

「夏」の。

「季節風」の音は。

宙を舞う前の。

「むささび」の声のような。

「おたけび」。

けれども。

しだいに。

「季節風」は。

歌声のようにかわりました。

そして「6月」の「夏」。

「季節風」のバラード

が聞こえます。

「季節風」。

「「夏」いちばん」。

今日の朝暗いうちに。
秋の暗闇の地面のうえから。

「早朝に「季節風」の音」
が聞こえました。

不思議な「「夏」の「夏かぜ」の音」。
「鳴き声」のようです。

いつしか。
「季節風」と。
「「夏かぜ」の音」だけになりました。

「夏かぜ」と
「季節風」は。
早朝暗いうちにふくものである
ことがわかります。

「絵」にかきたい「音」なのです。

面白いが「おそろしい」情景であるような気も致します。
しいてこわい光景をおもいうかべるのであれば

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(Johann Wolfgang von Goethe)
の「夏」の「魔王」のようになるのでしょう。

「夏」の声。
「こうこう」と鳴く。
「季節風」
の風音がくわわっていきます。

その「季節風」の音の。
背景に流れる「通奏低音:Generalbass;ゲネラル・バス」*
「はるのはるかぜ」のこえは。
暗闇の「はるの足音」のように聞こえる。
あかるい「夏」の日に。
「陽射しの降るまち」では。
「足音だけが遠ざかっていく」「足音」

「とぼとぼ」
にしだいに重複してきました。
「夏」のあさの「あしおと」と。
「さむさ」のさるあしおとの。
そして「夏」のあしおとの。
「フーガ」と「カノン」。
「季節風」はトッカータ。
「なついちばん」は「フーガ」と「カノン」。*
-------------------------------

通奏低音(つうそうていおん)とは
バロック音楽において行われる演奏形態の一つです。
低音部の旋律とともに即興的な和音を付け加えて演奏する形態です。
イタリア語のバッソ・コンティヌオ(Basso continuo)

の訳語です。
伴奏楽器が間断なく演奏し続けるということからこの名があります。
略してコンティヌオと呼ぶことも多いです。
ドイツ語のゲネラルバスも使われることがあります。

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常緑の木々の深冬葉のいろ。
緑がますますあざやかに。
深まる秋におちついて。
考えるが如く
「ロダンの彫塑」の色合いです。

常緑の木々の葉は。
深緑(ふかみどり)になりました。
そして「夏」をむかえて。
「夏緑」のいろあいに
うつろいできました。
もう「緑をうつろいて」
さすがにつかれた黄赤色の葉もみえます。
枯れ葉も樹木のにぎわいです。木々の防熱衣としては
なくてはならないものです。
「夏」をむかえます。

「夏」の夜明(よあけ)の空から。
「夏」の陽がのぼり。
「夏」の日の「空色」になってきました。

けれども。
朝暗いうちはミルクのはいった
コバルトのような
カフエ・オレ・コバルトの空色です。
そして雲は天高く「夏」の雲です。

あさの04:00AMころに。

東の空
さやかににあかるく
まだくらくあおく
しだいに
雲多い空はラピズラズリからトルコ石
のようににうつろうように。
しらんできます。

その上空にさらに。
明らかなる大きな質量のある。
「深まる「夏」の気配」を感じます。

夏野路はた見たりビロードのしだ
夏わらべのごときビロードのしだ
夏わらびのごとく輝けりビロードのしだ
夏山奥にひそむビロードのしだ
夏しのぶの羊歯(しだ)ビロードのしだ
夏めずらしき羊歯ビロードのしだ
夏ときわの緑のほのほビロードのしだ
夏山奥のしだのビロードのしだ
夏「まち」にもいきるビロードのしだ
夏けなげなりもあはれなりビロードのしだ
夏生い立ちしらずビロードのしだ
夏されどそのちからこそとほとしビロードのしだ

「夏」きたれり。

「夏」いざいまこそは

「夏」よき季節にあらむ

「夏」ふと空をみる

今時にもかかわらず放射冷却で
朝はとても寒いが。
「ぬくもり」はある。

確実に日は長くなりました。
葉木(はき)の樹木は「木」にかわり。
秋の木から「冬の木」にうつろいさらに
「「春」の木」から。
「「夏」の木」にうつろう時期
です。

外路樹の若葉は
緑濃くオリーブの葉のごとし
つみとりたくなる
ほどにきれいです。
けれどもひそやかに木々の葉にも
深い「春」からさらに「夏」。
の気配がうつろいて。
うつります。

そして春の「佐保姫(さほひめ)」
は微笑みをうかべてよそのくにへ
たびだちました。

夏まちなみ蒼く(あおく)
夏いろどりて
夏木々の榛葉のかがやけり
夏暑さの夏秋をうつろひて
夏ふかまるみどりの夏木なり
夏しずまるみどりの夏木なり
夏みのりの夏こそありがたし
春みのりの夏こそこひしかり
春虫なきてささやけり
春木々は榛葉にかがやけり

道端の野草もかわいらしい。
冬化粧をして。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は気温がさがり大気は不安定です。
「寒い」。
寒いと首都高の自動車も暗い中
「辛そうな運転の車」が多いです。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成21年1月12日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)
は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)
は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------
平成21年4月29日(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。
梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼の青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝

「今日は何の日」は。

代表作の悲劇『ル・シッド』(1637年)により。
名声を博し。

ラシーヌ、モリエールと並び称される。
フランスの詩人であり劇作家。
「劇作」とは「なにか」をふかく
追求した劇作家。

1606年 - ピエール・コルネイユ、詩人・劇作家(+ 1684年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

ピエール・コルネイユ
:Pierre Corneille,
1606年6月6日 -
1684年10月1日)は。
17世紀フランス、古典主義の時代の劇作家。

ラシーヌ、モリエールと並び称されます。

代表作の
悲劇『ル・シッド』(1637年)により名声を博しました。

ただし古典主義で重要視された三一致の法則に従っていない
として非難も浴びました。

彼の肖像はかつて
フランスの100フラン紙幣に描かれてい
ました。

++++++++++++++++++++++

ピエール・コルネイユ
:Pierre Corneille
は。

コルネイユはルーアンで生まれました。
父親は小官吏のピエール・コルネイユ、
母親はマルト・ル・パサン。

厳格なイエズス会の教育を受けました。

18歳になると法律を学び始め、
法職に就くが成功はしませんでした。

父親はコルネイユをルーアンの役所に入れました。

++++++++++++++++++++++

ピエール・コルネイユ
:Pierre Corneilleが。

コルネイユは余暇を利用して最初の戯曲を書いたが、
それが何なのかは正確にはわかっていません。

わかっているのは、
1629年に喜劇『メリット Melite 』
を書いて。
旅芸人一座のところに持って行ったということです。

それは気に入られ。
それは一座のレパートリーとなりました。

それがパリで成功致しました。
コルネイユは定期的に劇を書き出しました。

同年、パリに移り。
フランス演劇界の人気劇作家の一人になりました。

++++++++++++++++++++++

ピエール・コルネイユ
:Pierre Corneille
の。

『メリット』など彼の初期の喜劇は、
流行の先端をゆく
パリっ子たちの言葉遣いやマナーを
反映させていました。

それまでの伝統的なフランスの笑劇とは
まったくかけ離れたものでした。

コルネイユは自身の喜劇のバラエティさを
「紳士階級の会話の1枚の絵」と語りました。

そして、1635年、
彼は最初の悲劇『メデ Medee 』を書きました。

++++++++++++++++++++++

ピエール・コルネイユ
:Pierre Corneille
は。

5人の詩人の会
1634年、コルネイユはさらなる注目を集めました。

リシュリュー卿がルーアンを訪問することになり。

コルネイユはそのための詩を書くことになりました。
その詩がリシュリュー卿に気に入られました。

リシュリューはコルネイユを
「5人の詩人の会 Les Cinq Auteurs 」
の一人に選びました。

ちなみに他の4人は、
ギヨーム・コルテ、
フランソワ・ル・メテル・ド・ボワロベール、
ジャン・ロトルー、
クロード・ド・レストワールでした。
この5人は、美徳を高める新しい劇を望む
リシュリューのヴィジョンを実現するために選ばれました。

リシュリューがアイディアを提示し、
それを5人は劇の形にするのです。

++++++++++++++++++++++

ピエール・コルネイユ
:Pierre Corneille
にとって。

だが、リシュリューの要求は
コルネイユにはあまりに制限が多すぎました。

コルネイユはリシュリューが線引きした
境界の外側に。
活路を見いだそうとしました。

当然、
雇い主と雇われ作家の間に確執が生じました。

最初の契約期間が過ぎた後、
コルネイユは会を去り、
ルーアンに戻ることになりました。

++++++++++++++++++++++

『ル・シッド』論争
その翌年、コルネイユは彼の代表作といえる
『ル・シッド Le Cid 』を書きました。

元になったのはスペインの劇作家
ギジェン・デ・カストロ・イ・ベルビス(1569年 - 1631年)
の書いた『Mocedades del Cid(シッドの青春)』
(1621年。一説には1599年とも)です。

中世スペインの武人
ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール(エル・シド)の
伝説に基づいています。

++++++++++++++++++++++

1637年のオリジナルの版では「悲喜劇」
という副題がついていました。

古典的な悲劇/喜劇の区分けを意図的に無視した、
という表明でした。

『ル・シッド』は記録的な大ヒットとなりました。

しかし、激しい批判の的となりました。

俗に言う『ル・シッド』論争です。

++++++++++++++++++++++

リシュリュー卿の
アカデミー・フランセーズは
劇の成功は認めはしたが。

その劇には劇の鉄則から外れていると
主張しました。

劇の鉄則である
「時・場・筋の三一致の法則」
(劇は1日の間、1つの場所で、
1つの行為だけで完結しないといけない)
が守られていないというのです。

まったく新しい形式の『ル・シッド』は、
国家が文化活動を支配しているという
主張の具現化でもありました。

リシュリューはアカデミーに、
これまで通り、フランス語を純化・統一させる一方で、
『ル・シッド』の分析を命令致しました。

++++++++++++++++++++++

一方で、ヒロインの行動が不道徳だと、
パンフレットによる糾弾キャンペーンも繰り広げられました。

こうした攻撃は、劇場は道徳的教育の場であるという
古典的な理論に基づいたものでした。

『ル・シッド』に対してのアカデミーの勧告は、
ジャン・シャプランの本
『Sentiments de l'Academie francaise sur la tragi-comedie du Cid
(悲喜劇ル・シッドに対するアカデミー・フランセーズの感情)』
(1638年)に詳しい。

また、著名な作家
ジョルジュ・ド・スキュデリーは
『Observations sur le Cid(ル・シッドについての観察)』
(1637年)という劇の中で厳しい批判を行いました。

++++++++++++++++++++++

ピエール・コルネイユ
:Pierre Corneille
は。

もはや論争が手には負えないものになり、
コルネイユはルーアンに戻ることにしました。

彼が作品の不評のたびに
筆を折ることはしばしばだったが、
この時がその最初でした。

++++++++++++++++++++++

ピエール・コルネイユ
:Pierre Corneille
は。

『ル・シッド』論争への返答
コルネイユが劇作に復帰したのは
1640年のことだった。

『ル・シッド』論争で、
コルネイユは、古典的な劇のルールに
細心の注意を払うことにした。

その証拠はさっそく作品に現れる。
『オラース Horace 』(1640年。リシュリューに献呈)、
『シンナ Cinna 』(1643年)、
『ポリウクト Polyeucte 』(1643年)
はいずれも古典的な悲劇だった。
この3作と『ル・シッド』は、
一般にコルネイユの四大悲劇と呼ばれています。

さらにコルネイユはアカデミーの批判に応えるため、
三一致の法則に近づけた
『ル・シッド』の複数の改訂版(1648年、1660年、1682年)
も作った。
そこにはもう「悲喜劇」の副題はついておらず、
代わりに「悲劇」となっていた。

++++++++++++++++++++++

1640年代中頃には、コルネイユは
絶大な人気を誇るようになっていて、
最初の戯曲集も出版されました。

1641年にはマリー・ド・ランペリエールと結婚、
7人の子供をもうけました。

1640年代の中頃から後半にかけて、
コルネイユは多くの悲劇を書きました。
『ポンペイの死 La Mort de Pompee 』(1644年初演)、
『ロドギューヌ Rodogune 』(1645年初演)、
『テオドール Theodore 』(1646年初演)、
『エラクリウス Heraclius 』(1647年初演)。
さらに喜劇も1本書いている。『嘘つき男 Le Menteur 』(1644年)
です。

++++++++++++++++++++++

ピエール・コルネイユ:Pierre Corneille
は。

1652年、『ペルタリト Pertharite 』が不評で、
落胆したコルネイユは再び筆を断った。
その代わり、トマス・ア・ケンピスの
『キリストにならいて』の翻訳に没頭し、
それは1656年までかかった。
コルネイユが劇作に戻ったのは、
1659年になってからで、その時書かれた
『エディップ Oedipe 』はルイ14世に大変気に入られた。
その翌年、
『Trois discours sur le poeme dramatique
(劇的詩に関する3つの会話)』
という本を出しました。

この本は『ル・シッド』論争に対する返答のように見えます。

++++++++++++++++++++++

ピエール・コルネイユ
:Pierre Corneille
は。
本の中で、彼は古典劇の鉄則の重要性を説きながら、
同時に『ル・シッド』でその鉄則を破ったことを
正当化しています。

「三一致の法則」のよりどころである
アリストテレスの劇の指針は。

けっして文字通りに読むものではない
、解釈は自由である。

古典劇の鉄則は確かに間違ってはいないが、
だからといって、
スタイルの革新を専制的に抑圧すべきではない、と。

++++++++++++++++++++++

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ピエール・コルネイユ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ピエール・コルネイユ:Pierre Corneille, 1606年6月6日 - 1684年10月1日)は、17世紀フランス、古典主義の時代の劇作家で、ラシーヌ、モリエールと並び称される。

代表作の悲劇『ル・シッド』(1637年)により名声を博すが、古典主義で重要視された三一致の法則に従っていない、として非難も浴びた。

彼の肖像はかつて、フランスの100フラン紙幣に描かれていた。

生涯

初期
コルネイユはルーアンで生まれた。父親は小官吏のピエール・コルネイユ、母親はマルト・ル・パサン。厳格なイエズス会の教育を受け、18歳になると法律を学び始め、法職に就くが成功はしなかった。父親はコルネイユをルーアンの役所に入れた。コルネイユは余暇を利用して最初の戯曲を書いたが、それが何なのかは正確にはわかっていない。わかっているのは、1629年に喜劇『メリット Melite 』を書いて、旅芸人一座のところに持って行ったということだ。それは気に入られ、一座のレパートリーとなった。それがパリで成功すると、コルネイユは定期的に劇を書き出した。同年、パリに移り、フランス演劇界の人気劇作家の一人になった。『メリット』など彼の初期の喜劇は、流行の先端をゆくパリっ子たちの言葉遣いやマナーを反映させていて、それまでの伝統的なフランスの笑劇とはまったくかけ離れたものだった。コルネイユは自身の喜劇のバラエティさを「紳士階級の会話の1枚の絵」と語った。そして、1635年、彼は最初の悲劇『メデ Medee 』を書いた。

5人の詩人の会 [
1634年、コルネイユはさらなる注目を集めた。リシュリュー卿がルーアンを訪問することになり、コルネイユはそのための詩を書くことになったのだが、その詩がリシュリュー卿に気に入られ、リシュリューはコルネイユを「5人の詩人の会 Les Cinq Auteurs 」の一人に選んだ。ちなみに他の4人は、ギヨーム・コルテ、フランソワ・ル・メテル・ド・ボワロベール、ジャン・ロトルー、クロード・ド・レストワールだった。

この5人は、美徳を高める新しい劇を望むリシュリューのヴィジョンを実現するために選ばれた。リシュリューがアイディアを提示し、それを5人は劇の形にするのである。だが、リシュリューの要求はコルネイユにはあまりに制限が多すぎた。コルネイユは、リシュリューが線引きした境界の外側に活路を見いだそうとした。当然、雇い主と雇われ作家の間に確執が生じた。最初の契約期間が過ぎた後、コルネイユは会を去り、ルーアンに戻ることにした。

『ル・シッド』論争
その翌年、コルネイユは彼の代表作といえる『ル・シッド Le Cid 』を書いた。元になったのはスペインの劇作家ギジェン・デ・カストロ・イ・ベルビス(1569年 - 1631年)の書いた『Mocedades del Cid(シッドの青春)』(1621年。一説には1599年とも)で、中世スペインの武人ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール(エル・シド)の伝説に基づいている。

1637年のオリジナルの版では「悲喜劇」という副題がついていた。古典的な悲劇/喜劇の区分けを意図的に無視した、という表明だった。『ル・シッド』は記録的な大ヒットとなった。しかし、激しい批判の的となった。俗に言う『ル・シッド』論争である。リシュリュー卿のアカデミー・フランセーズは劇の成功は認めはしたが、その劇には劇の鉄則から外れていると主張した。劇の鉄則である「時・場・筋の三一致の法則」(劇は1日の間、1つの場所で、1つの行為だけで完結しないといけない)が守られていないというのである。まったく新しい形式の『ル・シッド』は、国家が文化活動を支配しているという主張の具現化でもあった。リシュリューはアカデミーに、これまで通り、フランス語を純化・統一させる一方で、『ル・シッド』の分析を命令した。

一方で、ヒロインの行動が不道徳だと、パンフレットによる糾弾キャンペーンも繰り広げられた。こうした攻撃は、劇場は道徳的教育の場であるという古典的な理論に基づいたものだった。『ル・シッド』に対してのアカデミーの勧告は、ジャン・シャプランの本『Sentiments de l'Academie francaise sur la tragi-comedie du Cid(悲喜劇ル・シッドに対するアカデミー・フランセーズの感情)』(1638年)に詳しい。また、著名な作家ジョルジュ・ド・スキュデリーは『Observations sur le Cid(ル・シッドについての観察)』(1637年)という劇の中で厳しい批判を行った。

もはや論争が手には負えないものになり、コルネイユはルーアンに戻ることにした。彼が作品の不評のたびに筆を折ることはしばしばだったが、この時がその最初だった。

『ル・シッド』論争への返答
コルネイユが劇作に復帰したのは1640年のことだった。『ル・シッド』論争で、コルネイユは、古典的な劇のルールに細心の注意を払うことにした。その証拠はさっそく作品に現れる。『オラース Horace 』(1640年。リシュリューに献呈)、『シンナ Cinna 』(1643年)、『ポリウクト Polyeucte 』(1643年)はいずれも古典的な悲劇だった。この3作と『ル・シッド』は、一般にコルネイユの四大悲劇と呼ばれている。さらにコルネイユはアカデミーの批判に応えるため、三一致の法則に近づけた『ル・シッド』の複数の改訂版(1648年、1660年、1682年)も作った。そこにはもう「悲喜劇」の副題はついておらず、代わりに「悲劇」となっていた。

1640年代中頃には、コルネイユは絶大な人気を誇るようになっていて、最初の戯曲集も出版された。1641年にはマリー・ド・ランペリエールと結婚、7人の子供をもうけた。1640年代の中頃から後半にかけて、コルネイユは多くの悲劇を書いた。『ポンペイの死 La Mort de Pompee 』(1644年初演)、『ロドギューヌ Rodogune 』(1645年初演)、『テオドール Theodore 』(1646年初演)、『エラクリウス Heraclius 』(1647年初演)。さらに喜劇も1本書いている。『嘘つき男 Le Menteur 』(1644年)である。

1652年、『ペルタリト Pertharite 』が不評で、落胆したコルネイユは再び筆を断った。その代わり、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』の翻訳に没頭し、それは1656年までかかった。コルネイユが劇作に戻ったのは、1659年になってからで、その時書かれた『エディップ Oedipe 』はルイ14世に大変気に入られた。その翌年、『Trois discours sur le poeme dramatique(劇的詩に関する3つの会話)』という本を出した。この本は『ル・シッド』論争に対する返答のように見える。本の中で、彼は古典劇の鉄則の重要性を説きながら、同時に『ル・シッド』でその鉄則を破ったことを正当化している。彼はこう主張する。三一致の法則のよりどころであるアリストテレスの劇の指針はけっして文字通りに読むものではない、解釈は自由である。古典劇の鉄則は確かに間違ってはいないが、だからといって、スタイルの革新を専制的に抑圧すべきではない、と。

その後の作品
復帰後のコルネイユは矢継ぎ早に作品を発表した。1659年以降の14年間、1年に1本のペースだった。しかし初期作品ほどのヒットはなかった。そのうち、他の作家たちが人気を得はじめた。1670年、コルネイユはライバルのジャン・ラシーヌと同じ題材の劇を競作した。もっとも、二人とも競作になることは知らなかった(そうでないという説もある)。同年11月、両者の劇が相次いで上演されたが、コルネイユの『ティットとベレニス』はラシーヌの『ベレニス』に完敗した。モリエールもまた当時の人気劇作家だが、そのモリエール(ならびにフィリップ・キノー)の協力を得て、コルネーユは喜劇『プシケ Psyche 』(1671年)を発表した。しかし、復帰後コルネイユが手がけた作品のほとんどは悲劇だった。『金羊毛 La Toison d'or 』(1660年)、『セルトリユス Sertorius 』(1662年)、『オトン Othon 』(1664年)、『アジェジラス Agesilas 』(1666年)、そして『アッティラ Attila 』(1667年)。

コルネイユの最後の作品は悲劇『シュレナ Surena 』(1674年)である。この後、彼は劇作から引退し、パリの自宅で亡くなり、サン・ロックに埋葬された。記念碑が建てられたのは1821年になってからだった。

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6月6日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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できごと
1523年 - スウェーデンがカルマル同盟からの離脱・独立を宣言、グスタフ1世が国王に即位する。
1644年(順治元年5月2日) - 清の八旗軍が北京に入城、清による中国全土の支配が始まる。
1808年 - ナポレオン・ボナパルトの兄ジョゼフ・ボナパルトがホセ1世としてスペイン王に即位。
1844年 - ロンドンでキリスト教青年会(YMCA)が創立。
1884年 - フランス・ベトナム条約(パトノートル条約)締結。仏領インドシナの一部としての植民地支配開始。
1925年 - ウォルター・クライスラーによってクライスラー社が創業。
1925年 - パリでプロコフィエフの交響曲第2番が初演。
1933年 - アメリカニュージャージー州カムデンで世界初のドライブインシアターが開業した。
1936年 - 日本発条創業。
1941年 - 北海道紋別郡雄武町で幌内ダム決壊事故発生。60名が死亡する。
1944年 - 第二次世界大戦でノルマンディー上陸作戦が決行される。
1945年 - 沖縄戦: 陸戦隊指揮官大田実海軍少将が海軍次官宛に後世有名になった「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を打電。
1946年 - ニューヨークでNBAが創立。
1950年 - 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により日本共産党中央委員24名が公職追放の対象となる。
1961年 - モスクワ地下鉄カリツェヴァーヤ線のセルプホフスカヤ駅がドブルイニンスカヤ駅に改名。
1965年 - 日本サッカーリーグが発足する。
1971年 - ソユーズ11号が打ち上げられる。
1971年 - 米CBSで1948年から放送されていた長寿バラエティ番組『エド・サリヴァン・ショー』最後の放送。
1982年 - イスラエルがレバノンに侵攻、レバノン戦争勃発。
1993年 - モンゴルで初の大統領直接選挙が行われる。
1994年 - コロンビアでマグニチュード6.6の地震、約800名の死者を出す。
1996年 - わかしお銀行(現・三井住友銀行)設立。
2003年 - 戦後はじめて有事法制が成立。
2004年 - 上海インターナショナルサーキットオープン。
2004年 - 近鉄あやめ池遊園地閉園。
2005年 - ボリビアガス紛争: ボリビアのメサ大統領が辞任。

誕生日
1599年 - ディエゴ・ベラスケス、画家(+ 1660年)
1606年 - ピエール・コルネイユ、詩人・劇作家(+ 1684年)
1723年(享保8年5月4日) - 池大雅、画家(+ 1776年)
1799年(ユリウス暦5月26日)- アレクサンドル・プーシキン、詩人(+ 1837年)
1829年(文政12年5月5日) - 本因坊秀策、囲碁棋士(+ 1862年)
1840年 - ジョン・ステイナー、作曲家(+ 1901年)
1850年 - フェルディナント・ブラウン、物理学者(+ 1918年)
1868年 - ロバート・スコット、南極探検家(+ 1912年)
1869年 - ジークフリート・ヴァーグナー、作曲家・指揮者・バイロイト音楽祭芸術監督(+ 1930年)
1872年 - アレクサンドラ皇后、ニコライ2世の皇后(+ 1918年)
1875年 - トーマス・マン、小説家(+ 1955年)
1876年 - 石橋和訓、画家(+ 1928年)
1888年 - 神近市子、評論家・政治家(+ 1981年)
1896年 - 務臺光雄、実業家(+ 1991年)
1898年 - ニネット・ド・ヴァロア、バレエダンサー、振付師(+ 2001年)
1901年 - スカルノ、初代インドネシア大統領(+ 1970年)
1903年(ユリウス暦5月24日) - アラム・ハチャトゥリアン、作曲家(+ 1978年)
1910年 - フリーツィ・ブルガー、フィギュアスケート選手(+ 1999年)
1912年 - 新田次郎、小説家(+ 1980年)
1917年 - 小森邦夫、彫刻家 (+ 1993年)
1919年 - 久松保夫、俳優・声優(+ 1982年)
1922年 - ドナルド・キーン、日本文学研究家
1924年 - セルジュ・ニグ、作曲家
1925年 - 大滝秀治、俳優
1926年 - クラウス・テンシュテット、指揮者(+ 1998年)
1927年 - ピーター・スピア、作家・イラストレーター
1930年 - 井原高忠、テレビディレクター
1933年 - 篠沢秀夫、学習院大学名誉教授・東京放送「クイズダービー」レギュラー解答者
1934年 - アルベール2世、ベルギー王
1934年 - 山田太一、脚本家・小説家
1936年 - 内山田洋、作曲家・内山田洋とクール・ファイブリーダー(+ 2006年)
1942年 - 那須正幹、児童文学作家
1943年 - リチャード・スモーリー、化学者(+ 2005年)
1944年 - 久米田正明、ロジフレックス(株)代表取締役社長、馬主
1946年 - 中尾ミエ、歌手
1948年 - 奥柿幸雄、元プロ野球選手
1949年 - 中村勝広、元プロ野球選手
1949年 - 前田三夫、高校野球指導者
1950年 - 渡部司、元プロ野球選手
1952年 - 高橋幸宏、音楽プロデューサー
1952年 - ウガンダ・トラ、タレント・ドラマー(+ 2008年)
1953年 - 大河原栄、元プロ野球選手
1955年 - クリス・ナイマン、元プロ野球選手
1956年 - ビョルン・ボルグ、元プロテニス選手
1957年 - マックス・ヴェナブル、元プロ野球選手
1960年 - スティーヴ・ヴァイ、ギタリスト
1960年 - 小川史、元プロ野球選手
1962年 - 高仁秀治、元プロ野球選手
1963年 - ジェイソン・アイザックス、俳優
1963年 - 宮島大典、政治家
1965年 - 緒方恵美、声優
1966年 - フォール・ニャシンベ、トーゴ大統領
1966年 - 木谷高明、ブロッコリー創業者
1967年 - 吉田小南美、声優
1968年 - ドミニク・ブフ、騎手
1970年 - 垣内哲也、元プロ野球選手
1971年 - 両國宏、俳優・元大相撲力士
1971年 - 風花舞、女優
1972年 - ジェフ・ウィリアムス、プロ野球選手
1973年 - 根本隆輝、元プロ野球選手
1973年 - 沼田浩、元プロ野球選手
1973年 - 武藤孝司、元プロ野球選手
1974年 - 小沢征悦、俳優
1975年 - 豊本明長、お笑い芸人(東京03)
1975年 - 陳綺貞(チアー・チェン)、台湾のシンガーソングライター
1977年 - クリストファー・ライト、元プロ野球選手
1979年 - 尾羽智加子、女優
1980年 - デウォン・ブラゼルトン、メジャーリーガー
1980年 - 張洪波、野球選手
1981年 - 宮﨑大輔、ハンドボール選手
1981年 - 麻生奈央、グラビアアイドル
1983年 - 郭敬明、作家
1984年 - 天宮まなみ、AV女優
1985年 - 斉川あい、女優・モデル
1985年 - 平山相太、サッカー選手
1986年 - 田澤純一、メジャーリーガー
1986年 - 太田ゆうき、グラビアアイドル
1986年 - 和田直也、作曲家
1986年 - キム・ヒョンジュン(金賢重)、歌手(SS501)
1986年 - 藤原虹気、元プロ野球選手
1987年 - 夏目佳奈、タレント
1988年 - 斎藤佑樹、野球選手
1988年 - 宮坂翔、サッカー選手
1988年 - 真田春香、AV女優
1990年 - 山本徹矢、プロ野球選手
1991年 - 米沢瑠美、AKB48
1992年 - 村上愛、元℃-ute
1993年 - 田中あさみ、ファッションモデル、女優
生年不明 - 岩井勇一郎、ミュージシャン(三枝夕夏IN db)

忌日
823年(弘仁14年4月24日) - 文室綿麻呂、公卿・征夷大将軍(* 765年)
1184年(元暦元年4月26日) - 源義高、武将(* 1173年?)
1185年(元暦2年5月7日) - 平能宗、武将(* 1178年?)
1393年(明徳4年4月26日) - 後円融天皇、北朝第5代天皇(* 1359年)
1473年(文明6年5月11日) - 細川勝元、室町幕府の管領、応仁の乱の東軍総大将(* 1519年)
1583年(天正11年4月20日) - 中川清秀、戦国武将(* 1542年)
1620年(元和6年5月6日) - 足利氏姫、最後の古河公方(* 1574年)
1638年(寛永15年4月24日) - 堀利重、初代玉取藩主(* 1581年)
1670年(寛文10年4月19日) - 大久保忠職、唐津藩主(* 1604年)
1695年(元禄8年4月25日) - 松平直矩、村上藩主(* 1642年)
1716年(正徳6年4月17日) - 公弁法親王、江戸時代の皇族(* 1669年)
1722年(享保7年4月23日) - 内藤政貞、第3代湯長谷藩主(* 1685年)
1729年(享保14年5月10日) - 松平義真、第3代梁川藩主(* 1714年)
1769年(明和5年5月3日) - 板倉勝澄、第2代伊勢亀山藩主(* 1719年)
1783年(天明3年5月7日) - 松浦宝、平戸新田藩主(* 1749年)
1799年 - パトリック・ヘンリー、アメリカ独立運動指導者・バージニア州知事(* 1736年)
1818年 - ヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ、ポーランドの軍人(* 1755年)
1824年(文政7年5月10日) - 松平頼前、第7代常陸府中藩主(* 1743年)
1832年 - ジェレミ・ベンサム、法学者(* 1748年)
1836年 - アントン、第2代ザクセン王(* 1755年)
1843年 - フリードリヒ・ヘルダーリン、詩人・思想家(* 1770年)
1844年(天保15年4月21日) - 松崎慊堂、儒学者(* 1771年)
1851年(嘉永4年5月7日) - 内田正道、第7代小見川藩主(* 1828年)
1860年(万延元年4月17日) - 細川斉護、第10代熊本藩主(* 1804年)
1861年 - カミッロ・ベンソ・ディ・カヴール、イタリア王国初代首相(* 1810年)
1865年 - ウィリアム・クァントリル、アメリカ西部開拓時代のゲリラ部隊隊長(* 1837年)
1881年 - アンリ・ヴュータン、作曲家・ヴァイオリニスト(* 1820年)
1891年 - ジョン・A・マクドナルド、初代・第3代カナダ首相(* 1815年)
1893年 - 寺島宗則、外交官(* 1832年)
1903年 - 清沢満之、哲学者(* 1863年)
1903年 - 藤井宣正、宗教家・探検家(* 1859年)
1916年 - 袁世凱、中華民国初代大総統(* 1859年)
1919年 - 井上円了、東洋大学創設者(* 1858年)
1925年 - ピエール・ルイス、小説家(* 1870年)
1936年 - イーモン・ダガン、アイルランド自由国上院議員(* 1874年)
1942年 - 山口多聞、日本海軍中将(* 1892年)
1946年 - ゲアハルト・ハウプトマン、劇作家(* 1862年)
1946年 - モード・ワトソン、テニス選手(* 1864年)
1948年 - ルイ・リュミエール、リュミエール兄弟の弟(* 1864年)
1956年 - ハイラム・ビンガム、探検家・コネチカット州知事・上院議員(* 1875年)
1960年 - 村松孝一、フルート製作者(* 1898年)
1961年 - カール・ユング、心理学者(* 1875年)
1962年 - イヴ・クライン、画家(* 1928年)
1967年 - 磯谷廉介、元香港占領地総督(* 1886年)
1968年 - ロバート・ケネディ、元アメリカ合衆国司法長官・上院議員(* 1925年)
1969年 - ラファエル・オスナ、テニス選手(* 1938年)
1976年 - デビッド・ジェイコブズ、陸上競技選手(* 1888年)
1977年 - 筑波雪子、女優(* 1906年)
1987年 - 森茉莉、小説家(* 1903年)
1991年 - スタン・ゲッツ、ジャズサックス奏者(* 1927年)
1996年 - ジョージ・スネル、生理学者(* 1903年)
1997年 - 戸倉勝城、プロ野球選手(* 1914年)
1999年 - 徳川宗賢、言語学者(* 1930年)
2000年 - 梶山静六、政治家(* 1926年)
2001年 - ダグラス・リルバーン、作曲家(* 1915年)
2001年 - 来栖良夫、児童文学作家(* 1916年)
2002年 - ロビン・クロスビー、ロックギタリスト・元「ラット」メンバー(* 1959年)
2003年 - ケン・グリムウッド、SF作家・ファンタジー作家(* 1944年)
2005年 - アン・バンクロフト、女優(* 1931年)
2006年 - ビリー・プレストン、ミュージシャン(* 1946年)
2006年 - 大東両、紙切り師・浪曲師(* 1929年)
2008年 - 野田昌宏、SF作家(* 1933年)
2008年 - 関光徳、プロボクサー(* 1941年)
2008年 - 氷室冴子、小説家(* 1957年)

記念日・年中行事
芒種(日本、2002年・2003年)
二十四節気の1つ。太陽の黄経が75度の時で、芒(のぎ)を持った植物の種をまくころ。
顯忠節(韓国)
殉国者に敬意を払う日。
ナショナルデー (スウェーデン)
兄の日
姉妹型・兄弟型の研究者、畑田国男により制定。ちなみに3月6日は「弟の日」、9月6日は「妹の日」、12月6日は「姉の日」である。
楽器の日
恐怖の日
ロールケーキの日
ロールケーキの「ロ」の音と、「6」の形がロールケーキの巻いている形状に見えることに由来。この認定は「小倉ロールケーキ研究会」の活動によるもの。