東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年6月12日(金曜日)

「ここをおして」をクリックされてください。

「ここをおして」をクリックされてください。は
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年6月12日(金曜日)

「夏」=「6月」

になりました。

「夏」です。

今は「初夏」の。

「夏」のはじまりです。

もう「夏」です。

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3.500円

2回法=7.000円

です。

「夏」「6月」です。

昨年。
「秋」になり「9月」がおわり。
「10月」もおわり。
秋の最後の
「11月」「晩秋月」もおわり。
そして「12月」になり「冬」になった。
「12月」もほとんどが過ぎたかな
とおもったら。
12月31日になり。

あっというまに。
「年があらたまりました」。
「春」をすぎて。

そして今「6月」です。

「春」の「3月」「4月」「5月」を

乗り越えて。

「夏」「6月」です。

あまりにも
月日と。
時間と。そして年月のたつ。

その速さに。
恐怖さえをも感じます。

大気は「夏」。

「夏かぜ」は。

夏の「季節風」。

天には「夏」の。

「夏の花」の「はな」。

地には「夏」の。

「夏の花」の「はなびら」。

「夏の花」の

「花」。

「夏」のこの時期には。
樹木の「落ち葉」はおちきり。

「落ち葉」は「ぴたり」ととまります。
落葉ぎりぎりまで。

「夏」をすぎての
「みのり」にそなえて。
しっかりと。

強い「夏」の
太陽の陽射しをえるためであるのしょう。

「夏」には。

「夏の花」の花びらが

「夏の花」の「花」が。

花も見ぬうちに。

暗い夜中のあいだに。

「季節風」に。

弓を射られて。

朝暗いうちにも。

地に落下しています。

樹木は

「夏」の

「夏木」としてのたたずまいから。

まさしく。

あかるい「夏」の。

主人公の。

たたずまいに。

なりました。

「夏の花」に。

夏の「季節風」。

また

「夏」の気配は。

はっきりと。

「まち」の葉木にも感じられます。

この。

「季節風」は。

これから。

「どのようなの風」に。

変化していくのでしょうか。

「6月」の。

「夏の花」の

若花のつぼみが。

「夏の花」の

若花のはなびらが。

たわわにみえます。

「夏の花」のつぼみは。

いつでも咲きそうな。

つぼみばかりです。

白いどんぐりのような。

つぼみです。

昨年の「晩秋」
「金木犀:きんもくせい」の残り香は
とおくから。
「とぼとぼ」と歩いてくるように。
ほのかに漂い。
また「とぼとぼ」と歩き去っていった
ようにいなくなりました。

「初夏」の。
「夏の花」の花びらは。
「やぶつばき」の花びらは。
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに蕾膨らみ
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに花咲き
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに花びらが舞う。

「夏」「あけぼの」の。

空の色は。

まさしくも

「夏」の「空色」

になってきました。

ミルクのはいった

コバルトのような

空色です。

冬至はおわりましたから。

もうすでに。

しだいに。

次第に陽ののぼるのは。

とてもはやくなり。

陽がくれるのは。

とてもおそくなっています。

今は「夏」。

「6月」です。

「春」の。

「3月」「4月」「5月」が去りゆき。

今はみのりの「夏」「6月」です。

あさの04:00AMころは。
くらくあおく
しだいに
そらがラピズラズリから
トルコ石にうつろうように。
そらがしらんできます。

「夏」の季節の気配からは。

まぢかいけれども。
さらに「なにかが深まりゆく」。
そして「夏」の訪れから。

さらにさらに。
深い「夏」に向かい。
そしてさらに。
深い「夏」の向こう側に。
さらなる「秋」の気配の。
あることが。
良くわかります。

川端康成の。

「雪国」の。

トンネルの中から。

「向こう側」は「雪国」。

そして

「雪国」をすぎれば。

そこは「春の国」。

そして。

今は「夏」です。

「夏」から先にもトンネル

はあるのだろうか。

夏池面(いけも)の水面(みずも)
夏おさなき小さなわかみどり
夏なもしらぬ
夏小さな緑の浮き草
夏若草うきつあつまりて
夏つらなり水面(みずも)
夏水面(みずも)をおおいたり
夏水面(みずおも)にて
夏風にきそいてさまよえり
夏ちひさきわらべのごとし
夏池面の水面(みずおも)の。
夏小さきちひさなわかみどり

夏いざいまこそは
夏よき季節にあらむ
夏水面(みずも)なるそら
夏ふと空をみる

夏早朝(はやあさ)に
夏けふもはだのさむけれど
夏ぬくもりのあさ
夏陽のありがたき
夏われあゆむがごと
夏陽はあたかくなりけり
夏葉木は強き木にかわりたり
夏みちをあかるくてらさむ
夏がいだく木
夏はぐくむ木
夏みどり木あおし
夏実りの木紅し(あかし)
夏来(きた)るらむ

道端の冬野草の花もかわいらしい。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

たわわなり
みかんのわか実
みかんの「夏」の実

蜜柑のいらかをかぜはやみ
はなつかぜぜひるむや
「季節風」
みかん実つきひ
はやいくとせ

夏地にも木にも

夏みどり葉ひらき

夏みどり木ときわ木

夏ひろがりて

夏いふことのなし

夏いふことがなし

夏いふことはなし

夏ゆたかなりけり

今年の早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は寒いです。
「毎朝寒い」。
寒いと首都高の自動車も
「寒そうな運転の車」が多いです。

それでも「「夏」はきぬ」。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

++++++++++++++++++++++

平成21年1月12日日(月曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年2月11日(水曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年3月20日(金曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年4月29日(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年7月20日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3.500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。

梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼に青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

感謝・感謝です。

「今日は何の日」は。

日記の日 です。

1942年6月12日に。
ポーランド系ユダヤ人の
アンネ・フランクによって「アンネの日記」が
書き始められたことにちなんでいます。

(1929年)
6月12日はちなみに
アンネリーズ・マリー・フランク:Annelies Marie Frank
=アンネ・フランク:Anne Frank
の生誕日でもあります。

「アンネの日記」の
アンネ・フランク:Anne Frankについて。

++++++++++++++++++++++

アンネ・フランク(Anne Frank、
1929年6月12日 - 1945年3月12日)は。

『アンネの日記』の著者。
1942年6月14日から
1944年8月1日までの隠れ家での
生活を闊達な筆致で描写したこの日記。

死後に世界各国で出版され、
世界的なベストセラーとなりました。

++++++++++++++++++++++

アンネリーズ・マリー・フランク
:Annelies Marie Frank
は。

第二次世界大戦勃発後の1942年7月6日、
フランク家を始めとした8人のユダヤ人は。

ユダヤ人迫害を逃れるために父オットーの職場である
アムステルダムにて潜行生活に入りました。

ここでの暮らしは2年に及んだが、
1944年8月4日にカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーが
率いるゲシュタポとオランダ・ナチスに捕まり、
全員強制収容所に送られました。

アンネは姉のマルゴット・フランクとともに、
ベルゲン・ベルゼン強制収容所に入れられ。

1945年3月12日、
チフスによって命を落としたといわれています。

++++++++++++++++++++++

アンネ・フランクこと。
アンネリーズ・マリー・フランク:Annelies Marie Frank)
は。
ドイツのフランクフルト・アム・マインの。

裕福なドイツ系ユダヤ人一家の末娘として生まれました。
父はオットー。母はエーディト。

ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を恐れ
、一家とともにオランダに移住。

しばらくは比較的安穏な日々が続いたが、
1940年5月10日、ドイツがオランダに侵攻。

四日後の14日には全域を占領し、
国内ではユダヤ人に対する圧力が強まっていきました。

++++++++++++++++++++++

それまでモンテッソーリ・スクールで
普通の少女として過ごしてきたアンネも、
一般の学生と引き離され、
1941年の夏からは姉のマルゴットともどもユダヤ人学級
への編入を強いられるなど次第に自由を制限される
ようになっていきました。

ユダヤ人狩りが頻繁に行われはじめ、
危機的状況が色濃くなり。

フランク一家は
密かに安全な場所へ移り住む準備に取りかかりました。

1942年7月5日、マルゴットに
労働キャンプへの召集令状が届いたことを契機に、
翌6日にはオットーの職場事務所の三階と四階を隠れ家に
した篭城生活をスタートさせました。

さらに同僚の
ファン・ペルス夫妻(ヘルマンとアウグステ)
と息子のペーター(後にアンネと恋仲になる)、
歯科医のプフェファーが加わりました。

この共同体は最終的に8人となったのです。

++++++++++++++++++++++

アンネ・フランクの有名な「アンネの日記」
(本人は日記帳を「キティー」と名付けました。

キティーに手紙を書くという設定にしました。)
は、主にこの隠れ家での日々を綴ったものです。

アムステルダムのプリンセンフラハト263番地に
あるこの隠れ家は、
「アンネ・フランクの家」として
アンネ・フランク財団によって保存され、
今も観光の名所となっています。

++++++++++++++++++++++

アンネリーズ・マリー・フランク:Annelies Marie Frank
は。

アンネとマルゴはアウシュヴィッツで二ヶ月を過ごした後、
ベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送され、
ここが二人にとって終の棲家となりました。

ここは絶滅収容所ではなかったのですが。
居住環境は劣悪で、
チフスなどの疫病が蔓延していました。

このころのアンネの詳細については、
数少ない目撃者からの断片的な証言があるのみで
はっきりしていません。

体力の衰えた姉妹はやがてチフスにかかり、
先にマルゴが、
二、三日遅れてアンネが息を引き取ったとされています。

++++++++++++++++++++++

オランダ赤十字は1945年3月31日を死亡日としているが、
これは特定されたものではありません。

生き残った者の証言などにより、
それよりも早い2月の終わりか3月の始めころに亡くなったものと
推測されます。

他の隠れ家メンバーもオットー・フランクを
のぞいて全員がナチスの強制収容所で死亡しています。

死と絶望が日常的なアウシュヴィッツ収容所内でも
ベルゲン・ベルゼン収容所へ移送される時も
命を落とさなかったのは、
最後まで生きる希望を捨てない彼女たちの
前向きな姿勢があったからです。

この姿勢はアンネの日記にも表れており高く評価されています。

++++++++++++++++++++++

アンネリーズ・マリー・フランク:Annelies Marie Frank
の日記。

アムステルダムにある、アンネの銅像解放後。

アムステルダムに戻ったオットー・フランクは、
支援者から娘アンネリースの残した日記などの文書を遺品として
渡されました。

この文書はオットーによってタイプし直され、
関係者の間に私家版としてごく少数の者に配られました。

やがてこれが評判を呼び、1947年にオランダ版が出版されました。
『アンネの日記』はほどなく各国語に翻訳され、
全世界で今もまだ売れ続けています。

++++++++++++++++++++++

アンネリーズ・マリー・フランク:Annelies Marie Frank
は。

アンネ・フランクの将来の夢は著名な作家になることでした。

多くの芸術家たちと同様、死して後その名が知られるようになりました。

++++++++++++++++++++++

2004年10月3日、オランダの司法省は。

ドイツからの亡命と同時に無国籍となり、
国籍を持たないまま、
この世を去っていった彼女に
オランダの市民権を与えるべきという要望に。

死後の市民権の付与は不可能という
拒否解答を出しました。

彼女は、政治、文化、経済などでの
オランダを代表する人物の中に以前から
数えられています。

けれども。、
国籍、市民権は持っていないのです。

++++++++++++++++++++++

その他
彼女の名に由来する小惑星アンネフランクがあります。
この小惑星には探査機が接近し、写真を撮影致しました。

「スーベニア・デ・アンネフランク」
(アンネの思い出・形見)という名前のバラがあります。

ベルギーの園芸家が作った新種のバラで、
アンネの父オットー・フランクに贈られました。

1972年12月に、オットー・フランクより
10本が日本に贈られた。
また、1976年3月に再び10本が贈られ、
日本全国で「アンネのバラ」として育てられています。
++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++

アンネ・フランク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF

アンネ・フランク(Anne Frank、1929年6月12日 - 1945年3月12日)は、『アンネの日記』の著者。1942年6月14日から1944年8月1日までの隠れ家での生活を闊達な筆致で描写したこの日記は、死後に世界各国で出版され、世界的なベストセラーとなった。

第二次世界大戦勃発後の1942年7月6日、フランク家を始めとした8人のユダヤ人は、ユダヤ人迫害を逃れるために父オットーの職場であるアムステルダムにて潜行生活に入る。ここでの暮らしは2年に及んだが、1944年8月4日にカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーが率いるゲシュタポとオランダ・ナチスに捕まり、全員強制収容所に送られた。アンネは姉のマルゴット・フランクとともに、ベルゲン・ベルゼン強制収容所に入れられ、1945年3月12日、チフスによって命を落としたといわれている。

目次 [
1 潜行まで
2 アンネの死
3 日記の出版
4 その他
5 関連項目
6 外部リンク

潜行まで
アンネ・フランクこと、アンネリーズ・マリー・フランク:Annelies Marie Frank)はドイツのフランクフルト・アム・マインの裕福なドイツ系ユダヤ人一家の末娘として生まれた。父はオットー。母はエーディト。ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を恐れ、一家とともにオランダに移住。しばらくは比較的安穏な日々が続いたが、1940年5月10日、ドイツがオランダに侵攻。四日後の14日には全域を占領し、国内ではユダヤ人に対する圧力が強まっていった。それまでモンテッソーリ・スクールで普通の少女として過ごしてきたアンネも、一般の学生と引き離され、1941年の夏からは姉のマルゴットともどもユダヤ人学級への編入を強いられるなど、次第に自由を制限されるようになっていったのである。

ユダヤ人狩りが頻繁に行われはじめ、危機的状況が色濃くなってくると、フランク一家は密かに安全な場所へ移り住む準備に取りかかった。1942年7月5日、マルゴットに労働キャンプへの召集令状が届いたことを契機に、翌6日にはオットーの職場事務所の三階と四階を隠れ家にした篭城生活をスタートさせる。さらに同僚のファン・ペルス夫妻(ヘルマンとアウグステ)と息子のペーター(後にアンネと恋仲になる)、歯科医のプフェファーが加わり、この共同体は最終的に8人となったのである。

アンネ・フランクの有名な「アンネの日記」(本人は日記帳を「キティー」と名付け、キティーに手紙を書くという設定にした)は、主にこの隠れ家での日々を綴ったものである。アムステルダムのプリンセンフラハト263番地にあるこの隠れ家は、「アンネ・フランクの家」としてアンネ・フランク財団によって保存され、今も観光の名所となっている。

アンネの死

ベルゲン・ベルゼン強制収容所跡地の墓碑アンネとマルゴはアウシュヴィッツで二ヶ月を過ごした後、ベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送され、ここが二人にとって終の棲家となった。ここは絶滅収容所ではなかったが、居住環境は劣悪で、チフスなどの疫病が蔓延していた。

このころのアンネの詳細については、数少ない目撃者からの断片的な証言があるのみではっきりしていない。体力の衰えた姉妹はやがてチフスにかかり、先にマルゴが、二、三日遅れてアンネが息を引き取ったとされている。

オランダ赤十字は1945年3月31日を死亡日としているが、これは特定されたものではなく、生き残った者の証言などにより、それよりも早い2月の終わりか3月の始めころに亡くなったものと推測される。他の隠れ家メンバーもオットー・フランクをのぞいて全員がナチスの強制収容所で死亡している。

死と絶望が日常的なアウシュヴィッツ収容所内でもベルゲン・ベルゼン収容所へ移送される時も命を落とさなかったのは、最後まで生きる希望を捨てない彼女たちの前向きな姿勢があったからである。この姿勢はアンネの日記にも表れており高く評価されている。

日記の出版

アムステルダムにある、アンネの銅像解放後、
アムステルダムに戻ったオットー・フランクは、
支援者から娘アンネリースの残した日記などの文書を遺品として渡された。
この文書はオットーによってタイプし直され、
関係者の間に私家版としてごく少数の者に配られた。

やがてこれが評判を呼び、1947年にオランダ版が出版された。
『アンネの日記』はほどなく各国語に翻訳され、全世界で今もまだ売れ続けている。

アンネ・フランクの将来の夢は著名な作家になることであったが、
多くの芸術家たちと同様、死して後その名が知られるようになった。

2004年10月3日、オランダの司法省は、
ドイツからの亡命と同時に無国籍となり、国籍を持たないまま、
この世を去っていった彼女にオランダの市民権を与えるべきという要望に、
死後の市民権の付与は不可能という拒否解答を出した。

彼女は、政治、文化、経済などでの
オランダを代表する人物の中に以前から数えられているが、
国籍、市民権は持っていない。

その他
彼女の名に由来する小惑星アンネフランクがある。この小惑星には探査機が接近し、写真を撮影した。
「スーベニア・デ・アンネフランク」(アンネの思い出・形見)という名前のバラがある。ベルギーの園芸家が作った新種のバラで、アンネの父オットー・フランクに贈られた。1972年12月に、オットー・フランクより10本が日本に贈られた。また、1976年3月に再び10本が贈られ、日本全国で「アンネのバラ」として育てられている。

関連項目
アンネの日記
アンネ・フランクの家

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++

6月12日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8812%E6%97%A5

できごと
1560年(永禄3年5月19日) - 桶狭間の戦い。織田信長が桶狭間山附近で今川義元を討ち取る。
1872年(明治5年5月7日) - 品川駅〜横浜駅(現:桜木町駅)間で日本初の鉄道が仮営業を開始。
1880年 - ジョン・リー・リッチモンドがメジャーリーグ史上初の完全試合。
1898年 - フィリピンで独立運動指導者エミリオ・アギナルドがスペインからの独立を宣言。
1906年 - 日本で最初のエスペラント団体である日本エスペラント協会(現在の財団法人日本エスペラント学会)が設立。
1915年 - 杉本京太が邦文タイプライターの特許を獲得。
1916年 - アメリカ海軍の戦艦ペンシルベニアが就役。
1922年(大正11年) - 日本で加藤友三郎が第21代内閣総理大臣に就任し、加藤友三郎内閣が発足。
1937年 - 川端康成が「雪国」を発表。
1940年 - 日本・タイ友好条約調印。
1959年 - 野球殿堂創設。
1961年 - 「農業基本法」公布。
1969年 - 日本初の原子力船「むつ」進水。
1978年 - 宮城県沖地震発生。
1979年 - 「元号法」施行。
1980年 - 大平正芳首相が急死し、内閣総辞職。
1982年 - ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズがサウジアラビアの第5代国王として即位。
1987年 - 郷ひろみと二谷友里恵が結婚。
1990年 - ロシア共和国が主権宣言を採択。
1991年 - ロシア共和国の大統領選挙でボリス・エリツィンが当選。
2006年 - 大分県西部地震。広島県呉市・愛媛県今治市・大分県佐伯市等で震度5弱

誕生日
1577年 - パウル・ギュルダン、数学者(+ 1643年)
1606年(慶長11年5月7日) - 徳川忠長、駿府藩主(+ 1634年)
1718年(享保3年5月13日) - 手島堵庵、心学者(+ 1786年)
1804年(文化元年5月5日) - 高野長英、蘭学者(+ 1850年)
1827年 - ヨハンナ・スピリ、作家(+ 1901年)
1855年(安政2年4月29日) - 田口卯吉、経済学者・政治家(+ 1905年)
1867年(慶応3年5月10日) - 財部彪、軍人・政治家(+ 1949年)
1868年 - ソル・ホワイト、野球選手(+ 1955年)
1892年 - ジューナ・バーンズ、作家、詩人、脚本家(+ 1982年)
1897年 - アンソニー・イーデン、第64代イギリス首相(+ 1977年)
1924年 - ジョージ・H・W・ブッシュ、第41代アメリカ合衆国大統領
1929年 - アンネ・フランク、「アンネの日記」で知られるユダヤ人の少女(+ 1945年)
1932年 - 船村徹、作曲家
1936年 - 江副浩正、リクルート創業者
1941年 - チック・コリア、ピアニスト
1943年 - 槌田誠、プロ野球選手(+ 1999年)
1949年 - ジョン・ウェットン、ミュージシャン
1952年 - 沖雅也、俳優(+ 1983年)
1952年 - 魁輝薫秀、大相撲力士・友綱親方
1953年 - 峯本達雄、プロ野球選手
1955年 - 柳原隆弘、プロ野球選手
1957年 - 青木智仁、ベーシスト(+ 2006年)
1960年 - イナダ、劇団イナダ組代表の演出家
1961年 - 高橋一彦、プロ野球選手
1962年 - アトランティス、プロレスラー
1963年 - 塩原恒夫、フジテレビアナウンサー
1966年 - 宮本浩次、ミュージシャン(エレファントカシマシ)
1966年 - 藤本健治、プロ野球選手
1967年 - 有倉雅史、プロ野球選手
1967年 - 池上誠一、プロ野球選手
1971年 - 厳斗一、テコンドー師範
1971年 - 石川哲彦、音楽アーティスト、作曲家
1971年 - 岩出和也、歌手
1971年 - 中村綾、女優
1972年 - 七瀬葵、漫画家・イラストレーター・キャラクターデザイナー
1972年 - 岩槻里子、NHKアナウンサー
1973年 - 斎賀みつき、声優
1974年 - 平里勝敬(KATSU)、angelaメンバー・作曲家
1974年 - 松井秀喜、メジャーリーガー
1974年 - デーモン・ホリンズ、プロ野球選手
1974年 - 星山忠弘、プロ野球選手
1975年 - 佐藤誠、プロ野球選手
1976年 - 里谷多英、モーグルスキーヤー
1976年 - 池田知聡、声優
1977年 - 小針清允、サッカー選手
1978年 - 釈由美子、タレント・女優
1978年 - 響兵(DAS:VASSER)、ミュージシャン
1979年 - 石川瞳、タレント
1979年 - 越谷章、バレーボール選手
1979年 - 田中祐貴、プロ野球選手
1979年 - 辻武史、プロ野球選手
1979年 - 涌井リョウ、ミュージシャン(せきずい)
1979年 - 山崎芳仁、競輪選手
1981年 - 岩田ゆり、タレント(+ 2006年)
1981年 - アドリアナ・リマ、ファッションモデル
1981年 - グロリア・アゴリアーティ、フィギュアスケート選手
1982年 - 小穴浩司、フジテレビアナウンサー
1982年 - ロイック・デュバル、レーシングドライバー
1982年 - 宮瀬茉祐子、フジテレビアナウンサー
1982年 - アンディ・サモラ、野球選手
1983年 - 沢口あすか、AV女優
1983年 - 上原厚治郎、プロ野球選手
1984年 - 川島茉樹代、歌手
1986年 - 神尾真由子、ヴァイオリニスト
1987年 - 加登脇卓真、プロ野球選手
1987年 - 市川葵、タレント
1987年 - クリスティアン・ランド、フィギュアスケート選手
1988年 - マティアス・ルピイェ、サッカー選手
1993年 - 後藤夕貴、THE ポッシボー
1994年 - 加藤将太、俳優
1995年 - ストロングマシン2号、ダンサー
生年不明 - 岡本仁志、GARNET CROW、ギタリスト

忌日
1560年(永禄3年5月19日) - 今川義元、武将(* 1519年)
1912年 - フレデリック・パシー、経済学者・国際平和連盟設立(* 1822年)
1966年 - ヘルマン・シェルヘン、指揮者・作曲家(* 1891年)
1978年 - 郭沫若、政治家(* 1892年)
1980年 - 大平正芳、第68・69代内閣総理大臣(* 1910年)
1982年 - カール・フォン・フリッシュ、動物行動学者(* 1886年)
1982年 - マリー・ランバート、舞踏家(* 1888年)
2002年 - ナンシー関、消しゴム版画家・コラムニスト(* 1962年)
2003年 - グレゴリー・ペック、俳優(* 1916年)
2006年 - ジェルジ・リゲティ、作曲家(* 1923年)
2006年 - 青木智仁、ベーシスト(*1957年)

記念日・年中行事
独立記念日(フィリピン)
1898年6月12日に、革命軍の最高指導者アギナルド将軍が独立を宣言。

ペンテコステ
キリスト教、2011年

恋人の日(Dia dos Namorados)
ブラジルにおいて縁結びの神とされるアントニオの命日の前日であり、
当国では恋人同士でフォトフレームを贈り合う習慣がある。
日本でも普及を狙い1988年に全国額縁組合連合会によって制定。

バザー記念日
1884年6月12日に鹿鳴館で日本初のバザーが開催。

宮城県民防災の日
1978年6月12日に宮城県沖地震が発生。

パンの日
1842年4月12日に初めて「兵糧パン」が製造された。
1983年にパン食普及協会によって制定。各月12日。

豆腐の日
語呂合わせ。各月12日。

日記の日
1942年6月12日にポーランド系ユダヤ人の
アンネ・フランクによって「アンネの日記」が書き始められたことにちなんで。

児童労働反対世界デー
2002年「児童労働をなくすことを世界に呼びかける日」として国際労働機関によって制定。最悪の形態の児童労働の撤廃を呼びかけるため毎年世界各地で様々な活動が展開されている。