東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年7月1日

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年7月01日(水曜日)

「3月」「4月」と「5月」の。

「春」はおわり。

「初夏」「6月」がおわり。

今は。

「7月」「夏」になりました。

「青い夏」の。

「7月」

になりました。

「夏」です。

「夏」は。

だまって訪れて。

だまって夏道中をあゆむもの

であることが

あらためて。

みにしみて。

感じられます。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。

まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

「夏」です。

今は。「7月」。

あたらしい「夏」です。

「7月」の「夏」になりました。

「昨年」の晩秋には。
晩秋の花木。
「金木犀:きんもくせい」花を咲かせました。
日々ますます花をさかせていました。
「実りの花」。

「金木犀:きんもくせい」は「秋」に「2度」咲きました。
「銀木犀:きんもくせい」も咲きました。
「金木犀:きんもくせい」の花は黄金色です。
「銀木犀:きんもくせい」の花は「プラチナ色」です。

かおりも全く違います。
「金木犀:きんもくせい」より。
「銀木犀:きんもくせい」は10日遅れで咲きました。

今は「夏」の「7月」。

「銀木犀:きんもくせい」も

「銀木犀:きんもくせい」も

はるかかなたに。

「花」はおわりました。

そして。

「木犀:もくせい」は。

今「7月」の「夏」を迎え。

さらなるふかい。

「夏のさかり」の先にむけて。

もっともっと。

ゆたかな「みのり」をまつ。

準備をしています。

「木犀:もくせい」は常緑樹です。

「夏」になると。

「葉色」と「葉のあつさ」はかわります。

「「季節風」に耐える葉の厚さ」。

になります。

秋のみのりの花まで。

すこやかに育つ「葉」です。

「夏」の「7月」の。

「夏の樹木花」の花がみえます。

「夏の草花」の花もみえます。

「夏」の花木の。

「夏の花」が。

地面の上で。

「花びら」で存在を誇示しても。

木々の「花」は天上。

あおがねば。

「花」こそみえません。

けれども。

「「夏」の花」。

しいのきやくぬぎのはな

その「いのちの芳香」は。

とくとくと。

遠くまで。

ただよっているかのごとくです。

「7月」の「夏」です。

常緑の。

「夏の花」は元気です。

元気な「7月の「夏」」です。

「「夏」の花」の木は

花が落ちて。

「木や枝の下」に。

「フェルマータ"fermata"」*

が。

楽譜のように記譜されているような。

「「夏」の樹木」の「花」。

「落花生」のような。

「夏の花」です。

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C・

イタリア語におけるフェルマータ"fermata"とは。
英語"stop"に相当する名詞です。
(例えばイタリアのバス停の
標識には"Fermata"の表示があります)。

音楽美学の世界では。

絵画には限られた面積があるのと同じように。
音楽には。
「限られた時間」—つまり「初め」と「終わり」—があることが
宿命とされています。
古い時代の楽譜のときはその終止線の上下や終結音の
上下に現在のフェルマータのマークの基となったデザインが
配されました。

そこで音楽の終わりを意味致しました。

時間の流れを止めることはできません。
けれども曲の終わりでは。
音楽を止めることによってその時空に終わりが
発生することとなります。
「停止」という意味の"fermata"の概念はそのように
発生したと解されます。

付与された音符や休符で音楽の時間の流れを
停止させる意味を持ちます。

「♪」
に付与されれば
「♪」
その音のまま「停止」=「ずっと鳴り続ける」
「休止符」
に付与されれば
「休止符」
その旋律は「停止」=「ずっと鳴らない」
ことになります。
楽譜の節目の
縦線に付与される場合には。
一記譜上に存在しない挿入された休符が空白時間として
求められます。

ただし
前の音から伸ばされたタイ(スラー)が。
縦線の上を横切っている場合と
そこにピアノにおけるペダルなどの
保続効果の指示が見られる場合は。
空白時間として処理されず音を保続させる時間を
別途挿入することとなります。

フェルマータ"fermata"。

そのマークは「一日の終わりである日没」
に由来したデザインとも言われています。
-------------------------------

「夏」です。

急速に朝があけます。

とりわけ朝暗いうちは。

かけあしで朝はあけます。

はだにさむい朝です。

今朝早朝は。

暗いうち晴れて。

霧雨の合間に。

久方ぶりにたくさんのたくさんの。

星をみました。

そして天井の空高く。

ひさしぶりに「月」の

かがやきをみました。

地上の変化(へんげ)が天高くたちのぼり
月や星に結晶して。
芳香をはなつがごとく光をはなつように
見えます。

空気が澄み。
大気がすんでいるからでしょう。

「天高く」

(てんたかく)とは。

なるほどと考えます。

しっとりとした「7月」の。
「季節風」の。
「夏吹雪:なつふぶき」の合唱も。
なかなかすてきです。

ブラスでもない。木管でもない。弦でもない。
グラスハープの。
スラーをかけた。
オーケストラを聴いているようです。

「7月」になり
「夏吹雪:なつふぶき」のかぜおとは。
「アリア」として。
次第に出番が多くなりました。

中でも
「極めて大きな声でうたっている」
「夏吹雪:なつふぶき」が
「1-2」はいるのが不思議です。

「夏の花」の木の上か。
電線にとまったり。
またさらに
上空で「夏吹雪:なつふぶき」は。
歌っているようです。

うっすらと「まど」を開けると。

「季節風」は。

風鈴の音色のように。

はいりこもうとします。

「7月の夏かぜ」には。

「かおり」があります。

そぞろ そぞろに。
静かながらに。

「7月」の朝焼けと。
夕焼けどきに。

ひそやかながらもあきらかに。
「季節風」の。

気配にあと押しされて。

「確かな「7月の夏」」のかおりが。
大気にかげろううや蜃気楼のように
ただよいはじめています。

昼間はあつすぎる
陽射しを感じることが
多くなりました。

「7月」。

「夏」です。

そして。

「あたたかい元気な「夏」」です。

7月の「初夏」の気配は。
あっというまに。
「夏」の「霞(かすみ)」に「霊気(れいき)」
のように。
おぼろに変化して。

次第に「暑い「夏」」の気配にうつろいていく。
「井戸のつるべ」があがるようです。

「もっと深い「夏」」が。

ピアニッシモ。
ppで。
しのびよってきています。

朝日と東の朝焼け青空に。
「朝焼け」の。

空にはそらいろとピンクのレースのような

あやにしきの
「くれゆくなつのいろ」
「むかえくるなつのいろ」が感じられます。

陽射し(ひさし)やさしき。
空にも地にも天高くはれ。
大気のひそみかくれ。
そらにみちてあふれれば。
吐息(ためいき)となり。
吐息が霧雨か霞になり。
おりてくるような感じです。
のふかまりゆく気配
になりました。

街路樹はしっかりと
冬ながらも枝木の穂先もたわわにつよく
「晩冬」の萌黄色の若芽もち。
「初春」のあおい「木」にかわりました。
「新年」のあおい「木」は。

「実りの「春」」のおとづれを。
そしてさらなる「冬の深まり」を超えて。

そしていま厳しい冬をがんばって。
「あたたかい「春」」を迎え。

今現在は。

「初夏」をむかえようとしています。

「本物の「夏」」から。

「もともっと暖かい夏」

「夏」のをのりこえ。

「あたらしい夏」になりました。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

夏山椒(さんしょう)の木の芽が
夏にも若葉はそだち。
夏若葉は冬の若枝となり。
夏若枝は天高くすこやかにのび。
夏のふかまりにますますすこやかに。
夏山椒(さんしょう)の木のみどり葉。
夏空に燃えるが如くの炎葉です

さんしょうを
木の芽(このめ)といふは
なるほどと
かんがえる

夏深まりたり
夏空たかく
夏あやにしき
夏みどり木
夏さんしょう木
夏陽をあびてかがやけり
夏いざいまこそは
夏金色(かがね)にかわり
夏赤き春空に燃えたたむ

夏さんしょう木
夏もえぎの炎(ほのほ)は芽葉(めは)
夏わかば葉はいずるは花ならむ
夏(なつ)こす枝は幹ならむ
夏いざいまこそは
夏空(そら)たかくもえたたむ
夏金色(こがねいろ)なる
夏さんしょう木
夏(なつ)深まれり

山本クリニックの庭には水槽が
「2つ」あります。
めだかが泳いでいます。

夏ふかく草を浮かべる水面(おも)に
夏めだかのむれのひかりたり
夏むれておよげるひめだかの
夏みずのなかなるちいさないのち
夏みずのなかなるおおほきないのち
夏みのりてあまたにとほときいのちこそ
夏いざみずもにうつしはぐくまむ

けれども
早朝は本当にはだ寒いのです。

小さななつつけたから
しだいに大きななつみつけた。

大きななつみつけたから
さらに大きな大きななつみつけた

「小さい「夏」みつけた」は。

「こころしずまる気」

がいたします。

「夏」になりました。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成21年1月12日(水曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。
限られた診療スタッフで。
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
限られた診療スタッフで。
御予約の患者さんのみ。
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年4月29日(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年7月20日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は。

1961年 - ダイアナ妃、イギリス皇太子妃
Princess of Wales Lady Diana Frances Spencer

(+ 1997年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

ダイアナ(Diana, Princess of Wales
(Lady Diana Frances Spencer)、
1961年7月1日 - 1997年8月31日)は。

イギリス女王エリザベス2世のチャールズ王太子の
元妃です。

1996年に正式離婚されました。翌年。
1997年、パリでの交通事故により
不慮の死を遂げられました。

それぞれ
第2位および第3位のイギリス王位継承者である
ウィリアム王子およびヘンリー王子の
実母の王妃です。

++++++++++++++++++++++

ダイアナ(Diana, Princess of Wales
(Lady Diana Frances Spencer)

少女時代
ダイアナは。

オールトラップ子爵エドワード・スペンサーと
子爵夫人フランセスの三女として、
サンドリンガム・ハウス
(イングランドのノーフォークにあるイギリス王室の邸宅)
で生まれました。

父のオールトラップ子爵は1975年、
第8代スペンサー伯爵を相続致しました。

スペンサー家は15世紀に欧州でも
有数の羊商として財をなしました。
チャールズ1世からスペンサー伯爵の地位を受けました。

++++++++++++++++++++++

ダイアナ妃
(Diana, Princess of Wales (Lady Diana Frances Spencer)
は。

婚姻関係によって
チャールズ2世の血筋も受け継いでいます。
母方のファーモイ男爵家は
ノーフォークの名士でありました。

姉弟に姉のセーラ・マコーコデールとジェーン・フェローズ、
弟のチャールズ
(1992年より第9代スペンサー伯爵)がいらっしゃいます。

++++++++++++++++++++++

オールトラップ子爵夫妻は
1967年に別居し、
1969年に正式に離婚されました。

父は後に再婚したが、
両親の離婚はダイアナ姉妹に大きな心の傷を与えました。

ダイアナ妃は最初はノーフォーク、
後にケントの寄宿学校で教育を受けたが
、極端に勉強を嫌い成績は悪かったのです。

乗馬や水泳などのスポーツやピアノは得意でした。

16歳の時にスイスの
フィニッシングスクールに入っています。

++++++++++++++++++++++

ダイアナ妃
(Diana, Princess of Wales (Lady Diana Frances Spencer)
の。
チャールズとの出会い 。

スイスから帰国したダイアナは社交界にデビュー致しました。

1978年11月にバッキンガム宮殿で開かれた
チャールズ王太子の誕生日パーティーで
初めて将来の夫と対面致しました。

ダイアナがこのパーティーに招待されたのは
長姉のセーラが1977年から1978年にかけて
チャールズ王太子と交際していたからです。

この姉の交際はうまくいかなかった。

けれども
チャールズはスペンサー家のことはよく知っていました。

++++++++++++++++++++++

やがてダイアナ妃は
ロンドンのアパートで住むことを許され
保育士として働きはじめました。

1980年7月ダイアナは再びチャールズと出会い、
交際を深めていきました。

だが、チャールズには既にのカミラ・パーカー・ボウルズ夫人
がいらっしゃいました。

カミラが
チャールズにダイアナとの結婚を薦めたと言われています。

++++++++++++++++++++++

ダイアナ
(Diana, Princess of Wales (Lady Diana Frances Spencer)の
結婚

1981年2月24日チャールズ王太子とダイアナの婚約が発表されました。

同年7月29日、20歳の時にチャールズ王太子と
ロンドンのセントポール大聖堂で結婚し、
その模様はイギリス連邦をはじめとする世界各国で生中継されました。

その後も2人の動向は世
界各国のマスコミで大きく報道されることとなりました。

++++++++++++++++++++++

「ウェールズ大公妃ダイアナ」は

1982年には長男ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス。
1984年に次男ヘンリー・チャールズ・アルバート・デイヴィッドが
生まれました。
同じく世界各国で大きく報道された。

その後も王太子妃としてチャールズとともに
様々な王室の行事に出席するほか、
日本やアメリカなど世界各国を訪れ、
各地で「ダイアナ・フィーバー」と呼ばれるような
熱狂的な歓迎を受けることとなりました。

併せて世界各国のマスコミに常に追いかけられる立場となり
「理想のカップル」的な扱いを受けました。

++++++++++++++++++++++

だが、
将来イギリスの国王となることを念頭に、
伝統に基づいたつつましやかな生活と公式行事への参加を
常に優先するよう教育され、
自らもそれを実践していたチャールズと、
まだ20代前半で、公的な生活よりも自由奔放に
芸能人などのセレブリティーとの派手な付き合いを
行うことを好んだダイアナとは、
その生活様式や趣味、嗜好が合わず、
次第に2人の間には深い溝ができていくこととなりました。

++++++++++++++++++++++

称号

ウェールズ大公妃ダイアナの紋章チャールズ王太子との離婚に伴い、
ダイアナは「殿下」の敬称が付随した
「ウェールズ大公妃殿下
(ハー・ロイヤル・ハイネス・ザ・プリンセス・オヴ・ウェールズ)」
の称号を自動的に失いました。

「ウェールズ大公妃ダイアナ」と
名乗ることは許されました。

これは貴族と離婚した女性が、
離婚後も夫の爵位に基づく儀礼称号を名乗り続けることができる
慣習を適用したものである
(ただしこの場合は、王室側とダイアナ側での協議により決定されました)。

2005年にチャールズと結婚したカミラは、
プリンス・オブ・ウェールズの妻として
自動的に「プリンセス・オブ・ウェールズ」の称号を与えられたものの、
国民のダイアナ人気に配慮して、
「プリンセス・オヴ・ウェールズ」の称号の使用を辞退し、
「コーンウォール公爵夫人(スコットランドにおいてはロスシー公爵夫人) 」
の称号を名乗っています。

++++++++++++++++++++++

「ウェールズ大公妃ダイアナ」の事故死

パリ・アルマ橋1997年8月31日に。
フランスの首都のパリで、当時の恋人である
エジプト系イギリス人の大富豪のドディ・アルファイドとともに。
パパラッチに追跡された果てに、
乗車したパリのリッツ・ホテルのメルセデスベンツS280の
ハイヤーがパリ市内のトンネル内で交通事故を起こし急逝されました。

36歳という若さでした。

++++++++++++++++++++++

「ウェールズ大公妃ダイアナ」が。
BBCでは「足に重傷を追ったが生命は無事」
と報道していたものの。

その後間もなく事故の際に受けた
脳損傷などが原因で死去致しました。

ダイアナの急死のニュースは世界中のマスメディアが
ただちに各国へ配信、世界中が驚愕することとなりました。

訃報が知れわたった翌日9月1日には、
ダイアナの居住していたケンジントン宮殿の
門前にはたくさんの人々が訪れ献花や死を悼むカードが捧げられ、
各国のイギリス大使館には記帳台が設置されました。

ダイアナの遺体をフランスまで引き取りに行ったのは、
かつての夫チャールズでした。

++++++++++++++++++++++

「国民葬」

衛兵に担がれたダイアナの棺国葬にすべきとの
世論がすぐにイギリス国内で高まったが。

王室の伝統に鑑みて、
トニー・ブレア首相は「国民葬」にする旨を発表致しました。

9月6日、ウェストミンスター寺院で国葬に準じた
盛大な葬儀が行われました。

バッキンガム宮殿に半旗が掲げられないことから
「王室はダイアナの死を悼んでない」との非難も沸きあがりました
(当時の世論調査では王室廃止賛成が反対・存続を上回りました)。

それまでバッキンガム宮殿には半旗を掲げる伝統は無く。
またそもそもバッキンガム宮殿の
王室旗の掲揚は国王が宮殿にいる事を示すものであって、
女王はスコットランドに滞在していたことから、
伝統に従えば旗を掲げてはならない状況でした。
++++++++++++++++++++++

しかし、世論の王室への風当たりが強まるのを見て、
これまでの伝統は覆されました。

女王が葬儀に出発し宮殿を出て、
掲揚していた王室旗を下ろしたあとに、
あらたにユニオンジャックが半旗として掲げられました。
王室旗に包まれたダイアナの棺は衛兵に担がれ、
ケンジントン宮殿からウェストミンスター寺院に移されました。
葬列には前の夫のチャールズと
2人の息子、ウィリアムとヘンリーも参加致しました。

3人は喪服ではなく紺のスーツを着用していました。

++++++++++++++++++++++

沿道には多くの人々が集まり、ダイアナの死を悼みました。
エリザベス女王も沿道に立ち、
棺が目前を通過すると頭を下げました。

++++++++++++++++++++++

イングランドにおけるダイアナの呼称(style)は、
彼女の生涯にわたって次のように変わりましたた。

ダイアナ・スペンサー(子爵)令嬢 -
The Honourable Diana Spencer (1961年7月1日?1975年6月9日:出生から父の伯爵位相続まで)

ダイアナ・スペンサー(伯爵)令嬢 -
The Lady Diana Spencer (1975年6月9日?1981年7月29日:父の伯爵位相続から結婚まで)

ウェールズ大公妃殿下、スコットランドではロスシー公爵夫人等 -
Her Royal Highness The Princess of Wales
(1981年7月29日?1996年8月28日:結婚から離婚まで)

(元)ウェールズ大公妃ダイアナ - Diana, Princess of Wales
(1996年8月28日?1997年8月31日:離婚から死去まで)

++++++++++++++++++++++

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++「続きを読むです1」++++++++++++++++++

ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ダイアナ(Diana, Princess of Wales (Lady Diana Frances Spencer)、1961年7月1日 - 1997年8月31日)は、イギリス女王エリザベス2世のチャールズ王太子の元妃。1996年に正式離婚した。1997年、パリでの交通事故により不慮の死を遂げた。それぞれ第2位および第3位のイギリス王位継承者であるウィリアム王子およびヘンリー王子の実母。

目次
1 生涯
1.1 少女時代
1.2 チャールズとの出会い
1.3 結婚
1.4 不倫と離婚
1.5 事故死
1.6 「国民葬」
1.7 埋葬
2 ダイアナの死に関する陰謀論
2.1 「ダイアナ謀殺説」
2.2 事故原因究明のための審問
3 称号
4 主な文献
5 逸話
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク

生涯

少女時代
ダイアナは、オールトラップ子爵エドワード・スペンサーと子爵夫人フランセスの三女として、サンドリンガム・ハウス(イングランドのノーフォークにあるイギリス王室の邸宅)で生まれた。父のオールトラップ子爵は1975年、第8代スペンサー伯爵を相続した。スペンサー家は15世紀に欧州でも有数の羊商として財をなし、チャールズ1世からスペンサー伯爵の地位を受けた。婚姻関係によってチャールズ2世の血筋も受け継いでいる。母方のファーモイ男爵家はノーフォークの名士であった。姉弟に姉のセーラ・マコーコデールとジェーン・フェローズ、弟のチャールズ(1992年より第9代スペンサー伯爵)がいる。

オールトラップ子爵夫妻はフランセスの不倫が原因で1967年に別居し、1969年に正式に離婚した。父は後に再婚したが、両親の離婚はダイアナ姉妹に大きな心の傷を与えた。ダイアナは最初はノーフォーク、後にケントの寄宿学校で教育を受けたが、極端に勉強を嫌い成績は悪かった。ただ、乗馬や水泳などのスポーツやピアノは得意だった。16歳の時にスイスのフィニッシングスクールに入っている。

チャールズとの出会い
スイスから帰国したダイアナは社交界にデビューし、1978年11月にバッキンガム宮殿で開かれたチャールズ王太子の誕生日パーティーで初めて将来の夫と対面する。ダイアナがこのパーティーに招待されたのは長姉のセーラが1977年から1978年にかけてチャールズ王太子と交際していたからである。この交際はうまくいかなかったが、チャールズはスペンサー家のことはよく知っていたのである。

やがてダイアナはロンドンのアパートで住むことを許され、保育士として働きはじめた。1980年7月ダイアナは再びチャールズと出会い、交際を深めていった。だが、チャールズには既に恋人のカミラ・パーカー・ボウルズがおり、カミラがチャールズにダイアナとの結婚を薦めたと言われる。

結婚
1981年2月24日チャールズ王太子とダイアナの婚約が発表され、同年7月29日、20歳の時にチャールズ王太子とロンドンのセントポール大聖堂で結婚し、その模様はイギリス連邦をはじめとする世界各国で生中継され、その後も2人の動向は世界各国のマスコミで大きく報道されることとなった。

アメリカのロナルド・レーガン大統領夫妻とともに1982年には長男ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイスが、1984年に次男ヘンリー・チャールズ・アルバート・デイヴィッドが生まれ、同じく世界各国で大きく報道された。

その後も王太子妃としてチャールズとともに様々な王室の行事に出席するほか、日本やアメリカなど世界各国を訪れ、各地で「ダイアナ・フィーバー」と呼ばれるような熱狂的な歓迎を受けることとなった。併せて世界各国のマスコミに常に追いかけられる立場となり「理想のカップル」的な扱いを受けた。

だが、将来イギリスの国王となることを念頭に、伝統に基づいたつつましやかな生活と公式行事への参加を常に優先するよう教育され、自らもそれを実践していたチャールズと、まだ20代前半で、公的な生活よりも自由奔放に芸能人などのセレブリティーとの派手な付き合いを行うことを好んだダイアナとは、その生活様式や趣味、嗜好が合わず、次第に2人の間には深い溝ができていくこととなった。

不倫と離婚
しかも結婚後もチャールズはカミラとの交際をやめず、この秘密の交際にダイアナは早くから気付いていた。このため、彼女は過食症による摂食障害を起こすようになった。当時「私は二人分の食事をとっているかもしれないわ」という言葉が、「三人目懐妊か」と世界中の新聞に掲載されたが、これは実際は妊娠ではなく過食症の状況を暗示していた。

チャールズとカミラの交際は世間に知れ渡り、これを機にダイアナも王室職員や大富豪のドディ・アルファイドなど、複数のさまざまな男性と大っぴらに付き合うようになった上に、マスコミにチャールズとの不仲について自らリークを行っていたとも伝えられた。夫婦は1992年12月9日に別居し、1996年8月28日に正式離婚した。

ダイアナは「プリンセス・オヴ・ウェールズ(ウェールズ大公妃)」を引き続き名乗ることと、ケンジントン宮殿の居住を認められ、その後は自由奔放に様々な男性との交際を行ったほか、対人地雷廃止運動やエイズ啓発活動などに関っていた。

事故死

パリ・アルマ橋1997年8月31日に、フランスの首都のパリで、当時の恋人であるエジプト系イギリス人の大富豪のドディ・アルファイドとともにパパラッチに追跡された果てに、乗車したパリのリッツ・ホテルのメルセデスベンツS280のハイヤーがパリ市内のトンネル内で交通事故を起こし急逝した。36歳という若さであった。

ダイアナは事故直後は生存しており救急隊員に対応していたため、うわ言で「Leave me(私に構わないで・放っておいて)」、「オー・マイ・ゴッド(なんていうことなの)」と言い続けていたという。また、事故直後の現場にはなお9人ものパパラッチが居合わせていたが、救助活動にも手を貸さず彼女の写真を撮り続けていたという。

BBCでは「足に重傷を追ったが生命は無事」と報道していたものの、その後間もなく事故の際に受けた脳損傷などが原因で死去した。ダイアナの急死のニュースは世界中のマスメディアがただちに各国へ配信、世界中が驚愕することとなった。

訃報が知れわたった翌日9月1日には、ダイアナの居住していたケンジントン宮殿の門前にはたくさんの人々が訪れ献花や死を悼むカードが捧げられ、各国のイギリス大使館には記帳台が設置された。ダイアナの遺体をフランスまで引き取りに行ったのは、かつての夫チャールズであった。

「国民葬」

衛兵に担がれたダイアナの棺国葬にすべきとの世論がすぐにイギリス国内で高まったが、王室の伝統に鑑みて、トニー・ブレア首相は「国民葬」にする旨を発表した。9月6日、ウェストミンスター寺院で国葬に準じた盛大な葬儀が行われた。バッキンガム宮殿に半旗が掲げられないことから「王室はダイアナの死を悼んでない」との非難も沸きあがった(当時の世論調査では王室廃止賛成が反対・存続を上回った)。

それまでバッキンガム宮殿には半旗を掲げる伝統は無く、またそもそもバッキンガム宮殿の王室旗の掲揚は国王が宮殿にいる事を示すものであって、女王はスコットランドに滞在していたことから、伝統に従えば旗を掲げてはならない状況だった。しかし、世論の王室への風当たりが強まるのを見て、これまでの伝統は覆された。女王が葬儀に出発し宮殿を出て、掲揚していた王室旗を下ろしたあとに、あらたにユニオンジャックが半旗として掲げられた。

王室旗に包まれたダイアナの棺は衛兵に担がれ、ケンジントン宮殿からウェストミンスター寺院に移された。葬列には前の夫のチャールズと2人の息子、ウィリアムとヘンリーも参加した。3人は喪服ではなく紺のスーツを着用していた。沿道には多くの人々が集まり、ダイアナの死を悼んだ。エリザベス女王も沿道に立ち、棺が目前を通過すると頭を下げた。

埋葬

事故現場に建つ記念碑「自由の炎(The Flame of Liberty)」
遺体はノーサンプトン州オルソープにあるスペンサー家領地内の池に
設けられた墓所に埋葬された。ダイアナの葬儀時、
友人のエルトン・ジョンが、マリリン・モンローへの追悼曲であった
「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」の歌詞を書き直した
「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」を生演奏した。

生前「人々のプリンセスでありたい」と
述べていたダイアナだが、その通り、国民の多くからは現在も
“イングランドのバラ”(「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」
には「Good Bye England's Rose」という歌詞が登場する)
として慕われている。

なお、ダイアナの墓所は盗掘を防ぐため墓碑はなく、
正確な位置を知っているのは関係者だけである。

死後、事故現場のトンネルの頭上には記念碑
「自由の炎(The Flame of Liberty)」が立てられている。

ダイアナの死に関する陰謀論

「ダイアナ謀殺説」
ダイアナ妃の最後の恋人は、
武器商人でありロンドンの名門百貨店ハロッズおよび
パリのリッツ・ホテルのエジプト人オーナーの
息子ドディ・アルファイドであった。
事故当時も車に同席しており、彼も同時に死亡している。
このことからアラブ世界では早くからイギリス情報局秘密情報部(MI6)
による暗殺説が流布されていた。動機としては、

事故当時、ダイアナ妃はアルファイドの子どもを妊娠しており、
出生後アルファイド一族によって将来のイギリス国王の
異父兄弟としての地位を利用される事を恐れた
事故の数か月前にダイアナ妃の実母がカトリックに改宗しており、
ダイアナ妃を通じて王太子らに影響を与える事を恐れたため
などが取り上げられたが、
これらの動機に対する証拠は一切無く陰謀論に過ぎないと見做されている。

事故の際、
ダイアナの運転手は抗うつ薬を飲んでいた上、
相当量の飲酒もしていたとされていた。
直前に撮影された映像では、運転手が特に酩酊している様子がないことから、
服薬と飲酒の程度については疑問が残っているが、
いずれにしてもパパラッチの追跡を逃れようと、
160キロ以上という非常に高速でパリ中心部の一般道路を走行した末、
トンネル直前で合流路から進入してきた
パパラッチが所有する白いフィアット・ウーノをよけようとして接触し、
トンネル内の道路側壁に激突したという事実が証明されている。

事故原因究明のための審問
事故現場で捜査に当たったパリの警察は否定しているが、
「ダイアナ謀殺説」は根強く残っている。
また、ダイアナと交際していた王室職員の事故死についても、
「あれは殺されたのだ」とダイアナ自身が語ったテープが最近公表されたことから、
イギリス検察当局も再調査を開始しており、
チャールズ皇太子にも事情聴取が行われた。審問は2004年1月に開廷された。

捜査は2006年12月まで続けられ、
ロンドン警視庁のジョン・スティーブンズ前長官が12月14日に
約3年にわたる調査の結果を発表。
「運転手の飲酒運転と無謀運転が事故の原因であり、殺害の陰謀はなかった」
と暗殺説を否定した。
同時に事故当時、ダイアナが妊娠していたとする説も公式に否定された。
それでも一部には、「ダイアナ謀殺説」を信じている人々は存在している上、
根拠に乏しい「説」をまるで事実かの様に報じるマスコミが内外に存在する。

2007年1月8日に、ダイアナの死因究明の審問が3年ぶりに再開された。
検視官は2006年末の資料その他を基に、事故原因の特定を進めた。
スティーブンス前警視総監は、「報告書が審問結果を予断しているわけではない」、
と述べ、イギリス警察は、ダイアナの妊娠説とアルファイド氏とに
婚約説をきっぱり否定し国民に報告した。
しかし、アルファイドがダイアナへのプロポーズのために婚約指輪を
オーダーした高級宝石店が、2人の近日中の婚約の予定を認め、
その証拠としてアルファイドが婚約指輪をピックアップした瞬間の防犯カメラの映像と、
その指輪の写真を世界中に同時公開した。

最終的に、ダイアナの乗った車は
「無謀な高速走行による事故」と断定され、
陰謀説は否定された形となっている。
しかし疑惑を完全に払拭したとはいえないこともあり、
「陰謀論」を唱える者が後を絶たない状況である。

称号

ウェールズ大公妃ダイアナの紋章チャールズ王太子との離婚に伴い、ダイアナは「殿下」の敬称が付随した「ウェールズ大公妃殿下(ハー・ロイヤル・ハイネス・ザ・プリンセス・オヴ・ウェールズ)」の称号を自動的に失ったが、「ウェールズ大公妃ダイアナ」と名乗ることは許された。これは貴族と離婚した女性が、離婚後も夫の爵位に基づく儀礼称号を名乗り続けることができる慣習を適用したものである(ただしこの場合は、王室側とダイアナ側での協議により決定された)。2005年にチャールズと結婚したカミラは、プリンス・オブ・ウェールズの妻として自動的に「プリンセス・オブ・ウェールズ」の称号を与えられたものの、国民のダイアナ人気に配慮して、「プリンセス・オヴ・ウェールズ」の称号の使用を辞退し、「コーンウォール公爵夫人(スコットランドにおいてはロスシー公爵夫人) 」の称号を名乗っている。

イングランドにおけるダイアナの呼称(style)は、彼女の生涯にわたって次のように変わった。

ダイアナ・スペンサー(子爵)令嬢 - The Honourable Diana Spencer (1961年7月1日?1975年6月9日:出生から父の伯爵位相続まで)
ダイアナ・スペンサー(伯爵)令嬢 - The Lady Diana Spencer (1975年6月9日?1981年7月29日:父の伯爵位相続から結婚まで)
ウェールズ大公妃殿下、スコットランドではロスシー公爵夫人等 - Her Royal Highness The Princess of Wales (1981年7月29日?1996年8月28日:結婚から離婚まで)
(元)ウェールズ大公妃ダイアナ - Diana, Princess of Wales (1996年8月28日?1997年8月31日:離婚から死去まで)

主な文献
アンドリュー・モートン、入江真佐子訳 『ダイアナ妃の真実 彼女自身の言葉による』早川書房 1992年、新版1997年
※事故死直後に新版刊行、本人インタビューである事が明かされた。
同、木村博江・石戸谷滋訳 『ダイアナ妃13年目の選択』 文藝春秋、1994年
ニコラス・デイヴィス、広瀬順弘訳 『ダイアナ妃 ケンジントン宮殿の反乱』 読売新聞社、1992年
コリン・キャンベル、平形澄子訳 『ダイアナ妃 その秘められた素顔と私生活』 イースト・プレス 1992年
ポール・バレル、川崎麻生訳 『ダイアナ妃 遺された秘密』 ワニブックス、2003年
※ダイアナ妃の元執事、未公開の手紙や写真を掲載。
トレバー・リース・ジョーンズ、高月園子訳 『そして薔薇は散った ダイアナ妃事故3年目の真実』 ショパン、2000年
※著者は事故時のボディーガードで唯一の生存者。

逸話

ジョン・トラボルタとダンスを踊るダイアナ
バラ 「プリンセス・オブ・ウェールズ」
(FL) ハークネス (1997) バラ 「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」
(HT) J&P (1999)
1986年5月には夫のチャールズ皇太子とともに来日しダイアナフィーバが起きた。
2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で第3位となった。

「ダイアナ」とはローマ神話での狩猟の女神の名前である。
それを踏まえ、
「狩猟の女神の名を持つあなたが、人々に追い掛け回されるのはなんという皮肉であろう」
とダイアナの弟のスペンサーは弔辞を述べた。

1995年に、BBCテレビのインタビューで自らが
自分の腕と足を傷つける、自傷行為を行っていた事、拒食・過食の状態に
あったことを告白した。
これによって自傷行為・過食症に対する関心は強まった。
ただし、この番組のインタビュアーのマーティン・バシールは巧みな話術で知られ、
ダイアナ本人が意図して言ったことなのかどうかは不明である。
だが、現在知られる彼女のイメージはこの番組の影響が大きい。

また、チャールズの不倫とそれに対する自傷行為などを、
自分に好意的なマスコミに対して自ら積極的に売り込んでいたことを暴露されている。

首相官邸(ダウニング街10番地)に電話して「君主制反対」と言ったことがある。

ダイアナのロングヘアが途中からショートカットに変わったのは
イギリス陸軍の特殊空挺部隊(SAS)のキルハウス
(Kill House 家宅捜索訓練用モックアップ)を見学中、
フラッシュバン(特殊閃光音響手榴弾)によって髪の先が焦げたためである。

彼女は見学前に一切の事故に対しSASを免責とするという証書にサインしていたため、
隊員が処分されることはなかった。

離婚後、王族として自国のデザイナーの服を着る、
という縛りがなくなり、ジャンニ・ヴェルサーチなどの
トレンドに乗った服を身につけるようになり、
ファッション・アイコンとして知られるようになった。
のちに、息子ウィリアムの「ママは服をいっぱい持っているけど、
着ないなら、チャリティーに寄付したら?」の一言で、
所有するドレス類をチャリティー・オークションにかけ、
収益金を慈善団体に寄付した。

死後「イングランドのバラ」と呼ばれた彼女だが、
亡くなる直前の1997年にイギリスのハークネス社が
バラの品種を彼女に献呈。
苗木の売上の一部をイギリス肺病基金に寄付することを条件に、
「プリンセス・オブ・ウェールズ」の品種名を下賜された。
彼女は
「このような素敵なバラに私の名前を付けてくださいましてありがとうございます。
このバラの苗木の売上が肺病の患者とその研究に貢献できることを大変嬉しく思っています」
と直筆の謝辞を贈っている。

死後には、アメリカ合衆国のJ&P社で作られたバラの品種が、
苗木の売上の一部を途上国支援のための
「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ記念基金」に寄付する条件で、
「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」と命名することが許された。
賛美歌曲、"I vow to thee, my country(私は汝に誓う、我が祖国よ)"が学生時代より好きだった事をウィリアム王子が知っていたため、王子の希望により、葬儀でも演奏された。またこの曲は結婚の時にも演奏された曲でもあった。

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7月1日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%881%E6%97%A5

できごと
251年 - アブリットゥスの戦いでゴート族がローマ帝国に勝利、ローマ皇帝デキウスとヘレンニウス・エトルスクスが殺害される。
1859年(安政6年6月2日) - 日米修好通商条約に基づき、神奈川(横浜港)、長崎(長崎港)、箱館(函館港)が開港される。
1863年 - 南北戦争でゲティスバーグの戦いが始まる。
1867年 - カナダがイギリスより独立。
1873年 - プリンス・エドワード島がカナダの連邦政府に加入。
1889年 - 東海道本線が全線開通。
1890年 - 第1回衆議院議員総選挙が行なわれる。
1898年 - 米西戦争でサンファン・ヒルの戦い。
1904年 - 第3回夏季オリンピック、セント・ルイス大会開催。
1911年 - モロッコの権益を巡り、ドイツとフランスが衝突(アガディール事件)。
1916年 - 第一次世界大戦でソンムの戦い。初日だけでイギリス軍に2万人の死者、4万人の負傷者が出た。
1921年 - 中国共産党成立。
1924年 - 日本でメートル法導入(本格的移行は1959年1月1日)。
1925年 - 中国の広州に国民政府が成立。
1926年 - 蒋介石率いる国民革命軍が北伐開始。
1931年 - アメリカの飛行士ウィリー・ポストが世界一周速度記録達成。
1939年 - ドイツの戦闘機フォッケウルフFw190初飛行。
1942年 - 関門鉄道トンネルで貨物営業開始。
1943年 - 東京府・東京市が廃止されて東京都が設置される。
1946年 - アメリカがマーシャル諸島で最初の核実験(クロスロード作戦)を実施。
1947年 - 公正取引委員会設置。
1948年 - 国鉄白紙ダイヤ改正。
1952年 - 戦後、駐留米軍の管理下に置かれていた羽田空港が日本に返還。
1954年 - 防衛庁設置法により、保安庁が防衛庁に改組される。
1960年 - ソマリア共和国成立。
1962年 - ルワンダとブルンジがベルギーから独立。
1962年 - 山梨交通電車線が廃止
1965年 - 名神高速道路が全線(小牧-西宮間)開通。
1967年 - 欧州共同体 (EC) 誕生。
1968年 - スイスのジュネーヴでアメリカ・ソ連など62ヶ国が核拡散防止条約(NPT)に調印。
1968年 - 日本で郵便番号導入。
1969年 - 東京証券取引所が東証株価指数の公表を開始。
1970年 - 千葉県大多喜町で集中豪雨。
1971年 - 環境庁発足。
1972年 - 森昌子がシングル『せんせい』で演歌歌手デビュー。
1973年 - 内閣放射能対策本部が4日前の中国の水爆実験の影響で石川県内の雨から平常値の70〜80倍の放射能検出と発表。
1977年 - 川崎麻世がシングル『ラブ・ショック』で歌手デビュー。
1978年 - 静岡県民放送(SKT=けんみんテレビ、現・静岡朝日テレビ=SATV)開局。
1978年 - 東京地下鉄1号線を「都営浅草線」に、6号線を「都営三田線」に、10号線を「都営新宿線」に改称。
1979年 - ウォークマンの1号機TPS-L2がソニーから発売される。
1979年 - 静岡第一テレビ(SDT)開局。
1982年 - 鉄道連絡船仁堀航路廃止。
1986年 - 内閣告示として現代仮名遣い公布。
1991年 - ワルシャワ条約機構が正式に解散。
1991年 - エフエム京都(α-station)開局。
1992年 - 山形新幹線開業。
1993年 - にっかつ(現、日活)が東京地裁に会社更生法の適用を申請。
1995年 - 製造物責任法(PL法)が施行。
1996年 - アサヒビールの飲料子会社・アサヒ飲料が発足。
1997年 - 香港がイギリスから中華人民共和国へ返還される。
1997年 - 中国の香港特別行政区初代行政長官に董建華が就任。
1998年 - 京王帝都電鉄が社名を京王電鉄に変更。
1999年 - NTTが持株会社化、NTT西日本、NTT東日本、NTTコミュニケーションズに分割。
2000年 - 日産フィナンシャルサービス設立
2002年 - 国際刑事裁判所規程(ローマ規程)が発効。
2003年 - 長崎男児誘拐殺人事件発生。
2003年 - 食糧庁廃止。
2003年 - 大阪証券取引所がヘラクレス指数の公表を開始。
2003年 - ヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ設立。
2004年 - 土星探査機カッシーニ・ホイヘンスが7年かけて土星に到着、探査開始。
2004年 - ドイツの連邦大統領にホルスト・ケーラーが就任。
2005年 - コンラッド東京?が東京都港区東新橋に開業。
2005年 - 大阪港トランスポートシステムのテクノポート線を大阪市営地下鉄中央線に、ニュートラムテクノポート線を大阪市交通局南港ポートタウン線にそれぞれ編入。
2005年 - 静岡県浜松市が合併。当時は国内2番目、静岡県内で最も広い市となった。
2005年 - バス事業者の京阪京都交通が運営を開始(同年4月1日設立)。
2007年 - 東海道新幹線・山陽新幹線に新幹線N700系電車が営業運転を開始
2008年 - 山梨県を含めた関東地方全都県及び沖縄県を最後に、日本全国一斉にたばこ自動販売機の識別ICカード「taspo」の導入を開始。
2008年 -NTTドコモが8地域会社を本部へ統合

誕生日
1646年 - ゴットフリート・ライプニッツ、哲学者・数学者(+ 1716年)
1780年 - カール・フォン・クラウゼヴィッツ、軍人、軍事学者(+ 1831年)
1804年 - ジョルジュ・サンド、作家(+ 1876年)
1870年(明治3年6月3日) - 阪田三吉、将棋棋士(+ 1946年)
1872年 - ルイ・ブレリオ、航空技術者(+ 1936年)
1890年 - 多田等観、僧侶、仏教学者(+ 1967年)
1893年 - 獅子文六、小説家 (+1969年)
1903年 - エミー・ジョンソン、女性パイロット(+ 1941年)
1903年 - 江口夜詩、作曲家(+ 1978年)
1906年 - エスティ・ローダー、アメリカの化粧品メーカーエスティ ローダー株式会社の創業者(+ 2004年)
1913年 - 横井英樹、実業家(+ 1998年)
1916年 - オリヴィア・デ・ハヴィランド、女優
1925年 - 荒木茂、プロ野球選手
1930年 - 西田亨、プロ野球選手
1931年 - 椙本勝、プロ野球選手
1934年 - シドニー・ポラック、映画監督・俳優・映画プロデューサー(+ 2008年)
1935年 - 大矢根博臣、プロ野球選手
1939年 - 馬場章夫、ラジオパーソナリティ・冒険家・タレント
1940年 - 山本圭、俳優
1941年 - 横内正、俳優
1941年 - 石黒和弘、プロ野球選手
1942年 - 大下八郎、歌手
1944年 - 大倉英貴、プロ野球選手
1947年 - 星野一義、レーサー
1949年 - 大木凡人、タレント・レポーター
1952年 - 田丸美寿々、ニュースキャスター
1952年 - 橋本一子、音楽家
1955年 - 明石家さんま、お笑いタレント
1957年 - クリス・スミス、プロ野球選手
1958年 - 岡田斗司夫、作家
1960年 - 香山リカ、精神科医
1960年 - 石井康嗣、声優・ナレーター
1960年 - 藤田恭一、ファッションデザイナー
1961年 - ダイアナ妃、イギリス皇太子妃(+ 1997年)
1961年 - カール・ルイス、陸上選手
1962年 - 鷹西美佳、アナウンサー
1962年 - 三杉里公似、大相撲力士
1962年 - ジェシー・リード、野球選手
1964年 - 佐藤智恵、声優
1965年 - 江頭2:50、お笑いタレント
1966年 - 中川緑、アナウンサー
1968年 - 今泉清保、アナウンサー
1968年 - 村岡弘之、俳優
1968年 - 森田チアキ、声優
1968年 - 小島圭市、プロ野球選手
1968年 - 榊原勝也、プロ野球選手
1969年 - 桧山進次郎、プロ野球選手
1969年 - ミズモトアキラ、DJ
1970年 - 幸田正広、プロ野球選手
1971年 - 鳥越裕介、プロ野球選手・コーチ
1971年 - 長谷川恵司、俳優
1971年 - イゴール・パシケビッチ、フィギュアスケート選手
1972年 - 関口知宏、俳優
1972年 - 稲田徹、声優
1972年 - 柴田ヨクサル、漫画家
1974年 - ジェファーソン・ペレス、陸上選手
1976年 - シモン・ジョルコフスキー、陸上選手
1976年 - パトリック・クライファート、サッカー選手
1976年 - ルート・ファン・ニステルローイ、サッカー選手
1977年 - リヴ・タイラー、女優
1977年 - 春日王克昌、大相撲力士
1977年 - 谷浩弥、プロ野球選手
1978年 - Akeboshi、シンガーソングライター
1979年 - マルコ・モンテリーゾ、騎手
1981年 - ジョナソン・ハント、フィギュアスケート選手
1982年 - ヨアキム・ヨハンソン、テニス選手
1983年 - 桜井広大、プロ野球選手
1983年 - 十川雄二、プロ野球選手
1984年 - モルガン・デュブレ、スーパーモデル
1985年 - 桜井のりお、漫画家
1985年 - 平岡政樹、プロ野球選手
1985年 - 山内壮馬、プロ野球選手
1987年 - カミラ・ピストレッロ、フィギュアスケート選手
1990年 - 佐藤夏希、AKB48
1992年 - 野崎夏帆、ファッションモデル
1993年 - 神山智洋、関西ジャニーズJr.
1994年 - 岡本杏理、子役・ファッションモデル
1994年 - 萩花、ファッションモデル
1994年 - 宗田淑、ファッションモデル
1998年 - 石原涼太郎、子役
生年不明 - 竹岡美穂、イラストレーター

忌日
251年 - デキウス、ローマ皇帝(* 201年)
868年 - アリー・ハーディー、イスラム教シーア派十二イマーム派の第10代イマーム(* 828年)
1109年 - アルフォンソ6世、カスティーリャ王(* 1040年)
1123年 - 阿骨打、金の初代皇帝(* 1068年)
1224年(元仁元年6月13日) - 北条義時、鎌倉幕府第2代執権(* 1163年)
1277年 - バイバルス、マムルーク朝第5代スルターン(* 1223年頃)
1520年 - モクテスマ2世、アステカ帝国皇帝(* 1466年)
1583年(天正11年5月12日) - 佐久間盛政、織田氏の家臣(* 1554年)
1592年 - マルカントニオ・インジェニェーリ、作曲家(* 1547年)
1625年(寛永2年5月27日)- 亀姫 (盛徳院)、徳川家康の長女・奥平信昌の正室(* 1560年)
1699年(元禄12年6月5日)- 徳川綱誠、第3代尾張藩主(* 1652年)
1736年 - アフメト3世、オスマン帝国スルタン(* 1673年)
1782年 - ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワース、イギリスの首相(* 1730年)
1784年 - ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ、作曲家(* 1710年)
1860年 - チャールズ・グッドイヤー、発明家(* 1800年)
1884年 - アラン・ピンカートン、私立探偵・ピンカートン探偵社創業者(* 1819年)
1896年 - ハリエット・ビーチャー・ストウ、アメリカの奴隷制廃止論者・作家(* 1811年)
1904年 - ジョージ・フレデリック・ワッツ、画家・彫刻家(* 1817年)
1908年 - 児島惟謙、政治家・大審院判事(* 1837年)
1915年 - ヨハン・エイクマン、薬学者、化学者(* 1851年)
1925年 - エリック・サティ、作曲家(* 1866年)
1934年 - 三岸好太郎、画家(* 1903年)
1944年 - ターニャ・サヴィチェワ、『ターニャの日記』の著作者(* 1930年)
1950年 - エミール・ジャック=ダルクローズ、作曲家・音楽教育家(* 1865年)
1950年 - エリエル・サーリネン、建築家(* 1873年)
1961年 - ルイ=フェルディナン・セリーヌ、小説家(* 1894年)
1964年 - ピエール・モントゥー、指揮者(* 1875年)
1967年 - 清瀬川敬之助、大相撲の力士(* 1893年)
1971年 - ローレンス・ブラッグ、物理学者(* 1890年)
1974年 - フアン・ペロン、アルゼンチン大統領(* 1895年)
1978年 - クルト・シュトゥデント、ドイツ空軍の上級大将(* 1890年)
1981年 - マルセル・ブロイヤー、建築家・家具デザイナー(* 1902年)
1983年 - バックミンスター・フラー、建築家・数学者(* 1895年)
1991年 - マイケル・ランドン、映画監督・俳優・脚本家(* 1936年)
1993年 - 村上泰亮、経済学者・評論家(* 1931年)
1995年 - ウルフマン・ジャック、ラジオDJ(* 1938年)
1996年 - マーゴ・ヘミングウェイ、女優(* 1955年)
1997年 - ロバート・ミッチャム、俳優(* 1917年)
1998年 - 豊登道春、プロレスラー(* 1931年)
1999年 - シルヴィア・シドニー、女優(* 1910年)
2000年 - ウォルター・マッソー、俳優(* 1920年)
2001年 - ニコライ・バソフ、物理学者(* 1922年)
2003年 - ニカウ、俳優(* 1943年?)
2004年 - マーロン・ブランド、俳優(* 1924年)
2004年 - 高畠導宏、プロ野球選手・コーチ(* 1944年)
2005年 - 萩原葉子、小説家(* 1920年)
2005年 - ルーサー・ヴァンドロス、R&B歌手(* 1951年)
2005年 - 天野滋、ミュージシャン(* 1953年)
2006年 - 橋本龍太郎、日本の第82・83代内閣総理大臣(* 1937年)
2008年- 佐竹昭広、国文学者(* 1928年)

記念日・年中行事

山開き(日本)-富士山など

海開き(日本)-沖縄など一部地域を除く

童謡の日(日本)

弁理士の日(日本)

カナダの日(カナダ)-1867年の自治開始を記念する日

特別行政府設立記念日(香港)-1997年の中国返還を記念する日

半夏生(はんげしょう、日本、2003年・2004年)-雑節の一つ。

JUNET記念日