東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成21年7月11日(土曜日)

「ここをおして」をクリックされてください。

「ここをおして」をクリックされてください。は
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年7月11日(土曜日)

「夏」。

「7月」です。

「夏」の。

「7月」になりました。

「夏」がきた。

「夏」がきた。

どこにきた。

「山」にきて「里」にきて。

「野」にもきた。

-------------------------------
今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

「晩冬」の「2月」がおわり。
「春」になりました。

「3月」「4月」「5月」がおわり。
「7月」になりました。
「夏」です。

昨年。
「6月」=「夏の始まり」です。
「6月」がおわり「7月」です。
「7月」もおわりました。
最後の夏月「8月」。
夏の「8月」もおわりました。

「9月」の「秋」になり。
「9月」がおわりました。
「10月」もおわりました。
「11月」です。
「秋」「11月」が終わりました。

「12月」です。
「冬」になりました。

昨年の「12月」が終わりました。

「新年」の「初春」になりました。
「1月」がすぎ。

「初春」の「2月」がすぎ。

「3月」「4月」「5月」がおわり。

いま「7月」です。

野の「夏」

里の「夏」。

「まち」の「夏」。

そして。

わたくしの「夏」。

みなの「夏」

「野」の「夏」に。

「里山」の「夏」に。

そして。

街(まち)の「夏」に。

「みどり」の「夏」に。

なりました。

「ちいさな夏」をこえて。

「大きな夏」を。

むかえようとしています。

いまは。

「里山」の「夏」

「野」の「夏」

「まち」の「夏」

「ふゆ」を「むかえよう」。
「新年」そして「初春」。
「くるとしつき」は
「無我のうちにむかえよう」。
「冬」がすぎたら。
そうしたら「春」をむかえよう。
「春」がすぎたら「夏」をむかえよう。

自在に「かんがえることなくながれてゆく」。

「自然」の「ときの流れ」は。
真(まこと)の幸せの「しらべ」。

「1月」は去り「2月」。
「2月」は去り「3月」。
「3月」は去り「4月」。
「4月」は去り「5月」。
「5月」は去り「6月」。

「ひたひた」と。

さらに深まりゆき。

とおりすぎていく「夏」。

「さくさく」とひびく。

日々の過ぎ去る足音は。

「とほとほ」と。

朝早くまだ暗い街中に

聞こえるようにとおざかり。

さってゆき。

そしてまた「新たな季節」が。

かわりにやってくる。

白く柔らかな春霞の衣をまとう若々しい

「春」の「さほ姫」*

は「冬将軍」をいなして。

「春」を導いて。

そしていま。

「佐保姫(さほひめ)」ははるかかなたに去り。

「夏」の「7月」になりました。

「佐保姫(さほひめ)」は春の神です。

五行説では春は東の方角にあたります。
平城京の東に佐保山があるために。
春の神は佐保姫と呼ぶようになりました。

白く柔らかな春霞の衣をまとう若々しい女性です。

竜田山の神で秋の竜田姫と対を成すことになります。

「夏」がきて。

去り行く。

日本の「春」の女神(めがみ)

「佐保姫(さほひめ)」。

「どなた」がみつけた「姫君」か。

うるわしき女神と感嘆致します。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(Johann Wolfgang von Goethe)
の「魔王:Erlkonig」*は。
「おそい冬の夜」の「嵐のなかを馬駆ける」
「父親」と「子」の情景を描写したものです。

かならずしも「冬の夜」を情景と考えなくても
「魔王」の詩*の
その「魔王」の「おそろしさ」は通じます。


魔王(Erlkonig)が。
どのようなものであるかは様々な議論があります。
その名前は字義的には「ハンノキの王」を意味する。

ゲーテは「ハンノキの王」Erlkonigから。
樹木の精霊の王として。
魔王を設定し想像力を膨らませたものです。

この詩はゲーテによって
1782年の歌劇『漁師の娘』
(Die Fischerin) の一部として作詞されました。

-------------------------------

『魔王』はデンマークで生まれた

「比較的新しい伝承」であると考えられます。

それをヨハン・ゴットフリート・ヘルダーが
ドイツ語に翻訳した『ハンノキの王の娘』
(Erlkonigs Tochter)が
ゲーテの詩の元になっています。

これはヘルダーが1778年に出版し
た『歌の中の人々の声』
(Stimmen der Volker in Liedern)という
民謡を集めた本に収録されています。

魔王(Erlkonig)が。
どのようなものであるかは様々な議論があります。
その名前は字義的には「ハンノキの王」を意味する。
英訳としては。
「妖精の王」(Elf King)がよく用いられます。
それに当たるドイツ語は。
「Elfenkonig」になってしまいます。

よく聞かれる説としては「Erlkonig」は
デンマーク語で妖精の王を意味する
「ellerkonge」または「elverkonge」からの
誤訳だとするものがあります。

しかし。
ゲーテはむしろその「ハンノキの王」から。
樹木の精霊の王として。
魔王を設定し想像力を膨らませたものです。

ドイツおよびデンマークの伝承では
魔王は死の前兆として登場します。
その意味では
「アイルランドのバンシー」
に似ています。

魔王は死に瀕した人物の前に現れます。
魔王の姿かたちや表情がこれから
その人物に訪れる死の内容を表します。

苦しい表情であれば苦しい死であるし
穏やかな表情であれば穏やかな死であるという。
別の解釈としては
妖精の王に触れられた者は必ず死に至るという
伝承が元になったという説もあります。

-------------------------------

今は「7月」の「夏」

早いです。

速いものです。

速いのか早いのか。

はやいのか。

けさ暗いうちに。

地をはうような。

「季節風」の

嵐(あらし)がふきました。

「夏の花」と「季節風」は。

相性が。

よくないようです。

もしかしたら逆に。

相性は。

よいのかもしれません。

どちらかです。

暗い朝に。

「夏の花」の花びらが。

夜の間に「季節風」の。

弓風に射られて。

白鷺の羽が舞いおりているようです。

「夏」の。

「季節風」の音は。

宙を舞う前の。

「むささび」の声のような。

「おたけび」。

けれども。

しだいに。

「季節風」は。

歌声のようにかわりました。

そして「7月」の「夏」。

「季節風」のバラード

が聞こえます。

「季節風」。

「「夏」いちばん」。

今日の朝暗いうちに。
秋の暗闇の地面のうえから。

「早朝に「季節風」の音」
が聞こえました。

不思議な「「夏」の「夏かぜ」の音」。
「鳴き声」のようです。

いつしか。
「季節風」と。
「「夏かぜ」の音」だけになりました。

「夏かぜ」と
「季節風」は。
早朝暗いうちにふくものである
ことがわかります。

「絵」にかきたい「音」なのです。

面白いが「おそろしい」情景であるような気も致します。
しいてこわい光景をおもいうかべるのであれば

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(Johann Wolfgang von Goethe)
の「夏」の「魔王」のようになるのでしょう。

「夏」の声。
「こうこう」と鳴く。
「季節風」
の風音がくわわっていきます。

その「季節風」の音の。
背景に流れる「通奏低音:Generalbass;ゲネラル・バス」*
「はるのはるかぜ」のこえは。
暗闇の「はるの足音」のように聞こえる。
あかるい「夏」の日に。
「陽射しの降るまち」では。
「足音だけが遠ざかっていく」「足音」

「とぼとぼ」
にしだいに重複してきました。
「夏」のあさの「あしおと」と。
「さむさ」のさるあしおとの。
そして「夏」のあしおとの。
「フーガ」と「カノン」。
「季節風」はトッカータ。
「なついちばん」は「フーガ」と「カノン」。

-------------------------------

通奏低音(つうそうていおん)とは
バロック音楽において行われる演奏形態の一つです。
低音部の旋律とともに即興的な和音を付け加えて演奏する形態です。
イタリア語のバッソ・コンティヌオ(Basso continuo)

の訳語です。
伴奏楽器が間断なく演奏し続けるということからこの名があります。
略してコンティヌオと呼ぶことも多いです。
ドイツ語のゲネラルバスも使われることがあります。

-------------------------------

常緑の木々の深冬葉のいろ。
緑がますますあざやかに。
深まる秋におちついて。
考えるが如く
「ロダンの彫塑」の色合いです。

常緑の木々の葉は。
深緑(ふかみどり)になりました。
そして「夏」をむかえて。
「夏緑」のいろあいに
うつろいできました。
もう「緑をうつろいて」
さすがにつかれた黄赤色の葉もみえます。
枯れ葉も樹木のにぎわいです。木々の防熱衣としては
なくてはならないものです。
「夏」をむかえます。

「夏」の夜明(よあけ)の空から。
「夏」の陽がのぼり。
「夏」の日の「空色」になってきました。

けれども。
朝暗いうちはミルクのはいった
コバルトのような
カフエ・オレ・コバルトの空色です。
そして雲は天高く「夏」の雲です。

あさの04:00AMころに。

東の空
さやかににあかるく
まだくらくあおく
しだいに
雲多い空はラピズラズリからトルコ石
のようににうつろうように。
しらんできます。

その上空にさらに。
明らかなる大きな質量のある。
「深まる「夏」の気配」を感じます。

夏野路はた見たりビロードのしだ
夏わらべのごときビロードのしだ
夏わらびのごとく輝けりビロードのしだ
夏山奥にひそむビロードのしだ
夏しのぶの羊歯(しだ)ビロードのしだ
夏めずらしき羊歯ビロードのしだ
夏ときわの緑のほのほビロードのしだ
夏山奥のしだのビロードのしだ
夏「まち」にもいきるビロードのしだ
夏けなげなりもあはれなりビロードのしだ
夏生い立ちしらずビロードのしだ
夏されどそのちからこそとほとしビロードのしだ

「夏」きたれり。

「夏」いざいまこそは

「夏」よき季節にあらむ

「夏」ふと空をみる

今時にもかかわらず放射冷却で
朝はとても寒いが。
「ぬくもり」はある。

確実に日は長くなりました。
葉木(はき)の樹木は「木」にかわり。
秋の木から「冬の木」にうつろいさらに
「「春」の木」から。
「「夏」の木」にうつろう時期
です。

外路樹の若葉は
緑濃くオリーブの葉のごとし
つみとりたくなる
ほどにきれいです。
けれどもひそやかに木々の葉にも
深い「春」からさらに「夏」。
の気配がうつろいて。
うつります。

そして春の「佐保姫(さほひめ)」
は微笑みをうかべてよそのくにへ
たびだちました。

夏まちなみ蒼く(あおく)
夏いろどりて
夏木々の榛葉のかがやけり
夏暑さの夏秋をうつろひて
夏ふかまるみどりの夏木なり
夏しずまるみどりの夏木なり
夏みのりの夏こそありがたし
春みのりの夏こそこひしかり
春虫なきてささやけり
春木々は榛葉にかがやけり

道端の野草もかわいらしい。
冬化粧をして。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は気温がさがり大気は不安定です。
「寒い」。
寒いと首都高の自動車も暗い中
「辛そうな運転の車」が多いです。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成21年1月12日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)
は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)
は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------
平成21年4月29日(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

平成21年7月20日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。

けれども「完全御予約制」の

御予約の患者さんのみ

限られた時間帯で診療を行います。

------------------------------

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。
梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼の青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝

「今日は何の日」は。

1912年(ユリウス暦6月28日)-
セルジュ・チェリビダッケ、指揮者(+ 1996年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

セルジュ・チェリビダッケ
:Sergiu Celibidache,
本名Chelibidachi/チェリビダッキ、
1912年7月11日
(当時ルーマニアで使用されていた
ユリウス暦では6月28日)
ローマン - 1996年8月14日 パリ)はルーマニア生まれで、
ドイツで活躍した指揮者・作曲家です。

++++++++++++++++++++++

セルジュ・チェリビダッケ
:Sergiu Celibidache,の出生

ローマンに生まれました。
第一次世界大戦中にヤシに転居、
同地で21歳頃までを過ごしました。

6歳頃からピアノを学びはじめました。
ピアノが直接音楽家を目指す契機には
ならなかったようです。

27歳になるまで。
天職を決めかねていたと告白しています。

父親は彼を政治家にしたがっていた、
というのは本人の弁でした。

ユダヤ文化の中心地であった
ヤシで育ちユダヤ人と深く交流したたために。
イディッシュ語も堪能でした。

++++++++++++++++++++++

指揮者として のセルジュ・チェリビダッケ
:Sergiu Celibidache,

チェリビダッケは初めパリに留学致しました。

1936年にドイツのベルリンに移り、
ベルリン大学やベルリン芸術大学で。
哲学、数学、作曲、指揮などを専攻
致しました。

彼は戦時中もベルリンに留まりました。
同地で終戦を迎えました。

ベルリン滞在中にフルトヴェングラーの演奏会を
チケットが手に入ろうが入るまいが聴き逃した覚えはない
と後年に回想しています。

++++++++++++++++++++++

戦後、ベルリン・フィルの常任指揮者だった
フルトヴェングラー
をはじめとする有名指揮者たちは。

ナチスとの関係をとがめられて謹慎生活をしられました。

ロシア生まれの指揮者レオ・ボルヒャルトが
ベルリン・フィルを率いることになりましたが。

わずか3ヶ月後の8月に
米軍の誤射でボルヒャルトは帰らぬ人となりました。

このため、後継指揮者を探すコンクールが開かれました。

セルジュ・チェリビダッケ :Sergiu Celibidache
に受けるように勧めたのは
師のハインツ・ティーセンだったということです。

++++++++++++++++++++++

この大事なチャンスに、
チェリビダッケはあろうことか
自転車のパンクか何かで遅刻してしまいました。

課題曲はブラームスの交響曲第4番第1楽章
(一説によると交響曲第1番)。

その結果は誰の目にも明らかな実力であった。
審査員全員一致で優勝。

ボルヒャルト死去のわずか6日後にベルリン・フィルの
野外コンサートで指揮者デビューを飾りました。

曲はロッシーニのセビリアの理髪師序曲と
ウェーバーのバスーン協奏曲、
そして
ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」でした。

++++++++++++++++++++++

連合軍がドイツ文化の非ナチ化を目指したことから
抜擢されたチェリビダッケだったが。

その2回目のコンサートにして
メンデルスゾーンの「イタリア」と、
なんとナチスの旗印とも言える
ワーグナーの「タンホイザー」序曲を組み合わせたプログラムで
コンサートを開いています。

当時としては最も早い時期でのワーグナー解禁でした。

純粋に音楽的な理由だとみなされたのか。
連合軍のおとがめはなかったようです。

++++++++++++++++++++++

若い楽団員とファーストネームで呼び合い、
わずかな食料を分かち合いながら戦後の混乱期を乗り切り
ました。
(コントラバスのツェペリッツあたりがその最後の世代)。

有名ソリストを海外から呼ぶこともできなかった時期に。
フランス・ロシアものなどの
新しいレパートリーを開拓することにも尽力致しました。

活動初期は評論家の受けもよく
ベルリン・フィルを多く指揮し次期首席指揮者と謳われました。

フルトヴェングラーを深く尊敬していた彼は、
フルトヴェングラーの非ナチ化裁判に協力するため奔走
致しました。
(この時期から早くもチェリビダッケのリハーサルに対して
ベルリン・フィルの楽団員の一部が不満を抱きはじめました。
フルトヴェングラーの復帰への要請が高まった理由とされます)。

++++++++++++++++++++++

2年後の1947年にフルトヴェングラーが
ベルリン・フィルに復帰致しました。
(とはいえ常任復帰は1952年に持ち越されました。
フルトヴェングラーは作曲活動に時間を
割きたがっていた上に4ヶ国に分割占領されていた
ベルリンの行く末を疑問視していたようでした)。

チェリビダッケは時にはフルトヴェングラーの
「下振り」を嬉々として行いながら。

多くの事を吸収致しました。
けれども
早くフルトヴェングラーに常任に復帰して欲しいと考える
ベルリン・フィルにとって。
チェリビダッケの存在価値は次第に変質していきました。

++++++++++++++++++++++

原因の一つは、チェリビダッケの求める
演奏技術レベルがフルトヴェングラーの要求よりも厳しく。

自分の要求に答えられないベテランの団員を
入れ換えたがっていたことでした
(事実彼は自分が「フルトヴェングラーより耳がよい」
ことを自認していました。
晩年のフルトヴェングラーは薬の副作用による難聴に苦しんでいました)。

その他には、彼の派手なアクションや指揮台上での足踏み、
唸り声や渋面がスタンドプレーと受け取られ始め、
ベルリンの演奏会批評でも叩かれたこともありました。

++++++++++++++++++++++

こうした雰囲気に嫌気がさしたチェリビダッケは
ベルリン・フィルの指揮回数を減らします。

まずロンドンでの客演活動を始め、
そしてヨーロッパ全域から中南米にいたるまで客演の範囲を拡大し、
ベルリン・フィルと距離を置き始めました。

(とはいえこの時点でもベルリン・フィルの指揮回数は
フルトヴェングラーよりチェリビダッケの方が
はるかに多い状態であったのです)。

1951年にはアメリカ人記者との会見の際に
ベルリン・フィルを批判。
この件がフルトヴェングラーの耳に入りました。
部外者を相手に自分のオーケストラをけなしたとして
フルトヴェングラーの叱責を受けました。

++++++++++++++++++++++

フルトヴェングラーがベルリン・フィル常任に
復帰するのはこの翌年の事でした。

フルトヴェングラーは当初、なによりも
カラヤンがベルリン・フィルを指揮することを
阻止したかったので、
そのためにも自分の思想的後継者である
チェリビダッケを後任に就けたいと考えていた節もありました。

++++++++++++++++++++++

だが、さまざまな事情から一度
カラヤンがベルリン・フィルの指揮台に立つと。

彼が非常に効率的なリハーサルをする
スマートな指揮者であることがわかり。

反対に
ときには暴言を発して厳しくオーケストラを締め上げる
チェリビダッケに対する反発も強まっていきました。

そして、フルトヴェングラーが死の病に伏しているちょうどその時、
チェリビダッケはベルリン・フィルとの
「ドイツ・レクイエム」のリハーサルで
最後の大衝突を起こして決別致しました。

38年後の1992年3月31日に最初で最後の復帰を果たすまで
ベルリン・フィルを指揮する事はなかったのです。

++++++++++++++++++++++

フルトヴェングラー没後、
ベルリン・フィルの首席の座はカラヤンが継ぎ
、チェリビダッケはその後、
イタリアの公共放送局RAI(Radiotelevisione Italiana)
に所属する複数のオーケストラ(トリノ、ローマ、ミラノ他)や。
スウェーデンやデンマークの
オーケストラに転々と客演を重ねました。

++++++++++++++++++++++

セルジュ・チェリビダッケ
:Sergiu Celibidache
は。

1971年に、後のシュトゥットガルト放送交響楽団となる
南ドイツ放送交響楽団の創立25周年コンサートを指揮し、
そのブルックナーの交響曲第7番の演奏は評判を呼びました。

オーケストラもチェリビダッケの能力を高く評価
致しました。

以後およそ10年にわたり。
チェリビダッケが望むだけのリハーサルを行い。
そのかわり演奏を収録/放送することをチェリビダッケが
「黙認」する形で両者の緊密な関係は続きました。

南ドイツ放送局に残された映像素材からは。

「シェヘラザード」などの放送用演奏は
複数回行われたことが確認できました。

そういう意味で、録音・録画を一切しない、
という当時の触れ込みは必ずしも正確ではなかったといえます。

++++++++++++++++++++++

セルジュ・チェリビダッケ :Sergiu Celibidache,
は。

1979年からは、
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め。
シュトゥットガルト放送交響楽団とは放送用の録画が
本人の意に染まない
改変を行われた、
という理由で1982年を最後に決別。

また晩年にはミュンヘン市の芸術監督に就任致しました。

++++++++++++++++++++++

セルジュ・チェリビダッケ :Sergiu Celibidache,
は。

日本には1977年秋と1978年春に読売日本交響楽団に客演、
1980年にはロンドン交響楽団と来日。
手兵ミュンヘン・フィルとは1986年以降1990年、
1992年、1993年と頻繁に訪れました。

1986年の公演でのブルックナーの交響曲第5番以降、
ブルックナーは来日公演の主要なレパートリーとなりました。

1990年10月にミュンヘン・フィルとともに来日した時は、
ブルックナーの交響曲第4番、第7番、第8番を指揮して、7番、8番は
ハイビジョンによる録画も行われています。

++++++++++++++++++++++

セルジュ・チェリビダッケ :Sergiu Celibidache,
は。

相当な毒舌家で知られていました。
ミュンヘン市当局は
金で他の指揮者への批判を黙らせたとされるほどです。
(クラウス・ウムバッハ)。
また、カール・ベームが晩年に
ミュンヘン・フィルに客演しようとした際、
チェリビダッケの毒舌
(チェリビダッケはベームを
「芋袋」「ドンゴロス野郎」と呼んでいた)
を耳にし、それを演奏契約解除の通告と
見做して出演を取りやめた、という逸話も残っています。

反面、ベームが病気のため指揮できなくなった
ロンドン交響楽団の演奏会を
わずか1日のリハーサルで引き受けるなど
普段からは想像できない人情家?ぶりを発揮することもあり。
その本音はよく分からないのです。

++++++++++++++++++++++

かつてチェリビダッケの毒舌(カラヤンを批判)
が新聞の紙面を賑わせた際には、
見かねたカルロス・クライバーが
トスカニーニに成り済まして
反論(天国でもカラヤンは人気者です)のテレックスを打った、
ということもありました。

この話には後日談があり、
お忍びで来日していたクライバーがドイツに帰国する際、
飛行機の中でミュンヘン・フィルとの来日公演を終えた
チェリビダッケとなんと鉢合わせしてしまいました。

どんな雷が落ちるかとびくびくしていたクライバーだが、
なんとチェリビダッケのほうがつかつかと歩み寄って
クライバーの隣の席に座り、
いろいろと音楽談義に花が咲いたのだということです。

もともとクライバーもチェリビダッケの海賊盤の
コレクションを人に自慢するぐらいだから。

テレックス自体も
屈折した愛情から出たものだったかもしれません。

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++

セルジュ・チェリビダッケ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%B1

セルジュ・チェリビダッケ :Sergiu Celibidache, 本名Chelibidachi/チェリビダッキ、1912年7月11日(当時ルーマニアで使用されていたユリウス暦では6月28日) ローマン - 1996年8月14日 パリ)はルーマニア生まれで、ドイツで活躍した指揮者・作曲家。

目次
1 出生
2 指揮者として
3 厳しいリハーサル
4 死後
5 作品
6 教育
7 演奏解釈

出生
ローマンに生まれ、第一次世界大戦中にヤシに転居、同地で21歳頃までを過ごす。6歳頃からピアノを学びはじめるが、これが直接音楽家を目指す契機にはならなかったようで、27歳になるまで天職を決めかねていたと告白している。父親は彼を政治家にしたがっていた、というのは本人の弁。ユダヤ文化の中心地であったヤシで育ちユダヤ人と深く交流したたため、イディッシュ語も堪能であった。

指揮者として
チェリビダッケは初めパリに留学したが、1936年にドイツのベルリンに移り、ベルリン大学やベルリン芸術大学で哲学、数学、作曲、指揮などを専攻した。彼は戦時中もベルリンに留まり、同地で終戦を迎えた。

ベルリン滞在中にフルトヴェングラーの演奏会をチケットが手に入ろうが入るまいが聴き逃した覚えはない、と後年に回想している。戦後、ベルリン・フィルの常任指揮者だったフルトヴェングラーをはじめとする有名指揮者たちはナチスとの関係をとがめられて謹慎生活に入り、ロシア生まれの指揮者レオ・ボルヒャルトがベルリン・フィルを率いることになるが、わずか3ヶ月後の8月に米軍の誤射でボルヒャルトは帰らぬ人となった。このため、後継指揮者を探すコンクールが開かれた。受けるように勧めたのは師のハインツ・ティーセンだったという。この大事なチャンスに、チェリビダッケはあろうことか自転車のパンクか何かで遅刻したらしい。課題曲はブラームスの交響曲第4番第1楽章(一説によると交響曲第1番)。その結果は誰の目にも明らかだったらしく、審査員全員一致で優勝。ボルヒャルト死去のわずか6日後にベルリン・フィルの野外コンサートで指揮者デビューを飾る。曲はロッシーニのセビリアの理髪師序曲とウェーバーのバスーン協奏曲、そしてドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」だった。

連合軍がドイツ文化の非ナチ化を目指したことから抜擢されたチェリビダッケだったが、その2回目のコンサートにしてメンデルスゾーンの「イタリア」と、なんとナチスの旗印とも言えるワーグナーの「タンホイザー」序曲を組み合わせたプログラムでコンサートを開いている。当時としては最も早い時期でのワーグナー解禁だったが、純粋に音楽的な理由だとみなされたのか、連合軍のおとがめはなかったようである。

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
7月11日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8811%E6%97%A5

できごと
1804年 - アメリカ合衆国副大統領アーロン・バーと
同財務長官アレクサンダー・ハミルトンが決闘を行う。
1848年 - ロンドンのウォータールー駅が開業する。
1854年(咸豊4年6月17日)- 琉米修好条約が締結される。
1859年 - チャールズ・ディケンズ作の小説『二都物語』が発売される。
1887年 - 東海道本線、神奈川駅(現在廃止)〜国府津駅間開業。
1893年 - 御木本幸吉が真珠の養殖に成功。
1921年 - モンゴル人民政府(現モンゴル国)が成立し、中華民国から実質的に独立。
1950年 - 日本労働組合総評議会(総評)結成。
1950年 - パキスタンが国際通貨基金(IMF)に加盟。
1957年 - 升田幸三王将・九段が大山康晴名人を破り棋界初の三冠に。
1960年 - 東京ディズニーランドなどを経営するオリエンタルランド設立。
1961年 - フィラデルフィア発デンバー行きのユナイテッド航空859便DC-8型機がデンバーのステープルトン国際空港への着陸に失敗、18名の死亡者と44名の重軽傷者を出す。
1962年 - 日本初の国産旅客機YS-11が完成。
1962年 - 創価学会が参議院院内交渉団体公明会(後の公明党)を結成。
1962年 - アメリカとイギリス・フランス間で初の大陸間衛星中継が成功する。
1966年 - 広島市議会が原爆ドームの永久保存を決議。
1966年 - 第1回全日本サーフィン大会が千葉県鴨川市鴨川海岸に於いて開催される。
1968年 - 『週刊少年ジャンプ』創刊。
1971年 - チリ議会が国内銅山国有化を決定。
1971年 - 北陸鉄道動橋線が全線廃止。
1973年 - リオデジャネイロ発パリ行きのヴァリグ・ブラジル航空820便ボーイング707型機でパリのオルリー空港への着陸進入中火災が発生、不時着を試みたが滑走路端5キロの地点に墜落し乗員乗客135名中124名が死亡。
1975年 - 私立学校振興助成法が公布される。
1979年 - 東名高速道路・日本坂トンネル内で玉突き事故(日本坂トンネル火災事故)で173台が炎上し死者7人。
1982年 - カンボジアで反ベトナム3派による民主カンボジア連合政府が発足。
1991年 - カナダのノリス・エアチャーター便DC-8型機がサウジアラビアのジッダ・キング・アブドゥルアズィーズ国際空港を離陸直後に墜落、乗員乗客261名全員が死亡。
1991年 - 悪魔の詩訳者殺人事件。
1995年 - 新潟県、長野県が集中豪雨に見舞われる(7.11水害)。国道252号、大糸線が長期間不通に。
2002年 - 欧州人権裁判所大法廷の裁判官17名全員がイギリスの性転換者の出生証明書の性別訂正の訴えを認める判断をくだす。
2004年 - 第20回参議院議員通常選挙投開票。
2006年 - インドのムンバイで列車爆破テロ起こる。
2006年 - マイクロソフト社がWindows 98とWindows Meのサポートを停止。
2008年 - アップル社のiPhone(アイフォーン)がソフトバンクモバイルより発売される。

誕生日
1274年 - ロバート1世、スコットランド王(+ 1329年)
1628年(寛永5年6月10日) - 徳川光圀、第2代水戸藩主(+ 1700年)
1767年 - ジョン・クィンシー・アダムズ、第6代アメリカ合衆国大統領(+ 1848年)
1826年 - アレクサンドル・アファナーシェフ、民族学者(+ 1871年)
1836年 - カルロス・ゴメス、作曲家(+ 1896年)
1866年 - リヒャルト・ベーア=ホフマン、小説家・詩人・劇作家(+ 1945年)
1912年(ユリウス暦6月28日)- セルジュ・チェリビダッケ、指揮者(+ 1996年)
1934年 - 斎藤文夫_(参院議員)、政治家
1934年 - ジョルジオ・アルマーニ、ファッションデザイナー
1943年 - 菱田嘉明、政治家
1943年 - 岩沢幸矢(ブレッド&バター)、歌手
1944年 - パトリシア・ポラッコ、絵本作家
1945年 - 三輪田勝利、プロ野球選手(+ 1998年)
1946年 - 木の実ナナ、女優
1946年 - 伊藤君子、歌手
1949年 - 沢田雅美、女優
1951年 - 山本正之、作詞家・作曲家・歌手
1951年 - 斉藤洋介、俳優
1953年 - 行沢久隆、プロ野球選手
1956年 - 谷田部勝義、アニメーション監督・脚本家・演出家・音響監督
1956年 - 中野誠吾、プロ野球選手
1958年 - カーク・ウェイラム、音楽家
1959年 - リッチー・サンボラ、ギタリスト
1962年 - 藤井フミヤ、歌手
1964年 - 今野隆裕、プロ野球選手
1964年 - 染宮修支、プロ野球選手
1965年 - アーネスト・ホースト、キックボクサー
1966年 - 柳田浩一、プロ野球選手
1968年 - 近藤サト、アナウンサー
1970年 - 長沢美樹、声優
1973年 - 水田章雄、プロ野球選手
1974年 - 小野公誠、プロ野球選手
1975年 - 葉月里緒奈、女優
1976年 - 相川亮二、プロ野球選手
1976年 - エドアルド・ナヘラ、バスケットボール選手
1980年 - 鈴江奈々、日本テレビアナウンサー
1980年 - 侯鳳連、野球選手
1981年 - 槙ようこ、漫画家
1982年 - 稲村優奈、声優・女優
1983年 - 井ノ上奈々、声優、クローバーのメンバー
1984年 - 日向瞳、女優
1984年 - 橋本直子、バレーボール選手
1984年 - タニス・ベルビン、フィギュアスケート選手
1985年 - 高杉さと美、歌手
1985年 - 前田亜季、女優・アイドル
1985年 - 沢村洋奈、グラビアアイドル
1986年 - 東野峻、プロ野球選手
1987年 - 加藤成亮、タレント、NEWSのメンバー
1987年 - 山口俊、プロ野球選手
1988年 - 井口裕香、声優
1988年 - 戸島花、AKB48
1989年 - 田中直乃、タレント
1989年 - 村上愛里、グラビアアイドル
1989年 - 伊藤歩惟、グラビアアイドル
1990年 - 落合扶樹、俳優
1992年 - 船越英里子、女優
1995年 - 宮下みらい、ファッションモデル

忌日
645年(大化元年6月13日) - 蘇我蝦夷、豪族(生年不詳)
969年 - オリガ、キエフ大公イーゴリ1世の妃(生年不詳)
1382年 - ニコル・オレーム、哲学者・天文学者(* 1325年頃)
1510年(永正7年6月6日)- 猪苗代兼載、連歌師(* 1452年)
1535年 - ヨアヒム1世、ブランデンブルク選帝侯(* 1484年)
1593年 - ジュゼッペ・アルチンボルド、画家(* 1527年)
1674年(延宝2年6月8日)- 鷹司孝子、江戸幕府第3代将軍徳川家光の正室(* 1602年)
1688年 - ナーラーイ、タイ王(* 1629年)
1745年(延享2年6月12日)- 前田吉徳、第6代加賀藩主(* 1690年)
1766年 - エリザベッタ・ファルネーゼ、スペイン王フェリペ5世の妃(* 1692年)
1831年 - ヴァーシリー・ゴローニン、ロシア海軍の軍人・探検家(* 1776年)
1840年(天保11年6月13日)- 島田元旦、絵師・鳥取藩士(* 1787年)
1855年 - パーヴェル・ナヒーモフ、ロシア海軍の提督(* 1802年)
1863年(文久3年5月26日)- 田中新兵衛、幕末四大人斬りの一人として知られる薩摩藩士(* 1832年)
1906年 - 2代目三遊亭圓橘、落語家(* 1811年)
1909年 - サイモン・ニューカム、天文学者・数学者(* 1835年)
1919年 - 鈴木三樹三郎、新選組9番隊隊長・御陵衛士(* 1837年)
1920年 - ウジェニー・ド・モンティジョ、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后(* 1826年)
1930年 - 小川正孝、化学者(* 1865年)
1937年 - ジョージ・ガーシュウィン、作曲家(* 1898年)
1941年 - アーサー・エヴァンズ、考古学者(* 1851年)
1946年 - ポール・ナッシュ、画家(* 1889年)
1947年 - リヒャルト・ヘーニヒスヴァルト、哲学者(* 1875年)
1953年 - オリバー・キャンベル、テニス選手(* 1871年)
1966年 - アルフレット・ベルガー、フィギュアスケート選手(* 1894年)
1971年 - ジョン・W・キャンベル、小説家(* 1910年)
1971年 - ペドロ・ロドリゲス、F1ドライバー(* 1940年)
1973年 - 3代目三遊亭小圓朝、落語家(* 1892年)
1973年 - 吉屋信子、小説家(* 1896年)
1974年 - ペール・ラーゲルクヴィスト、小説家(* 1891年)
1983年 - ロス・マクドナルド、推理作家(* 1915年)
1989年 - ローレンス・オリヴィエ、俳優(* 1907年)
1991年 - 五十嵐一、中東・イスラーム学者・小説「悪魔の詩」邦訳者(* 1947年)
1992年 - 鄧穎超、中国首相周恩来の妻(* 1904年)
1994年 - ゲイリー・キルドール、デジタルリサーチ社の創業者(* 1942年)
1996年 - 久慈あさみ、女優、歌手(* 1922年)
2003年 - 小松方正、俳優(* 1926年)
2004年 - 原田泰夫、将棋棋士(* 1923年)
2005年 - 橋本真也、プロレスラー(* 1965年)
2007年 - レディ・バード・ジョンソン、リンドン・ジョンソン第36代米大統領の妻(* 1912年)
2008年 - 田中俊幸、プロ野球選手・セントラル・リーグ審判部長(* 1940年)

記念日・年中行事

真珠記念日
1893年7月11日に、御木本幸吉夫妻が初めて真珠の養殖に成功したことに由来。

世界人口デー
1989年、国連人口基金が制定。1987年のこの日、
世界の人口が50億を超えたとされることから。

セブン-イレブンの日