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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年08月13日(木曜日)

「夏」です。

「夏」の「8月」

になりました。

まばゆいほど。

ことばでは。

いいつくせないほどに。

まぶしくて。

ありがたくやさしい。

「夏」「8月」の。

するどく。

つよい陽射しです。

しあわせいろの。

とても。

とてもあかるい陽射しです。

「8月」の。

「朝」の陽射しの「あかるさ」は。

なにものにも。

たとえようこそありません。

「しずかな花火のようなひざし」です。

あさひ。「朝陽」の光は。

とても「するどい」。

夏朝陽(なつあさひ)

緑木枝間に

われを見る

まばゆくも

夏朝陽(なつあさひ)鋭く輝く

眼(まなこ)なりけり

なつあさひ

みどりきえたまに

われをみる

まばゆくも

なつあさひするどくかかやく

まなこなりけり

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

「夏」になりました。

今年も夏がきました。

「夏」がきて。

今は「8月」。

「夏」がふうせんのように。

ふくらみ。

ひろがってゆく季節です。

「8月」です。

「盛夏」。

ひなまつりはおわり。

野には。

たんぽぽが葉草となり。

夏草の花が咲き。

野草は葉草となり。

よもぎや。

すぎながいっぱいになりました。

みどり葉のつつじが。

さえほこっています。

「夏」になり「川の水音」は。

あたかも。

「ゆたかな清流」の。

「みずのながれのおと」に。

きこえるようになりました。

「夏」の小川。

「どんどん」ながれる。

なつのおがわ。

高さも低さこそ見えないのに。

あゆみたゆまず。

ながれる水の流れ。

とても感銘致します。

春分の日もすぎれば。
「さくら」咲きはじめ
「さくら」がおわり。
「4月」が終われば。
「5月」になり。
「5月」もおわれば。
6月に。「夏」になり。
6月も終われば。
7月 たなばた。
7月 もおわれば。
せみのなく8月。
8月の夏はすぎれば。
9月の秋になり秋の虫が鳴く。
そして9月がおわり。
中秋10月なり紅葉の季節。
そして10月がおわり。
「11月」になり。
晩秋「11月」もおわり12月の「冬」。
「12月」になればまた「年」があけ。
また「初春」がくる。

そして来年も「春」の「3月」がきて。
そして「4月」「5月」がおわり。
「6月」「7月」がすぎて。
「8月」になる。

「なつ」の「8月」です。

「陽」はすでに

日々とてもたかくなりつつあります。

「夏」がきて。

「ま夏」に向かう「ひざし」の。

「光」の日々です。

「夏至」はもうすぎました。

「夏」の「8月」です。

「夏」の「8月」の。

陽は日々ひくくくなっています。

夜になっても明るい。

とてもよくわかります。

けれども「夏至」はもうすぎました。

朝陽ののぼるのが早くなりました。

夕陽がおりるのは遅くなりました。

朝の「夏」の陽射しは

窓越しにも「まばゆい」

くらいです。

夕暮れの「夏」の陽射しは

「はしりおえた」

「陸上競技の選手」のようです。

つかれて。けれども充実して。

くれてゆきます。

空の明るい夜になります。

まことに。

冬来たりなば春遠からじ。

ふゆきたりなば

はるとおからじ

(出 典は。

 イギリスの詩人シェリー*の

『西風に寄せる歌』の一節。

英 語の原文: 

If winter comes,

can spring be far behind? )

「英国:United Kingdom UK」のロマン派の
詩人は。「御自分」のテーマの「鳥」を
紋章のようにもっています。
英国ロマン派の詩人は、
それぞれ愛好し、崇拝する鳥を持っていました。

ジョン・キーツは、
「夜鶯」(ほととぎす)の神秘的な声に魅惑され。
夜の闇に響くその歌声を主題に詩を書いています。

ワーズワースにとって、詩の霊感をもたらし、
彼に生きることの喜びを教えてくれる鳥は、
「郭公」(かっこう)でした。

パーシー・シェリーは「雲雀」(ひばり)の声に魅惑され。
ひばりを崇拝する鳥として。
主題とした詩を書いています。

「春」から「夏」への

移り変わりは

二階から。

「かけあし」の足音のとんときこえぬ。

「空き家」のごとき「うつろい」でした。

二階から。

「かけあし」の足音のきこえぬ。

「かげろう」

の「たたずまい」のようでした。

「9月」の初秋がおわり。
「名月中秋10月もおわり」ました。
「11月」。

「11月」もおわりました。
「12月」もおわりました。
「新年」「初春」の「1月」もおわり。
今は
「2月」「晩冬」もおわりました。

「春」から「夏」への移り変わりは

「かげろう」のようにうつろいました。

「夏」はひそやかにと。

こっそりと。ゆっくりと。

ひそかに。あるいて来ます。

そしてゆっくりと。

「秋」になるまで

あるいて去って行くようです。

だから。

「夏」をまつのであれば。

「夏」がひそやかに。

しのびあしで。

歩いてくるのをまたなければ。

なりません。

「秋」がくるのをまつのであれば。

「夏」がゆっくりと。

しのびあしで。

歩いていくのをまたねば。

なりません。

「かぜのおとに*」おどろかされるまで。

またねばなりません。

秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる
(藤原敏行・古今集169)

もう「夏」なのですね。

「夏」はゆっくりとあるいてやってくる。

「夏」がひそやかにかくれてやってくる。

さきのことすぎるかもしれないが「来年」。

このように「時」のうつろいを

心はせれば。

考えると「おそろしいもの」です。

考えなければ。
「なおおおそろしい」
ものであるものかもしれない。

「考えずにいるつけ」がまわって
くるからかもしれません。

「来年」のことを考えれば「鬼」が笑う。
「来年」のことを考えずにすむのであれば「鬼」は
笑わないのでしょう。

「鬼」とはなんだろう。

「欧米」には「鬼」という概念の「怪物?」は。

存在しません。

今日の深夜早朝03:15amには。

久方ぶりに。

大きな「夏」の「星空」がみえました。

早朝くらいうちは。

空に月。

「お月様」が「雲のじゅうたん」に。

天高くにねそべって。

かさををさしている。

ようです。

「夏」の「夜空」の。

「おぼろ月夜」です。

「赤い月」でした。

04:00amころ日があければ。
まだまだくらい朝日を背に。
西のコバルトの空高く明るい。
とても高い成層圏近くの高い高度に。

西のコバルトの空高に。
「刷毛」でひいたように「絹雲(けんうん)」が
何本も何本も。
描かれて。
たなびいていました。

実に見事な筆捌(ふでさばき)です。
ためらいのない「朝焼け」
「夏」の「朝焼け色」の線描です。

「夏」の朝。

「陽射し」ののぼるころは。

「西」の空

のほうが明るいのです。

朝が明けて午前になれば。

まばゆいほどの。

「夏」のひざしが。

陽がのぼる。

東から。

窓のカーテンと。

木々の合間をぬって。

「さあ 外においで!」

とさそうがごとく。

大きな声で。

よびかけてくるようです。

ハーメルンの笛吹き男のようです。

高い成層圏近くの高い高度に。
「刷毛でひいたように」「絹雲(けんうん)」
の端には渦巻きのような「ぬけあな」があり
「さらなる遠方の青空」が透けてみえます。

さながらにして。
東山魁夷画伯の描かれた大きな壁画。
大きな屏風絵の世界。

東山魁夷画伯の描かれた大きな絵画を
彷彿とさせますです。

東山魁夷画伯。
「よくえがかけた画伯です」。

この「あおぞら」をみていると。

陽のひかりをみていると。

とても

信じられないくらいに。

元気がわいてくることに。

気が付きました。

「太陽」の「陽射し」。

「陽」の「めぐみ」は。

なんと。

ありがたいことだろう。

なんと尊いことだろう。

そら一杯の青空の

天井(てんじょう)と。

「太陽のひかりのひざし」は。

「生きとし生けるもの」にとって。

なによりもの。

まことの。

「めぐみ」なのであり。

それを戴けるのは。

「よろこび」おほきことです。

「太陽のひかりのひざし」は

「いのちへのめぐみ」。

「いのちのよろこび」。

ありとあらゆる「生命」「いのち」をはぐくみ。
ありとあらゆる「生命」「いのち」をたたえる。
ありとあらゆる「生命」「いのち」をなぐさめる。

「生きとし生けるもの」の「いのち」に。
さらなる。
「はるかかなた」までの。
「いきるちから」をさずけるものです。
「太陽」。
ありがたいものです。

はやいものです。
ときのたつのは。
はやいものです。

そしてふと考えれば

去年も
「12か月」が
終わりました。

中秋から晩秋にうつろい。
「寒月」の「12月」がおわり。
新年の「1月」がおわり。
「晩冬」の「2月」がおわり。
「初春」の「3月」「4月」がおわり。

いまは
「夏」「8月」です。

「夏の花」の花の花びら。

ひろって。
手のひらにかかげれば。
「夏の花」の花のかおりは。
プラチナ色の香りが
致します。

今は。
「夏の花」が。
蕾をふくらませています。
「夏の花」の。

はながは鐘袖(ベル・スリーブ)のように。
ふくらんでいます。

「夏」の花の「はなびら」が。

闇夜のあいだに。

朝の早朝まだ。

「花」にもきがつかぬうちに

また地に舞い下りています。

「夏の花」

には。

ひとのよの。

「人のいのち」の。

「こたえ」があるような

気が致します。

ふと野の花は。

一般的には。

香らない花が。

多いことに気づきました。

伊藤左千夫の「野菊の墓」の「野菊」は。
矢車菊 (やぐるまぎく)
はとても綺麗なむらさきの「のぎく」です。
けれども「のぎく」は香りません。
(Corn lower, Bachelor's-button)です。

因みに
最高級の(今はもうとれない)
インド・カシミール地方で産出されたの
サフアイアの色は

「矢車菊色:やぐるまそう色」といわれます。

「カシミール・ヴァイオレット」。

麦畑やとうもろこし畑の中に 咲いていたことから。
「コーン・フラワー」=「野菊」(Corn lower)
です。

別名 「矢車草(やぐるまそう)」
といわれることがあります。

実は「矢車菊 (やぐるまぎく)」と
「矢車草(やぐるまそう)」まったく違う植物です。
矢車菊 (やぐるまぎく)が「野菊」。
「矢車草(やぐるまそう)」は「高山植物」。

「野菊」は春から夏にかけて咲くむらさきの花です。

古代エジプトのツタンカーメン王の墓 からも
発見された由緒正しき「野菊」。
色は紫。むらさきです。

ツタンカーメン王の。

まだ幼な子王妃が。

「亡きツタンカーメンンに野菊の花束ささげるけなげな姿」
が鮮烈に眼に浮かびます。

この「花」が。

「野菊」です。

「野菊の墓」の「野菊」。

けれども。

「野菊」は

香らない。

毎朝暗い早朝と。

うす暗くなる午後6時ころには。

「季節風」が

ふいている。

「季節風」がかわりばんこに。

あちこちで

「ろうろう」「こうこう」とないています。

「夏かぜ」の
「季節風」の
の「コーラス」を聞いていると。

ふと。

「この「夏」におびえるひと」の気配が
脳裏をはしりました。
はてだれだろう。

うら若き乙女。
貧しさに。
苦労に苦労をかさねて。
苦しんで苦しんだ苦しんだあげくに。
24歳にして世を去った
「樋口一葉」。

樋口一葉の
夏ではあるけれども。
「うらわかき」「「冬」と「春」の短歌」がきこえるようです。

散たまるふもとの落葉わけて思ふ
埋もれぬべきは雪の山里

ちりたまるふもとのおちはわけておもふ
うもれぬへきはゆきのやまさと

庭の面につもる紅葉の色見れば
散りての後もにしきなりけり

にわのおもにつもるもみしのいろみれば
ちりてのあともにしきなりけり

世の中の秋にあはじとおくれけん
一もと野ぎく思ひあがりて

よのなかにあきにあはしとおくれけん
ひともとのきくおもひあがりて

折々に散るものどけし春雨の
はれたる軒の山桜ばな

おりおりにちるものどけしはるさめの
はれたるのきのやまさくらばな

わが園のものとおもへば初わかな
はつかなれども嬉しかりけり

わがそののものとおもへばはつわかな
はつかなれどもうれしかりけり

立ち渡る霞をみれば足引きの
山にも野にも春は来にけむ

たちわたるかすみをみれはあしひきの
やまにものにもはるはきにけむ

わたつ海の波のいづこに立ち初て
果なくつゝむ春の霞ぞ

わたつみのなみのいづこにたちそめて
はてなくつつむはるのかすみぞ

さざ波やしがの都のいにしへの
おもかげうすく立つ霞かな

ささなみやしかのみやこのいにしえの
おもかけうすくたつかすみかな

鶯のけさおとづるゝ声聞て
はじめて春の心地こそすれ

うくいすのけさおとつるるこへききて
はしめてはるのここちこそすれ

うれしくもわがものにして聞てけり
このあかつきの鶯の声

うれしきもわかものにしてきこへけり
このあかつきのうくいすのこへ

のどかなるけさの雨にやはるの野の
みどりも色まさるらむ

のとかなるけさのあめにや
はるののの
みとりのいろもまさるらむ

おくれたる友の為にとしをりして
谷間の蕨折り残しけり

おくれたるとものためにとしをりして
たのまのわらひおりのこしけり

ちりたまるふもとのおちはわけておもふ

うもれぬへきはゆきのやまさと

にわのおもにつもるもみしのいろみれば

ちりてのあともにしきなりけり

よのなかにあきにあはしとおくれけん

ひともとのきくおもひあがりて

-------------------------------

おりおりにちるものどけしはるさめの

はれたるのきのやまさくらばな

わがそののものとおもへばはつわかな

はつかなれともうれしかりけり

たちわたるかすみをみれはあしひきの

やまにものにもはるはきにけむ

わたつみのなみのいづこにたちそめて

はてなくつつむはるのかすみぞ

ささなみやしかのみやこのいにしえの

おもかけうすくたつかすみかな

うくいすのけさおとつるるこへききて

はしめてはるのここちこそすれ

うれしきもわかものにしてきこへけり

このあかつきのうくいすのこへ

のとかなるけさのあめにや

はるののの

みとりのいろもまさるらむ

おくれたるとものためにとしをりして

たのまのわらひおりのこしけり

「24歳」の「とても貧しい乙女」の。

「夏」によろこび。

「夏」にもおびえおののく。

隠したくはない「乙女のほこり」

けれども。

隠さざるを得ぬ「乙女のほこり」

かなしさの。おもかげと。

光さす。輝きと。

お若い「御婦人」の「知」「智」が。

ほこりたかくも。

そしてはかなくも。

「ひしひし」とよみとれます。

「夏至」はもうすぐすぎました。

これからは日は。
陽は次第にみじかくなる。
日が短くなる。
朝は明けるのは遅くなり。
夕に暗くなるのは早くなる。

しだいに陽がみじかくなる。
なぜか。
不思議なやさしさ。
やすらぎと。
心やすらかなる
安堵感をかんじます。

心やすらかなる
安堵感をかんじます。

けれども。
「安堵」と「落胆」は。
常に表裏一体。
両羽(もろば)の剣。

「ぬかよろこび」の「ぬか」のような
ものです。

「ながくなる陽」も両羽(もろば)の剣を
持っています。

そして。
季節には「大気の音色(ねいろ)」もあるようです。

朝空は
陽ははるかに天高く。
空色はミルク色です。
クリームのかかった雲空です。

東京都世田谷区山本クリニックの庭園には

「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。

「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。

この「8月」になり。
森山を分け入ると。

木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花の花のごとくに紅葉したまま
しもがれする
「やまはぜの葉木」が「大好き」です。

「やまうるしの紅葉」もかわいらしく。
「大好き」です。

身の丈以上ほどにもなって群生する。
野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
が。
病院の林の一角に野生のまま
おいしげっています。

野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
のパープルの真珠が群れたように実る
「実りの木の実」の風にそよぐ音色には。
おどろかされます。

あけびつたもうれしい。
あけびの「実」がみつかればなおなおうれしい。

またたびをみつけました。
根元にねこにかじられきずがある。

里山の冬の時期から。
そして初春の里山の季節
になりました。

四季の歩みの春夏秋冬のうつろいは
メトロノームの「あゆみ」を
感じさせます。

この「あゆみ」の「質量」は
とてもとても高いです。
質量があれば。あたかも。
重力のように。
四季のリズムにひきよせられていく。
そのような感じがします。

四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいてなお着々。
確実な「リズム」を感じます。

ここに。
「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
がくわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じです。

草花や草木につつまれた自然は。
「音楽」と同じように
ひびきとして聴こえます。

自然は
「しぜん」の
「ヴィルトオーゾ」と
「ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」
*です。

この「自然のフイルハーモニウム」の。
指揮者は。
太陽なのか大地なのか人なのか。

或は音色をかもし出す自然はオーケストラ
であるのか。
ソリストなのだろうか。

私の尊敬する「合衆国USA」の
女性で小説家(「ノーベル賞受賞者」)
「パール・サイデンストリッカー・バック
(Pearl Sydenstricker Buck)
中国名、賽珍珠(サィ・チンシュ)」
パールバックの「大地」に
その「こたえ」が示唆されています。

古代より芸術家が
自然を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判ります。

*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。

実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。

但し音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる「成分」というわけ
ではありません。

また「音楽であるため」に。
三要素が絶対必要ということ
でもないでしょう。

邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。

「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。

邦楽もその一つです。

大和の国 やまとのくにの自然は。
「大和の国の音楽」と同じように思えます。
聴こえます。

「音楽」は「音」「おと」です。
そして「しらべ」=メロディとハーモニーです。
人類が「この音楽」を「楽譜」として
「寸分たがわず」「譜面」という名の「紙」に
「かくことを完成させた」ということは
大変なことです。

人間は。
人類は。
わずか「400年」で。

「音楽の旋律」に対する「楽譜」を。
「あらたな言語」を
完全に「完成」させたことになります。

まさにミューズの神の「神業かみわざ」です。

木々のめぶきの
冬なおも。
ますます力強い息吹を感じます。

「真夏」をすぎ「冬」になると。
再び「若葉」がみられることに。
きづきました。
「ため息」がでるほど木々の「冬若葉」の
「つどい」は「つよく」「うつくしい」。
雪の上のみどり。

木々のてっぺんは萌黄色から
「ふかみどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「冬を迎えた葉束」になりました。
これからは
「深まる冬」がすぎさり「春」。
「開花」の炎が。
樹木の上方で。
「雪の到来」を.
くすぶりてまちわびてています。
たえしのぶ冬の樹木です。

「若葉」の「新緑」から「深緑」です。

高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり冬のおとずれを
伝えていました。

桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうともいえる青葉。
そして見え隠れする「紅葉葉」。
紅葉葉の10枚20枚がひとつひとつ
の樹木にみえるようになりました。
「黄色調」です。
そして今「樹木」は「葉のいろ」をかえ
「宙」に舞おうとしています。

明らかなる。
「冬から春」とはことなる。
「夏から秋」。
「秋から冬」
そして「冬」の「木枯らし」。

木々の四季の。
大気の「色」のうつろい
に気づきます。

今は里山(さとやま)をさまよい。
今は里山(さとやま)をあるきたい。
今は里山(さとやま)の季節。
今は昔々里山(さとやま)であそび。
今は昔々て里山(さとやま)でおぼえ。
今は昔々里山(さとやま)でまなんだ。
今は昔々のその日々の思い出は。
今は黄金(こがね)か。あるいは。
今は銀か。いぶし銀か。
今はもしかしたらプラチナか。
今は思い出色は鉛のように。
今は重さは鉛のようになり。
今は心の奥深くに埋もれて感じられます。

「幸せ色」=「しあわせいろ」

ならばよいです。

けれども
早朝は非常にあたたかくなりました。

夏やま中さまよいて
夏やま中をわけいらば
夏やま中大樹の根元に隠れたり
夏やま中あけぼの色のちひさき炎(ほのほ)
夏やま中みつけたりやまの秋の華。
夏やま中やまの秋葉木のかくれんぼ
夏やま中大樹の根元に隠れたり
夏山はぜの葉木。
夏やま中やまうるしの葉木。
夏やま中あきやまはぜとふるやまうるし。
夏こす「はだか木」。
夏こす元気な木。たくましき木。

夏山萩(やまはぎ)の
夏花をかくして燃えたたむ
夏に実りの祭りなり
夏山はぜの葉炎
夏天高く燃ゆ

なつやまはぎの
なつはなをかくしてもえたたむ
なつにみのりのまつりなり
なつやまはせのほのほ
なつてんたかくもゆ

ひろくなりけり空(そら)たかし
さとやまに木々のみどり木
こもれびうけて燃えるがごとし
みどりの炎(ほのほ)
ほのほうちけさむかすみはあおし
ほのほにかすみにただよひて
うるわしくかがやきたり
あたたかくかおりたり
あざやかなりけり 
やまさとのやまみどり
やまさとのふかみどり

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。

多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。

「大きな夏みつけた」

から

「夏がすぎてて真秋間近い」

「小さな秋みつけた・。」

そして

「小さな冬みつけた」

そして

「大きな冬みつけた」。

そして

「小さい春」がみつかって。

しだいにおおきな。

「春」になりました。

「夏」がちかづく「八十八夜」

今は「夏」。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

+++++++++++++++++++++

平成21年01月12日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年2月11日(水曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年3月20日(金曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年4月29日(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年7月20日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

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平成21年8月14日(金曜日)と15日(土曜日)
の「二日間」
は病院の医療コンピューターの更新のため。

診療ができないので二日間「休診日」になります。

平成21年8月13日(木曜日)まで平常どおり。
平成21年8月18日(日曜日)から平常どおり。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらず
インフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は。

「都市」の機能をみすえた「都市計画」の基盤
を考えぬいて「建築設計」を行った建築家。
「建築工学」の「父」であり。

「都市を建築する」という概念を。
「はじめて確立」した
建築家。

1869年 -
トニー・ガルニエ、都市計画家・建築家(+ 1948年)
の生誕日です。

もしも
トニー・ガルニエ:Tony Garnierがいなければ
今現在の都市は「市区町村が合併」どころか。
「市区町村は細分化」の
方向に向いていたでしょう。

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トニー・ガルニエ:Tony Garnier,
1869年8月13日 - 1948年1月19日)は。

フランスの都市計画家・建築家です。

生まれ故郷のリヨンを中心に活動。
近代的都市計画理論
「工業都市」を提示したことで知られます。

++++++++++++++++++++++

トニー・ガルニエ:Tony Garnier
は。
1869年生まれです。

両親は絹織物の職人でした。

意匠図案担当の父ピエール、
絹織布地製作を手掛ける母アンの子として
生まれました。

フランス第二の都市リヨン市の
絹織物地区として有名な
クロワルゥス(w:Croix Rousse)地区で
生まれました。

++++++++++++++++++++++

トニー・ガルニエ:Tony Garnier
は。

1883年、14歳で職業訓練学校
ラ・マルティニエールに入学し、
絵画の才能を発揮しはじめました。

1886年、建築の道に進もうと
リヨン美術学校に入学致しました。

1889年、20歳でパリの
エコール・デ・ボザールを受験、
翌年入学を果たしました。

エコール・デ・ボザールには
年齢制限の10年間在籍致しました。
この間アカデミー会主催のコンペは
多数受賞しています。

時代背景の影響か、
彼の建築思想は。

かなり社会主義的な方向へ向かいました。

++++++++++++++++++++++

トニー・ガルニエ:Tony Garnierは。

1899年、30歳のとき国立銀行の課題設計で。
念願のローマ賞を獲得致しました。

ローマヴィラ・メディチの給付生として、
イタリア・ローマ留学の権利を得りました。
これまで5回挑戦していました。

こうして、ローマで5年間過ごしました。

当時のイタリアでは未来派が既に台頭していました。

ボザールが求めていた課題を行わず、
もっぱら
近代建築と「工業都市」の構想を練る日々が続きました。

++++++++++++++++++++++

トニー・ガルニエ:Tony Garnierは。

このローマ給付生時代に。
「工業都市の原型」
を生みだすことになりました。

この構想は1901年から4年にかけてボザールに送りつけ
られました。

結果は。
パリで発表され騒動になりました。

++++++++++++++++++++++

トニー・ガルニエ:Tony Garnierの。

コンクリート構造の諸施設が並んだ。
今日の近代的都市計画に影響を及ぼしたプランを
最初に評価したのは。
ル・コルビュジェでした。

1907年にはガルニエのもとを訪れています。
またエスプリ・ヌーボー誌などでも紹介致しました。

フランスにおける
「これは何百年にわたる建築の集大成の結果である」
と評しました。

++++++++++++++++++++++

トニー・ガルニエ:Tony Garnier
は。
その一方、1902年ごろには
何万という円柱をもつドゥスコロの街再建計画
コンペティションで一等を獲得しています。

1904年に帰国。
リヨン市長の援助の下、故郷のリヨンに戻り
建築設計事務所を開きました。

リヨンで多くの建築作品を残しました。

また。
その間リヨンの美術学校でも教鞭をとりました。

++++++++++++++++++++++

トニー・ガルニエ:Tony Garnier
は。

1909年から1913年にかけて。

家畜市場屠殺場
アバトワール・ド・ラ・ムージュや。
テート・ドール公園の畜舎をもつ酪農場。
グランジェグランジュ病院など。

次々と作品を生み出しました。

++++++++++++++++++++++

トニー・ガルニエ:Tony Garnier
は。
1906年、母校エコール・デ・ボザールの教授に就任。
アトリエ開設。学生からも人気があり尊敬されるほかに
アトリエからは幾人もの都市計画資格取得者を輩出し、
また5人ものローマ大賞受賞者を輩出致しました。

++++++++++++++++++++++
トニー・ガルニエ:Tony Garnierは。

1917年、48歳のとき著書「Une cite Industrielle (工業都市),
etude pour la constructon villes」を出版致しました。

本に描かれた「工業都市」は。

敷地は架空の場所を想定し。
人口は35000人と設定。

人々が働く場所である工場と生活する場所である
住居や生活施設からなる都市は。

彩色された鳥瞰図や
ドローイング、パースペクティブな建築物も描かれ
非常に美しく仕上げられています。

++++++++++++++++++++++

トニー・ガルニエ:Tony Garnier
の。
都市間を結ぶ高速道路やインターチェンジで
交差する幹線道路さらに鉄道からなる
交通インフラストラクチャーのサーキュレーションシステム。

沿岸に設けられた港湾施設。

これらが都市構造として分離配置された
都市機能をささえるという近代都市が備える全ての
施設と空間を構成要素として。

それぞれの機能と環境を考慮して配置し、
これからの都市像を提起しています。

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トニー・ガルニエ:Tony Garnier
は。
1919年にはリヨン市大事業
Grende taunx de la willde ryon
を発表し出版致しました。

1920年、当時のリヨン市長で社会主義者
のエドゥアール・エリオから
Des EtatsーUnis(レ・ゼタジュニ)地区の
土地開発を依頼されました。

こうして、現実の「工業都市」を手掛けることになりました。

1934年、
ガルニエが進めた
レ・ゼタジュニの都市計画が完成致しました。

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トニー・ガルニエ:Tony Garnierは。

1938年ごろ病に倒れ、10年間ほど病床に着きました。
1948年永眠。

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トニー・ガルニエ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トニー・ガルニエ:Tony Garnier, 1869年8月13日 - 1948年1月19日)はフランスの都市計画家・建築家。生まれ故郷のリヨンを中心に活動。近代的都市計画理論「工業都市」を提示したことで知られる。

目次
1 人物
2 その他作品等
3 参考文献
4 外部リンク

人物
1869年生まれ。両親は絹織物の職人で、意匠図案担当の父ピエール、絹織布地製作を手掛ける母アンの子として、フランス第二の都市リヨン市の絹織物地区として有名なクロワルゥス(w:Croix Rousse)地区で生まれる。
1883年、14歳で職業訓練学校ラ・マルティニエールに入学し、絵画の才能を発揮しはじめる。1886年、建築の道に進もうとリヨン美術学校に入学。
1889年、20歳でパリのエコール・デ・ボザールを受験、翌年入学を果たす。エコール・デ・ボザールには年齢制限の10年間在籍する。この間アカデミー会主催のコンペは多数受賞している。時代背景の影響か、彼の建築思想はかなり社会主義的な方向へ向かう。
1899年、30歳のとき国立銀行の課題設計で念願のローマ賞を獲得。ローマヴィラ・メディチの給付生として、イタリア・ローマ留学の権利を得る。これまで5回挑戦していた。こうして、ローマで5年間過ごすが、当時のイタリアでは未来派が既に台頭していて、ボザールが求めていた課題を行わず、もっぱら近代建築と「工業都市」の構想を練る。つまりローマ給付生時代に工業都市の原型を生みだすことになる。この構想は1901年から4年にかけてボザールに送りつけ、パリで発表され騒動になる。コンクリート構造の諸施設が並んだ今日の近代的都市計画に影響を及ぼしたプランを最初に評価したのはル・コルビュジェで、1907年にはガルニエのもとを訪れ、またエスプリ・ヌーボー誌などでも紹介、フランスにおいて何百年にわたる建築の集大成の結果、と評した。
その一方、1902年ごろには何万という円柱をもつドゥスコロの街再建計画コンペティションで一等を獲得している。
1904年に帰国。リヨン市長の援助の下、故郷のリヨンに戻り建築設計事務所を開設。リヨンで多くの建築作品を残す。また、その間リヨンの美術学校でも教鞭をとる。1909年から1913年にかけて、家畜市場屠殺場アバトワール・ド・ラ・ムージュやテート・ドール公園の畜舎をもつ酪農場、グランジェグランジュ病院など、次々と作品を生み出す。
1906年、母校エコール・デ・ボザールの教授に就任、アトリエ開設。学生からも人気があり尊敬されるほかにアトリエからは幾人もの都市計画資格取得者を輩出し、また5人ものローマ大賞受賞者を輩出した。
1917年、48歳のとき著書「Une cite Industrielle (工業都市),etude pour la constructon villes」を出版する。本に描かれた「工業都市」は敷地は架空の場所を想定し、人口は35000人と設定、人々が働く場所である工場と生活する場所である住居や生活施設からなる都市は、彩色された鳥瞰図やドローイング、パースペクティブな建築物も描かれ非常に美しく仕上げられている。都市間を結ぶ高速道路やインターチェンジで交差する幹線道路さらに鉄道からなる交通インフラストラクチャーのサーキュレーションシステム、沿岸に設けられた港湾施設、これらが都市構造として分離配置された都市機能をささえるという近代都市が備える全ての施設と空間を構成要素として、それぞれの機能と環境を考慮して配置し、これからの都市像を提起している。
1919年にはリヨン市大事業Grende taunx de la willde ryonを発表し出版する。1920年、当時のリヨン市長で社会主義者のエドゥアール・エリオからDes EtatsーUnis(レ・ゼタジュニ)地区の土地開発を依頼される。こうして、現実の「工業都市」を手掛けることになる。
1934年、ガルニエが進めたレ・ゼタジュニの都市計画が完成する。
1938年ごろ病に倒れ、10年間ほど病床に着く。1948年永眠。

その他作品等
機能主義の先駆者のように扱われるガルニエであるが、自身が実際手がけた建築作品は、スタッドも屠殺場も病院もみなボザール特有の対象形配列で設計し、モニュメンタルな作品と化している。
ガルニエの作品はほとんどが出生地リヨンに存在するが、1931年から1934年にかけて、パリ西に隣接するブーローニュ・ビアンクール市の市庁舎をJ・ドゥバ=ポンサン、ジャン・プルーヴェらと協働して設計した。
ボザール時代は、合理主義の建築論を展開するジュリアン・ガデの影響されたと後年語っていることが知られている。
故郷リヨンで多くの建築物の設計を手がけているガルニエだが、工業都市以外にも1998 FIFAワールドカップでサッカー日本代表が闘ったスタジアム「スタッド・ジェルラン」や、リヨン市営屠殺場(1909年から1913年)、エドゥアール・エリオ病院(1915年から1930年)、織物工場(1930年)、モンセックス電話センター(1923年)など、建築作品も多く残したことが知られている。
工業都市に描かれている細かい施設はエミール・ゾラの物語を依拠していることを記している。実際に社会主義者のための集会場から、労働組合の事務所まで計画されている。

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8月13日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8813%E6%97%A5

できごと
1521年 - アステカ文明の湖上の都テノチティトランがエルナン・コルテスによって陥落。
1536年(天文5年7月27日)- 比叡山延暦寺の僧兵と六角氏の軍勢が京に侵入、市中の21の法華宗寺院に火をつけ炎上させる。
1553年 - 三位一体説批判のかどでカトリック・プロテスタントの双方から追われていたミシェル・セルヴェがジャン・カルヴァン治下のジュネーヴで捕らえられる。
1704年 - スペイン継承戦争: ブレンハイムの戦いでイギリス・オーストリア連合軍がフランス・バイエルン連合軍を破る。
1814年 - イギリスとオランダがロンドン条約を締結、この条約で両国がマレー半島・スマトラ島間の勢力圏を画定する。
1876年 - 第1回バイロイト音楽祭開幕。
1897年 - 京都帝国大学開学。
1913年 - 吉田岩窟王事件発生。
1927年 - 大阪放送局(現NHK大阪放送局)が全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)の試合を生中継、日本初のスポーツ生中継となった。
1937年 - 第二次上海事変勃発。
1942年 - ウォルト・ディズニー・カンパニーがアニメーション作品『バンビ』を発表(日本で公開されたのは、1951年5月18日)。
1960年 - 中央アフリカ共和国がフランスより独立を宣言。
1960年 - 尹?善が第4代韓国大統領に就任、第二共和国発足。
1961年 - 東ドイツ政府が東西ベルリンの境界線を封鎖(ベルリンの壁建設開始)。
1968年 - アレクサンドロス・パナグリスによるギリシャ軍事政権の指導者パパドプロスの暗殺未遂事件おこる。
1970年 - ソビエト・西ドイツ武力不行使条約がモスクワで締結。
1999年 - 国旗及び国歌に関する法律公布・施行。
2001年 - 小泉純一郎首相が靖国神社に参拝。
2004年 - アテネオリンピック開幕。
2004年 - 沖縄米軍のCH53D型大型輸送ヘリが沖縄国際大学(沖縄県宜野湾市)へ墜落(沖国大米軍ヘリ墜落事件)。
2004年 - 明治大学野球選手を巡る裏金事件、読売ジャイアンツが明治大学の一場靖弘選手に対し金銭授受を行なった事を発表。
2007年 - PM9:30(日本時間14日AM2:30)頃、ロシア北西部のノブゴロド州で線路に仕掛けられた爆弾が爆発し、モスクワ発サンクトペテルブルク行の列車が脱線。約60人が負傷した。
2007年 - 世界最長寿の女性皆川ヨ子が亡くなる。
2008年 - 太田雄貴が北京五輪フェンシング男子フルーレ個人で日本フェンシング史上初の五輪メダルである銀メダルを獲得。

誕生日
1698年 - ルイーズ・アデライード・ドルレアン、フランスの王族(+ 1743年)
1752年 - マリア・カロリーナ・ダズブルゴ、マリー・アントワネットの姉(+ 1814年)
1819年 - ジョージ・ガブリエル・ストークス、数学者・物理学者(+ 1903年)
1869年 - トニー・ガルニエ、都市計画家・建築家(+ 1948年)
1898年 - ジョン・ロジー・ベアード、発明家、世界初のテレビ伝送に成功(+ 1946年)
1899年 - アルフレッド・ヒッチコック、映画監督(+ 1980年)
1925年 - 佐野浅夫、俳優
1926年 - フィデル・カストロ、革命家、キューバの首相
1926年 - ノリス・ボーデン、フィギュアスケート選手(+ 1991年)
1931年 - 千葉耕市、俳優、声優、音響監督(+ 2001年)
1931年 - あまんきみこ、児童文学作家
1937年 - 前岡勤也、元プロ野球選手
1941年 - 樫山文枝、女優
1947年 - 松林茂、元プロ野球選手
1948年 - キャスリーン・バトル、ソプラノ歌手
1948年 - 林家パー子、コメディアン
1949年 - 塚田恵美子、声優
1955年 - ダロー、マジシャン
1955年 - 袴田英利、元プロ野球選手
1958年 - 高橋ジョージ、THE 虎舞竜ボーカル・歌手
1959年 - 藤本由香里、編集者・評論家・マンガ評論家
1961年 - 近藤芳正、俳優
1962年 - 佐藤文彦、元プロ野球選手
1963年 - 栗原みきこ、声優
1964年 - 戸川京子、女優(+ 2002年)
1965年 - 松尾早人、作曲家
1969年 - TAKE、Skoop On SomebodyのVo.
1969年 - 三宅伸、競輪選手
1970年 - エディ・ギャラード、元プロ野球選手(元中日ドラゴンズ・横浜ベイスターズ)
1971年 - 諏訪野しおり、元ロリータアイドル
1971年 - 野島正弘、元野球選手
1972年 - 入来祐作、元プロ野球選手
1973年 - 篠原涼子、女優・歌手
1974年 - 永野愛、声優
1974年 - 丸野勝虎、騎手(愛知県競馬組合)
1976年 - 三崎宏美、射撃選手
1978年 - 稲嶺茂夫、元プロ野球選手(元横浜ベイスターズ)
1979年 - 杉村太蔵、元衆議院議員
1980年 - 南条あや、ネットアイドル(+ 1999年)
1982年 - シャーニー・デービス、ショートトラック/スピードスケート選手
1982年 - ナタリア・ポノマレワ、フィギュアスケート選手
1985年 - Shogo、ファッションモデル
1986年 - 古原靖久、俳優
1987年 - 今吉めぐみ、SDN48
1988年 - 大内梨愛、グラビアアイドル
1990年 - 宮澤佐江、AKB48
1990年 - 中島愛里、グラビアアイドル
1993年 - 成瀬理沙、元AKB48

忌日
696年(持統天皇10年7月10日) - 高市皇子、天武天皇の皇子(* 654年?)
1134年 - ピロシュカ、東ローマ皇帝ヨハネス2世コムネノスの皇后(* 1088年)
1278年(弘安元年7月24日)- 蘭渓道隆、僧(* 1213年)
1316年(正和5年7月25日)- 宇都宮貞綱、鎌倉時代の武将(* 1266年)
1449年 - ルートヴィヒ4世、プファルツ選帝侯(* 1424年)
1492年(明応元年7月20日)- 庭田朝子、後土御門天皇の後宮・後柏原天皇の生母(* 1437年)
1523年 - ヘラルト・ダヴィト、画家(* 1460年頃)
1573年(天正元年7月16日)- 篠原長房、戦国武将
1623年(元和9年7月17日)- 義姫、伊達輝宗の正室・伊達政宗の母(* 1548年)
1755年 - フランチェスコ・ドゥランテ、作曲家(* 1684年)
1841年 - ベルンハルト・ロンベルク、チェリスト・作曲家(* 1767年)
1860年(万延元年6月27日)- 佐久良東雄、国学者(* 1811年)
1863年 - ウジェーヌ・ドラクロワ、画家(* 1798年)
1865年 - フランシスコ・デ・パウラ・デ・ボルボーン、スペインの王族(* 1794年)
1865年 - イグナーツ・ゼンメルワイス、医学者(* 1818年)
1882年 - 中村直三、老農・農業指導者(* 1819年)
1882年 - ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、経済学者・論理学者(* 1835年)
1887年 - ジュール・パドルー、指揮者(* 1819年)
1896年 - ルートヴィヒ・ザイデル、数学者・天文学者(* 1821年)
1896年 - ジョン・エヴァレット・ミレー、画家(* 1829年)
1907年 - ヘルマン・カール・フォーゲル、天文学者(* 1841年)
1910年 - フローレンス・ナイチンゲール、看護師(* 1820年)
1912年 - オクタヴィア・ヒル、社会運動家(* 1838年)
1912年 - ジュール・マスネ、作曲家(* 1842年)
1913年 - アウグスト・ベーベル、ドイツ社会民主党の指導者(* 1840年)
1917年 - エドゥアルト・ブフナー、化学者(* 1860年)
1923年 - 2代目三遊亭小圓朝、落語家(* 1858年)
1929年 - オイゼビウス・マンディチェフスキ、音楽学者(* 1857年)
1932年 - 岡野知十、俳人(* 1860年)
1945年 - 松本英一、映画監督(* 1895年)
1946年 - ハーバート・ジョージ・ウェルズ、SF作家(* 1866年)
1947年 - 伊波普猷、沖縄学の祖とされる人物(* 1876年)
1949年 - 伊沢多喜男、台湾総督(* 1869年)
1952年 - ヴィルム・ホーゼンフェルト、ドイツ陸軍の大尉(* 1895年)
1965年 - 池田勇人、日本の第58-60代内閣総理大臣(* 1899年)
1967年 - 加藤与五郎、化学者・工学者(* 1872年)
1967年 - ジェーン・ダーウェル、女優(* 1879年)
1969年 - 2代目玉川勝太郎、浪曲師(* 1896年)
1969年 - ジャコー・ド・バンドリン、ショーロのマンドリン奏者(* 1918年)
1971年 - キング・カーティス、R&B・ソウル・ロック・ファンキー・ジャズのサクソフォーン奏者(* 1934年)
1972年 - ジョージ・ワイス (野球)、メジャーリーグベースボールの球団経営者(* 1894年)
1973年 - ウィリー・レイ、プレイメイト(* 1949年)
1974年 - エルンスト・フォルストホフ、法学者(* 1902年)
1979年 - 福永武彦、小説家(* 1918年)
1979年 - ヨハンナ・マルツィ、ヴァイオリニスト(* 1924年)
1980年 - 乙骨淑子、児童文学作家(* 1929年)
1981年 - 桑田義備、植物学者(* 1882年)
1984年 - チグラン・ワルタノビッチ・ペトロシアン、チェスの選手(* 1929年)
1985年 - J・ウィラード・マリオット、実業家・マリオット・インターナショナル創業者(* 1900年)
1987年 - 三木成夫、解剖学者・思想家(* 1925年)
1988年 - 太刀若峯五郎、大相撲の力士(* 1903年)
1991年 - 山田一雄、指揮者(* 1912年)
1993年 - 吉田善哉、競走馬生産者・社台グループ創業者(* 1921年)
1994年 - レイモン・ガロワ=モンブラン、作曲家・ヴァイオリニスト(* 1918年)
1995年 - ミッキー・マントル、メジャーリーグベースボール選手(* 1931年)
1996年 - デイヴィッド・チューダー、ピアニスト・作曲家(* 1926年)
2003年 - 戸部新十郎、小説家(* 1926年)
2004年 - 池野成、作曲家(* 1931年)
2005年 - アーノルド・クック、作曲家(* 1906年)
2005年 - デビッド・ロンギ、第32代ニュージーランド首相(* 1942年)
2006年 - アーミン・マイヤー、日本駐箚アメリカ合衆国大使(* 1914年)
2006年 - 淵一博、情報工学者(* 1936年)
2007年 - 皆川ヨ子、長寿世界一の日本女性(* 1893年)
2007年 - フィル・リズート、メジャーリーグベースボール選手(* 1917年)
2007年 - ブライアン・アダムス、プロレスラー(* 1963年)
2007年 - 佃正樹、元野球選手(* 1955年)
2008年 - アンリ・カルタン、数学者(* 1904年)

記念日・年中行事

左利きの日

夜景の日 夜(8)景(トランプのK)に由来

J-WAVEの日 周波数が81.3MegaHertzであることから