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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成21年8月21日(金曜日)

「夏」=「8月」

になりました。

「あつい夏」です。

今は「夏」の。

「夏」の「8月」です。

これから先は。

ふかまる「夏」です。

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3.500円

2回法=7.000円

です。

「夏」「8月」です。

昨年。
「秋」になり「9月」がおわり。
「10月」もおわり。
秋の最後の
「11月」「晩秋月」もおわり。
そして「12月」になり「冬」になった。
「12月」もほとんどが過ぎたかな
とおもったら。
12月31日になり。

あっというまに。
「年があらたまりました」。
「春」をすぎて。

そして今「8月」です。

「春」の「3月」「4月」「5月」を

乗り越えて。

「夏」「8月」です。

あまりにも
月日と。
時間と。そして年月のたつ。

その速さに。
恐怖さえをも感じます。

大気は「夏」。

「夏かぜ」は。

夏の「季節風」。

天には「夏」の。

「夏の花」の「はな」。

地には「夏」の。

「夏の花」の「はなびら」。

「夏の花々」の

「夏」。

「夏」のこの時期には。
樹木の「落ち葉」はおちきり。

「落ち葉」は「ぴたり」ととまります。
落葉ぎりぎりまで。

「夏」をすぎての
「みのり」にそなえて。
しっかりと。

強い「夏」の
太陽の陽射しをえるためであるのしょう。

「夏」には。

「夏の花」の花びらが

「夏の花」の「花」が。

花も見ぬうちに。

暗い夜中のあいだに。

「季節風」に。

弓射られて。

朝暗いうちにも。

地に落下しています。

樹木は

「夏」の

「夏木」としてのたたずまいから。

まさしく。

あかるい「夏」の。

主人公としての。

たたずまいに。

なりました。

「夏の花」に。

夏の「季節風」。

「夏」の気配は。

はっきりと。

「まち」の葉木にも感じられます。

この。

「季節風」は。

これから。

「どのようなの風」に。

変化していくのでしょうか。

「8月」の。

「夏の花」の

若花のつぼみが。

「夏の花」の

若花のはなびらが。

たわわにみえます。

「夏の花」のつぼみは。

いつでも咲きそうな。

つぼみばかりです。

白いどんぐりのような。

つぼみです。

昨年の「晩秋」
「金木犀:きんもくせい」の残り香は
とおくから。
「とぼとぼ」と歩いてくるように。
ほのかに漂い。
また「とぼとぼ」と歩き去っていった
ようにいなくなりました。

「夏」の。
「夏の花」の花びらは。

少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに蕾膨らみ
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに花咲き
少しずつ遠慮がちにしずかにしずかに花びらが舞う。

「夏」の「あけぼの」の。

空の色が。

まさしくも

「夏」の「空色」

になってきました。

ミルクのはいった

コバルトのような

空色です。

「夏至」がおわりました。

次第に陽ののぼるのは。

すこしづつおそくなり。

陽がくれるのは。

すこしづつはやくなりました。

今は「夏」。

「8月」です。

けれども

「夏至」はもうすぎました。

「春」の。

「3月」「4月」「5月」が去りゆき。

今はみのりの「夏」「8月」です。

あさの04:30AMころは。
くらくあおく
しだいに
そらがラピズラズリから
トルコ石にうつろうように。
そらがしらんできます。

「夏」の季節の気配からは。

まぢかいけれども。
さらに「なにかが深まりゆく」。
そして「夏」の訪れから。

さらにさらに。
深い「夏」に向かい。
そしてさらに。
深い「夏」の向こう側に。
さらなる「秋」の気配の。
あることが。
よくわかります。

川端康成の。

「雪国」の。

トンネルの中から。

「向こう側」は「雪国」。

そして

「雪国」をすぎれば。

そこは「春の国」。

そして。

「国々」を旅して。

今は「夏の国」です。

「夏」から先にもトンネル

はあるのでしょう。

夏池面(いけも)の水面(みずも)
夏おさなき小さなわかみどり
夏なもしらぬ
夏小さな緑の浮き草
夏若草うきつあつまりて
夏つらなり水面(みずも)
夏水面(みずも)をおおいたり
夏水面(みずおも)にて
夏風にきそいてさまよえり
夏ちひさきわらべのごとし
夏池面の水面(みずおも)の。
夏小さきちひさなわかみどり

夏いざいまこそは

夏よき季節にあらむ

夏水面(みずも)なるそら

夏ふと空をみる

夏早朝(はやあさ)に
夏けふもはだのさむけれど
夏ぬくもりのあさ
夏陽のありがたき
夏われあゆむがごと
夏陽はあたかくなりけり
夏葉木は強き木にかわりたり
夏みちをあかるくてらさむ
夏がいだく木
夏はぐくむ木
夏みどり木あおし
夏実りの木紅し(あかし)
夏来(きた)るらむ

道端の野草の花もかわいらしい。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

夏地にも木にも

夏みどり葉ひらき

夏みどり木ときわ木

夏ひろがりて

夏いふことのなし

夏いふことがなし

夏いふことはなし

夏ゆたかなりけり

今年の早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は寒いです。
「毎朝寒い」。
寒いと首都高の自動車も
「寒そうな運転の車」が多いです。

それでも「「夏」はきぬ」。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

++++++++++++++++++++++

平成21年1月12日日(月曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年2月11日(水曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年3月20日(金曜日)は。
元来「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年4月29日(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年7月20日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

平成21年8月14日(金曜日)と15日(土曜日)
の「二日間」
は病院の医療コンピューターの更新のため。

診療ができないので二日間「休診日」になります。

平成21年8月13日(木曜日)まで平常どおり。
平成21年8月18日(日曜日)から平常どおり。
はおわりました。
++++++++++++++++++++++

平成21年9月21・22・23日
(月曜日)(火曜日)(水曜日)
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の

御予約の患者さんのみ

限られた時間帯で診療を行います。
++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3.500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。

梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼に青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

感謝・感謝です。

「今日は何の日」は。
病弱ゆえに25歳の若さで夭折致した。
イギリスの画家、詩人、小説家。

ヴィクトリア朝の。
世紀末美術を代表する存在であり。

悪魔的な鋭さを持つ白黒のペン画で
鬼才とうたわれた「英国:United Kingdom UK」
の画家・詩人・小説家。

1872年 - オーブリー・ビアズリー、画家(+ 1898年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。
イングランド南部のブライトンに生まれました。

父ヴィンセント・ポール・ビアズリーは
金銀細工師の息子でした。

母エレン・ピット・ビアズリーは
チャタム伯家に繋がる旧家の出で、
大ピットの子孫です。

2人姉弟の長男として生まれたオーブリーは。
父方から工芸家としての器用さを受け継ぎました。

母方から芸術に対する洗練された趣味を受け継ぎました。
稼ぎのないヴィンセントのために。
母エレンは音楽教師として働きました。

オーブリーに文学や音楽の本格的な教育を施しました。

++++++++++++++++++++++

幼時から母にピアノを習ったオーブリーは、
学校に上がる前からショパンを弾きこなし、
音楽の天才と呼ばれました。
姉メイベル・ビアズリーは女優となりました。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。
1878年、ブライトン近郊ハーストピアポイントの寄宿学校
ハミルトン・ロッジに入学致しました。
ここで初めて絵を描き始めました。

++++++++++++++++++++++」

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
に。
1879年、結核の兆候が現れました。

1881年、病気のためにハミルトン・ロッジを退学致しました。

同年、オーブリーの健康のために。
一家でロンドン南郊のエプソムに転居致しました。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。
1882年、当時ビアズリー家を援助していた
ヘンリエッタ・ペラム夫人から
初めて絵の注文を受けました。

ケイト・グリーナウェイの
絵本からの模写で報酬を得ました。
まもなく、一家でロンドンに移住到します。

1884年8月、
一家で再びブライトンに戻り、
ブライトンのグラマースクール(初等中学校)
に入学到します。

学費は母方の大伯母が援助致しました。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。

寮長アーサー・ウィリアム・キングに才能を見出されて以来。
終生キングに感謝しつづけました。
このころ、
コングリーヴやウィチャリー、カーライル、
ボッカチオ、チャタトン、ポーなどを愛読致しました。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。

1888年、ブライトンのグラマースクールを卒業致しました。
一家でロンドンに移住致しました。

ピムリコ地区のケンブリッジ通り32番地に居を構えました。
ロンドンのクラークンウェル地区測量事務所に
事務員として勤務致しました。

1889年、ガーディアン火災生命保険会社の書記に転職しましたが。
年末に喀血したため休職。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。
1890年、小説風エッセー「懺悔訪問簿の話」を
『ティット・ピッツ』誌に発表致しました。

1ポンド10シリングの報酬を得ました

(ビアズリー当人は画家よりも
むしろ文人として評価されることを
望んでいたといわれます)。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。

1891年7月12日、
画家エドワード・バーン=ジョーンズの画室を
姉メイベルと共に訪問致しました。

作品を見せたところ。
才能を絶賛されました。
勤めを辞しても画家になることを勧められました。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。

同年8月以降、
バーン=ジョーンズの勧めで
ウェストミンスター美術学校
の夜間クラスに出席致しました。

校長
フレデリック・ブラウン
(1851年 - 1941年)に師事致しました。

これが、生涯唯一の正式な絵の勉強となりました。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。
同じ頃、母方の大伯母が死去したため。
500ポンドの遺産を相続致しました。

同時期に古美術研究家エイマー・ヴァランスの紹介で
ウィリアム・モリスに会うが、
けんもほろろの扱いを受けて反感を持ちました。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。
1892年、ヴァランスの紹介で会った
ロバート・ロスによって。

ロンドンの芸術界の主要人物たちに引き合わされました。

同年6月、保険会社の年次休暇を利用して
初めてパリを訪問。
同年の晩夏、保険会社に辞表を提出致しました。。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。
1893年、行きつけの書店の主人
フレデリック・エヴァンズの紹介で
出版業者J・M・デントに会います。

「バーン=ジョーンズほど金のかからないバーン=ジョーンズ」
を求めていたデントのために。
以後約1年半にわたって
マロリー作『アーサー王の死』
(Le Morte Darthur)の挿絵をきはじめました。

++++++++++++++++++++++

この仕事が始まると同時に
ウェストミンスター美術学校を退学。

『アーサー王の死』の挿絵は
ウィリアム・モリスから剽窃呼ばわりされたが。

「彼(モリス)の作品はただ旧弊な代物を模倣したに過ぎないが、
僕の作品は新鮮で独創性に溢れている」と言い返しました。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。

ロスの紹介で知り合ったルイス・ハインドの発行する
『ペル・メル・バジェット』誌でデビュー致しました。

同年5月、憧れのホイッスラーにパリで会うが、
悪印象を持たれてこき下ろされました。

復讐にホイッスラー夫妻を揶揄する諷刺画を描きました。

同年6月、パリから帰国後、
オスカー・ワイルド作『サロメ』の挿絵を描く契約を結びました
(本来ビアズリーはこの作品の
英訳者になることを望んでいたが叶わなかった)。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
に。

この作品の挿絵を描くように慫慂したのは
作者ワイルド自身でした。

ビアズリーの絵は
「僕の劇はビザンチン的なのに、
ビアズリーの挿絵はあまりに日本的だ」
との理由により、
ワイルドには気に入らなかったようです。

作者を揶揄する内容の数枚の挿絵もワイルドを怒らせました。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。

1894年、挿絵入り文芸誌
『イエロー・ブック』創刊。
同誌の美術担当編集主任となりました。

このころ経済的に余裕ができたため、
ピムリコ地区ケンブリッジ通り114番地に家を購入致しました。

++++++++++++++++++++++

この邸の画室は、ビアズリーの意向により、
ユイスマンス『さかしま』の主人公
デ・ゼッサントの書斎に倣って
黒とオレンジ色で統一されました。

同年初頭より
、『セント・ポールズ』誌で挿絵を描き始めました。

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オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。
同年5月5日、パリから帰国後。
出版業者レナード・スミザーズと知り合いました。

スミザーズは社会的に爪弾きされている
芸術家の作品を専門に出版していたため、
これ以後ビアズリーと切っても切れない間柄となりました

(ワイルドはスミザーズを「ビアズリーの持ち主」と呼びました)。

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オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。
7月、ケンブリッジ通りから
チェスター・テラスの借家に転居、
まもなくベルギーのディエップを訪問。

1895年8月、ディエップから帰国。
チェスター・テラスを去り、か
つてワイルドが執筆に用いたことのある
セント・ジェイムシズ・プレイス10番地に移りました。
同月後半、敬愛するリヒャルト・ワーグナーの祖国である
ドイツに渡り、ケルンにて
詩「床屋のバラード」を執筆。
ミュンヘン、ベルリンを訪問。
続いて、9月後半までディエップに滞在。

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オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は・

このころ、タンホイザー伝説に基づく
好色小説『ヴィーナスとタンホイザー』とその
挿絵を執筆。
10月、ロンドンに戻り、
セント・ジェイムシズ・プレイスに落ち着きました。

1895年から1896年にかけて、
『ヴィーナスとタンホイザー』の改稿版であ
る『丘の麓で』をベルギーのディエップにて
執筆するも未完に終わりました。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。
1896年1月、スミザーズとアーサー・シモンズの招きで
『サヴォイ』誌創刊に参加、同誌の美術編集者となる。
週給25ポンド。2月、パリに移転。

スミザーズ宛の書簡に
「パリは僕によく合っている…途方もなく
長期にわたって、ここに滞在すると思う。

肘鉄とすげない扱いしか寄越さないロンドンには、
いつ戻るか判らない」と記す。

3月下旬、スミザーズと共にブリュッセルへ行き、
この地で喀血。4月、秋に備えてパリに移転。

++++++++++++++++++++++

5月あるいは6月、ビアズリーによる
アレグザンダー・ポープ『髪盗み』の挿絵を見て
ホイッスラーが絶賛致しました。

ビアズリーに対するそれまでの
自分の評価が間違っていたことを認めて謝罪
致しました。

これによりホイッスラーと和解致しました。

1896年6月後半から8月前半にかけて、
スミザーズの依頼により、
アリストパネスの『女の平和』の挿絵をエプソムのホテル
「スプレッド・イーグル」にて制作。
7月、遺言状を作成。
同年12月、『サヴォイ』廃刊。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。
健康状態の悪化により経済的に困窮し、借金がかさみ、
1897年以降はカトリック詩人
ラファロヴィッチからの一季100ポンドの支援で
露命をつなぎました。
このころ「僕は今や、かつてのロココ的人間の
、惨めな影にしか過ぎない」と手紙に記しました。

同年3月31日、ラファロヴィッチや
ジョン・ヘンリー・グレイからの
執拗な説得によりカトリックに改宗致しました。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。

同年7月、出獄後のワイルドとディエップにて再会。
『レディング監獄の歌』の装丁を依頼されたが、
健康状態の悪化を口実に拒絶致しました。

ワイルドの側ではビアズリーの才能を高く評価していたが、
ビアズリーの側では
(ワイルドの醜聞の巻き添えで社会から指弾されたため)
ワイルドを敵視していたとされます。
同年末、南仏のマントンに転地致しました。

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オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。

1898年1月、結核の進行により右手が動かなくなりました。
1月末以降は寝たきりとなり、
詩「象牙の一片」を書きました。
カトリックの信仰に沈潜し。
聖徒伝を読みふける日々が続きました。

++++++++++++++++++++++

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
:Aubrey Vincent Beardsley
は。

同年3月16日、結核のためマントンにて死去。
遺産は836ポンド17シリング10ペンス。

ベン・ジョンソン作
『ヴォルポーネ』のために描いた作品(未完)が
絶筆となりました。

ビアズリーの作品は『女の平和』の
挿絵など猥褻なものが多かったが、
死の直前には、スミザーズに宛てた手紙の下書きで、
それら全ての猥褻な作品を破棄するよう依頼致しました。

しかしこの依頼は実行されず、
その代わりに彼の作品は
ハリー・クラークやバイロス、
フォーゲラー=ヴォルプスヴェーデなど
多くの画家に影響を与えました。

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日本では、水島爾保布、米倉斉加年、
佐伯俊男、山名文夫たちの作品にビアズリーの影響が濃厚です。

漫画家では山岸凉子や魔夜峰央が
ビアズリーからの影響を自認しているほか、
手塚治虫もその作品『MW』で
彼の作品の模倣を行なっています。

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関連文献
スタンリー・ワイントラウブ 『ビアズリー伝』 高儀進訳 中公文庫 1989年
サイモン・ウィルソン 『ビアズリー 生涯と作品』 中川伸子訳 岩崎美術社 1985年
ケネス・クラーク 『ベスト・オブ・ビアズリー』 河村錠一郎訳、白水社 1992年
河村錠一郎 『ビアズリーと世紀末』 青土社 1991年
河村錠一郎編・文 『オーブリー・ビアズリー 世紀末、異端の画家』 小さな美術館・河出書房新社 1998年
『ビアズリーとロンドン』 アールヌーボーの世界4、学研 1998年

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オーブリー・ビアズリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%83%AA%E3%83%BC

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー:Aubrey Vincent Beardsley,
1872年8月21日 - 1898年3月16日)は。
イギリスの画家、詩人、小説家です。

ヴィクトリア朝の世紀末美術を代表する存在です。
悪魔的な鋭さを持つ白黒のペン画で鬼才とうたわれました。

けれども。
病弱ゆえに25歳の若さで夭折致しました。

関連文献
スタンリー・ワイントラウブ 『ビアズリー伝』 高儀進訳 中公文庫 1989年
サイモン・ウィルソン 『ビアズリー 生涯と作品』 中川伸子訳 岩崎美術社 1985年
ケネス・クラーク 『ベスト・オブ・ビアズリー』 河村錠一郎訳、白水社 1992年
河村錠一郎 『ビアズリーと世紀末』 青土社 1991年
河村錠一郎編・文 『オーブリー・ビアズリー 世紀末、異端の画家』 小さな美術館・河出書房新社 1998年
『ビアズリーとロンドン』 アールヌーボーの世界4、学研 1998年

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8月21日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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できごと
1192年(建久3年7月12日) - 源頼朝が征夷大将軍に就任する。
1770年 - ジェームズ・クック、オーストラリア東部に対するイギリス領有権を正式に主張、ニュー・サウス・ウェールズと命名。
1856年(安政3年7月21日) - アメリカ合衆国初代駐日領事タウンゼント・ハリスが下田港に到着。
1862年 - ウィーン市営公園、開園。
1898年 - 共和演説事件、尾崎行雄文相が帝国教育会で行なった演説の一節、「日本に共和政治があると仮定すれば、おそらく三井、三菱は大統領候補者となるだろう」が不敬として問題になる。
1924年 - 天気図が初めて國民新聞に掲載される。
1948年 - 帝銀事件の被疑者として画家の平沢貞通が警視庁に逮捕される。
1959年 - ハワイがアメリカ合衆国50番目の州となり、これに伴い星条旗のデザインが現行のものに変更された(それまでは49州だったため、星の部分が7x7になっていた)。
1963年 - アエロフロート機ネヴァ川不時着水事故
1968年 - ソビエト連邦軍を主力とするワルシャワ条約機構軍、チェコスロバキアに侵攻。
2004年 - 山陽電鉄本線の東二見駅 - 播磨町駅間に西二見駅が開業。
2004年 - 長渕剛が桜島でオールナイトライブを敢行。7万5千人を動員し、日本の音楽史上に残るライブとなった。
2004年 - チェチェン共和国首都グロズヌイにおいて、チェチェン独立派テロリストが大統領選投票所や警察署を襲撃。治安部隊・武装勢力合わせて60人以上が死亡。
2008年 - 北京オリンピックのソフトボール決勝戦で日本代表が“上野の413球”でアメリカ代表を下し、悲願の金メダルを獲得。テンビ、オープンβテスト開始

誕生日
1165年 - フィリップ2世、フランス王(+ 1223年)
1789年 - オーギュスタン=ルイ・コーシー、数学者(+ 1857年)
1816年 - シャルル・ジェラール、化学者(+ 1856年)
1872年 - オーブリー・ビアズリー、画家(+ 1898年)
1883年 - 正宗得三郎、画家(+ 1962年)
1891年 - エミリアーノ・メルカド・デル・トロ、長寿世界一であったプエルトリコの男性(+ 2007年)
1893年 - テレサ・ウェルド、フィギュアスケート選手(+ 1978年)
1904年 - カウント・ベイシー、バンドリーダー(+ 1984年)
1904年 - 奥野高廣、歴史学者(+ 2000年)
1916年 - 五島昇、実業家(+ 1989年)
1916年 - 橋本正吾、プロ野球選手
1920年 - クリストファー・ロビン・ミルン、『クマのプーさん』のクリストファー・ロビンのモデルとなったA・A・ミルンの息子(+ 1996年)
1927年 - アラン・カプロー、芸術家(+ 2006年)
1930年 - 芦田淳、ファッションデザイナー
1932年 - 村上正邦、政治家
1933年 - 越部信義、作曲家
1939年 - ジェームズ・バートン、ギタリスト
1940年 - 斉藤安弘、ラジオパーソナリティ
1943年 - フェリックス・ミヤーン、プロ野球選手
1947年 - 稲川淳二、タレント
1947年 - 盛田嘉哉、プロ野球選手
1947年 - ルーシャス・シェパード、作家
1951年 - グレン・ヒューズ、ミュージシャン
1952年 - ジョー・ストラマー、ミュージシャン(+ 2002年)
1952年 - 豊田俊郎、八千代市長
1953年 - 関根勤、タレント
1953年 - 円広志、歌手、作曲家、タレント
1957年 - 竹葉山真邦、大相撲力士・熊ヶ谷親方
1959年 - 新居昭乃、シンガーソングライター
1960年 - 池田晶子、哲学者・文筆家(+ 2007年)
1962年 - 宮崎勤、シリアルキラー(+ 2008年)
1965年 - 鈴木祥子、シンガーソングライター
1967年 - キャリー=アン・モス、俳優
1967年 - 皇名月、漫画家
1968年 - タフィ・ローズ、プロ野球選手
1969年 - グレン・ボス、騎手
1969年 - 村上竜太郎、野球選手
1970年 - スレイド・キャラハン、騎手
1971年 - 中川素州、俳優
1971年 - 萩原聖人、俳優
1971年 - ルー・ポート、プロ野球選手
1973年 - 野口健、登山家
1974年 - 安達智次郎、プロ野球選手
1975年 - VERBAL、ヒップホップMC
1977年 - 田中総司、プロ野球選手
1979年 - 逹瑯、ミュージシャン(ムック)
1979年 - キンバリー・スチュワート、ファッションモデル
1980年 - 東出輝裕、プロ野球選手
1980年 - 小林正人、プロ野球選手
1980年 - デヴィン・パトリック、フィギュアスケート選手
1982年 - 大前茜、声優
1982年 - 桟原将司、プロ野球選手
1982年 - 山地隆、プロ野球選手
1983年 - 夏木彩、女優
1983年 - ブロディ・ジェンナー、タレント
1984年 - 内山雄介、プロ野球選手
1986年 - 梶本達哉、プロ野球選手
1986年 - ウサイン・ボルト、陸上選手
1986年 - 坂本功貴、体操選手
1988年 - 絵仁、女優・ダンサー・歌手
1989年 - ヘイデン・パネッティーア、女優
1989年 - 船越真美子、女優
1991年 - 高橋竜、俳優
1993年 - 安達直人、俳優・声優

忌日
699年 - 弓削皇子、皇族
1153年 - クレルヴォーのベルナルドゥス、神学者(* 1090年)
1157年 - アルフォンソ7世、カスティーリャ王(* 1105年)
1568年 - ジャン・ド・ヴァレット、聖ヨハネ騎士団総長(* 1494年?)
1597年(慶長2年7月9日)- 穂井田元清、戦国武将(* 1551年)
1614年 - バートリ・エルジェーベト、ハンガリーの貴族(* 1560年)
1627年 - ジャック・モーデュイ、作曲家(* 1557年)
1736年 - エマヌエーレ・ダストルガ、作曲家(* 1681年)
1836年 - アンリ・ナビエ、物理学者(* 1785年)
1838年 - アーデルベルト・フォン・シャミッソー、詩人(* 1781年)
1864年(元治元年7月20日)- 平野国臣、尊皇攘夷派の志士(* 1828年)
1864年(元治元年7月20日)- 古高俊太郎、尊皇攘夷派の志士(* 1829年)
1891年 - ハリー・ポウレット (第4代クリーヴランド公爵)(* 1803年)
1901年 - アドルフ・オイゲン・フィック、生理学者(* 1829年)
1917年 - 奥田義人、第28代文部大臣・司法大臣・東京市長(* 1860年)
1919年 - ローレンス・ドハティー、テニス選手(* 1875年)
1935年 - ジョン・ハートリー、テニス選手(* 1849年)
1935年 - 岡村金太郎、水産学者(* 1867年)
1937年 - ジョージ・ライト、メジャーリーグの野球選手(* 1847年)
1939年 - 久慈次郎、野球選手(* 1898年)
1940年 - パウル・ユオン、作曲家(* 1872年)
1940年 - レフ・トロツキー、革命家(* 1879年)
1943年 - 伏見博英、伏見宮博恭王第四王子、伯爵(* 1912年)
1951年 - コンスタント・ランバート、作曲家(* 1905年)
1957年 - ハラルド・スヴェルドラップ、海洋学者(* 1888年)
1964年 - パルミーロ・トリアッティ、イタリア共産党の指導者(* 1893年)
1965年 - 浮谷東次郎、レーサー(* 1942年)
1967年 - 内藤伸、彫刻家(* 1882年)
1971年 - 松村謙三、厚生大臣・農林大臣・文部大臣(* 1883年)
1971年 - ジョージ・ジャクソン、ブラックパンサー党の活動家(* 1941年)
1976年 - 中山栄一、自由民主党衆議院議員(* 1895年)
1978年 - チャールズ・イームズ、デザイナー・建築家(* 1907年)
1979年 - ジュゼッペ・メアッツァ、サッカー選手(* 1910年)
1980年 - 大日方傳、俳優(* 1907年)
1980年 - ジェニファー・ニックス、フィギュアスケート選手(* 1932年)
1982年 - ソブーザ2世、スワジランド国王(* 1899年)
1983年 - ベニグノ・アキノ、フィリピン上院議員(* 1932年)
1984年 - 後藤隆之助、政治運動家(* 1888年)
1986年 - サド・ジョーンズ、ジャズトランペット奏者(* 1923年)
1991年 - ヴォルフガング・ヒルデスハイマー、作家(* 1916年)
1993年 - 藤山一郎、歌手(* 1911年)
1993年 - タティアナ・トロヤノス、メゾソプラノ歌手(* 1938年)
1994年 - アニタ・リザナ、テニス選手(* 1915年)
1995年 - スブラマニアン・チャンドラセカール、天体物理学者(* 1910年)
1997年 - マルゼンスキー、競走馬(* 1974年)
1999年 - 寺尾五郎、歴史学者・評論家(* 1921年)
2001年 - 二階堂副包、経済学者(* 1923年)
2001年 - 北村治禧、彫刻家(* 1915年)
2005年 - 内海英男、建設大臣・国土庁長官(* 1922年)
2005年 - ロバート・モーグ、モーグ・シンセサイザー生みの親(* 1934年)
2006年 - 菅野壽、社会民主党参議院議員(* 1923年)

記念日・年中行事
献血の日/献血記念日(日本)

1964年8月21日、閣議によってそれまでの売血制度を改めて、
全ての輸血用血液を献血によって確保しようと決定されたことに由来。

日本赤十字社や厚生省などによって献血推進運動が展開されることになった。

静岡県民の日(日本)

福島県民の日(日本)

噴水の日(日本)