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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成22年2月24日(水曜日)

「3月」「4月」と「5月」の。

「春」はおわり。

「夏」「6月」そして「7月」「8月」

「9月」「10月」「11月」の「秋」

はおわり。

「12月」「1月」はおわり。

「2月」になりました。

「雪のふる ふゆ 冬」です。

早朝たくさんの。

「木枯らし」のかぜの舞うおとがきこえます。

「季節風」の舞う音はとても大きい。

はるかに遠くまでとどきます。

大地や道路のうえを。

縦横無尽に闊歩(かっぽ)する。

ちからのある「木枯らし」の風。

ハチャトリアンの。

「剣の舞」がきこえます。

「冬」の。

「2月」

になりました。

「冬」です。

「冬」は。

だまって訪れて。

だまって冬道中をあゆむもの

であることが

あらためて。

みにしみて。

感じられます。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。

まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

「冬」です。

今は。「2月」。

あたらしい「冬」です。

「2月」の「冬」になりました。

「昨年」の晩秋には。
晩秋の花木。
「金木犀:きんもくせい」花を咲かせました。
日々ますます花をさかせていました。
「実りの花」。

「金木犀:きんもくせい」は「秋」に「2度」咲きました。
「銀木犀:きんもくせい」も咲きました。
「金木犀:きんもくせい」の花は黄金色です。
「銀木犀:きんもくせい」の花は「プラチナ色」です。

かおりも全く違います。
「金木犀:きんもくせい」より。
「銀木犀:きんもくせい」は10日遅れで咲きました。

「昨年」の晩秋には。

「銀木犀:きんもくせい」も

「銀木犀:きんもくせい」も

昨年のはるかかなたに。

「花」はおわりました。

そして。

「木犀:もくせい」は。

今「2月」の「冬」を迎え。

さらなる深き。

「「冬」のさかり」の先にむけて。

もっともっと。

ゆたかな「みのり」をまつ。

準備をしています。

「木犀:もくせい」は常緑樹です。

「冬」になると。

「葉色」と「葉のあつさ」はかわります。

「「季節風」に耐える葉の厚さ」。

になります。

来年の秋のみのりの花まで。

すこやかに育つ「葉」になります。

「冬」の「2月」の。

「冬の樹木花」の花がみえます。

「冬の草花」の花もみえます。

「冬」の花木の。

「冬の花」が。

地面の上で。

「花びら」で存在を誇示しても。

木々の「花」は天上。

あおがねば。

「花」こそみえません。

けれども。

「冬」の花。

その「いのちの芳香」は。

とくとくと。

遠くまで。

ただよっているかのごとくです。

「2月」の「冬」です。

コロポックルのように。

地にひそみ。

「冬の草花」は元気です。

元気な「2月の冬」です。

「「冬」の花」の木は

花が落ちて。

「木や枝の下」に。

「フェルマータ"fermata"」*

が。

楽譜のように記譜されているような。

「「冬」の樹木」の「花」。

「落花生」のような。

「冬の花」です。

-------------------------------
C・

イタリア語におけるフェルマータ"fermata"とは。
英語"stop"に相当する名詞です。
(例えばイタリアのバス停の
標識には"Fermata"の表示があります)。

音楽美学の世界では。

絵画には限られた面積があるのと同じように。
音楽には。
「限られた時間」—つまり「初め」と「終わり」—があることが
宿命とされています。
古い時代の楽譜のときはその終止線の上下や終結音の
上下に現在のフェルマータのマークの基となったデザインが
配されました。

そこで音楽の終わりを意味致しました。

時間の流れを止めることはできません。
けれども曲の終わりでは。
音楽を止めることによってその時空に終わりが
発生することとなります。
「停止」という意味の"fermata"の概念はそのように
発生したと解されます。

付与された音符や休符で音楽の時間の流れを
停止させる意味を持ちます。

「♪」
に付与されれば
「♪」
その音のまま「停止」=「ずっと鳴り続ける」
「休止符」
に付与されれば
「休止符」
その旋律は「停止」=「ずっと鳴らない」
ことになります。
楽譜の節目の
縦線に付与される場合には。
一記譜上に存在しない挿入された休符が空白時間として
求められます。

ただし
前の音から伸ばされたタイ(スラー)が。
縦線の上を横切っている場合と
そこにピアノにおけるペダルなどの
保続効果の指示が見られる場合は。
空白時間として処理されず音を保続させる時間を
別途挿入することとなります。

フェルマータ"fermata"。

そのマークは「一日の終わりである日没」
に由来したデザインとも言われています。
-------------------------------

「冬」です。

のんびりと朝があけます。

とりわけ朝暗いうちは。

のんびりと朝はあけます。

はだにさむい朝です。

今朝早朝は。

暗いうち晴れて。

霧雨の合間に。

久方ぶりにたくさんのたくさんの。

星をみました。

そして天井の空高く。

ひさしぶりに「月」の

かがやきをみました。

地上の変化(へんげ)が天高くたちのぼり
月や星に結晶して。
芳香をはなつがごとく光をはなつように
見えます。

空気が澄み。
大気がすんでいるからでしょう。

「天高く」

(てんたかく)とは。

なるほどと考えます。

しっとりとした「2月」の。
「季節風」の。
「冬吹雪:ふゆふぶき」の合唱も。
なかなかすてきです。

ブラスでもない。木管でもない。弦でもない。

スラーをかけた。
グラスハープの。
オーケストラを聴いているようです。

「2月」になり
「冬吹雪:ふゆふぶき」のかぜおとは。
「アリア」になり。
次第に出番が多くなりました。

中でも
「極めて大きな声でうたっている」
「ふゆ吹雪:ふゆふぶき」。

「ベル・カント」が。
「ひとりふたり」はいるのが不思議です。

「冬の花」の木の上か。
電線にとまったり。
またさらに
上空で「冬吹雪:ふゆふぶき」は。
歌っているようです。

うっすらと「まど」の隙間から。

「季節風」は。

焚き火のけむりのように。

はいりこもうとします。

「2月の木枯らし」には。

「かおり」があります。

そぞろ そぞろに。
静かながらに。

「2月」の朝焼けと。
夕焼けどきに。

ひそやかながらもあきらかに。
「季節風」の。

気配にあと押しされて。

「確かな「2月の冬」」のかおりが。
大気にかげろううや蜃気楼のように
ただよいはじめています。

昼間はさむい
陽射しを感じることが
多くなりました。

「2月」。

「冬」です。

そして。

さむいけれども元気な「冬」。

2月の「冬」の気配は。
あっというまに。
「冬」の「霞(かすみ)」に「霊気(れいき)」
のように。
おぼろに変化して。

次第に「ふかい「冬」」の気配にうつろいていく。
「つるべ井戸」の「つるべ」があがるようです。

「もっと深い「冬」」が。

ピアニッシモ。
ppで。
しのびよってきています。

朝日と東の朝焼け青空に。
「朝焼け」の。

空にはそらいろとピンクのレースのような

あやにしきの
「くれゆくふゆのいろ」
「むかえくるふゆのいろ」が感じられます。

陽射し(ひさし)やさしき。
空にも地にも天高くはれ。
大気のひそみかくれ。
そらにみちてあふれれば。
吐息(ためいき)となり。
吐息が霧雨か霞になり。
おりてくるような感じです。
のふかまりゆく気配
になりました。

街路樹はしっかりと
冬ながらも枝木の穂先もたわわにつよく
「晩冬」の萌黄色の若芽もち。
「初春」のあおい「木」にかわりました。
「新年」のあおい「木」は。

「実りの「春」」のおとづれを。
そしてさらなる「春の深まり」を超えて。

そして厳しい年月をがんばって。
「あたたかい「春」」を迎え。

今は。

「冬」をむかえています。

「本物の「冬」」。

「ふかい冬」

四季の季節をのりこえ。

「あたらしい冬」になりました。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

山椒(さんしょう)の木の芽が
にも若葉はそだち。
若葉は冬の若枝となり。
若枝は天高くすこやかにのび。
空気のふかまりにますますすこやかに。
山椒(さんしょう)の木のみどり葉。
空に燃えるが如くの炎葉です

さんしょうを
木の芽(このめ)といふは
なるほどと
かんがえる

深まりたり
空たかく
あやにしき
みどり木
さんしょう木
陽をあびてかがやけり
いざいまこそは
金色(かがね)にかわり
赤き空に燃えたたむ

さんしょう木
もえぎの炎(ほのほ)は芽葉(めは)
わかば葉はいずるは花ならむ
「季節風」こす枝は幹ならむ
いざいまこそは
空(そら)たかくもえたたむ
金色(こがねいろ)なる
さんしょう木
「季節風」深まれり

山本クリニックの庭には水槽が
「2つ」あります。
めだかが泳いでいます。

草を浮かべる水面(おも)に
めだかのむれのひかりたり
むれておよげるひめだかの
みずのなかなるちいさないのち
みずのなかなるおおほきないのち
みのりてあまたにとほときいのちこそ
いざみずもにうつしはぐくまむ

けれども
早朝は本当にはだ寒いのです。

小さなふゆみつけたから
しだいに大きなふゆみつけた。

大きなふゆつけたから
さらに大きな大きなふゆみつけた

「小さい「ふゆ」みつけた」は。

「こころしずまる気」

がいたします。

「冬」になりました。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成21年1月12日(水曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年2月11日(水曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
御予約の患者さんのみ。
限られた診療スタッフで。
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------

平成21年3月20日(金曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の。
限られた診療スタッフで。
御予約の患者さんのみ。
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年4月29日(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ。

限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

平成21年5月4日・5日・6日・
(月曜日)(火曜日)(水曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年7月20日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

------------------------------

平成21年8月14日(金曜日)と15日(土曜日)
の「二日間」
は病院の医療コンピューターの更新のため。

診療ができないので二日間「休診日」になります。

平成21年8月13日(木曜日)まで平常どおり。
平成21年8月18日(日曜日)から平常どおり。

はおわりました。

-------------------------------

平成21年9月21・22・23日
(月曜日)(火曜日)(水曜日)
元来は「祝日で休診日」です。

けれども「完全御予約制」の

御予約の患者さんのみ

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
------------------------------

平成21年10月12日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。

けれども「完全御予約制」の

御予約の患者さんのみ

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
------------------------------

平成21年11月 3日(火曜日)
平成21年11月23日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。

けれども「完全御予約制」の

御予約の患者さんのみ

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
------------------------------

平成21年12月23日(水曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。

けれども「完全御予約制」の

御予約の患者さんのみ

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

------------------------------

年末年始の診療
平成21年12月30日(水曜日)*まで
診療を行います。

また
平成22年1月は。
1月4日(月曜日)*より診療を開始致しました。

------------------------------

年始の診療
平成22年1月11日(月曜日)
平成22年1月11日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。

けれども「完全御予約制」の

御予約の患者さんのみ

限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

------------------------------

平成22年3月22日は(月曜日)は
元来は「祝日で休診日」です。

けれども「完全御予約制」の

御予約の患者さんのみ

限られた時間帯で診療を行います。
------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は。

ドイツの航空機工学者として有名な。
1898年 - クルト・タンク、エンジニア(+ 1983年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

クルト・タンク:ドイツ語
:Kurt Tank、1898年2月24日 - 1983年6月5日)は。
創意に富んだ航空エンジニア、テストパイロットであり、
1931年から1945年までフォッケウルフ社の設計部門を指揮致しました。

彼はFw 190をはじめ、
第二次世界大戦における重要な航空機工学者
でした。

++++++++++++++++++++++

経歴
大学卒業まで
1898年2月24日ドイツのブロンベルク生まれ。
17歳(16歳説あり)の時に第一次世界大戦に出征。
父親の影響で騎兵となりました。

花形の航空隊に入らなかったのは、
彼の才能を惜しんだ連隊長が転属を許可しなかったためと
言われています。

また、前線でも物理と数学の参考書を手放さず、
暇があれば読んでいたといわれ、
出征中に大学受験資格を取得しています。

++++++++++++++++++++++

第一次大戦では2度の負傷と引き換えに勲章を2個貰った後、
復員致しました。

復員後、タンクは日本の工科大学に相当する
ベルリン工業学校に入学致しました。

専攻は電気工学でした。

第一志望の航空工学を専攻しなかったのは、
第一次大戦の敗戦によりドイツ国内で航空機の研究、開発、生産が
禁止されていた関係で、
講義そのものが閉鎖されていたためです。

しかし、大学4年の時に飛行力学の講義が再開され、
ようやく念願を果たすことができました。

++++++++++++++++++++++

在学中、タンクはグライダー研究会で、
自ら設計、製作、飛行を体験しているが、
その後、飛行機操縦熱が高じて、
ベルリン・シュターケンの民間飛行学校で小型機の免許まで取得しています。

最前線での過酷な兵士の体験、
専攻した電気工学、グライダー製作、
そしてパイロットという彼の特異な経歴は、
後に、フォッケウルフ社で、
Fw 190の成功に生かされることになります。

++++++++++++++++++++++

大学卒業後は機械力学のウェーバー教授の推薦により、
飛行艇専門のメーカーのロールバッハ金属飛行機会社に入社致しました。

ロールバッハ社は、全金属製飛行艇は当時の最先端を行っていました。

ロールバッハには4年間在籍したが、やがて飛行艇の将来に見切りをつけ、
1929年31歳で退職致しました。

その後、1930年BFW(バイエルン航空機製造会社)
に転職した。転職先のBFW社で設計主任となるものの、
同社は副支配人ウィリー・メッサーシュミットが
設計した航空機の度重なる墜落事故によって1年半後に倒産してしまいました。

++++++++++++++++++++++

1933年11月、33歳の時、
フォッケウルフ社に技術部長として採用されました。

タンクは、ここで幾多の名機を生み出すことになります。

フォッケウルフ社は、
ゲオルク・フォッケとハインリッヒ・ウルフが創業した
中規模メーカーであったが、
ウルフはテスト飛行中に事故死、
残ったフォッケはナチス政権の干渉に嫌気がさし、
新たにフォッケ・アハゲリス研究所を創って
ヘリコプターの開発に熱中していたため、
フォッケウルフ社の航空機開発は、
自然、タンクの双肩にかかることになりました。

++++++++++++++++++++++

1931年にナチスの企業再編政策により、
フォッケウルフ社はアルバトロス社と合併致しました。

合併後、タンクは複葉スポーツ機Fw 44「シュティークリッツ(ヒワ)」
の設計に着手致しました。

本機は1934年に飛行し、フォッケウルフ社で
初めて商業的に成功した機体となりました。

この成功は、ドイツの戦争準備と歩調を合わせて
会社の急激な成長をもたらしました。

++++++++++++++++++++++

さらに、1933年には、パラソル翼の単座高等練習機である
Fw 56「シュテッサー(鷹)」を開発致しました。

Fw 56は、性能の良さを買われてドイツ空軍に採用されました。

1933年、ドイツ空軍は、次期主力戦闘機の競作を発表し、
タンクひきいるフォッケウルフ社は、
Fw56シュテッサーを母体にしたFw 159で応募致しました。

Fw 159は、全金属性モノコック構造、
液冷エンジン、引き込み脚装備ではあったが、
時代遅れのパラソル翼であったため最新の低翼単葉機にかなうはずもなく、
一次審査で敗退してしまいました。

++++++++++++++++++++++

苦しくなった会社の経営を立て直すため、
タンクは1936年の春頃からFw 200「コンドル」4発旅客機の計画に取り掛かりました。

Fw 200「コンドル」は、
翼幅33メートル、翼面積118平方メートル、
全備重量17250kgで当時としては、
画期的な大型高性能機でありました。

練習機しか作っていないフォッケウルフ社に、
いきなり4発機を作らせることについては、
発注元のルフトハンザの中からも異論が出たが、
タンクはそれを説得して開発に漕ぎ着けました。

++++++++++++++++++++++

1937年7月 Fw200は初飛行に成功した。
(Fw 200開発中に、タンクは4発機の機長のライセンスまで取得している。)

1938年11月28日、ベルリンのテンペルホフ空港を飛び立ったFw200(D-ACON)は、
42時間18分で立川飛行場に到着し、
長距離連絡飛行記録を打ち立てました。

++++++++++++++++++++++

同じ頃、タンクは空軍の直協偵察機の受注を巡って
ブルーム・ウント・フォスと争ったが、
ブルーム・ウント・フォスが左右非対称の異形機BV 141で応募したのに対して、
タンクはオーソドックスな機体で応募し、
Fw 189「オイレ」が採用されました。

Fw 200とFw 189の成功により、フォッケウルフ社の経営は軌道に乗ることができました。

一方、1936年の冬頃から開発計画をスタートさせた
双発重戦闘機Fw 187「ファルケ」は、Fw 159の失敗から、
タンクが戦闘機の本質を学び取った、Fw 190の前身とでもいうべき機体です。

「速度」、「上昇力」、「火力」に優れ、
ライバルの双発戦闘機メッサーシュミットBf 110はもちろん、
単座のメッサーシュミットBf 109をも凌ぐ高性能を示したが、
高価な双発機よりも安価な単発機をそろえるという
空軍側の方針変更によって、量産されないまま終わってしまいました。

++++++++++++++++++++++

1937年秋、操縦が難しく着陸事故も多発していた
主力戦闘機メッサーシュミットBf 109一本で戦争を継続することに
不安を覚えた空軍省は、
フォッケウルフ社にバックアップ戦闘機の開発を打診してきました。

この時、タンクは39歳、実戦体験を持った飛行機設計者兼
テストパイロットという特異な経歴が、
このバックアップ戦闘機に結実することになりました。

++++++++++++++++++++++
戦中
1939年から1945年まで製造された
Fw 190(愛称「ヴュルガー」、モズの意)は、
第二次世界大戦中を通じてドイツ空軍の主力の単座戦闘機でありました。

航空機開発への貢献が認められ、
1943年1月にブラウンシュヴァイク技術学校の名誉教授の名と校長の席が与えられました。

また、フォッケウルフ社に在籍のまま、
自分が開発した飛行機に、姓の略号である
Taを付けることができるようになりました。

その最初の作品が、
液冷エンジン搭載型であるFw 190Dをベースとして
開発された高々度戦闘機Ta 152です。

Ta 152は、大翼面荷重、大アスペクトレシオという
タンクの持論が明確なデザインで表現されています。

++++++++++++++++++++++

タンクがTa 152を自ら操縦している時、
2機のP-51「ムスタング」と遭遇したことがありました。

撃墜も可能であったが、弾薬が装填されていなかったことと
「自分は民間人なので戦闘はしない」という信条から、
そのままスピードを上げて飛び去ったという
エピソードが残っています。

++++++++++++++++++++++

戦後
戦後、多くのドイツ人技術者と同様に、
クルト・タンクは専門家としての活躍の場をラテンアメリカに求めました。

アルゼンチン政府から提供された仕事を請けた彼は、
1947年に同僚らとともにコルドバの航空技術研究所 (Instituto Aerotecnico)
に移りました。

航空技術研究所は後に軍用機製造工廠 (the Fabrica Militar de Aviones)
となった。
ここで彼は、大戦終結時に実物大模型(モックアップ)製作
まで進んでいたジェット戦闘機 Ta 183の設計を基に、
IAe プルキ II (IAe Pulqui II) を設計致しました。

IAeプルキIIは、ロールスロイス・ニ−ン・エンジン装備で、
主翼は40度の後退角を持ち、20mm機関砲4門装備という
当時でも一流のスペックを持つジェット戦闘機であり、
1950年6月27日に初飛行致しました。

IAeプルキIIは空中での飛行特性に関しては期待通りの
性能を発揮したものの、離着陸性能に重大な欠陥を有しており、
老練なテストパイロットをして着陸時に脚を折損する事故を数度起こしています。

これに怒ったタンクは(この時、タンクは52歳であった)
2回目の試験飛行で自ら操縦桿を握ったものの、
着陸時の欠陥を認めざるを得なかった。 

その改修に時間を要しているうちにアルゼンチンの
経済危機により開発は1953年に打ち切られた。

フアン・ペロン大統領が権力の座から降りた1955年、
かつてのフォッケウルフチームは離散し、その多くはアメリカ合衆国へ移った。

その後インドに渡ったタンクは、
インドで初めて製造された軍用機となる
HF24 マルート (Hindustan Marut) を
ヒンドスタン航空 (Hindustan Aeronautics) のために設計した。
原型機は1961年6月17日に初飛行した。
エンジン出力の不足によって予定した性能は達しなかったものの、
胴体設計にエリアルールを取り入れ、
インテークにはショック・コーンを付加するなど、
当時のマッハ2級戦闘機と比べても遜色ない設計を行っており、
タンクが最新技術の導入にも余念がなかった事を示している。
この機体は1985年に第一線を退いた。

1970年代にタンクはベルリンに戻り、ドイツを本拠として残りの人生を送った。

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日本とのかかわり
1959年頃、富士重工宇都宮製作所の守衛所の前に突然、
ブリストル社の紹介状を持った外国人が訪ねてきた。
当時、量産されていた航空自衛隊のジェット練習機T-1Aが装備していた
ブリストル製オーフュースMk.805エンジンの艤装を見学した後、
控えめに「私はクルト・タンクだ」と名乗ったということである。
当時タンクはインドでT-1Aと同じオーフュースエンジンを
搭載するHF-24を開発していた。

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クルト・タンク
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クルト・タンク:ドイツ語:Kurt Tank、1898年2月24日 - 1983年6月5日)は創意に富んだ航空エンジニア、テストパイロットであり、1931年から1945年までフォッケウルフ社の設計部門を指揮した。彼はFw 190をはじめ、第二次世界大戦における重要な航空機を設計した。ドイツ人。

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2月24日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8824%E6%97%A5

できごと
1184年(元暦元年1月11日) - 源義仲が征夷大将軍に任じられる
1848年 - 二月革命でフランス王ルイ・フィリップが退位
1868年 - アンドリュー・ジョンソン米大統領に対する弾劾案がアメリカ合衆国下院を通過
1873年 - 明治政府がキリシタン禁制の高札を取り除き、キリスト教を黙認
1881年 - ロシアと清がイリ条約を締結
1898年 - 日本鉄道の機関手ら400人が同盟罷業、上野〜青森が運休(初の鉄道スト)
1904年 - 日露戦争第1回旅順口閉塞作戦
1918年 - エストニアがロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からの独立を宣言
1920年 - ナチスが初の党大会を開催
1933年 - 国際連盟総会で日本軍の満洲撤退勧告案を採択、日本全権大使・松岡洋右は連盟脱退を宣言し退場
1933年 - 国鉄山陰本線全通。
1942年 - アメリカの外国向け放送VOA(ボイス・オブ・アメリカ)が放送を開始
1942年 - 日本海軍の伊号第一七潜水艦がカリフォルニア州エルウッドの製油所を砲撃
1947年 - 「参議院議員選挙法」公布
1952年 - アメリカと西欧10か国が戦略物資の対共産圏輸出禁止を決定(対共産圏輸出統制委員会)
1958年 - ラジオ東京(現在のTBS)テレビで連続テレビドラマ『月光仮面』の放送開始
1958年 - 第二次南極観測隊が悪天候のため、越冬を断念。タロとジロら樺太犬15頭を置き去りにして撤退
1970年 - ナショナル・パブリック・ラジオ発足
1972年 - 山陽新幹線・新神戸駅〜相生駅間で行われた速度向上試験で当時の世界最高記録286km/hを達成(山陽新幹線のうち新大阪駅〜岡山駅間は1972年3月開通)
1973年 - 古河鉱業が栃木県の足尾銅山を閉山
1976年 - 東京地検がロッキード事件の強制捜査を開始
1976年 - キューバの新憲法が施行
1989年 - 昭和天皇の大喪の礼(この年のみ国民の休日・公休日扱い)。163か国9千8百人が参列
1989年 - ユナイテッド航空811便貨物ドア脱落事故
1991年 - 湾岸戦争で多国籍軍による大規模地上攻勢「砂漠の剣作戦」が発動。3日間でクウェートを奪還
2003年 - ノラ・ジョーンズが第45回グラミー賞の主要4部門を含む8部門で受賞(現地時間は2月23日)
2008年 - ラウル・カストロがキューバ国家評議会議長に就任

誕生日
1463年 - ピコ・デラ・ミランドラ、人文主義者(+ 1494年)
1500年 - カール5世、神聖ローマ帝国皇帝、スペイン国王(+ 1558年)
1619年 - シャルル・ルブラン、画家・室内装飾家(+ 1690年)
1786年 - ヴィルヘルム・グリム、文献学者・グリム兄弟の弟(+ 1859年)
1828年 - ハリー・パークス、外交官(+ 1885年)
1874年 - ホーナス・ワグナー、メジャーリーガー(+ 1955年)
1882年 - 多田駿、陸軍軍人(+ 1948年)
1885年 - チェスター・ニミッツ、アメリカ海軍の軍人(+ 1966年)
1891年 - 瀧川幸辰、法学者(+ 1962年)
1893年 - 三島徳七、冶金学者(+ 1975年)
1898年 - クルト・タンク、エンジニア(+ 1983年)
1906年 - 日向方齊、経営者(+ 1993年)
1909年 - オーガスト・ダーレス、小説家(+ 1971年)
1909年 - 知里真志保、言語学者(+1961年)
1910年 - 山村聰、俳優(+ 2000年)
1914年 - リカルド・オドノポソフ、ヴァイオリニスト(+ 2004年)
1922年 - 安川加寿子、ピアニスト(+ 1996年)
1922年 - リチャード・ハミルトン、画家
1923年 - 小田稔、天文学者(+ 2001年)
1924年 - 淡島千景、女優
1924年 - 高野裕良、プロ野球選手
1929年 - ズジスワフ・ベクシンスキー、画家(+ 2005年)
1931年 - 日下武史、俳優
1932年 - ミシェル・ルグラン、作曲家、ピアニスト
1933年 - 上田敏也、声優
1934年 - ベッティーノ・クラクシ、イタリア首相(+ 2000年)
1934年 - レナータ・スコット、ソプラノ歌手
1939年 - 佐久間良子、女優
1939年 - 長田幸雄、プロ野球選手
1940年 - ジミー・エリス、プロボクサー
1942年 - 小川哲哉、アナウンサー
1943年 - ジョージ・ハリスン、ミュージシャン(+ 2001年)
1944年 - 草野仁、キャスター、アナウンサー
1944年 - チト河内、ミュージシャン 
1945年 - 岡本颯子、絵本作家
1945年 - 村上公康、プロ野球選手
1949年 - 松本留美、女優
1951年 - フランク・オーテンジオ、プロ野球選手
1954年 - シド・マイヤー、ゲームクリエイター
1955年 - 斉田敏男、事業家
1955年 - アラン・プロスト、F1ドライバー
1955年 - スティーブ・ジョブズ、企業家
1955年 - 山川猛、プロ野球選手
1956年 - 大平サブロー、お笑いタレント
1958年 - ASKA(旧称:飛鳥涼)、シンガーソングライター(CHAGE and ASKA)
1958年 - 柏木宏之、毎日放送アナウンサー
1959年 - 米津等史、政治家
1960年 - 平野寿将、料理研究家
1960年 - 小出美奈、アナウンサー
1960年 - 一色伸幸、脚本家
1960年 - 星崎真紀、漫画家
1962年 - 阿南健治、俳優
1965年 - バス・ルッテン、格闘家
1965年 - アレッサンドロ・ガスマン、俳優
1966年 - ロッド・ブリューワ、プロ野球選手
1967年 - コージー冨田、ものまねタレント
1968年 - エマニュエル・ナスペッティ、F1ドライバー
1968年 - 内匠政博、プロ野球選手
1969年 - 青木光恵、漫画家
1969年 - 野本絵理、声優
1969年 - 朝倉圭矢、俳優
1971年 - ペドロ・デ・ラ・ロサ、F1ドライバー
1972年 - 木部信彦(ビッキーズ)
1972年 - キリト、歌手、(ex.PIERROT、Angelo)
1972年 - 石村知子、声優
1973年 - スタッビー・クラップ、野球選手
1974年 - 北山陽一、ミュージシャン(ゴスペラーズ)
1975年 - 片山大樹、プロ野球選手
1976年 - 高島郷、俳優
1976年 - 石井真、声優
1976年 - 加藤奈々絵、声優
1977年 - 濱埜宏哉、ミュージシャン(野狐禅)
1978年 - 坂本將貴 サッカー選手
1978年 - Shinya、ドラマー (Dir en grey)
1978年 - 竹宮ゆゆこ、小説家
1978年 - ドウェイン・ワイズ、メジャーリーガー
1979年 - 菊地創、ミュージシャン(eufonius)
1979年 - 寿三美、女優
1980年 - 中邑真輔、新日本プロレス
1981年 - レイトン・ヒューイット、テニス選手
1981年 - 奥田恵梨華、女優
1981年 - 森山風歩、作家
1984年 - 松永浩典、プロ野球選手
1985年 - 琴乃、AV女優
1987年 - 岩佐真悠子、タレント
1987年 - 越智千恵子、タレント 
1987年 - キム・ギュジョン、歌手(SS501)
1988年 - 木村茜、タレント
1988年 - 山下莉奈、グラビアアイドル
1988年 - 銀次、プロ野球選手
1988年 - マイケル・ジョンソン、サッカー選手
1989年 - 千代将太、俳優
1990年 - 伊山伸洋 、タレント
1991年 - 松井蘭丸、タレント
1991年 - マディソン・ハベル、フィギュアスケート選手
1992年 - エゴール・コチェーエフ、フィギュアスケート選手
1995年 - 鈴木瑠華、子役
1996年 - 渡邉聖斗、子役
1999年 - 西嶋一八、子役
生年不明 - あらきかなお、漫画家
生年不明 - 招鬼、ギタリスト(陰陽座)
生年不明 - 酒井参輝、ギタリスト(己龍)

忌日
616年 - エゼルベルト、ケント王(* 560年頃)
1563年 - フランソワ、ギーズ公(* 1519年頃)
1674年 - マティアス・ヴェックマン、作曲家(* 1616年頃)
1704年 - マルカントワーヌ・シャルパンティエ、作曲家(* 1643年)
1777年 - ジョゼ1世、ポルトガル王(* 1714年)
1810年 - ヘンリー・キャヴェンディッシュ、化学者(* 1731年)
1812年 - エティエンヌ・ルイ・マリュス、物理学者・数学者(* 1775年)
1815年 - ロバート・フルトン、発明家(* 1765年)
1856年 - ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー、数学者(* 1792年)
1876年 - ジョセフ・ジェンキンス・ロバーツ、初代リベリア大統領(* 1809年)
1923年 - エドワード・モーリー、物理学者(* 1838年)
1925年 - カール・ヤルマール・ブランティング、スウェーデン首相(* 1860年)
1929年 - アンドレ・メサジェ、作曲家(* 1853年)
1931年 - 久米邦武、歴史学者(* 1839年)
1934年 - 直木三十五、小説家(* 1891年)
1945年 - 河口慧海、仏教学者(* 1866年)
1953年 - ゲルト・フォン・ルントシュテット、ドイツ国防軍の元帥(* 1875年)
1962年 - 胡適、教育家(* 1891年)
1975年 - ニコライ・ブルガーニン、ソビエト連邦の首相(* 1895年)
1990年 - アレッサンドロ・ペルティーニ、第7代イタリア大統領(* 1896年)
1990年 - マルコム・フォーブス、フォーブス発行者(* 1919年)
1990年 - トニー・コニグリアロ、メジャーリーグベースボール選手(* 1945年)
1993年 - ボビー・ムーア、サッカー選手(* 1941年)
1994年 - ダイナ・ショア、歌手・女優(* 1916年)
1995年 - 兵藤秀子(前畑秀子)、水泳選手(* 1914年)
2001年 - クロード・シャノン、情報工学者・数学者(* 1916年)
2001年 - 田中久寿男、プロ野球選手(* 1935年)
2002年 - レオ・オーンスタイン、ピアニスト・作曲家(* 1892年?)
2003年 - ベルナール・ロワゾー、フランス料理の料理人(* 1951年)
2004年 - 石川進、プロ野球選手(* 1932年)
2005年 - 蔦谷喜一、塗り絵作家 (* 1914年)
2006年 - デニス・ウィーバー、俳優(* 1924年)

記念日・年中行事

南国忌
大衆作家直木三十五の1934年の忌日。

クロスカントリーの日

鉄道ストの日

月光仮面登場の日