近年になく早く過ぎ去った感のある2006年が終わり、2007年の初日を迎えた。

一昨日の一件があったので、元旦の親戚一同の集合日は3日に順延された。よって、これまた近年になく元旦を我が家で過ごす事になった。幸い、息子の宿題完成日である5日も迫っているし、カミさんは2日まで仕事だし、あっちこっちに行かない方がお互い都合がいいと言えるかもしれない。

そのかわり3日は、朝から靖国神社へ初詣へ引っ張って行き、そのまま下総中山の親戚の家へと向かう予定でいる。

私が敢えて靖国神社へ初詣に行くのには2つの理由がある。

ひとつは、昔ボーイスカウトで大晦日の晩から元旦の朝まで、境内の随所にある大きな篝火を炊き続ける奉仕活動に毎年参加していて、その控え所が遊就館だったため、特攻兵器などの展示物をじっくり見る機会があり、それが脳裏に強烈に焼きついた思い出のせいである。

もうひとつの理由は、靖国神社が神ではなく人を祀っている神社であり、その人たちの大半が戦死者であるという点だ。この神社には昔から公人参拝の是非論があるが、そんなイデオロギー的観点などは枝葉末節だと思っている。

肝心な事は、その人たちが命を賭けて戦ってくれたおかげで、我々の親世代が生き延びれ、そしてそれ故に自分達が生まれてこれたという事実なのである。もしも我々の親世代が敵の攻撃で殺されていたら、今の自分は永遠に生まれて来れなかったのだから。

私は、息子にも靖国神社の是非論以前にそれだけは肝に銘じさせたいと思っている。この人たちがいたからお前はここに生きていられるんだ、と。

定義も対象もあやふやで、戦勝国による裁判という事自体が疑わしい、そんな中で決められたいわゆる「A級戦犯」が合祀されていようがいまいが、いや、軍中枢部にいた連中だって、必死に日本の国を守ろうとしていたに違いないのだ。

それを後世の常識や感性だけから解明し判断しようとしてもかなりの無理があろう。あの時の情勢で、それでも日本は絶対に打って出なかったとしたら、今頃は他のアジアの国と同様に、どこかの国の植民地か属国にされていただろう。それが当時の大国の常識「帝国主義」だったからである。

あの戦争を一方的に糾弾している連中は、逆にそんな日本になっていても、それを甘んじて受けたとでも言うのだろうか。

戦争によって国民が多大な犠牲を負ったのは事実である。外交手段としても決して褒められるものじゃない。それは承知している。だが、それでも国を守る手段としてギリギリの局面で戦争を選ばざるを得なかった事情も理解できる余地はあると思うのだが・・・。

新年を祝う気持ちと共に、年に一度位はそんな事を考えてみるのもいいのではなかろうか。

ともあれ、今年もよろしくお願い致します。

さて、昨日は予定通り10:00に靖国神社へ初詣。本殿参拝もそこそこに、当初の目論見の「遊就館」へ。知らないうちに本館の隣に新しい展示場ができていて、常設展示が行われていた。しかも大人800円、中学生300円と有料である。観光名所でもあるまいし、こりゃちょっと高くないか?

それでも回天桜花を直接息子に見せたくて、カミさんをロビーに残し二人で入場した。古代から幕末あたりの展示はほとんど無視して、日清・日露戦争から大東亜戦争のコーナーへ急ぐ。

そして戦死者の遺影が並んでいるコーナー。去年の春に訪れた知覧の「特攻平和会館」での特攻隊員の遺影展示と同じように万感胸に迫るものがあったが、それをグッと堪えつつ、
「この人たちが命を賭けて護りたかったものは何か」
「日本は戦争という外交手段をなぜ選ばざるを得なかったのか」
「手段の良し悪しは別にして、あの時もし日本が打って出なかったら、現在の日本はどうなっていたか」
「今の時代のいじめ問題のいじめる側、いじめられる側に置き換えればどうか」
などなど息子に語りかけた。

そして回天と桜花。実物の回天に触れながら、この兵器の意味するところを説く。特攻志願とは何だったか、それが自分だったら手を挙げられるか乗り込めるか、こんな悲惨な手段でも実行を決めた人の気持ちは・・・今はピンと来ないかもしれないが、少しでも思いを馳せてくれたらいいと思う。

いつの日か、今度は自分の意思でじっくり時間をかけて来てほしい。

スキー旅行の鼻先ニンジン作戦が功を奏し、締め切り前日にどうやら息子の宿題は完了したようだ。これで安心して20年ぶりのスキーに連れて行ける。

年賀状をきちんと出していないこちらも悪いと思うが、新年明けてから到着する同級生関係の年賀状が多い。早めに書こうと気に留めてはいたものの、やっぱり押し迫ってからの投函になってしまったのが実情だろう。

かくいう私は、今年も届いた賀状への返信オンリーと堕落し続けているので、他人の事をあれこれ言える資格は全くない。

大学時代のクラブの男子同期生6人のうち、4人が東京近辺にいる。残りの2人は長野県と愛知県に在住している。そろそろ50の大台に乗る年代なので、一度きちんと会う機会を作らねばとも思っている。

折りしも去年、mixiで偶然にも大学のクラブのコミュニティに出会えた事だし、再会のチャンスとタイミングの啓示を受けたような気がしている。

であるから、会の企画は私がやる。これを見たらとにかくメール連絡してくれ。まずはメーリングリストの作成から始めよう。

息子の宿題完了を確認し、約束通り裏磐梯へ一泊二日のスキー旅行に行った。

私はスタッドレスタイヤを持っていないので、会社の同僚の車に同乗し、息子を助手席に座らせ、私は後部座席に陣取った。この日は爆弾低気圧の影響で、東京も小雨模様。イヤな予感が頭をかすめたが、何とかなるだろうと出発した。

約300kmの道のりを4時間弱で走破し、裏磐梯グランデコへ到着。山の麓までは雨だったが、スキー場はかろうじて雪に変わっていた。さっそくウエアからブーツ、スキー板まで息子と2人分「丸借りータ」した。

何せ20年ぶりのスキーの私と学校で一度スキーに行っただけの息子である。板からウエアまで何がなんだかよく分からない。それでもそれぞれ今風の丸く幅広い160cmと150cmの板があてがわれた。

運賃一人900円というお値段に隔世の感を禁じえなかったが、4人乗りゴンドラに乗って中腹まで昇り、そこのレストハウスで朝から来ていた他の同僚達と合流。まずはビールに昼飯と相成った。

だが、メニューにある食事系はマックのハンバーガーと大差ない「デコバーガー 600円」のみで、あとはフランクやらフライドポテトやらのツマミ系ばかり! アールデコかグランデコか知らないが、東急系スキー場にしてはちょっとヒドくないか?

持参した乾物中心に何とかごまかし、一日券(4400円!)2枚とチョイ乗り券(3600円!)1枚を5人で使い回しながら滑走開始。だが限りなく雨に近い重い雪がクセモノで、ゴーグルにべったりくっついて視界をさえぎり役目を果たさない。しょうがないのでゴーグル無しのメガネだけで滑った。

たぶん余計な力が入っていたのだろう、何回か滑るうちに早くも太ももが痛くなってきた。やがて撤収時間となり、麓まで一気に下って終了。ウエアもグローブもまるで雨に濡れたかのようにグッショリ。それらを持ち続けなくていい半日レンタルで正解だった。でも二人分で12000円也! 最近のスキーは、もしかしたらゴルフ以上に金持ちじゃないと遊べないんじゃなかろうか。

その夜は、お通しに煮物と具沢山のけんちん汁がドンと出る猪苗代市内の居酒屋へ。こんなボリュームのお通しに出会ったのはもちろん初めて、少食な女性ならそれだけでツマミは十分なほどである。刺盛りとカキ鍋、カニコロッケ、カキ酢などなど、おまけにテンコ盛りの枝豆がサービスされた。最後に名物ソースカツ丼をシェアしつつ大満足の夕食だった。生ビールと焼酎一升も入れて一人4000円弱。今回の旅行でここが一番リーズナブルだった。

一夜明けた今朝は打って変わって猛吹雪! これも爆弾低気圧のせいである。今度は近場の裏磐梯スキー場へ。グランデコと比べ規模は小さいものの、レストハウスは充実。さまざまな食事メニューがあり、マッサージチェアのあるリラックスルームまである。従業員の対応もいい。天気のせいでかなり空いてはいたが、すでに気力の萎えた大人たちを尻目に息子だけはヤル気満々。再びフルセットレンタル&一日券で、横殴りの吹雪も厭わず20回くらいリフトに乗っては滑っていた。

そのせいで息子のボーゲンのレベルもアップし、かなりスムーズにコントロールできるようになったようだ。重心の位置と体重移動のコツさえ掴めば上達はグンと早くなる。後は函館に帰ってさらに頑張ればいい線行くだろう。

帰りは高速までがかなり渋滞したが、その後は混雑もなく9時過ぎに無事到着した。今回のスキー旅行の最大の収穫は、他人の車の後部座席に寝そべって行くのがこんなにも快適なものだと知った事である。

うん、スキーはこれが最高!

ホワイトカラー・エグゼンプション(WCE)に対する安倍総理のコメントに対する異論・反論の声が各方面で上がっている。

「きっこのブログ」「江草 乗の言いたい放題」にもあるように、仕事の総量が変わらないのにWCE導入の建前である成果主義を貫けば、すべてサービス残業となるのは自明である。導入するには、求められる成果と職務分掌を厳正に定めた上で、公正な仕事量に対応できるマンパワーを整える事が大前提なのだ。もちろん給料の見直しも必須である。だがその実現は望むべくもなかろう。

欧米と違って日本では、個人の仕事の境界線が不鮮明である。さらに、仕事とは会社と社員との間の契約業務だという認識も乏しく、まだまだ会社から任命されるものだというのが実情だろう。このままでは、就業時間の短縮など一切叶わず、単に収入減がもたらされるだけである。要するに今の日本の状況でのWCE導入は、経営者にとってのみ嬉しい制度であるに過ぎない。

考えてもみなさい。管理職一歩手前で一番の働き手である中堅どころの社員が、WCEが導入された途端に成果さえ上げればいいからと自由に休めるようになると思うか? 同じ成果だったら、そんな余裕かましている社員よりも今までと変わりなく滅私奉公している社員の方が管理職に抜擢されるだろう。だから休めるはずがないのだ。それが日本の風土だからである。

それをどう捕えたら「労働時間短縮につなが」り、「家で過ごす時間は、少子化対策に必要」で、「出生率増加にも役立つ」となるのか?

結局、記事にもあるように彼の理屈は「長く働くほど残業手当がもらえる仕組みを変えれば、労働者が働く時間を弾力的に決められ、結果として家で過ごす時間も増える」という解釈だそうだ。そんな解釈など全くのナンセンスだとなぜ気づかない?

この総理大臣は本当に自分で考えて話しているのか? それとも誰かに言わされているだけなのか? 前者だと言うなら史上まれに見るバカ総理だろう。

ただでさえ中小企業以上の会社では、たとえ部下がいなくても名目上管理職にしてしまえば残業代をカットできると考えている所が多い。管理職であれば労働組合からも外れ、きつい労働環境でも表立って文句は出ない。管理職の肩書きに僅かばかりの給料アップと引き換えに、その労働力をとことん使い切れるのである。イザとなればリストラ宣告もしやすい。

さらなる狡猾な経営者は、これ幸いとばかりに社員数削減も目論むだろう。WCEや管理職という名目で一人の労働時間を増加させれば、残業代はおろか固定人件費まで削減できるからである。残業代なしに社員をコキ使えるなら、時間給制の派遣社員のお呼びもかからなくなり、ますます就職難民が増え、代わりに社員の過労死が増加するハメになりかねない。

いずれWCEが法制化されれば、ウチの会社あたりでも諸手を挙げて導入するに違いない。何せ利益を上げるためには単身赴任手当の減額や住宅取得補助の撤廃も厭わない会社である。他社でリストラ寸前のところを拾われた故、上に対してひたすらイエスマンが人事のトップなのだからどうしようもない。またまた自分の株を上げるネタが増えるくらいに思ってるだろう。

所詮、論理の裏付けも実体験もない安倍坊ちゃん総理の妄想世界じゃ、決して「美しい国」には繋がらないと国民は気づき始めている。

昨日、2007年度の初出社。と言っても、例年のようにノンビリムードに浸りつつ徐々にリハビリすればいいという状況ではない。

早くも11日から営業研修の全国ツアーが始まるし、そのための最終予演会を朝から実施し、テキスト原稿の締め切りもあった。さらに昨年末で完了させたかった全国テストの再々試験の未完了者への再々々受験指示も出さなくてはならない。多分10名位はいるだろう。

夕方からは部会の後に新年会。

新年会は新宿の中華料理と飲茶の食べ放題の店だった。ところが、紹興酒共々さほど飲んだり食べたりしなかったのだが、終了時からなぜか腹がパンパン状態に。帰宅後も就寝時も起床時もこの「腹部超膨満感」が消えない。鈍痛も感じる。おまけに出社後から何となく頭がボーッとしている。

もしかしたらめったに引かない風邪を引いちまったか? それもこんな大事な時に? 新年早々ヒキが悪いのかな。(←一応シャレになっとるぞ)

ところで、暮れに倒れた母方の伯父が8日に亡くなった。入院して10日あまりの鮮やかな往生である。享年80歳。ところが火葬場や斎場は、去年からの持ち越しなどでなかなか空いていなかったらしい。結局、12日通夜、13日告別式となり、私にはそれが幸いして仙台への出張からの帰京翌日となる告別式には行ける事となった。

母親の姉の夫で、小さい時からいろいろと親交のあった伯父だった。私より1歳下の息子ともよく遊んできた。そんな親族との別れはとても寂しいが、これも順番だと納得させる他あるまい。

全国研修ツアーの初回、仙台に来ている。私の出番までまだ時間があるので、内職して昨夜の事を書いておこうと思う。

名古屋時代にシゴかれ、お世話になった人(Aさんとしよう)が退職するという噂を聞いて、一夜の酒を飲んだ。

ここの支店長は競合他社から来た人で、本社にはいい顔、部下には冷徹という典型的な権力志向タイプで、昨年北海道から異動してきた。就任以来、自分のお気に入りをお膝元の宮城に置き、気に入らないのは他の5県に異動させるという人事をやってきているらしい。

仙台を預かるAさんの部下のうち4人が1月に異動させられた。その中には、ウチの会社に夢を持って中途入社したものの、わずか1年で異動させられた者もいたらしい。Aさんは、それが一番かわいそうだと言っていた。

さらに今回、何の説明もないままに特約店担当部長からいきなりただの営業社員にコンバートされた人もいる。本来は支店長か本社の直属上司に説明責任があり、それすら為されなかったのだから、これは明らかに不当人事である。ところが彼は50代なので、そうおいそれとケツをまくる訳にもいかず、結局泣く泣く移って行ったという事だ。

当のAさんも異動を告げられた。子供の学校の事情で1年待ってほしいと言ったのだが、それはならじと今回の退職に至ってしまったのである。退職後は薬剤師の資格を生かして調剤薬局開業を目指すらしい。54歳の今ならまだやる気も出てくるのだと言う。

折りしもこの日は、年に一度の支店全体会議。130名の支店メンバーはカンヅメ会議で、夜は懇親会である。Aさんはもちろん出席しなかったが、着いた店にはすでに3名が待機していた。訊けば、懇親会場は肩が触れ合うほど狭く、おまけに件の支店長なんかよりAさんと飲みたいので5分で抜けてきたと言う。他のメンバーも続々とトンヅラしているらしい。ああ、この支店の実情を良く表しているなと納得。

いつの間にか合流メンバーは10名くらいに増え、2軒目3軒目と流れて行った。Aさんが思ったほど落ち込んでいなかったのは幸いだったが、心中穏やかではないのは明白だ。誰だってこの歳になってからこんな選択を進んでしたいと思う人はいないだろう。

去年も一昨年も言ったが、今年もまた言わざるを得ない。

「こんな会社に誰がした!」

不二家の埼玉工場で製造されたシュークリームに消費期限切れの牛乳が使われていた問題には驚くべき続編があった。

調査では、さらに期限切れ牛乳を7回使用、アップルパイなどに使っているりんご加工品の賞味期限切れを4回使用、プリンの消費期限を社内基準より1日長く表示、食品衛生法の規定の10倍、社内基準の100倍の細菌が検出された「シューロール」を出荷したことを明らかにした。さらにさらに同工場では、一昨年に一月で50匹のネズミを捕獲、昨年夏以降も2匹捕獲するなど衛生上の問題があったという。

消費期限と賞味期限を混同した記載があるが、Wikipediaによれば「消費期限」とは、ある保存方法で概ね5日間で品質劣化する長期間保存できない食品の食用可能期限とある。これに対して「賞味期限」とは、加工食品を包装状態のまま所定の環境に置いた状態で、製造者が安全性や味・風味等の品質が維持されると保証する期限を示す日時とある。

5日間しか品質保持できないのに、たとえ1日と言えどオーバーしたものを使って製造した生菓子が我々の口に入る頃にはどうなっているか・・・ここにも想像力の欠如した人間がいたのである。

「期限切れの原料使用がマスコミに発覚すれば、雪印の二の舞となる事は避けられない」と社内報告書で11月に指摘されていたにもかかわらず、2ヶ月も公表することなしに、書き入れ時のクリスマス&年末商戦でガッポリ稼ぐだけ稼いでいたのである。

いろいろなブログにも書かれているが、老舗だけに不二家に対してさまざまな思い出を持つ人が多い。私も、親に連れられて祖父母の家に行った帰り、錦糸町駅ビルの不二家レストランで「バナナボート」を食べるのが楽しみだった。イチゴの乗ったデコレーションケーキを腹一杯食べられたら死んでもいいとさえ思っていた。ミルキーもルックチョコもよく買ったなあ。

そんな思い出を持って大人になった今では、不二家以上の洋菓子屋なんて周りにワンサカある。選択肢が多すぎて、特に若い世代には注目されないかもしれない。我々世代には特別なノスタルジーを与えてくれた不二家といえど、さすがに経営は楽ではなくなってきていただろう。4年連続の赤字経営だったとか。

だが、不二家の経営者は判断を大きく誤った。今まで大失敗した他社の経営者同様、やはり目先の欲に勝てなかったのだ。同族経営ゆえの甘さ、イエスマンばかりの幹部、なあなあの現場。そのどこにも危機管理や顧客主義の姿勢が見えない。

創業家が経営トップを務める企業の不祥事では、2001年の脱税事件のマルハや、2002年の日本ハムの牛肉偽造事件、昨年のガス給湯器で死亡事故を起こしたパロマなど枚挙にいとまがない。

もし雪印と同じ道を辿る事になったとしても、それは自業自得と言えよう。だが、不二家がそんな会社に落ちぶれてしまったのと同時に、我々の思い出までもが汚されてしまったような、悲しいを通り越して怒りさえ覚えるのである。ペコちゃんポコちゃんに謝れ!

こういう事態になると必ず出てくるのが、トンデモ苦情の類である。真偽のほどは分からんが、とりあえず水に落ちた犬は叩いておこうという事だろうか。世間なんてそんなモンだ。

親に連れられてやって来た子供が、不二家で出会ったペコちゃんに抱いた親しみとほのかな憧れこそ、不二家が全力で守るべきものではなかったのだろうか。