以前、雪見さんとの共通のキーワードが森有正だと知って驚いた、ということは書いたと思うのだけど、それはちょっと正確じゃない。一番驚いたのは、雪見さんもわたしも、森有正の本の装幀を手がけたある女性の書いた本を読んだことがあって、しかもその本の中にぼかしながら書かれているあることに、ピンと気づいてしまった、というところまで同じだったことだ。
その女性、栃折久美子さんの「森有正先生のこと」が出版されたのを知って、ちょっとだけ躊躇したのだが注文、本が手元に来るや否や一気に読んだ。読んで、ああそういうことだったのか、と素直に納得できる気がした。それは確かに恋だったのだが、最初からもたれあうことにはなりえない恋だったのだ。
一番わかりやすいのは、栃折さんが、大学での森有正の集中講義を聴講に来ていて、学生に話し掛けられたときに答えたことば。
しかしこれはあまりにわかりやすすぎる。むしろ、森有正が東京に事務所を構える構想を抱いて、そこを栃折さんに取り仕切ってもらえないか、と打診をする手紙を送り、栃折さんが概ね承諾をしたことに感謝する森有正の返信の中のことば。
この事務所の企ては、かなり長い期間、多少は現実感をもって模索されたようだが、結局実現しなかった。模索された期間、それは両者それぞれにとって、危うい夢だったことも確かだと思う。しかし実現しなかった理由は、それは単に自然の成り行きだった、と理解するのがよさそうである。
本を読み終えてから、書棚で埃をかぶっていた「モロッコ皮の本」を取り出して、ブリュッセルで彼女がある人を待っていてすっぽかされたという下りを、20数年ぶりに読み返す。2日間待って、結局現れなかった人のことを想う気持ちが書かれているのだが、それが息子夫婦を伴っての来訪だとは記憶していなかった。読み直したら、曖昧だがそのことがちゃんと書いてあった。また、花がドライフラワーのようにしおれてしまったとあって、それをわたしはずっとミモザの花だと記憶していたのだが、そうではなくて黄水仙だった。(ミモザは、同じ本のずっと前の方で出てくる。)
事情がわかって、その前後の経緯も明かされた上で読み直すと、以前読んだときには、だいぶ思わせぶりに思えた文章も、それなりに切実な気持ちをぎりぎり殺ぎ落としながら書いていたことがわかるような気がする。
「視ル」というのは、三人称の関係で向き合うことだ。話をし、食事をし、冗談を言い合い、便りをやりとりし、健康を気遣う。そうしながら、それぞれの仕事に全力を尽くす。
そういう三人称の関係を経験したからこそ、栃折さんは今の今まで一人称で生きてくることができたのだろう。今回この本を書く必要があったこともよくわかるし、わたしの中でずっとぼんやりとはぐらかされたままになっているように感じていたことが、すっきりした気がする。
というわけなので、読んでみられるとよいかも。
その女性、栃折久美子さんの「森有正先生のこと」が出版されたのを知って、ちょっとだけ躊躇したのだが注文、本が手元に来るや否や一気に読んだ。読んで、ああそういうことだったのか、と素直に納得できる気がした。それは確かに恋だったのだが、最初からもたれあうことにはなりえない恋だったのだ。
一番わかりやすいのは、栃折さんが、大学での森有正の集中講義を聴講に来ていて、学生に話し掛けられたときに答えたことば。
だって、人は何をしてあげることもできないし、してもらうこともできない。本当に人に出会いたかったら、自分の中の暗闇を、どんなに寂しくても一人で行くほかないし、そこしか本当に人と出会うところはないのだと、知ったものだけに通じ合える優しさ。それだから冷たい、といったのよ。(p.93)
しかしこれはあまりにわかりやすすぎる。むしろ、森有正が東京に事務所を構える構想を抱いて、そこを栃折さんに取り仕切ってもらえないか、と打診をする手紙を送り、栃折さんが概ね承諾をしたことに感謝する森有正の返信の中のことば。
私どもはそれぞれ主体的には第一人称の人間、したがってお互いには第三人称(二人称ではありません)の人間でなくてはなりません。だから、お互いの関係は信頼ではなく、信仰なのです。(p.116)
この事務所の企ては、かなり長い期間、多少は現実感をもって模索されたようだが、結局実現しなかった。模索された期間、それは両者それぞれにとって、危うい夢だったことも確かだと思う。しかし実現しなかった理由は、それは単に自然の成り行きだった、と理解するのがよさそうである。
本を読み終えてから、書棚で埃をかぶっていた「モロッコ皮の本」を取り出して、ブリュッセルで彼女がある人を待っていてすっぽかされたという下りを、20数年ぶりに読み返す。2日間待って、結局現れなかった人のことを想う気持ちが書かれているのだが、それが息子夫婦を伴っての来訪だとは記憶していなかった。読み直したら、曖昧だがそのことがちゃんと書いてあった。また、花がドライフラワーのようにしおれてしまったとあって、それをわたしはずっとミモザの花だと記憶していたのだが、そうではなくて黄水仙だった。(ミモザは、同じ本のずっと前の方で出てくる。)
事情がわかって、その前後の経緯も明かされた上で読み直すと、以前読んだときには、だいぶ思わせぶりに思えた文章も、それなりに切実な気持ちをぎりぎり殺ぎ落としながら書いていたことがわかるような気がする。
逃ゲマセン、モチロン。何モカモ承知デヤッテキタコトダモノ。ドンナコトヲ代償ニシテモ、視テ見甲斐ノナイヨウナ方デハナイ、ト思イマス。本気デ視ルツモリナラ、見甲斐ノナイ人間ナンテ、ヒトリモイナイ、トモ言エルデショウケレドネ。(「モロッコ皮の本」p.142)
「視ル」というのは、三人称の関係で向き合うことだ。話をし、食事をし、冗談を言い合い、便りをやりとりし、健康を気遣う。そうしながら、それぞれの仕事に全力を尽くす。
そういう三人称の関係を経験したからこそ、栃折さんは今の今まで一人称で生きてくることができたのだろう。今回この本を書く必要があったこともよくわかるし、わたしの中でずっとぼんやりとはぐらかされたままになっているように感じていたことが、すっきりした気がする。
というわけなので、読んでみられるとよいかも。
【このトピックへのコメント】
- 雪見:ふ〜む。いろいろ謎が解けそうですね。早速読みます。(2003-10-18 13:02:09)
- 出雲眞知子:うん、うん。わたしの方は、マルクス・アウレーリウスを、と思ってはみるんだけどねえ。(2003-10-18 13:23:00)