hirika
 昨日あたりから。
 キーワードは「pierrot」とか「pierrot」とか「pierrot」とか。「ライブレポ」とか「キリト」もあったりするけど、まぁ何を探しているかは言わずもがなですな。この2年くらいはお目にかかってないけど、文章を読むのが不自由な人が来ないことを祈るのみ。
 あ、でもひとつだけ「何これ」ってのがあって、それは何かとゆーと「hirika」。
 最近本家の方も「hirika」の検索でやって来る人がいて──まぁこれが初めてではないんだけど、なんかね、あんまりいい気分ではないよなぁ、みたいな。「一体どこでその名前を知ったんですか」って訊いてみたい気持ち。
 何でもかんでも自分に引き寄せて物を考えるのは悪い癖だなぁ、と思うんだけど。やっぱし「承認」の問題ってのは根が深いというか、数々の社会問題の根幹なのではないかしら? と思ってしまう。
 承認じゃなくて、肯定でも自信でもいいんだけど、「自分という存在の身の置きどころのなさ」っていうのかなぁ、多くの人が──それも、決して心の病を患っているわけではない人が、「自分を認めて欲しい」「他者に認められたい」と思っているような、そんな感じがする。
 や、誰だってそういう部分は少なからず持っているわけで、あって当たり前、あるのが健康って気がするんだけど、ふとした弾みでその感情が増幅しやすい時代というか、そういう社会になってきているのかなぁ、みたいなさ。
 要はバランスだと思うんだけど。自分に「自信」を持ちつつ、「認められたい」って気持ちとどうつき合うか、距離をとるか。

 あまり関係ないけど、ふと「山嵐ジレンマ」を思い出してみたり。
 3年ほど前に書いた、
 愛されていると感じてもいないのに、そう思い込んできた。偽りのものを偽りだと知りつつ、本物だと信じ込んできた。そんなあたしが。ほんとうのものを目の前にしたとき、ほんとうのものだとわかるはずがない。ただあたえられるだけのものだなんて信じられない。
 ──という文章を。や、ちょっと考え事をしててそれで思い出したんだけどさ。
 つらつらと2年前、3年前に書いた本家の文章を読んだんだけどさ、なんつーの? やっぱりあたしっていいこと書いてるわ。
 それにこう、書いてる内容は非常に痛かったりもするんだけれども、読んでいてすごいパワーを感じるのよ。「心の内を伝えたい」っていう強い思いがすんごい込められてて、意味の通らない訳のわからない文章だったりするんだけれど、引き込まれるっつーかさ。
 自分で書いておいてアレだけど、なんか、ね。今はもう「ああいう文章は書けない」と思うんだけどね。あそこまで強いネガティブな感情は、たぶん今、あたしの内にない。怒りや憎しみや孤独感、疎外感がまったくなくなったわけじゃないけど、あれほどに強い思いが文章に込められることは、この先もうないんじゃないかって気がするねぇ。まぁ、書く内容にもよるだろうけど。

 なんかねぇ、こう今のあたしとは違うあたしがそこにはいて。でも、続いてるんだよね。今のあたしと違っちゃってる部分もあるけれども、そこから連続して今の自分があるわけよ。
 で、読んでて「恥ずかしいなー」とか「削除してえ」と思うものも実は幾つかあるんだけど、そういう自分があったからこそ今のあたしはここにこうしているわけでさ、なんかね、そのときの心のありよう──目に見えにくいそういうものをそこに留めているわけで、これってすごい大切なものだよなぁ、とゆーか、財産だよなぁ、と思った。
 嫌なことも苦しいこともいっぱいあったけど、それでもやめずに続けることで、こうして手にできるものっていうのがあるんだねぇ。
 ですな。
 今年受験だという高校生の日記をふたつほど読んでいるので、ちょっとだけ気になっています。
 ニュースを見てたら、北海道の北見市では試験開始時間を1時間繰り下げたとか。確かおひとりは北海道の人だったよなぁ、どこに住んでいるのかまでは知らないけど、大丈夫だったのかなぁ、とか、ふと思ってしまいました。
 まぁただ見てることしかできないんですけど、「がんばれー」と、こっそりここから応援したいです。
 「新手のいやがらせか?」とゆーくらい、「ウロボロス」のキーワードで検索から跳んで来る。なんで?
 思い当たるのは『鋼の錬金術師』くらいしかない。『鋼の錬金術師』の中にウロボロスの刺青をした悪役さん達が出てくるので、「ウロボロスってどーゆー意味ー?」って人が検索してるんだろうか。それとも他に何か理由が?
 うーん謎だ。
 先週の木曜日、同僚のRちゃんが病欠。あたしは金土が休み、Rちゃんは土日が休みで今日ひさびさにRちゃんに逢ったんだけど、話を聞いたらRちゃん、木曜日に医者に行き「インフルエンザだったね」と言われたそう。
 峠は越えちゃったみたいで、「すぐに治るよ」とも言われたそうなんだけど、「あたしがうつしちゃったんだねー」と言うと、「(医者にインフルエンザと言われた途端)hirikaさんだよ」と思ったという。あーうー、すみません。
 実は「ちゃんと測ってないけど、あんまし熱でなかったし、本当にインフルエンザだったのかなぁ」と疑ってたんだけど、本当にインフルエンザだったんだわね。
 接客業だし、人にうつしちゃうのはアレだからもう数日休みたいのは山々だったんだけどねぇ……。つーかさ、そもそもあたし一体誰にうつされたんだろう。やっぱしお客さんなのかなぁ。
 とゆーわけで、『鋼の錬金術師』DVD第二巻が本日入荷して来ました。第二巻の初回特典は全巻収納できるBOX付き。しかもこのボックス、“鋼の”とゆーだけあって金属製です(アルミ?)。ぐはー。
 でね、この金属製ボックス、「なーんかどっかで見たことあるってゆーか、何かに似てるなー」と思いながら仕事しててふと思い出したんですが、これに似てるんですよ。栃木にお住まいの方しかわからないかもしれないけど、大きさも同じくらいだし、缶の光り具合とか、まさに「まんまじゃん!」て感じ。なので、なんかちょっと笑えます。
 で、このハガレンBOX。DRAGON BOX(ドラゴンボールのDVD-BOX)が入荷して来たときも思ったことなんですけど、購入される方は嬉しいんでしょうけど、売る方としてはかさばってかなりイヤンな感じです。10個くらいあると「どこに置けばいいんだよう」と、非常に頭を悩ませます。なんとかレジの後ろに積んだけど。

 ところで『鋼の錬金術師』、英訳すると『FULLMETAL ALCHEMIST』になるんですな。なんか違う感じ。
 精神が不安定になって気持ちが荒れるとき、必ず囚われてしまうのが「自分は誰からも必要とされていない」という思い。
 実際どうなのかと考えてみると、家族にとってやっぱりあたしは必要というか、死んでは欲しくないだろうし、友達もまた然り。職場は、まぁ代わりはいくらでもいるというか、替えは利くのだろうけれど、仕事を覚えるまでの過程その他を考えたら、やっぱりいきなりいなくなるのは困るだろうなぁ、と思う。
 そう実際、こうして考えてみると「誰にとってもまったく必要ではない」というわけではない。なのになんであたしは「誰からも必要とされていない」と思い込んでしまうのか。
 たぶんそういうときというのは、不安で自信がなくなっているのだろうな、と思う。だから言葉や態度というはっきりとした証明・確証が欲しくて、けれどもそれを容易く手にすることはむずかしくて、「誰からも必要とされていない」と短絡的思考に陥ってしまうんだろう。

 ──なんてことを考えていて、ふと気づいた。あたしは「誰からも必要とされていない」と嘆くけれども、それなら一体“誰に”必要とされたいんだろう? 自分を必要だと言って欲しい誰かなんて、あたしにはいないじゃん。人が恐いあたしは、「必要だ」と言ってくれることを特定の誰かに望むことすらできない。そして望むことすらできないのだから、手にできなくて当然だ。
 けれども、先に書いたように「本当に誰からもまったく必要とされていない」わけじゃない。絶対にあたしでなければならない理由などないし、あたし自身が望むことができずとも、「必要とされている」という事実はある。
 職場で関わる人々と、特別仲が良いわけではないし、個人的にどんな感情をあたしに持っているのかはわからないけど、それでもあたしは必要とされている。それがたとえ「いないよりはいた方がマシ」程度のものであったとしても、必要とされていることに変わりはない。
 だってまったく必要がないのなら、一緒に仕事をすることも、笑って世間話をすることも、もっと言ってしまえばそもそも話をすることも、関わり合うこともなくなってしまうだろうし。ということは、もしそれが義務的事務的なものであったとしても、必要とされているのは事実だろう。
 あたしはつい「誰かにとって特別な、替えの利かない必要な存在」になりたがるし、それを望むことをやめられないと思うんだけど、こうして「自分はわずかでも必要とされている」と思うことができて、そういう思いが少しずつ増えてゆけば、もしかすると「“たったひとりの誰か”にとって必要な存在」になりたいと思う気持ちも薄らぐのかなぁ、と思う。

 ちと説明不足なところがあるけど、本家散文のネタ的なものなのでご了承を。ちなみに落ち込んでたり気が滅入ってたり荒れてたりするわけではないのでご心配なく。ふとつらつら考えたことを書いただけなので、うん。
 東京で働いていた頃の友達・しおちゃんから「春あたりに結婚の予定です」とゆーメッセージ付きの年賀状が届き、続いて本日、中学からの友達・魔子ちゃんが職場へ来訪、「入籍した」と告げた。
 ……魔子ちゃん、去年の正月に「別れるかも」とか言ってなかったっけ?
 なんか。いきなりの展開について行けない感じ。情況が飲み込めないっつーか、一体何が起きているのかがわからず、どんな感情を抱いていいのかわからない。わからないんだけれども、ただ、いいタイミングだったかな、とは思う。一週間前だったら目も当てられないくらい荒れていただろう。

 別に“結婚どころか彼氏すらいない”あたしが、彼女達をうらやましい・妬ましいと思い気持ちが荒むわけではない。つか、そうであったら話は簡単なんだが、ちと違うのだな。いや、うらやましいって気持ちはあるよ、正直。でもそれは「結婚できない・彼氏がいない」からではない。
 あたしは人が恐いので、人を好きになることができない。それに、もし誰かがあたしを好きになってくれてつき合うことになったとしても、たぶんおそらくきっと、あたしは相手の存在を苦痛に感じてしまう。
 人を好きになったり好きになられたりってのはしあわせなことだと思う。もちろん良いことばかりじゃないだろうけど、幸せをあたえたりあたえられたりできることだと思う。けれどあたしにはそれが苦痛だし、恐怖なのよ。そしてそのことが、あたしのコンプレックスになっている。
 大抵の人達は人を好きになることに幸せを感じるのに、なぜあたしは恐怖してしまうのか。なぜふつうの人々が幸せだと感じることをそうは感じられないのか。あたしのように幸せなことを幸せだと感じられないような人間は生きていても仕方がないんじゃないか。
 自己否定。当たり前であれない己を責め立て、生きている必要などないと思い込み、それゆえ精神的に不安定になるしひどく気持ちが荒れる。
 うらやましいのは結婚するからでも彼氏がいるからでもない。彼女達が人を好きになれること、当たり前のことを当たり前のこととして受け止められることがうらやましい。そしてその事実を目の前に突きつけられ、「自分は当たり前ではあれない」ということが明確になってしまうので、それに衝撃を受けてしまうわけだ。
 まぁ、荒れてるときにこんなはっきりと感情が言語化されるわけじゃないけどさ。ともかく、間が悪いときにこういうことがあるとあたしはそりゃもう手がつけられないくらい荒れるので、今、この比較的安定しているときで良かったなぁと本当に思う。
 こう、今もただただ驚いてる感じなんだけれど、魔子ちゃんに「おめでとう」って言えたし、気持ちが荒れたり落ち込んだり「だからあたしは駄目なんだ」と思い込んだりしてないしね。
2004-01-23(Fri) 00:34

SHEBANG

When the school is out
When the school is out
It's a long hot summer vacation
When the school is out
Yeah the school is out
Then it's a boredom termination
SHEBANG/SCHOOL IS OUT


 なんて季節外れな、と思いつつ(春休みならともかく)。
 本日今年初めてCDを購入。去年あたりから洋楽の購入率が非常に高いんだけど、今日買ったのも洋楽。しかもこれが日本デビューのシーバング(上から3つ目)。CCCDだけど、職場でサンプルCD聴いてたらどーしても家でも聴きたくなり、「PCじゃ聴けないけどいいや」と買ってしまった。まぁ安いしね。
 どんな感じかとゆーと、うーん。アヴリル・ラヴィーンに似てるかなぁ。アヴリルをもうちょっと可愛くしてポップにしてダンス系を混ぜた感じ? 去年買ったCDの中で1番聴いてて大当たりだったのがDAMONEなんだけど、「女の子の可愛らしさ」って点ではすごく似てるというか、あたし好み。DAMONEは格好良くて可愛い感じだけど、このシーバングはポップで可愛いって感じかな。アヴリルにも似てるけど、やっぱしちと違うわね。アブリルってヤンキーっぽいし。
 こう、聴いててすごく楽しい気分になってくるアルバムなので、もし機会があればシーバング、聴いてみてくださいな。……て、アヴリルもDAMONEもシーバングも中高生のパンク好き向けだけどさー。
【このトピックへのコメント】
  • hirika今思い出した。輸入盤ならmacに落とせるじゃん。あ〜んバカ〜(泣)。そんかしボーナス・トラックないけど。(2004-01-23 02:39:15)
2004-01-24(Sat) 00:43

Kowloonet

 妖精さんが踊ってるよ〜!
 つーわけで、今頃になってやっとここを発見。いや、本家のアクセス解析に残ってた検索ページのリンクをたどって行ったら巡り着いたわけで、その経緯はちと「なんだかなー」な感じ。
 が、そんなことは置いといて、もう思わずあちこち見て回っちゃったよ。だって激ラブ過ぎ。リアル九龍も心惹かれるけれども、あたしの心に最初に衝撃をあたえたのはバーチャルの九龍城砦だからさ。
 ああー、また最初からプレイしたくなっちゃったよー。リッチに逢いたい〜。
 共感したとか心に響くとか、うぜぇんだよ!

 そんな言葉を使ってもあたしには何ひとつ伝わってはこない。そう言えば何かを伝えた気になるのだろうが、それはただの自己満足で他者へ向かう言葉じゃない。
 自慰がしたいのなら他の人間の前ですればいい。

 なんてな。

 馬鹿らしい。自分が何を言っているのかまったく自覚のない人間に何を言っても無駄っつーか、同じ言葉を話さない人間に何言っても伝わりようがないのにな。
 でもマジで、「共感」とか「心に響く」とか、聞き飽きた。ああ、こうして怒ったりせずにスルーできるようになりたい。
 googleでもyahooでも、「ウロボロス」で検索するとこの日記が一番目に出てくるようになってしまったよ。
 鋼錬好きだけど、関係ないことばかり書いてあってすまんのう。
 今『ナースのお仕事ザ・ムービー』を見ていたら、アサヒ本生アクアブルーのCMに伊勢谷くんが! 佐野元春と一緒に出てたよーん!
 あー、ひっさびさのラブリー伊勢谷くんだ〜うれし〜。もー、どうして伊勢谷くんてあんなにカッコイイのに可愛いのか。つーかさ、伊勢谷くんてほんと甘え上手。ああやって甘えられたい〜(佐野さんに「青いっすね〜」と言う、それのどこが“甘え”なのか、なんて訊いちゃいけない)。
 『DISTANCE』映像特典のラブリー伊勢谷くんに逢いたいけど、まだ貸したままなんだよな〜。あらたんに懐いてる伊勢谷くんの姿は本っ当に心を癒してくれるわけで、あー早く返してもらって見たいよ〜。
 傷ついて泣き叫んでいた方がいいと思うわけですよ。何も感じないように心を凍りつかせたり、しあわせな気持ちしかなくてあまりに心が平穏過ぎるよりは。
 何も感じないのなら、それは死んでるのと同じ。
 心が穏やかなのはいいことだと思うけれど、そのために何の感情も浮かばないのなら、それはあたしにとって死んでいるのと同じ。
 そしてそれならば、「死んだ方がマシ」と思うくらいの、辛く苦しいことに翻弄されていた方がいいと、思うわけです。
 仕事中、問屋から入って来た新譜案内だの何だのを整理も兼ねてチェックしていると、GWに公開される紀里谷和明監督作品『CASSHERN』のチラシが。何気に裏返し、そこに書かれた出演者を見ると──ああ! 伊勢谷くん!!
 うはー。『CASSHERN』なんてまったく興味ないから名前は知っててもスルーしちゃってたけど(アニメの『キャシャーン』ならともかく)、伊勢谷くん出るんだー。しかも主役!
 宇多田ヒカルが主題歌を担当するこの映画、はっきり言ってコケそうな気がすげぇするんだけれども、これで今よりはもう少し伊勢谷くんの知名度が上がりそうで嬉しいかもー。
 また今週も『新撰組!』を見てしまった。ああ、藤原竜也くんの沖田が……ラブ。うはー。
 しかしアレだな、第一回から見てるんだけど「NHKもとうとう腐女子をターゲットにした大河ドラマを作り始めたか」みたいな。どういう見方をしたところでアレはもう近藤土方でしかないだろう。ちゅーか、あたしにはそうにしか見えないよ……。
 香取慎吾くんはどこからどう見てもあたし的に「腐女子的ターゲット」から外れるんだが、だからこそ、なのかな。土方役の山本耕史くんの、回を重ねるごとに増す色気との対比とも相まって、「ぐは〜!」とのたうち回りたくなるのかもしれない。
 や、フツーに見ててもぜんぜん、腐女子以外は反応しないと思うんだけどな。
 ところで、最初香取慎吾@近藤勇を見たときは「イメージ違う〜」とつい父に愚痴ってしまったものだが、なんか何度も見てるうちに慣れてきたゆーか、「こういう近藤勇もアリかも」とおもしろがれるようになってきた。
 ストーリーがどう進んでゆくのかまったくわからないけど(昔読んだ『新撰組血風録』の内容なんぞとっくに忘れている)、なかなかおもしろくなってゆきそうで楽しみ。
 と呼ばれるのは好きではない。というか、“人”にはその文字で呼ばれたくない。
 「ヒリカ」というのはもう10年ほど使っている、ゲームをするときに入力する名前で、ゲームのキャラクターという実在しない電気信号の幻に呼ばれるからこそ、あたしにとって意味を持つものなのだ。
 この感覚はちょっとわかりにくいものかもしれないけど。
2004-01-27(Tue) 00:46

感想。

 今日はDAMONEの『FRUSTRATED UNNOTICED』な気分。つまり、
My heart is strong
I'll be the one
Who takes control
なわけで、よーするに疲れてるってことですな、こんなものを聴いて自分をなぐさめたくなるってのは。
---
 本家の散文はエッセイのようなものというゆーか、日記とは明らかに違うもので、それゆえたま〜に感想メール・書き込みをいただくわけです。
 が。
 なんだろうなぁ、こう、よくコミュニティサイトなんかであるじゃないですか、コミュニケーションを目的とした文章を書いて、仲良くしましょう・友達になりましょう、みたいな感じでやりとりすること。そういうね、感想とは思えない内容を書いてくる方が去年からずううううううううううううううううううううっと続いていて、いい加減げんなりしてます。
 あの、本家の散文て「そうそう、そうなんだよね」とか「私もそうなの」みたいな感じで会話が弾みそうな内容のものはそう多くないと思うし、そもそもそうなることを目的として書いたものじゃあないのです。中には散文を日記だと思っている方もいらっしゃって、なんというか「これほど“その文章が何を目的として書かれたものか”を読み取れない人がいるのか」と思うほど。
 小説とか随筆とか論文とかエッセイとか、「そういうものですよ」と書き記しておかなければ「これは日記の延長でコミュニケーションを目的として書かれたものだ」と思ってしまうのかもしれません。それほどに文章を読み取ることが困難なのか、それとも、web上に綴られた個人による言葉というのはすべて、コミュニケーションを目的としたもので情報には成り得ない、と思われているんでしょうか。
 まぁ中にはその辺のところをちゃんと読み取ってくれる人もいるんですけど、なんかね、「感想」ってのはどういうものなのか、さらにはどう書くのか、がわかってないんじゃないかなーってのが多く。今ここで調べてみましたが、感想というのは「あることについて、感じたり思ったりしたこと。所感。感懐。」なわけで、“あること”というのはこの場合、「読んだ文章」を指すわけですな。にも関わらず、あたしの元へ届くのは「共感しました」のひとことでそれをすませ、それを枕に自分語りをするものが多いのです。本人は感想を書いているつもりなのでしょうが、主体が“自分のこと”にすり変わっていて、それに気づいてないみたいです。
 これはねぇ……。
 「あたしはあんたのこと知らないし、だから興味もないし、そうやって自分のことばかり書かれてもうれしくないとゆーか、むしろ知りたくもないことを押しつけられて迷惑」みたいな? 別に「自分のことをまったく語るな」とは思わないですけど、それはあくまで「感想」──自分が何をどう感じたかを伝えるために必要な要素に留めるものであって、「自分がどんな人間であるか」を相手に語り出したら、それはもう感想なんかじゃなくなるわけです。
 や、宿題の読書感想文とか書評とか書くんならそれでもいいと思うんですよ。でもね、書き手に感想を送る場合「それってどうよ?」みたいな。あたしは別に友達募集とか、人と議論したくて本家散文を書いてるわけじゃないし。なのに見ず知らずの相手から「私は今こういうことで悩んでます」とか「私は今こういうことをしています」と言われてもねぇ……。「感想を書いてくれたのかな」と思って読んだらそんなんだったとき、あたしは一体どうすればいいですか。しかもそんなメールや書き込みばかりしか来なかったら。

 ──なんてことを仕事中考えていて(実は昨晩、あまりにもアレなので頭に血が昇ってしまい、ぐるぐる考え込んでてなかなか寝つけなかった。で、朝起きてもどうにもすっきりしないので仕事中までごちゃごちゃと考えていたのだった)、ふと思ったことがあって。
 「日本人の平均的国語力って低下してるよなぁ」ってのと、「感想っていう体裁をダシにして自分語りをせずにはいられない人間の心理」
 まぁこの二つって部分的に密接な関係があると思うんだけれども、特に後者、これなぁ。自覚がないのが質が悪い、と思うんだけど、でもこれって「これがふつう」ってゆーか、一般的ってゆーか大多数ってゆーか当たり前ってゆーか、そんな感じだとも思うのよね。
 自覚のないままに「自分の話を聞いて」ってことばかりに集中しちゃって、人の話を聞いたり人の立場になって考えたりすることができないっていう、そういう人がすんげぇ増えてるなーって気がする。前にちょっと書いた承認の問題も絡んで来るんだけど、なんかねぇ、ほんとに、「ふつうに見えるけど実は心の病」って人しかいないんじゃないかって気がしてきて、「小泉さーん、派兵がどうのと言ってる場合じゃないんじゃないのー?」と思ってしまう。同じ国語を話す人々でさえこうなんだから、外国語を話す人とのそれを考えたら何をか言わんや、じゃないですか? みたいな。
 や、今日書いてることって「こんなこと考えてグダグダ書いてないで本人に直接言えよ」って話だし、こうして分析に走っちゃうのは逃避だってわかってるんだけど、なーんか、ねぇ。この辺のところを自分が何をしているのか自覚のない人に説明してわかってもらうのってむずかしいし、「うれしい感想」をくれたわけでもない人にそこまでするのは、ねえ。そんな義務ねぇじゃん。つーかさ、そういう人全員に「わかってもらえるよう努力」してたらさ、気が狂うっての。
 わかる人だけわかればいいってのが本心で。歩み寄りたいと思う相手なら努力したいけど、すべての人にわかってもらうよう努力する義務は、どんな人にもないよ。
 サイトとかこういう日記で文章を綴るのと違って、「読んでくれる相手」の存在がはっきりしてるのよね。
 こうしてここに日記を書いていて、(あたしにだけ見える)カウンタは回るし、リファラー見るとURLが残るから、人が来てるんだなってのはわかるけれども、「一体そのうちの何人が読んでくれてるんだろうな」と思う。ページが開かれてるのは確かなんだろうけど、来た人が読んでるかどうかなんて、その人じゃない限り知りようがないのよ。
 「自分語りをしたいのなら自分のサイトや日記でやればいい」と本当に思うんだけれども、それだと「読んでくれる相手」がいるかどうかなんてわかんない。自分がどうしても人に聞いて欲しいことを書いて、でも誰からも反応がなくて「読んでくれる相手」の存在をまったく感じられなくて──そんなの、嫌なんだよな。「読んでもらっている」と実感したい、「自分の話を聞いてくれる人がいる」という確証が欲しい。
 「感想を送る」という名目で自分語りをする人というのは、自覚なしにそういうことをしているんだろうな、と思う。「自分の存在を認めてくれている人はいる」と思いたい、「読んでくれる相手」はいると思いたい。それが無意識の行動として表出するんだと思う。

 自分自身のことについて書くなら、あたしは「書いても書いても反応されることが少ない」というこれまでの状態は、とてもありがたいものだったんだな、と思う。安易ななぐさめの言葉や、励ましや、そういったものがあたえられなくて、本当に良かったと思う。
 だからこそ、自分を気にとめてくれている人はちゃんといるんだと、実感することができたから。

(最近は検索で来る人があまりにも多く、ほんとに読んでる人いるのか? と疑心暗鬼になりがちだけど)
【このトピックへのコメント】
「xp-fairyがhirikaに1ポイントの経験値を届けに来た!」

 てな感じで、最近よく妖精さんがポイントを届けに来てくれる。そんなに人様の投票ボタン押してないのに、更新報告するたびに届けに来てくれたりして、ちと「うぜー」みたいな? ありがたいんだけれども。
 ちなみに今の経験値は275(Lv.4)。低い……。
 えっらいひさびさにリボのサイトを訪れたら、なんかRPG仕立てになってるー! しかもドラクエっぽい。つか、モンスターまんまドラクエじゃん(アルミラージとかマタンゴとか)。や、モンスターだけじゃなく、そのゲーム画面みたいなページも。
 コンテンツを見るにはキャラを操作してお店の人に話しかけなければならず、ウインドウが表示されて文字が現れるのもまんまドラクエ。しかも、コンテンツの内容を説明して「見たい?」と訊かれ、「いいえ」を選ぶと「ファ○クユー!!」とか「またまた 無理しちゃって!」という素敵なお言葉が。
 「お城で ロイヤルラビット様が おまちかねだぞ。」とゆーセリフは思わずドラクエ3を思い出したりしちゃったけど、なんつーかこのセンス、なぁ。
 あらたんの趣味……ではないような気がする。なんとなくキリさんっぽい。や、キリさんのことって容姿以外知らないんだけど、サイト内のキリさんのCDレビューとか読むと、「かわいい人だなぁ」と思うので、その流れで。
 2月上旬にサイトの改装が行なわれるらしいので、あと少ししか見れないらしいけど、ドラクエ好きな方はぜひ一度ご覧あれ。ちょっと笑えます。
ちきちきの本音かもしれない 2004-01-29 00:29「Re:メールや書き込みってさ。」へのコメント:

>うちは検索でくる人のほうが少ない(笑)

 う、うらやましいです〜。うちは検索に埋もれちゃっててmyを見つけるのが困難なほどなので……。日記名変えようかと思うくらい(泣笑)。
 ちゃんと読んでくれてる人がいるってのは知ってるんですけど、どうにも(笑)。
2004-01-29(Thu) 23:49

検証。

 ほんとにmyが検索に埋もれちゃってるのかどうか、数えてみた(99しかないけど気にすんな)。

検索 20
my 6
日記内 20
DI:DO内 11
自サイト 8
人様の日記(含むDI:DO) 4
アンテナ 6
unknown origin 1
リファラーなし 24

 myがいつもの3倍も。なぜ? それに他もいつもと違うや。いつももっと検索が多いし、逆にDI:DO内、日記内、自サイト、リファラーなしは少ないのに。だがしかし、myが少なくて埋もれてるっつーのは証明されたわねー。
【このトピックへのコメント】
  • 月浬うちはhirikaさんのをmyに入れてますけど、大抵HPから飛んでます。(2004-01-29 23:57:55)
  • 月浬↑hirikaさんのHPです。(書き忘れ)(2004-01-30 00:00:18)
  • hirikaあうあう、ありがとー。ほぼ更新止まってるのに〜(涙)。あたしはいつもmyから月浬さんとこ跳んでくよん。(2004-01-30 00:25:52)
  • hirika非常にどうでもいいことだが、月浬さんの「うちは」とゆーのを読んで、最初「うちは……ウチハサスケ?」と思ってしまった。アホだ。(2004-02-06 01:08:45)
 昨日コンビニでこれを買った。「すべての人は、9つのタイプに分けることができる」ということなので、早速テストしてみた(ここに同じテストがある)。結果はタイプ5-知識を得て観察する人
 “あたし”達の中で一番存在というか主張が強いのがこのタイプの“あたし”なのかなー、と思った。
 去年の9、10月くらいまで、キリトさんのことがうらやましかった。バンドとしてどれほど困難なことがあっても決してひとりではなく、それを分かち合えるメンバーがいるだろう? と、そう思っていた。だが、秋田でキレたというのを知り、その後いろいろ考えていたら、キリトさんに対するうらやましいという気持ちはなくなった。
 確かにひとりではないかもしれない。その苦しみを打ち明けることはできるのかもしれない。しかし誰ひとりとして、キリトさんの抱えるものをキリトさんの感じるままに理解することはできない。彼が抱えるものは、彼自身がどこまでもひとりで抱え、ひとりで受け入れるしかない。
 「自分を幾らかでも理解してくれる人」というのは、きっと誰にでも存在すると思う。けれども、その人のすべてを理解することなどできやしないし、理解ではなく許容することもまた、むずかしいだろう。人はどうしようとも、己と他者を別の存在として分ける壁を突き崩すことはできない。
 キリトさんの考えていることなど、何をどう感じているのかなど、わかるはずもない。それはキリトさんだけのものだ。だが、そう思うとき、「彼もあたしと変わらない、ひとりの人間なのだな」と思う。うらやましがることはない。キリトさんもあたしと同じように己の内に葛藤を抱え、その着地点を探しひとり格闘している。
 何を抱えるかは人ひとりひとり違うのだろうけれど、そういう苦しみは誰もに同じようにあたえられていると思うのだ。
 キリトさんの言動は大仰で難解なことが多く、それゆえ大きなものを抱えているのだろうと考えがちだけど、きっとそれは他の、いろいろな環境でさまざまな問題に苦しみながら生きる人々と、そう変わることはないだろう。「伝わらない」──それこそが何より、抱えているそのものより重くのしかかる苦悩の発端かもしれなくて、どんなに恵まれているように見えても、人はそれに苦しんでいるのかもしれない。
---
 キリトさんが何に苦悩しているのか、それはあたしが知らなくていいことだと思う。そうして苦しみながらも作品を生み出し、ライブをやり、何を伝えようとするのか──あたしはそこから何を感じ取るのか。大切なのはそれだけだと思う。
 昨日発売のWOのピエロちゃん日武ライブレポ──市川哲史さんの書いたそれを読んでそんなことを思ったですよ。「市川さんにはそう見えたのかぁ。でもそれって一面でしかないんじゃないの」とも思いつつ(市川さんって繊細な人なんだろうねぇ)。
 余計なことだが、「もうがんばらなくていい」って言って欲しいの、あんた自身なんじゃないの? ともキリトさんに対して思った。つーかさ、やっぱこの男大馬鹿者だわ。
【このトピックへのコメント】
  • 誰そ彼は「Re:オリコンのピエロ日武レポ。」痛みってのは相対的なものじゃなく絶対的な感覚らしく、他人と比べることはできないらしいです。体の痛みですらそうなんだから、精神的なものは尚更ですよね。目に見えない分余計に分からない。だか...(2004-02-01 05:24:11)
 誕生日に何度か言われたことがあって、そのたびにどうにもならない違和感を覚え、しかしそう言った人の気持ちを想像すると何も言い返せぬ、という状況に陥った言葉がある。それは何かというと、「生まれてきてくれてありがとう」だ。
 母親、あるいは家族にそう言われるならわかるのだが、なぜ赤の他人にそんな言葉を言われなければならないのか。そう言われるほどに近しい存在なのか。
 誕生日にそれを言う、というのがそもそもわからない。誕生日というのは生まれてきたことを祝福する日ではないのか。なぜ祝福せずに感謝する? 相手を祝うのではなく、己の気持ちを披露する? それは相手を想うことではなく、自分の気持ちを押し付けることにはならないか。
 実はこの「生まれてきてくれてありがとう」、初めて目にしたのはピエロメンバーの誕生日、オフィBBSでだったと思う。そのときも「何を言ってるんだコイツは」と思ったが、まぁ、そう言いたくなる気持ちもわからなくはない。
 すべてではないにせよ、ピエラーちゃんというのは痛い子が多い。ここで言う“痛い”とは「誰も私をわかってくれない、誰も私を必要としてくれない」という思いを潜在的に抱えていることを指す。そして憶測ではあるが、そういう思いを抱えている子達というのは、メンバーに対する依存度というのが異常に高い。
 簡単に言うと「この人は私をわかってくれる、私にはこの人が必要だ」という思いがとても高いということだ。そしてその思いが高じるあまり、異常なほどの感謝の気持ちを持つ。それは「自分がどれほど救われているか、感謝せずにはいられないか、それを伝えずにはいられない」というもので、それ以外のことは頭にない。
 余談だが、こういう子達というのは「メンバーに嫌われないかどうか」が物事の判断基準であり、その狭い視野の中で思考を展開させる。“自分が嫌われないかどうか”が大切であり、「なぜ機嫌をそこねさせてしまったか」を考えるにしても、“自分のどこがいけなかったのか”は考えるが、“メンバーが何を伝えんとしているのか”は考えない。
 要するに、「己を中心にしか物事を考えられない」というのが、極端ではあるが痛いピエラーちゃん達で、そういう子達は「どうされたら相手は喜ぶか」「それを言われたら相手はどう思うか」を考えるに至らない。本人達にしてみれば「考えている」と言うだろうが、端から見ればまったくそうではない、というのが実状だ。
 話を戻すと、誕生日であるのに「祝う」のでなく「感謝せずにはいられない」ほどにそういう子達の依存度は高いものであり、そんな己に気づかないほど視界は狭められ、心は頑になっている。そして、そういうふうにしていなければ生きてゆくのが困難なほど、苦しさを感じる日々を送っているんだろう。
 それはわかる気がする、気はするのだが、しかしやはりそれを己に向けられると当惑する。なぜ祝われる日に感謝されなければならないのか、と居心地の悪さを覚えるのだ。「生きていてくれるだけでうれしい」と思うのが当然かもしれない、家族ではないのに。
 そしてここからが本題なのだが、今日、フールズメイトに掲載されていたピエロ日武レポをちらりと立ち読みした。2daysの2日目、一番最後の曲『BIRTHDAY』の前に、キリトさんは「存在してくれてありがとう」と言ったらしい。
 キリトさんは痛い人ではなくなった、と思っている人もいるようだが、安心していい。おそらく、キリトさんは未だとても痛い人だ。