『浮気人類進化論』というのはまぁ、動物行動学の本なのですが、動物の世界にもきびしい社会といいかげんな社会とがあって、繁殖に関してはいいかげんな社会の方が弱者に救済があるのです。
動物の社会では個体の優劣というのがはっきりしています。優れた強い個体が生き残り、子孫を残します。弱い個体は交尾することすらできません。
でも、それは同じ動物社会でも「きびしい社会」でのことなのです。「いいかげんな社会」では弱い個体も繁殖するチャンスがあたえられています。
正論というか、「正しいこと」というのはなぜかはっきりとした理由もなく強いと感じます。対峙しなければならないことから逃げたり、楽をしようとすることを指摘されると、理由もなく後ろめたさが湧くことがあります。
けれど、そうやって物事を善悪で分け、厳しさばかりを強いる社会というのは本当に素晴らしいばかりなのか、とも思うのです。小さな悪はたびたび起こるけれども抜け道があり、弱者にもチャンスがあたえられる社会──どうしたって弱者の方が多いと思わざるを得ない人間の社会では、ある程度の「いい加減さ」が必要なんじゃないかなぁ、と思うのです。
弱いことそのものが悪だ、と言われたら返す言葉はないというか、「そういう人はそれでいいよ」で終わってしまいますし、現在の社会はいい加減になり過ぎたというか、厳しさは排除されてゆく傾向があるように思います。しかしだからといって、急激に厳しさを求めるのはむずかしいし、やはり厳しさに耐えうる人々というのはそう多くはないんじゃないでしょうか。
今の世の中はあまりにも「厳しさ」と「いい加減さ」が離れ過ぎ、中間がないような気がします。それはそれでもう、変えてゆくことはむずかしいでしょうからあれこれ言っても始まりません。ただ、今の「いい加減になり過ぎた」社会の中で、人々に救済をあたえつつも、ひとりひとりの人間に強さをあたえる方法はないかなぁ、と思うのです。
弱者が弱者のままで、けれども部分的にでいいから、強さを持てるようになる方法はないのかなぁ、と。
動物の社会では個体の優劣というのがはっきりしています。優れた強い個体が生き残り、子孫を残します。弱い個体は交尾することすらできません。
でも、それは同じ動物社会でも「きびしい社会」でのことなのです。「いいかげんな社会」では弱い個体も繁殖するチャンスがあたえられています。
しかし、そもそも善悪とは何だろう。彼らの世界では小さな悪が頻発する代わりに大きな悪が増殖しにくいというのも事実なのである。そして──まぁこれを人間に当てはめるのはどうかという気もしないでもないですが「いいかげんな社会の「弱者でも即、排除されない」というあたりに希望が見えたりするのです。
私は、いくつかの抜け道や人生の選択肢があり、弱い者だからといって即、排除されるわけではない柔軟で融通のきく社会を素晴らしいと思っている。そして、それを敢えて「いいかげんな社会」と呼びたい。「いいかげんな社会」では、驚くべきことに、動物界最大の罪悪の一つとも言うべき子殺しが防がれているのである。
竹内久美子『浮気人類進化論』148Pより
正論というか、「正しいこと」というのはなぜかはっきりとした理由もなく強いと感じます。対峙しなければならないことから逃げたり、楽をしようとすることを指摘されると、理由もなく後ろめたさが湧くことがあります。
けれど、そうやって物事を善悪で分け、厳しさばかりを強いる社会というのは本当に素晴らしいばかりなのか、とも思うのです。小さな悪はたびたび起こるけれども抜け道があり、弱者にもチャンスがあたえられる社会──どうしたって弱者の方が多いと思わざるを得ない人間の社会では、ある程度の「いい加減さ」が必要なんじゃないかなぁ、と思うのです。
弱いことそのものが悪だ、と言われたら返す言葉はないというか、「そういう人はそれでいいよ」で終わってしまいますし、現在の社会はいい加減になり過ぎたというか、厳しさは排除されてゆく傾向があるように思います。しかしだからといって、急激に厳しさを求めるのはむずかしいし、やはり厳しさに耐えうる人々というのはそう多くはないんじゃないでしょうか。
今の世の中はあまりにも「厳しさ」と「いい加減さ」が離れ過ぎ、中間がないような気がします。それはそれでもう、変えてゆくことはむずかしいでしょうからあれこれ言っても始まりません。ただ、今の「いい加減になり過ぎた」社会の中で、人々に救済をあたえつつも、ひとりひとりの人間に強さをあたえる方法はないかなぁ、と思うのです。
弱者が弱者のままで、けれども部分的にでいいから、強さを持てるようになる方法はないのかなぁ、と。