「前作の『午睡の夢』が『小JUNE』に掲載され、かなりのショックをうけました。(略)あんな未熟なものでも、共鳴してくれる人がいて、その人に、何かしらの影響を与えたわけですよね。これは、ひょっとして、大変なことなのではないか──と。」(後略)
そう、大変なことなのだ。が、何より大変なことは、月沼二級がそのことに気づいたことだ。自分は、虚空に向けて石を投げてるのじゃない。その書いた一字一字が、ひょっとして誰かに届き、また自分に帰ってくるのだ、ということ。──これが大変なことなのだ。同人誌では、同人が読んでくれて当たりまえ。が、まったく未知の人が、自分を見ている、と感じたとき、あなたは、たしかにこれまでまったく知らなかった“対岸”へ、送り手、創り手の側へ一歩すすむ。見つめられる喜び、人をうごかす力を自分がもっているという感動、すべての人に愛してほしい願い。すてきだね。そうやってあなたもまた、世界に出会うことができるのだよ。止まってはいけない。怯えることもない。中には傷つける人もいる。しかし自ら仲間をえらんでつくったせまい囲いの中でゲームしているより、その方がどんなに生々しく熱いかかわりだろうかと思う。
中島梓『新版・小説道場1』より
あたしの書いた文章を読んで「泣いた」と言われると当惑する。
あたしはただの、フツーのCD屋店員で、学校の先生でも作家でもアーティストでもライターでも政治家でもない。その辺にいくらでもいるごくごくふつうの人間だ。だから、そんなふつうの、何の力も持たないあたしの言葉が人の心に届き、触れ、動かすのだ、ということに、どうしても戸惑う。
実はあたしは自分の文章を誉められるのが好きではない。自分の書く文章の程度なんて自分で知っている。素人が書いているのだからプロと比べるのは高慢なのだが、自分で読んでさえ下手だと思う文章を誉められると、それはあたしの中を通り抜けていってしまう。
一番に読み取って欲しい、気づいて欲しいと願うのは、「なぜそれを書かなければならないか、書かずにおれないか」だ。そして、それを読み取ってくれる人は、少ないけれどちゃんと存在する。それをうれしいと思う気持ちはあるのだけど。
web上で人が人の文章を誉めているのを見ると、「うらやましいなぁ」と思いつつ空虚さを感じる。どこかで見た誉め言葉、ありきたりの、表層をなぞっただけの社交辞令、馴れ合いのための耳障りの良い言葉。
相手の機嫌を損ねないように、気に入られるように、本当に心に届いているわけではないのに、自分の中に感動なんてないのに、そうだと勘違いしてどこかから借りてきた言葉で、存在しない自分の感情を作り出そうとする。
そこに人の心なんてあるはずはなく、人と人はお互い「関わったつもり」になり、「ネットで人とコミュニケーションするのは素晴らしい」と思い込む。相手を不快にさせないように、自分が傷つかないように。それらを暗黙の了解の元に行なわれるコミュニケーションは、コミュニケーションじゃない。
人の心はわかりあえないものだ。心の底からわき上がる借り物ではない感情は、人と人の間に衝突を生み、互いを傷つけることも多い。けれど、だからこそそれが「届いた」「触れた」と感じたとき、どうしようもないほどに心が震えてしまうのではないか。
──と、ここまで書いて以前人様からいただいた、とてもうれしい内容のメールを(引用のために)探し、それを読んだ。そしたら、今日はちょっとした皮肉というか恨みつらみを書こうとしていたんだが、そういうのを書くのがすごく馬鹿らしくなってしまった。
他人がどうだろうと何をしようとどうだっていいじゃないか。あたしの言葉はこうして人に届き、その心に触れることができる。そして、そこには自分ではない他者が存在し、そうして世界は存在しているのだと感じることができるのだ。
何を躊躇うことがある。うらやましがることがある。あたしは自分の感情を自分の言葉で書き、それを人に届けることができる。一体、あたしと同じように「人に触れられる」ことができる人は、web上にどれくらいいるだろう。あたしはとてもたいせつなものを、ちゃんと持ってるじゃないか。
なんかこういろいろ、自信喪失という感じで、このところどうにもならない心持ちでいたんだけど、で、それもあって「泣いた」という言葉に当惑してしまい、それを受け止め切れずにいたんだけど、なんか、うん。ちょっと大丈夫になったっぽい。
あたしはあたしのしたいようにしかしない。それで得られるものの確かさを知っているから、それ以外はいらない。