1999年に起きた山口県光市の母子殺害事件。被告の元会社員(当時18歳)は本村洋さん宅に暴行目的で侵入し、妻の弥生さんの首を絞めて殺害後、強姦。娘の夕夏ちゃんを床に叩きつけた後、首を絞めて殺したとされた。1、2審は、前科のない少年だった事を重視し、無期懲役としていた。

検察側は「犯行は冷酷残虐。反省も全くうかがえず、被告の年齢などを考慮しても死刑の適用を回避すべき事情はない」と死刑を求めて上告していたが、前回欠席騒動を引き起こした弁護側も出頭在廷命令により出席し、最高裁小法廷において口頭弁論が開かれた。

弁護側は、被害者の傷と検察が主張する殺害方法が矛盾するとして、「被告に殺意は無かった」などと述べ、「1、2審判決には重大な事実誤認がある」などと主張し、再度弁論を開くよう求めた。浜田裁判長はこれを認めず、結審した。判決の期日は後日指定される。

今朝のワイドショーには被害者遺族の本村洋さん本人が出演し、事件後の経緯や夫婦間の交換日記、そして現在の心境などについて語っていた。それを見ながら、私は涙を禁じ得なかった。20代前半の妻と1歳にも満たない娘を一度に殺された悲しみはいかばかりだろう。

彼の執念と行動が、死刑を求めて検察に上告までさせたと言っていい。

だが世の中には奇妙キテレツな輩もいるようで、死刑廃止論者の安田好弘、足立修一両弁護士は、新たに弁護人として就任するや、弁護士会の模擬裁判リハーサル出席のため最初の口頭弁論に欠席し、挙句の果てに「被告人に殺意は無かった」とのたまったのである。首を絞めたのは偶然の所作だったとまで言ったのだ。さらに彼らは、弁論期日の6月への延期申請をしていたが、即日却下されている。

彼らの言動の意図は、誰がどう見たって、間近に迫った裁判官の定年を見越した引き伸ばしと、死刑廃止の持論実現のためである事は、本人たちが如何に弁明しようが自明である。それにしても信じがたい論理である。

ところが困った事にそれを擁護する輩もいる。

宮崎学氏は自身のブログで「メディアは・・・安田弁護士が死刑廃止運動のリーダー的存在であるために、死刑判決が出る可能性のあるこの裁判を遅らせているかのような印象を抱かせる報道をしているようである。しかし批判すべきは裁判所・検察などの安田弁護士へのヒステリックな反応である」そして「ワシは自分の愛する女房や子供が殺された時、お上に犯人を殺してもらう(死刑)という思想そのものを良しとしない」とまで書いている。

たまたま見かけた「zenkamanの支離滅裂ブログ」では、ブログ主のその名の通りの支離滅裂な意見に対し、370を超える反論コメントが付けられていたりする。

本村さんは言った。「被害者は私ではありません。妻と娘なのです」「真実は天国の妻と娘が知っている。遺族としては極刑以外では納得できない」「殺意があったかなかったかは神様しかわからない事です。でも結果として妻と娘が殺されたというのは揺るぎない事実です」

人間は本来感情の動物である。でも人間社会が秩序(法)で成り立っている以上、感情を抑え込み秩序(法)に従わざるを得ない場合が少なからずある。

法治国家であるこの国は仇討ちなどの私的報復を禁止し、被害者や遺族の感情を抑え込む代わりに法による裁きを行う。刑法の極刑として死刑が定められている以上、裁判を通じてその適用が判断されたのであれば、その時こそ、抑え込まれていた被害者や遺族の感情が、初めて秩序のもとに帰結されるのである。直ちに刑が執行されるかどうかは別にしても。

一方で加害者に更正の可能性があるという声も。だが、「福岡若手弁護士のblog」に記載されている加害者の手紙を見てもそう思えるだろうか。いや、思わなければいけないのだろうか。

加害者の人権という議論もある。確かに加害者と言えど社会に生きる人間の一人であろう。だがそれは、秩序の中にいて果たすべき義務を果たしている場合に、初めて「人」としての「権利」である「人権」が守られるのだと私は考える。秩序をはずれ罪を犯したのなら、それを償うまではその人間の権利は制限されて当然である。さらに償いきれないほどの罪を犯し、かつ社会秩序の中に戻ることを許されないと判断された場合は、死刑によって社会から排除されるのもまた当然なのではなかろうか。

私が本村さんの立場だったら、とうの昔に「秩序」を捨てていたに違いない。