前で同僚が研修をしているにもかかわらず、思わず涙が出てきてしまった。

2001年6月に児童8人が死亡する殺傷事件が起きた大阪教育大付属池田小学校で15日、当時1年生だった児童119人の卒業式があり、事件で亡くなった戸塚健大君の卒業証書を、当時のクラスメートが受け取った。

犠牲になった8人の学籍は残され、当時2年だった女児7人は昨春、同級生と共に卒業しており、これで、事件を体験した児童がすべて同校を巣立った。

卒業証書の授与に移り、担任が23番目に「戸塚健大」と読み上げた。誰も答えない張りつめた静寂の後、男子児童3人の名が呼ばれ、壇上へ。戸塚君といつも鬼ごっこをした仲間と、一緒に下校した友達、重傷を負って同じ救急車で運ばれた級友。それぞれの思いを胸に3人で証書を手にした。(読売新聞)

答える相手のいないこの静寂、その瞬間の担任の気持ち、同級生の気持ち、そして両親の気持ちはいかばかりだったろう。本当につらく悲しい静寂である。

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昨年11月、足利市で介護疲れで母親を殺害したとして、承諾殺人罪に問われた無職、濱岡渡被告(41)の判決公判が15日、宇都宮地裁であり、林正宏裁判官は懲役3年、執行猶予3年を言い渡した。

林裁判官は「18年間、自己を犠牲にして介護を続けた労苦は並大抵でない。母を思う余り極端な行動をとった犯情には酌量の余地があり、再犯の恐れも考えられない」と情状を認め、「母の後を追おうと考えず、しっかり生きてほしい」と説諭した。

この日、法廷は約20人の傍聴人で埋まった。弁護人によると、複数の住民が被告の生活支援を名乗り出ており、複数企業から雇用の申し出もあるという。(毎日新聞)

2時間毎のオムツ交換、生活のための新聞配達、最後は睡眠時間2時間という生活を強いられていた濱岡被告は、上申書に「長年の介護はつらかったですが、胸を張って言える事がひとつあります。それはこの18年間、ただの一度も母に褥瘡を作らせなかった事です」と書いていたそうである。

記録的な暖冬だと騒がれたこの冬、気象庁は都心で16日午前7時に「初雪」を観測したと発表した。平年より73日遅く、これまでの最も遅い記録の1960年の2月10日を1カ月以上更新した。前年比では95日遅かった。

初雪とは逆に、最も遅い時期の東京の降雪記録は、1967年と1969年の4月17日だという。エルニーニョの影響で初雪の時期こそ遅れたものの、自然の「帳尻あわせ」は今年も見事にちゃんと行われたという事である。

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それにしても明日の夕方に前泊移動する札幌の天候は曇時々雪、気温は1℃との予報が出ている。北の大地ではまだまだ冬真っ盛りだな。

「毛ガニとウニが遠のいていく」で書いた、移動日が日曜日のせいで断念しそうになった「揚子江」だったが、起死回生、研修の終わった月曜日の晩に最終便までの90分一本勝負で行く事にした。

昔からの飲み友達だった札幌在住の新薬専任営業部隊のメンバーに手配してもらい、地元民の予約ならではメニューで旬の味を堪能するつもりである。無理して最終便まで覚悟したワケは、次回の5月では冬の北海道の魚介類の旬を逃してしまうという、まさに「執念」である。平日移動だった別の研修メンバーは、先週のうのうとこの店に来て、たらふく喰らって行ったようだ。負けるわけにはいかないだろが!

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新人看護師の看護技術低下が深刻化しているそうだ。

日本看護協会の調査では、人工呼吸、心臓マッサージ、止血など救急救命術や注射などを「一人でできる卒業生が20%未満」という看護学校が半分を超えたという。という事は、止血や注射ができる新人看護師が5人に1人もいないって事かい?

「点滴を付けた患者の寝間着やシーツを1人で替えられない」「患者の搬送時、ストレッチャーをまっすぐ押せない」。毎年4月になると、東大病院の榮木実枝看護部長の下に新人看護師を巡るトラブル報告が相次ぐ。「ここ5、6年、シーツ交換など『これだけはできてほしい』という事ができない人が増えた」という。シーツ交換なんてホテルの営繕のおばちゃん達だってやってるだろ?

これって、緊急性が高く正確性を要する技術とか、患者相手だから難しいというレベルのモンじゃあるまい。4年制の看護大学もあるというこのご時世に、専門学校といえどこんな有様でよく卒業できるとも思うが、それでも国家試験さえ通れば「看護師」である。すでに学校段階で、仕事の基本となる実技習得を軽視し、国試対策のための知識習得に偏重した結果じゃなかろうか?  

看護師だけではなく医師や薬剤師などでもそうだが、単に資格を持ってるだけじゃ現場で使い物にならないのは同じだと思う。だとしても、ただでさえ深刻な看護師不足を埋める「貴重な一人」としてはあまりに情けないレベルだろう。現場の悲鳴が聞こえてきそうだ。無駄なOJTの手間を省くためにも、国家試験の受験資格から考え直すべきだろう。

やっぱり無理してまでこだわって正解だった!

昨日の研修終了後、一分一秒を惜しむかのようにタクシーを飛ばして「揚子江」へ急ぐ。着いた店内は時間も早めだったせいか、まだまだ賑わい前の状況だったが、驚いたのは全部で100席近くはあるカウンター、テーブル、座敷にはすでに食器類がセッティングされ、予約席の立て札が立っていた。月曜日の晩だというのに全席予約済みなのである!

案内されたカウンターの角に3人で陣取り、90分一本勝負の宴の始まりである。

まずは生ビールに毛ガニ。大きさは甲羅が10数センチある中型のもの。だが中身は見た目とは全然別モノで、しっかりと詰まった身の甘さにただただ圧倒された。カニ酢なぞ一切不要、そのままが一番おいしい。新鮮だからだろうか、毛ガニのトゲが指にグサグサと痛い。もちろんこんな毛ガニは初めてである。

次は刺し盛り。トロ、ヒラメ、ボタンエビ、北寄貝、ホタテの五点盛り。そのどれもが東京のものと大きさはもちろん、色からして違う。特にホタテのベージュがかったミルク色は特筆モノで、その味は濃く瑞々しくまろやかだった。間髪入れずに活イカ刺登場! 今の今まで生きていた剣先イカは、この上なく透明で美しい。歯応えも文句なし! ここでウニがない事に気づいたが、もう十分だろう。

続いてキンキの塩焼きを所望。30cm級のいい型で、少し醤油をたらした大根おろしとの相性も抜群! 文字通り骨までしゃぶり尽くした。急ぐ我々を気遣ってか、女将さんは先手先手と注文を訊いてくれる。ここまで一気に平らげて60分弱。一緒に盃を重ねた熱燗共々、腹八分目まで到達か。店内もほぼ満席状態。

この店の面白い点は、鮨屋であって中華料理屋でもあるところ。だから途中でおいしいカキ玉が出てくる。そんな変化を楽しみながら、シメは名物オムライスをシェア。下町の洋食屋風オーソドックスな見た目だったが、まろやかな味付けはちっともしつこくなく、シメにはピッタリだった。3人でこれだけ食べて飲んで@7000円なら文句なしだろう。

ほろ酔いOYAJI達は予定通り90分間を戦い抜いて一路千歳空港へ。平日の最終便は乗客も少なく、ロビーも静かだった。それゆえ機種もジャンボ機ではなく6列の中型機。着いた羽田の到着ゲートは70番。出口まで10分位歩かされて、改めて酔いが回ったようだった。でも心は大満足、言うまでもない。

先日「内服薬と吸入薬」で書いた、インフルエンザウイルス感染症治療薬「タミフル」に対し、厚生労働省は20日、10代への使用中止を求める緊急安全性情報(ドクター・レター)を出すよう、中外製薬に指示した。厚労省ではこれまで「安全性に問題はない」としていたが、対応が必要と判断したという。

さらに、2001年2月にタミフルを販売開始して以降、異常行動を起こした事例は計22件に上る事が21日、厚生労働省のまとめで分かった。うち15件は10代、7件は成年の事例。同省はこれまで、死亡例を除き公表していなかったが、大半を公表しなかった事について「2月28日の注意喚起より前に発生した事例だったため、改めて公表する必要はないと思った。判断は適切だった」としている。言い訳にしても苦しすぎると思うが?

ともあれ、ついにここまできた。同時に新聞やニュース番組でもう一つの治療薬である吸入薬「リレンザ」の名が出てくるようになった。だが、リレンザはメーカーが世界的に販売を終息させる方向に向かったため、最も需要の多い日本だけのためにすぐに増産する事も適わず、市場で品薄状態が続いているのである。

リレンザもタミフルも、もともとコンピュータによって化学構造がデザインされた薬剤という事で話題を集め、さらにA型B型を問わず、かつウイルス独自の変異にも対応できるというふれ込みだった。

だが、ウイルス感染症の分野は、HIVや肝炎ウイルス、ヘルペスウイルスなどのように抗ウイルス薬が開発されればその治療が飛躍的に向上するが、残念ながらそのすべてが副作用の極めて少ない薬剤とは言えないのが現状だ。たとえ副作用の少ない薬剤であっても、特に過量投与などで問題となる副作用の一つが精神神経系の副作用である。

であるから、もし今回の事例がタミフルの副作用だとすれば、その原因の一つは薬剤の脳への移行の影響だろう。精神神経系副作用は抗ウイルス薬に限らず、薬剤の全身投与の際の宿命と言ってもいい。それほどこのような副作用を持つ内服薬、注射薬は多い。

もう一つの可能性としては、日本人、特に小児への投与量が適切だったかどうかである。吸入薬であれば局所でウイルスの増殖を抑制できる濃度を得る事は比較的たやすいが、内服による全身投与だと、吸収・分布・代謝などのさまざまな条件が重なるので、用量設定が難しくなるのは必然である。

これらについて、メーカーは日本人での十分な検討をしたのだろうか? 
厚労省は国内需要を優先するあまり安易に承認したという事はなかったか? 
これが薬害でない事を切に願う。

昨日今日の東京会場で、全国8ヶ所を担当した3月度研修ツアーが終了した。その中でも今日の受講者は大学大病院を担当しているメンバーだったため、今回のような一日の研修プログラムの2/3以上を占めた新製品集中研修の千秋楽にふさわしいものとなった。

ここまでのボリュームで新製品の研修をしたのは最近では珍しい。それだけに昼食休憩を挟んで6時間半に及ぶ立ちっぱなしの講義、受講者同士の説明練習などは、長丁場だっただけに体力以上にキツイと感じた部分があった。

そこで、今回の研修ツアーで感じた事と研修職人として心がけるべき事を思いつくまま挙げてみる。これが常に研修の場で実践できれば、あなたは「一人前の研修職人」だと言っていい。

1.受講者が最も興味を持つのは新しい知識、最も欲するのは現場で役立つノウハウである。だから研修講師は、研修までに誰よりも豊富な知識と現場感覚を身に付けておくべきである。

2.そもそも、終日拘束される研修を初めから積極的に受講したいと思っている者は少ない。だから研修講師は、初めにメリットをしっかりと示し、受講者のニーズとモチベーションを喚起すべきである。

3.受講者に習得させた知識やスキルを行動変化にまでつなげるためには「熱」を同時に伝えなければならない。だから研修講師は、確固たる自信と信念、そしてあふれる情熱を持って臨むべきである。

4.どんなにいい研修であっても、受講者の集中力は長く続かない。だから研修講師は、十分な双方向のコミュニケーションを取りつつ、15分に一度はリラックスできる雰囲気を提供すべきである。

5.五感を刺激されたものは身に付きやすい。だから研修講師は、資料や言葉に頼る事なく、アイコンタクト、ボディアクション、スキンシップを駆使して情報を発信すべきである。

研修講師諸君、あなたは受講者が大好きだろうか? 研修職人を目指す事を天職とさえ感じているだろうか? そして何より、研修しているその目はキラキラと輝いているだろうか?

最後に、いい研修だったと受講者から感謝されるのは、研修を通して彼らが向上できた喜びに対してあるべきである。研修講師はあくまでもその手助けをしたに過ぎない。ゆめゆめ研修講師が一番人気になるような研修であってはならない。

文部科学省は日本史の教科書検定で、沖縄戦で日本軍による強制により住民が集団自決したとする記述すべてに「実態について誤解する恐れのある表現」と意見が付き、「日本軍に集団自決を強制された人もいた」が「集団自決に追い込まれた人々もいた」(清水書院)などに改められた。文科省は「以前から(命令や強制はなかったとする)反対説との間で争いがあり、軍の命令があったと断定するのは不適切で、今回から意見を付けた」と説明している。 

これに対し、集団自決からの生き残りである中村一男氏(73)は、座間味島で沖縄戦を体験した10歳の時、日本軍から手榴弾を渡され「米軍に捕まったら体のあちこちを切り刻んでじわじわ殺される」と聞かされ、「自決しろとはっきり言われたか記憶に無いが、暗に自決しろと言っているのと同じだ」と振り返った。別の家族が手榴弾で自決するのも見たと言う。

集団自決があった事に加え、住民を強制的に戦闘に巻き込んだ事、投降しようとした人を撃ち殺した事などはまぎれもない「事実」である。問題は、これが「日本軍による命令」だったのか、「現場の軍人や役人の意思」によるものだったのかという点である。また、極限の環境の中で集団心理が働いた面も否定できないだろう。集団としての意思の前には個人の意思は無いも同然の時代だった。

軍=組織的な命令行動だったという物証は無い。証拠が無ければ断定はできない。だから今回の措置は、事実は事実だが「軍の命令による」は削除したという事なのだろう。命令は軍ではないにせよ、同道した役人からだったかもしれないし、酷い目に遭う前に集団自らが死を選んだのかもしれない。いずれにせよ、誰もが「極限に追い込まれた」末の悲惨な選択だったのだ。

軍人ならずとも日頃から「鬼畜米英」「生きて虜囚の辱めを受けず」と叩き込まれ、敗色濃厚な極限の事態になった時、教えに従って手榴弾を使ったというところではなかろうか。投降しようとする人を撃ったのも、それによって集団全体が捕虜になるのを防ぐためだったのかもしれない。

だが、それらが住民の目には「軍の強制」と映ってたとしても仕方がない。難しい問題ではあるが、さまざまなブログで左翼論者が指摘している「歴史事実の捻じ曲げ」という程のものではないと思う。

逆に、これらの非人道的な行為を命令した組織の一員だったとされてきた旧日本軍の軍人の立場も辛いものだったと思う。軍を通して個人までもがいわれの無い汚名を着せられ続けてきたのである。

「南京の真実」という映画が話題の「南京大虐殺」や「慰安婦強制連行」などと同様、歴史はまず事実を検証した上で時代背景も斟酌しなくては正しい判断はできない。それは戦争という状況、昭和10年代という時代である。ちなみにこの時代は、売春は適法の商売だった。

「現代」の「平時」の「価値観」や「道徳観」で判断しても決して相容れないし、多くの場合、断罪の基準にもならない。歴史検証の鉄則である。